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日々の思いをたまに綴るブログ。

危険運転致死傷罪について思うこと(2)

2008-01-30 22:29:36 | 事件・犯罪・裁判・司法
承前

 今回の報道では、危険運転致死傷罪の条文中の「正常な運転が困難な状態」という表現が元々あいまいであるのが問題だとの指摘が見られた。

 福岡地裁の解釈、つまり「正常な運転が困難な状態」とは「アルコールを摂取しているために正常な運転ができない可能性がある状態でも足りず、現実に、道路及び交通の状況などに応じた運転操作を行うことが困難な心身の状態」という解釈は、厳密に過ぎるものなのだろうか。

 この危険運転致死傷罪は平成13年12月の刑法改正により刑法に追加された罪である。この際、国会ではどのような議論がなされたのだろうか。政府はどのように説明し、議員はどのような質問をしたのだろうか。
 衆参両院の法務委員会の会議録を見てみた。
 第153回国会の衆議院法務委員会の平成13年11月6日の会議録を見てみると、次のような問答がなされている。


《○漆原委員〔註:公明党の漆原良夫。現国会対策委員長〕 先ほど、本罪が故意犯だということでございますので、まず第一項について、故意の内容について運転者はどこまで認識していることを要するのか、故意の内容についてお尋ねしたいと思います。
○古田政府参考人〔註:法務省刑事局長〕 第一項の前段は、これはアルコール等の影響により正常な運転が困難な状態というのが要件になっておりまして、そこでそういうことの認識が必要なわけでございますが、その内容としては、アルコール等の影響によって道路あるいは交通の状況等に応じた運転操作を行うことが困難な事態になっているという認識ということになります。
 ただ、そういう評価まで必要かと申しますと、それは別でございまして、例えば目がかすんでちらちら前方がよく見えなくなっているとか、そういうような困難な状態に当たる事実の認識があれば、故意としては十分であろうと考えております。
 それから、後段の高速度運転につきましては、もちろんこれは速度が速過ぎるために車のコントロールが非常に難しいという状態を意味しているわけですが、したがって、そういうことの認識が必要なわけですけれども、それは速度と同時に、カーブが曲がり切れないおそれを感じているとか、あるいはちょっとした運転のミスによってすぐぶつかってしまう可能性があるとか、そういうおそれを感じているような状態というようなことが基本的には本人の認識の重要な部分になろうかと思っております。(漆原委員「一番最後、もう一つ、進行を制御する技能」と呼ぶ)
 この進行の制御というのは、先ほど申し上げましたように、車の走行全体をコントロールすることが困難ということをあらわすためにこういう言葉を使っているわけで、そういう意味で、先ほど申し上げた酒酔い運転の場合であれば、どうも目がかすんでよく見えなくなっている、あるいは高速度運転の場合であるならば、カーブが曲がり切れないおそれがある、そういうふうなことを認識している、そういう状態のことをいうということでございます。
○漆原委員 そこで、「正常な運転が困難な状態」ということは具体的にどのようなことなんでしょうか。
○古田政府参考人 先ほど申し上げましたとおり、車両を道路あるいは交通の状況に従って的確に走行させることが困難な状態ということを意味しているということでございます。
○漆原委員 いや、それは条文を読んだだけのことであって、表現として抽象的なんですね。正常な運転が困難な状態、認識する必要、故意の内容ですから、これは認識しなきゃなりませんので、どんな状況を認識すればこれに当たるのか、これはしっかり答弁していただかないと今後のこの法律の適用に困ると思うんですが、できたら具体的な事例を挙げて解釈の基準を示していただきたいと思います。
○古田政府参考人 先ほど若干申し上げたところでございますけれども、例えば酒酔い運転であるならば、その影響のためにどうも前方がよく注視できなくなっている、見えなくなっている、あるいはふらふら蛇行運転を時々するという状態になっているというような、要するに、酒酔い運転で車の運転がまともにできないような兆候をあらわしているいろいろな事実、これはいろいろあると思いますけれども、そういう事実を認識しているということでございます。》

 また、民主党の細川律夫議員は、この危険運転致死傷罪の新設について、

《○細川委員 今、外国の例としてアメリカのミシガン州の例を出して、無免許運転致死罪が十五年以下の自由刑だ、こういうふうに言われたわけなんですけれども、このミシガン州の法律というのは、わけがわからぬといいますか、例えば故殺、故意に殺した場合ですね、車で殺したんだと思いますが、これも同じ十五年以下の自由刑になっているわけですね。本来、本質的な過失ですね、無免許運転致死罪が十五年で、故殺も十五年以下の自由刑というのは、どうもちょっと理解できないんですけれども、特別なミシガン州の例を出して、十五年が適当だというのはちょっと私は解せないんですけれども、世界の立法例からいくと、通常そんなに高くはない。最大十年ぐらいが適当な上限ではないかというふうに私どもは考えたんですけれども、それはいろいろ見解の相違でありましょうから、もう後は申しませんけれども、非常に刑が重いということで、これでは、運用上は非常にまた慎重にしていただかなければいけないというようなこともここで要望をさせていただきたいと思います。》

と、慎重な運用を要望している。

 そして、11月9日に政府原案どおり全会一致で可決されているのだが、その際附帯決議がなされている。この附帯決議のうち、次のような項目がある。

《政府は、本法の施行に当たり、次の事項について格段の配慮をすべきである。
 一 本法の運用に当たっては、危険運転致死傷罪の対象が不当に拡大され、濫用されることのないよう、その構成要件の内容等も含め、関係機関に対する周知徹底に努めること。》

 参議院の法務委員会では、平成13年11月22日に、次のような問答がなされている。


《○佐々木知子君〔註:自民党の佐々木知子議員。元検事〕 刑法は一般人にとってのマグナカルタというようなもので、こういう行為をしたら、こういう運転行為をしたらこの罰条に該当するということが私はある程度というのは、ある程度じゃなくてもうかなり明確に、一義的に定まるようなものでなければいけないのではないかと思っておりますが、残念ながら法律家の私が読んでもちょっとわかりにくい文言が並んでいるように感じてなりません。
 まず、一項の前段ですけれども、これは飲酒運転と薬物運転というふうに考えてよろしいかと思います。「アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態」とございますけれども、これは道路交通法による酒酔い運転、「アルコールの影響により正常な運転ができないおそれがある状態」というのはどういうふうに違うんでしょうか。
○政府参考人(古田佑紀君)〔註:法務省刑事局長〕 ここで「アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態」と申しますのは、これらの影響によりまして道路及び交通の状況等に応じた運転操作を行うことが困難な状態、心身の状態をいうものであります。したがいまして、単に正常な運転ができない可能性があるというだけでは足りず、例えば酒酔いの影響によって前方の注視が困難になったり、ハンドル、ブレーキ等の操作等を意図したとおり行うことが困難になる、現実にそういう運転操作を行うことが困難な状態になっているということが必要だということでございます。
 一方、道路交通法上の酒酔い運転罪につきましては、これは御案内のとおり、アルコールの影響により正常な運転ができないおそれがある状態で車両等を運転した場合を処罰するものでございますが、これはアルコールの影響等により正常な運転を期待し得ないおそれが顕著な状態ということでございまして、その認定につきましては、飲酒によるアルコールの影響によって車両を正常に運転する必要な注意能力を欠くおそれがあると認められる状態にあれば足り、実際にその能力を欠いたり、あるいは失ったというふうな状態に至るまでのものではないと、そういうことでございまして、要するに、おそれの段階の話か、実際にそういう正常な運転ができない、あるいは困難な状態というところまで必要とするかという違いということでございます。
○佐々木知子君 正常な運転が困難な状態であると運転者本人が認識しているかどうかということに、その立証はどうするのか、あるいはそういう認識の要はないというふうに考えておられるのか。実務において道路交通法における酒気帯び・酒酔い運転もそれは同時に立件するのか、もしそうだとすれば、その罪数関係もお伺いいたします。
○政府参考人(古田佑紀君) これは、基本的行為が故意によって行われるということが前提でございますので、正常な運転が困難な状態にあることについての認識は必要でございます。
 ただ、正常な運転が困難という評価自体を本人がしていると、そこまでの認識が必要だというわけではなくて、そういう困難であるということを基礎づける事実を認識していれば故意としては十分であると考えております。
 その具体的な例としては、例えばしばしば居眠りしてしまうとか、あるいはしばしば目がかすんで見えなくなる、あるいはハンドルを思うように操作できなくてしばしば蛇行する、そういうふうな状態になってきている、そういうことを本人が認識していれば足りると。そういうことの立証につきましては、もちろん走行の形態が非常に大きな要素になるわけですが、その前の飲酒量でありますとかそういうようなことから総合的に捜査をして判断をして立証していくということになると考えております。
 また、罪数関係についてのお尋ねですが、これは酒酔い運転あるいは酒気帯び運転の一部を完全に取り込んだものでございますので、そういう意味ではこの本罪に当たるような事故を起こした場合には、本罪の事故との関係で酒酔い運転あるいは酒気帯び運転の罪は本罪に吸収されると考えております。》

 参議院法務委員会でも原案どおり全会一致で可決されている。その際附帯決議がなされており、その中には次のような一節がある。

《政府は、本法の施行に当たり、次の事項について格段の配慮をすべきである。
 一 危険運転致死傷罪の創設が、悪質・危険な運転を行った者に対する罰則強化であることにかんがみ、その運用に当たっては、濫用されることのないよう留意するとともに、同罪に該当しない交通事犯一般についても事案の悪質性、危険性等の情状に応じた適切な処断が行われるよう努めること。》


 以上のことから、「正常な運転が困難な状態」について政府は、
「車両を道路あるいは交通の状況に従って的確に走行させることが困難な状態」
「例えば酒酔い運転であるならば、その影響のためにどうも前方がよく注視できなくなっている、見えなくなっている、あるいはふらふら蛇行運転を時々するという状態」
「単に正常な運転ができない可能性があるというだけでは足りず、例えば酒酔いの影響によって前方の注視が困難になったり、ハンドル、ブレーキ等の操作等を意図したとおり行うことが困難になる、現実にそういう運転操作を行うことが困難な状態になっている」こと
「例えばしばしば居眠りしてしまうとか、あるいはしばしば目がかすんで見えなくなる、あるいはハンドルを思うように操作できなくてしばしば蛇行する、そういうふうな状態になってきている」こと
だと説明していることがわかる。そして、
「そういうことを本人が認識してい」
ることが必要であり、その立証については、
「もちろん走行の形態が非常に大きな要素になる」
が、飲酒量なども合わせて総合的に判断するとしている。

 前回述べた福岡地裁の判決における危険運転致死傷罪の解釈は、この政府解釈と一致していることが、対比していただければおわかりだろう。

 そして、両院の委員会の会議録をざっと見てみたが、これでは要件が厳しすぎるのではないかとか、もっと容易に適用できるように緩めるべきではないかといった指摘はない。
 それどころか、この罪の適用に当たっては、「不当に拡大され、濫用されることのないよう」にしなければならないなどと決議している。

 ということは、立法の趣旨に鑑みると、やはり今回のようなケースにこの罪を適用するのは困難だったのだと思う。
 そんなことは検察も承知しているが、幼児3人死亡という悲劇的な結果と世論の高まりを受けて、無理を承知で危険運転致死傷罪での起訴に踏み切らざるを得なかったのではないだろうか。
 
 例えば、昨年6月、兵庫県尼崎市で、泥酔運転の上大人3人を死亡させるという事件があり、12月に危険運転致死罪で懲役23年の判決が言い渡された。
 この件と対比してみると、今回の件が危険運転致死傷罪にそぐわないことが理解しやすいだろう。
 
 私は、今回の福岡地裁の判断は、極めて妥当だと考える。

(2008.2.2 尼崎の事件のリンク先を追加するなど若干修正)

(以下2012.6.2付記)
 衆議院会議録の引用中、質問者の細川委員の発言として、
「今、外国の例としてアメリカのミシガン州の例を出して、無免許運転致死罪が十五年以下の自由刑だ、こういうふうに言われた」
「無免許運転致死罪が十五年で、故殺も十五年以下の自由刑というのは、どうもちょっと理解できない」
とあるが、引用した部分の前を読むと、答弁者の古田政府参考人(法務省刑事局長)は、
「アメリカの例を申し上げますと、州によって差がございますが、例えばミシガン州では、飲酒運転致死罪が十五年以下の自由刑または二千五百ドル以上一万ドル以下の罰金あるいはその併科、イギリスにおきましても、飲酒運転致死罪が十年以下の自由刑、そんなような処罰規定があるように承知しております」
と、無免許運転致死罪ではなく、飲酒運転致死罪の規定について述べている。
 これが単に細川委員の勘違いなのか、それとも無免許運転致死罪についても同程度の重罰規定があるのかは不明。

危険運転致死傷罪について思うこと(1)

2008-01-27 17:41:22 | 事件・犯罪・裁判・司法
 今月8日に福岡地裁で判決のあった、危険運転致死傷罪の適用の是非が問題となった裁判で、検察側が控訴したと聞いた。

危険運転罪求め控訴 3児死亡事故 福岡地検「地裁判決には誤認」(西日本新聞) - goo ニュース

 この事件では、危険運転致死傷罪の成立を認めなかった1審判決に対する批判を多数見かけた。
 例えば、判決の翌日の『朝日新聞』社説「3児死亡事故―危険運転でないとは」(ウェブ魚拓を取り忘れたので、全文を掲載しているこちらのブログにリンクを貼らせていただく)は、裁判員制度の導入を前に、普通の人の常識に反する判決があってはならないとしている。


《約4時間の間に自宅や居酒屋、スナックで缶ビール1本と焼酎のロック8~9杯のほか、ブランデーの水割り数杯を飲んだ。その足で車を運転し、時速100キロで暴走して車に追突した。追突された車は海に転落し、一家5人のうち幼児3人が亡くなった。

 これが危険運転致死傷罪の危険運転にあたらないというのは、普通の人の常識に反していないだろうか。》


 しかし、私はこの社説を読んで、むしろ判決の論理に説得力を覚えた。
 社説によると、


《問題は、今回の事故が危険運転、つまり「正常な運転が困難な状態」に当たるかどうかだった。

 元市職員はスナックから追突現場まで約8分間、普通に右折、左折やカーブ走行を繰り返し、蛇行運転などはしていない。警察官による飲酒検知では、酒酔いではなく酒気帯びだった。事故の原因は脇見運転だ。それが危険運転ではないと判断した裁判所の論理だった。》


という。
 これに対し社説は、


《いくら個人差があるといっても、今回のように大量に酒を飲んで「正常な運転」ができるとは、とても思えない。蛇行運転をしていないからといって、正常な運転とはいえないだろう。現に追突して大事故を起こしているのだ。

 警察官による検知が酒気帯びだったというのも、事故から1時間近くたってからのことだ。その間に元市職員は現場から逃げ、水を大量に飲んでいた。少しでも飲酒の影響を減らそうとしたのだろう。事故直後に検知していれば、どうだったのか。》


と疑問を投げかけているのだが、さてどうだろう。
 追突事故を起こしたから「正常な運転」ではない? ならば全ての追突事故には、いや全ての交通事故に危険運転致死傷罪が適用できることにならないか?
 「事故直後に検知していれば、どうだったのか。」さあどうだったのだろう。酒酔い状態だったかもしれない。飲酒検知の時の酒気帯びの程度と飲んだ水の量を考慮すれば大まかな見通しはつくだろう。そんなことを判決が見逃すとは到底思えない。

 危険運転致死傷罪の条文中、飲酒運転に関する箇所を見ると、

《アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させ、よって、人を負傷させた者は15年以下の懲役に処し、人を死亡させた者は1年以上の有期懲役に処する。》

とある。この「正常な運転が困難な状態」であったかどうかが問われたわけだ。

 さらに、判決当日の『朝日新聞』夕刊に掲載されていた判決要旨を読んでみると、その論理は納得のいくものだった。
 判決要旨にはこうある。

《危険運転致死傷罪が成立するためには、単にアルコールを摂取して自動車を運転し人を死傷させただけでは十分でないことはもちろん、「正常な運転が困難な状態」とは、アルコールを摂取しているために正常な運転ができない可能性がある状態でも足りず、現実に、道路及び交通の状況などに応じた運転操作を行うことが困難な心身の状態にあることを必要とすると解すべきである。》

《出発後、事故を起こして乗用車を停車させるまでの約8分間にわたって、左右に湾曲した道路を道なりに進行し、その途中に点在している交差点を右左折、直進で通過することを繰り返していただけでなく、幅約2.7メートルしかない道路でも、接触事故などを起こすことなく、車幅1.79メートルの乗用車を運転、走行させていたこと▽事故直前、RVを間近に迫って初めて発見すると急制動の措置を講じるとともにハンドルを右に急に切るという衝突回避措置を講じていること▽事故直後、反対車線に進出していることに気づくとハンドルを左に急に切り、乗用車を自車線に戻していること、が認められ、これらの事実はいすせれも、被告人が現実に道路及び交通の状況などに応じた運転操作を行っていたことを示すもので、事故当時も、被告人が正常な運転が困難な状態にはなかったことを強く推認させる事情と言える。
 被告人が脇見運転を継続していた区間はほぼ完全な直線である上、車道幅は約3.2メートルと広かったこと、被告人にとっては通勤経路であって通り慣れた道であったこと、交差点を左折してから進路前方を走行している車両は見えなかったことからすると、被告人は脇見をしやすい状況にあったと言える。
 また、被告人は、脇見運転の継続中も蛇行などをした形跡はなく、走行車線から大きくはみ出すことなく運転していたと認められるから、漫然と進行方向の右側を脇見していたとはいえ、前方に対する注意を完全に欠いてしまっていたとまでは言い切れない。
 何より、脇見運転の前後で被告人が現実に道路及び交通の状況などに応じた運転操作を行っていたことを併せ考慮すると、結局、脇見運転の事実をもってしても、被告人が正常な運転が困難な状態にあったと認めるには足りないと言うべきだ。》

 また、飲酒の影響については、こうある。

《被告人は〔中略〕事故当時、酒に酔った状態であったことは明らかだ。しかし他方で、被告人は、スナックを出て乗用車を運転し事故現場に至るまでの間に、アルコールの影響によるとみることができる蛇行運転や居眠り運転などに及んだことはなく、衝突事故なども全く起こしていなかったことが明らかである。》

《事故の48分後に実施された被告人の呼気検査において、酒気帯びの状態にあったと判定されていることからすれば、酒酔いの程度が相当大きかったと認定することはできない。》


 これはやはり、危険運転致死傷罪の成立は困難だったのではないかという印象を受けた。
 大量の飲酒をした上で車を運転したこと、そして逃走したこと、さらに水を飲んだことは、いずれも悪質だし、非難されるべきだろう。
 しかし、飲酒運転をしていたことと、事故を起こしたこととの間に因果関係があることが立証できなければ、危険運転致死傷罪を適用すべきではないのではないか。
 態様が悪質で、結果が重大だから、重罰規定のある危険運転致死傷罪を適用すべきだと朝日社説は述べているように思える。しかしそれは、法治国家の姿ではない。


(以下2012.6.2付記)
 この福岡地裁の判決に対しては、検察側のみならず、被告人も量刑を不服として控訴した。
 2009年5月15日、福岡高裁は一審判決を破棄し、危険運転致死傷罪の成立を認め、懲役20年を宣告。被告人は即日上告した。
 2011年10月31日、最高裁は上告を棄却した。裁判官5人のうち1人が少数意見で危険運転致死傷罪の成立を否定したという。

山本弘『“環境問題のウソ”のウソ』(楽工社、2008)

2008-01-19 23:47:30 | 生物・生態系・自然・環境
 SF作家であり「と学会」会長としても知られる著者が、ベストセラーとなった『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』(洋泉社、2007)の著者、武田邦彦を批判した本。

 『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』が売れているとは聞いていたが、私は読んでいない。その前の武田の著書『「リサイクル」してはいけない』(青春出版社、2000)は読んでおり、それと同様の内容と思われたからだ。
 その後、続編『環境問題はなぜウソがまかり通るのか2』も昨年同じ洋泉社から出版された。こちらは読んでみた。

 『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』にデータ捏造疑惑があることは、以前まったけさんのブログ(現在休止中)で知った。ペットボトルのリサイクル率が低すぎるということが、業界団体の公式データから明らかになっているかのように述べているが、その数字が実は業界団体のものではなかったという話だったかと思う。
 また、『「リサイクル」してはいけない』でも、ごみは分別せずに全て燃やして、灰を人工鉱山に貯めておき、将来金属資源が枯渇したときに利用せよといった奇矯な主張がみられ、首をかしげていた(人工鉱山を管理するコストとか、安全性とか、灰から微量の金属を抽出する技術とか、問題点がありすぎると感じた。普通に分別した方がはるかに効果的ではないかと)。
 『環境問題はなぜウソがまかり通るのか2』では、京都議定書は「現代の不平等条約」であり、先進国中わが国だけが馬鹿をみたという趣旨の記述があったが、その理由を読んで説得力に乏しいと感じた。
 しかし、著者の主張の大本の部分、つまり、ペットボトルのリサイクルはかえって石油を無駄に消費するとか、リサイクルのためにコストがかかるということはその分環境負荷が大きくなるということだといった主張は正しいと考えていた。そのようなことをこのブログで書いたり、まったけさんの所でコメントしたこともある。
 だが、山本によると、それすらも誤っているという。
 山本によると、武田は『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』で、1本のペットボトルをリサイクルするには3.5倍の石油を使うと述べている。しかしその根拠は不明であるという。
 また、武田が批判する、ペットボトルからペットボトルが再生されていないという点についても、既にそのような技術が実用化され、再生ペットボトルが利用されている、しかし武田は敢えてそれを無視しているのだという。
 さらに、コストや価格が、リサイクルに要する資源やエネルギーを正確に反映しているかのように語る武田の主張は暴論だとする。

《1965~1975年にかけての民間公害防止設備投資額の累積額は、約5.3兆円に達した。〔中略〕
 では、5.3兆円もの金を使った分、環境負荷は増えただろうか?
 そんなことはない。有害な排出物は減り、空や海はきれいになったのだ。
 武田教授をはじめとする環境問題懐疑論者は、よく環境保護にかかるコストを問題にする。だが、単純にコストだけを見てはいけないことは、70年代の日本人が公害対策にかけた努力を見れば分かる。当たり前の話だが、環境負荷を減らすためのコストは、環境負荷を減らすのだ。》

《トンあたり25万円の税金を使って回収したペットボトルを、業者に3万8900円で売っているのだから、当然、まったく採算は取れていない。このへんも「けしからん!」と怒る人がいることだろう。
 しかし、よく考えていただきたい。そもそも環境対策というものは、短期的に見れば採算なんか取れないものなのである。コストだけ見れば、リサイクルなんかせず、じゃんじゃん使い捨てにするのがいいに決まってる。最終的にはごみがあふれかえって、浪費のツケを払わされることになるかもしれないが、それは何年、何十年も先の話だ。
 環境対策にかぎったことではない。税金というのは、社会福祉、教育、治安維持、防衛、道路網整備など、短期的な採算の取れない活動に注ぎこむものだ。採算が取れる活動なら民間企業にまかせておけばいいのだから。
〔中略〕
 環境問題を論じる際について考えなくてはいけないのは、コストそのものではない。そのコストがどれぐらい環境負荷を減少させるのか、またそれだけのコストをかける価値があるのか、という点である。》(p.65~66)

《人件費は環境負荷に比例しない。人件費とは人間が生きていくための金である。人件費をゼロに減らしても、人間が生きている以上、人件費分の環境負荷はほぼそっくりこの世に残るのだ。
 人件費が増える場合も同じだ。ごみを分別収集するために作業員を雇い、人件費が増えても、その分の環境負荷が増えるわけではない。リサイクルによる環境負荷を検討する際には、燃料費や施設費など、「リサイクルをしなければ生じなかった活動」にのみ注目しなければならない。》

 言われてみればそのとおりなのだが、言われるまでこういった視点から武田説を疑うことがなかったのは、我ながら恥ずかしい。

 ただ、山本の態度にも疑問がある。
 山本は、次のように述べている。

《武田教授の本の内容がすべてウソだとは言わない。正しいこともたくさん書いてある。勉強になる部分や、「もっともだ」と思う部分もいっぱいある。しかし、明らかなウソや間違いが多すぎる。だから僕は武田教授の本を信用しない。》

 しかし、その正しい部分、もっともな部分は一切示されていない。したがって読者にはそれがわからない。ただ「明らかなウソや間違い」、つまり批判が容易な部分のみを取り上げているのに、結果として武田の著作全体への不信感が残る仕掛けとなっている。
 これが1本の論文程度のものなら、こうしたスタイルもあっていいだろう。しかし、本書は丸々一冊のかなりの部分を武田批判に充てており、しかも判型も『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』に似せている、明らかな反論本である。その割に武田批判の内容はそれほど深くない。どうせなら、武田の主張の正しい部分、もっともな部分も挙げてほしかった。その方が、環境問題懐疑論者には有用だったろう。
 また、山本は「ミランカ」という映像配信ポータルサイトの番組で武田と対談し、その後さらに武田とメールで何度もやりとりしているが、そのメールの内容を本書で公開している。その章で、次のように述べている。

《なお、武田教授には、ミランカの番組に出演した際、話し合った内容を本に書くつもりだということは説明している。当然、教授はそれを承知したうえで、本では自分の意見を正しく紹介してほしいという意図でメールを送ってきたはずである。
 したがって、ここでメールの内容を公開しても差し支えないと判断した。教授の考えを読者に正しく伝えるためには、教授自身の文章を要約したり書き直したりせず、原文通りに紹介するのが最適だと考えたからである。》

 ずいぶん勝手な言いぐさだと思う。せめて、掲載の可否を武田に一言問い合わせるべきではないのか。その結果拒否されたなら、自分で適宜要約や書き直しをすべきだろう。
 メールはあくまで私信である。公開を前提としたものではない。
 私は初期の「と学会」本の愛読者だった。その後、あまりこの方面への関心を持たなくなっていたのだが、それでも、トンデモ本をきちんと批判するという彼らの姿勢は好ましく思っていた。
 しかし、この一件で、山本弘という人はずいぶん礼節に欠けるところがあるのだなと思った。

新聞が環境にできること

2008-01-08 23:36:22 | マスコミ
 先月のことだが、『産経新聞』紙上で公文俊平の文章を読んでいて、驚いた。


《日本人は近年、1人あたり世界平均の5倍、年間250キロ近くもの紙を消費するようになったが、その2割ほどが新聞紙だ。そのさらに2割ほどが、いわゆる宅配の「押し紙」であって、消費者の手元に届くことなしにリサイクルにまわされている。これほど大量の紙の消費、いや浪費を、いつまでも続けていくわけにはいかないだろう。》


 これは本当だろうか。本当だとしたら、恐るべき事態だ。

 リサイクルしているとしても、回収や輸送にも、またリサイクルのための設備を稼働させるのにも、石油が使われている。
 紙の使用量を抑えることこそが、環境への負荷を軽減する。

 私が新聞を読むようになったころ、朝刊は24ページが基本だったように記憶している。
 今、我が家でとっている『朝日新聞』は、34ページ前後。
 それに広告のチラシも合わせると、毎日膨大な量の紙が配達されてくる。そのほとんどが紙ゴミとなるわけだ。
 最近は若い人に新聞をとらない人が増えていると聞くが、そうした生活の方がむしろ環境に優しいと言えそうだ。

 新聞はよく環境問題を報じるが、自らの環境負荷については、どこまで問題意識を持っているのだろうか。
 1月3日の朝日の社説は「技術の底力で変身しよう―脱温暖化の決意」(ウェブ魚拓)と題して、技術革新の加速による地球温暖化防止を唱えている。
 それはそれで結構だが、新聞は新聞でもっとできることがあるのではないか。

 社説は言う。


《暮らしの中に省エネルギー商品を広めるには、トップランナー制度がある。

 この制度では、政府がメーカーに対して製品ごとに省エネの基準を期限を区切って課し、最も優れていた製品の性能を、次の期限には全メーカーに義務づける。達成できないとペナルティーもある。基準を大きく上回れば税金を減らしてもらえる品目もある。

 日本の自動車業界は、ガソリン乗用車の燃費を10年間で2割以上改善した。このこともあり、国内のCO2排出量で運輸部門はこの10年間、ほぼ横ばいだ。

 この制度は、エアコンや冷蔵庫にも適用され、効果を上げている。》


 新聞にもこの制度を導入してはどうだろうか。

 マジメな話、朝刊34ページ、夕刊14ページの新聞と、ほぼ同じ分量の広告が毎日届くというのは、普通の家庭では、紙ゴミ処理の負担感がかなり大きいと思う。
 文字を大きくしたりカラー写真を増やしたりするだけでなく、紙の分量を減らすことも、立派な読者サービスだと思うのだが、そんな新聞は現れないものだろうか。


平山廉『カメのきた道』(日本放送出版協会(NHKブックス)、2007)

2008-01-07 23:17:00 | 生物・生態系・自然・環境
《私たちは地球生命の頂点に位置するのが人類と勘違いしていないか・・・。
 甲羅というシェルターとスローな生き方という
 第三の戦略を
 選んだカメたち》

という帯の言葉に惹かれて買ってみた。

 著者は早稲田大学国際教養学部教授。専門は化石爬虫類だという。
 「はじめに」でこう述べている。

《カメに関する本というと、ほとんどがペット動物としての飼育に関するものや、ウミガメの生態を扱ったもの、あるいは人間との関わりを文化史的に論じたものぐらいで、化石をベースに彼らの進化を論じたものは見たことがない。》

 で、著者がそれを書いてみたということらしい。
 化石のみならず、現存する亀の生態や、亀の体の仕組みの解説、人間と亀との関わり合いなど、記述は多岐にわたっている。文章は平明で、気軽に面白く読めた。

 進化論に対する有力な批判として、中間形質をもつ化石が発見されていないという主張があると、昔聞いた覚えがある。
 これは、亀についても当てはまるようだ。
 本書によると、最古の亀は、中生代三畳紀の中頃に現れたという。その亀は、原始的な特徴がいくつもあるものの、既に完全な亀の形態を備えているという。
 亀の甲羅は背骨や肋骨と一体化している。このような特徴は他の爬虫類はおろか、脊椎動物にも見当たらない。アルマジロやヨロイ竜(アンキロサウルスなど)のように装甲をもつ動物は他にもいるが、これらは皮膚を硬化させたものであり亀とは全く構造が異なる。
 ところが、甲羅を中途半端に発達させた亀(の祖先たる爬虫類)は、未だ発見されておらず、亀がどのような爬虫類を祖先として進化してきたかについては、現在でも論争が続いているという。本書では、この点について著者の自説が展開されており、興味深い。

 日本の亀としては、ニホンイシガメとクサガメが代表的だが、本書によると、クサガメは人為的に持ち込まれた可能性が高いのだという。

《化石はもちろんのこと、先史時代の遺跡からも出土しておらず、また古い文献を見てもニホンイシガメやスッポンの記述はあるのに、クサガメについては何も触れられていない。現生カメ類が専門の安川雄一郎さん(高田爬虫類研究所沖縄分室)によると、近世(おそらく室町時代末期から江戸時代初期)になって朝鮮半島から移入されたのではないかということである。》

 知らなかった。
 そういえば、カブトエビやダンゴムシのような身近な動物も帰化動物であると最近知った。
 現在、都会の公園の池で見られる亀は、外来種であるミシシッピアカミミガメ(ペットとして売られているミドリガメの成体)がほとんどで、私などは違和感を禁じ得ないのだが、もう数百年もすると、ミシシッピアカミミガメもクサガメのように在来種として扱われることになるのだろうか。

ある鉄道関係の新聞記事を読んで

2008-01-06 23:56:14 | 日本近現代史
 毎週土曜日の『朝日新聞』夕刊に「ぷらっと沿線紀行」という連載記事が載っている。日本各地の鉄道沿線をめぐる記事で、薄い鉄道ファンである私はいつも楽しみにしている。
 1月5日の第34回は、神戸電鉄の有馬・粟生線が取り上げられていた。
 その記事中に、次のような文章がある(ウェブ魚拓)。


《有馬線の開業は1928(昭和3)年。10年後に現在の粟生線の三木まで開通する。山岳を貫く難工事は事故も多発した。

 金鳳斗、李命福、安龍達……。1936(昭和11)年11月に起きた藍那トンネル崩落事故を伝える大阪朝日新聞には、死亡した6人の朝鮮人の名が並ぶ。建設を担ったのは、千人を超える朝鮮人労働者だった。

 神戸学生青年センターの飛田(ひだ)雄一さん(57)は在日2、3世らと当時の新聞を調べ、27~36年に5回の事故で計13人が死んだことを明らかにした。「発展の陰には過酷な労働があった歴史を見つめてほしい」 》


 私はこの記事を読んで、おそらくは執筆者が意図したこととは異なる点に興味を持った。
 私は在日朝鮮人の歴史についてそれほど詳しくはないのだが、韓国併合後、もっぱら経済的理由により、多くの朝鮮人が日本に渡航したと聞く。しかし、労働は過酷かつ低賃金で、また日本人からの差別に苦しめられたと聞く。だから、当時の日本社会においては、在日朝鮮人は的な扱いを受け、表立っては語られることがない存在だったというイメージが私にはあった。
 ところが、この「ぶらっと沿線紀行」によると、大阪朝日のような有力紙に、事故で死亡した朝鮮人労働者が実名で掲載されていたという。
 実名で掲載されたということは、それだけのニュースバリューがあったということだろう。つまり、その新聞を読んで、えっあの人が亡くなったのかと思う読者がいたということだろう。
 このトンネル崩落事故を起こした工事は、かなり無理な進め方がなされていたらしい(参考)。しかし、朝鮮人労働者が牛馬同然の純然たる消耗品としてしか扱われていなかったのなら、わざわざ氏名や人数までも報道する必要はなかっただろう。
 当時、朝鮮人もまた日本社会を構成する一員と認められていたことを示す1つの資料と言えるのではないかと、私は受け取った。

 藍那トンネルと朝鮮人労働者については、こちらのサイトも参考になる。