トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

金日成と会見していた美濃部亮吉都知事

2017-09-03 07:17:46 | 韓国・北朝鮮
 先日、久しぶりに朝鮮総聯のサイトを見てみると、「金日成主席と日本の人士たち」というページが設けられていた。

 トップには「偉大な金日成主席」(太字は原文のまま。以下同)の写真の下に、

 偉大な金日成主席が、1945年から1994年にかけての50年間に会った日本人は、実に1000余名に及んでいる。その中には、政界人、学者、ジャーナリスト、財界人、アーチストはもとより、平凡な水先案内人や学生もいた。

彼らは誰もが、率直かつ真摯な態度で朝日関係にかかわる問題を虚心坦懐に論じ、明確な方途を提示する主席の崇高な志に感服し、自分たちを温かく接してくれるその風格に心服した。

主席の高い権威と徳望、朝日関係改善への合理的な提案に、政見や信教の違いにかかわりなく、会う人は誰もが胸を打たれ、それは、ぎくしゃくした両国の関係を改善すべく彼らを奮起させる大きな力となった。

主席が多くの日本人士にめぐらした情誼について改めて振り返り、朝鮮と日本の友好親善に尽くした主席の労苦と献身、そこにこもる深い意味をここに再確認しておきたいと思う。


との説明が付されている。

 そして、畑中政春(日朝協会理事長、元朝日新聞)、高木健夫(読売新聞)、久野忠治、岩井章、土井たか子、金丸信、田辺誠、前田正博(毎日新聞)、宇都宮徳馬、西谷能雄(未来社社長)、成田知巳、田英夫 緑川亨(岩波書店)、安井郁、槇枝元文といった人々と金日成との会見について、簡潔に記されている。

 その中に、美濃部亮吉・東京都知事との会見の記事がある。

美濃部亮吉東京都知事と親しく語り合う
金日成主席 (1971.10.30)

強調したこと

 金日成主席は、美濃部亮吉東京都知事と会見した際、美濃部亮吉先生は朝鮮大学校の許可問題を通して、わが国に広く名を知られている、先生のような進歩的人士が今後とも総聯の活動を極力支援して下さるものと信ずる、と期待を表明した。そして、自分は韓徳銖(ハンドグス)議長に、在日同胞の民族的権利を守るための活動を進め、朝鮮民主主義人民共和国を支持し、祖国の統一をめざしてたたかう総聯が、日本の法律に抵触するようなことは絶対に行わず、日本人民との団結に努めるよう常に強調していると語った。また、日本の進歩的人士が総聯の活動を大いに支援してくれるよう頼んだ。
 美濃部亮吉知事は、総聯の活動に深い関心を払っている主席に、総聯の活動を積極的に支援する決意を表明した。


 「朝鮮大学校の許可問題」とは、朝鮮大学校が1956年に創設されたものの、各種学校としての都知事の認可がなかなか下りなかったことを指す。
 朝鮮大学校のサイトの「朝鮮大学校とは」というページに、次のように書かれている。

本学がわずか10年に満たない期間に急速な発展をとげたことは、祖国の暖かい配慮、在日同胞の愛国的熱意とともに、広範な日本国民の惜しみない支援のたまものです。
しかし、日本政府当局の在日朝鮮人に対する非友好的な政策は是正されず、むしろ正当な民族教育の権利を無視したいわゆる「外国人学校法」の制定を何度もはかったり、本学の設置認可の申請を受理しないといった抑圧的態度が強まりました。
本学の認可は、日本の学者、文化人、教育関係者をはじめとする各界各層の積極的かつ広範な支持を受け、1968年4月17日、当時の美濃部東京都知事の決断によって、ついに実現されたのでした。
朝鮮大学校の認可以降、教職員と学生の祖国自由往来が実現し、大学教育はより充実していきました。


 美濃部が都知事に初当選したのは1967年で、1979年まで3期務めた。美濃部は社会党と共産党が推薦する革新統一候補で、3期目は公明党も推薦した。美濃部の前任は自民党推薦の東龍太郎(あずま・りょうたろう、任1959-1967)で、その前任はやはり保守系で内務官僚出身の安井誠一郎(任1947-1959)であったから、彼らの任期中は認可されなかったものを、美濃部が認可したということなのだろう。それが北朝鮮で評価されたということなのだろう。

 公平を期すために付言しておくが、美濃部が金日成と会見した当時は、こんにちのように北朝鮮がわが国にとって危険な国家だと一般に認識されていたわけではなかった。まだ日本人拉致事件も起こっておらず、核兵器の保有も弾道ミサイルの実験も行っていない。数ある社会主義国の一つという程度にしか知られていなかった(だから1970年のよど号のハイジャック犯たちは、予備知識もないのに北朝鮮へ亡命した)。金日成から金正日への継承も表面化していなかった。

 また、当時はまだわが国において社会主義がある程度支持されていた。自民党の単独政権は揺るがなかったが、野党第1党は社会党であり続け、美濃部のほか、京都府、大阪府の両知事や、横浜市長なども革新系だった。マルクスやレーニンや毛沢東の著書が、大手出版社から文庫本で出版されていた。美濃部はマルクス経済学者だったが、それは彼の経歴においてマイナス要素にはならなかった。
 北朝鮮独自のチュチェ(主体)思想は、「マルクス・レーニン主義をわが国の現実に創造的に適用した」(1972年憲法)ものとされていた。
 そんな情勢の中、美濃部が朝鮮大学校を認可し、金日成と会見したとしても不思議ではない。

 この朝鮮大学校の認可を批判する見解もあるようだが、私にはそこまで問うべきなのかよくわからない。わが国における少数民族が民族教育を行うことそれ自体を否定すべき理由はないと思われるし、それを各種学校として認可することも都道府県知事の裁量の範囲内であろうから。

 ただ、当ブログの8月28日付の記事で取り上げた、1973年の関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑の設置がこの都知事の下で行われ、その後毎年追悼式典が開かれているとされていることには留意しておきたい。