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「不法領得の意思」について補足

2008-05-25 21:53:56 | ブログ見聞録
 18日に「グリーンピース・ジャパンは窃盗罪を犯したか?」という記事をアップしたところ、「ろ」さんという方から、次のようなコメントをいただいた。


《仰るように、最終的に不法領得の意思を認めるか否かはともかく、
問題意識を持つことが重要だと思います。

この問題を考える際には、
判例において、各々の意思を広範に認める傾向にあるということと、
この要件は毀棄罪との区別のためのメルクマールであるということに注意する必要がありますね。

この問題に関しては、
前田雅英・「刑法各論講義」198頁以下を一読されてはいかがでしょうか?
※本自体は私は好きではありませんが、この分野については比較的詳細な記述だと思います。

お節介かもしれませんが…》


 また、この問題を扱っていた、zombiepart6さんのブログ「ギロニズムの地平へ」の「グリーン・・・」という記事に先の記事のトラックバックを送ったところ、zombiepart6さんの所の常連であるKABUさんから次のようなコメントをいただいた。


《深沢さん>

横レス失礼します。で、不法領得の意思?

あのー、判例も実務も「不法領得意思不要説」ですがそれが何か?
それと、本件の行為は意思必要説も不法領得の意思を認めると思いますがそれがなにか?

意思必要説においては不法領得の意思は「構成要件的故意」なのですが、グリーンピース側弁護士の言う「形式的には窃盗のようだが」というのは、通常の刑法総論の体系的理解を前提にすれば、(もし、彼等が意思必要説を取る論者であるとしても)グリーンピース側弁護士さえ同意思の存在を認めたことになると思うのですが、それが何か?

ということで、不法領得意思は、本事案では犯罪の成立の是非にはあまり影響がないと思いますよ。》


《Zombieさん>

「不法領得の意思」は「権利者を排除し他人のものを自己の所有物と同様に、その経済的用法に従いこれを利用し又は処分する意思」(大審院判決大正4年5月21日)とされ、上でのコメントとは違い、刑法の教科書には「不法領得の意思」を窃盗罪の成立要件とするのが判例・通説と書いてあると思います。けれど、実務では異なり、また、学説分類作業の中でも実質「不法領得の意思は不要」というのが現状。

つまり、理論的には「不法領得の意思」は、毀棄・隠匿罪と窃盗罪を区別するための、あるいは、「使用窃盗」を不可罰にするための(あくまで)論理的なメルクマールではありますが、実際、使用窃盗の成立が裁判で争そわれたことはなく実務では「無用の概念」(某本元刑法の司法試験委員!)なのです。よって、具体的に「不法領得の意思」とは何かと聞かれても、実は、答えようがないのが実情。けれども、本件では「食べちゃって」いるのだから「不法領得の意思」の要不要はもう吹っ飛んじゃっているのですよ(笑)》


 先日、「ろ」さんの勧めに従って、前田の本を読んでみた。さらに他の解説書やコンメンタールの「不法領得の意思」に関する箇所にも簡単に目を通してみた。それでもう少しわかったことがあるので、それらについて補足するとともに、KABUさんのコメントについて触れておく。

 その前に念のため断っておくが、私が先の記事で述べたのは、「不法領得の意思」という点から見て、今回のグリーンピースの行為は、窃盗罪に当たると明白には言い切れないのではないかという疑問にすぎない。
 私が、グリーンピースの行為は窃盗罪に当たらないという立場を採っているのではない。
 また、グリーンピースが今回の件についてそのように主張しているのかどうかも私は知らない。
 私はただ、グリーンピースが形式的には窃盗だが違法性はないと主張していると聞いて、そんなもん窃盗に決まってるだろと思ったものの、窃盗には「不法領得の意思」が必要とされていることを思い出し、その観点から、窃盗罪が成立しないと主張しうる余地があるのではないかと考えただけだ。

 さて、前田の本その他を読んでみたところ、大体以下のようなことがわかった。

1.窃盗罪が成立するには「不法領得の意思」が必要であるとするのが判例である。学説上も、必要説が従来からの通説であるが、不要説も有力に唱えられている。
2.「不法領得の意思」は、
(1)自ら所有権者として振る舞う意思
(2)物の経済的(本来的)用法に従って利用・処分する意思
の2つに分けて考えることができる。(1)は使用窃盗(一時的に使用した後返却する目的で占有を侵害する行為)を不可罰として窃盗罪と区別するためのメルクマール(指標)、(2)は毀棄・隠匿罪を窃盗罪から区別するためのメルクマールとしてして機能する。
3.使用窃盗について、判例は、一時使用の後返却する意思があれば基本的には不可罰としてきた。乗り物を、乗り捨てるつもりで一時使用する行為については、返却する意思を欠くとして窃盗罪の成立を認めてきた。しかしその後、自動車の一時使用について、数時間自己の支配下に置く意思があった以上、返却の意思があったとしても不法領得の意思があるとして、窃盗罪の成立を認めるなど、必ずしも返却の意思を絶対視しない判例が出ている。
4.単に毀棄・隠匿する目的で占有を侵害する行為について、判例は、不法領得の意思を欠くため窃盗罪は成立せず、毀棄・隠匿罪が成立するとしてきた。他人を陥れるために、その管理している重要な物品を隠匿する行為などがそれに当たる。しかしその後、選挙において、特定の候補者の氏名を記入して投票に混入する目的で投票用紙を奪った行為につき、不法領得の意思を認めるなど、必ずしも物の経済的用法にこだわらない判例が出ている。
5.「不法領得の意思」必要説に立つとしても、その意思の範囲を幅広く認めることにより、結論的には「不法領得の意思」不要説と変わらない判例が出る傾向にある。したがって、「不法領得の意思」は、学問的な検討課題としてはともかく、判例上はその重要性を失いつつある。

 だとすると、仮にグリーンピースが、私が先の記事で述べたように、鯨肉を食べることそれ自体を目的として奪ったのではないから、「不法領得の意思」はなく窃盗罪は成立しないと主張したとしても、鯨肉の横領を立証しようとする目的があったことをもって、「不法領得の意思」アリとみなされて、窃盗罪が成立すると判断されるということになるのだろうか。
 それはそれでもっともな話だし、そうあるべきだろう。

 で、KABUさんがzombiepart6さんの所のコメントでおっしゃりたかったのも、本質的にはそういうことなのだと思うし、それは理解できる。
 ただ、それにしてはあまりにどうかと思う箇所がいくつかあるので、指摘しておく。
 
《あのー、判例も実務も「不法領得意思不要説」ですがそれが何か?》

 そんなことないでしょ。
 判例は、不法領得意思必要説だと聞きますよ。で、判例に基づくのが実務というものじゃないですか?
 不法領得意思不要説に立つ判例があるのなら、挙げてみてください。

《それと、本件の行為は意思必要説も不法領得の意思を認めると思いますがそれがなにか?

意思必要説においては不法領得の意思は「構成要件的故意」なのですが、グリーンピース側弁護士の言う「形式的には窃盗のようだが」というのは、通常の刑法総論の体系的理解を前提にすれば、(もし、彼等が意思必要説を取る論者であるとしても)グリーンピース側弁護士さえ同意思の存在を認めたことになると思うのですが、それが何か?》

 それはおかしいでしょ。
 「形式的には窃盗のようだが」という一言をもって、グリーンピース側弁護士が、今回の件が窃盗の構成要件を満たしていると考えていると見る根拠が何処にあります?
 「社会通念上は窃盗に見えるかもしれないが……」といった程度の趣旨かもしれないでしょ。

《「不法領得の意思」は「権利者を排除し他人のものを自己の所有物と同様に、その経済的用法に従いこれを利用し又は処分する意思」(大審院判決大正4年5月21日)とされ、上でのコメントとは違い、刑法の教科書には「不法領得の意思」を窃盗罪の成立要件とするのが判例・通説と書いてあると思います。けれど、実務では異なり、また、学説分類作業の中でも実質「不法領得の意思は不要」というのが現状。》

 その前のコメントの「判例も実務も「不法領得意思不要説」です」と矛盾しませんか?

《つまり、理論的には「不法領得の意思」は、毀棄・隠匿罪と窃盗罪を区別するための、あるいは、「使用窃盗」を不可罰にするための(あくまで)論理的なメルクマールではありますが、実際、使用窃盗の成立が裁判で争そわれたことはなく実務では「無用の概念」(某本元刑法の司法試験委員!)なのです。よって、具体的に「不法領得の意思」とは何かと聞かれても、実は、答えようがないのが実情。けれども、本件では「食べちゃって」いるのだから「不法領得の意思」の要不要はもう吹っ飛んじゃっているのですよ(笑)》

「使用窃盗の成立が裁判で争そわれたことはなく」
って、そんなことはないでしょ。ありますよ。
最判昭26.7.13
東京高判昭和28.7.6
神戸簡判昭34.12.8
京都地判昭51.12.17
最決昭55.10.30
札幌地判平5.6.28
など、多数あるようですが。

 どの司法試験委員が何をおっしゃっているか知りませんが、仮に使用窃盗の成立が裁判で争われることがないとしても、あなたのおっしゃるように「不法領得の意思」は毀棄・隠匿罪と窃盗罪を区別するためのメルクマールでもあるのですから、「無用の概念」とは到底言い得ないと思うのですが。
 嫌がらせ目的で、他人の所有物を奪って投棄したり隠匿したりする行為は、判例では、「不法領得の意思」を欠くが故に窃盗罪ではなく毀棄・隠匿罪が成立するとされています。「不法領得の意思」が「無用の概念」ならばこれらは窃盗罪となるはずですが、実務ではそうはなっていません。

 先に述べたように、「不法領得の意思」を広範に認めることにより、結論的には「不法領得の意思」不要説と変わらない判例が出る傾向にあることから、「不法領得の意思」は今日的な問題とは言えないということはわかりました。しかしそれをもって、「判例も実務も「不法領得意思不要説」です」と言い切ってしまうのは誤りだと思います。

 KABUさんは、確かに専門的知識は豊富なようですが、不正確な言動が多いように思いました。


西野喜一のアンフェア

2008-05-19 23:01:24 | 事件・犯罪・裁判・司法
 井上薫に引き続き、裁判員制度反対派の見解にもう少し触れようと、西野喜一『裁判員制度の正体』(講談社現代新書、2007)を読んでみた。
 著者は1949年生まれ。東京地裁などに勤めた元判事。本書刊行時の肩書きは新潟大学大学院実務法学研究科教授。

 裁判員制度の様々な問題点がわかりやすく説明されている。
 以前取り上げた井上と異なり、先進国で陪審制や参審制といった国民の司法への参加が行われている点についてもきちんと触れられている。
 その中に次のような記述があった。

参審または陪審という裁判への国民参加を実施している国はまずどこでもそうですが、その国の基本法である憲法で裁判のあり方を規定する際に、参審または陪審に条文上の根拠を与え、これらに憲法違反の疑いが生じないようにしています。日本国憲法が制定、公布される数年前まではわが国も、かなり特殊な形態とはいえ陪審制を実施していました。またこの現行憲法の起草に重要な役割をはたしたのは、世界でもっとも盛んに陪審制を実施していた国(アメリカ)の人たちでした。そういう状況で作られた憲法に国民参加にかんする規定がまったくないということは、この憲法下では裁判の国民参加はなく、裁判は裁判官だけにやらせるつもりだったのだろう、と解釈するのがもっとも素直で合理的な読み方です。》(p.80)(太字は引用者による)

《どうしても裁判への国民参加をやりたい人たちのなかには、憲法に規定がなくても、憲法には国民参加をやってはいけないとも書いていないと言う人もいます。憲法に規定がなくて国民参加をやっている国を探し出してきて、フランスがそうだと言う人もいます。しかし、フランスと日本とではあまりにも状況がちがいます。フランスでの国民参加(最初は陪審。二十世紀半ばに、陪審では偏頗な結論が多いとして、参審に変更)はじつに十八世紀のフランス革命時にさかのぼるもので、二百年以上の歴史を持っているのです。それほどの伝統があれば、何度目かの憲法改正の際(フランスの今の憲法は一九五八年公布)に司法への国民参加にかんする条文が入っていなかったとしても、それはいままでどおりとするという意味だ、と誰しもが思うことでしょう。
 これにひきかえてわが国は、終戦直後に裁判の制度を全面的にあらため、それまでとはまったく異なったシステムにしたのでした。これで憲法に参審、陪審を許す規定がなくては、それはこの憲法下では参審、陪審はやらないという意味だとしか考えられません。フランスでは憲法上の明文がなくて国民参加の一種である参審をやっているのだから、わが国でも憲法上の根拠なく参審、陪審をやってもよいのだ、というのは乱暴な議論だと誰しも思うでしょう。》(p.81~82)

 以上の記述を読んで、読者はどう思われただろうか。

・参審制または陪審制を採るほとんどの国は、憲法で国民の司法への参加について定めている。
・フランスは参審制を採るものの憲法で国民の司法への参加について定めていないが、それは伝統に由来する例外である。

 こう「誰しもが思う」のではないだろうか。私は思った。

 主要先進国とされるG7のうち、米、英、加は陪審制、仏、独、伊は参審制を採っている。
 英、加はコモン・ローの国なので、わが国との直接の比較は適当ではないだろう。米国は憲法で陪審制を定めていると聞く。
 フランスは西野が述べているとおりなのだろう。ではドイツとイタリアはどうだろうか。

 ネットでイタリアの憲法を探してみると、「現代イタリア事典」というサイトに次のようにある。

《共和国憲法第102条第3項は、

「人民が裁判に直接に参加する場合と形式は法律で定める」
と規定しており、人民の司法参加は憲法上の根拠規定を持っている。》

 なるほど西野の言うとおりだ。
 では、ドイツはどうだろうか。

 ドイツの憲法に当たる「ドイツ連邦共和国基本法」の邦訳があった。
 しかし、第9章の司法の章を見ても、それらしき条文は見当たらない。

 きっと、私が何かを見落としているのだろうと、思っていた。

 ところが、先日、雑誌『世界』が裁判員制度の特集を組んでいたので読んでみると、笹田栄司・北海道大学大学院法学研究科教授の「憲法から見た裁判員制度」という論文に、次のように書かれている。

《確かに、明治憲法に最も影響を与えたプロイセン憲法は陪審を規定し、また兼子説が引くワイマール憲法は陪審・参審に関して規定していた。しかし、ドイツ・フランスは現在、参審制を採用するが、憲法上、明示的な規定は置かれていない。両国とも法律で規定しているのである。》

 何だ? ドイツも憲法で国民の司法への参加について定めてはいないのか?

 プロイセン憲法は1850年に制定されたという。1871年のドイツ統一後の憲法のペースとなった。また、大日本帝国憲法制定に当たって参考にされたことでも知られる。
 西野に倣って言えば、ドイツも国民の司法への参加の伝統を有していることになる。1871年のドイツ統一後の憲法やナチス時代にも陪審制や参審制が実施されていたのかはわからないが、それでも、かなりの歴史をもつと言っていいだろう。

 にもかかわらず、何故西野はドイツについて触れないのだろう。
 おそらく、大日本帝国憲法がプロイセン憲法を参考にしたことや、ともに第2次世界大戦の敗戦国であることなど、ある程度の共通点があること、それに、憲法で国民の司法への参加を定めていない国がごく例外的であるという印象を与えておきたかったから、ドイツを挙げなかったのではないだろうか。
 主要先進国の中で大陸法系の4か国のうち、フランスとドイツの2か国が、憲法で国民の司法への参加を定めていないにもかかわらず参審制を実施しているのなら、わが国も改憲なしで参審制と同様の裁判員制度を実施できてもおかしくない。そのような印象を与えるのを防ぐために、敢えてフランスだけを例外的な存在として挙げるにとどめているのではないだろうか。
 しかし、こうした態度は、専門家として極めてアンフェアであろう。
 裁判員制度への賛否は別として、西野はこのような作為によって、本書自体の信頼性を貶めていると思える。

 なお、戦前わが国でも陪審制が行われていたわけだが、西野も井上も触れていないが、大日本帝国憲法に国民の司法参加に関する規定はない。
 だったら、戦前の陪審制は違憲だったのか? まさかそうは言うまい。
 そして、「伝統」を根拠にフランスが憲法で国民の司法参加を定めていないことを不問に付すならば、わが国においても同様の理屈が成り立たないこともないだろう。
 ちなみに、戦前の陪審制を定めた「陪審法」(大正12年4月18日法律第50号)は、戦時下の昭和18年4月1日にその施行が停止されたのみで、法律が廃止されたわけではない。
 また、現憲法下で制定された「裁判所法」の第3条第3項は、

《この法律の規定は、刑事について、別に法律で陪審の制度を設けることを妨げない。》

としている。
 裁判員制度は参審制だから陪審制とは異なるが、いずれにせよ国民の司法参加を現憲法が全く排除していると解釈するのは無理があるように思う。


グリーンピース・ジャパンは窃盗罪を犯したか?

2008-05-18 17:06:06 | 事件・犯罪・裁判・司法
 引き続き、グリーンピースの鯨肉奪取について。

 miracleさんのブログによると、グリーンピースの顧問弁護士は「形式的には窃盗かもしれないが、横領行為の証拠として提出するためで、違法性はない」と話しているという。

 で、私もmiracleさん同様、「形式的も何も、窃盗は窃盗だろ」と思ったのだが、前回の記事を書きながら、まてよと思い直した。
 明白に窃盗罪に当たると言えるだろうか。

 目的が正当であったとしても、それだけで違法性は阻却されない。
 鯨肉横領を告発することが目的だったとしても、それだけで窃盗罪が成立しないというものではない。
 彼らは捜査官でもなく、もちろん裁判所の令状があるわけでもないので、なおさらである。
 また、前回述べたように、盗まれた物を盗みかえしたとしても、窃盗罪は成立する。だから、グリーンピースが言うように、仮にこの鯨肉が調査捕鯨関係者が横領した物だったとしても、だからといってグリーンピースに窃盗罪が成立しないということにはならない。

 しかし、窃盗罪が成立するには、「不法領得の意思」が必要だとされる。
 ウィキペディアの「窃盗罪」の項目に、不法領得の意思について、次のような説明がある。

《不法領得の意思
窃盗罪を含む財産領得罪一般に共通して、主観的構成要件要素として、故意のほかに「不法領得の意思」も必要であると考える説が有力である(記述されざる構成要件、判例・通説)。

不法領得の意思とは、判例及び通説においては、①権利者を排除して他人の物を自己の所有物として振る舞い、②その経済的用法に従い利用又は処分する意思をいう。なお、学説上、いずれかのみを必要とする説、両者とも不要とする説もあり、争いがある。

①権利者を排除して他人の物を自己の所有物として振舞う意思は、解釈上不可罰とされる使用窃盗(他人の物の無断使用)との区別のために必要とされる。すなわち、この要件を必要とする説は、使用窃盗の場合は財物を恒久的に自己の物とする意思に欠けるので、窃盗として処罰されないとする。逆に、この要件を不要とする説は、使用窃盗の不可罰性は可罰的違法性の欠如によって説明できるとする。

②経済的用法に従い利用又は処分する意思は、別罪である毀棄罪(器物損壊罪など)との区別をするため必要とされる。すなわち、この要件を必要とする説は、窃盗にせよ器物損壊にせよ、被害者にとっては財物の利用価値を毀損される点で違法性が同等であるにもかかわらず、窃盗罪が器物損壊罪(法定刑は3年以下の懲役又は50万円以下の罰金)よりも重く処罰されることの根拠は、窃盗罪にはその物から経済的価値を引き出そうとする意思があり、道義的により重い責任非難に値する、という点に求めるほかないと考える(道義的責任論を前提とする)。

不法領得の意思が要件とされる結果、それが欠ける場合(例えば、路上に停車されていた自転車をほんの短時間だけ乗り回すがすぐに返還するつもりの場合や、いやがらせ目的で他人のパソコンを別の場所に隠すつもりの場合)は、窃盗罪は成立しないこととなる。ただし、判例において、各々の意思を広範に認める傾向にあるため、結果的として、不法領得の意思が不要であるとの説と大差がなくなっている。》

 今回の件で、グリーンピースには不法領得の意思があったと言えるだろうか?
 鯨肉の経済的用法とは、当然食べることだろう。また、その目的で売却することだろう。
 これがグリーンピースではなく、単に食べるつもりで、あるいは転売するつもりで奪取したのなら、間違いなく窃盗罪は成立するだろう。
 しかし、グリーンピースの目的は、あくまで調査捕鯨における鯨肉横領の追及にある。今回の鯨肉はその物証とするために奪ったにすぎない。

 ただ、グリーンピースは奪った鯨肉を食べたと聞く。これはおそらく、間違いなく鯨の肉であるかどうかの検証ということなのだろうが、果たして食べる必要があったのか、多くの論者同様私も強く疑問に思う。
 しかし、この食べる行為は、一般に鯨肉を食品として食べるのと、当然意味合いが異なるだろう。食べたことをもって、不法領得の意思があったと主張するのも苦しいように思える。

 一般人にとっては単に食べたり転売したりする目的で奪おうと考えることが不法領得の意思だと言えようが、グリーンピースの場合は、鯨肉であることを検証して告発することが目的なのだから、その目的に沿って奪おうと考えることをもって、不法領得の意思であるという論法も成り立つかもしれない。これもやや苦しいように思えるが。

 こう考えると、現時点で、間違いなく窃盗罪が成立するとスッパリ断言できる事案ではないように思えるのだが、どうだろう。

 私は別にグリーンピースを擁護しているのではない。今回の行為は強く批判されるべきだ。
 窃盗罪が成立しなくとも、食べたことにより器物損壊罪が成立することは免れないだろう。
 奪取した手段如何によっては、建造物侵入罪にも問われることになるだろう。
 ただ、不法領得の意思という点から見て、窃盗罪が成立すると簡単に言い切れるのか、疑問に思えるだけだ。

 前回触れたKABUさんも、法律のプロなら、こういう点に着目すべきではないのかな。

 しかし、今回のような件が窃盗罪に当たらないとしてしまうと、さらに同種の行為を誘発しかねないから、警察や検察や裁判所は、何とか窃盗罪成立に持ち込もうとするんじゃないだろうか。

(関連記事 「不法領得の意思」について補足

(関連記事2 やられたか


あるグリーンピース批判の記事を読んで

2008-05-18 14:37:38 | ブログ見聞録
 最近、Yahoo!ブロガーのKABUさんという人物を知り、ちょっと気になっていた(ブログは「松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG」)。
 昨日、そのブログを見てみると、Jodyさんという方のブログからの転載記事「緑のテロリスト」が掲載されていた。
 例の、調査捕鯨における鯨肉横流し疑惑を追及するためにグリーンピースが配送業者から荷物を奪取した件を批判する記事である。

 そのコメント欄を読むと……このKABUさん、なんだか妙なこと書いてるなあ。

 Jodyさんの、

《盗んだ上に、食べてしまう・・・。
最低の人間ですね。
小学生でも分かります。
間違いなく窃盗罪です。

法務大臣!
コメントを!》

とのコメントに対し、KABUさんは、

《盗んだ以上、その後、食べようが捨てようが、その後の行為は「不可罰的事後行為」と言いまして、窃盗罪の量刑には影響を与えないのですが、まー、世間はそうは受け取らんですわな。本当、馬鹿の上に下品。ひっきょう、教養がないの一言ではないでしょうか。》

とコメントしている。

 不可罰的事後行為とは、その行為を処罰することができないというだけにすぎない。量刑に影響を与えないとは限らない。

 たしかに、窃盗罪により得た物を、その犯人が食べたり捨てたりしても、さらに器物損壊罪が成立することはないとされている。それは、窃盗罪が、占有権に対する侵害ととらえられているからだ。
 占有権とは、その物を占有、つまり事実上支配していることにより発生する権利をいう。所有権と異なり、不法行為による占有であっても占有権は発生する。だから、ある物を盗まれた被害者が、その物が加害者の家にあることを知り、そこに乗り込んで物を取り返したとしても、それは窃盗罪を構成する。
 で、占有権とは、その物に対する支配権であるから、その物をどうしようが占有権者の自由ということになる。だから、その物を食べようが捨てようが、器物損壊罪は構成しない。
 というのが、わが国の刑法の通説・判例であると聞く。

 ただ、被害が回復しうるかどうかというのは、量刑を決める上での重要な判断材料と成り得る。
 仮にグリーンピースがこの鯨肉を完全な形で保管していたなら、グリーンピースが窃盗罪に問われた場合、それが被害者に返還されることになるだろう。それは、今回のように食べてしまった場合よりは、グリーンピースに対して有利な情状としてはたらくだろう。
 だから、「盗んだ以上、その後、食べようが捨てようが」「窃盗罪の量刑には影響を与えない」というKABUさんの主張は誤っている。
 「世間はそうは受け取らん」のはもちろん、司法当局もそうは受け取らないだろう。

 ところで、何でここに不可罰的事後行為の話が出てくるのか、私にはよくわからない。
 Jodyさんがコメントで、「盗んだ上に、食べてしまう・・・間違いなく窃盗罪と器物損壊罪です。」とでも述べているのなら、KABUさんが、いやそうじゃなくて、器物損壊罪は成立しないんだと述べたくなるのはわかる。
 しかし、そうではない。
 KABUさんは、ただ自分の知識をむやみに披露しているにすぎない。

 もう一点。

《不法侵入に窃盗をし鯨肉を食べ、そして妨害(テロ活動)
そして驚いたのがこれらを正当化すること。

あぁ~監獄ぶち込んでやりたいわ。》

というラウルさんのコメントに対し、KABUさんは、

《ラウルさん>

窃盗罪が成立する場合には、「不法侵入」は窃盗罪に「吸収」されますので、刑法的(刑法の罪数論的)には彼等の行為は「1罪」になります。また、「鯨肉を食べる行為」は上で述べたように「不可罰的事後行為」として新たな犯罪にはなりません。》

と述べている。

 たしかに、そのとおりだ。
 刑法では、

第54条 一個の行為が2個以上の罪名に触れ、又は犯罪の手段若しくは結果である行為が他の罪名に触れるときは、その最も重い刑により処断する。

とされており、侵入して盗んだ場合、建造物侵入罪と窃盗罪はこの手段・結果の関係にあるので、「最も重い」窃盗罪で処罰される。
 ただ、裁判などでの罪名としては、建造物侵入罪と窃盗罪の2つの罪名が表示される。処断刑としては1罪だということだ。
 また、窃盗罪だけで処断されるからといって、建造物侵入罪は、あってもなくても同じなのかというと、当然そんなことはない。その分の悪質性も情状面で考慮される。

 で、それがラウルさんのコメントと何の関係があるのだろう。
 ラウルさんは何も建造物侵入罪と窃盗罪の2罪で処断されるべきだと唱えているのではない。ここに罪数論の話を持ち出す必然性が理解できない。
 これも、先のコメントと同様、ただ単に、自分の知識を披露したいだけに思える。
 こういう話をわざわざ人様のコメントに対して持ち出すというのは、いったいどういう神経をしているのだろうか。
 

 KABUさんは法律のプロを自任している方だと聞く(http://stachyose.blog31.fc2.com/blog-entry-8.html や http://blogs.yahoo.co.jp/zombiepart6/41818199.html のコメント欄参照)。
 プロとは果たして、こういう知識の使い方をするものなのだろうか。

 また、こんなコメントもある。

《「不可罰的事後行為」については上で書きましたので、海馬之玄関らしい抽象論を一つ。

思うに、テロリスト集団グリーンピースの頭の中には(というか頭ではわかっているけれど、感覚的には)「調査捕鯨は科学的研究のためのものであり、そこで得られた鯨肉を販売したり食べるのは脱法行為だぁー」という意識があるように思うのですよ。だから、鯨類研究所の正規のライン以外で鯨肉が世の中(=捕鯨船外)に出るのは「違法」だ、と。これは「混獲」(トロール網とかに他の魚と一緒に鯨が取れるケース。尚、鯨は「魚」ではありません!)の鯨肉が市場に出回るのを「違法」と感じる意識にも通じる。実は、IWCの取決めでも国内法でも(DNA資料の収集と保管は義務付けられますが)これは全くの合法行為。こんな感覚のずれが、今回のテロリスト集団グリーンピースの「自爆テロもどきのお笑い」の基底には横たわっている気もします。》

 主張してもいない「意識」を勝手に何だかんだと推測されて、あれこれ言われては、グリーンピースも迷惑なことだろう。


井上薫説への疑問(3)――裁判員制度は違憲か

2008-05-15 23:15:34 | 事件・犯罪・裁判・司法
関連記事

 井上薫『市民のための裁判入門』(PHP新書、2008)によると、裁判員制度は違憲なのだそうである。

《以上のとおり、裁判員制度は、憲法に違反するので、法律上実施することができません。あえて実施すれば、予測不可能な大混乱を引き起こします。
 裁判員制度が憲法違反ということは、今さら、この制度が妥当かどうかを論じる余地はなく、残された道は、制度を廃止するしかありません。これは、裁判員制度の反対あるいは消極という国民の意思にも合致します。裁判員制度の欠陥はたくさんありますが、これらを一々検討するまでもなく、廃止する以外道はないのです。詳しくは、井上薫著『つぶせ!裁判員制度』(新潮新書、平成二〇年)を参照してください。》(p.267)

 しかし、どのように憲法に違反しているのか、その説明が本書では不十分であるとの印象を受けた。
 井上は、裁判員制度の欠陥として、次のような点を挙げる。

1.法令に基づく裁判はできない

《裁判所の構成員九人のうち六人を占める裁判員は、法律の素人なので、この裁判所は、法令に基づく裁判はできません。法律の知識は、裁判員は知らなくても、裁判官が教えてくれるから心配いらないという当局の宣伝文句を耳にしたことがあるでしょう。でも、これは間違いです。なぜなら、裁判員は、法律により、独立して職権を行使することとされている以上、裁判官の説明に従う義務を負わないからです。〔中略〕だから、裁判員制度の下では、法令に基づくことなく死刑に処されることもあるのです。》(p.264)

2.被告人の人権が保障されない

《憲法が手厚く被疑者や被告人の人権を守ろうとしても、裁判員がこれを理解していないのでは、裁判所において、実際にこれら憲法の配慮が活かされることが期待できないのは、火を見るより明らかです。被疑者や被告人の人権は、裁判員制度の下では有名無実となります。〔中略〕被告人は、このような裁判員裁判を拒否し、裁判官だけの裁判所に裁いてもらいたいと願っても、一切許されないのが今の裁判員制度なのです。》(p.265)

3.基準なき裁判

《裁判員の参加した裁判所は、法令に基づく裁判をすることが期待できない以上、裁判の基準を喪失したというほかありません。なぜなら、元来、裁判官も裁判員も、法令に拘束される以外、職権の独立が規定されています。今、法令の拘束を事実上脱したとすると、ほかに裁判の基準は一切ないのです。このような裁判所は、死刑判決を含むあらゆる判決を、一切の基準なしに、思うがまま出すようになるしかありません。ここに、司法権による新たな人権侵害が始まるのです。》(p.265-266)

 しかし、上記のいずれにも、裁判員制度が憲法のどの条文にどう違反しているから違憲だといった具体的指摘はない。

 例えば、憲法は、司法における国民参加といった事態を一切想定していない。もし想定していたとすれば、その点についての言及があるはずだ。日本国憲法制定時に、既に米国では陪審員制度が実施されていた。にもかかわらず、憲法にその旨の規定がないのは、憲法が国民の司法参加を想定していなかったからであり、それを敢えて新設するならば、改憲が必要になるはずである。故に裁判員制度は違憲である――このような見解があると聞く。私はこの見解には与しないが、そういう違憲論が成立しうること自体は否定しない。
 しかし、井上の裁判員制度違憲論は、どうもそういったものですらないように思える。これでは、

《これらを一々検討するまでもなく、廃止する以外道はないのです》

とまでは到底言えないのではないか。

 井上は、上記のように、

《詳しくは、井上薫著『つぶせ!裁判員制度』(新潮新書、平成二〇年)を参照してください。》

と書いている。しかし私は、同書を立ち読みしてみたが、本書における裁判員制度批判を水増ししたものに過ぎないとの印象しか受けなかった。たかがブログ上での批判のためだけに本1冊を購入するほどの金銭的・時間的余裕は私にはないので、以下、本書の記述のみに基づいて、井上の裁判員制度違憲論への批判を試みる。

 井上は、裁判員制度の欠陥として、上記の3点を指摘するが、これには嘘が含まれている。これは、裁判員制度についてある程度の知識がある方なら、誰でも気付くことだろうが。

 裁判員制度を創設した「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」には、たしかに井上が言うように、次のような条文がある。
 
(裁判員の職権行使の独立)
第八条  裁判員は、独立してその職権を行う。

 しかし、このような条文もある。

(裁判官及び裁判員の権限)
第六条  第二条第一項の合議体で事件を取り扱う場合において、刑事訴訟法第三百三十三条の規定による刑の言渡しの判決、同法第三百三十四条の規定による刑の免除の判決若しくは同法第三百三十六条の規定による無罪の判決又は少年法(昭和二十三年法律第百六十八号)第五十五条の規定による家庭裁判所への移送の決定に係る裁判所の判断(次項第一号及び第二号に掲げるものを除く。)のうち次に掲げるもの(以下「裁判員の関与する判断」という。)は、第二条第一項の合議体の構成員である裁判官(以下「構成裁判官」という。)及び裁判員の合議による
一  事実の認定
二  法令の適用
三  刑の量定
2  前項に規定する場合において、次に掲げる裁判所の判断は、構成裁判官の合議による。
一  法令の解釈に係る判断
二  訴訟手続に関する判断(少年法第五十五条の決定を除く。)
三  その他裁判員の関与する判断以外の判断
3  裁判員の関与する判断をするための審理は構成裁判官及び裁判員で行い、それ以外の審理は構成裁判官のみで行う。

 「第二条第一項」とは次のとおり。

(対象事件及び合議体の構成)
第二条  地方裁判所は、次に掲げる事件については、次条の決定があった場合を除き、この法律の定めるところにより裁判員の参加する合議体が構成された後は、裁判所法第二十六条の規定にかかわらず、裁判員の参加する合議体でこれを取り扱う。
一  死刑又は無期の懲役若しくは禁錮に当たる罪に係る事件
二  裁判所法第二十六条第二項第二号に掲げる事件であって、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪に係るもの(前号に該当するものを除く。)

 さらに、次のような条文もある。

(評議)
第六十六条  第二条第一項の合議体における裁判員の関与する判断のための評議は、構成裁判官及び裁判員が行う。
2  裁判員は、前項の評議に出席し、意見を述べなければならない。
3  裁判長は、必要と認めるときは、第一項の評議において、裁判員に対し、構成裁判官の合議による法令の解釈に係る判断及び訴訟手続に関する判断を示さなければならない。
4  裁判員は、前項の判断が示された場合には、これに従ってその職務を行わなければならない。
5  裁判長は、第一項の評議において、裁判員に対して必要な法令に関する説明を丁寧に行うとともに、評議を裁判員に分かりやすいものとなるように整理し、裁判員が発言する機会を十分に設けるなど、裁判員がその職責を十分に果たすことができるように配慮しなければならない。

 つまり、法令の適用はともかく、法令の解釈及び訴訟手続については、裁判員は職業裁判官の判断に従わなくてはならないとされている。
 従って、裁判員が全くのフリーハンドで判決を下せるかのような井上の説明は誤りである。

 さらに、井上は「法令に基づくことなく死刑に処されることもあるのです」と述べるが、そのような事態もありえない。
 まず、次のような条文がある。

(裁判員の義務)
第九条  裁判員は、法令に従い公平誠実にその職務を行わなければならない。

 それでも、裁判員が法令に従わずに重罰を科そうとする場合はどうするのか。
 それは、評決が、職業裁判官を含む過半数の意見により決められるとされていることで防止される。

(評決)
第六十七条  前条第一項の評議における裁判員の関与する判断は、裁判所法第七十七条の規定にかかわらず、構成裁判官及び裁判員の双方の意見を含む合議体の員数の過半数の意見による。
2  刑の量定について意見が分かれ、その説が各々、構成裁判官及び裁判員の双方の意見を含む合議体の員数の過半数の意見にならないときは、その合議体の判断は、構成裁判官及び裁判員の双方の意見を含む合議体の員数の過半数の意見になるまで、被告人に最も不利な意見の数を順次利益な意見の数に加え、その中で最も利益な意見による。

 したがって、仮に裁判員5名が死刑を主張し、裁判官3名+裁判員1名が死刑に反対したとしたら、それだけで多数決により死刑判決が言い渡されるということにはならない。

 さらに、井上は全く触れていないが、裁判員制度による裁判が行われるのは、1審だけである。控訴審、上告審は職業裁判官だけで行われる。
 だから、井上が言うような、「被告人は、このような裁判員裁判を拒否し、裁判官だけの裁判所に裁いてもらいたいと願っても、一切許されない」ということはない。

 井上は、裁判員は職業裁判官と違って法令を知らないから、法令に従うことは期待できない。だから裁判員を拘束するものは事実上何もなく、違法判決が有り得ると説く。
 しかし、法令を知っている職業裁判官が、法令に従わずに違法判決を下さないという根拠は何処にあるのか。
 現に、法令違反を理由に控訴審で覆るケースは多々あるのではないか。

 裁判員制度に様々な問題点があるというのは確かだろう。しかし、とりあえずはやってみても差し支えないレベルには達していると私は思う。
 裁判員制度導入の背景には、主要先進国の中で、国民の司法参加制度が設けられていないのはわが国だけであるという批判があったと聞いている。井上はこの点についても何も触れていない。
 他の国々で行われているからといって、必ずしもその全てをわが国でも同様に実施しなければならないとは思わない(例えば、死刑廃止は世界の大勢だと聞くが、私は死刑に賛成だ)。だからといって、わが国の国情に合致しないとは言い切れないものを、むやみに排撃するというのもどうかと思う。
 やってみて、不具合があれば改めればいいのではないかというのが、私の考えだ。
 それではその不具合により人権侵害を被った者はどうなるという批判があるだろう。それはそれなりの補償をすればよい。そんなリスクを恐れて現状維持に留まるだけでは改革はできない。
 同じ自由民主主義体制を採る他の先進国にできて、何でわが国にできないことがあろうかという思いから、私は裁判員裁判制度導入を支持している。
 そして、井上の裁判員制度批判とは、いわゆる「ためにする批判」ではないかとの印象が強い。


井上薫説への疑問(2)――尊属殺重罰規定違憲判決違法論について

2008-05-12 22:41:52 | 事件・犯罪・裁判・司法
関連記事

 かつて、わが国の刑法には尊属殺人罪が設けられていた。

刑法第200条 自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス

 現在の刑法からはこの条文は削除されている。
 削除のきっかけとなったのは、1973年4月4日の最高裁大法廷判決である。この判決が、刑法第200条は憲法第14条に定める法の下の平等に反し違憲無効であるとしたため、以後政府は刑法第200条を死文化し、尊属殺についても刑法第199条の通常の殺人罪を適用するようになった。そして刑法第200条は1995年の刑法改正(口語化)に伴い削除された。
 この判決は、最高裁による初の違憲判決として著名なものである。しかし井上薫『市民のための裁判入門』(PHP新書、2008)によると、井上の蛇足判決理論から見て、この判決は最高裁の越権行為による違法の産物であって、何ら判例と見なすべきものではないという。
 どういうことだろうか。

 「死刑又ハ無期懲役ニ処ス」といっても、情状などにより減軽される余地があるので、実際に判決で言い渡される刑罰は必ずしも死刑か無期懲役に限られていたわけではない。
 しかし、減軽しても懲役3年6月が下限だった。執行猶予は懲役3年以下でないと付けられないので、実刑とせざるを得ない。この点で、通常の殺人罪に比べて尊属殺人罪は著しく不平等であるとされたわけだ。

 この判決が下される前は、最高裁は刑法第200条は合憲であるとの立場をとっていた。それが一転したのは、本件事案が極めて特殊で、被告人に情状酌量の余地が多々あると判断されたからにほかならない。
 井上は、こうした事情を一通り説明した上で、次のように述べる。
 
《しかしそれなら、本件限りの特殊な判決をすれば足りることになります。つまり、尊属殺人罪を本件のような被告人の情状が極端によいという特殊事情のある事案について適用することは、憲法の定める平等原則に違反すると判断すれば足りたのです。こう判断すれば、本件では、尊属殺人罪の適用はできなくなり、普通殺人罪の適用により懲役刑の執行猶予にできたのです。本件以外の尊属殺人事件に適用した場合とか、一般的な尊属殺人罪の合憲性などに一言も言及することなく、本件での情状に見合った妥当な判決はできたのです。
 裁判の本質について改めて考えてみると、裁判は具体的紛争を対象とするものでした。だから、今担当しているその事件について法令をどう適用するかだけを決めれば、判決における判断としては十分だということになります。すると一般論を述べることは、すべて必要がないことになります。裁判における判断は、すべて本件限りの判断である必要があるのです。ここで、前に触れた必要性の原則を適用すれば、判決理由中の一般論はすべてその必要性がなく、蛇足と断定することができます。
 日本国憲法が採用した前述の付随的違憲立法審査制度からしても、憲法判断は、裁判権を行使するのに必要な限度が守られるべきで、この点からも、本件最高裁大法廷の判決のした違憲判断は蛇足であるということができます。》

 果たしてそうだろうか。
 たしかに、井上が言うように、本件に限っては尊属殺人罪ではなく通常の殺人罪を適用すべきであるという判決を下すことも可能だろう。
 しかし、それでは刑法第200条自体は有効なままとなり、その後も尊属殺人罪を適用されるケースも有り得ることになる。
 刑法第200条自体が違憲であり、今後あらゆるケースで適用すべきでないと最高裁が考えたからこそ、違憲判決が下されたのだろう。
 それは、井上が言うように、わが国の違憲立法審査制度から見て不適切な判断なのだろうか?
 なるほど、わが国の裁判所の違憲立法審査制度は、ドイツの憲法裁判所などとは異なり、一般的、抽象的に憲法判断をするのではなく、具体的事件に即して判断する、付随的違憲立法審査制度だとされている。
 しかし、井上のように、違憲判断の効力は具体的事件ただそれのみに及ぶと解するのは、違憲立法審査制度の意義を失わせるものではないだろうか。
 裁判所の違憲立法審査権とは、そもそも三権分立において、司法府が立法府を抑制する役割を果たすものだ。憲法は最高法規であるから、立法府においても憲法に反しない法律を制定することは当然だが、仮に立法府が合憲であると解釈して法律を制定したとしても、司法府がそれは違憲であると判断すれば、その判断が立法府よりも優先するわけである。
 その効力が具体的事件ただそれのみに及ぶと解しては、その事件以外の類似のケースにおいては、違憲判断は無意味であり、それにより不利益を被る者は、個別に訴訟で争わなければならないということになってしまう。それでは最高裁の判例など何ら実質的意味を持たないということにならないか。
 違憲立法審査権は、憲法第81条の次の条文に定められているのだが、
 
《最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。》

この条文から、違憲判断の効力は具体的事件ただそれのみに及ぶという解釈を導き出すのも困難であるように思える。

 一方井上は、次のようにも述べている。

《はっきりいって、違憲立法審査制度は、所期の機能を発揮していないのです。〔中略〕
 このようなことでは、違憲立法審査制度によって人権を守ろうとする憲法体制が、次第に有名無実となってしまうのを、指をくわえてながめているしかありません。
 私は、蛇足判決理論〔中略〕を駆使することで、違憲立法審査制度の機能不全という現実の打開策としようとしています。憲法訴訟の環境全体を見回してもこの理論以外に、有効な打開策はないといえましょう。》

 違憲判断の一般化を違法だと断じる蛇足判決理論が、どのような打開策と成り得るというのか、理解に苦しむ。

    *    *    *    *

 余談だが、井上はこの最高裁大法廷判決を「親殺し普通化判決」(p.136)と述べている。
 親殺し、つまり尊属殺人罪を違憲とし、通常の殺人罪(井上はこれを「普通殺人罪」と呼ぶ)を適用すべきとした判決であるが故のネーミングなのだろうが、何やらこの判決によって、親殺しが普通に行われるようになったかのような、まがまがしい印象を与える表現ではないか。
 また、被告人の情状について、次のように述べている。

《第一審判決は、刑の免除を言い渡しています。刑の免除とは、有罪だが刑は科さないものです。親を殺しながら刑を科さないという以上、よほど被告人情状がよろしかったのでしょう。控訴審判決は〔中略〕懲役三年六月の実刑を科しました。これは、尊属殺人罪の規定を適用して減軽した場合、法律上可能な最も軽い刑です。最高裁は、〔中略〕普通殺人罪を適用して、何と懲役刑の執行猶予を導きました。被告人は、最終的に刑務所に入らなくてもよいということになったのです。以上のとおり、三つの判決とも、何とかして被告人の刑を最も軽くしようとしています。被告人の情状が極端によいのでしょう。
 そこで、被告人の実父殺しに至る経緯を見ると、本件の特殊性が明らかになります。〔中略・経緯の説明が続く〕
 こうした本件事案の特殊性からして、最高裁の裁判官らは、被告人の情状をよく感じ取り、何とか刑務所に入れないように心を砕いたのでしょう。》

 青色で表示した箇所について、先の「親殺し普通化判決」というネーミングとあいまって、冷笑的なイメージを私は受けるのだが、いかがだろうか。少なくとも、この被告人に同情的な表現を、この箇所に限らず私は本書の中から感じ取ることはできなかった。
 蛇足判決理論を安易に援用する人々には、井上がこのようなメンタリティの持ち主であることも知っていただきたいものだ。

 

井上薫説への疑問(1)――裁判官の身分保障について

2008-05-11 22:27:03 | 事件・犯罪・裁判・司法
関連記事) 

 井上薫は、著書『市民のための裁判入門』(PHP新書、2008)において、わが国の裁判官については、一般の国家公務員に比べて手厚い身分保障が定められていることを具体的に示した上で、次のように述べている。

《しかし、これらの身分保障にも欠陥があります。〔中略※1〕
 その筆頭は、下級裁判所の裁判官の任期が憲法上一〇年と定められている点です。〔中略〕
 裁判官の職の不安定さが顕在化するのが、再任のときです。「再任は新任と同じで、再任するかどうかを決める最高裁の指名は、百パーセントの自由裁量だ」というのが、下級裁判所の裁判官の人事権を一手に握る最高裁の見解です。これでは、再任を希望する裁判官は、常日頃から最高裁の意向に沿うように自己規制するとともに、間違ってもその意向に反する判断は絶対にしないように振る舞うほかはありません。
 かくして、再任制度のおかげで、下級裁判所の全裁判官に萎縮効果が発生し、裁判官を拘束するのは法令のみという憲法上の規定は有名無実化し、「法令にあらざる最高裁の意向」に従わざるをえない事態となっているのです。もし、最高裁の意向に反すれば、即不再任が待っているのです。〔中略〕
 大日本帝国憲法下では、裁判官は終身官とされていました。これと比べても、日本国憲法が新たに導入した任期一〇年の制度は、裁判官の独立を大きく損なう点に、正当な注意が払わなければなりません。〔中略〕
 裁判官を拘束するのは、憲法上、法令だけとされているので、裁判官が違法行為をした場合に、人事上マイナスと評価されるのは当然です。これが、再任時の障害となるのもやむをえません。しかし、人事権者が、法令以外に基準を作り、これを満たさないから再任しないという運用をしたら、これは即憲法違反といわなければなりません。なぜなら、再任を希望する裁判官は、人事権者の作った「法令以外の基準」に従わざるをえず、裁判官の独立という憲法上の価値を侵害することになるからです。〔中略〕最高裁は、これまで下級裁判所の裁判官の指名は、自由裁量だと言い切り、そのように運用してきましたが、これは日常的な憲法違反といわなければなりません。》

 では何故、旧憲法下では終身官であった裁判官が、現憲法では任期10年の再任制に変えられたのだろうか。
 井上は、上記の引用文で省略した※1の箇所で、次のように述べている。

《下級裁判所の裁判官の定年は、簡裁判事が七〇歳、ほかは六五歳とされています。それまでの長きにわたって強い身分保障を受けるとなると、裁判官が自己研鑽を怠り、裁判官に必要な資質を欠く事態になるかもしれません。それを回避する趣旨です。》

 そうだろう。もっと端的に言えば、とんでもない判決を連発するような非常識な裁判官であっても、手厚い身分保障のために簡単に罷免することができない。それを補うための制度だろう。
 私はこの制度には充分に意義があると思う。

 では井上は、旧憲法のように終身官に戻せと言うのだろうか。そうは述べていない。何故だろう。
 最高法規である憲法に違反するものだとして最高裁を批判する井上の立場からすると、憲法自体を批判することはタブーなのかもしれない。

 井上は、司法府の頂点に立つ最高裁に権力が集中しすぎていることが問題だと説く。最高裁は、終身裁判所として司法権の頂点にあるばかりか、司法府内の行政権(裁判官の人事権など)、そして司法府内の立法権(裁判所の規則制定権)をも掌握している。このうち司法行政権、特に裁判官の人事権を最高裁が握っていることが、憲法で保障された裁判官の独立を侵害しているとして、次のような改善策を主張している。

《司法行政担当の官庁を第四権として別に作り、その長官(独任制)または委員(委員会制)は、国会の承認を得て内閣が任命することとし、裁判所は、最高裁以下、裁判権の行使のみに没頭することとします。この制度変更は、憲法改正を必要とせず、裁判所法改正だけで実現することができます。
 ただ憲法上、最高裁には、規則制定権、下級裁判所の裁判官の指名権が付与されています。司法行政を最高裁から分離する際には、これらの憲法上の規定をも改正の必要性が出てくるものと思われます。》

 果たしてこれは現実的だろうか。
 司法行政と言うと何やら本来の司法権とは別物のような印象があるが、要はこれは司法府を組織として運営していくために必要なものだろう。それを司法府から分離してしまうことは、およそ現実的とは思えない。
 例えば国会は立法府だ。国会には議員とは別に独自の職員がいる。その人事や会計、施設の管理といったことはさながら立法行政と言えようか。それを国会から分離して別の機関が行うことに何の意味があるだろうか。
 あるいは、政府の各省庁が訓令や通達を出すことは、行政府内の立法と言えるだろう。これを立法だから行政府で行うべきではないとして、別の機関が行うべきなのか。そんなことがそもそも可能なのか。
 井上が言っているのはそういうレベルの話だろう。
 憲法で裁判官には独立が保障されている点で、司法府は、上意下達が当然である他の組織とは異なるのではないかという反論が予想される。しかし、裁判官の独立とは、あくまで裁判の場で保障されるのであって、司法行政には及ばない。現に井上も、こう述べている。

《司法行政の組織が一体性を保って活動していくための規律の原則は、上命下服です。上司の命令に、部下は従わなければならないということです。一般の行政官庁の職員は、皆この上命下服の規律の中にありますから、裁判所もその例外ではないことになります。〔中略〕
 一人の裁判官から見ると、今自分のしようとしている仕事や問題とされている点が、裁判事務に属するのか、司法行政事務に属するのかの区別が重要となります。裁判事務であれば、裁判官の独立の原則により、司法行政は一切口出しができません。口出しすれば、直ちに裁判干渉という憲法違反行為となるわけです。裁判官は、司法行政権者から裁判事務について指図されたとき、これを拒否する法律上の義務を負っています。
 これに対し、司法行政事務であれば、司法行政権者の指図には従わなければなりません。これを拒否すれば、職務上の違法を犯したとして、懲戒処分等の不利益を受けなければなりません。》

 ならば、人事は司法行政事務なのだから、司法行政権者に従わざるをえないのではないか。裁判官の独立は保障されていても、人事権者が裁判官をどう評価するかは人事権者の専権事項であり、それは何ら憲法に違反しないのではないか。

 さらに、上記の引用文中、第四権についてこう述べるが、
 
《司法行政担当の官庁を第四権として別に作り、その長官(独任制)または委員(委員会制)は、国会の承認を得て内閣が任命することとし、》

これでは、わが国のような議院内閣制の下では、司法府の人事権を政府与党が完全に握るということになるのではないか。それで司法府の独立が保てるのか。
 井上は、最高裁批判に狂奔するあまりに、司法府の独立それ自体の維持という、より肝心なことを忘れ去っているように思う。

 井上はまた、裁判官の報酬の額と昇給制、それに最高裁が報酬額を決定するシステムも、裁判官の身分保障における欠陥だと説く。

《判事補になりたての報酬は、日本社会の中でも、十分な尊重を受けているとはいいがたいでしょう。家族がいれば、より早い昇給を願って、最高裁の覚えめでたくなることに汲々とならざるをえません。〔中略〕これでは、裁判官の独立は有名無実となってしまいます。
 〔中略〕司法試験と司法修習を経てきた裁判官の報酬としては、初任給が低すぎるというべきです。昇給制は、人事権を有する最高裁に従属する裁判官を生み出すという構造的欠陥を有します。
 このように、裁判官以外の職務では当然とも思える昇給制も、職権の独立が憲法上求められている裁判官について適用することは、憲法の精神に反する点に注意しなければなりません。》

 では井上はどうすべきだと言うのか。その具体的な言及はない。しかし、これらの記述からは、暗に、初任給はもっと高額にするとともに、昇給制自体も廃止すべきである、それが憲法に定められた裁判官の独立を保つために必要なことなのだとの意図が感じられる。
 果たしてそうなのかどうか。任官したばかりの判事補が一般企業の初任給をはるかに上回る給与を受け取ることが憲法の精神に忠実なのだろうか。あるいは、任官したばかりの判事補と最高裁判所長官とが同額の給与を受け取ることが憲法の精神に忠実なのだろうか。
 蛇足判決理論で井上にシンパシーを示す人々は、彼がこのような特異な裁判官観の持ち主であることにも留意すべきだろう。

井上薫『市民のための裁判入門』(PHP新書、2008)

2008-05-10 16:06:34 | 事件・犯罪・裁判・司法
 『司法のしゃべりすぎ』(文春新書、2005)などの著作で知られる、異色の判事だった(2006年退官)著者の最新刊。
 タイトルどおり、専門家でない一般市民のためにわが国の裁判制度をわかりやすく解説することを目的としている。
 著者の見解はこれまで雑誌の記事などで目にしたことはあるが、まとまった著作を読むのは初めて。

 そもそも裁判とは何であるか、司法権とは何であるかといった原論的な話から始まり、次いで裁判所の権限、裁判官の独立といったわが国の裁判制度の根幹部分について論じた後、裁判所の構成、司法行政の仕組みといったより具体的な話に移り、さらに実際の裁判の手続について簡にして要を得た説明を行い、末尾で来年施行される裁判員制度について触れている。
 この構成には、たしかに著者が言うように工夫が凝らされていると思った。
 ただ、一般市民がある日突然裁判に呼ばれることになったから裁判について知りたいとか、あるいは誰かを訴えたいがどうすればいいかわからないので知りたいとか、そういったニーズに応える本ではない。あくまで、裁判とはどういうものかを概括的に知るための本である。
 記述は平明でわかりやすい。入門書として適当なレベルだと思う。
 
 ただ、一般的な説明の中に、著者独自の見解(それも通説から見てかなり異色の)が、何の断りもなしに盛り込まれている。
 そのため、本書を全く鵜呑みにして、裁判とはこういうものだと信じ込んでしまうと、将来痛い目に遭うような気がする。
 したがって、著者ならではの裁判論を読んでみたいという読者ならともかく、一般市民が裁判制度について手っ取り早く知りたいと思って本書を読むことは、決してお勧めできない。
 「入門」と称する本で、独自の見解を何の注釈もなしに多数盛り込むことは、決して褒められた行為ではないだろう。

 例えば、著者独自の見解に、蛇足判決理論がある。これは、『司法のしゃべりすぎ』などで以前から主張されているもので、ご存知の方も多いだろう。最近では、自衛隊のイラク派遣をめぐる訴訟で、4月17日の名古屋高裁判決が、傍論部分で派遣遣を違憲だとし、この理論の立場から批判を受けたことが記憶に新しい。
 しかし、この判決についての是非はさておき、蛇足判決理論は一般論として果たして妥当なものだろうか。
 著者の言うように、判決理由に蛇足(主文を導き出すのに必要な説明以外の部分)を記載することは許されないと解すると、そもそも傍論というもの自体が許されないということにならないか。
 本書の蛇足判決理論についての説明を読んでみたが、疑問を禁じ得ない。

 私は本書を読んで、昔『お役所の掟』(講談社、1993)という本が売れた宮本政於(みやもと・まさお、1948-1999)という人物のことを思い出した。
 当時、『お役所の掟』を好意的に評価する声が多かったが、私には、自尊心が旺盛で、何でもかんでも自分の思うがままでなければ承知できないという、端的に言ってわがままな人物が、組織人としてうまくやっていけない鬱憤をこういう形で晴らしているという印象が強かった。
 もちろん、宮本が指摘していたようなお役所ならではのおかしな点はあるのだろう。しかし、多かれ少なかれそういったことはお役所に限らずどの組織にでもあるのではないか。そして、だからといってその組織でうまくやっていけない人物が言うことが常に正しいかというと、そうでもないのではないか。
 井上薫についても、同様の印象を受けた。

 本書における著者独自の見解の中で特に気になったのが、次の3点。
・裁判官の身分保障についての見解
・尊属殺重罰規定違憲判決違憲論
・裁判員制度違憲論
これについては、稿を改めて述べたい。


(関連記事1 井上薫説への疑問(1)――裁判官の身分保障について
(関連記事2 井上薫説への疑問(2)――尊属殺重罰規定違憲判決違法論について
(関連記事3 井上薫説への疑問(3)――裁判員制度は違憲か


メドベージェフ大統領就任を報じる産経の記事を読んで

2008-05-08 23:15:44 | マスコミ
 今日の『産経新聞』朝刊の、ロシアのメドベージェフ大統領就任を報じる記事が妙だ。
ウェブ魚拓1)(同2


《ロシアでは7日、メドベージェフ新大統領(42)の就任式が大々的に行われたが、実態は、8日にも首相に就任するプーチン前大統領(55)が新政権の運営を主導していくものとみられている。国家元首でありながら事実上、実権のない“象徴大統領”に甘んじるメドベージェフ氏の悲哀と苦悩の日々が始まった。「双頭統治体制」は、あくまで一時的な権力構造だとみる向きが強い。》

《プーチン氏は下院(450議席)の7割の議席を占める与党「統一ロシア」の党首として議会からも新大統領を監視・牽制(けんせい)する。政府と議会の両方から監視下に置かれた新大統領は、プーチン氏に従うしかないのだ。


 社説である「主張」も、同じようなことを述べている(ウェブ魚拓)。


《ロシア史上極めて異例な「双頭統治体制」がスタートした。「双頭」の片方は、新大統領に就任したメドベージェフ氏(42)で、もう片方は首相就任を確実視されるプーチン前大統領(55)だが、大統領より首相の影響力の方が強いという何とも奇怪な体制の発足である。

 大統領職を退任したプーチン氏が、新大統領の裏切りを恐れて監視するために首相となるのか。あるいは、自分に絶対服従を誓う若く経験の浅い新大統領を手なずけ、「プーチン王朝」と呼ばれる長期の院政体制を敷こうというのか。その理由は推測の域を出ないが、いずれ時とともに明らかになってくるはずだ。

 ただ、メドベージェフ新大統領は、旧ソ連国家保安委員会(KGB)出身のプーチン氏に、治安・保安機関関係者ら「シロビキ(武闘派)」のほか、政府と議会を完全に掌握されており、独自色を出すことは事実上困難だ。若き指導者の苦悩は深まることだろう。


 産経では、大統領、国家元首は首相より強力であり、政治の実権を握っているはずだというのが常識なのか?
 ドイツやイタリアの大統領と首相の関係を知らないのか?
 ハンガリーやアイスランド、インド、シンガポール………首相が政治の実権を掌握し、大統領は国家元首ではあるが儀礼的な役割に徹している国などいくらでもあるぞ。
 ロシアで言うなら、ソ連のレーニン、スターリンの時代もそれに近い。
 双頭体制はたしかに世界的にも異例のことだろうが、「大統領より首相の影響力の方が強い」のは「奇怪な体制」でも何でもないがなあ。

 もう一点。
「悲哀と苦悩の日々が始まった。」
「新大統領は、プーチン氏に従うしかないのだ。」
「若き指導者の苦悩は深まることだろう。」
といった表現には、揶揄と嘲笑の響きが感じられる。
 プーチンは恐るべき指導者だが、その傀儡となりかねない若造など論ずるに足らないということだろうか。
 しかし、メドベージェフは事実上プーチンによって後継大統領に任命されたと言っていい。もともとがプーチンチームの一員であり、だからこそ後継に成り得たのだろう。すぐさま独自色を出せないことなど百も承知ではないだろうか。
 そしてまた、メドベージェフはプーチンよりはリベラル志向、親西側志向だと聞く。とすれば、ロシアの独裁化を嫌う産経が志向すべきは、むしろメドベージェフを盛り立てることではないだろうか。少なくとも、揶揄することではないように思う。


《前日までの温暖な天候は一転、小雪が舞い冬に逆戻りしたかのような寒さとなり、お祭り気分に水を差した。》


 安っぽいプロパガンダのようだ。

 産経はロシアを危険視しているのだろう。敵視しているといってもいいかもしれない。
 それならそれで、敵の実相を見極めることに心を砕いてもらいたい。
 どうも、ロシアの危険を広く訴えるという目的のためなら、オーバーな表現やいいかげんな情報の呈示も許されると考えているように見受けられることがある。
 そういう姿勢では、結局のところ、敵に負けてしまうのではないのかな。