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日々の思いをたまに綴るブログ。

女性宮家で「ジャクソン王朝」に?

2017-08-30 06:45:14 | 天皇・皇室
 今年6月9日の朝日新聞政治面に、
「女性宮家で…ジャクソン王朝に 自民・鬼木氏」
という見出しの記事が載っていた。
 8日に開かれた衆議院憲法審査会での自由討議の発言要旨のみをまとめた記事で(討議自体についての記事は別の面にあり)、その中に自民党の鬼木誠委員のこんな発言があった。
「天皇の定義さえも変わってしまいかねない女性宮家の議論に危惧を覚える。女性宮家ができ、女性皇族が海外の方と結婚され、子どもが即位したら、日本の王朝は男性の姓を取ってジャクソン王朝などになってしまう。」
 ほかにも多数の委員の発言が掲載されているのだが、朝日としてはこの発言に最も注目すべきと判断したということか。

 後で国会会議録検索システムで検索してみたら、発言の全文は次のとおりだった。

○鬼木委員 自由民主党、鬼木誠でございます。
 私は、日本国憲法が、天皇の神聖性、正統性が語られない憲法となっていることに歴史の断絶を感じております。これは、戦争と結びついてしまった明治憲法への深い反省からきているものだとは存じておりますが、日本の歴史において天皇とはどういう存在だったのか、私たち日本人が改めて学ぶべきときが来ていると感じております。
 天皇の祭主として祈る役割は憲法上保障されておりません。それは、政教分離によってむしろ否定されているような状況にあります。憲法上保障されているはずの信教の自由、祈るという役割が、かえって不自由なことになっていないかと感じます。
 また、今の日本で、義務教育で日本の神話を教えることは困難だと思われます。神話を忘れた民族は滅びるという言葉があるといいますが、神話とは、何千年語り継がれてきた民族の歴史であり、記憶であります。
 日本の憲法は、日本の歴史とアイデンティティーを守る憲法であるべきだと考えます。天皇の歴史というものは日本の国の歴史と重なります。日本の歴史を守るということは、天皇の歴史を正しく後世に伝えることだと思います。その根本を大事にすることのできる憲法であるべきと考えます。
 したがって、天皇の定義さえも変わってしまいかねない女性宮家という議論に私は危惧を覚えております。
 日本の天皇は例外なく男系で継承されてきました。王朝は男系で継承するというのは世界でも普遍であります。女系で継承すれば、そこから先は違う王朝になるということであります。イギリスにおいても、ヨーク朝からチューダー朝、チューダー朝からスチュアート朝、そこは継承がかわった、そして王朝がかわったということであります。
 日本の宮家というものは、男子の皇位継承権者を確保するために複数存在していたわけでありまして、宮家の当主は必ず男性で継承してまいったわけでございます。したがって、女性宮家というものはこれまでの日本に歴史上存在しなかったわけでございます。もし、女性宮家ができ、女性皇族が海外留学し、そこで海外の方と結婚され、その子供が天皇に即位されたなら、そのときから日本の王朝は、その男性の姓をとって、何々王朝、ジャクソンさんが相手ならジャクソン王朝、李さんが相手なら李王朝ということになるわけでございます。
 それでは、女性宮家にかわる方策に代替案は何があるのか。私は、旧宮家の皇籍復帰だと考えます。
 日本の歴史上、過去にもそうした危機は必ずあったわけでございまして、最大で十親等、二百年までさかのぼったこともあります。そうして日本の天皇の歴史は男系で継承を続けてまいりました。
 AIが人類の思考を超えようとしている今、人知を超えた究極の知恵というものは、長い歴史にかえてきた伝統ではないかということを最近私は考えております。
 以上をもちまして私の発言を終わります。ありがとうございました。


 私はこの朝日の記事で初めて鬼木誠という衆議院議員を知ったのだが、今公式サイトでプロフィールを見てみると、1972年10月生まれの44歳。福岡市出身。九州大学法学部法律学科卒。西日本銀行(現・西日本シティ銀行)勤務を経て、30歳で福岡県議会議員に初当選。同県議を3期務めた後、2012年12月の衆院選で福岡2区から初当選。2014年再選。環境大臣政務官を務めたとある。
 福岡2区は、2009年に落選し、その後引退した山崎拓の地盤であった。鬼木氏は山崎派の後身である石原派に属している。

 さっき、毎日と読売と日経のサイトで検索してみたが、この「ジャクソン王朝」発言も、鬼木氏が憲法審査会で発言したことも、サイトの記事には見当たらない。
 産経のサイトには、「ジャクソン王朝」の言葉はなかったが、同じ自民党の船田元氏が女系天皇、女性宮家の容認論を示したのに対し、
「鬼木誠氏が「女系で継承すれば、そこから先は違う王朝になる」と反論し、旧宮家の皇籍復帰を主張した。」
とは書かれていた。

 一般論としては、
「王朝は男系で継承するというのは世界でも普遍であります。女系で継承すれば、そこから先は違う王朝になるということであります。」
とは言える。鬼木氏が挙げているイギリスがまさに典型である。

 しかし、必ずしも常にそうとは限らない。
 ロシア帝国のロマノフ王朝では、イヴァン5世の女系の曾孫イヴァン6世が、短期間ではあるが帝位に就いている。また、その後もピョートル1世(大帝)の女系の孫がピョートル3世として即位している。にもかかわらず、王朝はロマノフ朝のままである。

 オランダの王家はオラニエ=ナッサウ家だが、現在のウィレム・アレキサンダー国王の前は、その母ベアトリックス(在位1980-2013)、その母ユリアナ(同1948-1980)、その母ウィルヘルミナ(同1890-1948)と、3代続けて女王だった。しかし、その間王朝名がコロコロ変わったわけではない。

 「女系で継承すれば、そこから先は違う王朝になる」のは、イエは男性が継ぐものであり、女性にその権利はないとされていたからだろう。
 だが、ヨーロッパのことはよく知らないが、わが国にはもはやイエ制度はない。
 そして、夫婦は結婚に伴いどちらかの姓を名乗るとされている。つまり、家名は男女どちらが受け継いでもかまわない。
 ならば、天皇の娘がその父の姓を受け継ぎ、そのいだと考えれば、王朝が変わるということにはならない。

 それに、そもそも皇室には姓がない。ないものは変わりようがない。

 また、鬼木氏が言う
「女性宮家というものはこれまでの日本に歴史上存在しなかった」
は、正しくない。
 仁孝天皇の娘、淑子(すみこ)内親王(1829-1881)が、当主不在となっていた桂宮家を継承した前例がある。
 もっともこの内親王は、婚約者の閑院宮愛仁親王が結婚前に死去したため、生涯独身で過ごし、桂宮家を継ぐも、その死去によって同宮家は断絶したのだが。
 しかし前例はあるのだから、鬼木氏に限らず、女性宮家反対論者が「歴史上存在しなかった」と説くのはおかしい。

 そして、「ジャクソン王朝」「李王朝」云々とは、何が言いたいのか。
 そもそもこの女性宮家の議論は、女系天皇を認めるかどうかはさておき、次世代の皇族が悠仁さまを除いて皆女性であることから、従来どおり女性皇族が結婚とともに皇籍を離脱していては悠仁さま以外の皇族がいなくなってしまうため、皇族を維持する手段を検討する必要があったから生じたものだ。女系継承の問題とは直接関係ない。
 では仮に、男性皇族が海外留学し、外国人と結婚し、その子供が天皇に即位するのはかまわないのか。憲法にも皇室典範にも、皇族は外国人と結婚してはならないとの定めはない。
 外国人と結婚するのが男性皇族であろうが女性皇族であろうが、その子供に外国人の血が入ることに変わりはない。なのに、結婚する皇族が女性なら「違う王朝になる」からダメで、結婚する皇族が男性なら王朝が変わらないからかまわないのか。子供に流れる血に王朝の色が付いているわけでもあるまいに。

 英国女王エリザベス2世の夫君、エディンバラ公フィリップ殿下の姓はマウントバッテンである。現在の英国の王朝はウィンザー朝だが、コトバンクで「ウィンザー家」を引くと出てくるブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説には、

《エリザベス2世は 1952年の即位後まもなく,自身の子および子孫をウィンザー姓とする旨を枢密院において宣言した。この決定は 1960年2月8日に改められ,王子・王女の身分および殿下の敬称をもたない子孫の姓はマウントバッテン=ウィンザーとすることになった。》

とある。
 ならば、チャールズ皇太子の姓はおそらくマウントバッテン=ウィンザーなのだろう。すると、エリザベス2世の死後は、王朝名はマウントバッテン=ウィンザー朝に変わるのかもしれない。だが、それを問題視する声が英国民から上がっているなどと聞いたこともない。

 こんなくだらない議論を重ねて、結局何も変えられないまま無為に時を過ごし、やがて皇族は悠仁さまお一人になってしまうのだろうか。
 私は、皇室の方々に決して悪感情は抱いていない。それどころか、素朴な崇敬の念を抱いていると自覚している。
 しかし、天皇制という制度が、現代のわが国において必ずしも必要不可欠だとは思わない。前近代ならいざしらず、もはや大衆民主制の世の中には合わない、廃止した方がよいとも思っている。
 だが、日本国民の大多数は天皇制の維持を望んでいる。ならば、その障害となっている、わが国古来の伝統でも何でもない、明治の藩閥政府が勝手に決めた皇室典範を変えてみせることぐらいはやってみてはどうかというのが、私の考えである。
 その程度のこともなしえないまま、むざむざ皇統を危機にさらすのがわが国民の選択なら、それもやむを得ないことかもしれない。


小池都知事が朝鮮人虐殺への追悼文を断った件について

2017-08-28 07:07:41 | 日本近現代史
 8月24日、ツイッターで東京新聞のこんなニュースが引用されているのを見た。

関東大震災の朝鮮人虐殺 小池都知事が追悼文断る
2017年8月24日 朝刊

 東京都の小池百合子知事が、都立横網町(よこあみちょう)公園(墨田区)で九月一日に営まれる関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文送付を断ったことが分かった。例年、市民団体で構成する主催者の実行委員会が要請し、歴代知事は応じてきた。小池氏も昨年は送付していたが方針転換した。団体側は「震災時に朝鮮人が虐殺された史実の否定にもつながりかねない判断」と、近く抗議する。 (辻渕智之、榊原智康)

 追悼文を断った理由について、都建設局公園緑地部は本紙の取材に、都慰霊協会主催の大法要が関東大震災の九月一日と東京大空襲の三月十日に開催されることを挙げ、「知事はそこに出席し、亡くなった人すべてに哀悼の意を表しているため」と説明。「今後、他の団体から要請があっても出さない」としている。

 追悼文は一九七〇年代から出しているとみられ、主催者によると確かなのは二〇〇六年以降、石原慎太郎、猪瀬直樹、舛添要一、小池各知事が送付してきた。

 追悼式が行われる横網町公園内には、七三年に民間団体が建立した朝鮮人犠牲者追悼碑があり、現在は都が所有している。そこには「あやまった策動と流言蜚語(ひご)のため六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われた」と刻まれている。

 追悼碑を巡っては、今年三月の都議会一般質問で、古賀俊昭議員(自民)が、碑文にある六千余名という数を「根拠が希薄」とした上で、追悼式の案内状にも「六千余名、虐殺の文言がある」と指摘。「知事が歴史をゆがめる行為に加担することになりかねず、追悼の辞の発信を再考すべきだ」と求めた。

 これに対し、小池知事は「追悼文は毎年、慣例的に送付してきた。今後については私自身がよく目を通した上で適切に判断する」と答弁しており、都側はこの質疑が「方針を見直すきっかけの一つになった」と認めた。また、都側は虐殺者数について「六千人が正しいのか、正しくないのか特定できないというのが都の立場」としている。

 式を主催する団体の赤石英夫・日朝協会都連合会事務局長(76)は「犠牲者数は碑文の人数を踏襲してきた。天災による犠牲と、人の手で虐殺された死は性格が異なり、大法要で一緒に追悼するからという説明は納得できない」と話した。

<関東大震災の朝鮮人虐殺> 1923(大正12)年9月1日に関東大震災が発生すると、「朝鮮人が暴動を起こした」などのデマが広がった。あおられた民衆がつくった「自警団」などの手により、多数の朝鮮人や中国人らが虐殺された。通行人の検問が各地で行われ、殺害には刃物や竹やりなどが用いられた。


 この記事を引用していた方は、ツイートでこう批判していた。

《天災の死者、戦災で亡くなった自国民の追悼はもちろんだけど、それとは別個に「流言飛語で自国民が殺した国内の外国人」に対する言葉が必要なのは当然で、謝罪どころか追悼文まで辞めるのか。マジかこれ。東京五輪を前にしてこんな振り切れ方するのか。》

《これトランプ大統領が彼の支持層である白人主義者やネオナチを非難しなかったのと同じで、小池都知事の支持層には関東大震災朝鮮人虐殺否認論者がいるんですよ。だから記者は小池都知事に聞かないと。「あれは虐殺ですよね」と。構造全く同じですよこれ》

 確かに、天災による死者と、流言飛語が原因とはいえ、人に殺された死者とは違う。
 だが、「それとは別個に」「言葉が必要なのは当然」なのか。
 また、「謝罪どころか追悼文まで」と言うが、流言飛語が原因の94年前の虐殺について、小池都知事がどういう立場で何を謝罪するのか。

 この都知事の対応は、そこそこ話題になり、26日には朝日新聞の天声人語が次のように取り上げた。

(天声人語)関東大震災の教訓
2017年8月26日05時00分

 関東大震災の混乱のさなか、ある銀行員が見聞きしたことである。広場で群衆が棒切れを振りかざしている。近づいてみると大勢の人たちが1人の男を殴っている。殺せ、と言いながら▼「朝鮮人だ」「巡査に渡さずに殴り殺してしまえ」との声が、聞こえてくる。「此奴(こやつ)が爆弾を投げたり、毒薬を井戸に投じたりするのだなと思ふと、私もつい怒気が溢(あふ)れて来た」(染川藍泉〈らんせん〉著『震災日誌』)。朝鮮人が暴動を起こしたとの流言飛語が、飛び交っていた▼人びとは武器を手に自警団を作って検問をした。「一五円五〇銭」と発音しにくい言葉を言わせ、日本人かどうか調べた例もあった。あまりに多くの朝鮮人が虐殺された▼差別的な振る舞いや意識があったがゆえに、仕返しを恐れたか。官憲もデマを打ち消すどころか真に受け、火に油を注いだ。「当局として誠に面目なき次第」と警視庁幹部だった正力松太郎が後に述べている。不安心理が異常な行動をもたらす。忘れてはいけない教訓である▼そう考えると、首をかしげざるをえない。朝鮮人犠牲者を悼む式典に、小池百合子東京都知事が追悼文を送らない方針だという。例年とは異なる判断である。都慰霊協会の追悼行事があるので、「個々の行事への対応はやめる」のが理由というが、見たくない過去に目をつぶることにつながらないか▼今からでも遅くない。方針を改め、追悼文をしたためてほしい。大震災から94年となる9月1日。風化を許してはいけない歴史がある。


 「不安心理が異常な行動をもたらす。忘れてはいけない教訓である」
 全くそのとおりである。
 そして、その後わが国は敗戦と占領を経験し、阪神・淡路大震災や東日本大震災をはじめとする大災害をも経験してきたが、他民族の虐殺が再現することはなかった。
 我々は教訓を忘れてはいない。

 ところで、東京新聞の記事には、「式を主催する団体の赤石英夫・日朝協会都連合会事務局長」のコメントが載っている。
 日朝協会とは何だろうか。
 1955年に結成された、日本と北朝鮮との友好関係を深めようとする、日本人によって作られた団体である。
 協会のサイトにこう書いてある

Ⅱ 日朝協会は1955年11月、日本の中の良心的進歩的な人びとによってつくられました。日本が進めた朝鮮植民地支配やアジア太平洋への侵略戦争に、生命がけで反対して闘った人々の伝統を受けついで、1950年~53年の朝鮮戦争に反対し、アジアと世界の平和を願う国民的な運動の中から結成された団体です。


 「アジア太平洋への侵略戦争に、生命がけで反対して闘った」とは、日本共産党が自画自賛するときに使う言葉である。
 日本共産党は1968年までは北朝鮮と親密な関係にあった。日朝協会はその共産党の外郭団体のような存在であった。
 今では悪名高い北朝鮮への帰国運動を推進し、また日本と韓国が国交を正常化しようとする日韓会談に反対した。
 北朝鮮と日本共産党との関係が断絶した後、日朝協会が何をしていたのか私はよく知らないが、サイトを見ると、金大中への支援や、反核運動、戦後補償運動などを行ってきたとある。

 そのような団体が、何故、何のために、「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式」を主宰するのだろうか。
 日朝協会のブログに掲載された小池都知事への抗議声明によると、

 関東大震災50年にあたる1973年に朝鮮人犠牲者を心から追悼し、不幸な歴史を再び繰り返させないことを誓い東京都横網町公園に朝鮮人犠牲者追悼碑が設置された。以降、毎年9月1日に関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典が執り行われてきた。
 東京都知事はこれまで同式典に追悼の辞を寄せてきた。都知事追悼の辞は式典で読みあげられ参列者らに紹介されてきた。


とある。
 1973年といえば、美濃部亮吉の革新都政の時代である。また、前年には日中共同声明が発表されて中国との国交が正常化し、本多勝一の『中国の旅』が刊行されるなど、わが国の大東亜戦争や植民地支配における加害性が意識され始めていた時期である。
 そんな雰囲気の中で、追悼碑の設置も受け入れられたのだろう。

 しかし、それから既に半世紀近くが過ぎている。もはや関東大震災を体験した人はほぼいない状態である。そして、わが国であのような虐殺が再現することもなかった。
 なのに、未だに追悼を続けなければならないのだろうか。
 いや、追悼したい人がするのはいい。それに都知事がいつまでも付き合わなければならないのだろうか。

 日朝協会のブログを見ていると、今年6月5日付のこんな記事があった。
 
「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」撤去の動きについて/李一満
日本政府による謝罪と補償、被害者の名誉回復を

〔中略〕

08年8月9日、東京で「関東大震災85周年朝鮮人犠牲者追悼シンポジウム」が、13年8月22日から23日にかけてソウルで「関東大震災90周年韓日学術会議 関東大震災と朝鮮人虐殺事件」が開催された。

関東大震災と朝鮮人虐殺研究における3人の泰斗が、二つの国際シンポで明らかにした見解は、次のとおりである。

朝鮮大学校図書館・琴秉洞元副館長は、日本の近代史と現代史の分岐は1923年9月1日の関東大震災であるとしつつ、侵略と殺戮にまみれた日本現代史は関東大震災時の朝鮮人虐殺に始まると見た。元副館長は朝鮮人虐殺事件の本質は、国家犯罪であり民族犯罪だと看破した。国家犯罪である所以は、大虐殺の引き金となった戒厳令を政府治安担当の指導的人物(内務大臣、警保局長、警視総監)が起案・執行し、国家機関・権力機関、即ち軍隊、警察が虐殺を先導し、さらには朝鮮人暴動流言を内務省が伝播したからである。民族犯罪である所以は、虐殺された朝鮮人の圧倒的多数が自警団員、青年団、またはその他の日本民衆によって殺されたからである。

立教大学・山田昭次名誉教授は微視的に観察し、在日朝鮮人労働者や社会主義者・無政府主義者の運動と、日本人の社会主義者や労働者との間に生じた連帯の萌芽に危機を感じた官憲の動向に、関東大震災時の官憲主導の朝鮮人虐殺の原因を見た。また、朝鮮人が暴動を起こしたと誤認した官憲の責任のみならず、誤認に気づいた後も朝鮮人暴動説を主張して誤認の国家責任を隠した官憲の事後責任も追及し、天皇制国家に心服し、朝鮮人虐殺を愛国的行為と考えた多くの日本人民衆にも責任があるとした。

滋賀県立大学・姜徳相名誉教授は、関東大震災時に布告された戒厳令を重視し、朝鮮人暴動の流言の発生源として官憲説を取る。軍隊が戒厳令に基づいて朝鮮人虐殺を始め、さらに在郷軍人・青年団員・消防団員、その他の民衆によって構成された自警団がこれに加わったと見るのである。また戒厳令布告の背景として日本の朝鮮侵略の過程、特に朝鮮に対する植民支配の下で行われた朝鮮人の抵抗に対する過酷極まりない軍事的弾圧を挙げる。言い換えれば、朝鮮に対する日本の侵略と植民支配の歴史に対する巨視的な視点から、関東大震災朝鮮人虐殺事件を見たのである。

泰斗たちの見解は、朝鮮人虐殺の歴史的背景には朝鮮植民地支配と朝鮮人民の抵抗運動(3.1人民蜂起)に対する日本官憲の恐怖があり、ジェノサイド、大人災の直接的かつ最大の原因は戦争でもないのに戒厳令を実施したためである、ということである。

東京では「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」(10年9月24日)が、ソウルでは国会議員、弁護士、牧師、学者、市民、遺族等により「関東大震災朝鮮人虐殺事件の真相究明および犠牲者名誉回復に関する特別法推進委員会」(14年5月26日)が結成された。朝鮮民主主義人民共和国の歴史学会も1960年代から朝鮮大学校と連携し、関東大震災朝鮮人虐殺事件の調査・研究を進めてきた。

関東大震災95周年や100周年に際し、朝鮮大学校が呼びかけ三者のシンポジウムを開けば、闇にうずもれている事件の真相が解明され、日本政府による謝罪と補償、被害者の名誉回復が大きく前進するであろう!


 この記事は、朝鮮総聯の機関紙である朝鮮新報のサイトから転載されたもののようだ。筆者の李一満氏は「東京朝鮮人強制連行真相調査団 事務局長」との肩書だが、東京朝鮮中・高級学校などで教員を務めた人物である。
 朝鮮総聯と日朝協会は同一の団体ではないが、こうした記事を日朝協会が注釈なしに転載するのだから、日朝協会もこの問題については同様の立場であると見てよい。

 東京新聞の用語解説が
「「自警団」などの手により、多数の朝鮮人や中国人らが虐殺された」
とし、天声人語が
「人びとは武器を手に自警団を作って検問をした。……官憲もデマを打ち消すどころか真に受け、火に油を注いだ。」
としているように、虐殺の主体となったのは自警団を組織した民間人だったというのが一般的な理解である。ところが李一満氏は、軍や警察が虐殺を先導し、内務省が流言飛語を伝えたといった学説を持ち出している。

 つまり、彼らは、朝鮮人虐殺について、わが国の国家責任を追及し、謝罪と補償を求めているのである。
 単に「風化を許してはいけない」といった思いで追悼しているのではない。

 したがってこれは、東京新聞が報じている、単なる碑文の犠牲者数をめぐる問題ではない。それは都が言うように「見直すきっかけの一つ」にすぎない。
 このような団体が主催する「追悼式」に、都知事が慣例にのっとっていつまでも追悼文を贈り続けることが、果たして妥当なのだろうか。


マッカーサーは日本人をどう見ていたか

2017-08-27 06:28:41 | 「保守」系言説への疑問
承前

 前回書きそびれていたが、マッカーサーはその『回想記』において、小堀桂一郎(1933-)氏が挙げている1951年5月3日の上院軍事外交合同委員会での証言と、1950年10月15日のトルーマン大統領とのウェーキ島会談について、どう述べているだろうか。

 1951年5月に3日間、上院軍事外交合同委員会で証言したとは述べているが、その具体的な内容には触れていない。ただ、ラッセル委員長によるマッカーサーへの謝辞を引用しているのみである。
 晩年のマッカーサーにとって、いわゆる「自衛戦争」証言や、「我々が過去百年間に太平洋で犯した最大の政治的過誤は、共産主義者達がシナに於いて強大な勢力に成長するのを黙認してしまった」との証言が、回想記に残しておくほど重要なものではなかったことがうかがえる。

 ウェーキ島会談についてはかなり紙数を割いて詳しく述べている。しかし、トルーマンをやんわり批判しつつも、会談は友好的に行われたとしている。そして、中共軍の参戦については、

 会談の終りごろになって、ほとんどつけたりのような調子で中共介入の問題が持出された。中共は介入する意志はないというのが、会談参加者全員の一致した意見だった。この意見は当時すでに、中央情報局(CIA)と国務省も出していたものだ。


と述べ、自らの責任の回避を図っている。
 もちろん、小堀氏が重視する、「戦犯には手をつけるな。手をつけてもうまくいかない」「東京裁判とニュールンベルグ裁判には警告的な効果はないだろう」と述べたとされる点への言及はない。

 小堀氏をはじめこれらのマッカーサーの発言を好んで取り上げる人々は、マッカーサーが重要視していない片言隻句だけを切り取って、自説に都合の良いように解釈を付けて、吹聴しているだけだということがわかる。

 さて、私がこの一連の記事の参考にするため袖井林次郎(1932-)の『マッカーサーの二千日』(中公文庫、1976、親本は中央公論社、1974)を読んだところ、その最終章の記述が、離任したマッカーサーと日本国民との関係を実に手際よく示していると思えたので、長くなるが紹介したい。

 マッカーサーの解任のショックが大きかっただけに、日本国民の反応もセンチメンタルであった。そして贈物の好きな日本人は多くの感謝決議を行ない、マッカーサーの功績と貢献を末永くたたえるにふさわしい方法を考えようとした。衆参両院は休会中の本会議を開いて感謝決議を行った。
 〔中略〕たしかに吉田首相のいうように「天皇陛下から一市民に至るまで、すべての日本人があなたとの別れを惜しんでいます」というわけではなかったにしても、マッカーサーを「偉大なおやじ」(『朝日新聞』天声人語)として惜しむ気持が、国民の間に圧倒的であったことは事実であろう。
 〔中略〕出発の日の新聞は、政府がマッカーサー元帥に対し「名誉国民」の称号を送ることを考慮中であると伝えた。これは後に五月に入って、「終身国賓に関する法律案」となって閣議を通っている。
 また秩父宮、同妃殿下〔中略〕ら十四人の名士を発起人として、東京に「マッカーサー元帥記念館」の建設が進められ、本人の承諾も得て、実際に募金に着手している。
 日本国民のマ元帥像は、彼がアメリカの各都市で歴史はじまって以来の大歓迎を受けているあいだ、海の向こうから燦然と輝く。上下両院合同会議における大演説は、日本国民をほめたたえて次のようにいう。
「日本国民は戦後、現代史上最大の変革を行ってきた。日本国民はみごとな意志力と学ぼうとする熱意、すぐれた理解力を発揮して、戦いの跡に残された灰の中から個人の自由と尊厳を至高とする高い精神を築きあげた」
「私は日本ほど安定し、秩序を保ち、勤勉である国、日本ほど人類の前進のため将来建設的な役割を果たしてくれるという希望のもてる国を他に知らない」
 とくに演説の最後のくだりは、感傷ごのみの日本人にぴったりであった。
「〔中略〕私は当時〔引用者註:マッカーサーが52年前に陸軍に入った頃〕非常にはやったある兵営の歌の繰り返し文句を、まだ覚えている。その文句は非常に誇らしく次のようにうたっていた。
“老兵は死なず、ただ消えゆくのみ”
 あの歌の老兵のように、私はいま軍歴を閉じて、ただ消えてゆく。神の示すところに従った自分の任務を果たそうとつとめてきた一人の老兵として。
 さようなら」
 「天声人語」子は、「『人生のたそがれどき』に立って、怒りも憎しみも越えて、心中たゞ『わが国に尽す』老兵の信念と別辞とを米国民に告げて去る元帥の後姿には哲人の面影がある」(『朝日新聞』四月二十一日)と書いた。
 だが、上院の軍事・外交合同委員会での証言で、マッカーサーは「日本人はすべての東洋人と同様に勝者に追従し敗者を最大限にみさげる傾向をもっている。米国人が自信、落つき、理性的な自制の態度をもって現われたとき、日本人に強い印象を与えた」「それはきわめて孤立し進歩の遅れた国民が米国人なら赤ん坊のときから知っている『自由』を始めて味わい、楽しみ、実行する機会を得たという意味である」と語る。日本人は首をかしげはじめる。
 しかし日本人が神経をもっともいらだてたのは「日本人十二歳論」であろう。マッカーサーはラッセル・ロング議員の質問に答えて「科学・美術・宗教・文化などの発展の上からみて、アングロ・サクソンは四十五歳の壮年に達しているとすれば、ドイツ人もそれとほぼ同年輩である。しかし日本人はまだ生徒の時代で、まず十二歳の少年である」と語った(『朝日新聞』五月十六日)。実はこれはマッカーサーが日本文化のもつ将来の発展性をたたえたのだと、考えればいいのであるが、そう受けとった日本人は少い。同じ「天声人語」子は「元帥は日本人に多くの美点長所のあることもよく承知しているが、十分に一人前だと思っていないようだ。日本人のみやげ物語としてくすぐったい思いをさせるものでなく、心から素直に喜ばれるように、〔名誉を贈るのは〕時期と方法をよく考慮する必要があろう」(五月十七日)といい出すにいたる。マッカーサーは「永久国賓」とはならず、「マッカーサー記念館」建設計画は、いつの間にか立ち消えとなった。日本人はやがて占領そのものを忘却のかなたに追いやることにはげむにいたる。(p.339-342) 
 

 そして、文庫版の解説で、映画評論家の佐藤忠男(1930-)は次のように述べている。

 袖井氏も指摘するとおり、占領中にマッカーサーをあれほど讃美した日本人は、マッカーサーが去ってしまうと、夢からさめたようにマッカーサーについては語らなくなった。その決定的な切れ目は、例の、「日本人は十二歳」というマッカーサーの発言であった。日本人はいまさらのように、自分たちはマッカーサーによって愛されていたのではなく、“昨日の敵は今日の友”という友情を持たれていたのでもなく、たんに軽蔑されていたにすぎなかったと知った。袖井氏はこの発言にふれて、「マッカーサーが日本文化のもつ将来の発展性をたたえたのだと、考えればいいのであるが、そう受けとった日本人は少い」と書いている。じっさい、誰もこの発言の真意をマッカーサー本人に問いただそうともしなかったくらい、一瞬にして日本人の心はシラケたのである。考えてみれば、支配者である彼が被支配者である日本人を対等の人間であると見ていたはずはない。それを、そう言われてはじめて、がくぜんとして讃美することをやめたというのは、それまでいかに、日本人のほうで、マッカーサーに対して一方的に慈父に接するような甘えの感情を抱きつづけていたかを明らかにしたものであった。恥ずかしながら、日本人は、マッカーサーから賞めてもらいたかったのである。マッカーサーに支配された二千日の間、マッカーサー民主主義学校の優等生になったつもりではげんでいたのに、その校長先生が、教育委員会かどこかで、あんな素質の低い連中なんて……とかなんとか報告したような気がして、あらためて彼が、旧敵国から派遣された司令官であったことを思い出したのであった。


 こんにち、「自衛戦争」証言を好んで取り上げたり、あげくの果てには「マッカーサーの告白」なる偽文書を流布したりする人々もまた、「マッカーサーから賞めてもらいた」いという、被占領者の心理を引きずっているのかもしれない。

(完)

マッカーサーが謝罪したとの誤解を招いた小堀桂一郎氏の手法

2017-08-24 07:18:12 | 「保守」系言説への疑問
承前

 このマッカーサー「日本は自衛戦争」説に関連して、「マッカーサーの告白」なる出所不明の文書がネット上で流布している。

「日本の皆さん、先の大戦はアメリカが悪かったのです。
日本はなにも悪くありません。自衛戦争をしたのです。」

云々といった内容で、例の1951年5月3日の米国上院の軍事外交合同委員会でのマッカーサーの証言も引用されている。今でも検索すれば多数見つかるはずだ。
 内容的には、引用の証言部分を除き、どう見てもマッカーサー自身が書いたとは思えないものだが、2014年には、宮城県名取市の広報12月号の市長のコラムにこの文書が引用され、市長は2015年3月に市議会でこの件を追及されて、内容が誤りだったと認めて謝罪したという。

 小堀桂一郎氏が行ったように、この証言中の「security」 を「安全保障」と訳し、さらにそれを「つまりは大東亜戦争は自存自衛のための戦いであったという趣旨」だと強弁したとしても、それだけでは「アメリカが悪かったのです。日本はなにも悪くありません」などということにはならないはずなのに、何故こんな偽文書が流布しているのだろうか。前々回の記事でも述べたように、マッカーサーは東京裁判を否定してなどいないのに。
 不審に思っていたのだが、私が8月18日の記事を書くに当たって、この証言を掲載している小堀氏の『東京裁判 幻の弁護側資料』(ちくま学芸文庫、2011)の該当箇所を読み返していたところ、この証言についての小堀氏による解説が、さもマッカーサーが「東京裁判は誤りだった」と認めたかのように書かれていることが一因ではないかと思えたので、その記述を紹介したい。

 小堀氏は、本書第3部第18節のマッカーサー証言の前に付した解説で、証言自体の説明に続けて、さらに次のように述べている(太字は引用者による)。

 
 なお数点書き添えておくと、マッカーサーが昭和二十五年十月十五日にトルーマン大統領とウェーキ島で会談した際に、「東京裁判は誤りだった」という趣旨の告白をしたという報道も現在では広く知られていることである。このウェーキ会談の内容も、それまでは秘密とされていたものが、この上院の軍事外交合同委員会での公聴会開催を機会に該委員会が公表にふみ切ったものである。この件についての朝日新聞の五月四日の記事によれば、次に引く如き間接的な表現が見出されるだけである。即ち〈戦犯裁判には/警告の効なし/マ元帥確信〉との見出しの下に、〈ワシントン二日発UPI共同〉として、
〈米上院軍事外交合同委員会が二日公表したウェーキ会談の秘密文書の中で注目をひく点は、マ元帥が次の諸点を信じているということである。
一、マ元帥はハリマン大統領特別顧問から北鮮の戦犯をどうするかとの質問を受けたのに対し、「戦犯には手をつけるな。手をつけてもうまくいかない」と答え、またマ元帥は東京裁判とニュールンベルグ裁判には警告的な効果はないだろうと述べた。(後略)〉
 以上の如く、上院委員会でのマッカーサー証言〔引用者註:いわゆる「自衛戦争」証言〕、上院の公表したウェーキ会談の内容の双方について、その中の日本に関する注目すべき言及は、当時の日本の新聞が甚だ不十分にしか報じていないことがわかる。しかしその二つの言及は、英字新聞の原文を読んだであろう一部日本の知識人の口から、新聞の報道した範囲(当時なお「検閲」をうけていた可能性は考慮すべきであろうが)を越えて次第に世間に広まっていったものの如くである。
 朝日新聞紙上に報じられた限りでのマッカーサー証言の中で、我々にとって最も重要で意味深い言葉はむしろ次の一節かもしれない。それは証言第一日たる五月三日に上院軍事外交合同委員会ラッセル委員長の質問に答えた部分の結びに出てくる所感であって、新聞記事のままに引用すれば、〈一、太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える〉というものである。
 これをニューヨーク・タイムズ所掲の原文に遡って引いておけば以下の通りであり、本書編者の試訳を附しておく。
〔原文省略〕〈私の個人的見解でありますが、我々が過去百年間に太平洋で犯した最大の政治的過誤は、共産主義者達がシナに於いて強大な勢力に成長するのを黙認してしまった点にあります〉
 これは謂はばこの時点でのマッカーサーの信条告白であり且つ懺悔であった。天皇をも日本政府をも凌ぐ、日本国内の最高権力者として東京に駐在すること五年八箇月、彼は自分の部下である総司令部民政局中の左翼分子が育成したものともいえる日本の共産主義者達の勢力の急激な伸張を目にした。東京裁判に於いて被告側弁護団が力説した、一九二〇年代、三〇年代に日本に迫っていた赤化謀略の脅威と日本の懸命なる防共努力の事蹟も耳に入った。そして一九五〇年六月二十五日、満を持して南になだれこんだ北朝鮮軍の急進撃と、その背後に控えた中共軍の大兵力の存在に直面した。朝鮮動乱への対応に関して大統領府と意見を異にしたことが結局彼の政治的生命にとっての文字通りの命取りとなったわけだが、そこで彼が到達した深刻な認識が、自分自身を含めての「アメリカ誤てり」の感情であった。彼はそこで自分自身は共産主義の危険性と犯罪性について真に覚醒したのだと自覚する。だが本国合衆国政府の中枢部は未だ眼を醒ましていない、と思う。その焦立たしさが、この〈過去百年間に犯した最大の政治的過誤〉といういささか過激な表現となって噴出したものである。ある意味ではこの告白も亦、紛れもなく「東京裁判は誤りだった」という認識の、もう一つ別の表現だったと見てよい。(p.563-565)


 1951年5月3日のマッカーサー「自衛戦争」発言に加え、マッカーサーが1950年10月15日にトルーマン大統領とウェーキ島で会談した際の発言、そしてやはり1951年5月3日の「米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだ」との発言の3点を引いて、マッカーサーに「東京裁判は誤りだった」という認識があったと説明している。
 これを一読すれば、マッカーサーがそのように認識していたと理解する読者が生じても不思議はない。

 しかし、ある程度注意して読めば、小堀氏のそのような主張には、何の根拠もないことに気づく。
 「security」 を「安全保障」と訳し、「安全保障」を「自存自衛」と言い抜ける以上の曲解、いや詭弁と言ってもいい。

 まず、ウェーキ会談について。
 小堀氏は、マッカーサーは「「東京裁判は誤りだった」という趣旨の告白をした」と述べている。
 しかし、引用している朝日新聞の記事にあるのは、次の記述である。
「北鮮の戦犯をどうするかとの質問を受けたのに対し、「戦犯には手をつけるな。手をつけてもうまくいかない」と答え、またマ元帥は東京裁判とニュールンベルグ裁判には警告的な効果はないだろうと述べた」
 小堀氏はこれを「間接的な表現」としているが、間接的も何も、マッカーサーが述べたのが上記のとおりなら、それが全てだろう。
 朝鮮戦争の戦犯に手をつけるべきではない、東京裁判とニュールンベルグ裁判には警告的な効果はないと当時のマッカーサーが考えたからといって、それで即「東京裁判は誤りだった」と考えていたと言えるものではない。
 ましてや、それ以降マッカーサーが「東京裁判は誤りだった」と終生考えていたとはなおさら言えない。司令官解任後の上院の軍事外交合同委員会での証言でそんなことは述べていないし、前々回の記事でも述べたとおり、1964年に公刊された『マッカーサー回想記』にもそんな記述はないからである。
 小堀氏は「当時の日本の新聞が甚だ不十分にしか報じていない」ともしているが、自分が勝手に想像した「趣旨」が現れていないからといって、「不十分」と当時の新聞関係者を批判する姿勢は理解に苦しむ。

 そして、もう一点の「最大の政治的過誤は、共産主義者達がシナに於いて強大な勢力に成長するのを黙認してしまった」との発言について。
 朝鮮戦争で中共軍に大敗を喫したマッカーサーが。このように慨嘆してもそれは何ら不思議ではない。
 しかしその言葉を、
「これは謂はばこの時点でのマッカーサーの信条告白であり且つ懺悔であった」
「彼が到達した深刻な認識が、自分自身を含めての「アメリカ誤てり」の感情であった。彼はそこで自分自身は共産主義の危険性と犯罪性について真に覚醒したのだと自覚する。だが本国合衆国政府の中枢部は未だ眼を醒ましていない、と思う。その焦立たしさが、この〈過去百年間に犯した最大の政治的過誤〉といういささか過激な表現となって噴出したものである」
と断じているのは、すべて小堀氏の単なる推測である。何の根拠も示されていない。
 そしてそれがさらに、
「ある意味ではこの告白も亦、紛れもなく「東京裁判は誤りだった」という認識の、もう一つ別の表現だったと見てよい」
と結論づけられるのは、なおのこと理解できない。
 わが国は、何も共産主義の浸透を防止するために大東亜戦争を起こしたのではない。共産主義の総本山であるソ連と中立条約を結び、後顧の憂いを絶った上で、南方の資源確保のために米英に開戦したのだ。
 わが国と同盟を結んでいたドイツも、独ソ不可侵条約を結んだ上でポーランドに侵攻して第2次世界大戦を勃発させ、ソ連と仲良く東欧を分割したのだから、枢軸国とソ連は共犯者である。
 中華民国の指導者蒋介石は反共主義者だった。「先安内後攘外」と称して、日本への抵抗より国内の共産党との戦いを優先させていた。その蒋介石が第2次国共合作を行い抗日優先に転じたのは、盧溝橋事件に端を発した日本との戦いが彼の忍耐の限度を超えたからである。わが国こそが「共産主義者を中国において強大にさせた」主犯であった。

 なお、小堀氏は、マッカーサー解任の理由を単に「朝鮮動乱への対応に関して大統領府と意見を異にした」ためとしているが、これではここでの説明としては不十分であろう。
 小堀氏が挙げている、1950年10月15日のウェーキ島でのトルーマン大統領との会談で、マッカーサーは、中共軍の介入を懸念するトルーマンに対して、それは有り得ないと明言した。マッカーサーの国連軍は北進を続け、中国との国境に接近したが、10月末に中共軍(義勇軍と称した)が参戦し、その大攻勢によって国連軍は南へ押し戻され、12月にソウルは中朝軍に奪還された。1951年3月、国連軍は再度ソウルを奪還したが、マッカーサーはトルーマンによる停戦の模索を無視するばかりか、原爆の使用を含む中国本土への爆撃や台湾の国府軍の投入を主張し、さらには野党共和党と協力して反大統領の動きを示したたため、シビリアン・コントロールに反するとして解任されたのである。
 自らの失敗を糊塗するため、あるいはプライドを守り抜くためならば、共産圏との全面戦争、つまり第3次世界大戦のリスクをも辞さない、大局観を欠いた人物であった。

 また、小堀氏は、「〈過去百年間に犯した最大の政治的過誤〉といういささか過激な表現」と評しているが、マッカーサーはやたらとオーバーな表現が好みだったと見えて、『回想記』にもその種の記述がいくつも出てくるから、特筆すべきことではない。
 有名なところでは、天皇との会見で、全責任を負う者として自分をあなた方の採決にゆだねるためお訪ねしたと言われて、
「私は大きな感動にゆすぶられた。〔中略〕この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした」
と述べたこと然り、幣原首相から新憲法の戦争放棄を提案されて、
「私は腰が抜けるほどおどろいた。長い年月の経験で、私は人を驚かせたり、異常に興奮させたりする事柄にはほとんど不感症になっていたが、この時ばかりは息もとまらんばかりだった」
としていること然りである。

(続く)

「セキュテリィーの為の戦争」だったと述べていた高市早苗氏

2017-08-22 07:10:28 | 大東亜戦争
承前

 私がこのマッカーサー「自衛戦争」説を初めて知ったのは、いつのことだったか、もうよく覚えていない。
 少なくとも、20年以上前のことではなかったかと思う。
 おそらく、当時のオピニオン誌か何かで読んだのだろうと思うが、違うかもしれない。
 その頃は、ああそうなのか、そういうこともあるのだろうなと、素直に受け取っていた。

 「自衛戦争」との訳がおかしいのではないかという疑問をもったきっかけも、よく覚えていない。
 ただ、昔、自民党の高市早苗・衆議院議員(前総務相)が、「セキュリティのための戦争だった」と述べていたのが、強く印象に残っている。
 それが、「自衛戦争」との訳に疑問を覚えたきっかけだったかどうかは、よくわからない。それより前だったかもしれない。

 今ネットで検索してみたら、高市早苗氏のサイトに、当時の経緯を示す同氏によるコラムが掲載されていた。

2002年08月27日
田原総一朗さんへの反論

 8月18日放送の「サンデー・プロジェクト」にて、田原総一朗さんが、私に対しておっしゃった言葉について、25日の番組で謝罪がありました。

 18日の放送では、「満州事変以降の戦争は、日本にとって自存自衛の戦争だったと思うか?」との田原さんの問いに対して「セキュリティーの為の戦争だったと思う」と私が答えた途端、田原さんがまくしたて始めました。「下品で無知な人にバッジつけて靖国のことを語ってもらいたくない」「こういう幼稚な人が下品な言葉で靖国、靖国って言う」「靖国神社に行ったら、下品な人間の、憎たらしい顔をしたのが集まっている」
 全国ネットの生番組で突然「下品」といった言葉で罵倒され、あまりの出来事にしばし茫然。数分前に「国立追悼施設新設の是非」について私が行なった説明の中に下品な言葉遣いでもあったのかしら・・と思いを巡らしながらも怒りが込み上げ、怒鳴り返したいのを我慢して座っているのが精一杯でした。その後、この件では反論のタイミングも得られないままに番組が終了。

 翌日、電話で田原さんから「下品という表現は申し訳なかった。高市さん個人の事を言ったのではなく、国会議員が集団で靖国神社に参拝することは良いと思わないし、今日も右翼から電話があったが、靖国に参拝される方の中に下品な人が多いということを言いたかった」とお詫びが有り、後日、「サンデー・プロジェクト」のプロデューサーが議員会館に足を運んで下さいました。「私たちには、個人の人格攻撃になる言葉を放送したという『放送責任』というものがありますから、次回の番組できちんと謝罪します」とのことでした。


 私はこの番組を見ていないのだが、確かこの件で今は亡き月刊誌『諸君!』が高市氏の反論文を掲載し、合わせて他の論者による田原氏批判も載せていたと思う。残念ながら記事は処分してしまって内容は確認できないが。

「満州事変以降の戦争は、日本にとって自存自衛の戦争だったと思うか?」
との田原氏の問いに、高市氏は
「セキュリティーの為の戦争だったと思う」
と答えたとある。
 高市氏が「自存自衛の戦争だった」と思うなら、「そうだと思う」と答えればいいだけである。それをわざわざ「セキュリティーの為の戦争だった」と言い換えている。
 ああこの人は、「自存自衛の戦争」という用語には疑問を覚えているのだな、それで、マッカーサー証言の原文にある「security」の語をそのまま用いているのだなと、当時思った記憶がある。
 だから、それ以前から、「by security」を「自存自衛のため」と訳していることがおかしいのではないかという疑問はもっていたのだろう。

 このコラムはこう続くのだが、

 プロデューサーの誠実な人柄に接し「十分に名誉回復していただけますね」と念を押した上で、改めて私の戦争についての考え方もご説明しました。下記の内容です。

(戦後教育を受けた私の「現代人としての価値観」や「現在の国際法」に照らして考えると、他国の領土・領海・領空内で行なう戦闘行為の殆どは(同盟国への防衛協力の場合等を除く)、「侵略行為」である。しかし、「日本にとって」「自存自衛の戦争だったか」ということなら、そうだったと思っている。その問いは「当時における戦争の位置付け」を問われたものと理解したから。欧米列強の植民地支配が罷り通っていた当時、国際社会において現代的意味での「侵略」の概念は無かったはずだし、国際法も現在とは異なっていた。個別の戦争の性質を捉える時点を「現代」とするか「開戦当時」とするかで私の答え方は違ったものになったとは思うが、私は常に「歴史的事象が起きた時点で、政府が何を大義とし、国民がどう理解していたか」で判断することとしており、現代の常識や法律で過去を裁かないようにしている。)


ここでも、「「日本にとって」「自存自衛の戦争だったか」ということなら」と、「自存自衛」は質問者側の言葉になっており、高市氏が自身の言葉として用いているのではない。

 もっとも、この説明の後段の「欧米列強の植民地支配が罷り通っていた当時、国際社会において現代的意味での「侵略」の概念は無かったはず」という点には私は同意できないのだが。
 侵略の概念があったからこそ、満洲事変に対して中華民国が国際連盟に提訴し、リットン調査団が派遣され、国際連盟が「満洲国」建国を承認せず、わが国は国際連盟を脱退せざるを得なかったのではなかったか。
 侵略の概念があったからこそ、石原完爾らは南満洲鉄道の爆破を自作自演して、正当な自衛行動であると少しでも見せかけようとしたのではなかったか。
 侵略の概念があったからこそ、わが国は大東亜戦争に際して、欧米の侵略からアジアを解放すると称したのではなかったか。

 なお、このコラムによると、8月25日の同番組では、田原氏による「下品」発言の謝罪と、高市氏の上記の考え方の説明がなされたが、後者に対して田原氏が、
「ちょっとここで反論したい。植民地政策がまかり通っていたが、第1次世界大戦が起こりまして、ウイルソン大統領が植民地政策はやめようと、その直後にワシントン条約で植民地を作るのはやめようということになった。満州事変、日中戦争はこの後のことなんです(後略)」
と述べたとのことで、番組に出席していない高市氏がこの発言に反論を加えている。
 「植民地を作るのはやめよう」という「ワシントン条約」なるものは存在しないので、この点では高市氏の主張は正しいが、第1次世界大戦後のワシントン会議で締結された9か国条約の効力までも否認しようとしているのはいただけない。
 詳しく述べる余裕はないが、中国が当時分裂状態に陥っていようが、ソ連(高市氏は何故か「ロシア」と言っている)による共産化の危機が迫っていようが、9か国条約が未だ有効であった以上、爆破事件を自作自演した上での満洲国建国という事態が、同条約に違反することは疑いようがないからだ。

 ただ、高市氏がその反論で「様々な要因の中で追い詰められていった日本の「当時における大義」はやはり「自存自衛だった」と言わざるを得ません」と述べながらも、

(その後の戦闘行為の中で発生した個別の戦時国際法違反事例を正当化はいたしません。米国が原爆投下で犯した「非戦闘員の殺戮や非軍事施設への攻撃」といった事例は、各国とも経験しているはずです)


と付け加えていたことには留意しておきたいし、さらに

いずれにしましても、公共の電波を使って「不正確な言葉と情報」を発信して、その場にいない私の考え方を批判されたやり方は、フェアーでなく、メディアの正しい在り方とは思いません。


と述べた点については、当時も現在も、完全に同意である。

(続く)

マッカーサーは東京裁判を否定したか?

2017-08-20 06:50:19 | 「保守」系言説への疑問
承前

 マッカーサーでさえわが国の戦争を自存自衛の戦争だと認めるに至った。東京裁判はわが国が侵略戦争を犯したと断じて指導者を死刑に処したものだから、自存自衛の戦争だと認めたということは、マッカーサーが東京裁判を否定したに等しい――と、この証言を好んで持ち出す人々は主張する。
 だが、マッカーサーが東京裁判を否定するなどということが現実にあり得るものだろうか。しかも、まだ裁判から数年しか経っておらず、わが国がまだ占領下にあった時期に。
 マッカーサーが実際にそう証言したり、書き残したとか、あるいはそう話したのを聞いたという証言者がいるなど、客観的な証拠があると言うのならともかく、ただの「by security」の一言にそこまでの意味を持たせるとは、何とも理解に苦しむ人々である。

 以前、『マッカーサー回想記(上・下)』(津島一夫訳、朝日新聞社、1964)を読んでいると、この上院での証言と同様の趣旨を述べている箇所が2つあることに気づいた。
 一つは、1937年にフィリピンのケソン大統領(米国統治下の独立準備政府の初代大統領。日本の侵攻により米国に亡命し、1944年客死)と共に日本を訪れたときのこと。

 一九三七年、私はケソンに同行して日本、米国、およびメキシコを訪れた。日本は国をあげて戦争熱にうかされていた。中国への日本の侵入は進み、経済的な要求はますます日本を前へかり立てていた。日本が抱えている問題は、一部は環境、一部は産業生産国として独自な発展をとげていたことに由因するものだった。日本は量質ともにすぐれた労働力と世界第一級の工場をもっていたが、せまい四つの島にとじ込められて天然資源に不足していた。日本は砂糖がなく、そこで台湾を取った。鉄のためには、満州を取った。硬炭と木材を手に入れるためには、中国に侵入した。また国防のためには、朝鮮を取った。
 こういった諸国の産物なしには、日本の産業はマヒし、何百万という労働者が職を失い、それから生じる経済破綻は革命をも起こしかねなかったのだ。しかし、日本はまだマラヤのもつニッケルと鉱物、オランダ領東インド諸島の石油とゴム、ビルマとシャム(タイ)の米と綿花を欠いていた。日本が必要とあれば武力を使ってでも日本の完全支配下の経済圏をうち立てようとしていることは、一目して明らかだった。(上巻、p.171)


 もう一箇所は、日本の敗戦後、占領者として赴任してきたときのこと。

 日本は重要な天然資源をほとんどもたず、主として国民の節約と勤勉によって過去一世紀の間繁栄を保ってきた。日本人は労働の尊厳とでもいおうか、つまり人間は怠けて悪だくみをしている時よりは働いて建設している時の方が幸福だということを発見し、実践してきた。その結果は鉄、石炭、鉱物、棉花、石油その他ほとんどあらゆる必需物資に欠けていながら、日本は偉大な産業国家となった。
 日本は貿易とバーターでオーストラリアの羊毛、アメリカの棉花、マラヤと東インド諸島のゴム、スズ、石油などの原料品を輸入し、安い労力と輸送力によって欧州や米国の高価な産品を買うことのできなかった何百万というアジアの苦力〔引用者註:「クーリ」とルビ〕階級の市場に供給してきた。多年にわたって日本の基本的な政策と目標は、日本の生産工場に対する物資の供給源を確保することであった。
 日本は台湾、朝鮮、満州を吸収し、さらに中国を支配下に引入れようと企てた。そして繁栄した日本は、膨大な利益収入をこれらの外域に注ぎ込んだ。事実、こんどの戦争の誘因の一つは、日本がルーズベルト大統領によってはじめられた経済制裁をおそれたことにあったのである。その当否はともかく、日本は経済制裁によって日本の産業がマヒすることになれば、国内革命が起りかねないと感じ、日本の産業帝国を維持するための基地を手に入れていわゆる“大東亜共栄圏”を永久に確保しようと考えたのである。(下巻、p.128)


 だから、マッカーサーが開戦前のわが国をそのように見ていたことは事実だろう。
 では、それに続けて、マッカーサーは、日本が開戦に踏み切ったのは自衛権の行使として当然のことだったとか、米国の経済制裁は誤っていたとか述べているだろうか。
 どこにもそんな記述はない。

 そして、東京裁判については、『回想記』にはどう記されているだろうか。
 判決の宣告後のことを、マッカーサーは次のように述べている。

 裁判手続きを審査することは私の仕事だったので、私はまず当時東京に代表部をもっていた各連合国の代表国の代表たちに会って、その意見を確かめた。次いで自分でも裁判記録を検討したのち、一九四八年十一月二十四日に次の審査書を発表した。
「私は長い間の公的な生活で、数多くのつらく、さびしく、みじめな任務を果してきたが、極東国際軍事裁判の日本人戦争犯罪者に対する判決を審査することほど、私にとって不愉快きわまるものは、かつてない。
 この画期的な裁判は国家活動を託されている者たちに対する国際的な同義の基準を定め法典化することを目的とするものだが、この裁判のもつ人類普遍の基本的な事柄を評価するのは私の目的でなく、また私はそれに必要な卓抜した英知も持ち合わせていない。この問題は人類が歴史以前から解決に苦しんできたものであり、永久に完全には解決されないだろう。
 この問題について、私に与えられている当面の義務と、限られた権限の範囲内で、私は次のことだけを申述べたい。関係連合国が詳細にわたって示している諸原則や手続きに照らしてみて、裁判自体の進行には、下された判決に干渉するに足るだけの手落ちは何一つ見当らない。
 人間の下す裁決は完全ではあり得ないが、判決を生み出すまでにこれほど周到にあやまちを避ける措置を講じた法的な手続きは、他に考えられない。
 多くの人が、この判決と意見を異にするのは避けられない。裁判を構成した博学な裁判官諸氏ですら完全に同じ意見ではなかった。しかし、現在の不完全な文明社会の進化の過程において、この軍事裁判ほどその誠実さを信頼できるものは他にないと信じる。私は第八軍司令官に刑の執行を命じる。
 私はそうするに当って、この悲劇的な罪のつぐないが全能の神によって一つの象徴とされ、すべての善意の人が人類の最も残酷な苦しみであり最大の罪である戦争がいかに徹底して無益であるかを知り、やがてはすべての国が戦争を放棄することを祈る。
 そのため私は、死刑執行の日に、日本全国のあらゆる宗教、あらゆる宗派のすべての人々があるいは私的に家庭で、あるいは公的な祭壇での祈りで、世界の平和が守られて人類が死滅から救われるよう神の助けと導きを求めることを要請する」
 〔中略〕
 この私の決定を覆して欲しいという要求が陸軍長官に持込まれたが、私はこの問題では米国の軍人としてよりも、国際的な資格で行動しているのだといって、やはり応じなかった。〔中略〕
 裁判中の日本国民の態度は、私にとって意外でもあり、うれしくもあった。国民は裁判手続きが公正で、検事側にも報復的な態度がなかったことに感銘を受けている様子だった。有罪判決ののちに、戦犯自身やその家族たちがわざわざ私にあてて、われわれの公正さを感謝する手紙を寄せた。戦犯裁判の結果、日本側に反感が芽生えたという気配は認められなかった。
(下巻、p.190-192)


 「この悲劇的な罪のつぐない」を象徴として「戦争がいかに徹底して無益であるかを知り」「すべての国が戦争を放棄することを祈る」と言うのだから、彼らのようになりたくなかったら、我らの世界秩序に対して軍事的に挑戦するなどという愚かな行為はすべきではないと警告しているのである。
 「平和に対する罪」の存在への疑問など、微塵も見当たらない。

 この『回想記』は1964年(マッカーサーの没年)にまとまったかたちで公刊されたものである。それ以前から部分的には発表されていたそうだ。
 マッカーサーは、最高司令官を解任されて帰国した後、1952年の大統領選挙に共和党から立候補しようとした。しかし支持は広がらず、アイゼンハワーに敗れた。この回想記が書かれた頃には、もはや政治的野心を燃やす立場にはなかった。東京裁判に批判的であれば、それを示すことに何ら差しさわりはなかっただろう。
 にもかかわらず、東京裁判に対する評価は、判決当時に発表した審査書を引用するにとどめている。
 その当時も、晩年においても、マッカーサーの東京裁判への評価が変わっていなかったことがうかがえる。
 マッカーサーが東京裁判を否定したというのは、「by security」の一言を過剰に曲解して願望を上乗せした、一部日本人による単なるヨタ話にすぎない。

 ちなみにマッカーサーは、復讐劇として評判の悪い、山下奉之と本間雅晴の両将軍の戦犯裁判についても、『回想記』では東京裁判と同様に正当性を主張している。

(続く)

マッカーサーは「日本は自衛戦争だった」と証言したか?

2017-08-18 07:12:10 | 「保守」系言説への疑問
 先日、ツイッターでこんなやりとりを見かけた。



《高須院長も仕掛けられた戦争とか言ってたけど、ほとんど日本が侵略していった戦争でしょ。その結果が太平洋戦争じゃないの。仕掛けられた戦争って何のことだ?》



《戦争は武力による政治の行使てす。連合国がABCD包囲網で禁輸を行い我が国の死滅を計ったところから戦争が始まっています。国家は生き物と同じです。連合国に支配されて搾取されている人達を独立させ、仲間にして生存権を確保する行動は人間なら正当防衛。
国際連盟で人種平等を言ったのは日本。》

 高須克弥氏のこんなツイートを見るのは今回が初めてではない。ああまたかと思うだけだ。

 「仕掛けられた戦争って何のことだ?」とは私も思う。
 ABCD包囲網で禁輸と言うが、何故禁輸されるに至ったのだろうか。わが国の侵略に対しての経済制裁であって、別に「死滅を計った」わけではなかったのではないか。経済制裁に対抗して開戦するのを是とするなら、現代の北朝鮮にミサイルを撃たれても文句は言えまい。

 搾取されている人々の解放が正当防衛なら、資本家に搾取されている人民を解放すると称して、北朝鮮が韓国へ、中共が台湾へ侵攻するのも正当防衛だろう。ISのテロも、わが国のオレオレ詐欺も正当防衛だろう。

 白人に対して人種平等をうたってたって、日本人と朝鮮人・台湾人は平等じゃなかったし、占領地の住民はなおのこと平等ではなかった。マレーやジャワやスマトラは大日本帝国の領土として併合することが決定ずみで、独立させる意志などなかった。

 高須氏のツイートに対するリプライを見ていると、氏を賞賛するのはまあいいとして、氏が引用リツイートしたにゃんこ宙返りさんに対して、無知だの、洗脳されているだの、認知症だのと侮蔑するものがいくつも見られた。
 氏のこの種のツイートがどういう層に支持されているのかがよくわかる。

 こんなリプライの一つが目にとまった。



《後にマッカーサーでさえ、日本は自衛の戦争だったと明言しています。にゃんこさんにはもう少し勉強して欲しいものです。》

 マッカーサーが、後に日本の戦争は自衛戦争だったと明言したという主張は、一部の保守系言論人などにしばしば見られる。
 そして、これが端的に言ってデマであるという指摘も、以前からなされてきた。
 しかし、こういうツイートが発せられるところを見ると、この説を信じている人もまだ多いのかもしれない。
 以前にも少し書いたことだが、改めてここで指摘しておく。

 まず、マッカーサーは「自衛の戦争」なんて言っていない。セキュリティのための戦争だと言ったのだ。

 マッカーサーがこう発言したというのは、1951年5月3日、米国上院の軍事外交合同委員会でのことである。
 小堀桂一郎『東京裁判 幻の弁護側資料』(ちくま学芸文庫、2011、旧版は『東京裁判 日本の弁明』講談社学術文庫、1995)の第3部第18節に、該当箇所の原文と和訳が、長文の解説と共に収録されている。

 マッカーサーが上院でそう述べるに至った経緯について、小堀氏はこう解説している。

 朝鮮戦争の収拾方法に関して連合軍最高司令官D・マッカーサーとトルーマンの大統領府との間に尖鋭な意見の対立が生じ、結果としてマッカーサーはその重職から解任され、直ちに本国に召還されたことは周知の歴史的事件である。〔中略〕帰国したマッカーサーが議会に於ける演説の中で、全面戦争をも辞せぬとする自分の積極的な戦略は統合参謀本部も同意済のものだった、と発言したことにより、事態は高度の政治問題に発展し、議会上院は軍事外交合同委員会を開催して、当事者達の証言を求め、真相の究明にのり出すことになった。(p.559)


 したがって、このマッカーサー証言は朝鮮戦争に関する質疑の中で述べられたもので、別に日米戦争がテーマであったのではない。
 そして、該当箇所の和訳はこうなっている。

 
問 では五番目の質問です。中共(原語は赤化支那)に対し海と空から封鎖してしまえという貴官の提案は、アメリカが太平洋において日本に対する勝利を収めた際のそれと同じ戦略なのではありませんが。
答 その通りです。〔中略〕日本は八千万に近い厖大(ぼうだい)な人口を抱え、それが四つの島の中にひしめいているのだということを理解していただかなくてはなりません。その半分近くが農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。
 潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまでに接したいづれにも劣らぬ優秀なものです。〔中略〕
 これほど巨大な労働能力を持っているということは、彼らには何か働くための材料が必要だということを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし彼らは手を加えるべき原料を得ることができませんでした。
 日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫(すず)が無い、ゴムが無い、その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。
 もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。(p.567-568)
 

 最後の一節の原文はこうである。

 They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.


 小堀氏はこの security を「安全保障」と訳しているわけだ。
 確かに security は「安全保障」とも訳される。日米安全保障条約は「Japan-U.S. Security Treaty」である。
 しかし、security は、ほかにも「安全」や「安心」、「無事」「警備」などとも訳される。「public security」なら「治安」「公安」の意味になる。
 「安全保障」とは、一般に「国外からの攻撃や侵略に対して国家の安全を保障すること。また、その体制。」(デジタル大辞泉)を言う。
 大量の失業者の発生を恐れて戦争に飛び込んだことを「安全保障の必要に迫られて」と訳すのは、誤りとまでは言えないかもしれないが、かなり不適切な訳ではないだろうか。

 そして、小堀氏の解説では、

マッカーサー証言のことは今では日本でも世人の広く知るところであろう。それは彼がその証言の一節に於いて、日本が戦争に突入したのは自(みずか)らの安全保障のためであり、つまりは大東亜戦争は自存自衛のための戦いであったという趣旨を陳述しているということが早くから知られていたからである。(p.558)


と、「安全保障のため」が何故か「自存自衛のため」にすりかわっている。

 「自存自衛」とは、わが国の米英に対する宣戦の詔勅に出てくる言葉である。つまり、わが国の開戦目的をマッカーサーですら是認するに至ったのだと、小堀氏は主張したいわけである。

 自衛すなわち self-defense とは、他者による攻撃から自分の身を守ることである。自衛隊の英語名は「Japan Self-Defense Forces」である。
 しかし、敵国軍に攻撃されたわけでもない、単なる大量の失業者の発生という国内問題を防止するための開戦が、何で自衛戦争などということになるのだろうか。
 そんな言い分を認めるなら、繰り返すが、経済制裁に対抗して北朝鮮が米韓日に対して開戦しても自衛戦争だということになる。
 ナチス・ドイツが、ヴェルサイユ体制では国が立ち行かないとしてこれを破棄し、周辺諸国へ侵略の手を広げたのも自存自衛のためということになる(彼らは「生存圏(レーベンスラウム)」なる概念を主張した)。
 冷戦期のソ連封じ込めに対抗して、ソ連が西側への武力行使に及んだとしても、その正当性を認めることになる。
 マッカーサー「自衛戦争」発言説をとる論者は、こうしたことにも同意するのだろうか。

 また、「大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。」ということは、そうでない部分もあったということになる。
 security だけでない開戦の要因があったと、マッカーサーが考えていたことになる。
 それは、具体的に何だろうか。
 この点について、マッカーサー「自衛戦争」発言説をとる論者が何かしら説明しているのを見た覚えがない。
 少なくとも、彼らが引用するこの証言においてすら、わが国の開戦が全面的に security だけが要因であるとはしていないことは、記憶にとどめておきたい。

続く