トラッシュボックス

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「甲案」「乙案」とはどのようなものだったか(中)

2014-05-31 22:34:12 | 大東亜戦争
承前

 東郷は、『時代の一面』でこう述べている。

 甲案の趣旨は前記の通りで、連絡会議に於て之を通過せしむる丈けでも容易なことではなかったが、米国が戦争をも賭して強硬な態度を持して居る模様があり、従って甲案が成立しない場合を考慮する必要があった。自分は其際戦争勃発の危険を防止する為め極めて必要なる数項目に付てのみ協定を為し平和を維持するの目的を以て第二案、即ち乙案と称するものを作成した。(p.207-208)


 つまり乙案は、甲案のように日米間の問題を全面的に扱ったものではなく、戦争防止のために必要な論点を絞ったものであった。

 『時代の一面』によると、この乙案は、幣原喜重郎が立案としたとして吉田茂が持参したものに、東郷が若干の修正を加え、支那関係の一項を追加したのだという。
 その内容は、甲案と同様に重光葵『昭和の動乱(下)』によると、次のとおりである。

一、日米両国は孰れも仏印以外の南東亜細亜及南太平洋地域に武力的進出を行わざることを確約す
二、日米両国政府は蘭領印度に於て其の必要とする物資の獲得が保障せらるる様相互に協力するものとす
三、日米両国政府は相互に通商関係を資産凍結前の状態に復帰すべし 米国は所要の石油の対日供給を約す
四、米国政府は日支両国の和平に関する努力に支障を与うるが如き行動に出でざるべし
 備考
一、必要に応じ本取極成立せば南部仏印駐屯中の日本軍は北部仏印に移駐するの用意あること並に日支間和平成立するか又は太平洋地域に於ける公正なる平和確立する上は前記日本軍隊を撤退すべき旨を約束し差支なし
二、必要に応じては甲案中に包含せらるる通商無差別待遇に関する規定及三国条約の解釈及履行に関する規定を追加挿入するものとす


 要点は、資産凍結と石油禁輸の原因となった南部仏印進駐をとりやめ、日本軍は北部仏印に撤兵する、その代わり米国は資産凍結と石油禁輸を解除する、ということにある。つまり、両国関係をとりあえず南部仏印進駐より前の状態に戻すというものである。

 ただし、第四項には、南部仏印進駐と直接関係のない、米国は日支両国の和平に関する努力に支障を与えない、つまり援蒋行為の否定が盛り込まれている。これについては後で触れる。

 現状変更に対して経済制裁を受けているのだから、現状復帰はごく自然な対応ではないかと思うが、これでも当時の統帥部にとっては過大な譲歩であり、連絡会議では激論が交わされた。『時代の一面』はこう回想している。

乙案の討議に際しては自分は戦争勃発の危険は極力之を阻止するを要し、其為めには事態を南部仏印進駐、資産凍結以前の状態に復帰せしめ、以て局面の安静化を企図するのに絶対に必要なる所以を強調せるに対し、統帥部殊に参謀本部に強硬なる反対があった。即ち其云う所は日米間に多くの重要問題が未解決である間に、南部仏印から撤退するのは過大の譲歩で到底承諾は出来ないと云うので、杉山参謀総長が特に強硬であった。此時も自分は乙案が容れられない時には辞職する覚悟を有して居たので、諸般の理由を挙げて杉山総長を反駁して自説を固守した。当時幹事の一人として出席した武藤軍務局長は〔中略〕参謀総長に対し、若し此際外務大臣の主張を斥けて交渉不成立となる場合陸軍では其責任がとれますかと談じ込んだので、同総長も漸く之に同意したが、乙案が成立した場合如何にして現地軍の不満を説得すべきかに就いては一方ならぬ苦心をした趣である。(p.210)


 ただ、東郷は触れていないが、先に触れた第四項は、この連絡会議において陸軍の要求により加えられたものである。また第三項の「米国は所要の石油の対日供給を約す」は原案にはなかったものと思われる。
 この経緯については、杉山元・陸軍参謀総長が在職中に参謀本部に作成させた『杉山メモ』にその要旨が次のように記録されている。

 総長、次長〔引用者註:杉山参謀総長及び塚田攻・陸軍参謀次長〕 乙案は支那問題に触るることなく仏印の兵を撤するものにして国防的見地から国をあやまることになる、仏印に兵を駐むることは、支那をして日本の思う様にならしめ、南方に対しては之により五分五分に物をとることを可能ならしむ又戦略態勢は対米政策上又支那事変解決上之により強くなるのだ、米と約束しても物をくれぬかも知れぬ、乙案には不同意、又日次も少いから新案たる乙案でやるより甲案でやれ
 外務 自分は先ず従来の交渉のやり方がまずいから、条件の場面を狭くして南の方の事だけを片づけ支那の方は、日本自分でやる様にしたい、支那問題に米の口を容れさせることは不可也、此見地からすれば従来の対米交渉は九か国条約の復活を多分に包蔵してるもので殊に不味いことをやったものだ、度々言う様に四原則の主義上同意など丸でなって居ない、依て自分は乙案でやり度い、甲案は短時日に望みなしと思う、出来ぬものをやれと言わるるは困る
 塚田 南部仏印の兵力を撤するは絶対に不可なり(とて之に付繰り返し反論す)乙案外務原案によれば支那の事には一言もふれず現状の儘なり又南方から物をとることも仏印から兵を撤すれば完全に米の思う通りににならざるを得ずして何時でも米の妨害を受ける、然も米の援蒋は中止せず資金凍結解除だけでは通商ももとの通り殆んど出来ない、特に油は入って来ない。此様にして半年後ともなれば戦機は既に去って居る、帝国としては支那が思う様にならなければならない、故に乙案は不可、甲案でやれ
以上の如く協議せられ第三項を「資金凍結前の通商状態を回復し且油の輸入を加うる」如く改め又第四項を新たに加え「支那事変解決を妨害せず」とせるも南部仏印撤兵問題は解決せず
 東郷 通商を改め又第四項に支那解決を妨害せずを加え而も南仏撤兵を省く条件なれば外交は出来ぬ、之では駄目だ、外交はやれぬ、戦争はやらぬ方宜し
 塚田 だから甲案でやれ
 永野〔引用者註:永野修身・海軍軍令部総長〕 此案で外交やること結構だ
右の如く南仏より北仏に移駐すること及乙案不可なることに就ては総長次長は声を大にして東郷と激論し東郷は之に同意せず時に非戦を以て脅威しつつ自説を固持し此儘議論を進むるときは東郷の退却即倒閣のおそれあり武藤局長休憩を提議し十分間休む
(参謀本部編『杉山メモ(上)』原書房、2005、p.375-377、カタカナをひらがなに、かな遣いを現代のものに改めた。太字は引用者による。以下同書からの引用は全て同じ)


 休憩後に杉山らはようやく乙案に同意したが、それは次のような考えに基づくものだった。

休憩間杉山、東郷、塚田、武藤別室に於て協議す
支那を条件に加えたる以上は乙案による外交は成立せずと判断せらる南仏よりの移駐を拒否すれば外相の辞職即政変をも考えざるべからず若し然る場合次期内閣の性格は非戦の公算多かるべく又開戦決意迄に時日を要すべし此際政変並に時日遅延は許さざるものあり」
更に右を要約せば(イ)此審議を此上数日延することむ許さず(統帥上十二月初旬は絶対也)
(ロ)倒閣を許さず(此結果非戦内閣出現し又検討に時日を要す
(ハ)条件を緩和するや否や
(イ)(ロ)は許されず(ハ)を如何にすべきかが問題の鍵にして陸軍として已むなく折れて緩和するか、すべてがこわれてもかまわず同意するかを熟慮し其結果緩和に同意せざるを得ざることとなれり然らざれば外務との意見不一致にて政変を予期せざるべからず又非戦現状維持に後退せざるべからず
統帥部として参謀総長及び次長は不精不精に之に同意せり
(『杉山メモ(上)』、p.375-377)


 追加させた第四項で援蒋行為禁止をうたった以上、米国が受諾するはずはないと見ていたのである。
 つまり、「ハル・ノート」到来前であるにも関わらず、彼らは既に開戦を確実視していたのである。

 上記の『杉山メモ』の文章を書き写しながら、これは議事録ではなく単なるメモであるからその記述どおりの言葉が発せられたわけではないのだろうが、それにしても、
「南方から物をとる」
「支那が思う様にならなければならない」
とは、彼らの本音を実にあけすけに語っているものだと思った。

(続く)
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「甲案」「乙案」とはどのようなものだったか(上)

2014-05-26 00:19:36 | 大東亜戦争
 前回も取り上げたMSN産経ニュースの連載「子供たちに伝えたい日本人の近現代史」の第56回「米は「裏口からの参戦」を図った ハル・ノートでついに戦端」の一節。

 これを受け11月5日、中国や仏印(フランス領インドシナ)からの暫時撤退などを盛り込んだ甲、乙2つの妥協案をつくり、米ルーズベルト政権の国務長官、コーデル・ハルに打診する。


 「中国や仏印」「からの暫時撤退」とはどういう意味だろうか。「暫時」とは「少しの間。しばらく。」(デジタル大辞泉)の意味だが、少しの間撤退し、また進駐するというのだろうか。馬鹿な。
 撤退までに少しの間かかるという意味なのか、それとも「漸次」(しだいに、だんだん)とでも取り違えたのだろうか。
 前回の記事でも取り上げた「変節」といい、この記事の筆者は日本語にやや疎いのだろうか。

 それはさておき、このようにわが国は甲案乙案による妥協を図った、しかし米国は「ハル・ノート」でわが国が絶対呑めない要求を突きつけた、だからわが国は開戦せざるを得なかったと語られることがしばしばある。
 だが、その際に、では甲案乙案とはどの程度の妥協案だったのか、日本軍の中国や仏印からの撤退は歓迎すべきことであったはずだが何故米国はこれらを受け入れなかったのか、そうしたことが、甲案乙案の文面を引いた上で語られることは少ないように思う。
 そこで、その文面を挙げて、検討してみたい。
 重光葵『昭和の動乱(下)』(中公文庫、2001)に資料として収録されたものを引用する。
 まず甲案。

九月二十五日我方提案を左の通り緩和す
一、通商無差別問題
 九月二十五日案にて到底妥結の見込なき際は「日本国政府は無差別原則が全世界に適用せらるるものなるに於ては太平洋全地域即ち支那に於ても本原則の行わるることを承認す」と修正す
二、三国条約の解釈及履行問題
 我方に於て自衛権の解釈を濫に拡大する意図なきことを更に明瞭にすると共に三国条約の解釈及履行に関しては我方は従来屡々説明せる如く帝国政府の自ら決定する所に依りて行動する次第にして此点は既に米国側の了承を得たるものなりと思考する旨を以て応酬す
三、撤兵問題
 本件は左記の通り緩和す
A 支那に於ける駐兵及撤兵
 支那事変の為支那に派遣せられたる日本国軍隊は北支及蒙彊の一定地域及海南島に関しては日支間平和成立後所要期間駐屯すべく爾余の軍隊は平和成立と同時に日支間に別に定めらるる所に従い撤去を開始し治安確立と共に二年以内に之を完了すべし
(註)所要期間に付米側より質問ありたる場合は概ね二十五年を目途とするものなる旨を以て応酬するものとす
B 仏印に於ける駐兵及撤兵
 日本国政府は仏領印度支那の領土主権を尊重す 現に仏領印度支那に派遣せられ居る日本国軍隊は支那事変にして解決するか又は公正なる極東平和の確立するに於ては直に之を撤去すべし
 尚四原則に付ては之を日米間の正式妥結事項(了解案たると又は其他の声明たるとを問わず)中に包含せしむることは極力回避するものとす


 「九月二十五日我方提案」とは、
「対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」
「平行して米英に対し外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む」
「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」
として1941年9月6日の御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」に基づいて米国に提出した最終案であった。
 しかしこれに対して米国は10月2日、いわゆるハル4原則、すなわち
1.領土の保全及び主権の不可侵
2.内政不干渉
3.通商上の機会均等
4.平和的手段によるものを除く太平洋の現状不変更
に照らして日本の提案はこれを縮小するものだとして、近衛首相が求めたルーズベルト大統領との首脳会談を拒否した(大杉一雄『日米戦争への道(下)』講談社学術文庫、p.98-99)。よって対米開戦の可能性がいよいよ現実のものとなった。
 近衛は撤兵で譲歩することにより米国との妥協を図り、海軍は近衛に一任したが、東條陸相が断固として撤兵を拒否し主戦論に立ったため、内閣は瓦解した。
 後任の首相に東條が起用された経緯は、上記の産経の記事が

内大臣、木戸幸一の推挙で東条が後任に指名されたことは国内外に驚きで迎えられた。東条はとりわけ中国に対しては強硬派である。対中妥協ができないなら米国との交渉は至難で、開戦必至と見られたからである。

 だが木戸の狙いは逆だった。開戦に走る陸軍を抑えられるのは陸軍の東条しかいない。しかも忠誠心の厚い東条なら、昭和天皇が懸念を示した(と受け取られていた)9月6日の「戦争辞せず」の決定を白紙に戻すのを躊躇(ちゅうちょ)しないとの読みがあった。


と伝えるとおりである。

 さてその東條内閣で東郷外相が作成した甲案の内容だが、確かに東條が陸相時代に断固として反対したはずの、支那及び仏印における撤兵が盛り込まれている。
 しかし、即時全面撤兵ではない。「北支及蒙彊の一定地域及海南島」には「概ね二十五年を目途と」して駐屯するとしている。
 そして仏印からは、支那事変が解決するか「公正なる極東平和」が確立されれば撤退するとしている。それまでは居座り続けるということであり、その時期は明確でない。米国にしてみればこれらもまだ4原則違反ということになるだろう。

 だが、当時外相だった東郷茂徳にしてみれば、これでも他の閣僚や統帥部の反対を押し切って譲歩させたのである。
 東郷は敗戦後A級戦犯となり、東京裁判で禁錮20年の刑を受けて獄死したが、獄中で著した手記『時代の一面』(改造社、1952)で甲案について次のように述べている。

日本内部に於ては譲歩に失するものなりとの反対が強かった。即ち通商無差別問題に付き地理的近接の事実による緊密関係に関する従来の主張を抛棄することには既に外務省内で反対の声があつたが、之は多大の面倒なく抑えた。しかして又支那との交渉成立の上は仏印より撤退するにも連絡会議でも大した異存はなかったが、支那の撤兵につきては果然大問題となった。参謀本部側では駐兵を期限附とする時は支那事変の成果を喪失せしむると共に、軍隊の士気を沮喪せしむるから到底期限附撤兵は承諾し難しと強硬なる反対があり、東條首相亦本問題は慎重考慮の要ありて軽々に撤兵に応ずるを得ずと述べて暗に統帥部の意見を支持したが、鈴木国務相〔引用者註:貞一。企画院総裁。陸軍出身〕も略同様の態度を持した。又嶋田海相も最近自分が支那方面艦隊司令長官として見聞した所では、日本軍隊の撤退を見る場合に日本人企業の維持は勿論、其安全も期し難しとして駐兵に賛成し、兼ねて如何なる場合にも海南島の撤兵には応じ難しと云い、豫て穏和派であった賀屋蔵相すら北支開発株式会社総裁時代の経験を持出して、駐兵は在支企業に必要であるとのことで、自分は孤立無援の状態に陥った。
 しかし本問題は近衛第三次内閣の倒潰の原因であった丈け軍部より強硬な主張が出で来るのは覚悟して居たが、自分も入閣当時より若し期間附撤兵の意見が拒否せらるゝ場合には断然辞職するの決意を固めて居たので、前記の反対に対しては他国の領土に無期限に駐兵するの条理なきこと、従って期限附撤兵が士気に関すとの思想の誤てること、居留民の保護は究極的には軍隊の駐在により困難となること、尚日本が隣国支那に対し長きに渉り兵力を以て圧迫を加うることは東洋永遠の平和を維持する所以に非ること、並に軍隊の力を籍らざれば維持出来ざるが如き企業は採算上より見るも之を抛棄して可なること等の理由を挙げて激論数刻に渉り盡くる所なき状況であった。此時一幹事より然らば九十九年間駐兵することとせばず如何との案を持ち出したから、自分は九十九年は永久を意味することともなるので到底同意は出来ぬと撥ね付けたが、餘り自分の勢いが激しいのに軍部も手甲摺る模様があったのに此新案が出たので、一同期限附とすることは致し方あるまいと云う気配が見えた。しかし其期限に付き五十年以下は駄目だとの主張が一時は盛であったが、自分は五十年の間には如何なる事件が到来するやも知れない譯であるから、斯る長期間を劃するの無意味なるを説き、五年説を固持した。大勢は漸く二十五年迄に折れたが、其れ以下は断然容認すべからずとの主張が絶対的であった。自分はそこで八年及十年説を持ち出したが、他の者は二十五年説を固持し今度は自分に譲歩を求める譯合であったから、自分としては二十五年と云う長期とすることは交渉の成立も疑わるゝ譯で甚だ遺憾に思ったが、会議の情勢は差し當り此れ以上短縮することは不可能と認められたので、一旦有期限と定めて置けば他日米国側より長期に失すとの異議ある場合には之に対慮すべき方法もあるべしと考えた。此点は後に十一月二日に於て東條に対し特に了解を求めた点の一である。
(p.205-207、一部の漢字の字体及びかなづかいを現代のものに改めた。太字は引用者による) 


 だが、これほどの激論を経て撤兵を認めさせたにもかかわらず、東郷は、甲案の内容では交渉妥結にはなお不十分だと考えていた。そこで、この11月1日の重要閣僚及び統帥部との連絡会議の席上で、さらに乙案を提出した。

続く
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子供たちに「裏口参戦説」を伝える産経新聞

2014-05-19 00:02:36 | 大東亜戦争
 MSN産経ニュースの連載「子供たちに伝えたい日本人の近現代史」の第56回「米は「裏口からの参戦」を図った ハル・ノートでついに戦端」の後半部分

 これを受け11月5日、中国や仏印(フランス領インドシナ)からの暫時撤退などを盛り込んだ甲、乙2つの妥協案をつくり、米ルーズベルト政権の国務長官、コーデル・ハルに打診する。だがハルは日本案には答えず、米側の「暫定協定案」をまとめた。

 文字通り暫定的な案だったが、日本が南部仏印の兵を撤収することなどを条件に、日本への禁輸緩和を品目ごとに細かく示しており日本として必ずしも受け入れられない内容ではなかった。

 だがこの協定案は26日、突如廃棄され、代わりに「合衆国及び日本国間協定の基礎概略」なる提案が野村らに手交された。これが日本で「ハル・ノート」と呼ばれているものである。

 新たな提案は(1)中国及び印度支那から一切の軍事力、警察力の撤収(2)重慶の国民政府以外の中国における政権(つまり南京の汪兆銘政府)を支持しない(3)日独伊三国同盟の事実上の否定-などからなっていた。

 戦後の東京裁判で日本を擁護したインドのパール判事が「(小国である)モナコやルクセンブルクでも立ち上がっただろう」と述べたとされるほど、とうてい日本が受け入れられないことばかりだった。日本側は、事実上の「最後通牒(つうちょう)」や「宣戦布告」として受け取った。「天佑」とする声まであり日本が米国との戦争に踏み切る直接のきっかけとなった。

 米側の突然の「変節」について戦後、日米でさまざまな説が立てられた。中国の蒋介石が暫定案は「中国に冷たい」と難色を示したためとの見方もある。だがF・ルーズベルト大統領もハルも中国にさほど関心はなかったとされる。あったのはいかにして欧州の第二次大戦に参戦するかだった。

 米国は大戦開始時、いち早く中立を宣言していた。米国世論も参戦には否定的だった。だがルーズベルトは独裁国のナチス・ドイツをたたかねばならないという危機感を抱くようになる。そのためまず、日本に米国を攻撃させ、これに反撃する形で日本の同盟国であるドイツに宣戦するという「裏口からの参戦」を狙っていた。

 しかも米国は暗号電文の解読で日本の甲案、乙案も知り、どこまで妥協するかもつかんでいた。それに照らせば暫定案は日本が受け入れるかもしれない。それでは日本に最初の「一発」を撃たせられない、として暫定案を放棄したというのが有力なのだ。

 つまり日本は、米国の「裏口戦略」にまんまと引きずり込まれたと言える。そして運命の12月8日を迎える。(皿木喜久)


 前にも書いたことがあるが、日独伊三国軍事同盟は、攻撃された時の相互援助を定めたものである。

第一條 日本國ハ獨逸國及伊太利國ノ歐洲ニ於ケル新秩序建設ニ關シ指導的地位ヲ認メ且之ヲ尊重ス

第二條 獨逸國及伊太利國ハ日本國ノ大東亞ニ於ケル新秩序建設ニ關シ指導的地位ヲ認メ且之ヲ尊重ス

第三條 日本國、獨逸國及伊太利國ハ前記ノ方針ニ基ク努力ニ付相互ニ協力スヘキコトヲ約ス更ニ三締約國中何レカノ一國カ現ニ歐洲戰爭又ハ日支紛爭ニ參入シ居ラサル一國ニ依テ攻撃セラレタルトキハ三國ハ有ラユル政治的、經濟的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキコトヲ約ス


 「攻撃セラレタルトキ」だから、同盟国側から他国を攻撃した時は、相互援助の対象とはならない。
 したがって、日本が米国に宣戦すれば、自動的にドイツと米国も交戦関係に置かれるというものではない。

 この記事は、米国が
「日本に米国を攻撃させ、これに反撃する形で日本の同盟国であるドイツに宣戦するという「裏口からの参戦」を狙っていた。」
と述べる。
 「反撃する形で……宣戦する」とはどういう意味なのだろうか。米国が日本に反撃したとしても、それはドイツへ宣戦したことにはならない。米国がドイツに宣戦したければ、自らドイツに宣戦するしかない。

 史実は、わが国の宣戦を受けて、ドイツとイタリアもまた12月11日に米国に宣戦した。だから米国はヨーロッパの戦いに加わることができた。
 だが、仮にドイツやイタリアが対米宣戦しなければ、ヨーロッパへの参戦に米国民が賛同したかどうかはわからない。

 この種の裏口参戦説は、ルーズベルトに対して批判的立場をとる者によって、大戦直後から米国で唱えられてきた
 しかしそれを直接証拠立てるものはどこにもない。あるのはいわゆる状況証拠にすぎない。

 ヨーロッパで参戦したいのなら、わざわざそんな回りくどい方法をとるよりも、直接ドイツを挑発すればよさそうなものだと思う。
 また、太平洋とヨーロッパの二正面で戦うよりも、ヨーロッパに戦力を集中すべく、日本とはいましばらく戦いを避けた方が、 米国にとって有利だったのでないか。

 また、記事は
「つまり日本は、米国の「裏口戦略」にまんまと引きずり込まれた」
とも言うが、対米交渉が不成功に終わった場合、「最初の「一発」を撃」つ覚悟をあらかじめ決めていたのはわが国の方だろう。それを米国が知っていたとして、何故それが「引きずり込まれた」となるのか。

 もっとも、ルーズベルトらが裏口参戦を考えていなかったと見るべき証拠もない。
 だから、そうしたことはあったのかもしれない。しかし、それを「有力なのだ」「まんまと引きずり込まれた」と言うべき根拠などない。単なる一つの仮説にすぎない。
 その程度の仮説を、大手メディアが、あたかも歴史学上の定説であるかのごとく大真面目に「子供たちに伝え」てもらっては困る。

 余談だが、記事はハル・ノートを「米側の突然の「変節」」と呼ぶ。しかし、「変節」とは主義主張を変えることを非難する場合に使う言葉だろう。その前のページで出てくる「東条変節」といった具合に。わが国への譲歩である暫定協定案から米国の元々の原則論に立ち戻ったにすぎないハル・ノートをもって「変節」と呼ぶのはおかしくないか。

 なお、「モナコやルクセンブルクでも」のくだりについては以前下の記事で検討したことがある。元々はパル判事の言葉ではないし、モナコやルクセンブルクがそれで実際に戈をとって起ちあがるとも思えない。単なるアジテーションにすぎない。

「モナコやルクセンブルクでさえも」は正しいか

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