トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

「ある通信兵のおはなし」への疑問

2009-09-28 01:19:21 | ブログ見聞録
 先の真岡事件についての記事を書くきっかけとなった無宗ださんの記事「北方領土について思うこと」の文中、

ポツダム宣言受諾後におきた
樺太における「北のひめゆり」と言われた「真岡電話局」の九人の電話交換手の自決
日本人の常識となるべき事件である。


という箇所で、上記のように「「北のひめゆり」と言われた「真岡電話局」の九人の電話交換手の自決」という字句にリンクが張られている。

 リンク先は、「ある通信兵のおはなし」というサイトの「氷雪の門」というページ。
 このサイトは、元通信兵だっという人物のメルマガを元にしており、この「氷雪の門」の回は、平成17年3月4日に配信されたのだそうだ。
 ソ連侵攻時の自分の体験を交えながら、真岡事件を紹介している。

ポツダム宣言を受諾して戦争は終結したにも関わらず、ソ連軍は樺太の国境線を越えて南下を続けていました。8月20日には、樺太南端の真岡市に上陸して街を蹂躙しました。

この時、最後まで残った9人の女子決死隊が電話局を死守し、本土との電話回線を確保していましたが、ついに電話局が砲撃を受け、全ての電話線がソ連軍により切断されました。
(注2)

最期の通信は、責任者であった可香谷(よしがだに)シゲからの無線でした。
「ワレニンムヲオエリ。サヨウナラ。サヨウナラ。サヨウナ・・ラ」
彼女は服毒後、最後の力を振り絞ってキーを叩いたようです。

(当時、無線は、局相互の中継回線が輻輳した際に、待ち合わせている次の電話番号を送るために使っていました。(速度は分速50字程度)
従って、電話回線で「さようなら」と告げた後に「可香谷主事補」が最期の「サヨウナラ」を無線で通報したそうです。
有線の電話も無線連絡も、受信した電話局は「稚内電話局」です)

この九人の乙女の犠牲によって、真岡市に結集していた日本軍は殆ど無傷で樺太から撤退したといわれています。
殉職された方々は、次の9名ですがいずれも独身であったそうです。

  可香谷シゲ 23才(主事補、現在の主任)

  高石ミキ 24才    吉田八重子 21才   
  渡辺照 17才     高城淑子 19才
  松崎みどり 17才   伊藤千枝 22才
  沢田きみ 18才    志賀晴代 22才

九人は靖国神社に祭られ、同神社の遊就館には「九人の乙女」の写真などが安置されています。


 しかし、先の記事でも書いたように、8月20日、真岡局の電話交換手の責任者は班長だった高石ミキ主事補である。
 これは、先の記事で紹介した川嶋康男『「九人の乙女」はなぜ死んだか』に記されているほか、同書に収録されている上田豊蔵局長による手記でもそうなっているので、間違いないだろう。
 川嶋によると、可香谷シゲは高石主事補を補佐する「代務」という役職であったという。

 「ある通信兵」さんは、最後の交信を受信した局は「稚内電話局」だとしているが、これも川嶋の記述とは異なる。
 川嶋によると、最後に服毒した伊藤千枝は、その前に豊原、本斗、泊居、そして生まれ故郷である蘭泊の各局と交信したという。いずれも樺太の都市である。稚内と交信したとの記述はない。
 「ある通信兵」さんの文章では、まるで真岡を最後に南樺太全土がソ連に占領されてしまったかのようであるが、そうではない。樺太全土の占領が完了するのは8月25日、大泊の占領によってである。その後、南千島が占領された(加藤聖文『「大日本帝国」崩壊』(中公新書、2009))。

 真岡事件と稚内電話局といったキーワードで検索してみると、次のような「最後の交信」を紹介しているブログが複数見られた。おそらく、共通の出所があるのだろう。

「内地のみなさん...稚内電話局のお友達に申し上げます。

只今、ソ連軍が、我が真岡電話局に進入いたしました。

これが、樺太から日本に送る最期の通話となるでありましょう...

私達9人は、最期まで、この交換台を守りました。

そして間もなく、9人そろってあの世に旅立ちます。

ソ連軍が近づいております、足音が近づいております。

稚内のみなさん、さようなら、これが最後です。内地のみなさん、さようなら...

さようなら...」


 しかし、真岡を最後に樺太全土が占領されたわけではなく、他都市の局にも電話の設備はあったから、「これが、樺太から日本に送る最期の通話となる」などと言うはずはない。
 これは、何らかの創作物を出所としているのではないだろうか。

 そして、可香谷シゲについては、こちらのサイトに次のような記述がある。

 尚、一部の演劇シナリオに亡くなった可香谷シゲさんが稚内局に向けて和文モールスで『みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら……』と打ったとされているが、もちろん事実とは違うが最高の演出と言えるだろう。


 「ある通信兵」さんは、こうしたものを根拠にしているのだと思われる。

 「この九人の乙女の犠牲によって、真岡市に結集していた日本軍は殆ど無傷で樺太から撤退したといわれています。」というのも、何を根拠にしているのか不可解である。
 真岡では市街戦が展開され、民間人にも死傷者が出ていた。そんな中、軍が無傷で撤退するなどということが可能だろうか。

 また、「ある通信兵」さんは、上記記事「氷雪の門」の末尾に、

(参考図書)NTT出版「電信電話100年史」


と掲げた上、注として、

(注2)
電話回線のケ-ブルは、配線盤(MDF)にケ-ブルを立ち上げるまでに、人が立って歩けるぐらいの大きなマンホ-ル(「洞道(とうどう)」と言います)を通っていました。
参考図書の「電信電話100年」には、この場所が爆破されたと記載されていますので、海底ケ-ブル、中継ケ-ブル、加入者回線ケ-ブルのすべてが断線になったものと思われます。


と書いているが、「日本の古本屋」などで検索したところ、NTT出版刊の「電信電話100年史」なる本は見当たらない。
 『関東電信電話百年史』『九州の電信電話百年史』といった本はある。いずれも昭和40年代の刊行である。
 わが国の電信電話は既に昭和40年代には100年の歴史を持っていたのであり、昭和60年のNTT発足後に「電信電話100年史」なる本が刊行されるはずはない。

 「ある通信兵のおはなし」内の「著者の紹介」には次のような記述がある(太字は引用者による)。

tメールマガジン「ある通信兵のおはなし」は、次の世代を担う若い方々を対象に執筆しております。
巷に溢れているような、自序伝ではなく、私が経験した中から「戦争とは」を感じていただくために毎週投稿していますので、戦後氾濫した戦記書物のように、裏読みすれば自分の武勇伝となるものとはいささか趣きを異にしています。

上官の氏名、詳細な部隊名、使用兵器、日時場所(東経○○度、北緯○○度)といった「単なる事実の羅列」は、関心がある方以外は読んでいてもつまらないもので、今の若い方々の多くは読み飛ばしてしまいがちと思います。


特に、戦闘日時などは、読み飛ばす見本のような気がして、敢えて割愛しています。
これは、広く最大公約数的に読者の皆さんに、当時の状況をご理解いただきたいからです。

ですから、連載に当たって私はなるべくオタクっぽい精密な表現は避けるようにしています。」

平成16年6月
著者:teruteruさま


--------------------------------------------------------------------------------

「ある通信兵のおはなし」は、メールマガジン「軍事情報」がお届けしている2つの別冊のうちのひとつです。
配信は毎週金曜日です。

戦争経験者の生のお話を伺える機会というのは、実はそうあるものではありません。

また、「戦争経験者の話」といえば、誤った反戦教育に利用される「戦争とは悪だ」式の話や、戦争を必要以上に美化する傾向のある話になってしまいがちです。

しかしながら、著者のteruteruさまがお書きになるこの「おはなし」には、そういったヒステリックさが全くなく、必死に生きていた当時の若者の様子、そして彼らがその後どのように生きてこられたかが淡々と書かれています。

この「おはなし」を、私はひとつの日本の現代史として受け止めています。
ひとりの男性の一生を通して、わが国が歩んできた道、私たちは一体何を得、何を失ってきたのか・・・。
得るところの非常に多い連載であると思っています。

私どもは、この連載を通じて当時の「最前線」の様子、そこにいた人々の姿を楽しんで読んでいただきながら知っていただきたいとの思いが第一にあります。
従いまして、各種事実確認事項は、一般の読み手の方にとっては全体の話の流れをストップさせるだけの無益な事実羅列と判断しています。
事実関係の確認につきましては、当HPをご覧いただくか、お問合せいただければいつでもお答えするという形をとっております。

teruteruさまが配属されていた「第一航空軍司令部直轄第101通信隊」の実像は、高度の機密を扱っていた「諜報・索敵部隊」でした。

また、部隊が米軍の通信を頻繁に妨害したことから敗戦時に「GHQの手が周る怖れがある」との情報が入ったため、司令部の記録から抹消されたという「幻の部隊」でもありました。

したがって、この部隊のことは、防衛庁防衛研究所戦史資料室にも資料は残されていません。

そのため、敗戦後も出身地の県(世話課、現福祉部)に対してteruteruさまの復員通知は送付されておらず、入隊記録はありますが、除隊記録がないということで、書類上teruteruさまは「行方不明扱い」のままだそうです。


部隊の任務から見て当然のことですが、隊員には全陸軍航空から選抜された有能な人材が充てられ、素人の目から見れば「フィクション?」と疑いたくなるほどの高度な空戦を展開できるT曹長のような一級の操縦士が敗戦直前までおられたわけです。

teruteruさまが手記を公表されるに至ったのは、ご本人はおっしゃいませんが「当時最高度の技術と能力を有しながら、誰にも知られることなく消えていった部隊そして仲間達への鎮魂」にもあるのでは?とわたしは個人的に思っています。

〔中略〕

平成16年6月
メールマガジン「軍事情報」発行者
おきらく軍事研究会代表 エンリケ航海王子)


 果たして、「幻の部隊」であるが故に、除隊記録がなく、行方不明となっているなどという事態が有り得るのだろうか。
 行方不明となっているならば、その不明となるまでの在籍記録はどうなっているのか。
 行方不明とは、戸籍上もそうなのか? ならば戦後は無戸籍者として過ごしてきたということか?

 そういった疑問はさておき、このteruteruさんと、エンリケ航海王子さんが主張しているのは、要するに、この「ある通信兵のおはなし」は、検証不可能であり、検証を断るということだろう。
 疑うことを知らない純朴な読者だけを対象としているということだろう。

 素人の目から見れば「フィクション?」と疑いたくなる?
 確かに。

 あと、無宗ださんは、自身の記事「北方領土について思うこと」のコメントで、

優勢なソ連軍に対し、非力ながらも徹底抗戦した日本軍の奮闘のおかげで、ソ連軍の侵攻が遅れ、その結果、北海道の分割を避けることができたのです。


という箇所にも何か思い入れがある様子を示しているが、これは単なる「ある通信兵」さんの思い込みだろう。
 ヤルタ協定で南樺太と千島列島をソ連が領有することが認められたが、それ以外のわが国の領土変更は認められず、他方ポツダム宣言でわが国の北海道領有は保障されていたからだ。
(最近読んだ前掲の加藤聖文『「大日本帝国」崩壊』によると、スターリンは8月16日にトルーマンに対し、ソ連軍に対する日本軍の降伏地域に、全千島列島と、釧路と留萌を結ぶ線以北の北海道を含めるよう要求し(北海道はシベリア出兵の代償だという)、トルーマンは18日に、前者は容認したが後者は拒否したという)。
 北海道の占領が避けられたのは、「日本軍の奮闘のおかげ」ではない。
 こんな基本的事実を誤認するこの「ある通信兵」さんには、私はやはり不信感を抱かずにはいられない。

寺島実郎の危険な戦争観

2009-09-26 23:55:34 | 大東亜戦争
 以前、佐藤早苗についての記事を書いた際に、佐藤の氏名や著書名で検索していて、たまたまヒットした寺島実郎のサイトで次のような文章を読んだ(太字は引用者による。以下同じ)。

東条英機の号泣と責任感
戦争を選択した日本の最高指導者としての東条英機は、真珠湾攻撃の日の未明、対米戦争に踏み切っていく決断の重さに、首相官邸の自室で「嗚咽から号泣していた」という。妻カツと三女幸枝の証言である。(保坂正康「昭和陸軍の興亡」)

東条英機という人物の評価は難しい。国家の最高指導者として時代に対する洞察力、国際的見識、柔軟な構想力を持っていたとは思えないが、決していいかげんな人間ではなく不器用なまでに「時代の子」であったといえる。職業軍人としての彼に国家の命運を担う責任のバトンが渡された時には、戦争に向かう時代の空気を転換できる柔軟な経綸など期待できるはずもなく、バトンリレーのアンカーマンとしての役割しか残されていなかったともいえるのである。しかし、だからといって意思決定責任者としての責任を免れるものではない。

私はワシントンDCの書斎で日米戦争に向かった5年間を追い求めた作品「ふたつのFORTUNE-1936年の日米関係に何を学ぶか」(ダイヤモンド社、1993年)を書き進めた思い出があるが、その時、「東条英機『わが無念』-獄中手記・日米開戦の真実」(佐藤早苗、光文社)と「滄海(うみ)よ眠れ-ミッドウェー海戦の生と死」(澤地久枝、文藝春秋社)を机上に置いて作業をしたものである。それは戦争に意思決定責任者として参画した者と、少年兵として海の藻屑と消えていった者のそれぞれの思いを真摯に受け止める必要を感じたからであった。澤地は「滄海よ眠れ」において、ミッドウェー海戦の戦死者、日本側3057名、米国側362名の名簿を作り、その一人一人の生身の人間の人生とその親類縁者の悲しみを追い求めた。戦争が壊してしまったものの惨さに何度となく涙を禁じえなかった。その悲劇の責任を誰が担うのかと問い詰めれば、やはり意思決定者に求めざるをえないのである。

東条英機こそ軍国主義日本のシンボルとされるが、彼に関する文献・資料を読むと、いかに生真面目な人物であったが分る。その東条が東京裁判での死刑判決を受け、刑死前日に書き残した遺書はこの国に生きる者として真剣に読まれるべきものであろう。そこには東京裁判の不正を堂々と糾す気概とともに、反戦の責任を深く受けとめ、平和の礎石となるために慫慂と刑死に向かう覚悟が綴られている。その中に、私は注目すべき言葉を見出し、少なからず驚いた。東条は「日本が大東亜戦争において誠意を失い東亜民族の真の協力を失った事が敗戦の真因であった」と述べているのである。つまり、アジア諸国の人々の真の協力を失ったことが敗戦の理由だと総括しているのである。米国との物量の差でもなく、軍事的戦略戦術でもなく、アジアから真の理解と協力を得られるような展開が実現できなかったことに敗因を求めている東条の目線は澄んでいる。


 「刑死前日に書き残した遺書」とは、清瀬一郎(東京裁判での東條の主任弁護人)の『秘録 東京裁判』(中公文庫)の195ページ以降に収録されているものを指すのだろう。
 「敗戦の真因」に関する部分は次のとおり。

(東亜の諸民族) 東亜の諸民族は、今回のことを忘れて、将来相協力すべきものである。東亜民族もまた他の民族と同様の権利をもつべきであって、その有色人種たることをむしろ誇りとすべきである。インドの判事には、尊敬の念を禁じ得ない。これをもって東亜民族の誇りと感じた。
 今回の戦争にて、東亜民族の生存の権利が了解せられはじめたのであったら、しあわせである。列国も排他的な考えを廃して、共栄の心持ちをもって進むべきである。
(米軍に要望) 現在の日本を事実上統治している米国人に対して一言するが、どうか日本の米国に対する心持ちを離れしめざるよう願いたい。
 また日本人が赤化しないように頼む。東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにしなければならぬ。実は、東亜の他民族の協力を得ることができなかったことが、今回の敗戦の原因であると考えている。


 さて、寺島はえらくこの箇所に感服しているようだが、果たしてそれは妥当だろうか。
 わが国は、「米国との物量の差でもなく、軍事的戦略戦術でもなく、アジアから真の理解と協力を得られるような展開が実現できなかった」ために、敗れたのだろうか。
 仮に、「アジアから真の理解と協力を得られるような展開が実現」できていれば、わが国は連合国に勝利することができたのだろうか。

 いや、わが国は物量の差で負けたのである。
 次いで軍事的戦略戦術の差で負けたのである。
 仮にアジアの理解と協力が得られていたとしても、物量に大差があり、戦略戦術でも劣っていれば、当然勝てるはずはない。

 寺島のこのような見方に、私は大変危険なものを感じる。
 それは、かつて山本七平が『ある異常体験者の偏見』で批判した、わが国が中国に敗れた理由を「負けるべくして負けた」「民衆の燃えたぎるエネルギー」によって負けたと説いた論者と同種の思考法ではないか。
 正義は勝つ、悪は滅びるという、ある種子供じみた見方ではないか。

 また、東條は「東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにしなければならぬ」と言い、わが国は「東亜の他民族の協力を得ることができなかった」とは述べているが、わが国が「誠意を失」ったとは述べていないし、「真の協力を失った」だの「真因であった」だのとも述べていない。もちろん、「米国との物量の差でもなく、軍事的戦略戦術でもなく」などと理解できる箇所もない。
 「東条の目線は澄んで」などいない。自らの見たいものを無理にでも見出そうとする寺島の目線が曇っているだけだ。

 そして、こうした寺島の見方は、わが国の軍国主義は誤っていたが、大東亜共栄圏という理念自体は誤っていなかったという主張へと容易につながる。
 その現代版が、民主党が先の総選挙でマニフェストに掲げた東アジア共同体なのだろう。
 寺島はこうも述べている。

中国への短期的配慮で外交技術的に「手打ち」を演じることなど重要ではない。アジアとの真の相互信頼を醸成するために、日本外交の総体に筋道の通った理念性を取り戻さねばならない。米国への過剰依存と過剰期待だけでアジアの信頼は得られないのである。


 「真の相互信頼」とは何か。それは目に見えるものか。どういう状態に至れば「真の相互信頼」が得られたと判断できるのか。
 「筋道の通った理念性」とは何か。例えば、東アジア共同体を構築すべしという理念か。ならば、「価値観外交」だの「自由と反映の弧」だのもまた理念ではないか。しかし、外交とはそもそも理念に基づいて行うべきものなのか。現状における損得勘定に基づいて行うのが外交ではないか。

 寺島は民主党の、また鳩山由紀夫首相の外交ブレーンであると聞く。
 私は、こうした理念先行型の人物が現政権の外交ブレーンであるということに不安を禁じ得ない。


(関連記事
石射猪太郎『外交官の一生』(中公文庫、1986) (4)

鳩山由紀夫内閣は民主連合政府か(笑)

2009-09-24 22:47:07 | 「保守」系言説への疑問
 小池百合子がメールマガジンで次のように述べている。
民主党の小沢幹事長が、「外国人地方参政権」の成立に意欲を見せている。
国家や領土などへの基本的意識が希薄な日本では、
この制度の安易な導入は極めて不適切、危険といわざるをえない。

そもそも現代の日本人の国家意識がなぜ希薄なのか。
昭和47年に明らかになった中国共産党による秘密文書なるものがある。
1.基本戦略:我が党は日本解放の当面の基本戦略は、
日本が現在保有している国力の全てを、我が党の支配下に置き、
我が党の世界解放戦に奉仕せしめることにある。
2.解放工作組の任務:日本の平和解放は、下の3段階を経て達成する。
1国交正常化(第1期工作の目標)=田中角栄
2民主連合政府の形成(第二期工作の目標)=小沢一郎
3日本人民民主共和国の樹立・天皇を戦犯の首魁として処刑(第三期工作の目標)

つまり、民主党による政権交代で
2の民主連合政府の形成という目標が達成されたことになる。
韓国も、この戦略に呼応した対日工作に便乗すれば、独自の地位確保が可能となる。

 呆れ果てて言葉もない。

 この中国共産党による秘密文書なるものを私は知らなかった。
 検索してみると、月刊誌『Will』2006年3月号で紹介され、広く知られることになったらしい。
 Depot(ディポ)というseesaaブログで、Will編集部による紹介文を含む全文が掲載されている。

 さらにその出所は、右派系の月刊紙『國民新聞』のサイトのようだ。
 『Will』発売当時、既に國民新聞のサイトに全文が公開されていたことが、宮正弘のメルマガからわかる。

 ざっと見たところ、日本製の偽文書ではないかと思える。田中上奏文のようなものか。いや、それほどのレベルにも達していないか。

 小池のメルマガ中の
1国交正常化(第1期工作の目標)=田中角栄
2民主連合政府の形成(第二期工作の目標)=小沢一郎
という太字部は原文にはない。もちろん、1969年に初当選したばかりの小沢の名が1972年に明らかになったという秘密文書に記載されているはずもない。小池サイドで付け足したのだろうか。田中角栄により国交正常化が成り、小沢一郎により民主連合政府が形成されたという意味で。
 メルマガには次のようにも書かれているし。
つまり、民主党による政権交代で2の民主連合政府の形成という目標が達成されたことになる。
 しかし、今般の政権交代により民主連合政府が形成されたという主張は不可解である。
 民主連合政府とは、民主党主導の連合政府という意味ではもちろんない(笑)し、単に民主的な連合政府という意味でもない。

 民主連合政府とは、日本共産党の用語である。
 戦後、武装闘争期を経て、共産党が議会主義に転じてから、1960年代から70年代にかけて、党勢を拡大した時期があった。そのころ共産党は、ソ連や中国のような一党独裁政権ではなく、社会党など他党と連合して「民主連合政府」の樹立を目指すとしていた。おそらくは、チリのアジェンデ政権のようなものが想定されていたのであろう。
 やがて社会党が共産党との共闘から中道政党である公明・民社両党とのいわゆる社公民路線にシフトしたため、民主連合政府の樹立は期待できなくなったが、共産党は現在でも民主連合政府の目標を掲げ続けている。

 要するに、民主連合政府とは、共産党を加えた連立政権のことである。この「秘密文書」でも、そのように用いられているようである。
 そして、鳩山由紀夫内閣に共産党が加わっていないことは言うまでもない。
 小池は、何を根拠に、「民主連合政府の形成という目標が達成された」などと妄言を吐いているのか。

 私は、政治については、新聞報道程度の知識しかない。個々の政治家が具体的に何を発言しているかはあまりよく知らないし、これまで政治家のホームページやメルマガを読んだこともほとんどなかった。
 しかし、読んでおくべきものだなあと、このたび強く感じた。

 私は、ずっと以前から、政権交代を可能にするためには、自民党に代わる保守政党が必要だと考えていた(ここに言う保守とは、共産化の否定、自由社会の堅持という程度の意味である)。
 だから、日本新党の結成は歓迎したし、そこに当初から加わっていた小池には期待していた。
 比較的早くから朝銀の問題を指摘していた点も評価していた。

 しかし、こんな怪文書を根拠に民主党を攻撃するようでは、話にならない。
 統帥権干犯を唱えて民政党内閣を攻撃した政友会と同類であろう。
 他のメルマガの記事にも、疑問に思う点は多い。
 小泉構造改革を継承する気概もないようだし、今後小池に期待できるものはなさそうである。

真岡事件――何故彼女らは死ななければならなかったか

2009-09-23 22:10:23 | 大東亜戦争
 終戦直後、樺太の真岡(まおか)町で、ソ連軍が侵攻する中、電話交換手の女性9名が集団自決する事件が起こった。一般に真岡事件と呼ばれる(ウィキペディアでは「真岡郵便電信局事件」とされている)。

 私がこの事件を知ったのは、それほど古いことではない。おそらく、1996年に産経新聞で連載していた「教科書が教えない歴史」で初めて知ったのではないかと思う。

 現在産経新聞社から刊行されている『教科書が教えない歴史(普及版)』(以前刊行されていたハードカバー版をペーパーバックにした廉価版)で確認すると、2巻(2005年刊)に収録されていた。そう長いものでもないので全文を引用する。

ソ連軍が迫る中、9人が集団自決した真岡事件

 日本員北端の街・稚内。宗谷海峡を見下ろす稚内公園の一角に「九人の乙女の碑」が建っています。そこにはブレスト(交換手用の送受話器)をつけた女性のレリーフとともに、九人の電話交換手の名前が刻まれています。
 太平洋戦争が終わって五日後の一人四丘年(昭和ニ十年)人月ニ十日、樺人の真岡町(現在の口シア共和国サハリン州ホルムスク)の真岡郵便局で、電話回線の確保に当たっていた九人の女性交換手が集団自決するという事件が起きました。
 戦争は終わったのに、なぜこのような悲劇が起きたのでしょうか。
 戦争末期の八月八日、ソ連は日ソ中立条約を破棄して対日宣戦しました。満州、樺太、千島などに進攻したソ連軍は各地で日本車と戦闘を交え、それは戦争終結後も続いていました。
 樺太の北緯五〇度以南は、日本が日露戦争の結果獲得した領土でした。島内には多くの日本人が住み、四千人もの郵便局職員が郵便の業務と電信に携わっていました。
 この当時の電話は現在のように、自動化されたものではありません。電話の回線はすべて郵便局の電話交換室につながっており、電話交換手が相手先にとりつぐしくみでした。緊急事態が発生した場合は、一般の回線を抑えて、軍や警察関係の連絡を優先させなければなりません。きわめて重要な職務でした。
 すでに一丸四四年(昭和十九年)三月、大本営は「決戦非常措置要綱」を発令し、電信電話部門に関しても徹底的な強化推進の方針を打ち出していました。
 真岡郵便局でも非常体制が取られ、残留の募集に応じた二十一人の交換手が交代で二十四時間業務にあたっていました。ソ連軍が迫って日本人民間人が本土に引き揚げたのち、軍の通信隊に引き継ぐまで通信業務を守るのが彼女たちの任務でした。
 そして、八月ニ十日早朝、ソ連艦がついに真岡沖にも姿を現しました。問もなく艦砲射撃が開始され、真岡の町は戦火に包まれました。
 高石ミキを班長とする九人が集団自決に走ったのは艦砲射撃が始まった直後でした。班長のミキはふところから何かの包みを取り出すと、それを湯のみちちゃわんの水で一気にのどに流し込みました。青酸カリでした。断末魔の形相を浮かべながらミキは事切れていきました。
 このあとを八人が次々と追いました。波女たちがどのような経路で青酸カリを入手したのかは、つまびらかではありません。ただ、当時の女性交換手の間で電話を通じて頻繁に青酸カリのやりとりが行われていたことは事実です。彼女たちが、いざという時には自決するつもりで、あらかじめ薬品を用意していたことがわかります。
 頭上を弾がかすめる交換室内で、女性交換手たちは自らの進退を決めなければならないぎりぎりの状況下に置かれていました。彼女たちの胸中にはソ連車に対する恐怖と、たとえ命をなげうってでも職務をまっとうしようとする気概が、ないまぜになっていたに違いありません。
 頼みの綱としていた班長が決断したのは、まさにこうした瞬間でした。残りの八人が班長の決断に従ったのも不思議でありません。「九人の乙女の碑」は、ソ連軍の違法な侵攻の犠牲となった女性たちの無念の思いを今に伝えているのです。(広田好信)


 筆者の広田好信は、執筆者一覧によると、札幌市立西野中学校教諭だという。執筆者一覧の肩書きは原則ハードカバー版当時のものだが現在の肩書きが判明している者はそれを記したとある。広田がどちらのケースなのかはわからない。

 今年の2月、無宗ださんのブログで、「北方領土について思うこと」という記事を読んだ。その中で、真岡事件のことについて触れられている。
日本は、北方領土がどのようにして不法占拠されているのか、きちんと中学校の歴史で教えるべきである。
北方領土が武力占拠されたのは、ポツダム宣言受諾後である。
ソ連が北方領土を占拠したのは1945/8/15以降である。


ポツダム宣言受諾後におきた
樺太における「北のひめゆり」と言われた「真岡電話局」の九人の電話交換手の自決
日本人の常識となるべき事件である。


 私はこれを読んで、心に引っかかるものを覚えた。


 ソ連による北方領土占拠が不当であることは言うまでもない。
 そもそも、日ソ中立条約が有効であったにもかかわらず、それを無視して開戦し、なおかつ、わが国がポツダム宣言受諾を表明しているにもかかわらず、侵攻を続けた。
 ケシカラン話だ。

 ただ、電話交換手の自決事件は、単にソ連を責めるだけでいいのだろうか。
 たしかに、ソ連軍の侵攻がなければ、彼女らは自殺することはなかっただろう。
 しかし、ソ連軍が彼女らを捕らえ、強姦し、虐殺したわけではない。
 一方的に自決したのである。
 その死をも、ソ連の不当性を訴える材料にしていいのだろうか。

 彼女らの自決は、敵兵に捕らわれたら辱めを受けるからその前に自決せよという当時の風潮の現れだろう。
 また、戦陣訓に見られるような、投降を潔しとしない思想の影響もあったのだろう。
 そうしたものによって、自決せざるを得なかったという面もあるだろう。
 この事件は美談としてではなく、悲劇として伝えられるべきではないだろうか。

 そんなことを漠然と考えていたころ、ある古書市で、次の本を目にして、購入した。



 1989年、恒友出版刊。私が手にしたのは1994年発行の3刷。
 著者は1950年生まれの北海道出身のノンフィクション作家だという。私は初めて知った。

 私がこの本によって知り得たことは大きい。
 要旨は次のとおり。

・当時郵便局にいた女性電話交換手はこの9人だけでなく、ほかに3人いた。3人は青酸カリを飲まずに生き延びた。
・交換室は局舎の2階にあり、1階には電信課があった。電信課には男性職員8名と女性職員2名がいた。
・接近するソ連艦が儀礼あるいは威嚇として空砲を撃ち、これに対し日本軍が実弾で応戦し、戦闘となった可能性が高い。
・砲声が響く中、班長の高石ミキは青酸カリを口にした。まだソ連兵が局舎に迫っていたわけでない。6名がそれに続いた。
・やがて市街戦となり、通りに面した1階には銃弾が飛び込み、危険な状態にあった。局舎外の防空壕に待避しようとして飛び出した男性職員2名は還らぬ人となった。残りの職員はシーツで白旗を作って掲げ、危機を脱した。2階は山側に面しており、銃撃される危険はなかった。
・残った5名の交換手のうち、最年長の伊藤千枝が樺太内の各局に電話して真岡の状況を伝え、これから死ぬ旨を伝えた。岡田恵美子は机の下にうずくまっていて他の4名の様子は見ていない。伊藤は岡田を除く3名に自分がいいというまで薬を飲むなと言ったが、うち1名が制止を破って服毒した。伊藤は1階に内線電話をかけ、9名が死亡したと伝え(自分も含めている)、自らも青酸カリを口にした。
・電話を受けた電信課では男性職員が2階に向かい、伊藤の断末魔を見た。生存していた川島ミキと境サツエを救出した(岡田恵美子は発見していない)。
・ソ連兵が局舎に侵入。1階にいた電信課の8名と川島ミキ、境サツエの交換手2名を連行。倉庫に収容される。
・2階に残っていた岡田恵美子、訪れた見知らぬ日本人男性に救出され、倉庫に収容される。
・真岡局の幹部は当時、局から200mほど離れた施設に寝泊まりしていた。上田豊蔵局長はここから局に向かったが銃撃戦に遭遇して負傷し、路上の同じ場所にいた者に白旗を作らせ、ソ連兵に連行され倉庫に収容された。
・高石ミキは幌泊監視哨からの緊急連絡でソ連艦隊接近を知り、直ちに電話で局長に知らせている。それからソ連軍の攻撃が始まるまで少なくとも1時間余の余裕があった。何故局長はこの間に局に向かわなかったのか。局長がいて電話交換手らに避難誘導などの指揮をとっていれば集団自決は避けられたのではないか。
・交換手に対しては残留命令があったはずだが、局長は戦後それを否定し、残留は交換手の自発的な意志によるものだと主張している。これは元交換手らの証言と矛盾する。
・1963年、稚内公園に「九人の乙女の碑」が建てられた。碑文には「日本軍の厳命を受けた真岡郵便局に勤務する九人の乙女は青酸苛里を渡され最後の交換台に向かった。ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるまま青酸苛里を渡され最後の力をふりしぼってキイを叩き」云々と、軍命により残留し服毒したとされていた。この事件はこのころ広く知られるようになり、週刊誌などが取り上げ、さらに電電公社(現在のNTTの前身)の社内報にも掲載されるに至ったが、いずれもこの軍命説をとっていた。上田はこれに異を唱え、逓信業界誌『逓信文化』昭和40年4月号に手記を発表した(本書に収録)。当時樺太の電話が全て軍管轄下にあったというのは嘘であり、残留も軍命ではなく自発的であり、引揚命令に対し残留を望む血書嘆願が出されたという。また、電話交換手を9人だったとしており、生還した3人については触れていない。1階にいた電信課員についてもほとんど触れていない。9人の交換手が弾丸が飛びかう中1時間半も孤軍奮闘した末自決したとされている。
・碑文はその後、「八月二十日ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした その時突如日本軍との戦いが始まった 戦火と化した真岡の町 その中で交換台に向かった九人の乙女等は死を以って己の職場を守った 窓越しにみる砲弾のさく裂 刻々迫る身の危険 今はこれまでと死の交換台に向い」云々と書き改められた。


 川島はあとがきで、「もし現場に上司や男子職員がいたならば、悲劇は回避出来たのかも知れない。」と記している。私も本書を読むとそのように思わせられる。

 果たして、自決しなければならないほどの身の危険が迫っていたのだろうか。

 高石ミキは、引き揚げる母にお気に入りの写真を渡し、また自分の形見だといって隣近所に着物を配っていたという。死を覚悟していたのだろう。
 また、電信課の女性職員の1人は、ソ連艦の襲来直前に、高石の泣き顔を見ているという。

 状況が緊迫する中、班長であり最年長である高石がまず服毒し、ナンバー2である可香谷シゲがそれに続いたという。指導者を失ってどうしたらいいかわからず、連鎖反応で服毒していったという面もあるのではないだろうか。
 真岡町の北方にある泊居郵便局は、ある交換手から、局の裏側にある下水溝に避難したが、銃撃が激しくて再び上がってきた、高石や可香谷はとっくに死んでしまった、自分も心細いから死ぬという交信を受けている。
 川島が言うように、上司や男性職員がその場にいて、的確な指示を出していれば、自決にまでは至らなかったのではないだろうか。

 そんな中で、各局に状況を報告し、若い交換手には服毒しないよう言い聞かせ、しかも1階の電信課に電話した上で自決に踏み切った、3番目の年長者である伊藤千枝の勇気を讃えたい。

 そして、3人の交換手と2名の電信課女性職員は収容されたが、彼女らは、当時言われていたように、ソ連兵に陵辱されたのだろうか。
 その点についての記述は本書にはない。
 仮にそうしたことがあったとしても、今さら明かしたくないことだろうし、伏せているのかもしれない。しかし、被害者を特定せずとも、そうしたことがあったとぐらいは書いてもいいはずだ。
 おそらくは、なかったのではないだろうか。
 満洲や北朝鮮ではその種の事件がすさまじかったとは聞くが。

 侵入してきたソ連兵により、男性職員の時計や万年筆などが強奪されたとの記述はある。

 ウィキペディアの「真岡郵便電信局事件」の項目には、
ソ連兵が現われると、被弾の恐れも無くなった。最初は男性局員のみが応対し、女性はそのまま隠れていたが、安全であると判断すると、救出された2名の電話交換手を含む4名の女性局員も姿を現した。実際、金品の没収はあったが、被弾することも陵辱されるようなことも無かった。
とある。

 さらに、次のような記述もある。
事件後の真岡郵便局
事件から1ヶ月程経つと真岡の町も平静を取り戻し、進駐軍命令で郵便局も業務を再開した。局の各部署には元の局員が就業すると共に、ソ連の局員も配置された。業務は先ずロシア語を学ぶことから始められた。間もなくして、ロシア語による電話の取次ぎを日本人局員により行えるようになった。給与は日本時代よりも多かったが、ソ連人局員は更に高給だった。ソ連人が業務に慣れるにつれ、日本人局員はソ連人の部下として配属されるようになった。


 通信設備は接収され、陵辱もされなかった。
 となると、彼女らの死は何だったのか。
 無駄死に、犬死にだったということではないか。

 こうした行動は、戦時の異常心理の産物だろう。
 広田好信は、
「九人の乙女の碑」は、ソ連軍の違法な侵攻の犠牲となった女性たちの無念の思いを今に伝えているのです。
と結んでいるが、そのような理解だけでいいのだろうか。
 このような痛ましい事件を、ソ連の不当性を訴える材料として安易に利用したり、大和撫子の鏡であるとか、職務遂行を全うしたとかいって美化してはならないと思う。

 なお、川島の本は、増補版が『九人の乙女 一瞬の夏』と改題されて響文社から2003年に出版され、さらに全面改稿した『永訣の朝 樺太に散った九人の逓信乙女』(河出文庫、2008)が現在も刊行中である(ただ、『永訣の朝』の現物を確認したところ、上記の上田局長の手記は収録されていない)。


付記

 産経新聞ワシントン駐在編集特別委員・論説委員の古森義久のブログに、上記の広田好信による「教科書が教えない歴史」の初出時(新聞掲載時)の記事と思われるものが載っている。 

 読み比べてみると、結びの部分が異なる。

 単行本普及版では、上記のとおり、

 頼みの綱としていた班長が決断したのは、まさにこうした瞬間でした。残りの八人が班長の決断に従ったのも不思議でありません。「九人の乙女の碑」は、ソ連軍の違法な侵攻の犠牲となった女性たちの無念の思いを今に伝えているのです。


とあるのが、初出時には

 頼みの綱としていた班長が行動を早まったのは、まさにこうした瞬間でした。残りの八人に集団心理がはたらいて従ったのも不思議でありません。彼女たちがこのときどんな行動をとるべきだったのか、それを考えることは、現代にも通じる課題といえます。


となっている。
 ハードカバー版でどうなっていたのかは未確認〔追記参照〕。

 初出時には「早まった」「集団心理がはたらいて」と否定的なニュアンスが見られる。そして、「彼女たちがこのときどんな行動をとるべきだったのか」と、このとき実際にとった行動については肯定していない印象を受ける。
 「早まった」とは何事か!彼女らを貶めるつもりか!といった批判でも受けて、修正したのだろうか。
 それとも、著者の心境の変化によるものだろうか。

 この連載「教科書が教えない歴史」は、藤岡信勝ら「自由主義史観研究会」により執筆されており、広田好信もこのメンバーである。
 自由主義史観について、藤岡は当初、東京裁判史観(自虐史観)とも大東亜戦争肯定史観とも異なる是々非々の史観、例えば司馬遼太郎の史観だと述べていた。しかし、その後彼らの主張は、大東亜戦争肯定史観と何が異なるのかわからないものと化していった。
 上記の広田の記述の変更は、彼らの変質を示す好例であるかしもれない。


〔以下2010.3.5追記〕
 その後ハードカバー版を見かけたので確認したが、普及版と同じ記述だった。
 「早まった」云々は産経新聞初出時のみの表現だったようだ。  
 

民主党に皇室典範の改正を期待する

2009-09-21 23:00:36 | 天皇・皇室
 9月17日付産経新聞の連載「新・民主党解剖」を読んでいて、次の記述が気になった(太字は引用者による。以下同じ)。 
「きょうが政治と行政の仕組みを根本的に変えるスタートの日。後世の歴史家が『素晴らしい日だった』という一日にするために、これから積極的に働こう」

 鳩山首相は16日午前、国会内で開かれた参院議員総会でこう呼びかけた。

 だが、実際には鳩山首相の意向とは関係なく、正式な政権発足前から、それぞれの思惑に基づく動きが活発化している。

 「新政権発足後、できるだけ早く皇位継承の問題があることを伝え、対処していただく必要がある」
 宮内庁の羽毛田信吾長官は10日、記者会見でこう語った。皇位継承権者を男系の男子皇族に限定している、現行の皇室典範改正への取り組みを要請する考えを示したものだ。

 民主党の川上義博参院議員は11日、党本部で小沢氏と面会し、「政権与党になったのだから」と永住外国人への地方参政権付与の推進を要請した。在日本大韓民国民団(民団)のメンバーが同席する中、小沢氏はこう同調したという。

 「自分はもともと賛成であるので、ぜひ、来年の通常国会では何とか方針を決めようじゃないか」

 ともに衆院選マニフェスト(政権公約)にはない課題だ。鳩山首相は16日の記者会見で「国民は政権にさまざまなモノを言ってもらいたい」と呼びかけた。今後は党内外から寄せられる意見や批判だけではなく、様々な要請をうまくさばく手腕も試される。
 私はこの記事を読むまで、政権交代と皇位継承問題への対処をからめた記事を見たことがなかった。
 Googleニュースで「皇室典範」や「皇位継承」で検索してみると、共同通信の次のニュースがヒットしたのみだ。
「皇位継承問題、対処を」 新内閣に宮内庁長官要請へ

 宮内庁の羽毛田信吾長官は10日の記者会見で、民主党などの連立政権による内閣が近く発足することに関し「皇位継承の問題があることを(新内閣に)伝え、対処していただく必要があると申し上げたい」と述べ、皇位継承の対象を男系の男子皇族に限定している皇室典範の改正問題に取り組むよう要請する考えを示した。

 羽毛田長官は「皇室が安定的に続くかどうかという問題が存在するという意識は、政権が変わっても変わらず持っている」と述べ、あらためて皇位継承の現状への懸念を表明。その上で「事実を伝えることはやらねばならない(私の)務め。できるだけ早くそういう場を持ちたいと思っている」と意欲を示した。

 皇室典範の規定では、天皇陛下の孫の世代の皇位継承対象者は秋篠宮家の長男悠仁さま(3)しかいないのが現状。典範改正をめぐっては、政府の有識者会議が2005年11月、女性・女系天皇を容認する報告書をまとめたが、その後の議論は停滞している。

 羽毛田長官はこれまでにも皇位継承の不安定さを指摘。昨年12月には陛下の心身の不調に対し「陛下がここ何年、将来にわたる皇統の問題、皇室にかかわるもろもろの問題に憂慮される様子を拝してきた」との所見を述べた。
 マスコミの関心は低いようである。あるいは、タブー視しているのか。

 悠仁親王の誕生により社会の関心も薄れたようだが、皇位継承の危機的状況はさして変わっていない。
 悠仁親王の身に万一のことがあればどうなるのか。また、悠仁親王が無事に成長し婚姻したとして、そこで男児ができなければどうするのか。
 現時点での議論に消極的な人々は、その段階に至って改めて考えればよいとでも思っているのだろうか。天皇制とは、天皇になるということは、その程度のものなのか。

 また、仮に男児がないまま現皇太子が即位した場合、皇位継承の第1順位は秋篠宮になるが、以前取り上げたように、現在の皇室典範では、彼は「皇太子」にはなれない。
 この点についての皇室典範の改正も必要ではないか。

 私は、こうした人身御供のような制度は本来は廃止すべきだと思う。しかし、国民はそれを許さないだろう。ならば、以前も述べたが、天皇制を存続したいのなら、どのような形にしろ皇室典範の改正は必須だろう。
 民主党主導の政権で皇室典範の改正を提起すれば、自称保守派からの自民党政権以上の反発も予想される。
 それでも、これは喫緊の課題である。
 自民党よりも、保守勢力とのしがらみが少ない民主党の方が、改正には向いているかもしれない。

 民主党政権下での皇室典範改正に期待する。

靖国神社と新追悼施設に思うこと(補)

2009-09-19 22:33:42 | 靖国
(前回までの記事
  靖国神社と新追悼施設に思うこと(上)
  靖国神社と新追悼施設に思うこと(中)
  靖国神社と新追悼施設に思うこと(下)

 いわゆるA級戦犯分祀について補足しておく。
 合祀した戦没者は一体として神となっているのであり、一部の戦没者を後から分離してまつったとしても、元の神格は変わらない。したがっていわゆるA級戦犯の分祀は教義上できないというのが靖国神社の、また神社本庁の見解だと聞く。一方、日本遺族会会長である古賀誠や中曽根康弘元首相をはじめ、分祀による靖国問題解決を主張する政治家は多く、対立している。

 教義上できないと言うが、神道には明確な教義はないとも聞く。

 毎日新聞「靖国」取材班『靖国戦後秘史 A級戦犯を合祀した男』(毎日新聞社、2007)は、東郷神社の宮司が「A級戦犯の14柱を東郷神社でお引き受けしたい」という「御霊分け」の提案をし、神社本庁から発言を慎むよう叱責されたというエピソードを紹介している。「御霊分け」は多くの神社にいくらも先例があるという。
 また、井上順孝・國學院大神道文化学部教授は、マスコミに「歴史上、祭神の一部を祭らなくする廃祀を行った例もある」とコメントしているという。
 さらに、かつて『神社新報』の主筆を務めた神道思想家葦津珍彦(あしづ・うずひこ、1909-1992)も、A級戦犯合祀に疑問を呈していたという。

 要するに、「できない」のではなく、やりたくないから「やらない」ということではないか。

 なお、靖国神社は、神社本庁傘下の神社ではない。別個の宗教法人である。

 もう一点、指摘しておきたいことがある。

 靖国神社のホームページの「靖國神社の御祭神」という文章には、次のように記されている(太字は引用者による)。
靖国神社には、戊辰戦争やその後に起こった佐賀の乱、西南戦争といった国内の戦いで、近代日本の出発点となった明治維新の大事業遂行のために命を落とされた方々をはじめ、明治維新のさきがけとなって斃れた坂本龍馬・吉田松陰・高杉晋作・橋本左内といった歴史的に著名な幕末の志士達、さらには日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・満洲事変・支那事変・大東亜戦争(第二次世界大戦)などの対外事変や戦争に際して国家防衛のために亡くなられた方々の神霊が祀られており、その数は246万6千余柱に及びます。

靖国神社に祀られているのは軍人ばかりでなく、戦場で救護のために活躍した従軍看護婦や女学生、学徒動員中に軍需工場で亡くなられた学徒など、軍属・文官・民間の方々も数多く含まれており、その当時、日本人として戦い亡くなった台湾及び朝鮮半島出身者やシベリア抑留中に死亡した軍人・軍属、大東亜戦争終結時にいわゆる戦争犯罪人として処刑された方々などの神霊も祀られています。

このように多くの方々の神霊が、身分・勲功・男女の区別なく、祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として一律平等に祀られているのは、靖国神社の目的が唯一、「国家のために一命を捧げられた方々を慰霊顕彰すること」にあるからです。つまり、靖国神社に祀られている246万6千余柱の神霊は、「祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々の神霊」であるという一点において共通しているのです。
 これだけを読むと、靖國神社は、「国家のために一命を捧げられた」人々を「身分・勲功・男女の区別なく」「一律平等に祀」っているのだと理解してしまうだろう。
 だが、それは正しくない。この説明文は、靖国神社のもう2つの祭神について触れていないからである。それは、北白川宮能久親王と北白川宮永久王の2人の皇族である。
 大江志乃夫『靖国神社』(岩波新書、1984)に次のような記述がある。
 実は、敗戦までは、「名誉の戦死者」であっても、皇族は靖国神社の祭神とされることはなかった。戦死した皇族のためには、別に神社が建てられることになっていた。おなじ国家の祭嗣といっても、皇族と臣民では、神として祀られる神社の格がちがうことになっていたからである。
 戦死者とされた皇族は、日清戦争後の台湾植民地化のための戦争で戦病死した近衛師団長北白川宮能久親王、日中戦争中に蒙古(内モンゴール)で戦死した能久親王の孫にあたる北白川宮永久王の二人である。能久親王は、官弊中社台南神社に祀られたが、敗戦後、日本の台湾放棄にともない、その神体は日本に移され、靖国神社に祀られることになった。永久王は、蒙彊神社を建立して祀られる予定であったが実現しないうちに敗戦となり、一般の祭神とは別に靖国神社に祀られた。    現在の靖国神社は、それぞれ独立の祭神である二人の皇族の霊璽一座と合計二四六万余名の祭神を一括した霊璽一座とを本殿内に安置している。祭神としては全部が同格の主神であるといっても、皇族と臣下はまったく別扱いなのである。(p.17-18)
 したがって、「一律平等に祀られている」とは虚偽である。

 そして、皇族については、はじめから「分祀」されていたということでもあろう。

戦没者と戦死者

2009-09-18 23:56:17 | 「保守」系言説への疑問
 先に、靖国神社と新追悼施設に思うこと(上)という記事で、私はこう書いた。
「戦没者」とは普通、民間人の犠牲者も含む。東京大空襲や原爆投下などで亡くなった人々を含む概念である。政府が毎年8月15日に行っている「全国戦没者追悼式」に言う「戦没者」もそれを指している。
 しかし、靖国神社は、あくまで国のために尽くして亡くなった人々を神としてまつる施設である。一般の民間人の犠牲者をまつっているわけではない。
 靖国神社は、「戦死者」、つまり戦って亡くなった人の慰霊の中心施設であるとは言えるだろうが、「戦没者」の慰霊施設であるとは言えない。
 産経はこの点をごまかして、靖国が一般人の犠牲者をも追悼する施設であるかのように印象づけようとしている。
 しかし、異なる意見もある。
 日本会議のホームページに、「平成14年8月15日 戦歿者追悼中央国民集会」の記事が載っている。その集会で、主催社代表の1人として、小田村四郎が次のように述べたという(太字は引用者による)。
国立追悼施設は国家の生命を分断する

小田村四郎 日本会議副会長・拓殖大学総長

私は国立追悼施設構想にたいへん危惧を抱いています。第一に懇談会の趣旨にある何人もこだわりなく戦没者を追悼することができる施設について、政府は公式に外国人も含むと回答しております。これでは戦没者追悼という国の内政事項に外国が発言権を持ち、中国、韓国の属国になることは明らかで、サンフランシスコ講和条約五十周年を迎えた日本の独立主権を改めて否定する結果になります。

第二に政府並びに追悼懇は戦没者の意味を解していません。戦没者とは昭和二十七年四月に制定された戦傷病者戦没者等援護法に用いられた公式用語で、軍人・軍属等で公務上死亡した方を意味するのです。追悼懇はその概念について無知であるために、一般戦災者や外国人の戦死者までもその対象に含めようと議論している。
 もし、産経新聞がこういう解釈に従って「戦没者」という用語を用いていたのだとしたら、先の私の批判は的外れだったということになる。

 ウィキペディアによると、小田村四郎は東京帝国大学法学部政治学科卒。学徒出陣を経て、戦後に復学、卒業し、大蔵官僚となり、行政管理庁(総務省の前身の1つ)の事務次官まで務めたという。その後日銀監事や拓大理事、そして総長を務めた。

 だが、実際に戦傷病者戦没者等援護法の条文を読んでみると、どこにも「戦没者」の定義付けはなされていない。
 たしかに、この法律は、軍人・軍属等で公務上負傷した者や、死亡した者の遺族に対する援護策を定めたものである。一般人は含まれていない。だから「戦傷病者」「戦没者」は軍人・軍属等を指すという見方もできるだろう。しかし、定義付けがなされていないところを見ると、そのように限定してしまうことへのためらいがあったようにも思われる。
 そして、仮に、この法律上で、小田村が言うような「戦没者」の定義付けがなされていたとしても、それはあくまでこの法律上でのみ通用するものにすぎない。「戦没者」の一般用例を拘束するものではない。
 元高級官僚である小田村が、そんなことを知らぬはずもあるまい。

 小田村はこう続ける。
そもそも戦没者追悼とは、英霊の志を継いで我が国の平和を守ろうという決意を固めることです。決意を伴わない施設を建設して、国家的な行事の対象とすることは祖国防衛という戦没者追悼の中心的意義を消しさろうとする恐るべき陰謀であります。
 先の戦争がわが国にとって被侵略戦争だったのなら、小田村の言うこともわからないでもない。
 しかし、わが国から開戦し、そのあげく国を滅ぼしておいて、「志を継いで」「我が国の平和を守ろう」もないもんだと思うが。
 小田村の言う「祖国防衛」とは、真の意味での防衛ではないのだろう。「大東亜戦争は自衛戦争だった」という主張と同様の意味だろう。その「志を継いで」とは、つまりは、開戦も含めた、戦前のわが国の行動の全肯定なのだろう。
 それでは戦死者はいたたまれないのではないかと私は思うが、小田村は戦前への復帰こそが英霊に応えることだと考えているのだろう。

 私は、戦没者追悼とは、わが国はこんなに復興しましたが、あなたがたの犠牲があったことを私達は忘れていません、どうぞ安らかに眠ってくださいと祈るものだと思っていたが、小田村の考えは違うらしい。
 その小田村は、ウィキペディアによると、靖国神社の崇敬会総代の1人であるという。
 上に挙げた「戦歿者追悼中央国民集会」も、「英霊にこたえる会」と日本会議の主催により、靖国神社で毎年行われているもののようだ。

終戦に際して、陛下が最大の目的とされたのは国体の護持でありました。それを破壊しようというのが新しい追悼施設の建設です。総理は充分認識していないが、その意図を明らかにして、抗議行動を全国に展開しなければ、国家の危急は救えないと思う次第です。
 しかし、国体の護持だけでもできればよいというレベルにまでわが国を追い込んだのは誰なのか。その国体の護持さえ危うくしたのは誰なのか。そして、A級戦犯合祀の判明後、天皇の靖国参拝が途絶えたという事実を小田村はどう見るのか。

 私は、国家が兵士を追悼する施設は必要だと思っている。また、民衆の素朴な靖国神社や護国神社への信仰をむげに否定する気にはなれない。
 しかし、靖国神社がどういう思想の下で、どういう者どもによって運営されているのかということは、もっと知られてもよいと思う。
 先の私の記事で引用した産経新聞の「主張」は、こう述べていた。
64回目の終戦の日を迎え、東京・九段の靖国神社には炎暑の中、今年も多くの国民が参拝に訪れた。高齢者の遺族や戦友たちにまじって、親子連れや若いカップルが年々増え、この日の靖国詣でが広く国民の間に浸透しつつあることをうかがわせた。
 しかし、彼らのうちどれだけの者が、上記のような主張をする小田村のような者が総代の1人であるということを知っていただろうか。

鳩山由紀夫新内閣の布陣を見て

2009-09-17 23:55:39 | 現代日本政治
 朝日新聞朝刊4面(政治面)に次のような記事が載っているのだが、
参院民主3人 野田氏外し
 ちらつく小沢氏の影
 「組閣は鳩山、党人事は小沢」という仕分けで選ばれた内閣は、党内グループ間のバランスを最も重視した。鳩山、菅、小沢、羽田、前原、旧社会、旧民社の各グループから少なくとも1人が入閣。
 しかし、1面の閣僚一覧には、小沢グループと表記されている者はいない。
 鳩山を含む除く18閣僚の所属グループ(ないし政党)の表記は次のとおり。

鳩山グループ 鳩山由紀夫首相、小沢鋭仁環境相
菅グループ 菅直人副総理兼国家戦略相
羽田グループ 北沢俊美防衛相
前原グループ 前原誠司国交相、仙谷由人行政刷新相
旧社会グループ 千葉景子法相、赤松広隆農水相
旧民社グループ 川端達夫文科相、直嶋正行経産相
国民新党 亀井静香金融相
社民党 福島瑞穂消費者相
表記なし 原口一博総務相、岡田克也外相、藤井裕久財務相、長妻昭厚労相、平野博文官房長官、中井洽国家公安委員長

 表記なしの中に事実上の小沢グループがいるということなのだろうか。
 しかし、事実上はどうあれ、閣僚一覧がこうなっているのだから、読者は誰しもが不審に思うことだろう。

 小沢グループの入閣者とは誰を指すのだろうか。

 記事はこう続く。
ただ、組閣にはノータッチのはずだった小沢一郎幹事長の影もちらついている。
 その象徴が3人の民主党参院議員の閣僚だ。「参院枠」にこだわったのは輿石東参院議員会長。総選挙後の党人事で「小沢幹事長」を強く主張した輿石氏は、参院から複数の入閣を求めた。3人はベテランで、年功序列の点では順当。輿石氏は16日、「鳩山代表には参院に配慮して頂いた」と記者団に説明した。
 小沢氏に近い閣僚も複数生まれた。中井洽国家公安委員長は、旧新進党解党後に小沢氏率いる旧自由党に参加した重鎮で、小沢氏の信頼が厚い。赤松広隆農水相は、鳩山代表と岡田克也外相が争った5月の代表選で、小沢、輿石両氏の意を受けて旧社会グループを鳩山氏支持でまとめようと動いた経緯がある。
 赤松は旧社会グループとされているから、小沢グループと目されているのは中井だろうか。藤井も小沢との関係は深いはずだが、最近は西松建設事件で代表辞任を説き、疎遠になっていると聞く。
 では中井には何故所属グループが表示されないのだろうか。

 それにしても、小沢グループと明記される閣僚がいないということは、それなりに小沢支配批判に配慮しているのではないだろうか。
 参院出身閣僚の増加についても、今回衆院選での大勝は、前回参院選で第1党を獲得した流れを受けてのことなのだから、参院優遇は当然だろう。
 閣内には、代表選で岡田氏を支えた前原誠司元代表や仙谷由人元政調会長も入っている。「非小沢」にも配慮したかにみえる人選だが、隠れた意図がかいま見える。
 「小沢氏が幹事長になれば党を支配される」。総選挙投票日の8月30日午後。岡田氏を擁立した中心メンバーの6人がひそかに東京都内のホテルに集まり、岡田氏に幹事長続投を要請した。
 内閣・党人事で「反小沢」が主導権を握ろうというこの会合を小沢氏は知り、今月初め、対抗心をあらわに周囲に語ったという。「覚悟を決めてかかってこいって」
 会合の出席者は、入閣有力と報道された野田佳彦幹事長代理をはじめ衆院当選5~7回の入閣適齢期だが、1人も起用されなかった。前原、仙谷両氏はこの会合には出ておらず、岡田支持派内でも処遇が明確に分かれた。
 特に今回、野田氏のグループへの打撃は深刻だ。党内グループで唯一閣僚を出せなかった一方で、当選4回の松本剛明氏を小沢氏が衆院議院運営委員長に起用。松本氏は野田グループ幹部ながら、昨年秋の代表選で野田氏の出馬に強く反対し、小沢氏の無投票3選に貢献している。
 岡田氏を支持した中堅議員のぼやきは止まらない。「徹底的に干す気なんだ。恐ろしい人事だよ」

(松田京平)
 しかし、人事とは得てしてそういうものではないか。
 野田佳彦をはじめ、干された人々には、腐らず、時を待てと言いたい。

 野田はたしかに入閣候補と言われていたし、党内グループを率いる身だが、当選5回にすぎず、党代表はおろか、党3役をこなしたこともない。また、前原代表の下での国対委員長時代に、いわゆる永田メール問題で失態を見せたことも記憶に新しい。
 今回、衆院当選5回で入閣したのは、鳩山側近である平野官房長官を除けば、原口総務相のみである。
 野田の非入閣の理由に、松田京平記者が記したような事情もあるのかもしれない。だが、それを考慮に入れても、それほどおかしい人事だとは思えない。

 民主党は寄り合い所帯と言われるが、自民党もまたそうだった。自由社会の堅持という一点で共闘できた人々の集まりであり、多様な人材を擁していた。それこそが自民党の強みだった。
 民主党もまた、自民党政権の打破という一点で糾合した人々である。自民党政治の否定以外に、共通の目標を見出すことは難しい。だから、鳩山新政権の針路が今ひとつ不透明なのもいたしかたない。
 これから、わが国の政党政治は、下野した自民党も含め、大きく変わっていくのだろう。その中で、野田グループの出番もいつ訪れないとも限らない。
 多様な人材を抱えていることは強みとなり得る。そのことを、今回干された人々や、それを不満に思う人々には記憶しておいてほしいものだ。

靖国神社と新追悼施設に思うこと(下)

2009-09-16 23:56:27 | 靖国
(前回までの記事
  靖国神社と新追悼施設に思うこと(上)
  靖国神社と新追悼施設に思うこと(中)


 そもそも、A級戦犯はどのようにして合祀されたのだろうか。

 2006年7月20日、日本経済新聞がいわゆる「富田メモ」を報道した。
私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ
 このメモについては、どこまで昭和天皇の真意を反映したものかわからないとか、果ては昭和天皇の発言ではないのではないかといった愚にもつかない批判があったが、ここではおく。
 私がここで問題にしたいのは、A級戦犯の刑死は1948年であり、サンフランシスコ平和条約の発効は1952年だったのに対し、厚生省が合祀対象であるA級戦犯12人(死刑に処された7人以外に、松岡洋右ら判決前に病死した者、白鳥敏夫ら終身刑中に獄死した者を含む)の祭神名票を靖国神社に送ったのが1966年であること、そしてその合祀を当時の筑波藤麿宮司が保留し、1978年の筑波の死後、後任の宮司に就いた松平永芳によって同年ようやく合祀されるに至ったこと、しかもそれは公表されず、翌年4月の報道でようやく明らかにされたことである。
 つまり、合祀については厚生省や靖国神社サイドの恣意的な運用が可能であり、しかも誰が合祀されたかは公表されないということである。
(なお、厚生省と言うと一般の官僚のようだが、合祀事務を担当したのは同省の援護局であり、これは旧陸軍省・海軍省から業務を引き継いだもので、多くの元軍人が在籍していたという)

 前々回引用した産経新聞の「【主張】8月15日の靖国 代替施設では慰霊できぬ」は言う。
首相が国民を代表して、国のために亡くなった人たちを慰霊することは、一国の指導者としての務めである。
 それはそうだ。だが、靖国神社は国家施設ではない。しかも合祀の経緯は不透明である。

 田中伸尚『靖国の戦後史』(岩波新書、2002)によると、戦前の合祀手続は次のようだったという。
戦没者が生じた場合に陸(海)軍省の大臣官房内に高級副官を委員長に、各部将校を委員にした審査委員会が設置され、出先隊長や連帯区司令官からの上申によって個別審査をし、陸海軍大臣から天皇へ「上奏」し、「裁可」を経て、合祀者が決定した。それが官報告示され、合祀祭が執り行われた。
 国家機関の業務とはかくあるべきだろう。

 国家による追悼は必要であろう。ならばそれは、国家が管理すればよい。
 一宗教法人に過ぎない靖国神社に何でそんな権限があるのか。また、その恣意的な運用に、何故首相や天皇が振り回されなければならないのか。

 産経「主張」の理屈を敷衍すると以下のようになるだろう。
 靖国神社がいつ、誰をまつろうと、それは一宗教法人である靖国神社の判断であり、国が容喙すべきことではない。しかし、一方で靖国神社は伝統的に国家の追悼施設であった。したがって首相は無条件で靖国神社に参拝すればよいのだ。それを怠るとは国家指導者としての責務を果たしていない。
 一宗教法人を政府の上に置くような、ずいぶんと勝手な言いぐさではないか。
(ならば天皇に対しても同じことが言えるはずだが、さすがに天皇にああしろこうしろとは言い難いらしい)

 産経が、新たな国立追悼施設の建設のみならず、麻生のような非宗教法人化の主張にも反対するのは、靖国神社が一宗教法人である現状が彼らにとって都合がいいからではないか。
 靖国神社に国家による統制が加えられるとなると、これまでのように好き勝手な歴史観を開陳するわけにはいかないだろうからだ。具体的には、村山談話に拘束されるということにもなるだろう。
 しかし、それならば靖国神社やその支持者は、私的な立場でいくらでも、アンチ東京裁判史観を訴えるがいい。
 一宗教法人としての立場を最大限に利用しつつ、一方で国家機関としての役割を果たしているかのように主張するのはおかしい。


三木武夫首相の靖国参拝について

2009-09-15 23:59:37 | 靖国
 戦後初めて8月15日に靖国神社に参拝した首相は三木武夫である。それまでにも、独立回復後は吉田茂をはじめ歴代首相のほとんどが参拝してきたが、多くは春秋の例大祭の時期に合わせての参拝であり、終戦記念日である8月15日に参拝した首相はそれまでなかった。

 三木は戦前からの代議士である。日米戦争に反対し、1942年のいわゆる翼賛選挙では非推薦で当選した。戦後は協同組合主義を掲げた国民協同党の委員長となり、3党連立の片山内閣で入閣。自民党に合流後は三木派を率いて独自の存在感を放ってきた。また田中角栄の金権政治との対比から「クリーン三木」とも呼ばれた。
 そんな三木と靖国参拝とのイメージが結びつかず、私は長年不思議に思ってきたのだが、昨日、岩波新書(黄版)の大江志乃夫『靖国神社』(1984年刊)を読んでいると、次の記述が目にとまった。
国会が保革伯仲となった三木内閣時代には、靖国神社国家護持法案はもとより、それを緩和した「戦没者の慰霊表敬法案」も成立する見通しがなくなった。靖国神社国家護持の推進団体である日本遺族会と自民党遺家族議員協議会は、一九七五年五月六日、靖国神社国家護持を最終目的としつつ当面は表敬法案の推進、国家機関の公式靖国参拝、それもかなわぬときは従来の靖国法案の国会提出を要望した。つまり本来の目的から一歩しりぞいたかたちをとりながら、この要望がいれられなければ本来の強硬路線で圧力をかけるという方針である。
 田中角栄内閣が金脈問題で退陣し、ロッキード汚職問題が火を噴きはじめ、党内弱小派閥出身の三木首相に対していわゆる「三木おろし」の工作がはじまり、七月七日の参議院選挙に自民党が敗北して靖国法案を審議する内閣委員会で野党が多数をしめた。七月二七日に田中前首相が逮捕されるという、緊迫した情勢のもとで、三木首相は、保身のためにも、私人としての八・一五靖国参拝という妥協策を講じるほかになかった。(p.12)
 この記述がどれほど正確なものなのか私には判断がつかない。しかし、こういうことならなるほど説明はつく。
 それでも何故8月15日なのかという疑問は残るが、ある種のサービス精神のたまものだったのであろうか。

 なお、A級戦犯が合祀されるのはこれより後の1978年であり、さらにそれが報道されるのは1979年4月のことである。