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繰り返す。A級戦犯と集団的自衛権に何の関係があるのか

2016-03-27 23:02:27 | 日本国憲法
 3月16日付朝日新聞朝刊の「声」欄に、岡山県の僧侶(60)による「A級戦犯発言知り 護憲誓う」と題する投稿が載っていた。紙面の右上という、一番目立つ位置である。

 安倍晋三首相が、在任中に憲法改正をと明言した。憲法9条の改憲が最大目標なのは明らかだ。
 実は私自身、去年までは迷っていた。今の国際情勢を考えれば、集団的自衛権行使容認を明文化した憲法に変えた方が戦争の抑止力になるかもしれないと。それが改憲に絶対反対と意思を固めたのは、A級戦犯の発言を読んだのがきっかけだ。
 A級戦犯4人の発言をラジオ局が1956年に録音放送し、その後、新聞記事になったものだ。元陸軍大将の荒木貞夫氏は「負けたとは私は言わん。まだやって勝つか負けるかわからん」と言い、「敗戦」ではなく「終戦」と発言していた。彼は終身刑の判決を受けたが、仮釈放されて生きた。しかし、軍の命令で戦い命を落とした人、終戦後にB・C級戦犯として処刑された人も多くいるというのに……。
 仏教では「一切衆生悉有仏性」という教えがあり、皆に平等に素晴らしい命があると説く。これに真っ向から反するのが、命の価値に上下をつける戦争だ。私の迷いは消えた。戦争の放棄を宣言した日本国憲法を守り抜かなければならない。


 このA級戦犯のラジオ放送での発言の記事というのは、朝日新聞が2014年6月20日に社会面で報じた「いま聞く A級戦犯の声」だろうか。

 私はこの記事を読んで、当ブログに

  朝日新聞記事「いま聞く A級戦犯の声」を読んで

  個別的自衛権なら戦争への「歯止め」になるのか(上)

という2つの記事を書いた。
 その2つめの記事でも述べたことだが、この僧侶の投稿を読んで、繰り返さざるを得ない。
 集団的自衛権の行使とA級戦犯の発言に何の関係があるというのか。

 荒木貞夫の発言は、こちらの高知新聞の2013年の記事でも読むことができる。

  A級戦犯 ラジオ番組で語る 57年前の音源発見 「敗戦 我々の責任でない」

「(米軍が戦争に)勝ったと僕は言わせないです。まだやって勝つか、負けるか、分からんですよ。あの時に(米軍が日本本土に)上陸してごらんなさい…彼らは(日本上陸作戦の)計画を発表しているもんね。九州、とにかくやったならば、血は流したかもしれんけど、惨たんたる光景を、敵軍が私は受けたと思いますね。そういうことでもって、終戦になったんでしょう」
 「だから、敗戦とは言ってないよ。終戦と言っとる。それを文士やら何やらがやせ我慢をして終戦なんと言わんで、『敗戦じゃないか』『負けたんじゃないか』と言っとる。そりゃ戦を知らない者の言ですよ。簡単な言葉で言やあ、負けたと思うときに初めて負ける。負けたと思わなけりゃ、負けるもんじゃないということを歴戦の士は教えているものね」


 確かに、愚劣な発言だと思う。
 しかし、それで何故、集団的自衛権の行使を認める改憲に絶対反対となるのか。
 荒木は、わが国は集団的自衛権を行使すべきだと説いたのだろうか。
 わが国は、集団的自衛権を行使して、先の戦争を始めたのだろうか。
 違う。
 わが国が保有していた南満州鉄道の爆破を自作自演して満洲事変を起こし、中国に駐屯していたわが軍に対する攻撃をきっかけに支那事変(日中戦争)を起こし、経済制裁に対して「自存自衛の為」と称して対米英蘭戦(太平洋戦争)を起こしたのである。
 いずれも、個別的自衛権に基づいて戦争を起こしたのである。集団的自衛権は関係ない。

 そもそもこの投稿者は、荒木が何をした人物なのかわかっているのだろうか。
 荒木貞夫(1877-1966)は、真崎甚三郎と並んでいわゆる皇道派の中心人物だった。帝国陸軍を「皇軍」と呼び出したのは荒木だという。青年将校からウケが良く、十月事件では、クーデター後の新内閣の首相と目されていた。1931年に犬養内閣で陸相に就任。参謀次長には真崎を迎え、陸軍は皇道派の全盛期を迎えた。続く斎藤内閣でも陸相に留任したが、軍の統制を不安視され、病気を理由に林銑十郎と交代した。1936年の二・二六事件後の粛軍で現役を退いた。1938年、第1次近衛内閣で文相に起用され(皇道派は近衛と近かった)、「皇道」教育を推進した。続く平沼内閣でも留任したが、その後は表舞台に立つことはなかった。
 端的に言えば、わが国の軍国主義化に一定の役割を果たしたということになるのだろう。
 しかし、満洲事変を起こしたわけでもなく、日中戦争や対米英蘭戦を指導したわけでもない彼が、果たしてA級戦犯すなわち「平和に対する罪」を問われ、終身刑に処されるにふさわしい人物だったのだろうか。
 
 そして、安倍首相は荒木のように自衛隊を「皇軍」と呼び、「皇道」教育を進めているだろうか。
 自衛隊の制服組と親しく交わっているだろうか。

 また、敗戦を「終戦」と称してきたのは荒木に限らず、わが国で一般的に行われてきたことではないのか。「終戦記念日」と言ってきたのではないのか。

 投稿者は、
「戦争の放棄を宣言した日本国憲法を守り抜かなければならない」
とも言うが、2012年に作成された自民党の憲法改正案では、9条は

(平和主義)
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。


とされており、「戦争の放棄」を宣言していることには変わりない。

 現憲法の9条は、

国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。


としているから、「国際紛争を解決する手段」ではない「国権の発動たる戦争」は放棄していないわけで、「戦争の放棄」については改正案の方が現憲法より徹底していると見ることもできるというのに。

 たかだか元A級戦犯の一発言で改憲絶対反対と意思を固めるようでは、集団的自衛権の行使容認の迷いとやらも、どこまで真面目に考えた上でのことだったのか、怪しいものだと思う。


領土問題をめぐる議論のウソ(4) 4島全てを放棄したというウソ

2016-03-26 22:51:51 | 領土問題
承前) 

 BLOGOSの記事「大前研一「日本人が知らない日本の歴史」について、話をしよう【前編】」という記事に含まれるウソの指摘を続ける。

 大前氏の記事にはこうある(太字は引用者による。以下同じ)。

スターリンが主張したのは南樺太の返還と千島列島の領有で、ルーズベルトはこれを認める見返りとしてスターリンに日ソ中立条約の破棄と対日参戦を求めた。実は、ルーズベルトは日米開戦当初から何度もソ連に対日参戦を要請してきた。スターリンは日ソ中立条約を表面上は守ってきたのだが、ヤルタ協定でドイツ降伏後2カ月ないしは3カ月というソ連の対日参戦のタイミングが決まった。

ドイツが無条件降伏したのは1945年5月。その3カ月後の8月8日にソ連は日本に宣戦布告(日ソ中立条約は4月5日に不延長を通告)して、ソ連軍は満州、南樺太、朝鮮半島に進攻。千島列島に到達したのは日本がポツダム宣言を受諾した8月14日以降。

したがって、ソ連が日ソ中立条約を破って南千島を不当占拠したという日本政府の言い分は当たらない。戦争はすでに終わっていて、日本は「無条件」降伏をしていたのだ。満州および南樺太、千島列島に対するソ連の出兵がアメリカの強い要請によることは明白だし、北方四島を含む千島列島を「戦利品」としてソ連が得ることをアメリカは認めていた。日本固有の領土、というなら、ロシアに対して主張するのではなく、アメリカに対して“取り消し”を迫らなくてはならない。

実は当時、スターリンは北海道を南北に割って北半分をソ連が占領することを求めた。もし米大統領がルーズベルトのままだったら、実現していた可能性もある。しかしドイツ降伏直前にルーズベルトは病死、後を受けたトルーマンはスターリンの要求を拒絶、戦勝権益として代わりに南樺太の返還と南クリル(北方四島)を含めた千島列島の領有をソ連に提案したのだ。

こうした経緯を日本人はほとんど知らされていない。ただし、政府・外務省はよくわかっていて、戦後10年以上、北方領土の返還を求めてこなかった。それどころか1951年のサンフランシスコ講和条約において、早期講和のために日本は千島列島の領有権を一度放棄している。

▼日ソ関係の修復をアメリカは警戒した

これを翻して、「放棄した千島列島に北方四島は含まれない」との立場を日本政府が取るようになったのは、日ソ共同宣言が出された1956年のことだ。


 これを読むと、いわゆる北方4島(歯舞、色丹、国後、択捉)の全てが「千島列島」に属し、わが国はサンフランシスコ平和条約で一度はそれを放棄していたかのようだ。
 これも正しくない。
 わが国は、確かにサンフランシスコ平和条約締結時には、国後、択捉は同条約に言うところの「千島列島」に含まれているとの見解をとっていた(後に含まれていないと変更した)のは事実だが、歯舞、色丹については、同条約に言うところの「千島列島」に含まれるとはしていなかったからだ。

 1951年9月7日、サンフランシスコ会議における平和条約の受諾演説で、吉田茂首相はこう述べている。

過去数日にわたってこの会議の席上若干の代表国はこの条約に対して反対と苦情を表明されましたが、多数国間に於ける平和解決に当ってはすべての国を完全に満足させることは不可能であります。この平和条約を欣然受諾するわれわれ日本人すらも若干の点について苦悩と憂慮を感じることを否定できません。この条約は公正にしてかつ史上嘗て見ざる寛大なものであります。われわれは従って日本の置かれている地位を十分承知しておりますが、あえて数点につき全権各位の注意を促さざるを得ないのであります。これが国民に対する私の責任と存ずるからであります。
 一、領土の処分の問題であります。奄美大島、琉球諸島、小笠原諸島〔中略〕の主権が日本に残されるという米全権および英全権の発言を私は国民の名において多大の喜びをもって了承するものであります。〔中略〕千島列島および南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものとのソ連の主張には承服致しかねます。日本開国の当時千島南部の二島択捉、国後両島が日本領土であることについては帝政ロシアも何んら異議を差しはさまなかったものであります。たゞウルップ島以北の北千島諸島と樺太南部は当時日露両国人混住の地でありました。一八七五年五月七日日露両国政府は平和的外交交渉を通じて樺太南部は露領としその代償として千島諸島は日本領とすることに話合いをつけたものであります。〔中略〕千島列島及び樺太南部は日本降伏直後の一九四五年九月二十日一方的にソ連領に収容されたものであります。また日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵が存在したためソ連軍に占領されたまゝであります。(吉田茂『回想十年 3』中公文庫、1998、p.103-105)


 そして、同年10月19日、衆議院の平和条約及び日米安全保障条約特別委員会において、北海道出身の農民協同党の高倉定助議員と吉田茂首相及び西村熊雄外務省条約局長との間に次のようなやりとりが交わされた(国会会議録検索システムより)。

○高倉委員 本会議また昨日の委員会を通じまして、いろいろと條約問題につきまして質問がなされておりますので、われわれの言わんと欲することも大方言い盡されているような次第であります。実は二十四日に大体質問をする考えでおりましたし、本日は総理もお疲れのことと思いますから、頭を冷静にされてからお聞きした方がむしろいいかと思いますので、簡潔に二、三御質問申し上げたいと思います。
 まず領土の問題でありますが、過般のサンフランシスコの講和條約の第二條の(C)項によりますると、日本国は千島列島の主権の放棄を認められたのである。しかしその千島列島というものはきわめて漠然としておる。北緯二五・九度以南のいわゆる南西諸島の地域の條文におきましては、詳細に区分されておるのでありまするが、千島列島は大ざつぱではつきりしていないのであります。そこで講和條約の原文を検討する必要があります。條約の原文にはクリル・アイランド、いわゆるクリル群島と明記されておるように思いますが、このクリル・アイランドとは一体どこをさすのか、これを一応お聞きしたいと思います。

○吉田国務大臣 千島列島の件につきましては、外務省としては終戰以来研究いたして、日本の見解は米国政府に早くすでに申入れてあります。これは後に政府委員をしてお答えをいたさせますが、その範囲については多分米国政府としては日本政府の主張を入れて、いわゆる千島列島なるものの範囲もきめておろうと思います。しさいのことは政府委員から答弁いたさせます。

○西村(熊)政府委員 條約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております。しかし南千島と北千島は、歴史的に見てまつたくその立場が違うことは、すでに全権がサンフランシスコ会議の演説において明らかにされた通りでございます。あの見解を日本政府としてもまた今後とも堅持して行く方針であるということは、たびたびこの国会において総理から御答弁があつた通りであります。
 なお歯舞と色丹島が千島に含まれないことは、アメリカ外務当局も明言されました。しかしながらその点を決定するには、結局国際司法裁判所に提訴する方法しかあるまいという見解を述べられた次第であります。しかしあの見解を述べられたときはいまだ調印前でございましたので、むろんソ連も調印する場合のことを考えて説明されたと思います。今日はソ連が署名しておりませんので、第二十二條によつてへーグの司法裁判所に提訴する方途は、実際上ない次第になつております。

○高倉委員 このクリル群島と千島列島を同じように考えておられるような今のお話でありますが、これは明活八年の樺太・クリル交換條約によつて決定されたものであつて、その交換條約によりますと、第一條に、横太全島はロシヤ領土として、ラペルーズ海峡をもつて両国の境界とする。第二條には、クリル群島、すなわちウルツプ島から占守島に至る十八の島は日本領土に属す。カムチヤツカ地方、ラパツカ岬と占守島との聞なる海峡をもつて両国の境とする。以下省略しますが、こういうふうになつておる。この條約は全世界に認められた国際的の公文書でありますので、外務当局がこのクリル群島というものと、千島列島というものの翻訳をどういうふうに考えておられるか、もう少し詳しく御説明を願いたいと思います。

○西村(熊)政府委員 平和條約は一九五一年九月に調印いたされたものであります。従つてこの條約にいう千島がいずれの地域をさすかという判定は、現在に立つて判定すべきだと考えます。従つて先刻申し上げましたように、この條約に千島とあるのは、北千島及び南千島を含む意味であると解釈しております。但上両地域について歴史的に全然違つた事態にあるという政府の考え方は将来もかえませんということを御答弁申し上げた次第であります。

○高倉委員 どうも見解が違いますのでやむを得ないと思いますが、過般の講和会議においてダレス全権が、歯舞、色丹諸島は千島列島でない、従つてこれが帰属は、今日の場合国際司法裁判所に提訴する道が開かれておると演説されておるのであります。吉田全権はそのとき、千島列島に対してもう少しつつ込んだところの―歯舞と色丹は絶対に日本の領土であるとは言つておられますけれども、国際司法裁判所に提訴してやるというまでの強い御意思が発表されていなかつたようでありまするが、この問題に対しまして、ただいまあるいは今後も、どういうようなお考えを持つておられるかということについてお伺いします。

○吉田国務大臣 この問題は、日本政府と総司令部の間にしばしば文書往復を重ねて来ておるので、従つて米国政府としても日本政府の主張は明らかであると考えますから、サンフランシスコにおいてはあまりくどくど言わなかつたのであります。しかし問題の性質は、米国政府はよく了承しておると思ひます。従つてまたダレス氏の演説でも特にこの千島の両島について主張があつたものと思います。今後どうするかは、しばらく事態の経過を見ておもむろに考えたいと思います。これは米国との関係もありますから、この関係を調節しながら処置をいたす考えでおります。


 元々、歯舞諸島は、地理的にも行政的にも、北海道の一部とされてきた。
 色丹島は、当初は歯舞諸島と同じく「根室国」に属するとされてきたが、1885年に「千島国」に移された。しかし「千島列島」に含めるか否かは資料によってまちまちで、はっきりしない。地理的には、千島列島の一部というよりは、歯舞諸島とともに別の一群を形成しているように見える(旧ソ連では、歯舞と色丹を合わせて「小クリル諸島」と呼ぶようになった)。
 しかし、サンフランシスコ平和条約締結時には「千島列島」には含まれないと明言されている。

 だから、日本はサ条約で一度は千島列島を放棄したではないかという主張は、少なくとも歯舞、色丹には当てはまらないのである。

続く

領土問題をめぐる議論のウソ(3) 2島返還で妥結寸前だったというウソ

2016-03-23 08:30:44 | 領土問題
承前

 BLOGOSの記事「大前研一「日本人が知らない日本の歴史」について、話をしよう【前編】」という記事に含まれるウソの指摘を続ける。

 前々回も挙げた大前氏の記事の一部を再掲する(太字は引用者による。以下同じ)。

1951年のサンフランシスコ講和条約において、早期講和のために日本は千島列島の領有権を一度放棄している。これを翻して、「放棄した千島列島に北方四島は含まれない」との立場を日本政府が取るようになったのは、日ソ共同宣言が出された1956年のことだ。サンフランシスコ講和条約にソ連はサインをしていない。したがって日ソの国交正常化は日ソ共同宣言によってなされるが、このとき平和条約を締結した後に歯舞、色丹の二島を日本に引き渡す二島返還論で両国は妥結寸前まで交渉が進んだ

しかしアメリカがこれに難色を示す。東西冷戦が過熱する状況下で、領土交渉が進展して日ソ関係が修復することをアメリカは警戒したからだ。1956年8月に日本の重光葵外相とダレス米国務長官がロンドンで会談した際、ダレスは沖縄返還の条件として、ソ連に対して北方四島の一括返還を求めるよう重光に迫った。

当然、当時の状況下で四島一括返還の要求をソ連が受け入れるわけもない。結局、平和条約は結ばれず、同年10月に署名された日ソ共同宣言(12月発効)では領土問題は積み残された。


 ここに言う、「二島返還論で両国は妥結寸前まで交渉が進んだ」とはどういう事態を指すのだろうか。
 日本政府が、歯舞、色丹の返還のみで平和条約を締結すると公式に示したことはない。

 ただ、交渉に当たった全権が、2島返還での妥結を日本政府に請訓したことは二度あった。
 その一つは、前々回紹介した、第1次モスクワ交渉での重光外相によるものだ。
 前々回述べたとおり、重光は、元々日ソ国交回復には消極的で、モスクワでも当初は強硬論を唱えたが、ソ連が2島「引き渡し」以上の妥協の姿勢を見せないと、一変して2島案を呑んでの交渉妥結をするしかない、しかも自分は全てを任されているから日本政府への請訓の必要もないと全権団に言い出した。しかし松本俊一の反対にあい、しぶしぶ請訓を行った。請訓を受けた鳩山政権の閣僚、党3役は到底受諾できないとの意見で一致し、鳩山首相はソ連案を拒否するよう重光に返電した。
 鳩山首相は明確に拒否しているのだから、これを「二島返還論で両国は妥結寸前まで交渉が進んだ」と見るのは当たらない。

 もう一つは、第1次モスクワ交渉の前年、1955年6~8月に、ロンドンで、松本俊一・衆議院議員(元外務次官)とソ連のヤコブ・マリク駐英大使(元駐日大使)との間で行われた第1次ロンドン交渉でのことだ。
 領土問題について、松本は当初、第二次世界大戦でソ連に奪取されたわが国の領土である歯舞諸島、色丹島、千島列島(国後、択捉はその一部)及び南樺太の全面返還を主張した。マリクもまた当初これを全面的に拒否した。しかし交渉が進む中でマリクは、千島列島及び南樺太はサンフランシスコ平和条約で日本も放棄しているとしながらも、歯舞と色丹の引き渡しの可能性を松本に示唆した。
 松本は政府に請訓したが、政府は、国後と択捉は日本固有の領土であって、サンフランシスコ条約で放棄した千島列島に含まれていないとし、また千島列島(国後、択捉を除く)と南樺太の帰属は、サンフランシスコ条約締結国とソ連の共同協議により決定すべきと指示した。松本はこれに従った平和条約案をマリクに呈示したが、マリクは拒否し、交渉は決裂した。

 実は、松本は交渉に臨むに当たって、その根本方針である「訓令第一六号」を受けていた。そこでは、領土については、歯舞、色丹の返還が最低条件とされていたことを、当時産経新聞の記者であった久保田正明が後に『クレムリンへの使節』(文藝春秋、1983)で明らかにした。
 したがって、松本としては、マリクに歯舞と色丹の引き渡しの可能性を示唆されて、交渉は妥結したも同然と考えたようだ。
 だが、請訓を受けた重光外相は、これをすぐには鳩山首相に知らせず、外務省の幹部を集めて、上記のとおり、国後と択捉は日本固有の領土であって、サ条約で放棄した千島列島に含まれない、また千島列島(国後、択捉を除く)と南樺太の帰属はサ条約締結国とソ連の共同協議により決定すべきとの新方針を決定し、松本に指示した。
 重光はその上で外遊に発ち、久保田によると、鳩山には外務省顧問の谷正之が事後報告に訪れ、情報を持たない鳩山は同意するしかなかったという。

 以前にも述べたように、日ソ国交回復交渉は外務省の頭越しに鳩山首相が進めたものであって、重光は交渉に消極的であり、外務省もおおむね同様だったという。
 また、鳩山の回顧録によると、重光は交渉経過の詳細を鳩山に見せていなかったのだという。
 したがって、重光及び外務省が独断で2島返還による妥結を葬ったことになる。

 ただし、「訓令第一六号」は政府の最終的方針ではなく、あくまで交渉開始時における方針だった。久保田が引用している訓令の文中には

先方の態度いかんによっては各問題の相関関係を勘案のうえ、当方の態度を決定する必要あるので、随時事情を詳細に具して請訓されたい。(p.33)


とある。
 これに従って松本は請訓し、外務省は国後、国後をも要求するという「当方の態度を決定」したのだろう。
 仮に、重光が鳩山に報告して「当方の態度を決定」することとなった場合、果たしてすんなり2島返還で妥結ができたのだろうか。
 私はそうとは限らないと思う。
 当時まだ自民党は結成されておらず、鳩山の日本民主党は少数与党であった。第2党である自由党は対米重視で日ソ交渉に消極的であり、日本民主党内でも重光は交渉に消極的で対ソ強硬派であった。世論調査でも旧領土の全て、あるいは旧領土のうち南樺太を除いた千島、歯舞、色丹の返還を望む声が大多数だった。
 ただ、仮に重光が速やかに鳩山に報告し、鳩山政権が方針を検討した場合、2島返還で妥結した可能性はあったとは言えるだろう。
 久保田は次のように書いている。

 ソ連の重大提案にたいして、まず外務省としての態度を決め、鳩山には事後報告の形で、しかも自分が行かずに、出発後に谷を代理として差し向けたのは、おそらく重光の作戦であったろう。松本の機密電がきてから重光の出発まで時日は充分あったはずである。〔中略〕何よりもまず鳩山に会いにいき、政府としていかにすべきか、肚をわって相談するのが当然第一になすべきことである。そのうえで渡米してダレスの考えも聞き、岸、河野とも相談し、帰国後、政府与党で慎重に協議したうえ、右するか左するか政治的決断を下すのが、政治決断の順序というものであろう。このときハボマイ、シコタンの線で妥協するのがよかったのか、さらにクナシリ、エトロフを要求して交渉を継続したほうが正しかったのかは、後世の審判に待つほかはない。しかし重光のやり方は異常であり、故意に日ソ交渉を遅らせるため、手順を逆にしたとみるほかはない。(久保田『クレムリンの使節』p.82)


 私もそのとおりだと思う。

 しかし、現実には重光外相は鳩山首相を差し置いて明確に2島返還での妥結を拒否しているのだから、これもまた「両国は妥結寸前まで交渉が進んだ」と表現するのはやはり妥当ではないだろう。

続く) 

領土問題をめぐる議論のウソ(2) 2島返還妥結による米国の沖縄領有は有り得たか

2016-03-21 22:17:55 | 領土問題
 前回の続きだが、BLOGOSの記事「大前研一「日本人が知らない日本の歴史」について、話をしよう【前編】」中の他のウソを指摘する前に、前回述べたいわゆる「ダレスの恫喝」が果たしてどれほど現実味があった話なのかについて述べたい。

 重光葵外相からダレス米国務長官の発言を聞いた、松本俊一の回想録の箇所を再掲する(太字は引用者による。以下同)。

ところが、ダレス長官は、千島列島をソ連に帰属せしめるということは、サン・フランシスコ条約でも決っていない。したがって日本側がソ連案を受諾する場合は、日本はソ連に対しサン・フランシスコ条約以上のことを認めることとなる次第である。かかる場合は同条約第二十六条が作用して、米国も沖縄の併合を主張しうる地位にたつわけである。ソ連のいい分は全く理不尽であると思考する。特にヤルタ協定を基礎とするソ連の立場は不可解であって、同協定についてはトルーマン前大統領がスターリンに対し明確に言明した通り、同協定に掲げられた事項はそれ自体なんらの決定を構成するものではない。領土に関する事項は、平和条約をまって初めて決定されるものである。ヤルタ協定を決定とみなし、これを基礎として論議すべき筋合いのものではない。必要とあればこの点に関し、さらに米国政府の見解を表明することとしてもさしつかえないという趣旨のことを述べた。
 重光外相はその日ホテルに帰ってくると、さっそく私を外相の寝室に呼び入れて、やや青ざめた顔をして、「ダレスは全くひどいことをいう。もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とするということをいった」といって、すこぶる興奮した顔つきで、私にダレスの主張を話してくれた。
 このことについては、かねてワシントンの日本大使館に対して、アメリカの国務省からダレス長官が重光外相に述べた趣旨の申し入れがあったのである。しかしモスクワで交渉が妥結しなかったのであるから、まさかダレス長官が重光外相にこのようなことをいうことは、重光氏としても予想しなかったところであったらしい。重光氏もダレスが何故にこの段階において日本の態度を牽制するようなことをいい、ことに米国も琉球諸島の併合を主張しうる地位に立つというがごとき、まことに、おどしともとれるようなことをいったのか、重光外相のみならず、私自身も非常に了解に苦しんだ。(松本『日ソ国交回復秘録』朝日新聞出版(朝日選書)、2012、p.125-126)


 サンフランシスコ条約第26条も再掲しておく。

第二十六条 日本国は、千九百四十二年一月一日の連合国宣言に署名し若しくは加入しており且つ日本国に対して戦争状態にある国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていた国で、この条約の署名国でないものと、この条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結する用意を有すべきものとする。但し、この日本国の義務は、この条約の最初の効力発生の後三年で満了する。日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない。


 松本が書いている「このことについては、かねてワシントンの日本大使館に対して、アメリカの国務省からダレス長官が重光外相に述べた趣旨の申し入れがあった」については、重光・松本の第1次モスクワ交渉に同行した産経新聞の久保田正明が後に著した『クレムリンへの使節』における次の記述が参考になる。

 ダレスの発言は電撃のように重光を打った。ただ発言の内容については全然知らないわけではなかった。この数日前、ワシントンで島公使が国務省に呼ばれ日ソ交渉とサンフランシスコ条約との関係について同じような指摘を受け、このことはロンドンの重光に転送されてはいた。だが、ダレスがこの時期、この席で持ち出してこようとは重光はまったく予期しておらず、まして「沖縄」の名を出してこようとは夢想だにしていなかった。(久保田『クレムリンへの使節』(文藝春秋、1983)p.157-158)


 このダレス発言は、間もなく日本で報道され、大きな問題になったようだ。
 重光は日本の立場を説明するため再度ダレスを訪問したが、その時にはダレスの態度はかなり変わっていたという。
 松本はこう書いている。

二十四日に重光外相は、さらにダレス国務長官に会って日本側の立場を縷々説明した。その日は、ダレス長官がアメリカの駐ソ大使ボーレン氏も同席させて、十九日の会談とは余程違った態度で、むしろアメリカ側の領土問題に対する強硬な態度は、日本のソ連に対する立場を強めるためのものであるということを説明したそうである。
 しかし、十九日のダレス長官の発言中の琉球諸島の併合云々のことは外部にもれて、日本の一部の新聞にも掲載された。そのために、日本の世論に相当な動揺を与え、国会においても社会党その他の議員から高碕外務大臣臨時代理等に対して、この点について質問が出て、政府としてもこの問題の収拾には非常に苦慮したのであった。九月七日に至ってダレス長官が、谷駐米大使(正之)に対して、領土問題に関する米国政府の見解を述べた覚書を手交した後の会談で、「この際明らかにしておきたいが、米国の考え方がなんとかして日本の助けになりたいと思っていることを了解して欲しい云々」と述べて、ダレス長官の真意が日本側を支援するにあったことが明確になってきたので、世論も国会の論議も平静をとり戻した。(松本、前掲書、p.126-127)


 久保田はこの間の事情をもっと詳しく書いている。

 ダレス警告は東京の政界を大きくゆるがした。各紙はその後十日以上もこれにかんする記事を連日取りあげ、国会では野党が高碕外相代理を鋭く追及した。鳩山は「そんなことはとても信じられない」とおどろき、政府。与党のスポークスマンは「まだ重光全権から公電がはいらない」の一点張りでくりかえし否定しつづけた。
 国際的にも波紋を呼び、東京発のニュースがアメリカやイギリスに打電された。〔中略〕
 政府が躍起になって否定しても、ダレス発言の真実性は確かなものになっていった。鳩山主流派は困惑の極みに達し、これに対し旧吉田派などの反主流派は反撃に転じ、ソ連に屈服しようとした日本に、米国が頂門の一針を加えたものであるとして鳩山派を攻撃した。社会党などの野党は不当介入であるとアメリカを非難し、世論もまたアメリカの介入を不快視する声が高まってきた。
 こういう騒然たる空気のなかで重光は五日後の二十四日午後、再びダレスを訪れた。〔中略〕外務省首脳の衆知をあつめてサンフランシスコ条約第二十六条にかんする反論をまとめると同時に、ダレスの感情をやわらげるため、ソ連に領土を譲渡するときは関係国の意見を聞いたうえで決めるという趣旨の国際会議案に近い修正案も用意していた。
 〔中略〕しかし、ダレスは前日とは打って変わり別人のようにおだやかに重光を迎え、発言も慎重であった。
「日ソ交渉にたいする問題はなかなか複雑な問題で、米国としても、いろいろな観点から考慮しなければならない。目下ワシントンで検討させているので、私がここで即答することは好ましくない。帰国してよく検討したうえ、米国の回答を東京に送ることにしたい」
 〔中略〕最も心配していた沖縄についてはダレスの口からはついに沖縄のオの字も出なかった。〔中略〕
 一回目と二回目でダレスの態度がまるで変わったのは、大統領選挙を間近にひかえていた米国政府が日本の対米感情の悪化を心配した結果だろうとみられた。沖縄はクナシリ、エトロフと違って日本の潜在主権が認められている。その沖縄を領有する立場にあると米国からいわれたのでは、日本の国民感情としては素直に受け入れるわけにはいかない。対米感情が悪化し、日米関係にヒビが入るおそれもある。それを憂慮する米本国筋から注意があったのか、最初の発言の理論的趣旨は一応つらぬきつつも沖縄云々は口に出さなかったのだろう。
 〔中略〕
 国内ではなおダレス発言の真偽とその真意をめぐって論争がつづいており、政府側は依然として「公電がこない」をくりかえすだけで容易に認めようとしなかった。しかし当の本人のダレスはスエズ会議が終わってワシントンに帰り、二十八日の記者会見で内外の記者団にハッキリ肯定した。ダレスはサンフランシスコ条約第二十六条を説明したあと、
「米国初めサンフランシスコ条約に調印した諸国は、南樺太と千島にたいするソ連の主権を認めるわけにはいかない。また米国は極東における国際平和と安全にたいする脅威が存在するかぎり、沖縄における諸権利を行使しつづける方針である。私は以上のことをロンドンで重光外相にしておいた」
 と再び沖縄の名前を持ちだした

 これがロンドンでのダレス警告の経過であるが、米国が自発的に警告を発したのか、あるいは他に仕掛人がいたのか、いまなお謎と疑問が残されている。(久保田、前掲書、p.159-162)


 ここで久保田は明らかにしていないが、このダレス発言をスクープしたのは久保田自身だそうである。和田春樹『北方領土問題を考える』(岩波書店、1990)によると、久保田にリークしたのは松本だという(p.209)。

 さて、このように、「ダレスの恫喝」は、当時広く報道されて、国会審議でも問題となった事案であった。
 しかし、サ条約第26条を根拠とした米国による沖縄領有などという事態が、現実に有り得たのだろうか。
 私にはすこぶる疑問に思える。

 条文には
「日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない」
とあるから、確かにそういう解釈も成り立たないことはない。
 しかし、「この条約の当事国」とは、わが国と米国だけではない。他に44か国が批准している。それらの国々の「利益」はどうするのか。それを抜きにして、何故一足飛びに米国が沖縄を領有するという話になるのか。
 また、沖縄と、国後及び択捉では、面積も地理も異なるが、これを「同一の利益」と言えるのか。
 さらに、久保田も書いているように、サ条約は、沖縄におけるわが国の潜在主権を認めた上で、米国による信託統治を認めている。わが国が同条約で放棄するとしたが帰属が定まっていない国後及び択捉とは異なる。

 「ダレスの恫喝」を受けた直後の重光や外務省の反応を久保田『クレムリンへの使節』はこう描いている。

 宿舎グロウナー・ハウスには重光全権団のほか加瀬国連大使、西駐英大使、西村駐仏大使、武内駐白大使、大江スウェーデン公使らが集まっており、とくに西村駐仏大使はサンフランシスコ条約締結のときの条約局長である。参集した首脳部は額を集めて対策を協議した。〔中略〕
 第二十六条のとくに後半部分が問題となる。西村らの意見はこの部分は賠償や通商などについての規定であって、領土問題には適用できないし、且つサンフランシスコ条約締結時から三年以上を経過しているのでダレスの言い分は筋がとおらないということに一致した。(p.158)


 それが常識的な解釈だろう。

 仮にわが国がソ連の2島返還を受け入れて平和条約を締結し、米国がダレスの言ったとおりサ条約第26条を根拠に沖縄を領有したら、どんな事態が生じただろうか。
 国民の対米感情は著しく悪化したに違いない。悪くすれば、社会党への政権交代が起きたかもしれない。日米安保条約(旧)だってどうなったかわからない。
 それは米国にとって望ましいことではなかっただろうし、だからこそダレスも重光への態度を変えたのだろう。

 また、当時既に国民は2島返還での平和条約締結には否定的だった。「ダレスの恫喝」は4島返還論を後押しするものだった。だからこそ、松本が書いているように、騒動は鎮静化したのだろう。

 それに、ではその後の政権は、「恫喝」を真に受けて、沖縄を米国に領有されることを恐れて、4島返還論に固執せざるを得なかったのだろうか。本当は2島返還で妥結してもいいと考えていたのに、米国の意向だけを考慮して? 政治家や官僚の口からそんな話が語られたとは聞いたことがない。

 そして、米国は沖縄を「恫喝」から16年後の1972年にわが国に返還したのである。
 ならば、もはや米国の沖縄領有の可能性を心配する必要はない。わが国が2島返還による平和条約締結が望ましいと考えるなら、遠慮なくそうすればよい。
 だが、沖縄返還からもう40年以上が経過しているのに、そうした声が主流にならないのは何故なのだろうか。

 政府・自民党によるこれまでの「北方領土」返還の宣伝によって、国民が4島返還でなければ妥結してはならないと思い込まされているからだろうか。そのように主張する人もいる。
 確かに、宣伝の効果というものはあるだろう。しかし、それだけではないのではないか。
 大前氏だけでなく、4島返還論は米国の押しつけであるとか、2島返還で妥結してもよいといった声は、少数ではあるが昔からあるにはあった。にもかかわらず、それが多数の支持を得られないのは何故だろうか。
 それは、4島返還論が、歴史的経緯に照らして十分根拠があるものであることが、広く理解されているからではないだろうか。
 そして、抑留者の返還や漁業問題、国連加盟といった重大問題があった国交回復交渉当時と異なり、それらが日ソ共同宣言により一応解決したこんにち、国後、択捉の2島の返還を放棄してまでロシアと平和条約を締結することにより得られる利益に政治家も大多数の国民も価値を見出せない、ただそれだけのことではないだろうか。

(続く)

領土問題をめぐる議論のウソ(1) 「ダレスの恫喝」でわが国は4島返還論に転じたというウソ

2016-03-20 23:51:24 | 領土問題
BLOGOSで

大前研一「日本人が知らない日本の歴史」について、話をしよう【前編】

という記事を読んだ。PRESIDENT Online から転載されたものだ。

 この記事で、大前氏は、

日本人の多くは、日ソ中立条約があったにもかかわらず、日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏した後にソ連軍が侵攻を続け、北方領土を不法に占拠し、以来、実効支配しているのだ、と思い込んでいる。しかし史実は異なる。


と述べた上で、北方領土問題の経緯を語っている。
 しかし、氏が語る経緯の中には何点かウソが含まれている。

 大前氏に限らず、わが国の領土問題をめぐる議論において、ウソが語られることがあるのを私はこれまでしばしば見てきた。
 領土問題については、何もわが国政府の見解が唯一絶対ではない。さまざまな主張があってよいと思うが、しかしウソはいけないだろう。
 そこで、とりあえずこの大前氏の記事中のウソをいくつか指摘しておこうと思う。

 まず、北方領土については、2島(歯舞諸島及び色丹島)の引き渡しで日ソが合意寸前だったが、米国がそれを阻止しようとわが国に4島(歯舞、色丹、国後、択捉)返還論を強要したため、こんにちまで領土問題が残ることとなったという主張について。
 大前氏の記事にはこうある。

1951年のサンフランシスコ講和条約において、早期講和のために日本は千島列島の領有権を一度放棄している。これを翻して、「放棄した千島列島に北方四島は含まれない」との立場を日本政府が取るようになったのは、日ソ共同宣言が出された1956年のことだ。サンフランシスコ講和条約にソ連はサインをしていない。したがって日ソの国交正常化は日ソ共同宣言によってなされるが、このとき平和条約を締結した後に歯舞、色丹の二島を日本に引き渡す二島返還論で両国は妥結寸前まで交渉が進んだ。

しかしアメリカがこれに難色を示す。東西冷戦が過熱する状況下で、領土交渉が進展して日ソ関係が修復することをアメリカは警戒したからだ。1956年8月に日本の重光葵外相とダレス米国務長官がロンドンで会談した際、ダレスは沖縄返還の条件として、ソ連に対して北方四島の一括返還を求めるよう重光に迫った。

当然、当時の状況下で四島一括返還の要求をソ連が受け入れるわけもない。結局、平和条約は結ばれず、同年10月に署名された日ソ共同宣言(12月発効)では領土問題は積み残された。


 しかし、この説明は正しくない。
 重光-ダレス会談の前に、重光葵外相はソ連との国交回復交渉で、2島返還は受け入れられないと表明しているからだ。

 日ソ国交回復交渉は1955年1月、その前月に内閣を発足させた鳩山一郎首相のもとにソ連の駐日元代表部(占領期にソ連の代表部が置かれたが、サンフランシスコ平和条約の発効により法的根拠を失い「元」代表部と称された)首席代理のドムニツキーが書簡を届けたことに端を発した。
 ドムニツキーは当初外務省に接触を図ったが、重光葵外相により拒否されたため、やむなく鳩山首相に接触したのだった。

 1955年6~9月と、ロンドンで、松本俊一(衆議院議員、元駐英大使、元外務次官)全権とヤコブ・マリク(駐英大使、元駐日大使)全権らによる交渉が行われたが、領土問題で交渉は決裂した。領土については交渉中に日本側に方針転換があったが、これについては別の機会に述べる。
 1956年1~3月に松本とマリクによる第2次ロンドン交渉が行われたが、進展はなかった。
 1956年4~5月には河野一郎農相が訪ソし、漁業問題についてイシコフ漁業相と交渉し、日ソ漁業協定を締結した。しかし協定の発効は国交回復が条件であり、7月末までに国交交渉を再開することとなった。
 日本側の全権には重光外相が就くこととなった。
 松本の回想録によると、鳩山首相はソ連との国交回復に非常に熱意を持っていたのに対して、重光外相はすこぶる熱意がなかったという。
 重光の訪ソに同行した産経新聞の久保田正明が後に著した『クレムリンへの使節』(文藝春秋、1983)によると、外務省では彼らの頭越しに交渉を開始した鳩山への反発が強く、交渉への態度はおおむね重光と同様だったという。
 重光は第二次世界大戦中にも外相を務め、戦後A級戦犯の1人に指名され、東京裁判の被告の中では最も軽い禁錮7年の刑を宣告されたが、重光がA級戦犯に指名されたのはソ連の要請によるものであったという。

 同年7月に重光は首席全権としてモスクワに赴き、シェピーロフ外相と交渉した。松本も全権として同行した。
 重光はソ連側に対して強硬姿勢をとったが、領土についてソ連側から妥協を引き出すことはできなかった。
 すると重光は豹変し、やむを得ずソ連案(歯舞、色丹の引き渡しによる平和条約締結)をそのまま呑む以外にはない、しかも自分は全てを任されているから日本政府への請訓の必要もないと言い出した。
 松本の回想録によると、松本は、第1次ロンドン交渉において重光から国後、択捉をあくまで貫徹せよとの訓令を受けてこれまで苦労してきた経緯や、政府の規定方針、自民党の党議、国民感情等を考慮してこれに反対し、重光もしぶしぶ請訓することに応じたという。
 請訓を受けた鳩山政権の閣僚、党3役は到底受諾できないとの意見で一致し、鳩山首相はソ連案を拒否するよう重光に返電した。交渉はまたも決裂した。

 大前氏の言う、ダレス米国務長官がロンドンで重光に迫ったというのは、この後のことである。
 この交渉の帰路、重光はスエズ運河会議に出席するためロンドンに立ち寄り、米国大使館にダレス国務長官を訪問し、日ソ交渉の経過を説明した。
 その際、松本の回想録によると、次のような出来事があったという。

ところが、ダレス長官は、千島列島をソ連に帰属せしめるということは、サン・フランシスコ条約でも決っていない。したがって日本側がソ連案を受諾する場合は、日本はソ連に対しサン・フランシスコ条約以上のことを認めることとなる次第である。かかる場合は同条約第二十六条が作用して、米国も沖縄の併合を主張しうる地位にたつわけである。ソ連のいい分は全く理不尽であると思考する。特にヤルタ協定を基礎とするソ連の立場は不可解であって、同協定についてはトルーマン前大統領がスターリンに対し明確に言明した通り、同協定に掲げられた事項はそれ自体なんらの決定を構成するものではない。領土に関する事項は、平和条約をまって初めて決定されるものである。ヤルタ協定を決定とみなし、これを基礎として論議すべき筋合いのものではない。必要とあればこの点に関し、さらに米国政府の見解を表明することとしてもさしつかえないという趣旨のことを述べた。
 重光外相はその日ホテルに帰ってくると、さっそく私を外相の寝室に呼び入れて、やや青ざめた顔をして、「ダレスは全くひどいことをいう。もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とするということをいった」といって、すこぶる興奮した顔つきで、私にダレスの主張を話してくれた。
 このことについては、かねてワシントンの日本大使館に対して、アメリカの国務省からダレス長官が重光外相に述べた趣旨の申し入れがあったのである。しかしモスクワで交渉が妥結しなかったのであるから、まさかダレス長官が重光外相にこのようなことをいうことは、重光氏としても予想しなかったところであったらしい。重光氏もダレスが何故にこの段階において日本の態度を牽制するようなことをいい、ことに米国も琉球諸島の併合を主張しうる地位に立つというがごとき、まことに、おどしともとれるようなことをいったのか、重光外相のみならず、私自身も非常に了解に苦しんだ。(松本『日ソ国交回復秘録』朝日新聞出版(朝日選書)、2012、p.125-126。太字は引用者による。以下同)


 いわゆる「ダレスの恫喝」である。
 ここでダレスが挙げているサンフランシスコ条約第26条とは次のとおり。

第二十六条 日本国は、千九百四十二年一月一日の連合国宣言に署名し若しくは加入しており且つ日本国に対して戦争状態にある国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていた国で、この条約の署名国でないものと、この条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結する用意を有すべきものとする。但し、この日本国の義務は、この条約の最初の効力発生の後三年で満了する。日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない。


 たしかにそう主張し得る余地がなくもない。
 しかし、このダレスの発言は、松本が述べているように、既に鳩山首相が2島返還での妥結を拒否した後のことである。ダレスにこう言われてわが国が2島返還論から4島返還論に転じたのではない。大前氏の説明は誤っている。

 また、大前氏は「ダレスは沖縄返還の条件として、ソ連に対して北方四島の一括返還を求めるよう重光に迫った」と述べているが、「一括」とはダレスは言っていない。ダレスの主張は、国後、択捉の要求を取り下げるべきではないということだろう。
 ここにもウソが見られる。

 それに、このダレスの沖縄についての主張は、果たしてどれほど現実味があった話なのだろうか。
 それは、別の機会に述べたい。

 私がこのダレスの一件についてブログで記事を書くのはこれが初めてではない。

 松本の回想録『モスクワにかける虹』(朝日新聞社、1966)が『日ソ国交回復秘録 北方領土交渉の真実』と改題されて朝日新聞出版から2012年に刊行された時にも書いた。

松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について

 その前にも、2009年に、mig21さんというブロガーが大前氏と同様の主張をしていたのを見た時にも書いた。

北方領土問題を考える

 こんなことは、北方領土問題について、少し突っ込んで調べていれば、誰でも気がつくことだ。

 大前氏が今回と同様の主張をしているのは、以前にも見たことがある。おそらく、同じ話を何度も繰り返しているのだろう。
 しかし、北方領土問題について少し知識があれば、「ダレスの恫喝」でわが国が2島返還論から4島返還論に転じたのではないことはすぐにわかる。
 だから、大前氏がこれまでにもその点について指摘を受けることはおそらくあったはずである。
 にもかかわらず、氏は何故誤った主張を繰り返すのか。
 それは、

1.誤りの指摘を受け入れて、主張を再構成するよりも、同じ主張を続けた方が楽だから

2.少々誤りが含まれていようが、米国がわが国に4島返還論を強要したという話にした方が、話としてウケるから

ということもあるだうが、さらに

3.国民にわが国の対米従属への疑問をもたせるという政治的目的のためには、多少の誤りなど問題ではないから

ではないだろうか。

 しかし、ウソに基づいた政治的主張は、結局その同調者の首を絞めることになるのではないだろうか。

 大前氏のような著名人に誤った主張を繰り返し発信されれば、私のような無名ブロガーの影響力などたかが知れている。
 それを指摘する側も、何度も同じ主張を繰り返さざるを得ないだろう。

続く

瀧川政次郎『新版 東京裁判をさばく(上下)』(創拓社、1978)を読んで(6) 続編は何故書かれなかったか

2016-03-16 09:21:38 | 大東亜戦争
承前

 本書の構成は、目次を引用すると、次のようになっている。
 まず上巻。
(※は旧版にはなく新版に際して追加されたと思われる箇所)

※新版への序

旧序

第一部 東京裁判劇総まくり

 舞台と脚本
  一 運命の地 市ヶ谷
  二 舞台と奈落――日本人使用すべからず――
  三 片耳の裁判官――判決を懐にした裁判官――
  四 神聖ならざるアンパイアー
  五 劇場の看板に偽りあり
  六 開幕
  七 まず脚本を
  八 脚本の主題は「報復」
  九 脚本の色調は「人種的偏見」

 番附
  一 登場俳優
  二 花形役者
  三 演出の妙と配役の妙
     ――ウエッブ裁判長とキーナン主席検事――
  四 東條・キーナンの一騎打ち
  五 検事コミンズ・カー、タヴェナー、ゴルンスキー
     ――劇中冷戦はじまり――
  六 被告重光葵をめぐって
     ――キーナン検事の悔悟――
  七 管轄権の論争と裁判長の忌避
     ――東京裁判劇の正念場――
  八 清瀬博士の冒頭陳述
  九 ブレークニー弁護人の凄味とローガン弁護人の諧謔味
     ――圧殺された原子爆弾論議――
  一〇 少数意見への朗読要求
  一一 鵜沢弁論 ――〝西洋は世界の尺度〟か――
  一二 硬骨漢スミス弁護人
  一三 ほんとうのことを言ったカニンガム弁護人
  一四 証人の大物溥儀皇帝
  一五 東京裁判のモンスター ――証人業 田中隆吉――
  一六 証人石原莞爾と影佐禎〔原文では示へんに貞〕昭

 解説
  一 ~ 二一 〔略〕

第二部 劇後劇・劇外劇早めくり
 〔略〕

第三部 東京裁判劇の奥にひそむもの

 一 平穏に興行された東京裁判劇
    ――断罪の瞬間と七戦犯の最後
 二 ポツダム宣言受諾と国体護持
 三 大森拘禁所における東條閣僚の申合せと日本人弁護人の合議
 四 天皇はどうして戦犯を免れたか
 五 連合国の天皇戦犯論 ――中ソ二国の執拗なる追求――
 六 ウエッブ裁判長はなぜ一時帰国したか

あとがき

※附録
 東條元大将の遺言、その他   花山信勝 


 下巻はこうだ。

第四部 東京裁判劇の進行

 幕あき
  一 開廷
  二 誤訳問題の波瀾
  三 大川狂躁曲 

 序幕の正念場
  一 ウエッブ裁判長に対する忌避の申立
  二 管轄権をめぐる白熱の論戦

 第一幕 検察側攻撃
  一 起訴状の提起
  二 起訴状の内容
  三 キーナン検事の冒頭陳述
  四 検事側立証
   第一場 一般段階
   第二場 満洲段階
   第三場 支那段階
   第四場 ソ連段階
   第五場 太平洋段階
    第一齣 対満対華経済侵略
    第二齣 一般的戦争準備
    第三齣 三国同盟
    第四齣 仏印進駐
    第五齣 日・米英戦争


あとがき

※附録
 東京裁判の回顧   瀧川政次郎
 瀧川政次郎著『東京裁判をさばく』の再刊に際して当時を回想する   小林俊三

※新版への跋

   
 ご覧のように、検察側立証の途中で終わっている。
 私はてっきり、この上下巻で東京裁判の全体像が扱われているものと思っていたので、下巻の目次を見て驚いた。
 この点について、著者は下巻の「第五齣 日・米英戦争」の末尾で、次のように説明している。

 日米交渉の部門は、ヴァランタイン証人の退廷によって終りを告げた。次は東京裁判のヤマである真珠湾部門であるが、一巻の書物としての予定枚数も既に尽きた。ヴァランタイン証人の反対尋問によって、この一冊も漸く結論らしきものができた。私の史論も、この反対尋問のシーンで最高潮に達した感がある。この辺でひとまず筆を擱〔お〕いて、この次の巻は東京裁判のヤマ「真珠湾」から書き出すこととしよう。
 しかし、ヤマを前にして筆を投げることは「あとは明晩のおたのしみ」という浪花節かたりのようで、著者としては気がひける。第一幕「検察側第一回攻撃」の終りまでは、この巻に収めたいのが、私の希望であり、また計画であった。書いているうちに私自身が昂奮して言わなくともよいことまで言ってしまった気がする。読者諸君に対してまことに申訳がない。責めを塞ぐために、この幕の終りまでの梗概を附録して置く。
 第五場第六齣後段の「真珠湾」は、真珠湾攻撃の計画、準備に始まって、真珠湾戦闘効果に終る。〔中略〕戦争の責任を論ずるこの裁判としては、「真珠湾」よりもここに述べた「日米交渉」の方が大切なカンどころであるが、裁判によって引出された史実としては、真珠湾攻撃が最も大きい事件であり、また最も興味のある事件である。裁判よりは戦闘に重点を置いてこの一齣を叙すつもりである。
 第五場第七齣は、「カタバル、パレンバン」であって、日・英蘭の戦争の段階である。〔中略〕
 次は第六場「残虐行為」の段階であるが、〔中略〕マレー、ビルマ、比島の各地から召喚された証人の語る血腥〔ちなまぐさ〕い証言には、われわれ在廷者は耳を掩〔おお〕うた。東京裁判の中で最も不愉快な一幕である。〔中略〕
 第七場は二十五被告〔中略〕の各個人の責任を論ずる段階であって、一月二十一日に始まって同月二十四日に終った。かくして検察側の立証は全部終了し、前後九か月にわたる第一幕は緞帳を下したが、この間開廷一六〇日、延時間六七〇時間、喚問された証人九三名(延一〇三名)、登録された証書二、二八三通、法廷速記録英文一六、〇〇〇頁余に達した。(下巻 p.212-214)


 そして、本書の刊行と今後の執筆予定については、下巻の「跋」で次のように述べている。

 私は昨年七月本書の一冊を書き上げて、八月一日に発刊した。その後引きつづいて第二冊を書き上げるつもりであつたが、八月二日に意外な事実が身辺におこり、私は毎日新聞社を相手に名誉毀損の訴訟を提起しなければならないことになつた。そのめ約半歳に亙って不愉快な日々を送つたので、終〔つい〕に今日まで筆をとることができなかつた。〔中略〕御愛読を賜つた読者諸君にはまことに申訳がない。〔中略〕
 私は本書第一冊のあとがきに「第一冊で東京裁判の開幕から検察団の攻撃の段階までを叙するつもりであつた。その前に全体の概観と、東京裁判に用ゐられた耳馴れない法律用語を説明しておかうと思つて筆を執つたところ、それが長くなつてしまつて、たうとうそれだけで一冊の分量になつてしまつた」と書いたが、この第二冊でも同じやうな誤りを繰り返してしまつた。開幕以前をはぶいて、開幕、序幕、第一幕と書き進んだが、たういう第一幕の八合目あたりで紙がつきてしまつた。しかし、第一幕第五場の「日米交渉」の一齣で、弁護団の大反撃の場面があらはれ、攻防の両面があらかた知られるやうになつた。私はこれを一冊の結論にするつもりでヴァランタイン証人(アメリカ国務省極東義務局長、ハル国務長官顧問)の反対尋問に最も力を注いだ。上巻と併せて読んで下されば更に結構であるが、この一冊だけを取り離して読んで戴いても、東京裁判がどんなものであつたかが、大略知られる。読み物としては、第一冊も第二冊も独立して首尾一貫のものになつてゐるつもりである。第三冊も同じように一冊だけでも独立して読めるやうに書くつもりである。二年半も続いた東京裁判は、事件も多いし、理窟も多い。その背筋だけを新聞記者の筆で簡潔にまとめた朝日新聞社の「東京裁判」ですら全八冊になつてゐるのであるから、これを二冊や三冊でまとめるといふのは、初めから無理な注文である。況やこれに批判の端を加へて「さばく」といふのは、難事中の難事である。私は第一冊のあとがきで、「これから先どうなつてゆくのか、どれほどの分量になるのか、自分でも見当がつかない」と書いたが、第二冊を書き上げてもまだ見当がつかない。亡羊の歎とはまさしくこれを言ふのであろう。(昭和二十八年四月)(下巻 p.215-216)


そして、さらに「あとがき」で

 本書は最初上下二巻にするつもりであつたので、第一冊を「上巻」とした。従つて第二冊はこれを「下巻」としなければならないわけであるが、第二冊ではおはりにならなかつたから、下巻とするわけにもゆかぬ。第三冊で終るという見当もつかないから、「中巻」ともつけ難い。しかし、予告は上下二巻であつたのであるから、とりあへずこれを「下巻」とする。第三冊が出来たら、これを「続巻」として出すつもりだ。第四冊は「再続巻」第五冊は「三続巻」だ。そのうちには終りにならう。幾冊になるか知らぬが、できるだけ要点を摘んで行きつくとこまで行き着いてみるつもりである。読者諸彦の絶大なる御支援を切にお願いする。(下巻 p.217)


 にもかわらず、続刊が出た様子はない。
 「読者諸彦の絶大なる御支援」が足りなかったのだろうか。端的に言うと、売れなかったのだろうか。
 占領終了から間もない時期、これほど徹底した東京裁判批判は世にはばかられたのだろうか。
 
 しかし、著者は、新版下巻に附録として収録された「東京裁判の回顧」という文で、次のように述べている。この「東京裁判の回顧」は昭和30年2月に『歴史教育』第3巻第2号に掲載されたものだという。

私は、昭和二十八年八月『東京裁判をさばく』二巻を上梓して、東京裁判が裁判というに値しないほど不正義不合理なるものであることを明らかにし、東京裁判が国民の心理に与えた悪影響を除き去ろうと意図したが、占領政策に毒せられた当時のジャーナリズムは、これを日本一の悪書と罵り、時勢に便乗する批評家達は、一斉に逆コースの烙印を押した。それからまだ二年とは経っていないが、今日では私の東京裁判に対する観方が国民の常識となり、批評家達は国民の間に沛然として起った反米感情に便乗して、私以上にアメリカをこき下ろしている。(p.221)


 「今日では私の東京裁判に対する観方が国民の常識とな」っているのなら、続刊を出すことに問題はなかったはずだ。
 また、著者は単なる作家やライターではなく、大学教授である。失礼ながら、大学教員が売れない本を出版することはままあるはずである。
 國學院大學のサイトの「國學院大學130年史」によると、著者は「100冊を超える編著書を世に送り出している」という。必ずしも出版が困難だったとは思えない。

 にもかかわらず、何故続刊は書かれなかったのだうか。

 理由の一つは、この上下巻で、著者が意図していたことはおおむね言い尽くしてしまったということがあるだろう。
 そしてもう一つは、前回も述べた、東京裁判に対する著者のアンビバレントな心理によるものではないだろうか。
 連合国の所業は確かに腹立たしい。しかし、裁判の経過を詳細に検討すると、わが国の軍や指導層の行動をも批判せざるを得なくなってくる。それではもはや「東京裁判をさばく」とは言えなくなってしまう。
 それで これ以上続ける意欲を失ってしまったのではないだろうか。
 私はそう推測する。

 先に引用した、下巻の第五齣の末尾に「書いているうちに私自身が昂奮して言わなくともよいことまで言ってしまった気がする。」とあるのも、単に記述が冗長に過ぎたというだけでなく そうした含意があるのではないだろうか。

 著者は、新版下巻の「新版への跋」(昭和52年12月15日付)で、附録として収録された小林俊三「瀧川政次郎著『東京裁判をさばく』の再刊に際して当時を回想する」に関連して、

小林先輩は、この裁判によって日本の法曹が英米刑事訴訟法の優れた点をまのあたり見せつけられ、進駐軍当局の推進によって日本の刑事訴訟法の大改正が実を結んだことを喜んでおられる。進駐軍の行った占領政策は、今思い出しても胸くその悪くなることが大部分であるが、そうした功績もあったことを誨〔おし〕えて下さったことは、有り難いと思う。私もこの戦争によって何物をも学び取らなかった男だと言われたくはない。日本の反省すべき点、改むべき事は別の機会に詳述したいと思っている。(下巻 p.255-256)


と述べている。
 ということは、この戦争によって学ぶ取る何物かはあったし、日本の反省すべき点、改むべき事はあったと考えているということだろう。

 本書について検索してみたが、有意義な書評は見当たらなかった。
 櫻井よしこのサイトに掲載されている「認識せよ、東京裁判の日本憎悪」と題する文章(『週刊新潮』の2005年6月16日号に掲載されたという)が、本書を取り上げていた。

靖国神社問題を論ずるには“A級戦犯”を断罪した東京裁判についてきちんと知る必要がある。そのための重要な資料のひとつが瀧川政次郎氏の『新版東京裁判をさばく』上下巻(創拓社出版)である。

瀧川氏は昭和21年から、東京裁判の終わる昭和23年11月まで、“A級戦犯”海軍大臣嶋田繁太郎の副弁護人として東京市ヶ谷の極東国際軍事裁判所に通った。裁判の進展を自分の目で見、自分の耳で聴いた結果、「この日本国肇(はじま)って以来の最大の屈辱である東京裁判の真相を後昆(こうこん、後世の人々)に伝えることこそ、私に課せられた任務」と考え、昭和27年、米国の占領終了と殆んど同時に書き上げたのが『東京裁判をさばく』だった。私の手元にあるのは昭和53年に刊行された新版である。

瀧川氏は「新版への序」で書いている。「東京裁判の真相は、記録を読んだだけでは掴めない」と。なぜなら、日本を裁いた連合国側の理論の違法性や矛盾を突いた法廷でのやりとりの多くが、当時報道されもせず、また東京裁判の記録からも削除されているからだという。

当時の日本では、GHQによる厳しい言論統制があり、法廷で明らかにされた連合国側の破綻した主張などは全く報道されなかったのだ。国民には、東京裁判は日本を戦争の泥沼にひき込んだ軍人たちとその暴走を許した一部政治家たちの“悪事”を裁くまっ当な裁判だとの見方が、一方的に植えつけられたのだ。

瀧川氏は、日本を弾劾したオーストラリアのウエッブ裁判長は「最初から判決を懐にして法廷に臨んでい」た、と書いた。「私はその場にいて、その光景を目撃している」とも書かれている。

〔中略〕

GHQによる厳しい検閲もあり、メディアは日本一国のみを悪者とする考えに染まり、東京裁判での日本側弁護人の証言は“屁理屈”のように報じられたと瀧川氏は書いている。国民もそのような考え方に染められた。

瀧川氏の『新版東京裁判をさばく』を読むと、東京裁判を法廷で見守り、日本のために戦った先人の無念が、心臓の鼓動を聞くかのように伝わってくる。日本人必読の書だ。だが驚くことに、昭和27年に前書『東京裁判をさばく』が出版されたとき、新聞はこれを「悪書紹介」として批判、出版元の東和社は倒産し、同書が広く読まれることはなかった。

日本はサンフランシスコ講和条約を結び独立を回復した。東京裁判の判決は受け容れたが、日本憎悪から生まれた同裁判の違法性や価値判断まで受け容れたわけではない。私たちは歴史を振りかえり、東京裁判の実態を知ることで、はじめて、日本に対する非難を一身に引き受けて犠牲となった“戦犯”の人々の想いをも知ることが出来る。その上で、彼らとその他全ての戦争犠牲者への鎮魂を、今こそ、忘れてはならないのだ。


 例によって、ここには本書の内容の一面しか挙げられていない。

 確かに本書からは、櫻井の言うように「東京裁判を法廷で見守り、日本のために戦った先人の無念が、心臓の鼓動を聞くかのように伝わってくる」。
 だがそれと同時に、何故わが国はこんな敗け方をしたのか、何故こんな膨大な犠牲をはらうことになったのか、何故こんな愚かな者どもが指導者の地位に就いてしまったのかといった憤りをも私は痛切に感じる。
 私が冒頭で述べた筆致の荒さも、そうした憤懣やるかたない思いの現れと考えれば納得がいく。

 私は櫻井のように本書が「日本人必読の書」だとは思わない。
 だが、近年の安易な東京裁判批判論はもちろん、裁判を体験した清瀬一郎の『秘録 東京裁判』や富士信夫『私の見た東京裁判』などとも異なる、実に特異な書であることは間違いない。
 東京裁判やわが国の戦中期の評価に関心のある方には 是非一読を勧めたい。

(了)

私は何故朝日新聞を購読しているか

2016-03-14 22:25:03 | マスコミ
 前回の記事の続きです。

 先日の私の記事「「だまってトイレをつまらせろ」?――朝日新聞政治部次長の奇妙なコラム」について、マンマークさんという方が、「市役所職員の生活と意見」というブログの
とにかく朝日を責めたい人。
という記事で、やんわりと批判しておられました。

 その批判の内容を読んで、私が少し申し上げたいと思ったことは、前回の記事で述べました。
 今回は、マンマークさんが私のことを誤解しておられる点について述べます。

 マンマークさんの記事は末尾を次のように締めくくってておられました。

このブログ主は朝日新聞を購読しているそうですが、ブログの過去記事を見ると、朝日新聞の記事に対する批判が多いようなので、朝日新聞に対して、批判というか、ケチを付けたいために購読しているようです。

 捻じれてますね。


 それは誤解です。
 私が朝日新聞を購読しているのは、何も朝日新聞を批判するネタを探すためではありません。私にはそんな金銭的余裕も時間的余裕もありません。
 私が朝日新聞を購読しているのは、他紙と比較して、記事の質・量、文字やレイアウトの読みやすさ、取材先や寄稿者、書評、広告、社会への影響力、読者の質・量などを総合的に検討して、家庭で1紙だけを購読するならば、朝日新聞こそがそれに最もふさわしいと考えているからです。
 念のために書きますが、冗談でも嫌味でもなく、本気でそう考えています。
 (日経もいい新聞ですが、家庭で1紙だけ購読するとなると、選ぶのはためらわれます)
 しばらく前に、他紙に乗り換えた時期も複数回ありましたが、気に入らなくて、結局朝日に戻ってきました。

 私のブログの記事に朝日新聞批判が多いのは、単に私が朝日を読む機会が多いからにすぎません。
 いちいちブログで記事は書いていませんが、朝日を読んで良い記事だと思うこともしばしばあります。
 例えば、毎日曜日に2面に掲載されているコラム「日曜に想う」の本月13日の分は、曽我豪・編集委員が「メインにならぬニッチでは」と題して、創生期の民主党で3期衆議院議員を務めた後、落選してソフトバンク社長室長を務め、今年の参院選ではおおさか維新の会から比例区に立候補する予定の嶋聡(しま・さとし)氏による民主党への懐疑を取り上げていました。
 私はこのコラムで初めて嶋聡という方を知りましたが、実に読み応えのある内容でした。

 また、14日の1面左上に掲載されていた「「核の先行使用放棄を」佐藤元首相打診、米拒絶」との見出しの記事は、首相引退後、ノーベル平和賞の受賞が発表されていた佐藤栄作が、キッシンジャー米国務長官に対して、受賞講演で核保有5カ国が核兵器の先行使用の放棄を話し合うため集まるよう呼びかけたいと提案したのに対し、キッシンジャーは、米国は先行使用を放棄するつもりはない、それは日本にとって危険だと答え、佐藤も受賞講演でこれに言及することはなかったというもので、これはスクープではなく春名幹男氏が既に確認済みの事実の紹介のようですが、広く知られていない事実に光を当てる良い記事だと思いました。

 当ブログの過去記事をもっと遡って見ていただければ、産経新聞や自民党の政治家を批判している記事があることがわかるはずです。

 いくつかの朝日批判の記事を見ただけで「とにかく朝日を責めたい人。」だと決めつけるのは、軽率というものです。

(了)

「だまってトイレをつまらせろ」? (追記)

2016-03-13 22:21:08 | ブログ見聞録
 先日の私の記事「「だまってトイレをつまらせろ」?――朝日新聞政治部次長の奇妙なコラム」を、マンマークさんという方が、「市役所職員の生活と意見」というブログの
とにかく朝日を責めたい人。
という記事で、やんわりと批判しておられます。

 私の記事を読まれた方が、それに同意しようが、批判しようが、はたまたくだらないと投げ捨てようが、それは全くその方の自由です。
 ただ、私としては、その批判の内容を読んで、少し申し上げたいことがありました。
 また、誤解しておられる点があるので その点についてもお知らせしたいと思いました。

 マンマークさんのブログの記事にコメントしてもよいのですが、他の場所でもこの方と似たようなことを書いている方がおられたので、そうした方にも伝わる可能性を考慮して、私のブログに新たに記事を書いて、マンマークさんにはトラックバックで伝えることにします(こんなことをするのは久しぶりだなあ)。

 さて、マンマークさんはこう書いています。

「んー? なんだこれは?」というのが最初の感想。
 これは、ここで取り上げられている朝日新聞のコラムじゃなく、このブログ記事を書いた人に対する感想です。
 
 朝日新聞のコラムで紹介されている「トイレをつまらせろ」は、雇用主である企業と被雇用者である労働者との話。
 それに対する反論として、このブログ主が持ち出している駅のトイレの話は、営業者である企業とその顧客との話。
 支配関係の有無という点で、まったく別物の話です。同じ文脈で比較していい話ではありません。

 しかし、このブログ主、そうした違いを理解せず勝手に話を発展させていきます。
 曰く「食費に困っている者が万引きしたら云々」あるいは「朝日新聞の購読者がこの記事が気に食わんと言ったら云々」…、妄想レベルです。
 
 朝日新聞のコラムの後段で安倍首相の話が出てきたのは唐突な印象も受けますが、それも支配関係をキーワードに考えれば、そう的外れな論理展開でもないのかなという気がしますし、少なくとも、このブログ主が示している幾つかの例に比べれば、的確だと思います。


 支配関係の有無という点で全く別物の話をごっちゃにするなとおっしゃっています。

 はて、雇用主と被雇用者は支配・被支配の関係にあるのでしょうか。
 私は、雇用契約を結んだ上での、対等の関係にあるのだと思っていました。
 だから、被雇用者には労働基本権が認められ、雇用者による不当労働行為が禁止されているのではないのでしょうか。
 支配関係って、まるで被雇用者が奴隷みたいですね。

 そして、マンマークさんは、高橋次長のコラムが安倍政権批判に至る点についても、「支配関係をキーワードに考えれば、そう的外れな論理展開でもないのかなという気が」するのだそうです。
 はて、安倍政権と、高橋次長を含む国民とは、支配・被支配の関係にあるのでしょうか。
 私も国民の一人ですが、安倍政権に支配されているなんて感覚はまるでないのですが。
 絶対王政や武家政治や藩閥政府の時代じゃあるまいし、共産党の一党独裁の国でもあるまいし、国民の普通選挙によって成立した国会が選出した首相をトップとする政府と国民が支配・被支配の関係にあるなんて、時代錯誤も甚だしいのではないでしょうか。
 マンマークさんだって、市長と市民が支配・被支配の関係にあるなんておっしゃらないと思うのですが。

 まあ、マンマークさんがそれらを支配・被支配の関係にあると見るのは、別にご自由だと思いますが、だとすれば、私が最初に鉄道のトイレの例を持ち出したのは、果たして「まったく別物の話」なのでしょうか。
 鉄道の利用客には、他の交通機関を選択する余地がない場合が往々にしてあります。私は現在、通勤に□□電車を利用していますが、私の自宅と私の勤務先を電車通勤しようと思えば他の鉄道会社を選択する余地はありません。路線バスもありませんし(あったとしても低速です)、自動車通勤は禁止されています。
 そして、鉄道の運賃は、乗客と鉄道会社が交渉して決めるのではありません。鉄道会社が一方的に決めたものに、乗客は黙って従わざるを得ません。被雇用者の賃金が労使交渉で変えられる余地があるのとは違います。
 そんな鉄道のトイレに紙が設置されていなければ、それは、この高橋次長が挙げている工場の経営者の例と比較して、「そう的外れな論理展開でもないのかな」と私は思うのですが。

 それに、高橋次長は、船本洲治の第3の道「だまってトイレをつまらせろ」から、「きらめくなにかを感受し」、「別にトイレをつまらせることを奨励しているわけではない」としながらも、「おのがお尻を何で拭こうがそもそも自由、チリ紙で拭いて欲しけりゃ置いときな、という精神のありようを手放したくはないと思う。」と述べています。
 そして、「他者を従わせたいと欲望する人」に同調することによって「ある種の秩序は保たれる。だけども「生」は切り詰められる」と警告しています。
 これは、単に支配する側への抵抗というよりは、「他者を従わせ」ようとすること一般への抵抗なのではないでしょうか。
 一般論として、既成の社会秩序に無条件に従うことに対する疑問を提唱しているのではないのでしょうか。
 私はそのように理解して、先のブログの記事を書きました。
 マンマークさんがそうは読み取れないとおっしゃるなら、それはそれで別にかまわないのですが。

 また、仮に支配・被支配の関係にあれば、「トイレをつまらせる」のは果たして許される行為なのでしょうか。
 高橋次長がその前に①②として挙げているように、経営者と交渉するという方法があります。それが普通でしょう。
 実際に③に及べば、経営者がその後トイレをどうするかはさておき、それは犯罪になります。労働者にとっても、決して良い結果は生まないと思うのですが。
 活動家がアジテーションでそういう暴論を述べることは、そりゃああると思います。
 しかし、それを新聞社の役職者が「きらめくなにかを感受し」たと真に受けて、そうした「精神のありようを手放したくはない」とコラムで表明するのは、そしてさらにそれを政権批判とからめるのは、立場的にどうなんでしょうか。

 高橋次長が政権批判にからめて「だまってトイレをつまらせろ」「はい、もう一回」とシュプレヒコールを唱えるのは、平たく言うと、国民には気に入らない政権を転覆させる自由があることを忘れるな、と言いたいのだと私は理解しました。抵抗権とか革命権とかいうやつですね。
 それには私も同意します。
 しかし、清教徒革命や名誉革命やフランス革命やロシア革命といった歴史上の革命は、絶対王政への抵抗として起こったものです。民主制の国で起こったのではありません。
 何故なら、民主制の国では、言うまでもなく、国民が政権を支持しないのなら選挙で政権を交代させることができるからです。ですから、国民が暴力で政権を打倒する必要はありません。
 にもかかわらず、高橋次長は、選挙のことなどまるで考慮している様子はなく、単に安倍政権の姿勢が気に入らないというだけで「だまってトイレをつまらせろ」と説きます。それでは、単に高橋次長の好き嫌いを表明しているだけです。そんなことは、ブログやツイッターならともかく、わざわざ新聞記者がコラムで語るに値しないことだと私には思えました。
 
 それから、私の記事は、単に「トイレをつまらせろ」という文言だけを批判しているのではありません。
 高橋次長は「為政者に「この道しかない」なんて言われるのはイヤだ」と述べていますが、為政者は国民に選択してもらうために自らの信じる道を示すべきですし、高橋次長だって、仮に安倍政権が道を示さなければ、逆にその点を批判するのではないかと説いています。
 それと、「他者を従わせたいと欲望する人」「さあご一緒に!」は高橋次長もまた同じではないかとも説いています。
 マンマークさんは、この二点には触れておられませんが、いったいどうお考えなのでしょうか。

 批判の内容について申し上げたい点は、以上です。
 誤解されている点については、次回述べます。

続く



瀧川政次郎『新版 東京裁判をさばく(上下)』(創拓社、1978)を読んで(5) 近衛文麿(続)・海軍批判

2016-03-12 22:31:30 | 大東亜戦争
承前

 著者の近衛文麿批判はさらに続く。よほど腹に据えかねるものがあるのだろう。

 また公が折角終戦後まで生き永らえていたのなら、堂々と巣鴨の拘置所へ出頭すればよかった。伝記『近衛文麿』によると、公が自殺した晩、後藤隆之助氏をはじめ側近の人々は、いずれも公に法廷に立って堂々と所信を述ぶべきだ、そうして陛下をお守りしてくれと極力説いた。しかし、公は、支那事変の責任を追究してゆけば、結局統帥権の問題になる。したがって陛下の責任も出てくる。だから法廷に立って所信を述べるわけにはゆかない、と考えた。それに法廷に出れば、木戸内府や東條大将などとドロ合戦になるだろう。それも嫌だと言っていたという。しかし、そんなことはみな公が考えた理窟で、公が戦犯者として法廷に立つことを嫌って自殺を遂げたのは、拘置所で窮屈な恥多き生活をすることが死ぬよりも苦しかったからであろう。幼少の時から侍婢にかしずかれ、衣食住なに不自由のない生活を送ってきたこの■袴子〔■は糸へんに丸。がんこし。貴族の子弟〕には、肉体的な苦痛には何ひとつ堪え得なかったのである。公は吉田茂が憲兵に捕えられて投獄されたとき、僕なら絶対に行かないよというので、牛場友彦氏が、どうするのかと訊くと、「なに手はあるさ。まさか立廻りはしないから大丈夫だ。」と笑ったという。公は国内で憲兵に引張られても自殺するつもりであったので、青酸加里はその当時から用意されていたのである。公が統帥権の問題で陛下に累が及ぶと考えていたなら、何故法廷へ出て「責一身にあり」と主張しなかったのか。責一身にありという気持でおれば、木戸や東條と泥仕合をせずともすむではないか。公の遺書の末文には「其時初めて神の法廷に於て正義の判決が下されよう。」とあったというが、公はどうしてその信念を法廷で述べることができなかったのか。公が法廷に立ってくれれば、累を陛下に及ぼすまいと苦慮した東條はじめ幾人かの被告の肩の荷は、どんなに軽かったであろうか。私は証人台に立つ被告の言葉を聞きながら、幾度そう考えたか知れない。公の側近の人々はどう考えているか知らないが、私は公の死は、君を思わず、民を思わず、友を思わない利己的な死であったと思う。あんな時に死ぬくらいなら、なぜ日米交渉のときに死んでくれなかったろう、というのが、公を遠くから見ていた一般国民の声であった。われわれ武士の家に生れ、侍としての庭訓を受けた者の眼から見れば、公の死は土中から引きずり出されてその首を梟せられた信西入道藤原通憲の死に方よりも、もっともっと卑怯な死に方である。男子なすべきことをなさずして死ぬ。一身の安きを貪って自ら毒を仰ぐ。これほど卑怯なことが世にあろうか。死んでしまえばおしまいだ、そんな無責任な気持で、この人は国政をあずかっていたのであろうか。虚脱状態に陥っていた国民は終戦後の公の再出発に不快の念を懐いたが、声を大にして公の責任を問わなかったが、米国戦略爆撃調査団は厳しく公の支那事変における責任を追及した。昭和二十年十一月九日、公は調査団から出頭を命ぜられ、〔中略〕調査団は、公を支那事変から太平洋戦争に導いた最高責任者として、公に対して容赦のない質問を浴びせかけた。質問の重点は、どういう計画で戦争を始めたか、勝算はどの程度にあったかということであったが、公は戦争は統帥部でやることで、内閣総理大臣としてはあずかり知らぬことだと答えた。公は内閣と統帥部の分立はどうにもならなかったことを縷々説明したが、米人にはどうしてもそれが納得できなかった。最後に彼らは吐き出すように「それでは日本の総理大臣は何も知らない傀儡だと思っていいのか。」と質問した。公は「まあそうだ。責任のがれをするわけではないが、そういう制度だった。」と重い声で答えざるを得なかった。この戦略爆撃調査団の訊問は、自分でいい児になっていた公に決定的な打撃を与えた。公はそれから軽井沢へ行ったが、怏々として楽まず、食慾も進まなかった。十二月二日、梨本宮をはじめ平沼騏一郎、広田弘毅など五十九名に逮捕状が出、梨本宮が大きな包を抱えて入所する写真を新聞で見た公の心は重るばかりであった。この調査団によって加えられた精神的な打撃が、公が自殺を決心するに至ったもう一つの原因であったと思う。(下巻 p.167-169)


 そして、その舌鋒は海軍にも向かう。

 この近衛公の手記を読んで、私が最も不愉快に感ずることは、この時及川海相、岡軍務局長等が、「総理一任」とのみ言って、「戦争はやれぬ」とハッキリ言わなかったことである。「総理一任」は、いかにも合法的である。しかし、陸軍を押えて太平洋戦争を罷めさすことのできるのは、海軍だけであったのであるから、海軍は「総理一任」などと言わずに、「戦争はやれぬ」とハッキリ言うべきであった。太平洋戦争は海戦が主であるのであるから、いかに横車を押す陸軍も、海軍に戦意がないというなら、考え直さずにはいられなかったと思う。それを海軍の面子とか責任ということに囚われて、ハッキリと「戦争はやれぬ」と言わなかった海軍の首脳部は、海軍あるを知って国家あるを知らない連中の集まりであったといってよい。〔中略〕戦争中には、よく「陸軍が暴力犯なら、海軍の方は智能犯だ。」と言われたが、「総理一任」などは智能犯の最たるものである。海軍の方は、陸軍のように無茶なことはやらなかったが、蔭に廻って旨い汁を吸うことは陸軍以上であり、対立意識の強いことも陸軍以上であった。昭和十三年、私は北京から青島に旅行したが、青島の優良住宅はみな海軍の軍人が占め、陸軍の軍人はひどくそれを憤慨していた。私はその町で新聞社の社長をしていた橋川時雄氏の令弟に会ったが、同氏は海軍の軍人が新聞に陸海軍と書くのは怪しからぬ、海陸軍と書けと怒鳴り込んできて困るといっていた。一般に国民は、陸軍だけが無闇に乱暴を働いたと見ているが、海軍も同じ穴のむじなであって、海軍の将校の中には自分たちが乗っている船は、国民の膏血を絞った税金で出来ているのだということを考えた者はひとりもなかったといってよい。私は前に日米交渉の癌となった仏印進駐は、功名心にあせる陸軍の軍人だけがやったことのように書いたが、米国戦略爆撃調査団の報告によると、仏印進駐を背後から推進したのは、海軍の急進分子であったという。(下巻 p.169-171)


 以上、東京裁判の副弁護人を務め、「東京裁判をさばく」はずの本書の文中に見られる、戦前・戦中期の軍や指導者への批判のうち印象的なものをいくつか挙げてみた。
 こういった箇所があるからといって、本書全体のトーンがそうした批判で貫かれているわけではもちろんない。主題はあくまで東京裁判批判である。ただその中で、こういった戦前・戦中期の軍や指導者への批判が多々述べられていることに私は驚きを禁じ得なかった。

 なお、私は著者によるこれらの批判に、全面的に同意しているのではない。
 これらの批判の中には、見方が一方的に過ぎるものもあるだろう。批判された者にはそれなりの言い分があるだろう。
 また、事実関係が誤っているものもあるかもしれない。
 しかし、そうした点を考慮しても、占領直後の国民の東京裁判に対するアンビバレントな心理の一例として、広く紹介する価値があると私は思った。

(続く)

瀧川政次郎『新版 東京裁判をさばく(上下)』(創拓社、1978)を読んで(4) 松岡洋右・近衛文麿批判

2016-03-11 21:53:30 | 大東亜戦争
承前

 下巻の後半、記述は日米交渉へと進む。
 ここでの松岡洋右への批判もまた激越である。

 三国同盟をした松岡は三国同盟を締結することによってアメリカの参戦を防ぎ得るものと考えていた。彼が野村大使の赴任に当って外務大臣として野村に与えた訓令には、「既に日米間直接諒解提携の途なしとせば、英米以外の国と連結協力し、たとへこれを圧迫脅威しても、その対日開戦または欧洲参戦を予防せざるべからず。これ独り皇国自衛のためのみならず、実に人類生存のためなり。」とある。日本とドイツが手を握ればアメリカに脅威を与え得ると考えたのは、彼がナチ・ドイツの実力を買い被り、独ソ開戦のあかつきには数カ月にしてモスコーは陥落するものと誤算していたからであり、脅威を与えることによってアメリカの参戦の意思を圧伏できるものと考えていたのは、アメリカの国力と国民性に対して無理解であったからである。日本はこの結果この阿呆な外交官のためにどれだけ損をしたか知れない。個人として国民を今日の悲境に陥れた責任を最も多く負わなければならない人は、かれ松岡洋右その人であろう。外交畑の反逆児である彼は、軍の急進派に推されて国際連盟に使いして五十三対一の惨敗を蒙り、日本の国際連盟脱退を余儀なくせしめた。度重なる中国軍閥の不法と執拗なる中国の排日行為にジャジャ馬のように満洲で荒れ廻る日本に対しては、世界に同情をもつ国もあったのであるから、彼が謙遜なる態度で列国に訴えれば、日本があれほどの袋叩きに遭うこともなかったであろうに、日本の国粋主義者軍国主義者に迎合せんとした彼は、日本人が溜飲をさげるようなタンカを切って会議に対する各国の代表者を徒に憤激せしめた。日本政府は、日本の立場をよく宣伝せしめるために、彼に相当の機密費を持たせてやったのであるが、彼はそれを外国の新聞記者にはバラ撒かず、日本の新聞記者にバラ撒いて自己を偉大に宣伝させ、凱旋将軍のような顔をして日本に帰ってきた。権謀外交家をもって自ら任じていた彼は、権謀外交の本家本元のリッペントロップにあやつられてナチ外交の驢馬となり、スターリン首相の一■〔■は目へんに分。いっぱん〕に魂を天外に飛ばし、最もあてにならない不戦条約を締結して得々として帰ってきた。数十万の同胞が極寒の地に労役せしめられて帰国の望みも打ち絶えるという有史以来のむごたらしい悲運も、彼の底知れない暗愚と功名心の生んだ結果である。日英の東京会談が東京怪談に終ったのも、彼が「俺が出なければ纏〔まと〕まらぬ」という自負心を満足させるために邪魔立てしたためである。彼の横車のために第二次近衛内閣が総辞職したことは、前に一言したとおりである。私は後世の日本の歴史家が、この男を「昭和の姦物」、「日本の秦檜」として筆誅を加える日のあることを信じて疑わない。(下巻 p.148-150)


 松岡もA級戦犯として起訴されたが、戦時中から結核を病んでおり、開廷の翌月に病死した。

 日米交渉についてのハルの口供書が、日本側は法律や文官の約束を軍部が守らないという表裏的言動をなしていたと指摘していることについて。

 日本には参謀本部と内閣の二つの政府があり、出先官憲には大公使館と武官府との二つがあって、それが互いに相対していたのであるから、日本を一国と見る諸外国が、日本の言動を表裏相反するものと見るのは当然である。表裏背反、朝令暮改で、信を諸外国に失っても致し方がない。木戸内府が「大事を誤るこの輩なり」と憤慨しても、この徒輩を処罰することもできないではどうにもならない。軍が官を圧しているなら、いっそ軍をして一国を支配させてみたらどうだ、軍も国政の責任をとる地位に立ったら、そう無茶もやるまいと考えて、後継の内閣首班に東條を推薦した木戸内府の苦衷も察すべきである。山県有朋が、統帥権を独立せしめたのは、原敬によって薩長藩閥政府が実権を議会、政党に握られてしまったことを残念に思い、せめて陸軍の統帥権だけは自己の手に収めておきたいと考えたからであろうが、その結果は日本を亡ぼすに至った。山県有朋は、維新の元勲としてよりは、軍閥の元老として日本歴史の上に記録せらるべきである。維新の元勲らは、勤王に名を藉〔か〕って倒幕を行ったが、彼らの目ろんだものが薩長藩士の政府を作ることにあったことは、これによっても明らかであろう。薩長は倒幕のためには手段を択〔えら〕ばなかった。彼らはイギリスの力をかりて幕府を倒した。甲鉄艦即ち後の「品川乗り出すあづま艦」がもし榎本武揚の率いる幕府の海軍に帰していたら、薩長の海軍は恐らく、金華山沖の戦で殲滅されていたであう。薩長のためを第一に考え、日本国家のためを第二義的に考えていた彼らは、統帥権を一般行政権から分離せしめることによって、とうとう日本の国を亡ぼしてしまった。敗戦の原因は、維新建国の原理にまで遡って考察しなければならない。私はこの意味で明治維新史の再検討を絶叫する。日本を救ったものは、フランスの援助を拒んで将軍職を辞した徳川慶喜その人である。「勝てば官軍」で、力をもってすれば道理はひっこむという薩長の考えは昭和の軍閥に承け継がれ、武力を中国に用いて自ら亡びたのみならず、二千年の歴史をもつこの国を目茶苦茶にしてしまった。敗戦によって我々は大いに反省せしめられたが、その反省は過去一世紀に遡って明治維新の反省にまで及ばなければ本当ではないと思う。(下巻 p.153-155)


 法廷で朗読された近衛文麿の手記が「第三次近衛内閣総辞職の顛末」の箇所で、東條陸相が対米開戦を主張し、及川海相は総理一任とするので、自分としては交渉に目途ありとする豊田外相の説を採る外はないと述べたところ、陸相は、総理が判断を下すにはまだ早い、今一度考えてもらいたいとして、散会したが、もし陸相説を受け入れて「戦」を決定していれば、海相もこれに反対するわけにいかず、「正に君国の一大事を招来するとこであつた。顧みて実に戦慄を禁ぜざるものがある。」と述べていることについて。

木戸日記には、東條陸相は「首相が裁決を下すのはまだ早い」といって、再考を求めた後、日米交渉においては、
 イ、駐兵問題及び之を中心とする諸政策を変更せざること。
 ロ、支那事変の成果に動揺を与えざること。
をもって外交成功を収め得ることに関し、略〔ほぼ〕統帥部の所望時期までに確信を得ること、右確信の上に外交の妥結方針を進めること、右決心をもって進むをもって、作戦上の諸準備は之を打切ることを提案し、各員これに同意したことが記されている。この重大なる申合せに関する記事が手記に欠けていることは手記が開戦の責任を東條一人に負わしめんとする魂胆によって作られたものであることを語っている。木戸日記によれば、支那事変の効果を無に帰せしめるような妥協はできない、アメリカがあくまでも中国からの全面的撤兵を固執するならば、開戦もまた已むなしという考えになっていたのは、近衛首相を含む会議の全員であったことが知られるが、この申合せの記事を欠く近衛手記の記事によれば、かく考えて開戦已むなしと主張したのは東條陸相ただひとりということになり、東條のみが開戦の責任者であるが如き感を懐かしめる。〔中略〕公は自分が陸相の主張を容れて「戦」に決定を与えなかった功を誇っている。しかし、われわれは、これを公の功績として認め得ない。公自らも「愈々和戦いづれかに決すべき問題に立つに至った。」といっているのであるから、「戦」に決定を与えなかったというだけでは事は済まないのであって、「戦」に不賛成ならば「和」に決定を与えねばならない。近衛公が「和」に決定を与えたというなら、公の功績を認め、公は平和愛好者であったと後世に伝えてよい。しかし、「戦」にも「和」にも決定を与えなかったというのでは、平和主義者ということにはならない。平和主義者というのは、平和を守るためには、死を賭して戦う覚悟のある者をいうのであって、戦を好む者との戦を避ける者は、平和主義者ではない。国家が和戦の関頭に立つ重大なる時期に臨んで、天皇の親任を受けて国務総理の重責にある者が、「戦」にも決定を与えず「和」にも決定を与えなかったということは、曠職〔こうしょく。職務をおろそかにすること〕の甚だしいものであって、上は以て天皇の寄託に対〔こた〕うる能わず、下は以て国民の望みに対うる能わず、その罪万死にあたる処置ではないか。この大罪を犯してその罪を自らさとらず、これを己が功績のように言っているこの男は、どこまで没分別か底が知れない。国家の安危に係わるこの重大な秋〔とき〕にあたって、こんな男が首相の地位にすわっていたのかと思うと、「顧みて実に戦慄を禁ぜざるものがある。」こんな男を国家の重大時期に首相にもったということは、日本国民の最大の不幸であった。国家の盛衰は人に依るのであって、物によるのではない。物さえ豊富にあれば国が興るように考える経済史観は史実に合わない。人類五千年の興亡史を通観してみるに、「人」なくして国興ったためしなく、「人」あって国亡びたためしもない。〔中略〕これほどの没理義者、これほどの無意力者を最枢要の地位に据えて、国が亡びない道理がない。日本国における近衛公の地位が高かっただけに、それだけこの人の国を破綻に導いた責任は重い。(下巻 p.162-164)


 近衛批判はまだ続く。

 風見章氏によって描かれた公の人柄は、そのヒイキ目を差引いても、好意のもてる好人物である。公は華冑の出であるに拘らず、非常に民主的で、人の言うことをよく聴いた。頭脳もまた明敏で、ものの理解も早かった。しかし、公はその理智で判断したものを行う意志力なるものを全然持ち合わせていなかった。あらゆる人間の美徳を備えていても、意志力をもたない人は、鼻の欠けた美人同然である。むかし斉の桓公は、東郊に遊んで郭氏の墟を見て、郭氏はどうしてその国亡んで廃墟となったと管仲に問うた。管仲対〔こた〕えて「郭氏は善を善とし、悪を悪とす」といったので、桓公は「善を善とし、悪を悪とすることは正しいことではないか。それでどうして国が亡んだのだ。」と反問した。このとき管仲が対えていうには、「善を善として行う能はず、悪を悪として去る能はず、これ郭氏の墟となる所以なり。」といったという。近衛公は、まことに善を善として、悪を悪とするの明はあったかも知れぬ。しかし、公は善を善として行い、悪を悪として去るだけの意志力を欠いていた。公には皇室を思う念もあり、軍の悪いこともよくわかっていた。しかし、公は皇運を扶翼し、軍の横暴を抑えるために積極的に行動する意思力をもたなかった。これその総理する日本国を廃墟と化せしめた所以である。公が緩急の時に当って職を曠〔むな〕しうしたのは、不惜身命の覚悟がなかったからであって、無法な軍人におどかされると、公のブレーンが苦心して立てた計画も一瞬にして消え去った。理智明かなる故に、甲の進言を今は嘉納しても、明日乙が更に良策を進言すれば、すぐにそれに乗り替えた。甲はその進言が反故にされたのみならず、その人までも弊履の如く捨て去られたことを知らねばならなかった。故に甲のブレーンは長続きがせず、幾度か人を代えた。最後まで側近にいた者は茶坊主のような人間ばかりで、気骨のある人間は寄りつかなくなってしまった。公が大衆に人気があったのは、大織冠鎌足公の直系というその尊貴なる門閥の故であり、公が三度まで首相の印綬を帯びるに至ったのは、この風船玉のような男なら俺の自由になると考えて軍がこれを利用したからである。長袖〔ちょうしゅう。公卿や僧侶などをあざけっていう語〕がいくさの邪魔にこそなれ、糞の役にも立たないことは、保元の乱以来試験済みであるのに、こんな男に摩訶不思議な神秘力でもあるように考えて、政治的経験も浅いこの若造を総理に戴いた国民にも責任があるが、そうした国民の貴族に対するあこがれから湧いたこの男の人気を利用して、これを軍が弱めようとかかっている一般行政権の首班にもってきた軍が一番わるい。軍を抑えなければならない重大な時機に、軍が利用するのに最も好都合な人物がこんな所にいたとは、何という国民の不幸であろう。この男も、桜かざして今日も遊びつといったような太平の世に生れてきて、菊作りでもやっておれば、開明されたよいお公卿さんであったろうに、神武以来の国家重要事に生れ合わしたのは、たしかに彼自らが嘆ずるが如く「運命の子」である。しかし「運命の子」というのは、われわれが言うことであって、彼自らが言うことではない。彼としては万死以て君民に謝すべきである。それをいい気になって敗戦のあとまでも、開戦の責任は全部東條にあって自分にはないような涼しい顔をしていることが、私には気に喰わない。この時海軍が「総理一任」といっていることは、「戦争はやれない」ということなんだから、公に不惜身命の覚悟があれば、「和」に決定を与えられなかったこともなかろうと思う。
 当日の木戸日記にも「陸相は日米諒解案の成立を見込なしとして重大決意を要望す。但し成立に確信ありとの納得し得る説明を聴くを得ば、勿論戦争を好むものにあらず。」とあるのであって、東條といえども遮二無二戦争にもって行こうといっているわけではない。この時には、陸軍も支那事変の処置に手を焼いて相当弱気になっていたのであって、近衛手記、十月十四日の条には、この日の午後、武藤軍務局長が富田書記官長の所へ来て「どうも総理の肚が決らないのは、海軍の肚が決らないからだと思はれる。で、海軍が本当に戦争を欲しないのならば、陸軍も考へなければならない。しかるに海軍は、陸軍に向つては表面はさういふことは口にしないで、ただ総理一任といふことを言つている。総理の裁断といふことだけでは、陸軍の部内を抑へることは到底できない。しかし海軍がこの際は戦争を欲せずといふことを公式に陸軍の方に言つて来るならば、陸軍としては部下を抑へるにも抑へ易い。何とか海軍の方からさういふ風に言つて来るやうに仕向けて貰へまいか。」と言ったことが見える。公に軍人に殺される覚悟があれば、「和」を裁決すべきであった。公がこの時「和」を裁決しても、日米諒解案は東條の言うとおり結局成立しなかったかも知れぬが、アメリカの東洋に対する野望はもっとハッキリ顕れ、国民の奮起は一層のものがあったと思う。公がこの時「和」を裁決すれば、公は恐らく犬養首相と同じ運命を担ったであろうが、戦争がすんでから荻窪の自邸で毒を仰いで死ぬよりは意義があった。(下巻 p.164-167)


続く