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憲法を解釈するのは政治家ではなく「法律家共同体」?

2015-12-07 22:22:27 | 日本国憲法
 朝日新聞は、たしか昨年から、2か月に1回程度、長谷部恭男・早大教授(憲法)と杉田敦・法政大教授(政治理論)の対談を朝刊の3面に載せている。
 朝日の看板的な位置づけの連続対談なのだろうと思うが、それにしては、両氏の発言には疑問に思うことが多々ある。
 その一つは以前に紹介したことがある(「憲法の解釈変更は許されないか(中) 9条解釈は既に変遷している」)。

 安全保障関連法が成立した直後の今年9月27日の朝刊に掲載された「安保法成立 民主主義の行方は」でも、長谷部氏はとんでもないことを言っていた。

 杉田敦・法政大教授 新しい安保法制が成立しました。元最高裁長官や歴代の内閣法制局長官、多くの憲法学者や法律家らが違憲と指摘するなか、政治権力が押し切った。日本の立憲主義は壊れてしまったのでしょうか。

 長谷部恭男・早稲田大教授 少なくとも、集団的自衛権の行使は憲法上許されないという、9条解釈のコンセンサス(合意)は壊れていません。法律問題が生じた時、ほとんどは条文を読めば白黒の判断がつきますが、9条のように条文だけで結論を決められない問題が時々出てくる。その時、答えを決めるのは、長年議論を積み重ねた末に到達した「法律家共同体」のコンセンサスです。今後も、昨年の閣議決定は間違いだ、元に戻せと、あらゆる機会と手段を使って言い続けていくことになります。

 杉田 しかし推進側は、最高裁判決が出るまでは、法律家でなく政治家が答えを決めると主張しています。裁判になっても、最高裁は憲法判断を避けるだろうとタカをくくっているようです。

 長谷部 希望的観測ですね。法律家共同体のコンセンサスを甘く見過ぎていると思います。そもそも憲法は政治権力を縛るためにあるのだから、その意味内容を政治家が決めてよいはずがない。安倍政権の下、シビリアンコントロール(文民統制)どころかシビリアンの方が暴走しています。

 杉田 与党は今回、議会運営上の慣例を色々と壊し、野党の質問時間さえ数の力で奪った。最終局面の大きな論点は、法制への賛否以前に、「こんなやり方が許されるのか」だったと思います。憲法は無視、議会の慣例も破壊する。これは、権力の暴走に歯止めをかけるという立憲主義の精神に反する「非立憲」です。「立憲」か「非立憲」か。これまで十分に可視化されていなかった日本社会の対立軸が、今回はからずも見えてきました。


 憲法の解釈を政治家が決めてはならない、決めるのは「「法律家共同体」のコンセンサス」だと言っている。
 驚くべき発言である。

 民主制の国では、国家権力の源は国民にある。
 権力の濫用を防ぐため憲法が設けられているが、その憲法を制定する権力も国民に由来する。
 したがって、憲法を解釈する権力も、憲法を変更する権力も、国民に由来するものでなければならない。
 わが国では、国民が国会議員を選出し、その国会議員が指名した内閣総理大臣が内閣を構成し、その内閣が指名した最高裁判所長官が裁判所のトップに立つ。
 だからこそ、裁判所が憲法の番人としての役割、違憲立法審査権を有する正統性がある。

 しかし、国民による選挙と全く無縁の、学者や弁護士といった単なる法律家に、何の正統性があるというのか。

 そもそも「法律家共同体」とは何か。そんなものがどこに存在するのか。
 そしてその「コンセンサス」とはどういうことか。何をもって「コンセンサス」が形成されたと言い得るのか。
 憲法学の世界では、現憲法の下での集団的自衛権の行使は認められないとする学者が大多数だと聞くが、少数ながら認められるとする学者もいる。
 仮に憲法学者のコンセンサスを形成するとすればどういうことになるのか。
 否認派が95%、容認派が5%を占めていれば、圧倒的多数の否認派がコンセンサスとなるのか。
 それとも、容認派の意見を受け入れ、「ちょっとだけ容認、ほとんど否認」がコンセンサスということになるのか。

 また、「シビリアンの方が暴走」とはどういうことか。
 いったい何から暴走しているというのだろうか。「「法律家共同体」のコンセンサス」からか。
 しかし、憲法のどこに「「法律家共同体」のコンセンサス」なるものが書かれているというのか。
 政府の憲法解釈の是非を決めるのは最終的には国民ではないのか。
 「非立憲」なのはどちらなのだろうか。

 「「法律家共同体」のコンセンサス」。
 この長谷部氏のセリフに、私は「陸軍の総意」という言葉を思い起こした。
 民主的プロセスとは無縁の「法律家共同体」の「コンセンサス」が政治家の判断を優越するという主張は、かつて陸軍が、本来は軍の運用を指すにすぎない「統帥権」の語を拡大解釈して、わが国の政治を牛耳ったさまに似てはいないか。

 朝日新聞は、原発事故や、裁判員制度をめぐる議論の中で、物事を専門家だけに任せていてはならないとさかんに説いていたのではないのか。
 この対談の末尾を高橋純子記者は

政治というアリーナで闘うためには、自分が何者かという自覚と、相手が何者であるかの認識、いわば「ユニホーム」が必要だ。これまでも、政党名や、「右/左」という漠然としたものはあったが、安保法制の審議を経て、新たに見いだされたのが「立憲/非立憲」だ。

 その時々にうまくユニホームを選び、常に主導権を握ってきた安倍政権。それに抗する側は、先に「立憲」のユニホームを着てアリーナに立つことができるか。小異を捨てて、対立軸を明確に示すことができるのか。そのことがいま、問われている。


と締めくくっているが、そんな呑気なことを言っていていいのだろうか。