(前回記事はこちら)
石射の東亜局長時代の話を続ける。〔〕内の記述は引用者による。
○戦争を望んだ日本
昨年出版された北村稔と林思雲の共著『日中戦争』(PHP研究所)には、「戦争を望んだ中国 望まなかった日本」という副題が付いている。
かの田母神論文も「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。」と述べていた。
本当にそうだろうか。
蒋介石が戦争を望んだというのはそうだろう。しかしわが国は戦争を望んでいなかったのに引きずり込まれたと言えるのだろうか。
石射は、当時のわが国の世相を次のように回想している。
《元来好戦的であるうえに、言論機関とラジオで鼓舞された国民大衆は意気軒昂、無反省に事変を謳歌した。入営する応召兵を擁した近親や友人が、数代の自動車を連ねて紅白の流旗をはためかせ、歓声を挙げつつ疾走する光景は東京の街頭風景になった。暴支膺懲国民大会が人気を呼んだ。
「中国に対してすこしも領土的野心を有せず」などといった政府の声明を、国民大衆は本気にしなかった。彼らは中国を膺懲するからには華北か華中の良い地域を頂戴するのは当然だと思った。
地方へ出張したある外務省員は、その土地の有力者達から「この聖戦で占領した土地を手離すような講和をしたら、われわれは蓆(むしろ)旗で外務省に押しかける」と詰め寄られた。ある自称中国通が私を来訪して、山東か河北くらいをもらわにゃならぬと意気込んだ。また、ある宗教家が来訪して、上海あたりを取ってしまえ、それが平和確保の道だと説いた。もっともそれはコーランを片手に剣を片手にする回教牧師だった。〔中略〕
世を挙げて、中国撃つべしの声であった。》(p.314-315)
○海外の反応
《事変以来、列国の世論が中国に同情し、日本を非難したのはいうまでもない。遠慮がちながら、ドイツ、イタリーの新聞までが日本をよくいわなかった。〔中略〕
日本に痛かったのは、一〇月五日、シカゴで行われた、ルーズベルト大統領の「隔離」演説であった。戦争は伝染病である、これを惹起する病人を隔離しなければ蔓延は防げないといって、日本を保菌者に見立てたのである。これに対して河相情報部長は、無産者が有産者に進路をはばまれる時は、戦争になるのは自然の勢いだと声明した。さすがの陸海軍も驚いて外務省に河相声明の取り消しを要求したほど、隔離演説が利いたのである。》(p.319)
○国際連盟
《九月、中国は事変を国際連盟に提訴した。憐れなる連盟は、日本の態度を九か国条約及び不戦条約違反なりと判決して、問題を九か国会議に肩代わりする他なかった。中国の領土と主権を保障する一九二二年の九か国条約の締結国と、一九二八年の不戦条約国を会同して日本を押さえようというのである。この二つの条約の番人であるアメリカの参加がこの会議の強味であったが、そのアメリカさえ、進んで火中の栗を拾うだけの決意を持たない。そんな国際会議がどう決議しても、問題に解決をつけ得るものではなかった。事変は井戸端会議の段階を通り越していた。会議への招請を日本は拒絶した。私は省内会議で招請拒絶に賛成した。事変は中日の直談判以外に解決の道なく、それへのチャンネルを国際会議以外に求むべきだと私は固く信じた。
九か国会議は、一一月三日ブラッセルで開かれ、三週間にわたって議論を尽した結果、日本は九か国条約、不戦条約違反者である、事変の解決は、中日の直接交渉では成就しない、関係列国との協議によってのみ解決し得ると決議して散会した。暴れる猫の頸に鈴をつけようとするもののいない鼠の会議であった。》(p.320)
招請拒絶の賛成については、言い訳めいた感じがしなくもない。
○南京アトロシティーズ
《南京は暮れの一三日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺さえ危いとさえ報ぜられた。〔中略〕最も目立った暴虐の首魁の一人は、元弁護士の某応召中尉であった。部下を使って宿営所に女を拉し来っては暴行を加え、悪鬼のごとくふるまった。何か言えばすぐ銃剣をがちゃつかせるので、危険で近よれないらしかった。
私は三省事務局長会議でたびたび陸軍側に警告し、広田大臣からも陸軍大臣に軍紀の粛正を要望した。軍中央部は無論現地軍を戒めたに相違なかったが、あまりに大量な暴行なので、手のつけようもなかったのであろう、暴行者が、処分されたという話を耳にしなかった。当時南京在留の外国人達の組織した国際安全委員なるものから日本側に提出された報告書には、昭和一三年一月末、数日間の出来事として、七十余件の暴虐行為が詳細に記録されていた。最も多いのは強姦、六十余歳の老婆が犯され、臨月の女も容赦されなかったという記述は、ほとんど読むに耐えないものであった。その頃、参謀本部第二部長本間〔雅晴。戦後、バターン死の行進の責任を問われて死刑〕少将が、軍紀粛正のため現地に派遣されたと伝えられ、それが功を奏したのか、暴虐事件はやがて下火になっていった。
これが聖戦と呼ばれ、皇軍と呼ばれるものの姿であった。私はその当時からこの事件を南京アトロシティーズとよびならわしていた。暴虐という漢字よりも適切な語感が出るからであった。
日本の新聞は、記事差し止めのために、この同胞の鬼畜の行為に沈黙を守ったが、悪事は直ちに千里を走って海外に一大センセーションを引き起こし、あらゆる非難が日本軍に向けられた。わが民族史上、千古の汚点、知らぬは日本国民ばかりなり、大衆はいわゆる赫々たる戦果を礼賛するのみであった。》(p.332-333)
(続く)
石射の東亜局長時代の話を続ける。〔〕内の記述は引用者による。
○戦争を望んだ日本
昨年出版された北村稔と林思雲の共著『日中戦争』(PHP研究所)には、「戦争を望んだ中国 望まなかった日本」という副題が付いている。
かの田母神論文も「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。」と述べていた。
本当にそうだろうか。
蒋介石が戦争を望んだというのはそうだろう。しかしわが国は戦争を望んでいなかったのに引きずり込まれたと言えるのだろうか。
石射は、当時のわが国の世相を次のように回想している。
《元来好戦的であるうえに、言論機関とラジオで鼓舞された国民大衆は意気軒昂、無反省に事変を謳歌した。入営する応召兵を擁した近親や友人が、数代の自動車を連ねて紅白の流旗をはためかせ、歓声を挙げつつ疾走する光景は東京の街頭風景になった。暴支膺懲国民大会が人気を呼んだ。
「中国に対してすこしも領土的野心を有せず」などといった政府の声明を、国民大衆は本気にしなかった。彼らは中国を膺懲するからには華北か華中の良い地域を頂戴するのは当然だと思った。
地方へ出張したある外務省員は、その土地の有力者達から「この聖戦で占領した土地を手離すような講和をしたら、われわれは蓆(むしろ)旗で外務省に押しかける」と詰め寄られた。ある自称中国通が私を来訪して、山東か河北くらいをもらわにゃならぬと意気込んだ。また、ある宗教家が来訪して、上海あたりを取ってしまえ、それが平和確保の道だと説いた。もっともそれはコーランを片手に剣を片手にする回教牧師だった。〔中略〕
世を挙げて、中国撃つべしの声であった。》(p.314-315)
○海外の反応
《事変以来、列国の世論が中国に同情し、日本を非難したのはいうまでもない。遠慮がちながら、ドイツ、イタリーの新聞までが日本をよくいわなかった。〔中略〕
日本に痛かったのは、一〇月五日、シカゴで行われた、ルーズベルト大統領の「隔離」演説であった。戦争は伝染病である、これを惹起する病人を隔離しなければ蔓延は防げないといって、日本を保菌者に見立てたのである。これに対して河相情報部長は、無産者が有産者に進路をはばまれる時は、戦争になるのは自然の勢いだと声明した。さすがの陸海軍も驚いて外務省に河相声明の取り消しを要求したほど、隔離演説が利いたのである。》(p.319)
○国際連盟
《九月、中国は事変を国際連盟に提訴した。憐れなる連盟は、日本の態度を九か国条約及び不戦条約違反なりと判決して、問題を九か国会議に肩代わりする他なかった。中国の領土と主権を保障する一九二二年の九か国条約の締結国と、一九二八年の不戦条約国を会同して日本を押さえようというのである。この二つの条約の番人であるアメリカの参加がこの会議の強味であったが、そのアメリカさえ、進んで火中の栗を拾うだけの決意を持たない。そんな国際会議がどう決議しても、問題に解決をつけ得るものではなかった。事変は井戸端会議の段階を通り越していた。会議への招請を日本は拒絶した。私は省内会議で招請拒絶に賛成した。事変は中日の直談判以外に解決の道なく、それへのチャンネルを国際会議以外に求むべきだと私は固く信じた。
九か国会議は、一一月三日ブラッセルで開かれ、三週間にわたって議論を尽した結果、日本は九か国条約、不戦条約違反者である、事変の解決は、中日の直接交渉では成就しない、関係列国との協議によってのみ解決し得ると決議して散会した。暴れる猫の頸に鈴をつけようとするもののいない鼠の会議であった。》(p.320)
招請拒絶の賛成については、言い訳めいた感じがしなくもない。
○南京アトロシティーズ
《南京は暮れの一三日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺さえ危いとさえ報ぜられた。〔中略〕最も目立った暴虐の首魁の一人は、元弁護士の某応召中尉であった。部下を使って宿営所に女を拉し来っては暴行を加え、悪鬼のごとくふるまった。何か言えばすぐ銃剣をがちゃつかせるので、危険で近よれないらしかった。
私は三省事務局長会議でたびたび陸軍側に警告し、広田大臣からも陸軍大臣に軍紀の粛正を要望した。軍中央部は無論現地軍を戒めたに相違なかったが、あまりに大量な暴行なので、手のつけようもなかったのであろう、暴行者が、処分されたという話を耳にしなかった。当時南京在留の外国人達の組織した国際安全委員なるものから日本側に提出された報告書には、昭和一三年一月末、数日間の出来事として、七十余件の暴虐行為が詳細に記録されていた。最も多いのは強姦、六十余歳の老婆が犯され、臨月の女も容赦されなかったという記述は、ほとんど読むに耐えないものであった。その頃、参謀本部第二部長本間〔雅晴。戦後、バターン死の行進の責任を問われて死刑〕少将が、軍紀粛正のため現地に派遣されたと伝えられ、それが功を奏したのか、暴虐事件はやがて下火になっていった。
これが聖戦と呼ばれ、皇軍と呼ばれるものの姿であった。私はその当時からこの事件を南京アトロシティーズとよびならわしていた。暴虐という漢字よりも適切な語感が出るからであった。
日本の新聞は、記事差し止めのために、この同胞の鬼畜の行為に沈黙を守ったが、悪事は直ちに千里を走って海外に一大センセーションを引き起こし、あらゆる非難が日本軍に向けられた。わが民族史上、千古の汚点、知らぬは日本国民ばかりなり、大衆はいわゆる赫々たる戦果を礼賛するのみであった。》(p.332-333)
(続く)