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片山さつき議員によるクマラスワミ報告に関する質問主意書とその答弁書を読んで

2012-09-30 12:12:18 | 現代日本政治
 しばらく前に、片山さつき参議院議員が、クマラスワミ報告に対する日本政府の対応について質問主意書を提出し、それに対する答弁書を受領したとの記事を見た。

 質問主意書は次のとおり。

従軍慰安婦問題に係る国連特別報告書に関する質問主意書

弁護士の戸塚悦朗氏は、一九九二年二月、国連人権委員会で従軍慰安婦問題を「日本帝国軍のセックス・スレイブ」だとし、NGOとして初めて提訴した。彼は、一九九二年から一九九五年までの四年間に、国連に対して合計十八回のロビー活動を行い、一九九六年にはついに国連人権委員会で特別報告書(クマラスワミ報告書)が提出・採択された。本報告書採択の際の政府の対応につき、以下、質問する。
一 クマラスワミ報告書には、「本報告書の冒頭において、戦時下に軍隊の使用のために性的奉仕を行うことを強制された女性の事例を軍隊性奴隷制(military sexual slavery)の慣行であると考えることを明確にしたい」とある。これにより、国連の報告書に「セックス・スレイブ」という言葉が入った。当時、外務省は、クマラスワミ報告書が採択される前に、四十ページにわたる反論文書を提出した。ところが、これがなぜか突然、撤回された。なぜ、報告書採択直前になって急遽撤回に至ったのか。その理由・経緯について説明するとともに、政府の見解を明らかにされたい。
二 クマラスワミ報告書採択当時の橋本政権においては、社民党が与党であった。日本政府は、クマラスワミ報告書へ反論する代わりに、「もう日本は謝っている。財団法人女性のためのアジア平和国民基金も作っている。」という旨の文書に差し変えてしまった。これにより、この見解が日本政府の国際社会に対する立場になってしまった。政府がこのような対応を採った理由・経緯について説明するとともに、政府の見解を明らかにされたい。
右質問する。


 なんか文章がヘン。
 「弁護士の戸塚悦朗氏は、」以下の彼の活動のくだりは質問内容と直接関係ない。何故彼の名を挙げる必要があるのか。
 また、「橋本政権においては、社民党が与党であった」という記述も唐突。社民党の圧力により撤回、差し変えが行われたのではないかと問いたいのだろうとは思うが、文章がこなれていないため、意味不明。
 そもそも「一」で問うている「急遽撤回に至った」「理由・経緯」の説明及び政府見解と、「二」の「差し変え」た「理由・経緯」の説明及び政府見解とは、同じことを聞いているに等しいのではないか。

 ちょっと検索してみたら、「救う会」会長の西岡力がブログでこの質問主意書と似たようなことを書いている。

 日本人弁護士戸塚悦朗こそが「慰安婦=性奴隷」という国際謀略の発案者だった。戸塚は自分のその発案について次のように自慢げに書いている(『戦争と性』第25号2006年5月)。

〈筆者[戸塚のこと・西岡補]は、1992年2月国連人権委員会で、朝鮮・韓国人の戦時強制連行問題と「従軍慰安婦」問題をNGO(IED)の代表として初めて提起し、日本政府に責任を取るよう求め、国連の対応をも要請した〉〈それまで「従軍慰安婦」問題に関する国際法上の検討がなされていなかったため、これをどのように評価するか新たに検討せざるをえなかった。結局、筆者は日本帝国軍の「性奴隷」(sex slave)と規定した。〉

 この戸塚の規定が国際社会での反日謀略のスタートだった。日本人が国連まで行って、事実に反する自国誹謗を続けるのだから、多くの国の外交官が謀略に巻き込まれるのは容易だった。彼の国連ロビー活動は、92年から95年の4年間で海外渡航18回、うち訪欧14回、訪米2回、訪朝1回、訪中1回と執拗に繰り返された。戸塚らの異常な活動の結果、96年に戸塚の性奴隷説が国連公式文書に採用された。

 国連人権委員会の特別報告者クワラスワミ女史が人権委員会に提出した報告書(『戦時における軍事的性奴隷問題に関する朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国および日本への訪問調査に基づく報告書16』)に「戦時下に軍隊の使用のために性的奉仕を行うことを強制された女性の事例を、軍隊性奴隷制(military sexual slavery)の慣行であると考えることを明確にしたい」と書かれた。

 同報告書は、吉田清治証言や女子挺身隊制度による慰安婦連行説を事実認識の根拠としている。事実認識が間違っているのだ。外務省は同報告が採択される直前に40頁にわたる反論文書を人権委員会に提出した。ところが、突然、反論文書は撤回され、事実関係には言及せずすでに日本は謝罪しているとした弁解文書に差し替えられた。当時は社会党が与党だった。これ以降、外務省は事実関係に踏み込んだ反論を一切しなくなる。これが米議会決議に飛び火した。


 さらに、「続・慰安婦騒動を考える」というサイトの今年8月19日付けの「誰が外務省の反論を封じたのか?」という記事には、ニコニコ生放送での片山と西岡と池田信夫が出演した番組における、次のような会話が掲載されている。

西岡力: さすがにこの時は、外務省はですね、クマラスワミ報告に対して、採択する直前に40ページに渡る事実関係に踏み込んだ反論文書を出したんです。ところが、それが突然撤回されちゃうんです。で、これはぜひ(片山さつき)先生にも国政調査権を使ってですね、なんで文書が撤回されたのか。当時橋本政権ですね。社会党が与党ですよ。

片山さつき: (メモを取りながら)「自社さ」ね、はい。

西岡: で、戸塚(悦朗)弁護士なんかが書いてるものだと、外務省は事実関係で反論してきてケシカランと。日本国内で論議しなきゃならない、日本の政治家が動かしてると書いてるんです。ある面で外務省だけの責任ではなくて、政治の責任ね、外務省もそこでは頑張って、さすがに吉田清治の証言が引用された文書を国連で採択されることについては反論したわけです。でもこの文書、非公開ですよね。ないことになっちゃってる。

で、それで、その文書の代わりに、日本はすでに謝ってますと、アジア女性基金も作りましたという文書に差し替えた。それ以降、日本政府の国際社会に対する公式的立場は・・・

池田信夫: ずっとそれですよね。抵抗しないで、もうこれは終わってるんですっていう話ですよね。

西岡: そしてそれがですね、アメリカに飛び火したわけですよ。


 ここで西岡に言われたとおりに、片山が国政調査権を行使したということなのだろうか。

 で、次のような答弁書が返ってきたという。

参議院議員片山さつき君提出従軍慰安婦問題に係る国連特別報告書に関する質問に対する答弁書

一及び二について
 国際連合人権委員会が任命したクマラスワミ特別報告者による報告書(以下「クマラスワミ報告書」という。)が、平成八年二月に、国際連合に提出されたことを受け、我が国は、同年三月に、クマラスワミ報告書に対する日本政府の見解等を取りまとめ、同委員会の構成国を中心とした各国(以下単に「各国」という。)に対して働きかけを行うとともに、国際連合に提出した。
 また、同委員会において「女性に対する暴力撤廃」と題する決議が、同年四月に採択されたが、その過程において、当該決議の案文がクマラスワミ報告書に言及していることから、我が国の立場についてできるだけ多数の国の理解を得ることを目指し、我が国が、同年三月に、「女性に対する暴力及びいわゆる「従軍慰安婦」問題に関する日本政府の施策」と題する文書を改めて作成し、各国に対して働きかけを行うとともに、当該文書を国際連合に提出した結果、当該文書が国際連合の文書として配布されたものである。
 当該文書においては、平成五年八月四日の内閣官房長官談話にも言及しつつ、女性のためのアジア平和国民基金を通じた取組等について説明し、また、我が国の立場として、いわゆる従軍慰安婦問題を含め、先の大戦に係る賠償並びに財産及び請求権の問題については、我が国として、日本国との平和条約(昭和二十七年条約第五号)及びその他関連する条約等に従って誠実に対応してきたところであり、これらの条約等の当事国との間では、法的に解決済みであって、クマラスワミ報告書における法律論の主要部分につき、重大な懸念を示す観点から留保を付す旨表明している。
 なお、同委員会が任命した特別報告者による報告書を同委員会で採択する慣行はなく、通常は、当該報告書に関連する同委員会の決議において、当該報告書が言及されるものと承知している。


 ざっと読んだだけでは、何が書かれているのか理解しがたい人も多いのではないだろうか。
 あるブロガーが誤読しているのを見かけたが、むべなるかな。

 最初に挙げられている、平成8年3月に取りまとめられた「クマラスワミ報告書に対する日本政府の見解等」(ややこしいので以下「文書A」とする)が質問主意書の言う「四十ページにわたる反論文書」であり、同月に「改めて作成」された「女性に対する暴力及びいわゆる「従軍慰安婦」問題に関する日本政府の施策」と題する文書(ややこしいので以下「文書B」とする)が質問主意書の言う「「もう日本は謝っている。財団法人女性のためのアジア平和国民基金も作っている。」という旨の文書」なのだろう。
 答弁書の「当該文書においては、」以下は文書Bの説明である。これによると、文書Bは「クマラスワミ報告書における法律論の主要部分につき、重大な懸念を示す観点から留保を付す旨表明している」とのことなので、必ずしも質問主意書が言う「反論する代わりに、「もう日本は謝っている。財団法人女性のためのアジア平和国民基金も作っている。」という旨」ではないと言いたいのだろうか。

 しかし、片山が問うているのは、
一.文書Aを「急遽撤回」した「理由・経緯」の説明及び政府見解
二.文書Aを文書Bに「差し変え」た「理由・経緯」の説明及び政府見解
であるはずである。
 片山のブログ本体のコメント欄や記事が転載されたBLOGOSのコメント欄でも指摘されているが、これでは答えになっていない。

 答弁書を読む限りでは、文書Aと文書Bはそれぞれ別々の目的に作成されたものであり、文書Aを撤回して文書Bとしたわけではないと読める。
 しかし、撤回や差し変えを明確に否定しているわけでもないのである。
 隔靴掻痒の感がある。

 国会議員の質問主意書に対する答弁書が、木で鼻をくくったような官僚的なものであることはしばしばあるが、これほど答えになっていないものも珍しいのではないか。
 悪く言えば、議員をなめている。鼻であしらっていると言える。
 片山議員のブログの記事はBLOGOSで時々見るが、それらを読む限り、決して支持したくなるタイプの政治家ではない。しかし、こんな連中を相手にしなければならないという点には少しだけ同情する。

 yuri_donovicさんというブロガーが、この問題についての1996年5月7日の参議院法務委員会での本岡昭次議員(1995年社会党を離党して民主改革連合(日本労働組合総連合会を支持母体とする参議院のみの政党)に参加、のち民主党に合流)と川田司・外務省総合外交政策局国際社会協力部人権難民課長との問答を掲載しており、大変参考になった。
 勝手ながら、興味深い箇所をコピーさせていただく。

 それでは、国連人権委員会の問題についてお伺いします。

 三月十八日から第五十二回国連人権委員会が開かれました。私も、一週間国会を休ませていただいて、これに参加してきました。そして、そこでは、旧日本軍が戦争中に行った慰安婦問題これに対する審議が行われました。この慰安婦問題は、人権委員会で軍事的性奴隷というふうに位置づけられて、そして日本の法的責任が厳しくそこで求められるということになり、クマラスワミ女史の報告も決議として採択されるようになりました。その採択は四月十九日に行われて、この外務省の仮訳によりますと、この女性に対する暴力、その原因と結果に関する特別報告者の作業を歓迎し、報告をテークノートするということで、無投票でコンセンサス採択されたということになっております。

 この無投票でコンセンサス採択と言っておりますが、このクマラスワミ報告は全会一致で採択されたと。日本も反対しなかったということは、賛成したというふうに理解してよろしいですか。

○説明員(川田司君) お答えいたします。

 先生ただいまの御指摘の決議は、いわゆる女性に対する暴力撤廃に関する決議であると考えておりますけれども、この決議は家庭内暴力など今日の社会においていわゆる緊急の課題となっている女性に対する暴力の撤廃に関するものでございまして、いわゆる従軍慰安婦問題についての決議ではございません。このような女性に対する暴力の問題、我が国も大変重要な問題と考えておりまして、この決議に賛成いたした次第です、といいますか、コンセンサス採択に参加したというのが事実でございます。

○本岡昭次君 それであるならば、なぜ事前に、女性に対する暴力に関する特別報告者により提出された報告の追加文書Ⅰ、アドⅠについて日本政府の見解〔引用者注・文書A〕なるものをわざわざ関係諸国に配付して、この従軍慰安婦問題について日本政府の立場を説明して、それが拒否されるようになぜ各国に求めたんですか。

〔中略〕

クマラスワミさんが述べている事柄に対して徹底的に反対していますね。大変な言葉でもって反対しておりますね。なぜここまでやらなければならなかったんですか。女性に対する暴力全般ならもっと素直に臨めばいいじゃないですか。

〔中略〕

 そこで、この文書を私は日本語に訳された文を読んだんですが、これは大変なんですよ。このクマラスワミ報告を拒否せよ拒否せよというのが三回も書いてあって、特に私は唖然としたのは、「実際には特別報告者の議論は恣意的で根拠のない国際法の「解釈」にもとずく政治的発言である。」と書いてある。「国際社会がこのような議論を受け入れるならば、国際社会における法の支配にたいする重大な侵害となるであろう。」、どういうことですか。ここまで書かにゃいけなかったんですか。そして、結論として、「そこで人権委員会が、事実の不正確な記述と国際法の間違った解釈に基づく「法的」議論を提起しているこの追加文書を拒否し、また「慰安婦」問題と女性にたいする暴力一般の問題について日本がとった行動を適切に認めることを繰り返し強く希望する。」という文書を事前に配付したんですよ。そして、国連に配付した文書は全然そういうところがない。全部削除されてしまって、国民基金でやりますからどうぞ日本を認めてくださいというような文書になってくるわけなんですね。

 それで、そうすると日本政府は、ここに書いてあるように、クマラスワミ女史が一応調査をしてそして公式に人権委員会に出した、附属文書であっても公式の文書ですね、その文書を政治的発言というふうに決めつけて、そしてこれを受け入れたら「国際社会における法の支配にたいする重大な侵害となるであろう。」と言ったんですよ。それで、これが留意であろうと何であろうと、テークノートという言葉の解釈は私もいろいろ調べましたから後でやりますけれども、一応それは記録にするにしろ留意するにしろどんな言葉にしろ、消すことのできないものとして国連の中に残ったわけでしょう。そのことに対して日本が今言いましたように議論を展開したという、このことは消せないでしょう、これ。何カ国にもお渡しになったんですよ、二国間というけれども、こんな文書を。これ責任は重大ですよ。私の言っていることに間違いありますか。

○説明員(川田司君) 日本政府の立場でございますけれども、二月六日に官房長官が明らかにしておりますが、いわゆる従軍慰安婦問題に関するクマラスワミ特別報告者の報告書第一附属文書の法的に受け入れられる余地はないという考えに基づきまして、そのような立場で人権委員会に臨んだわけでございます。先生お持ちの資料につきましても、基本的にはそういった考え方に立って作成した文書でございます。

○本岡昭次君 そうすると、国連は国際社会における法の支配に対する重大な侵害になるものを採択したんですか、みんなで。だから、日本政府はその直前までアドI、附属文書の一、従軍慰安婦問題が書かれてあることの削除を徹底して三日間求めてあなたも頑張ったんでしょうが、抵抗したんでしょう。だけれども、国際社会の中に受け入れられることなく、アドIもアドⅡも一つの文書としてクマラスワミ報告は、コンセンサス採択にしろ何にしろそれは支持されたことになったわけじゃないですか。

 そうすると、国連は、何ですか、人権委員会はこのクマラスワミさんの政治的発言を受け入れて、そして法の支配に対する重大な侵害とまで日本が言い切ったものを受け入れたという、この関係はどうなるんですか。日本はこれからどうするんですか、これ。国連の人権委員会から脱退するんですか。

○説明員(川田司君) お答えいたします。

 クマラスワミのいわゆる第一附属文書が採択されたということでございますけれども、それは先ほどから申し上げますとおり、この報告書はテークノートされたにすぎないわけでございます。

 私どもの考えとしましては、このテークノートといいますのは、記録にとどめるとか記録するとか留意するとかいうことでございまして、いわば評価を含まない中立的な表現でございます。したがって、採択されたというのは必ずしも適当ではないと思います。

〔中略〕

○本岡昭次君 しかし、先ほど言ったように、拒否すべきものであると言い、そして先ほど私が何回も引用しましたように、国際社会における法の支配に対する重大な侵害であるから削除しなさい削除しなさいと言っても削除できなかった。それで、審議もするなと言って求めたけれども、審議は行われた。韓国、中国初め十カ国から、またNGOも二十数カ国がこれを歓迎した。日本のこの立場を支持した国は一国もなかった、全く日本は国連人権外交において孤立化したというこの事実は認めますか。

○説明員(川田司君) 先ほど来申し上げていますけれども、クマラスワミ特別報告者の報告書といいますのは、家庭内暴力を扱った報告書本体、それから第二附属文書、それからいわゆる従軍慰安婦問題を扱った第一附属文書から成るわけでございます。

 この件につきましては、人権委員会におきましていわゆる女性に対する暴力撤廃に関する本会議の審議において議論されたわけですけれども、私どもの承知する限り、いわゆる従軍慰安婦問題ないしこれを扱いましたこの報告書第一附属文書に言及した国は、我が国のほかは、韓国、中国、フィリピン及び北朝鮮の四カ国であったと理解しております。また、このうち特にフィリピンは我が国の取り組みを評価する発言をしたわけです。また、この問題に何らかの形で言及したNGOは、本会議で発言したNGOというものは全部で五十四団体あったわけですけれども、このうち約十団体であったと理解しております。

 女性に対する暴力に関する討議の焦点は、報告書本体及び第二附属文書にある家庭内暴力の問題、あるいはまたセクハラ等社会における女性に対する暴力の問題といった現代社会の直面する問題であったというふうに承知いたしております。

○本岡昭次君 〔中略〕

 そうすると、配付直前に撤回した、幻の文書になっておるんですが、この資料、これが最後に撤回されて別のその文書が出された、ごく穏やかなものが、重大に留保しますという言葉で。なぜこの最初に出した文書をきちっと国連に正式の文書として、印刷直前までやって、私の聞くところでは、アラビア語の訳までできておったけれども、だめだと引き取って別のものを出したと。なぜそこまでしなければならなかったんですか。

○説明員(川田司君) 先生お持ちの資料は、基本的には二国間の話し合いといいますか、二国間で我が国の立場を説明する際に使う資料として作成したものでございます。ただ、国連人権委員会の場におきましては、こういった大部の資料を配付するのは必ずしも適当でないということで、もっとわかりやすい文書ということで簡単な文書を作成したわけです。

 ですけれども、この国連人権委員会で配付した文書も、基本的にはその最初の文書と内容的には同じものである、基本的には簡単にしたものであるというふうに理解いたしております。

○本岡昭次君 いや、そうはなっていないじゃないですか。最後は重大に留保するという言い方、片一方は拒否する拒否する拒否するということでもって審議さえさせないというふうな立場での臨み方が、何で最後重大な留保ということなんです。やっぱり国際社会の中で日本も、こういう文書を出すとこれは大変なことだということであなた方はやわらかい文書に書き直したんでしょう。そこは認めなさいよ、はっきりと。

○説明員(川田司君) 国連文書として配付した文書の中でも、そのクマラスワミ特別報告者の法的議論については我が国として受け入れられないということを述べておりまして、基本的には同じ内容でございます。

○本岡昭次君 そうしたら、あなたは最後まで、今でもこのクマラスワミのアドIの附属文書、日本の従軍慰安婦問題の書いてあるところは、恣意的で根拠のない国際法の解釈に基づく政治的発言、国際社会がこんな議論を受け入れたら国際社会における法の支配に対する重大な侵害になると、今もあなたはそう思っていますか。

○説明員(川田司君) はい、基本的にはそのように考えております。


 今回の片山議員の質問主意書に対する答弁書が、この川田課長による答弁に沿ったものであることがわかる。
 文書Aと文書Bはそれぞれ別々の目的のために作成されたものであり、基本的には同じ内容であると。

 しかし、本岡議員の認識では、文書Aを撤回して文書Bに差し変えたとなっている。
 実際、秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(新潮選書)を見ると、当時そのように報道されてもいるようだ(p.277~279)。

 果たして撤回なのかそうでないのか。
 また、文書Aが公開されていないのは何故なのか。

 片山議員にはさらなる追及あるいは調査を期待したいところだが、ブログの記事にしても、質問主意書と答弁書を掲載したのみで論評一つなく、その後も何の続報もないところを見ると、これは期待できそうにない。

4島返還論は米国の圧力の産物か?

2012-09-17 00:03:20 | 領土問題
 拙記事「松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について」を「ダシ」に、「「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって」という記事を書いたとして、オコジョさんという方からトラックバックをいただいた。

 一度目のトラックバックの時に読ませていただいたが、その後、さらに記事に手を入れられたようで、二度目のトラックパックをいただいている。

 拙記事の「主旨は、大筋でそのとおりだと思」うとのことなので、疑義を呈しておられる箇所についてのみ私の考えを述べておく。

 まず、池田香代子氏の記述について。

 また、池田氏は別に『モスクワにかける虹』の中にそういう記述があったと主張しているわけではないのです。池田氏は別のソースに依拠しているかもしれず――別ソースでは確かに「永久に居すわる」旨のダレス発言が取り上げられている例もあります――いきなり「どこにも出てこない」と断言するのは、オカシイでしょう。


 本書巻末の佐藤優氏による解説には、ダレス発言の根拠は本書だけだとあります。実際、ほかにソースがあるという話を聞きません。
 したがって、誰かがダレス発言を勝手に膨らませたのでしょう。それを池田氏が参照し、そう思い込んだのでしょう。
 私が言いたかったのは、本書に拠る限り、「永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」といった趣旨の発言はなかったということです。別に池田氏が『モスクワにかける虹』の中にそういう記述があったと主張しているとは書いていませんし、池田氏がそう書いた責任が全て氏にあるというつもりで指摘したのではありません。

 次に、4島返還論について。

 松本氏が全権となった「第一次ロンドン交渉」の途中から、日本が4島返還を主張し始めたのは事実ですが、なぜそうした“転換”があったかという問題に関しては、単純に日本の意思だけに帰すことはできません。

〔中略〕

 ダレスの恫喝に先立って、同様の「趣旨の申し入れ」が既に米国からわが国に伝えられていたのは、事実なのです。
 米国からの圧力がなかったわけではなく、合同がなったばかりの自民党内で日ソ国交回復を妨害する勢力であった吉田派が、米国の意思を体現していた可能性は大きいと私も思います(というより、ほぼ事実です)。
 択捉・国後が日ソ友好を引き裂くクサビになると米国が考え、それに基づく明確なポリシーを展開していたことも、間違いない事実でしょう。


 米国がそのような「申し入れ」をしたのは事実でしょう。そして、その背景にはおっしゃるような明確なポリシーがあったのかもしれません(確証がない以上、「間違いない事実」などとは私にはとても言えませんが)。
 しかし、「吉田派が、米国の意思を体現していた」などと何故言えるのでしょうか。
 ソ連による北方領土の奪取をオコジョさんは不当だとは思わないのでしょうか。
 ここで日露・日ソ国境の変遷を詳しく振り返る余裕はありませんが、樺太と交換して得たウルップ島以北の千島列島にしても、日露戦争の結果獲得した南樺太にしても、わが国が侵略により奪取した領土ではありませんから、もとより領土不拡大をうたった連合国に奪われる筋合いはありません。しかし、択捉・国後の両島は、それ以前の最初の日露国境画定時からのわが国「固有の領土」なのですから、なおさら国民感情として容認できるものではありません。
 択捉・国後の要求はわが国として当然のことであり、米国はそれを後押ししたにすぎないと見るべきだと私は考えます。

 以前の拙記事で強調し忘れていましたが、松本は、米国の意向があった「から」わが国は2島返還での妥結は不可能と見て領土問題の棚上げに転じたとは言っていません。
 おそらく、重光も鳩山もそうは言っていないはずです。そんな発言や記述があれば、それこそ“転換”の根拠として挙げられるでしょうから。
 交渉過程での一時的な変心はともかく、松本も重光も鳩山も河野も吉田も、基本的には最低でも4島返還の線で一致していたと見るべきだと私は思います。〔註〕

 なお、サンフランシスコ平和条約でわが国は千島列島を放棄するとしています。これはおそらくヤルタ協定を考慮してのことでしょう。
 そして本書巻末の佐藤優氏による解説にもあるように、1951年10月19日、衆議院の平和条約及び日米安全保障条約特別委員会において、外務省の西村熊雄条約局長は、この千島列島には南千島、すなわち択捉、国後を含むと答弁しています。
 これが含まないという見解に変わるのは、先の拙記事で挙げた1955年の第1次ロンドン交渉の過程においてです。

 しかし、平和条約の当時、吉田首相は既にこの千島列島から南千島を除くよう米国に求めていたといいます。
 吉田の『回想十年』第3巻に次のようにあります。

平和条約の案分がほぼ確定的となった昭和二十六年春、米国大統領特使ダレス氏が〔中略〕来訪したときには、南千島が案分にいうところの千島列島に含まれぬことを明記されたいと要請した。
 然るにダレス氏は、日本側の説明と希望は十分にこれを諒としながらも、もし条文上にその点を改めて明かにするとすれば、関係諸国の諒解を取り直さねばならず、そうなれば条約調印の時期は甚だしく遅れることになるというわけで、草案のまゝ呑んでほしいということであった。そしてその代りというわけでもないが、平和会議に当って日本代表から何かその点に関する見解の表明をしたらよいではないかとの示唆を受けた。日本側としても、幾度かいうとおり、一日も早く講話独立を願っていたので、その示唆に従うことになったわけである。私がサンフランシスコ会議の演説で、条約案受諾の意思を明かにすると同時に、特に領土処分の問題について一言した裏には実はそうした経緯があったのである。(中公文庫版、1998、p.70-71)


 そして、同書に収録されている受諾演説には、次のようにあります。

過去数日にわたってこの会議の席上若干の代表国はこの条約に対して反対と苦情を表明されましたが、多数国間に於ける平和解決に当ってはすべての国を完全に満足させることは不可能であります。この平和条約を欣然受諾するわれわれ日本人すらも若干の点について苦悩と憂慮を感じることを否定できません。この条約は公正にしてかつ史上嘗て見ざる寛大なものであります。われわれは従って日本の置かれている地位を十分承知しておりますが、あえて数点につき全権各位の注意を促さざるを得ないのであります。これが国民に対する私の責任と存ずるからであります。
 一、領土の処分の問題であります。奄美大島、琉球諸島、小笠原諸島〔中略〕の主権が日本に残されるという米全権および英全権の発言を私は国民の名において多大の喜びをもって了承するものであります。〔中略〕千島列島および南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものとのソ連の主張には承服致しかねます。日本開国の当時千島南部の二島択捉、国後両島が日本領土であることについては帝政ロシアも何んら異議を差しはさまなかったものであります。たゞウルップ島以北の北千島諸島と樺太南部は当時日露両国人混住の地でありました。一八七五年五月七日日露両国政府は平和的外交交渉を通じて樺太南部は露領としその代償として千島諸島は日本領とすることに話合いをつけたものであります。〔中略〕また日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵が存在したためソ連軍に占領されたまゝであります。(同、p.103-105)


 先に触れた西村局長の答弁も、この受諾演説を援用しています。

 条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております。しかし南千島と北千島は、歴史的に見てまったくその立場が違うことは、すでに全権がサンフランシスコ会議の演説において明らかにされた通りでございます。あの見解を日本政府としてもまた今後とも堅持して行く方針であるということは、たびたびこの国会において総理から御答弁があった通りであります。(松本俊一『日ソ国交回回復秘録』朝日新聞出版、2012、p.258)


 第1次ロンドン交渉より前においても、南千島と北千島は別物だという見解は既に存在しました。

 この記事を書いていると、オコジョさんからさらに「米国の意思と「北方領土問題」――「訓令第一六号」など」という新記事のトラックバックをいただきました。
 大変興味深い内容であり、私も久保田氏と和田氏の著作に目を通してみようと思います。

 しかし、仮に「訓令第一六号」がそのような内容のものであったとしても、それはその時点での外務省の方針がそうであったというだけにすぎません。
 なるほど外務省は当初歯舞、色丹を最低ラインと考えたのかもしれません。あるいは少なくとも松本にはそう思わせて交渉に臨ませたのかもしません。
 しかし、それはわが国の最終的な判断ではありませんでした。だからこそ松本は請訓し、そして結局のところ重光外相はこれを拒否したのです。
 交渉の一局面にすぎず、それほど重視すべきものではないと思います。
(和田氏の『北方領土問題』は未読ですが、同氏が1980年代に月刊誌『世界』に発表した北方領土問題に関するいくつかの論文は昔読んだことがあります。何というか、どうにかしてわが国に不利な主張を学問的に立証しようと懸命な方だという印象をもちました)

 そしてまた、オコジョさんは、

前回からの続きとして言うならば、ひとりの国務長官の言動に尽きる問題などではなく、もっと広く深く日本の内部にまで浸透していた意思があったのです。


と、米国の意思を強調しますが、何故そこにそれほどこだわるのでしょうか。
 米国の意思はあったのでしょう。だがわが国の意思はなかったのでしょうか。
 また、米国が米国の国益を考慮してわが国に働きかけること自体は何ら非難すべきことではないと思います。

 私自身は「四島返還論」は交渉の妥結を不可能にする「ため」に主張されていた(いる)ものと考えています。「北方領土問題」が解決してしまっては困る人たちが、国の内と外の双方にいると考えます。


 オコジョさんに限らず、そのように主張する方はしばしばおられますが、私は同意しません。何を根拠におっしゃっているのかもわかりません。
 北方領土問題の解決は多くの国民が望んでいるでしょう。ただ、2島返還で「「北方領土問題」が解決してしまっては困る人たち」が国民の大多数であるというだけのことではないでしょうか。
 2島返還ででも解決したほうがいいと考える人が多数を占めれば、それで解決するでしょう。
 それだけのことではないでしょうか。

 オコジョさんをはじめ、この米国の意思を問題視する方は、あのとき2島返還ででも妥結して平和条約を締結しておけば、日ソの友好が進み、米国のわが国における影響力は低下し、東アジア情勢も現在とはかなり異なるものになっていたのではないかという願望があるのでしょう。
 しかし、そもそも中立条約を破って不当に参戦し、捕虜を長期にわたって抑留し強制労働で死亡させ、あげくの果てに択捉・国後すら返さない、そんな国と、仮に平和条約を結んだとしても、どうやって友好関係を築くことができるのでしょうか。

 私も、オコジョさんに倣って北方領土問題に対する考えを簡単に示しておきますと、

1.もともと南樺太も千島列島もわが国が侵略して奪取したものではない。したがってわが国は4島のみならず南樺太と千島列島に対しても領有権を主張できる。
2.しかし、歴史的経緯に鑑み、4島のみの返還で平和条約を締結するのもやむを得ない。
3.北海道の一部である歯舞、色丹と南千島である国後、択捉とでは経緯が異なるのだから、4島一括返還に固執する必要はない。国後、択捉の継続協議を明記するなら、歯舞、色丹の先行返還もやむを得ない。しかし、2島返還をもって最終的解決としてはならない。
4.歯舞、色丹は北海道の一部であるから即座にわが国に編入すべきだが、国後、択捉については、わが国の主権が及ぶことを確認した上で、在住ロシア人を考慮した特殊地域とすることを認めてもよい。しかし、主権の存在確認は譲れない。

といったところでしょうか。
 ただし、これはこの地域に全く利害関係のない、一国民の戯れ言です。
 旧島民や北海道民、漁業関係者といった言わば当事者が、例えば2島返還でもよいから平和条約をと求めるなら、自説に固執するつもりはありません。

 あと、

 この論理をもう少し先に進めれば、日ソの国交回復自体を否定していた吉田茂の方針に至ります。日本にソ連の大使館を置くのを防ぐためになら、国が抑留者を見捨ててもいいという考え方には、私はとても同意できません。


との箇所については、私もそのとおりだと思います。
 だから私は、領土問題を棚上げして国交回復を成し遂げた鳩山一郎を支持します。
 実は、私は鳩山一郎という政治家をあまり高く評価していません。しかし、この領土問題を棚上げしての国交回復という一事だけでも、わが国の歴史に残すべき政治家だと思います。
 国交が回復しなければ、抑留者の全面帰国も、わが国の国連加盟も、漁業問題の解決も不可能だったのです。しかも、歯舞、色丹のみの引き渡しでは妥結せず、国後、択捉を返還させ得る可能性を残したのです。
 そういった事情を全く無視して、例えば

「北方領土について、日本側の立場の後退を受け入れた」

「友愛を「戦闘的概念」と言いながら、一郎はソ連と闘うよりも領土で譲った」

となじる櫻井よしこのような評論家もいますが、全くの愚論だと思います。


(以下2013.2.13追記、2013.2.14修正)
註 《交渉過程での一時的な変心はともかく、松本も重光も鳩山も河野も吉田も、基本的には最低でも4島返還の線で一致していたと見るべきだと私は思います。》

 このようには言えないことがわかりましたので、削除します。

 詳細はオコジョさんの記事

日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」

及び2013年2月13日付拙記事

オコジョさんの指摘について(2) 私の認識不足について

を参照願います。

主催者側発表と警察側発表

2012-09-12 00:15:56 | 珍妙な人々
 6月に、BLOGOSに転載された藤代裕之の「官邸前デモで考える、誰もがジャーナリスト時代のメディアリテラシー」という記事を読んでいると、こんな記述があった。

ソーシャルメディア上では、マスメディアの取り上げ方や参加者数の違いが盛り上がっていました。

ウェブ版ですが朝日、毎日、読売、産経、東京の見出しと記事の人数を比べてみましょう。

〔中略〕

朝日、毎日が、主催者と警察発表併記。東京が主催者のみ。読売と産経が警察発表です。列の長さは、朝日と毎日が700メートル、読売と産経、東京が500メートルです。

〔中略〕

次に、参加者の人数について。

主催者側が数字を「盛る」ことはデモや集会などの社会運動で古くから行われています。記者時代に労組の集会に取材にいくと、自分で数えた数字と発表が10倍ぐらい盛ってて驚く時もあったほどです。人出は、面積(歩道の広さや列の長さ)×密度で計算できます。ちょっとでも参加した人も含めれば、延べ人数は相当になりそうですが、官邸周辺の道路で4.5万人というはさすがに多すぎる気がします。

デモに関して、Twitterで朝日新聞モスクワ支局の関根記者 @usausa_sekine: や毎日新聞の石戸記者@satoruishido:とTwitter上でやり取りしましたが、デモは多くの場合、現在の体制に反対するものです。反原発や再稼働反対は、野田政権の方向性とは異なります。警察は治安を維持する組織ですから、小さく見積もるのが「お仕事だ」と言えるでしょう。むしろ、警察が1万を超える数字を発表したのはインパクトがあるなあと感じたほどです。


 面白いことを言うものだと思った。

 警察は治安を維持するための組織だからこそ、正確な人数の把握が必要なのではないのだろうか。
 あるいは、組織維持のため、また士気を高めるため、監視対象を大きく見積もることはあるかもしれない。しかし、「小さく見積もるのが「お仕事だ」」などということが有り得るだろうか。小さく見積もりすぎたがために制御できなくなったらどうするのか。

 私もこのころの主催者発表と警察側発表の数字の落差が気になっていた。というか、いくら何でも「盛」りすぎではないかと感じていた。

 昔々、呉智英の『バカにつける薬』(双葉社、1988)を読んで、主催者発表などというものは全くあてにならないという程度の知識はあった。
 今、同書を読み返してみると、
「こんなものいらない!?――「主催者側発表」」
という文章だった。1992年に休刊した週刊誌『朝日ジャーナル』の「日常からの疑問」というコーナーに1985年に掲載されたものらしい。
 呉は次のように述べている。

 冠せられたタイトルは「日常からの疑問」なのだが、私にとっては「昔からの疑問」でもあったのが〝主催者側発表〟である。主催者側発表といっても、一般的な意味での「主催者による発表」のことではない。別名を〝大本営発表〟とも〝水増し発表〟とも言う主催者側発表のことである。すなわち、革新団体による集会やデモの参加者数についての主催者側発表のことである。
 〔中略〕私が参加した集会やデモは数知れなかったが、そのうち、私が現認した参加者数と主催者側発表が一致したことは一度もなかった。
 新左翼だけのことではない。社会党・共産党の旧左翼も、もちろんそうだった。少なくとも四割や五割は水増しだったし、多い時には五十割増しや六十割増しも珍しいことではなかった。主催者側発表について、指導者に問い質したこともあったが、大したことではない、というような答えで、うやむやになることが多かった。
 〔中略〕
 さて、それから十数年。最近の集会事情やデモ事情を聞くにつけ、全く変わっていないと思わざるをえない。
 ごく最近の例では、昨84年十二月九日のアメリカの原子力空母カールビンソン反対集会である。横須賀では大規模な反対集会とデモが行われたが、十日付の『朝日新聞』によると、それは次のように違っている。
 社会党系
  主催者側発表一万八千人
  神奈川県警発表七千百人
 共産党系
  主催者側発表一万八千人
  神奈川県警発表七千百人
 いずれも、主催者側発表は係数をかけたように警察側発表の二・五倍である。
 〔中略〕
 なんという不思議なことであろう。なんという矛盾であろう。
 私は、もちろん、警察側発表が常に正しいなどと思っているわけではない。国家権力がさまざまなデッチ上げをすることは珍しくもない。〔中略〕
 また、私は、国家権力並みの組織力を持たない反体制勢力が、集会参加者を集計する精度を上げるのに限界があることも、十分に理解している。一割や二割の誤差をあげつらう必要はないのだ。しかし、どんなにルーズな組織力でも、二十割も三十割も四十割もの誤差を出すことはありえないはずである。
〔中略〕
 私は、こういう革新勢力が、カールビンソンには核疑惑があるの、政府声明は信用できないのとぶちあげる神経を疑う。それだけではない。ここ数年間、教科書検定を問題にしてきたのはだれだったのか。広島や長崎の原爆被災者数の数を少なめに記載させよう、南京虐殺の犠牲者の数をごまかそう、とする政府に対し、〝正論〟を吐いたその口で、自分たちの都合のいい時は、人数を二倍だろうと三倍だろうと四倍だろうと、主催者側発表して恥じないのである。戦時中の大本営発表の嘘を暴いて得意のその舌の根も乾かぬうちに、主催者側発表なのである。


 呉は、彼らはイソップ寓話の狼少年同様、「常日ごろから嘘ばっかり言っていると、たまに本当のことを言ったり、たまにいいことを言っても、だれも信用してくれない」とし、さらに、彼らによる革新政権なり革命政権なりがめでたく成就した場合、これらの集会やデモの参加者の人数はどう記述されるのだろうか、訂正されるのかそれともそのままだろうかと疑問を呈してこの文を結んでいる。

 そしてさらに、「主催者V.S.警察」と題する小さな囲み記事が載っている。この文が掲載された際に『朝日ジャーナル』編集部が取材して添えたものなのだろう。

主催者V.S.警察
 総評国民運動部
「例えば、東京の明治公園がいっぱいになれば何人だが、きょうは何割入っているから何人ぐらいというのが一つ。もう一つは、単産が事前にまとめる基礎動員数。この二つから集会・デモの参加者数をはじいています。
 水増し発表をするつもりはないが、なかには政治的発表もあるでしょう。『一〇万人集会』とか言っておきながら、少ししか集まらないと、次の集会につながっていきませんから。
 カールビンソン反対集会で発表した一万八千人には、五千人くらいの水増しはあったと思うが、警察発表の参加者七千人ということはない。どうも警察は、主催者側発表の半分くらいの数字を発表しているようですな」
 警視庁警備部
「計数機を使って、一人一人数えています。集会のあとデモに出るので、交通整理の必要があるからです。何人くらいで数えているかって? そこまで話していいのかどうか……。主催者側がどんな数字を発表しようと、向こうの勝手ですが、計数機を持っている人など、見たことありませんね」(「朝日ジャーナル」編集部取材)

 
 さて、それから二十数年。主催者側発表の在り方は、やはり「全く変わっていないと思わざるをえない。」

 ただ、現在でも同様の算定方法をとっているのだろうか。
 そんな疑問を覚えていると、7月6日の官邸前デモを伝える7日付朝日新聞朝刊の

抗議の矛先は首相に
再稼働反対「訴え続ける」

 関西電力大飯原発(福井県おおい町)の再稼働に抗議する大規模な行動が、6日夜も首相官邸前で行われた。主催者発表で約15万人(警視庁調べで約2万1千人)の参加者の怒りの矛先は、民意に正面から向き合わずに「決断」ばかり強調する野田佳彦首相の政治姿勢に向かう。


という記事に、次のような解説記事が添えられていた。こういったあたりはさすが朝日。

参加者の数に差 主催者と警察

 官邸前での抗議行動の参加者数は、前回6月29日も主催者発表(15~18万人)と警視庁調べ(約1万7千人)に差があった。
 主催者によると、午後6時の抗議開始から30分ほどしたところで、数人で手分けして計数機でカウント。その人数を基準に、終了直前ごろに何倍ぐらいに増えたかを目視で測り、参加人数を推定しているという。
 一方、警視庁は、関係者によると、会場の混み具合から単位面積あたりの人数を推定し、会場全体の面積を掛け合わせて人数を算出している。「身動きが取れないほどの混雑なら1平方メートルあたり8人」など、基本となる人数の推定には様々なノウハウがあるが、外部には公表していないという。


 二十数年前とはだいぶ算定方法は違うらしい。
 とはいえ、どちらも主催者側発表の方が、誤認や恣意的な要素が入りやすいことに変わりはない。

 そして、主催者側が「狼少年」であることも、二十数年前とも、呉が学生運動に参加した四十数年前とも、何ら変わりはないと言えるだろう。


松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について

2012-09-08 15:17:04 | 領土問題
 本屋で松本俊一著『日ソ国交回復秘録 北方領土交渉の真実』(朝日新聞出版(朝日選書)、2012)という本を見かけた。
 松本俊一(まつもと・しゅんいち 1897-1987)といえば、外交官を経て政治家となり、日ソ国交回復交渉に従事した人物だ。
 交渉の経緯を記した『モスクワにかける虹』という回想録があるはずだが、ほかにも著書があったのか?

 手に取ってみると、帯に「『モスクワにかける虹』待望の復刊」とある。
 そういうことか。
 私も「待望」していた。
 以前から一度読んでみたいと思っていたのだが、なかなか手に入らず困っていた。現物を見たことはない。古書店の目録に載っていてもかなり高価だった。
 現在「日本の古本屋」で検索しても見つからない。Amazonのマーケットプレイスに出品している人もいない。
 復刊は喜ばしい。

 しかし、何故タイトルを変えたのだろうか。
 本書によると、1966年に朝日新聞社から刊行されたときのタイトルは『モスクワにかける虹 日ソ国交回復秘録』だったそうである。
 その副題を本題とし、新たに「北方領土交渉の真実」という副題を付けたのだろう。
 しかし、『モスクワにかける虹』というタイトルは、北方領土問題に関心がある人には、後述の「ダレスの恫喝」の出所として、それなりに知られている。
 「北方領土交渉の真実」という副題も、これはあくまで松本の主観に基づいた記録であることを考えると、著者でもない人間が「真実」などと名付けるのはおこがましい気がする。
 元のままでもよかったんじゃないだろうか。

 私は、本書で是非確認したい点が二つあった。
 一つは、交渉の経緯、特に重光葵外相による交渉が失敗した理由。
 そしてもう一つは、これとも関連するが、いわゆる「ダレスの恫喝」についてである。

 日ソ国交回復交渉について、次のようなことがしばしば言われる。
 わが国はもともと歯舞、色丹の2島返還でソ連と妥結しようとしていた。しかし米国のダレス国務長官が、2島で妥結するなら米国は沖縄を返還しないと恫喝した。わが国はやむなく4島返還を主張せざるを得なくなり、北方領土問題は固定化された――という、ある種の陰謀論だ。

 「ダレス 北方領土 沖縄」で検索すると、こうした主張はたくさん見られる。
 例えば、田中宇は2006年のメルマガで、

北方領土問題の対象が2島から4島に拡大されたのは、4年後の1955年のことである。この年、米ソ間の冷戦激化を受け、ソ連は自陣営の拡大策の一つとして日本との関係改善を模索し「日本と平和条約を結んだら歯舞・色丹を返しても良い」と提案してきた。

 日本政府は翌56年7月、モスクワに代表を派遣して日ソ和平条約の締結に向けた交渉を開始したが、交渉途中のある時点から日本政府は態度を変え「歯舞・色丹だけでなく、国後・択捉も返してくれない限り、平和条約は結べない」と言い出した。交渉は妥結せず「ソ連は、日本と和平条約を締結したら歯舞・色丹を返す」という表明を盛り込んだ日ソ共同声明だけを発表して終わった。

 日本が態度を変えたのは、日ソ交渉の最中の1956年8月に日本の重光外相とアメリカのダレス国務長官が会談し、ダレスが重光に「日本が国後・択捉の返還をあきらめて日ソ平和条約を結ぶのなら、アメリカも沖縄を日本に返還しないことにする」と圧力をかけてからのことだったという指摘がある。


と述べている(太字は引用者による。以下同じ)。

 翻訳家の池田香代子のブログにも、

1951年、不当であっても日本は国後・択捉を放棄した、このことは当時の外務省も認識していました。歯舞・色丹については、放棄したとは考えていなかった。ソ連の不法占拠状態だ、と受けとめていた。ここから、二島返還論が出てきます。サンフランシスコ条約を踏まえれば当然ですし、ソ連もそのつもりで、1956年、将来の歯舞・色丹返還を盛り込んだ日ソ共同宣言も成立し、次は平和条約となったそのとき、横槍を入れた国がありました。アメリカです。アメリカも、日本が放棄した千島列島とは国後・択捉のことであって、歯舞・色丹は日本の領土だと理解していました。なのに、素知らぬ顔でそれを曲げて、「二島返還でソ連と平和条約を結んだら、アメリカは永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」と、ダレス国務長官をつうじて脅してきたのです。「ダレスの恫喝」です。

時あたかも冷戦勃発の時期にあたります。アメリカは、日本とソ連を対立させておきたかった、日ソ間にわざと緊張の火種を残しておいて、だから米軍が日本にいてやるのだ、という恩着せの構図を固めたかったわけです。「四島返還論」は、ここにアメリカのあくなき国益追求のための外交カードとして始まります。


とある。

 大前研一は雑誌『SAPIO』で次のように述べているそうだ

実は4島一括返還は日本政府が自ら言い出したのではなく、1956年8月、アメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官が日本の重光葵外相とロンドンで会談した際に求めたものだ。

 当時、日本政府は北方領土問題について歯舞、色丹の2島返還による妥結を模索していたが、アメリカとしては米ソ冷戦が深まる中で日本とソ連が接近すること、とくに平和条約を結んで国交を回復することは防がねばならなかった。そこでダレスはソ連が絶対に呑めない国後、択捉も含めた4島一括返還を要求するよう重光に迫り、2島返還で妥結するなら沖縄の返還はない、と指摘して日本政府に圧力をかけたのである。

 それ以降、日本の外務省は北方4島は日本固有の領土、4島一括返還以外はあり得ない、という頑迷固陋な態度を取るようになった。つまり、4島一括返還はアメリカの差し金であり、沖縄返還とのバーターだったのである。


 「北方領土問題-やさしい北方領土のはなし」というサイトにはこんな記述がある。

 1951年、日本は、アメリカやイギリスなど多くの国と平和条約を結び、正式に戦争が終わりました。また、日本の占領状態も終わりました。この条約で、日本は千島列島を放棄しました。このとき、日本政府は、放棄した千島列島にクナシリ島とエトロフ島は含まれるので、これらの島々は日本の領土ではないと説明しています。この条約には、ソ連や中国は入っていませんでした。

 1951年の条約に、ソ連は入っていなかったので、ソ連との間で、正式に戦争を終わらせる必要がありました。そして、1956年、日本とソ連は平和条約を結ぼうとしました。8月14日、日本代表の重光葵とソ連の間で、ハボマイ・シコタンを日本領、クナシリ・エトロフをソ連領とすることで、条約交渉はほとんどまとまりかけました。しかし、8月19日、アメリカのダレスは、2島返還で妥結するならば沖縄を返さないぞ、と、重光葵を恫喝(どうかつ)し、ソ連と領土交渉はできなくなりました。この話は、重光の回想録のほか、条約交渉にあたった松本俊一が書いた「モスクワにかける虹」に詳しく書かれています。
 領土交渉がまとまらなかったのは、アメリカの恫喝のためだけではなく、日本にも、反対勢力があったことが大きな原因の一つです。
 このようないきさつがあって、平和条約を結ぶことができなかったので、代わりに日ソ共同宣言を結びました。これは、法律上、正式な条約です。日ソ共同宣言では、今後、平和条約を結んだ後に、ハボマイ・シコタンを日本に引き渡すことが決められました。この時、領土問題は解決しなかったけれど、ソ連と日本の間で戦争が正式に終わったことが確認されました。


 しかし、私の知る日ソ交渉の経緯はそのようなものではない。

 まず、松本俊一が全権委員としてロンドンでソ連の駐英大使マリクと交渉した。わが国は全千島列島と南樺太の返還を要求したが、ソ連は全く応じなかった。だが交渉の中で、歯舞と色丹だけは返還してもよいと示唆した。松本は本国に請訓したが、重光葵外相はこれを拒否した。
 次いで重光外相がモスクワに乗り込んで交渉した。ソ連の態度はやはり歯舞と色丹のみの返還なら応じるというものだった。重光はこれでやむなしと請訓したが、鳩山首相はこれを拒否した。帰路、重光はダレスと会談し、「恫喝」を受けた。
 最後に、鳩山が自らモスクワに赴いた。領土問題は棚上げし、将来の平和条約締結交渉を約した共同宣言で合意し、日ソの国交は回復した。

 だいたいこういう経緯だったはずだ。
 昔々、北方領土に関する本ををいくつか読んだ。「ダレスの恫喝」については聞いたことがある。しかし、それによってわが国が方針を曲げたなどとは記憶にない。
 mig21さんのYahoo!ブログの記事に関連して、以前にもこのことは書いた。

 早速本書を読んでみたところ、結論から言うと、上の私の記述どおりだった。
 参考までに、本書に拠って、交渉の経緯を簡単にまとめておく(領土問題以外の議題は省略する)。

1955.6-9 第1次ロンドン交渉(松本-マリク)
 松本「歯舞諸島、色丹島、千島列島及び南樺太は歴史的にみて日本の領土であるが、平和回復に際しこれら地域の帰属に関し隔意なき意見の交換をすることを提案」
「日本側としては歯舞諸島、色丹島、千島列島及び南樺太が、歴史的にみて日本の領土であることを主張しつつ、しかしながら交渉の終局においてこれを全面的に返還させるという考えではなく、弾力性をもって交渉にあたることを示したのであった」
 マリク、これら地域についてはヤルタ協定、ポツダム宣言等により解決済みであり、また千島列島及び南樺太はサンフランシスコ平和条約で日本も放棄していると主張。しかし、歯舞、色丹については、引き渡しの可能性を示唆。
 松本は政府に請訓するが、「政府は歯舞、色丹のみの返還では領土問題の解決にならないという見解をとって、国後、択捉の二つの島についても、この二島は千島、樺太交換条約の示すように日本の固有の領土であって、いわゆる千島列島に含まれていないという見解を示してきた。また千島列島並びに南樺太の最終帰属は、サン・フランシスコ平和条約締結国、ソ連及び日本の共同協議の対象になるべきものだという見解をとった」
 よって松本は、択捉、国後、色丹、歯舞については平和条約発効時に日本の主権が回復し、その他の千島列島と南樺太についてはソ連を含む連合国との協議により帰属を決定するとの平和条約案を提示。マリクは「無理な提案」であって「誠意をもってこの交渉を妥結する考えがあるかどうか疑わしい」と非難。
 マリクは、歯舞、色丹の返還には応じるが、軍事基地としないことを条件とする、また択捉、国後を含むその他の地域はソ連領であることは疑いなく、いかなる国との協議にも応じないと主張。交渉は一時中断。
「このロンドンでの交渉が始って以来東京からの情報を総合すると、日ソ国交正常化について鳩山首相は非常に熱心であるにかかわらず、重光外相はいわゆる慎重論ですこぶる熱意がなかった」
 松本は、彼からの詳細な報告を重光は鳩山に見せていなかったとの鳩山の回顧録の記述を引用している。

1956.1-3 第2次ロンドン交渉(松本-マリク)
 領土問題についての進展なし。松本は非公式会談で「国後、択捉両島の返還は、これが日本の固有の領土であるという国民的感情から、日本全国民あげての悲願で、これを無視しては交渉の推進が困難であると述べた。これに対してマリク全権は、千島列島その他の領有は合法的にソ連に帰属したものである。歯舞、色丹についてのソ連の態度は、史上未曽有の寛大な措置である。ソ連側はその返還に特別の条件を付するものではなく、なんらの代償を求めるものでもないと述べた」

1956.4-5 漁業交渉(河野-イシコフ)
 河野一郎農相、訪ソしイシコフ漁業相と交渉、日ソ漁業協定を締結。しかし協定の発効は国交回復が条件。7月末までに国交交渉を再開することで合意。

1956.7-8 第1次モスクワ交渉(重光-シェピーロフ)
 重光外相を首席全権とし、松本全権も加わり訪ソ。ソ連側首席全権はシェピーロフ外相。
 重光は当初強硬論であったが、ソ連側の態度は変わらず。交渉の最終段階に至り、重光は「急に態度を変更して、ここまで努力したのであるから、この上はソ連案をそのままのむ以外にはないという態度となり」「ソ連案そのままの領土条項を設けた平和条約に署名しようといい出した」。松本は、第1次ロンドン交渉において重光から国後、択捉をあくまで貫徹せよとの訓令を受け、これまで苦労してきた経緯や、政府の規定方針、自民党の党議、国民感情等を考慮してこれに反対。重光は一切を委任されており請訓の必要はないと主張したが、松本の強硬な反対を受けしぶしぶ請訓に応じた。
 閣僚、党3役は到底受諾できないとの意見で一致し、鳩山首相は「この際直ちにソ連案に同意することについては閣内挙って強く反対し、また国内世論もすこぶる強硬であると判断されるについてはソ連案に同意することは差し控えられ」たい旨返電。
 帰路、重光はスエズ運河会議に出席するためロンドンに立ち寄る。その際米国大使館にダレス国務長官を訪問し、日ソ交渉の経過を説明。

ところが、ダレス長官は、千島列島をソ連に帰属せしめるということは、サン・フランシスコ条約でも決っていない。したがって日本側がソ連案を受諾する場合は、日本はソ連に対しサン・フランシスコ条約以上のことを認めることとなる次第である。かかる場合は同条約第二十六条が作用して、米国も沖縄の併合を主張しうる地位にたつわけである。ソ連のいい分は全く理不尽であると思考する。特にヤルタ協定を基礎とするソ連の立場は不可解であって、同協定についてはトルーマン前大統領がスターリンに対し明確に言明した通り、同協定に掲げられた事項はそれ自体なんらの決定を構成するものではない。領土に関する事項は、平和条約をまって初めて決定されるものである。ヤルタ協定を決定とみなし、これを基礎として論議すべき筋合いのものではない。必要とあればこの点に関し、さらに米国政府の見解を表明することとしてもさしつかえないという趣旨のことを述べた。
 重光外相はその日ホテルに帰ってくると、さっそく私を外相の寝室に呼び入れて、やや青ざめた顔をして、「ダレスは全くひどいことをいう。もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とするということをいった」といって、すこぶる興奮した顔つきで、私にダレスの主張を話してくれた。
 このことについては、かねてワシントンの日本大使館に対して、アメリカの国務省からダレス長官が重光外相に述べた趣旨の申し入れがあったのである。しかしモスクワで交渉が妥結しなかったのであるから、まさかダレス長官が重光外相にこのようなことをいうことは、重光氏としても予想しなかったところであったらしい。重光氏もダレスが何故にこの段階において日本の態度を牽制するようなことをいい、ことに米国も琉球諸島の併合を主張しうる地位に立つというがごとき、まことに、おどしともとれるようなことをいったのか、重光外相のみならず、私自身も非常に了解に苦しんだ。


 サンフランシスコ条約第26条とは次のとおり。

第二十六条 日本国は、千九百四十二年一月一日の連合国宣言に署名し若しくは加入しており且つ日本国に対して戦争状態にある国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていた国で、この条約の署名国でないものと、この条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結する用意を有すべきものとする。但し、この日本国の義務は、この条約の最初の効力発生の後三年で満了する。日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない。


 たしかにそう主張し得る余地がある。

1956.10 第2次モスクワ交渉(鳩山-ブルガーニン、河野-フルシチョフ)
 松本は帰国後鳩山邸で河野農相、岸信介自民党幹事長らと会談し、領土問題を棚上げし国交正常化を図るべきと進言。河野、岸も賛成。鳩山首相はソ連のブルガーニン首相宛に、領土交渉の協議継続を条件に、これを棚上げしての国交正常化交渉を打診。ブルガーニンは交渉には応じる旨返還するが、領土交渉の協議継続には触れず。松本は訪ソしグロムイコ第一外務次官(のち外相)を訪問、書簡で領土問題を含む平和条約締結交渉の継続確認を求め、グロムイコもこれに同意(松本・グロムイコ書簡)。
 かくして、鳩山首相、河野農相が訪ソし、日ソ共同宣言に合意。共同宣言には平和条約締結交渉の継続と締結後の歯舞、色丹の引き渡しが明記されたが、平和条約締結交渉に領土問題が含まれるとの表現を盛り込むことはできなかった。

 まとめ終わり。

 「ダレスの恫喝」は確かにあった。だがそれでわが国が2島返還論から4島返還論に転じたのではない。第1次ロンドン交渉で既に「固有の領土」論を主張している。
 松本も重光も一時は2島での妥結もやむなしかと考えた。だが本国から拒否された。それだけのことだ。
 ましてや池田香代子が言う「永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」という発言などどこにも出てこない。〔註〕

 本書によると、このダレス発言は当時外部に漏れて日本の新聞にも掲載され、「日本の世論に相当な動揺を与え」「政府としてもこの問題の収拾には非常に苦慮した」そうだ。その記憶が現在でもさまざまに語り継がれているのだろう。

 なお、松本は先に引用した「非常に了解に苦しんだ」に続いて、次のように述べている。

 そこで、二十四日に重光外相は、さらにダレス国務長官に会って日本側の立場を縷々説明した。その日は、ダレス長官がアメリカの駐ソ大使ボーレン氏も同席させて、十九日の会談〔引用者注・「恫喝」発言〕とは余程違った態度で、むしろアメリカ側の領土問題に対する強硬な態度は、日本のソ連に対する立場を強めるためのものであるということを説明したそうである。
 

 また、政府が収拾に苦労したという記述に続けて、

九月七日に至ってダレス長官が、谷駐米大使(正之)に対して、領土問題に関する米国政府の見解を述べた覚書を手交した後の会談で、「この際明らかにしておきたいが、米国の考え方がなんとかして日本の助けになりたいと思っていることにあることを了解して欲しい云々」と述べて、ダレス長官の真意が日本側を支援するにあったことが明確になってきたので、世論も国会の論議も平静を取り戻した。


とある。
 これを額面どおりに受け取るかどうかは別として、少なくともダレスがこのように弁明したことは事実だろう。
 本書には佐藤優が長文の解説を付している。そして末尾で一節を設けてこの「ダレスの恫喝」を紹介しているにもかかわらず、松本のこれらの記述に全く触れていないのはアンフェアではないだろうか。

 仮に歯舞、色丹のみで妥結した場合、米国が対抗して実際に沖縄を領有したとも考えにくい。
 何故なら、カイロ宣言に次のようにあるように、 

三大同盟国〔引用者注・英米華〕ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ズ又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ


米国は対日戦の結果としての領土拡張を否定していたのだし、こんなことで沖縄領有に踏み切ったら、わが国の対米感情は著しく悪化し、反米的な社会党などによる政権への交代や、ソ連・中共への接近という事態も予想されただろうから。
 ダレスがわざわざ弁明したのもそのためだろう。

 そして、結局のところ、米国は沖縄を返還したのである。
 ならば、もう「恫喝」の効果はない。わが国は沖縄を気にすることなく、歯舞、色丹のみの返還で妥協するという選択もとり得るはずである。
 沖縄返還後もそうした見解がわが国で主流にならなかったのは、別に米国に遠慮しているからでも、外務省が「頑迷固陋」であるからでもなく、択捉、国後は国境画定以来のわが国「固有の領土」であり、日ソ中立条約を破って不当に参戦したソ連による奪取は断じて容認できないという至極当然の国民感情の産物だろう。
 また、ソ連がその後長らく「領土問題は存在しない」との立場をとり、歯舞、色丹の引き渡しすら否定していたことも一因だろう。

 「ダレスの恫喝」論を唱える人々は、この交渉の経緯をおよそ理解していないか、理解していても政治的理由で敢えて無視しているのだろう。
 2島返還論に立とうが反米論をぶとうがそれは個人の自由だと思うが、少なくとも事実関係に基づいた主張をしていただきたいものだ。


(北方領土問題に関連する拙記事

北方領土問題を考える

「2島」は4島の半分ではない

貝殻島へのソ連の上陸に対し米軍が出動しなかったとの妄説について

プーチンの北方領土問題「最終決着」発言を読んで

「領土問題に「引き分け」などあり得ない」?


(以下2013.2.13追記)
註 《ましてや池田香代子が言う「永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」という発言などどこにも出てこない。》

 この記述については、オコジョさんという方から、池田氏は『モスクワにかける虹』を出典として挙げているわけではなく、実際、ほかにもダレス発言の根拠はあるのだから、このように池田氏を批判するのはおかしいというご指摘がありました。
 検討したところ、たしかにおっしゃるとおりでしたので、この箇所を削除します。
 詳細は、オコジョさんの記事

「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって

日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」

及び拙記事

オコジョさんの指摘について(1) 池田香代子氏に関わる記述について

をご参照ください。