前回の記事で引用した、中野善夫氏が『本の雑誌』2023年2月号で取り上げていた、清水幾太郎『本はどう読むか』(講談社現代新書、1972)。
清水幾太郎には『論文の書き方』(岩波新書)、『私の文章作法』(中公文庫)といった著作があるのは知っていた(前者は未読)が、こんな新書があって、しかもこんにちまで版を重ねているとは不覚にも知らなかった。
早速購入して読んでみた。
すると、こんなことが書いてある。
中野善夫氏が引用していたように、確かに清水は、本は借りるのではなく自分で買うべきものだと言い、今すぐ読まないとしても気になる本はまず買っておくべきと言ってはいるが、天に届くまで積み上げろとは言っていない。時には売り払うことも必要だと言っている。
そういえば、昔々読んだ呉智英『読書家の新技術』(朝日文庫)も、新陳代謝を促すため本を売ることを勧めていた。
10年ぐらい前に買って何度も読み返している岡崎武志『蔵書の苦しみ』(光文社新書、2013)も、
「蔵書は健全で賢明でなければならない」
「溜まりすぎた本は、増えたことで知的生産としての流通が滞り、人間の体で言えば、血の巡りが悪くなる。血液サラサラにするためにも、自分のその時点での鮮度を失った本は、一度手放せばいい」
「下手をすると〔蔵書は〕三万冊ぐらいあるのかもしれない。年に一千冊の本を触るなり、読むなり、一部を確かめたりしたとしても、すべきを触り終わるには三十年かかる。これからも本は増えていくに決まっているし、いくらなんでも、それは健全ではないだろう」(p.26-27)
と述べていた。
同じような話だな。
このたび清水『本はどう読むか』を読んでみて、本の処分を進める意志をますます強くした。
清水幾太郎には『論文の書き方』(岩波新書)、『私の文章作法』(中公文庫)といった著作があるのは知っていた(前者は未読)が、こんな新書があって、しかもこんにちまで版を重ねているとは不覚にも知らなかった。
早速購入して読んでみた。
すると、こんなことが書いてある。
心の掃除をする
本に埋もれて生きるというのは、昔から高尚な生き方とされている。そこには、世俗の富貴を求めず、ひたすら真理を憧れて生きて行く人間の姿がある。そこまで考えなくても、今まで買い求めてきた書物、熱心に読んで来た書物、これらの書物には自分の精神の歴史があるとは言えるであろう。そういう本を片端から売ってしまったほうがよいと言っているのではない。しかし、自分の精神が或る成長を遂げた結果、自分との間にもう有機的な関係のないような書物、極端な言い方をすれば、一種の垢のような書物、そういう書物が身辺に蓄積されていることがある。直ぐ読まなくても、新しい本を買うと、環境に新しい要素が加わり、それが新鮮な刺戟になる、という意味のことを前に述べた。それが、知らぬ間に、私たちを新しい勉強に誘い込む。似たことは、垢のような書物についても言える。垢のような本も、それはそれで、私たちの環境を組み立てている要素であり、私たちが手に取って読まなくても、そこに存在するというだけで、私たちに語りかけ、私たちの心を古い軌道にとどめる働きをする。「夢の島」ほどではないにしろ、ひどく汚染された環境の中に私たちが住み慣れていることがある。時々、環境を調査して、垢のような、塵芥のような本を売り払った方がよい。もちろん、今は垢であり塵芥であっても、買った時には、私たちの心に新鮮な刺戟を与える書物であったのであるから、いざ、売るとなると、誰でも小さな決意が必要になる。もう一度、繰り返して言うが、私は、無理に売ることを勧めているのではない。考えた末、占いと決心したのなら、それも結構である。いけないのは、ズルズルベッタリの態度である。結果として、売ることになったにせよ、売らないことになったにせよ、小さな決意を通して、環境の清掃だけでなく、心の掃除をした方がよい。〔中略〕お金のことは知らないが、本は、溜まるほどよいとは限らない。(p.118-120)
中野善夫氏が引用していたように、確かに清水は、本は借りるのではなく自分で買うべきものだと言い、今すぐ読まないとしても気になる本はまず買っておくべきと言ってはいるが、天に届くまで積み上げろとは言っていない。時には売り払うことも必要だと言っている。
そういえば、昔々読んだ呉智英『読書家の新技術』(朝日文庫)も、新陳代謝を促すため本を売ることを勧めていた。
10年ぐらい前に買って何度も読み返している岡崎武志『蔵書の苦しみ』(光文社新書、2013)も、
「蔵書は健全で賢明でなければならない」
「溜まりすぎた本は、増えたことで知的生産としての流通が滞り、人間の体で言えば、血の巡りが悪くなる。血液サラサラにするためにも、自分のその時点での鮮度を失った本は、一度手放せばいい」
「下手をすると〔蔵書は〕三万冊ぐらいあるのかもしれない。年に一千冊の本を触るなり、読むなり、一部を確かめたりしたとしても、すべきを触り終わるには三十年かかる。これからも本は増えていくに決まっているし、いくらなんでも、それは健全ではないだろう」(p.26-27)
と述べていた。
同じような話だな。
このたび清水『本はどう読むか』を読んでみて、本の処分を進める意志をますます強くした。