トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

産経抄は「人でなし」か

2017-10-26 07:12:09 | 事件・犯罪・裁判・司法
 10月19日の産経抄。

日本を貶める日本人をあぶりだせ 10月19日

 日本の新聞記者でよかった、と思わずにはいられない。地中海の島国マルタで、地元の女性記者が殺害された。車に爆弾を仕掛けるという残虐な犯行である。彼女は「タックスヘイブン」(租税回避地)をめぐる「パナマ文書」の報道に携わり、政治家の不正資金疑惑を追及していた。マルタとはどれほど恐ろしい国か。

 ▼今年4月に発表された「報道の自由度ランキング」では47位、なんと72位の日本よりはるかに上位だった。ランキングを作ったのは、パリに本部を置く国際ジャーナリスト組織である。日本に対する強い偏見がうかがえる。一部の日本人による日本の評判を落とすための活動が、さらにそれを助長する。

 ▼米紙ニューヨーク・タイムズに先日、「日本でリベラリズムは死んだ」と題する記事が載っていた。日本の大学教授の寄稿である。安倍晋三首相の衆院解散から現在の選挙状況までを解説していた。といっても、随所に左派文化人らしい偏った主張がみられる。

 ▼憲法をないがしろにして軍事力の強化を図る首相の姿勢は、有権者の支持を得ていない。最大野党の分裂のおかげで自民党が勝利するものの、政治はますます民意から離れていく、というのだ。米国人の読者が抱く日本のイメージは、民主主義が後退する国であろう。

 ▼特定の政治的主張だけを取り上げる、国連教育科学文化機関(ユネスコ)には、困ったものだ。いよいよ問題だらけの慰安婦関連資料の登録の可能性が強まっている。田北真樹子記者は昨日、登録されたら脱退して組織の抜本改革を突きつけろ、と書いていた。

 ▼そもそも国連を舞台に、実態からかけ離れた慰安婦像を世界にばらまいたのは、日本人活動家だった。何ということをしてくれたのか。


 このコラムを猛然と批判するツイートをいくつも見た。

 朝日新聞長岡支局の伊丹和弘記者は、

《同業者が殺された事件のコラムの書き出しが「日本の新聞記者でよかった」かよ(唖然
忘れたか? 日本では既に30年前に職場で新聞記者が殺されるテロ事件が起きてるんだよ!
→ 【産経抄】日本を貶める日本人をあぶりだせ》

と自社の記者が殺された赤報隊事件を例に挙げて批判。

 ある方は、

《報道の自由ランキングは新聞記者が権力と仲良く安全に暮らしてる順位ではないのだが、反骨の海外女性記者が殺害された話を「日本の新聞記者でよかった、と思わずにはいられない」から書き始めて『日本を貶める日本人をあぶりだせ』という表題に仕上げる産経新聞すげえな…》

《「日本では記者が殺されていないのに、なぜ報道の自由ランキングが低いのでしょうか?」という疑問に自分で答えちゃってるよねこの記事。同じジャーナリストが殺されたニュースを「我が国の記者でよかった!」から書き始める報道なんか見たことねえよ。どんな日本スゴイだよ。》

と述べた。

 また別の方は、次のように。

《産経新聞をはじめとする右派メディアに顕著な傾向だが、自分達が弾圧される側に立つ事はないどころか弾圧する側に回るという謎認識は、如何にして生まれるのか》

 ジャーナリストの江川紹子氏は、

《人でなし、とはこんなものを書く人のことを言うのだろう 。人の無残な死を、同業の者としてまずは悼むということが、せめてできないのだろうか…。→【産経抄】日本を貶める日本人をあぶりだせ 10月19日》

《それに、日本で悲惨な事件や事故、災害があって、人々が強い衝撃を受けている時に、他国の新聞が「あぁ、日本人じゃなくてよかった。日本はひどい国だ」と書いたら、どんな気持ちか、産経抄にはそれくらいの想像力すらないのか。サイテー。》

と述べていて、私はそこまで言うのかと思った。

 ちょっと落ち着かれてはどうだろう。

 この産経抄に不快感をもつ人が出るのはわかる。
 また、コラムとしての出来は率直に言って悪いと思う。天声人語などとは比較にならない。
 だが、産経抄の文章はいつもだいたいこんなレベルである。

 マルタの女性記者が殺害されたこと、「日本の新聞記者でよかった」と思ったことがこのコラムの本題ではない。本題は、そのようなマルタの「報道の自由度ランキング」がわが国よりはるかに上位であったこと、それはわが国に対する強い偏見によるものであり、「日本を貶める日本人」がそれをさらに助長しているという指摘が、このコラムの本題だ。
 女性記者殺害は、話のマクラにすぎない。

 女性記者の殺害を、どうやったら「日本を貶める日本人」批判につなげようという発想が出てくるのか、産経抄子の思考回路はどうなっているのかとは思うが、きっと年がら年中、「日本を貶める日本人」をどうやって叩くか、そういったことばかりを考えているような人なのだろう。

 まあ、国民の中には、世の中の悪いことは全て安倍政権のせいだとばかりに政権批判に血道を上げている人もツイッターではよく見かけるので、こんな人がいても不思議ではない。

 また、「あぶりだせ」とは刺激的にしようと編集者が付けたタイトルだろう。本文のどこにもそんなことは書かれていない。

 ある批判者の「自分達が弾圧される側に立つ事はないどころか弾圧する側に回るという謎認識」というのは意味不明である。産経抄は別に女性記者の殺害を賞賛しているわけでもないし、自分たちが弾圧する側であると受け取れるような箇所もないからだ。むしろ産経は、例えば共産党政権が成立すれば、自分たちが弾圧されることをよく理解していることだろう。
 謎なのはこのツイ主の認識である。

 ところで、こういう殺害事件に接して、伊丹記者や江川氏は、日本の記者やジャーナリストでよかったとは思わないのだろうか。
 ロシアや中国をはじめ、ジャーナリストが殺害されたり拘束されたりする国は世界にたくさんある。わが国がそうでないのは幸いだし、この状態を守らなければならないとは思わないのだろうか。
 それとも、思ったとしても、このように口にするのは不謹慎であるということか。

「他国の新聞が「あぁ、日本人じゃなくてよかった。日本はひどい国だ」と書いたら、どんな気持ちか」
って、どんな気持ちになるというのだろう。別に何とも思わないんじゃないだろうか。
 顔も知らない他国の人間がわが国のことをどう言っているかが、そんなに気になるものだろうか。
 何を言っていようが、お互い様ではないだろうか。
 それに、産経抄は、まさにそのように「日本はひどい国だ」と言われることを恐れて、そのための材料を提供している一部日本人を非難しているのではないのだろうか。

 NGO「国境なき記者団」が発表している「報道の自由度ランキング」については、実態と乖離しているのではないかとの批判もある。
 その算出方法を BuzzFeed News が報じているのを、最近ある方のツイートで知った。
 180カ国のメディア専門家、弁護士、社会学者に87の質問のアンケートが配られており、その結果を基に独自の数式により算出するそうだが、詳細は公表されていない。
 以前、江川氏自身も、72位という数字には疑問を呈していたはずである。

 「人でなし」とは、人間の姿かたちをした者に対して、お前を人間とは認めないと言うときに用いる言葉である。
 人の皮をかぶった、鬼か獣というわけである。
 マルタの爆殺犯をそう呼ぶなら、まだわからないでもない。しかし、産経抄の内容はそれに値するほどひどいものだろうか。
 江川氏は、まずはその死を悼めと述べているが、短文のコラムなんだから、主要でない部分を省略することは有り得る。先に述べたように、マルタの話はマクラにすぎない。
 産経抄は、殺害された女性記者を何かしら貶めているだろうか。政治家の不正を追及するなんて、バカなことで命を落としたものだと述べているだろうか。そんな箇所もない。
 にもかかわらず、その死に対して哀悼の意を明記せず、持論に利用したというだけのことで、「人でなし」とまで罵ってしまう。
 江川氏の人権感覚はそんなものかと残念に思った。


朝日新聞「演説中のヤジ、選挙妨害?」を読んで

2017-10-24 11:09:02 | マスコミ
 私は17日に「選挙演説の妨害を称揚する朝日新聞」という記事を当ブログに書いたが、18日付朝日新聞朝刊の社会面には、こんな記事が載っていたので、注目して読んだ。

演説中のヤジ、選挙妨害?

 公選法基準なし■静穏に聞く権利は

 街頭演説にヤジはつきものかと思いきや、最近は「選挙妨害だ」と弁士たちが反応する場面が目立つ。街頭演説は黙って聞くべきなのか? 演説中に聴衆が意思を示すのはダメなのか。街頭演説の「作法」とは――。

 「わかったから、黙っておれ!」
 14日、大阪府守口市での街頭演説で、二階俊博・自民党幹事長のこんな声が響いた。演説中、聴衆から「消費税を上げるな」との声が上がり、その後もヤジがやまなかったためだ。
 安倍晋三首相もあちこちでヤジを浴びる。15日の札幌市の街頭演説では「辞めろ」「安倍内閣は金持ちの味方だ」といったヤジが飛んだ。演説中に「やめろ!」というプラカードが掲げられる一方、逆に聴衆から「静かにしろ」などの声が上がることもある。
 演説中のヤジやコールに焦点が当たったのは、7月の東京・秋葉原で安倍首相が発した言葉がきっかけだ。東京都議選の応援演説中に、首相に対する「帰れ」「やめろ」のコールが起こり、首相は「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と返した。
 菅義偉官房長官は記者会見で「妨害的行為があった」と述べたが、小林良彰・慶大教授(政治学)は、「公選法に明確な基準がない以上、マイクを取り上げるなど物理的行為がなければ、選挙妨害とまでは言えないのではないか」とみる。一方で、「聴衆が演説内容を聞くことができなければ、選挙妨害に該当する可能性が高い」(岩渕美克・日大教授=選挙研究)との見方もある。
 演説中のヤジは昔からある。NHKの映像によると、1960年に浅沼稲次郎・社会党委員長が刺殺された演説会には、右翼団体が入りこみ「演説が聞き取れないほど」のヤジを飛ばしていた。古くは明治時代の自由民権運動の際、「各地の演説会では、ヤジや投石が行われ」(高知県宿毛市史)との記録がある。
 とはいえ、政治コミュニケーション論が専門の逢坂巌・駒沢大准教授は「演説を聞きたい人の権利はどうなるのか」と指摘する。「話が聞き取れなくなるほどの集団的なヤジやコールは、演説を静穏に聞く権利をふみにじる」と批判。逢坂さんは秋葉原で首相の演説を聞こうと最前列に陣取っていたが、首相に抗議する人たちが来て、その場からはじき出されたという。

「対応 政治家判断の材料に」

 声を上げる側はどう思うのか。さいたま市の武内暁さん(69)は「有権者の意思を表すのがどうして演説の妨害なんですか?」。秋葉原での首相の演説に友人と駆けつけた。最近の国会答弁を見て、議論が成り立っていないと感じた。「ならば、直接民主主義の手法で、主権者が声で権利を行使する場所があっていい。演説を聞いて欲しいなら『聞いてくれ』と言えばいい。それが対話だ」
 秋葉原で首相に「こんな人たち」と指されたC.R.A.C.(対レイシスト行動集団)の野間易通さん(51)も「そもそも街頭は異論が混じり合う場所。どう対応するかも含めて政治であり、政治家を判断する材料になるはずだ」という。
 さらに野間さんは、「市民が圧倒的な力を持つ権力者に向かって肉声で叫んでいるのに、『静かに聞くべきだ』なんて学校的道徳を持ち出してなぜ断罪できるのか」とも提起する。街頭での政治活動を取材してきたフリーライターの岩本太郎さんは「秋葉原のような『事件』を繰り返しながら、なんとなく答えが定まっていくのが社会というもので、答えも一つではない。演説の聞き方に善悪の線引きができると考えること自体、怖いことだと思う」と話す。 (田玉恵美)


 この記事の問題点は2つある。
 1つは、聴衆が散発的に発する単なるヤジと、組織的な「帰れ」「やめろ」コールや、組織的でなくとも大声でしゃべり続ける行為は違うということ。
 聴衆が演説を聴いていて、ヤジを飛ばしたくなることはあるだろう。それは演説に批判的なものだけでなく、肯定的なものもあるだろう。また、演説の内容などについて周りの人間としゃべりたくなることもあるだろう。そんなものまで否定する必要はない。演説の最中は、映画を見たり講演を聞いたりするときのように、一言もしゃべらず、シーンと静まりかえって拝聴しなければならないなんて、そんな主張は誰もしていない。少々のヤジは、演説それ自体を妨げるものではないからだ。
 だが、組織的な「帰れ」「やめろ」コールや、組織的でなくとも、前回の当ブログの記事で私が引用した、演説中に

《聴衆の前方にいた女性が「憲法9条が平和を守ってきた。どうして変えるのか」などと叫んだ。それでも、首相が演説を続けたところ女性は大声で訴えつづけ》

るような行為は、演説それ自体の妨害だろう。
 今回の朝日の記事は、その点をごっちゃにしている。

 なるほど自由民権運動においてヤジや投石はあったろう。投石にまで及べばそれはもう妨害だろう。自由民権運動はいわゆる壮士に支えられていて、暴力的な部分も多々あった。決してお行儀の良いものではなかった。
 だからといって、こんにちの世の中で、同様の振る舞いをしても許されるのだろうか。

 さいたま市の武内暁さんが
「有権者の意思を表すのがどうして演説の妨害なんですか?」
と問うているのは、意味がわからない。
 有権者の意思表示によって演説の遂行が妨げられるのなら、それは当然演説の妨害だろう。
 声を上げるのが「直接民主主義の手法」だというのも、意味がわからない。
 直接民主主義とは、古代ギリシャのポリスのように、市民が直接政治に参加するというものだ。こんにちでも、憲法改正の際の国民投票や、地方自治における住民投票は、直接民主主義の手法だと言えるが、街頭で首相に対して声を上げることは直接民主主義とは何の関係もないし、そんな「対話」をする「権利」など、憲法のどこにも書かれていない。

 余談だが、「声を上げる側」のもう1人の野間易通さんについては、「C.R.A.C.(対レイシスト行動集団)の」と所属団体を明記しているのに、何故、この武内暁さんについては、何の説明もつけずに、自然発生的に集まった市民の1人であるかのように書くのだろう。
 氏名で検索しただけで、「「九条俳句」違憲国賠訴訟を市民の手で!実行委員会(通称:「九条俳句」市民応援団)」なる団体の代表であるとすぐわかるのだが。

 問題点のもう1つは、選挙のための演説と、単なる政治家の演説をごっちゃにしていることである。
 朝日の記事が挙げている、1960年の浅沼委員長刺殺の時の演説会は、選挙演説ではない。
 武内暁さんも野間易通さんも、秋葉原の安倍首相の演説が選挙演説であったことに触れていない。

 前回も書いたが、選挙は民主制の根幹であり、その自由は最大限に尊重されなければならない。
 選挙演説でない、単なる街頭演説を妨害したとしても、刑法の威力業務妨害罪でやはり処罰の対象になるだろう。だが、その刑罰は、「三年以下の懲役又は五十万円以下の罰金」となっており、先に挙げた選挙の自由妨害罪の「四年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金」の方がより重い。
 それだけ、わが国において、選挙における自由は重んじられているということである。
 今回の朝日の記事には、その視点が見当たらない。
 「直接民主主義の手法」を当然視する者が、間接民主主義の制度である選挙を軽視するのは別に不思議ではない。しかし、朝日新聞がそんなことでいいのだろうか。

 この朝日の記事は、「演説中のヤジ、選挙妨害?」とクエスチョンマークを付け、妨害に当たるとする側と当たらないとする側の両論併記のかたちをとっているが、「公選法基準なし」「対応 政治家判断の材料に」という見出しといい、それぞれの人数及び記事中の割合といい、記事の重心は明らかに、妨害に当たらないとする側に置かれている。
 朝日がこのような記事を載せていたことを、私はよく覚えておくことにしよう。
 そして、仮に、野党候補の選挙演説が妨害されたり、あるいは「反差別」や反原発、反米軍基地などを訴える示威行動が妨害されたりしたときに、朝日がそれをどのように評するか、注目することにしよう。

選挙演説の妨害を称揚する朝日新聞

2017-10-17 07:10:28 | マスコミ
 10月11日付け朝日新聞朝刊の社会面には、連載記事「「安倍発言」を歩く」 2017衆院選」の第1回が載っていた。
 見出しは「こんな人たちに… 見えた分断」。
 7月1日に安倍首相がJR秋葉原駅前で都議選の応援演説をした際の「こんな人たちに負けるわけにはいかない」発言を引き出した、「帰れ」「やめろ」コールに加わった60代の女性の話が載っている。

 10日、安倍晋三首相は福島市で演説していた。
 「みんなで安心できる日本をつくっていきたい」
 千葉県のヨガ講師、60代の由美子さんはテレビで演説を聞いて思った。
 「だけど、『こんな人たち』の声は聞かないんでしょ……」
 由美子さんは当初、フルネームでの記事掲載をログイン前の続き了承していたが、政権を批判した知人に脅迫状が届いたという話を聞き、怖くなった。
 政治への関わりはさほどなかった。7月、東京・秋葉原で首相のあの言葉を聞くまでは。
 シングルマザーだった30代のころ、息子2人を育てるため、朝から晩まで働いた。清掃員や飲食店員など三つの仕事を掛け持ち、「生活に必死だった」という当時、投票に行った記憶はない。自身の年金は月額にして3万7千円程度。必死で税金を納めてきたのに、年金だけでは暮らせない。休日返上で働いていた宅配会社勤務の息子も残業代をカットされた末に退職した。
 そんなとき、首相が7月1日に秋葉原で都議選の応援演説をすると知人から聞いた。初めて「政治がおかしい」と思いをぶつけたいと考えた。「無駄かな」と気持ちは揺れたが、首相に直接声を伝えるチャンスは今しかないと決意し、向かった。
 選挙カーの首相がマイクを握った。プラカードや横断幕を掲げた人たちが、首相への「帰れ」コールを始めた。その後も「やめろ」コールが途切れなかった。由美子さんは遠巻きに見つめた。すると、通りすがりのサラリーマンや子連れの人も足を止める。「おかしいじゃないか!」「もうやめてくれ!」。いつしか由美子さんも声をあげていた。
 そのとき、首相が自分たちのほうを指さして声を張り上げた。
 「こんな人たちに負けるわけにはいかない!」
 由美子さんは言葉を失った。「やっと声をあげたのに。この人は私たちの暮らしを守ってくれないんだ」。空しくなった。
 「やめろ」コールを続けた内装業の井手実さん(37)は「国民は言いたいことがたくさんあるけど、全部は伝えられない。だから『安倍やめろ』で意思表示した」という。
〔後略〕
(貞国聖子)


 選挙演説はいつから国民が政治家に「声をあげ」る場所になったのか。
 選挙演説は、選挙の立候補者の人物や主張を有権者に広く知ってもらうためのものである。反対派が政治家と団体交渉する場ではない。
 そして、選挙演説はただの街頭演説とは違う。その妨害は法律で禁止されているというのに。

 と思っていたら、12日付け朝刊の政治面には、「首相 聴衆に「法律守って」 9条改正への抗議 「選挙妨害」の声に呼応と題して、こんな記事が。

衆院選で街頭演説していた安倍晋三首相が12日、新潟市内で聴衆の女性から憲法9条の改正について抗議され、「選挙は民主主義の原点だから、しっかりと法律を守っていこうじゃありませんか」と呼びかける一幕があった。女性による抗議が、公職選挙法に定める「選挙の自由に対する妨害」にあたるとの考えを述べたとみられる。

 首相が同市内の商店街で街頭演説をしていた際、聴衆の前方にいた女性が「憲法9条が平和を守ってきた。どうして変えるのか」などと叫んだ。それでも、首相が演説を続けたところ女性は大声で訴えつづけ、聴衆の男性が「選挙妨害するな」と声を上げた。聴衆から男性に拍手があがり、首相は「皆さん、ありがとうございます」と述べ、法律を守ろうと呼びかけた。

 首相は7月の東京都議選で、東京・秋葉原で街頭演説をした際、聴衆の一部から「帰れ」コールを受け、「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と反論して批判を浴びた。
(永田大)


「女性による抗議が、公職選挙法に定める「選挙の自由に対する妨害」にあたるとの考え」
とあるところを見ると、朝日新聞としては、安倍首相はそう考えているが、そうでない考え方も有り得ると見ているということなのだろうか。
 
 公職選挙法には次のようにある。

(選挙の自由妨害罪)
第二百二十五条 選挙に関し、次の各号に掲げる行為をした者は、四年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金に処する。
一 選挙人、公職の候補者、公職の候補者となろうとする者、選挙運動者又は当選人に対し暴行若しくは威力を加え又はこれをかどわかしたとき。
二 交通若しくは集会の便を妨げ、演説を妨害し、又は文書図画を毀棄し、その他偽計詐術等不正の方法をもつて選挙の自由を妨害したとき。
〔後略〕


 これを読めば、個別具体的な事例をどう判断するかは別として、一般論としては、選挙演説の妨害が法律違反であることは、誰の目にも明らかであろう。
 朝日新聞は、何故この条文を引用しないのだろうか。
(同じ新潟での首相発言を取り上げた産経新聞のネット記事では、条文を引用している)

 私は朝日新聞の購読者だが、「こんな人たち」発言を批判する記事はたくさん見たが、その原因となった「帰れ」コールについて、選挙妨害だと指摘する意見を見た覚えがない。
 これでは、また同じような事態が繰り返されかねない。

 選挙は民主制の根幹であり、その自由は最大限に尊重されなければならない。
 安倍首相に反対する人がいるのはかまわない。大いに反対意見を表明すればよい。だが選挙演説を妨害してはならない。他人の発言の場で、その発言を封じてはならない。
 そんな単純なことが理解できない人を批判することを「分断」だと朝日新聞が煽るのなら、私は「分断」した批判者の側に付きたい。
 それは結局、選挙を尊重するか、直接行動を尊重するかの差であろうから。