msn産経ニュースの「from Editor」というコーナーで、6月初めに大野敏明編集委員が菅内閣退陣論に関連して首相公選制を呼びかけていることを最近知った。
「三権分立は立法府、行政府、司法府がそれぞれ対等に独立していて、相互に干渉されないことを前提としている。」
私はこの箇所を読んで「首をひねってしまった」。
三権分立とは三権が独立していて、相互に干渉することを前提とした制度である。
立法府、行政府、司法府が独立することにより権力の集中を防ぐとともに、相互に干渉し合うことにより各権力の行き過ぎをも防ぐとされている。
国会は首相を指名し、また衆議院は内閣不信任を議決できる。そして法案の審議や国政調査権の行使により内閣を監視する。これに対して内閣は衆議院の解散権を有し、また国会を召集できる。こんなことはわざわざ説明するまでもあるまい。
大野は小学校で何を習ったのだろうか。
それはさておき、大野の言うとおり、たしかにわが国では立法府の議員が行政府の長(首相)を務めている。
しかしこれは、いわゆる議院内閣制であり、議会政治の元祖である英国をはじめ、ドイツ、ベルギー、オランダ、スペインといった民主制の国々で広く採用されている政治体制だ。
フランスは大統領を国民の直接選挙で選ぶが、首相は下院の多数派から選出される。
大野が矛盾を感じるのは自然だが、首相を指名するのは国会なのだし、首相の暴走に対しては衆議院が内閣不信任を決議することができる。一方内閣には衆議院の解散権があるのだから、三権分立に反しているとは言えない。
それはそうだが、大統領は単なる行政府の長ではない。国家元首、すなわち国家の顔でもある。
何故国家元首を公選で選ぶ必要があるのか。それは言うまでもなく、米国が民衆によって人工的に成立した国家であり、君主というものが存在しなかったからだ。
そして、何故米国がわが国に大統領制を「押し付け」なかったかと言えば、それはわが国の天皇制と内閣制の伝統を尊重したからに決まっているではないか。
ポツダム宣言にも「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ」とあるように、連合国はわが国に民主制の要素は皆無だったと見ていたわけではない。
仮に敗戦に伴い天皇制が廃止されていれば、わが国も米国と同様に大統領を国民の選挙で選ぶようになっていたかもしれない。大野はその方が良かったというのだろうか。
首相は、行政府の長ではあるが、大統領とは異なり国家元首ではない。内閣を構成する閣僚たちのトップであるにすぎない。
したがって、議会が議員の中から指名するか、大統領が指名するものであって、首相公選制というのは一般に存在しない。
20世紀の終わりにイスラエルが導入したが、意図したように機能せず数年で廃止されたと聞く。
6月11日付け同紙の1面コラム「産経抄」も首相公選制を説いている。
AKB48の「総選挙」に絡めて、
と述べている。
これはもはや社論なのかもしれない。
私は首相公選制に大いに反対である。理由は3つある。
1つは、ポピュリズムが跋扈する危険性が高いからである。具体的に言えば、田中真紀子のように、行政官としての資質を欠くにもかかわらず、不思議と大衆受けする人物が当選するような事態が心配だからだ。もちろん、増税などの国民に負担を強いる政策を掲げて選挙で勝つことは困難になるだろう。
2つめは、天皇制との兼ね合いである。国民が直接選挙により首相を選ぶのなら、それは実質的に大統領、即ち公選による国家元首と同じである。それでは伝統に依拠する君主の存在する意味がなくなる。君主制を存続させたまま首相公選制を導入することも制度的には可能だろうが、そんな珍妙な国は世界に存在しない。
そして3つめは、仮に首相として不適格であることが就任後に判明しても、辞めさせることが極めて困難となるおそれがあることだ。
公選による大統領は、自ら辞任する場合を除き、その任期を全うすることが当然とされている。それは、要するに任期付きの君主のようなものだからだろう。
米国や韓国では議会による大統領の弾劾制度があると聞く。だがこれは大統領に犯罪やそれに準ずるような非行があった場合に実施されるようだ。単なる失政程度では発動されないのだろう。とすると、現在のわが国衆議院の内閣不信任決議よりもハードルははるかに高いということになる。
もっともこれも、首相は公選としながらも、現行と同様の内閣不信任制度を維持するという解決策が有り得る。しかし、衆議院が内閣を不信任できるのは、もともと衆議院が内閣を指名するからである。首相を国民が直接選ぶのなら、その国民の意向を無視して議会が一方的に不信任を突きつけられるというのは原理的におかしい。
したがって、公選によりいったん首相になってしまえば、鳩山由紀夫だろうが菅直人だろうが、4年なら4年といった任期を全うするまで在任することになる可能性が高い。大野や産経抄子はそれでもいいのだろうか。
ところで、自民党政権時代に産経新聞が首相公選論を唱えていたとは記憶にない。
自民党政権時代には議院内閣制を問題視せず、「下野」して民主党政権になってから問題視するのはどういうわけだろうか。
これも形を変えた一種の倒閣運動なのだろうか。それとも素朴な英雄待望論なのだろうか。
仮に次の総選挙で自民党が大勝して政権を奪回し、衆参の「ねじれ」も解消したとしたら、産経が首相公選論に対してどのような態度をとるのか、見ものだと思う。
首相は国民が選ぼう
2011.6.1 07:38
西岡武夫参院議長が、菅直人首相に退陣要求を突き付けた。先々週のことである。西岡氏は議長のため、党籍を離れているが、本来は民主党員である。西岡氏以外の民主党員からも退陣要求が出たり、離党して、不信任案に賛成するといった議員が出るなど、菅さんも自分の党からの造反にあい、つらい立場だろう。
参院は衆院とならぶ立法府である。その立法府の長が、行政府の長に「辞めろ」と言ったのだから、すさまじい話ではある。西岡氏の退陣要求に対して、自民党など野党は拍手喝采だが、当然のことながら、民主党執行部は苦り切っている。その中で、こんな議論があった。
「立法府の長が、行政府の長に退陣を要求するのは、三権分立の思想からいかがなものか」というのである。三権分立は立法府、行政府、司法府がそれぞれ対等に独立していて、相互に干渉されないことを前提としている。
私はこの議論を聞いて、首をひねってしまった。行政府の長である菅首相は衆院議員なのである。なぜ、立法府の議員が首相という、行政府の長をしているのだろうかと。日本国憲法第67条には、首相は国会議員の中から選ぶと規定されている。また、同第68条には、国務大臣の過半数は国会議員でなくてはならない、とされている。要するに、日本国憲法は行政府のトップ集団を立法府から選ぶことを規定しているのである。われわれは小学校で三権分立は民主主義の根幹と教えられた。だが、民主憲法の規定は三権分立に反することを定めている。これは矛盾ではないか。
戦前、日本の首相は元老や重臣によって選ばれ、天皇から任命された。国民も議員も首相を選べなかった。このためGHQ(連合国軍総司令部)が国会議員から選ぶように憲法に規定したのである。
ところが、憲法を押し付けた米国の大統領は国会議員ではない。国民の直接投票で選ばれている。
いま、多くの国民が菅政権に大きな不安感を抱いている。辞めてほしいと思っている人も多い。しかし、菅首相を選んだのはわれわれ国民ではない。選挙で彼に投票した東京18区の選挙民は、立法府の議員として彼を選んだのにすぎないのである。国民が政治に責任をもつためにも、憲法を改正して首相を直接選べるようにすべきではないだろうか。大臣と議員の重任もやめた方がいい。真の三権分立のためにも。(編集委員 大野敏明)
「三権分立は立法府、行政府、司法府がそれぞれ対等に独立していて、相互に干渉されないことを前提としている。」
私はこの箇所を読んで「首をひねってしまった」。
三権分立とは三権が独立していて、相互に干渉することを前提とした制度である。
立法府、行政府、司法府が独立することにより権力の集中を防ぐとともに、相互に干渉し合うことにより各権力の行き過ぎをも防ぐとされている。
国会は首相を指名し、また衆議院は内閣不信任を議決できる。そして法案の審議や国政調査権の行使により内閣を監視する。これに対して内閣は衆議院の解散権を有し、また国会を召集できる。こんなことはわざわざ説明するまでもあるまい。
大野は小学校で何を習ったのだろうか。
それはさておき、大野の言うとおり、たしかにわが国では立法府の議員が行政府の長(首相)を務めている。
しかしこれは、いわゆる議院内閣制であり、議会政治の元祖である英国をはじめ、ドイツ、ベルギー、オランダ、スペインといった民主制の国々で広く採用されている政治体制だ。
フランスは大統領を国民の直接選挙で選ぶが、首相は下院の多数派から選出される。
大野が矛盾を感じるのは自然だが、首相を指名するのは国会なのだし、首相の暴走に対しては衆議院が内閣不信任を決議することができる。一方内閣には衆議院の解散権があるのだから、三権分立に反しているとは言えない。
ところが、憲法を押し付けた米国の大統領は国会議員ではない。国民の直接投票で選ばれている。
それはそうだが、大統領は単なる行政府の長ではない。国家元首、すなわち国家の顔でもある。
何故国家元首を公選で選ぶ必要があるのか。それは言うまでもなく、米国が民衆によって人工的に成立した国家であり、君主というものが存在しなかったからだ。
そして、何故米国がわが国に大統領制を「押し付け」なかったかと言えば、それはわが国の天皇制と内閣制の伝統を尊重したからに決まっているではないか。
ポツダム宣言にも「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ」とあるように、連合国はわが国に民主制の要素は皆無だったと見ていたわけではない。
仮に敗戦に伴い天皇制が廃止されていれば、わが国も米国と同様に大統領を国民の選挙で選ぶようになっていたかもしれない。大野はその方が良かったというのだろうか。
首相は、行政府の長ではあるが、大統領とは異なり国家元首ではない。内閣を構成する閣僚たちのトップであるにすぎない。
したがって、議会が議員の中から指名するか、大統領が指名するものであって、首相公選制というのは一般に存在しない。
20世紀の終わりにイスラエルが導入したが、意図したように機能せず数年で廃止されたと聞く。
6月11日付け同紙の1面コラム「産経抄」も首相公選制を説いている。
AKB48の「総選挙」に絡めて、
▼AKB総選挙に比べ、盛り上がりそうもないのが、「ポスト菅」を選ぶ民主党代表選だ。候補に挙げられている皆さんには失礼だが、投票権を買ってでも1票を入れたい政治家が見当たらぬ。
▼与野党ともに宰相候補が見当たらないのは、国会が議員の中から首相を選ぶ議院内閣制がうまく機能しなくなった証しでもある。首相を有権者が直接選ぶ首相公選制を導入する機は熟した。公選制は、独裁者を生む危険性もあるが、案ずるより産むがやすし。国民は少なくとも今の首相よりましな人物を選ぶはずだ。
と述べている。
これはもはや社論なのかもしれない。
私は首相公選制に大いに反対である。理由は3つある。
1つは、ポピュリズムが跋扈する危険性が高いからである。具体的に言えば、田中真紀子のように、行政官としての資質を欠くにもかかわらず、不思議と大衆受けする人物が当選するような事態が心配だからだ。もちろん、増税などの国民に負担を強いる政策を掲げて選挙で勝つことは困難になるだろう。
2つめは、天皇制との兼ね合いである。国民が直接選挙により首相を選ぶのなら、それは実質的に大統領、即ち公選による国家元首と同じである。それでは伝統に依拠する君主の存在する意味がなくなる。君主制を存続させたまま首相公選制を導入することも制度的には可能だろうが、そんな珍妙な国は世界に存在しない。
そして3つめは、仮に首相として不適格であることが就任後に判明しても、辞めさせることが極めて困難となるおそれがあることだ。
公選による大統領は、自ら辞任する場合を除き、その任期を全うすることが当然とされている。それは、要するに任期付きの君主のようなものだからだろう。
米国や韓国では議会による大統領の弾劾制度があると聞く。だがこれは大統領に犯罪やそれに準ずるような非行があった場合に実施されるようだ。単なる失政程度では発動されないのだろう。とすると、現在のわが国衆議院の内閣不信任決議よりもハードルははるかに高いということになる。
もっともこれも、首相は公選としながらも、現行と同様の内閣不信任制度を維持するという解決策が有り得る。しかし、衆議院が内閣を不信任できるのは、もともと衆議院が内閣を指名するからである。首相を国民が直接選ぶのなら、その国民の意向を無視して議会が一方的に不信任を突きつけられるというのは原理的におかしい。
したがって、公選によりいったん首相になってしまえば、鳩山由紀夫だろうが菅直人だろうが、4年なら4年といった任期を全うするまで在任することになる可能性が高い。大野や産経抄子はそれでもいいのだろうか。
ところで、自民党政権時代に産経新聞が首相公選論を唱えていたとは記憶にない。
自民党政権時代には議院内閣制を問題視せず、「下野」して民主党政権になってから問題視するのはどういうわけだろうか。
これも形を変えた一種の倒閣運動なのだろうか。それとも素朴な英雄待望論なのだろうか。
仮に次の総選挙で自民党が大勝して政権を奪回し、衆参の「ねじれ」も解消したとしたら、産経が首相公選論に対してどのような態度をとるのか、見ものだと思う。