トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

本の処分に思うこと(2)

2023-02-26 18:05:28 | 身辺雑記
 前回の記事で引用した、中野善夫氏が『本の雑誌』2023年2月号で取り上げていた、清水幾太郎『本はどう読むか』(講談社現代新書、1972)。
 清水幾太郎には『論文の書き方』(岩波新書)、『私の文章作法』(中公文庫)といった著作があるのは知っていた(前者は未読)が、こんな新書があって、しかもこんにちまで版を重ねているとは不覚にも知らなかった。
 早速購入して読んでみた。
 すると、こんなことが書いてある。

心の掃除をする
 本に埋もれて生きるというのは、昔から高尚な生き方とされている。そこには、世俗の富貴を求めず、ひたすら真理を憧れて生きて行く人間の姿がある。そこまで考えなくても、今まで買い求めてきた書物、熱心に読んで来た書物、これらの書物には自分の精神の歴史があるとは言えるであろう。そういう本を片端から売ってしまったほうがよいと言っているのではない。しかし、自分の精神が或る成長を遂げた結果、自分との間にもう有機的な関係のないような書物、極端な言い方をすれば、一種の垢のような書物、そういう書物が身辺に蓄積されていることがある。直ぐ読まなくても、新しい本を買うと、環境に新しい要素が加わり、それが新鮮な刺戟になる、という意味のことを前に述べた。それが、知らぬ間に、私たちを新しい勉強に誘い込む。似たことは、垢のような書物についても言える。垢のような本も、それはそれで、私たちの環境を組み立てている要素であり、私たちが手に取って読まなくても、そこに存在するというだけで、私たちに語りかけ、私たちの心を古い軌道にとどめる働きをする。「夢の島」ほどではないにしろ、ひどく汚染された環境の中に私たちが住み慣れていることがある。時々、環境を調査して、垢のような、塵芥のような本を売り払った方がよい。もちろん、今は垢であり塵芥であっても、買った時には、私たちの心に新鮮な刺戟を与える書物であったのであるから、いざ、売るとなると、誰でも小さな決意が必要になる。もう一度、繰り返して言うが、私は、無理に売ることを勧めているのではない。考えた末、占いと決心したのなら、それも結構である。いけないのは、ズルズルベッタリの態度である。結果として、売ることになったにせよ、売らないことになったにせよ、小さな決意を通して、環境の清掃だけでなく、心の掃除をした方がよい。〔中略〕お金のことは知らないが、本は、溜まるほどよいとは限らない。(p.118-120)


 中野善夫氏が引用していたように、確かに清水は、本は借りるのではなく自分で買うべきものだと言い、今すぐ読まないとしても気になる本はまず買っておくべきと言ってはいるが、天に届くまで積み上げろとは言っていない。時には売り払うことも必要だと言っている。

 そういえば、昔々読んだ呉智英『読書家の新技術』(朝日文庫)も、新陳代謝を促すため本を売ることを勧めていた。
 10年ぐらい前に買って何度も読み返している岡崎武志『蔵書の苦しみ』(光文社新書、2013)も、
「蔵書は健全で賢明でなければならない」
「溜まりすぎた本は、増えたことで知的生産としての流通が滞り、人間の体で言えば、血の巡りが悪くなる。血液サラサラにするためにも、自分のその時点での鮮度を失った本は、一度手放せばいい」
「下手をすると〔蔵書は〕三万冊ぐらいあるのかもしれない。年に一千冊の本を触るなり、読むなり、一部を確かめたりしたとしても、すべきを触り終わるには三十年かかる。これからも本は増えていくに決まっているし、いくらなんでも、それは健全ではないだろう」(p.26-27)
と述べていた。
 同じような話だな。

 このたび清水『本はどう読むか』を読んでみて、本の処分を進める意志をますます強くした。


本の処分に思うこと

2023-02-19 14:05:14 | 身辺雑記
 一昨年の後半から、何度か本をまとめて段ボールに詰め、宅配買取で売却している。

 それまで、本の処分といえば、重いのを我慢して古書店やブックオフに持っていって売るか、値段の付かなそうなものをひもでしばって紙ごみの日に出すか、その二通りしかしていなかった。

 私は、蔵書家というほどではないが、一般的な目で見れば、まあまあ本を持っている方だと思う。
 本棚は複数あるのだが、常にいっぱいで、床に本が積まれている状態である。
 転居をしたこともあるが、もう20年以上こんな状態である。
 際限なく床積み本が増えて足の踏み場もないということにならなかったのは、さすがにある程度は処分していたからだが、それでも家人から非難されながらも、床積み本がなくなることはなかった。

 しかし、一昨年あたりから、これではいかんと思うようになった。
 理由は3つある。

 1つめは、美観を損ねること(今更…)。
 2つめは、本がどこにあるかわからなくなること。買ったことをうっかり忘れて、同じ本を二度買ってしまったことも何度かある。
 そして3つめは、新しい本を買っても本棚に並べることができないため、本の新陳代謝が妨げられ、知見のアップデートができなくなることだ。

 本棚に並べている本のうち、既に読んだものは、感動したり、指摘の鋭さにうなされたりした、思い出深いものばかりだ。
 しかし、私がそれらを読んだのは、多くは10~20年、あるいはそれ以上前のことで、出版もその頃かそれ以前で、現代では評価が見直されているものもあるだろう。
 また、当時私にとって重要なテーマであったが、今となってはもうあまり興味を引かれないものもある。
 私は何らかの学者でも教員でも専門家でもジャーナリストでもライターでもない。蔵書を仕事に活用することはない。ただ趣味で読書をしているだけの人間である。そんな者がこれほどの蔵書を抱え込んでいる必要が果たしてあるのか。
 そして、ネットの発達により、古書の入手は容易になり、電子書籍も普及し、資料や文献を入手する手段も増えた。
 紙の本にこだわる必要がどこまであるのか。

 それに、私はもうン十台半ばとなった。この歳であとどれだけの本を読んで、いかほどのことを成し得るというのか。

 そんな思いから、それまで以上に大量に本を処分していくことにした。

 それまで、私にとって、古書店やブックオフでの処分は、直接持っていくことしか考えておらず、それが高いハードルになっていたのだが、今どきのことだからネットでも買取をやっているのかと調べたところ、ブックオフや類似の業者が多数行っており、自宅に集荷に来てもらうこともできると知り、それでハードルだいぶ下がった。
 さらに、一点一点買い取り価格を確認することもでき、業者によってかなり価格に差があることもわかった。

 そうして、これまで数百冊宅配買取に出し、値段が付かないものは紙ごみに出してきた。
 それでもまだ本棚はいっぱいで、床積み本の山もまだ残っており、さらに処分を進める必要がある。
 これまでも吟味して取捨選択してきたが、いよいよ処分するのがかなり惜しまれる部類に入っていくことになる。
 
 『本の雑誌』2023年2月号が「本を買う!」特集をやっていた。
 中野善夫氏が本を買うことの大切さを力説している。
 こんまりさんのベストセラー本の一節「その「いつか」は永遠に来ないのです」に対して、
しかし、あなたはまだ若い。買って四十年経ってから読む本があることを知らないだけである。永遠とはそんなに短い時間ではない。

と述べている。
 そしてさらに、清水幾太郎のロングセラー『本はどう読むか』(講談社現代新書、1972)を引用して、本は図書館などで借りるのではなく、自分で買うべきものであるとし、また中野氏が同書の教えを真に受けて、読めもしない洋書の小説を買って手元に置いていたら、そのうち読めるようになり、やがて翻訳の仕事もするようになり、「三十年前、四十年前に買った本が重要な資料となった」という。
 中野氏は述べている。
今日明日読む本だけを買っていてはそれこそ駄目だ。いつか読む本を今買いなさい。迷うことなく、今この瞬間に。そして、積みなさい。天に届くまで。


 そりゃあそういうこともあるだろう。そういう人もいるだろう。
 本を置くスペースが十分にあるのなら、あるいはそれらの本が仕事の資料となることがあるのなら、それもいいだろう。

 私は、四半世紀ほど前にPCゲームに興味があって、海外のPCゲーム雑誌を時々買っていた(PCゲーム専門店や紀伊國屋書店で、そうした雑誌が売られていた)。
 付録のCD-ROMでゲームを遊んだりはしたが、それらの雑誌を読みこなすことはできなかった。
 また、やはり四半世紀ほど前に購入したまま読んでいなかった本を、最近、本棚の整理をしたときに読んでみたこともある。
 しかし、そのテーマは既に私の中では色あせていたため、大した読後感を得ることはできなかった。

 人間の能力には限界があるし、環境にも制約がある。
 そして、本を読むべき時機というのも、やはり重要ではないか。

 とりあえず、私が今興味をもっているテーマについて、ある程度まとまった冊数の本が必要だが、それを手元に置くには、ほかの本を処分しなければならない。
 昔読んで感銘を受けた本には、確かに愛着がある。再読することでその気持ちを甦らせることもできるだろう。
 だが、それを再読する必要性が、私にとって、果たしてどれだけあるだろうか。あるとして、それは、今興味をもっているテーマについての本を手元に置く必要性を上回るものなのか。
 仮に手放したとしても、必要があれば、それを再度入手することは容易ではないか。これまでン十年生きてきて、手放した本のうち、再度入手したものがどれほどあるだろうか。
 そう思って、処分を進めていくしかないだろう。


東日本大震災雑感

2011-03-13 01:02:58 | 身辺雑記
 あまりの被害の大きさに、すぐにはその全貌がわからない。
 少しずつ、少しずつ、恐るべき実態が明らかになっていく。
 おそらく、今後も死者は増えるのだろう。
 その報道を見ながらも、自らは何もできない無力感。
 阪神・淡路大震災の時もそうだった。

 それにしても、被害が広範囲に及んでいるのに加え、町や集落が「壊滅」と表現されている。
 これは、わが国において、関東大震災以来最大規模の自然災害となるのかもしれない。

 11日に報じられた菅直人首相に対する在日韓国人による政治献金問題もこれで吹っ飛んだ。
 今のところ、野党も政治休戦を表明しているようだ。
 これまた、阪神・淡路大震災と同様。

 あの時、山花貞夫らが進めていた新党結成の動きが実現していれば、その後の政局も大きく変わっただろうに。
 今は言っても詮無きこと。

 とにかく、復興に全力を尽くすということになるのだろう。
 そしてまた、赤字国債の大盤振る舞いだろうか。

 しかしこれでは、消費税増税どころではない。
 またしても先送りか。
 いつになったら財政健全化への道筋をつけられるのだろうか。

 これで、当面は(少なくとも今年いっぱいは?)解散も総辞職もないだろう。
 もっとも、復興事業すらまともにできないとなれば、いよいよ国民から総スカンを食らうおそれもあるが。

四天王寺の古本市

2007-05-02 01:08:30 | 身辺雑記
 4月26日~30日に開かれていた、「四天王寺 春の大古本祭り」に先日行ってきた。
 最近は、年に春と秋の2回開かれている。参加店舗も多く、遠方から足を運ぶだけの価値はあると思う。

 最寄り駅は、大阪市営地下鉄谷町線の四天王寺前夕陽ヶ丘駅。

 昔の駅名は「四天王寺前」だったが、地元の要望で「夕陽ヶ丘」が加えられた。
 なお、「天王寺」も、元々「四天王寺」の略だそうだ。

 四天王寺は、聖徳太子が開いたとされる寺。その後天台宗の影響下に置かれ、南北朝時代や戦国時代には度々戦火にみまわれたという。江戸時代に再建されたが、大阪大空襲により多くの建物が灰燼に帰したとも。
 戦後は天台宗から独立して「和宗」という独自の宗派を開いている。和宗の「和」は十七条憲法の「和を以って貴しとなす」の「和」だそうだ。
 歴史のある寺には違いないのだが、率直に言って、一般の古寺には見られない独特の雰囲気があるように思う。

 
 北側にあるこの「中之門」から入った。

 
 左手に何だか妙な墓地が・・・。


 北鐘堂。参拝者が鳴らす鐘の音が始終境内に鳴り響いている。

 四天王寺には亀がうじゃうじゃいる池がある。境内の案内図にも「亀の池」と記されているが、由来はよくわからない。

 
 この奥の建物は、江戸時代に再建されたものだという。


 晴天で気持ちよさそうな亀たち。


 上に同じ。

 子亀も泳いでいたので、この池で繁殖しているのだろうか。
 しかし、亀の産卵は陸上で行われるはずだが、この池にはこういった台のほかに十分な陸地はないように思えるが・・・。
 それとも、てっぺんのあの砂地で産卵するのか? 他の亀に押しつぶされそうな気もするが・・・(雀も砂浴びに来ていたし)。
 それに、池とは名ばかりの水たまりなので、十分な餌が確保できないような気も。

 亀は、ミシシッピアカミミガメ(ミドリガメの成体)ばかりだった。
 時々、公園の池などで見る亀も、ほとんどがミシシッピアカミミガメだなあ。
 もうしばらくしたら、イシガメはもちろん、クサガメも絶滅危惧種になってしまうのかも。
 あるいは、ミシシッピアカミミガメがブラックバスなみに駆除されたりとか。


 亀はともかく、古本市。


 境内にテントがたくさん。


 2時間強ほどうろつきました。


 戦後に再建された五重塔と金堂があるのですが、まだ行ったことはありません(拝観料が要ります)。


 正門近くには弘法大師の像があり、


親鸞聖人の像もある。独自の宗派とはいえ、不思議な寺です。

 
 これが正門。


 鳥居。右の石碑には「大日本佛法最初四天王寺」と刻まれています。
 周辺には仏具店などもいくつかあります。

 古本市のいいところは、何より、ふだん店舗では見られないような本が惜しげもなく並べられていること(価値は別として)。
 店によっては、あまり売れなさそうな本はハナから店頭に出さなかったり、店内の書棚の整理が悪くて一覧できないところがあるので。
 戦前の本ともなると、特に店頭には出にくい傾向があるように思います。
 最近、戦前に出版された政治関係の本に興味があるので、古本市にはなるべく行くようにしています。
 古書としての価値は、大したことはないものがほとんどですが。

 この日の収穫の一部。








 いつ読めることだろうか。