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日々の思いをたまに綴るブログ。

石射猪太郎『外交官の一生』(中公文庫、1986) (2)

2009-07-05 22:31:15 | 日本近現代史
(前回記事はこちら

 石射の東亜局長時代の話を続ける。〔〕内の記述は引用者による。

○戦争を望んだ日本

 昨年出版された北村稔と林思雲の共著『日中戦争』(PHP研究所)には、「戦争を望んだ中国 望まなかった日本」という副題が付いている。
 かの田母神論文も「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。」と述べていた。
 本当にそうだろうか。
 蒋介石が戦争を望んだというのはそうだろう。しかしわが国は戦争を望んでいなかったのに引きずり込まれたと言えるのだろうか。

 石射は、当時のわが国の世相を次のように回想している。

《元来好戦的であるうえに、言論機関とラジオで鼓舞された国民大衆は意気軒昂、無反省に事変を謳歌した。入営する応召兵を擁した近親や友人が、数代の自動車を連ねて紅白の流旗をはためかせ、歓声を挙げつつ疾走する光景は東京の街頭風景になった。暴支膺懲国民大会が人気を呼んだ。
 「中国に対してすこしも領土的野心を有せず」などといった政府の声明を、国民大衆は本気にしなかった。彼らは中国を膺懲するからには華北か華中の良い地域を頂戴するのは当然だと思った。
 地方へ出張したある外務省員は、その土地の有力者達から「この聖戦で占領した土地を手離すような講和をしたら、われわれは蓆(むしろ)旗で外務省に押しかける」と詰め寄られた。ある自称中国通が私を来訪して、山東か河北くらいをもらわにゃならぬと意気込んだ。また、ある宗教家が来訪して、上海あたりを取ってしまえ、それが平和確保の道だと説いた。もっともそれはコーランを片手に剣を片手にする回教牧師だった。〔中略〕
 世を挙げて、中国撃つべしの声であった。》(p.314-315)


○海外の反応

《事変以来、列国の世論が中国に同情し、日本を非難したのはいうまでもない。遠慮がちながら、ドイツ、イタリーの新聞までが日本をよくいわなかった。〔中略〕
 日本に痛かったのは、一〇月五日、シカゴで行われた、ルーズベルト大統領の「隔離」演説であった。戦争は伝染病である、これを惹起する病人を隔離しなければ蔓延は防げないといって、日本を保菌者に見立てたのである。これに対して河相情報部長は、無産者が有産者に進路をはばまれる時は、戦争になるのは自然の勢いだと声明した。さすがの陸海軍も驚いて外務省に河相声明の取り消しを要求したほど、隔離演説が利いたのである。》(p.319)


○国際連盟

《九月、中国は事変を国際連盟に提訴した。憐れなる連盟は、日本の態度を九か国条約及び不戦条約違反なりと判決して、問題を九か国会議に肩代わりする他なかった。中国の領土と主権を保障する一九二二年の九か国条約の締結国と、一九二八年の不戦条約国を会同して日本を押さえようというのである。この二つの条約の番人であるアメリカの参加がこの会議の強味であったが、そのアメリカさえ、進んで火中の栗を拾うだけの決意を持たない。そんな国際会議がどう決議しても、問題に解決をつけ得るものではなかった。事変は井戸端会議の段階を通り越していた。会議への招請を日本は拒絶した。私は省内会議で招請拒絶に賛成した。事変は中日の直談判以外に解決の道なく、それへのチャンネルを国際会議以外に求むべきだと私は固く信じた。
 九か国会議は、一一月三日ブラッセルで開かれ、三週間にわたって議論を尽した結果、日本は九か国条約、不戦条約違反者である、事変の解決は、中日の直接交渉では成就しない、関係列国との協議によってのみ解決し得ると決議して散会した。暴れる猫の頸に鈴をつけようとするもののいない鼠の会議であった。》(p.320)

 招請拒絶の賛成については、言い訳めいた感じがしなくもない。


○南京アトロシティーズ

《南京は暮れの一三日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺さえ危いとさえ報ぜられた。〔中略〕最も目立った暴虐の首魁の一人は、元弁護士の某応召中尉であった。部下を使って宿営所に女を拉し来っては暴行を加え、悪鬼のごとくふるまった。何か言えばすぐ銃剣をがちゃつかせるので、危険で近よれないらしかった。
 私は三省事務局長会議でたびたび陸軍側に警告し、広田大臣からも陸軍大臣に軍紀の粛正を要望した。軍中央部は無論現地軍を戒めたに相違なかったが、あまりに大量な暴行なので、手のつけようもなかったのであろう、暴行者が、処分されたという話を耳にしなかった。当時南京在留の外国人達の組織した国際安全委員なるものから日本側に提出された報告書には、昭和一三年一月末、数日間の出来事として、七十余件の暴虐行為が詳細に記録されていた。最も多いのは強姦、六十余歳の老婆が犯され、臨月の女も容赦されなかったという記述は、ほとんど読むに耐えないものであった。その頃、参謀本部第二部長本間〔雅晴。戦後、バターン死の行進の責任を問われて死刑〕少将が、軍紀粛正のため現地に派遣されたと伝えられ、それが功を奏したのか、暴虐事件はやがて下火になっていった。
 これが聖戦と呼ばれ、皇軍と呼ばれるものの姿であった。私はその当時からこの事件を南京アトロシティーズとよびならわしていた。暴虐という漢字よりも適切な語感が出るからであった。
 日本の新聞は、記事差し止めのために、この同胞の鬼畜の行為に沈黙を守ったが、悪事は直ちに千里を走って海外に一大センセーションを引き起こし、あらゆる非難が日本軍に向けられた。わが民族史上、千古の汚点、知らぬは日本国民ばかりなり、大衆はいわゆる赫々たる戦果を礼賛するのみであった。》(p.332-333)

続く

オオサンショウウオに交雑の恐れというが・・・(3)

2009-07-04 23:11:32 | 生物・生態系・自然・環境
 昨日の朝日新聞夕刊で、路上でオオサンショウウオを見つけても、特別天然記念物だからといってみだりに川に放してはいけない、外来種かもしれないから、という記事を読んだ(ウェブ魚拓その1)(その2)。

 このチュウゴクオオサンショウウオの問題は以前も朝日新聞が取り上げており、私も記事にしたことがある。

オオサンショウウオに交雑の恐れというが・・・

オオサンショウウオに交雑の恐れというが・・・(2)

 以前の記事で、

>また、実際に駆除が容易とも思えません。正確に区別できるものでしょうか。一体一体DNA鑑定しろとでもいうのでしょうか。

と書いたが、今回の朝日の記事によると、実際にDNA鑑定しているというので驚いた。

>08年9月までに遺伝子を分析した

とあるから、それ以後はしていないようだが。 

 何度も書くが、外来生物の問題というのは、実害があるかどうかを基準に処置を判断すべきではないだろうか。
 遺伝子レベルで純血種を守らなければならないという必然性が私にはわからない。
 それは、研究者が予算を獲得するための方便にすぎないのではないだろうか。

>松井教授は「放したのが外来種なら固有種を駆逐したり交雑したりするおそれがある。固有種だったとしても外来種の中へ放り出したことになる」と指摘する。

 ではどうしろと言うのだろう。

>「オオサンショウウオが発見されたらまず府や市、研究機関に連絡してもらう」

 連絡すればどうなるのか。

 国産のオオサンショウウオなら、外来種のいない地域に放すのがベストということになるのだろうか。
 では、チュウゴクオオサンショウウオだと判明したらどうなるのか。
 まさか放しはしないのだろう。飼育先を探すのか。それとも……。

 遺伝子レベルでの純潔性を維持しなければならないのなら、人間はどうなんだろう。

 人権派寄りとされる朝日新聞が、そうした点に無自覚にこのような記事を流し続けるのが私には気がかりである。




(関連記事)
オオサンショウウオに交雑の恐れというが・・・(4)

石射猪太郎『外交官の一生』(中公文庫、1986) (1)

2009-07-04 18:12:55 | 日本近現代史
 以前少し取り上げた服部龍二『広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像』(中公新書)を読んで、同書が広田の外相時代の箇所で引用していた石射猪太郎『外交官の一生』を読んでみたいと思っていたら、たまたま古書市で中公文庫版を見つけたので購入、読了した。
 私はこの石射猪太郎という人物について、広田の部下であった外交官だということしか知らない。
 本書の著者紹介には、以下のようにある。

1883(明治20)年、福島県に生まれる。上海の東亜同文書院卒業。外交官試験に合格し、広東領事館をはじめに、ワシントン、メキシコ、ロンドン等の大使館に勤務。続いて吉林、上海各総領事、東亜局長となり、日中戦争中の困難な局面に立たされる。その後、動乱のオランダ公使に、続いてブラジル大使に就任、最後はビルマ大使として、敗走のうちに終戦を迎えた。戦後は幣原平和財団理事として幣原喜重郎の伝記の編纂に当たった。1954(昭和29)年2月死去、67歳。 


 上記の経歴では省略されているが、本書によると、東亜同文書院卒業後、満鉄に4年勤めたが父の事業を手伝うため退職、だがその事業が失敗して無職となり、独学で高等文官試験に挑み、合格。これはハク付けのための受験で、元々は商社への就職を考えていたが、どうせなら「天子様の家来になる方がよい」として官吏への転向を決め、しかも「官界に縁故のない身を持って、頭をさげさげ採用を願ってあるくのは、私の苦手とするところ」だから「合格さえすれば、自動的に採用される外交官を受験しよう」と思い、さらに外交官試験を受験し二度目に合格したという異色の経歴の持ち主である。

 石射は、ビルマから帰国後の1946年8月に依願免官となり、次いで公職追放令該当者に指定された(駐ビルマ大使だったことが理由だという)。
 本書は、その石射が外交官生活を振り返った回顧録であり、占領中の1950年に読売新聞社から刊行された。
 石射の死後、新たに発見された原稿を加え、解説や写真、資料、索引などを付したものが1972年に太平出版社から刊行された。この中公文庫版は太平出版社版を基にしているが、写真や資料、索引はなく本文のみで、解説も新たに伊藤隆により書き下ろされている。

 著者についての知識がなかったこともあり、最初はそれほど期待していなかったのだが、興味深い記述が数多く、最後まで楽しめた。
 著者の筆致には、傲慢さを感じさせる部分もある。おそらく、かなり奇特な人物ではないのだろうか。
 また、戦後の、それも占領中に書かれたものだけに、物事を後から見た視点で自分の都合のいいように書いている可能性もあるだろう。
 そうした点を割り引いて考えても、史料的な価値は高く、また読み物としても面白いと思う。

 いくつかの箇所を、心覚えのため書き留めておく。
 引用部分は《 》で示す。

 まずは、石射の東亜局長時代の話から。

○広田弘毅

 盧溝橋事件勃発の報に接して。
《やがて登庁した広田大臣を囲んで、堀内次官、東郷欧亜局長、私の三人が鳩首した。事件不拡大、局地解決、誰にも異存あるはずがなかった。続報が次々と北平大使館から入電した。事端は中国軍の不法射撃によって開かれたとあるが、柳条溝の手並みを知っているわれわれには「またやりあがった」であった。が、いずれが手出しをしたかはさておいて、当面の急務は、事件の急速解決にあった。
 その日午前中、陸軍の後宮軍務局長と海軍の豊田(副)軍務局長を私の部屋に会同して、事件不拡大方針を申し合わせた。中国問題については陸海の二軍務局長と、東亜局長とが随時外務省に参集して相談するのが従来からの慣行であった。三省事務等局会議と称した。
 午後閣議があって、事件不拡大、局地解決の方針が決定され、その旨陸、海、外の出先機関に訓令された。〔中略〕
 三日たって一一日、日曜日にもかかわらず緊急閣議が召集されたというので早朝から出勤すると、東亜一課から太田事務官が顔を見せて大憤慨だ。先刻陸軍軍務局から連絡員がやってきて、今日の緊急閣議に、陸軍大臣から三個師団動員案が出る、そいつを外務大臣の反対で葬ってもらいたいというので、それくらいならなぜその提案を自分らの力で食い止めないのか、卑怯ではないか、と一論判やったところです、というのである。明らかに陸軍部内の不統一の暴露だ。〔中略〕
 その朝九時、週末静養先の鵜沼から帰京する広田大臣を、私は東京駅に出迎え、自動車の中で軍務局連絡員の話をし、頼まれるまでもなく閣議で動員案を食い止めていただきたい、このさい中国側を刺激することは絶対禁物ですからと進言した。大臣は頷いた。
 ところがその日の閣議は、動員案をあっけなく可決した。閣議から帰来した大臣の説明によると、その案は居留民の保護と現地軍の自衛のため必要が生じた場合に限り、動員を実施するという条件付きの、万一のための準備動員案だったから、主義上異議なく可決されたというのであった。手もなく軍部に一点入れられた感じで、私と東亜一課はいたく大臣に失望を感じた。》(p.295-297)

 石射や東亜一課の反対にもかかわらず、20日、三個師団動員が閣議決定された。石射と上村一課長は辞表を用意した。
《私ども事務当局の進言も嘆願もご採用なく、動員に賛成せられたのは、事務当局不信任に他ならないと思いますからと前置きして、辞表を提出すると、大臣は意外なことを突っ込んできた。
「君達は部下の連袂辞職などを戒しむべき地位にありながら、連名の辞表を出すとは不都合ではないか」
「連署は便宜上そうしただけです。別々の辞表と見做していただきます」そう答えて、なおも動員問題に食いさがると、
「黙れ、閣議の事情も知らぬくせに余計なことをいうな!」大臣の一喝である。私はこうした広田さんをかつて見たことがなかったので、瞬間面食らったが、「ご立腹は恐縮ですが」と言葉を続けかけた。すると大臣は調子を穏やかに落として、動員は実施しても、事態急迫せざる限り出兵はしないと陸軍大臣がいっており、また現地の情勢は解決近きにあるのだから、しばらく成り行きを見守ることにして辞表は撤回してくれ、諸君の意見はよく了解しておるという。
 大臣の穏やかな調子で、私の鉾先は他愛もなく鈍ってしまった。これ以上抗争しても埒はあかない。事件さえ解決されれば問題はないのだ。「ではお言葉に従います。このうえともにご健闘をお願いします」といって、われわれ二人が席を立つのが落(おち)であった。うまく大臣にいなされたのだ。》(p.301)

 広田外相に対する石射の評価は低い。
《一九三八(昭和一三)年早々、内閣方面に東亜事務局設置論なるものが台頭した。選挙が拡大された今日、外務省の力のみを以てしては、事変の処理は不可能である。よろしく総理直属の対華中央機関を設置して、各方面の人材を集め、専心事変処理に当らしむべきだというのである。
〔中略〕
悪いことには、近衛首相が中央機関設置に傾いているのみならず、広田大臣も、なるべくならば事変処理の責任を他の機関に転嫁して、身軽になりたがっているのだった。まずうちの大臣の腰を強めねばということで、堀内次官、米沢調査部長と私とが、先鋒となってたびたび広田大臣に進言を行った。この問題で議論になると、三人揃ってもいつも大臣に言い抜けられた。
「うちの大臣の頭のよさは相当なものだなあ」と、ある晩議論の帰りに堀内次官が感嘆した。
 ともあれわれわれの進言が利いて、広田大臣は首相を抑えて、議会の質問に確答を与えさせず、また閣議にも中央機関案が議題に上ることなく、やがて広田大臣の辞任の時に及んだ。
〔中略〕
 このアイデアが後に興亜院となり、大東亜省を実現したのである。》(p.338-340)

《昭和一三年五月末、近衛内閣が改造された。広田、賀屋、吉野の三相が退けられ、外相として宇垣大将、蔵相兼商相として池田成彬氏が入閣した。広田外相は、すこしも陸軍を抑えようとはしないので、首相から飽きられているとの噂が、以前から行われていた。恐らく事実であろう。が、夫子自身、陸軍のまにまに動くくせに、あまりに虫のよい首相の他力本願というべきであった。私は広田外相の辞任に、いささかも惜別を感じなかったが、首相の心事に不愉快を禁じ得なかった。》(p.341)

 引用はしないが、石射は近衛に対しても激しい批判を加えている。

続く