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舛添要一『憲法改正のオモテとウラ』(講談社現代新書、2014) 感想

2014-03-14 00:06:33 | 日本国憲法
 著者の都知事当選直後という絶妙のタイミングで出版された。末尾の「おわりに」は2013年12月10日付けになっているので、立候補など全く予想せずに書かれたものだろう。

 タイトルから、一般的な改憲・護憲に関する議論を扱ったものかと思ったら、内容は、舛添が作成に深く関わった、2005年の自民党の新憲法草案(本書では「第一次草案」と呼ぶ)の作成過程の詳細な説明と、その後の野党時代の2012年に自民党が決定した、何かと批判されがちな日本国憲法改正草案(本書では「第二次草案」と呼ぶ)とを比較して論じたものだった。
 タイトルにややだまされた感はあるが、これはこれで貴重な記録であろう。
 巻末に現行憲法と「第一次」「第二次」両草案との対比表が載っており、便利である。

 本書によると、「第一次草案」の作成に当たって、前文の改正案を検討する小委員会の委員長を務めた中曽根康弘は、前文にわが国の歴史や伝統、文化を盛り込もうとし、独自の私案を発表した。しかし舛添はこれに否定的であり、最終的に「第一次草案」の前文からはこうした記述は除かれた。

 また、舛添は、「第二次草案」の13条が「全て国民は、人として尊重される」と「個人」を「人」と改めた点について、「この改正の趣旨は、全く理解できない。「国家」の対立概念が「個人」であり、〔中略〕「人」の対立概念は、犬や猫といった動物である。「人」対「動物」というのは、文学の世界の話であり、憲法論議とはほど遠い」と強く批判している。そして、このような条文になったのは、個人主義の蔓延を憂う自民党内の超保守派が、憲法から「個人」の語を取り除こうと図ったためではないかと忖度している。

 こうした箇所における舛添の主張には私も同意する。
 しかし、次のような姿勢には疑問を禁じ得ない。

 私は、今も「憲法改正の最重要課題は9条2項である」という考えである。自民党は、二〇一二年に「第二次草案」を発表したとき、96条の先行改正ということを強調したが、〇五年当時には、そのような言い方はしていない。改正を国民に提案するときには、プレゼンテーションの仕方もまた大きく影響する。発議要件の緩和にしろ、「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」と言い換えることにしろ、「第一次草案」のときに既に提案しているのであるが、何ら批判は受けなかった。
 ところが、「第二次草案」は同じことを言っているのに、護憲派から猛反発である。国会議員や有識者などが、「舛添さんのまとめた一次案はよかった。それと違って、発議要件緩和だの『公共の福祉』の言い換えだの、二次案は、全くひどいものだ」と、私によく言ってくるのが、静かに苦笑するのみである。同じことを言っても、プレゼンテーションで、ここまで印象が違ってくるのである。これでは、多くの国民の賛同を得ることはできまい。改正することが目的ならば、マスコミや世論に対してどう働きかけるのかという基本的なことから学習し直したほうがよいのではあるまいか。(p.236-237)


 「第二次草案」で問題視された、憲法改正の発議要件の緩和や、「公共の福祉」の「公益及び公の秩序」への言い換えは、実は「第一次草案」においても同様の内容であった。
 しかし、プレゼンがまずかった、マスコミや世論への働きかけが悪かったために、「第二次草案」において初めてそれらが盛り込まれたかのように誤解され、危険視されているというのである。

 だが、「第二次草案」が「第一次草案」とは比較にならないほどの批判を浴びた原因は、本当にそれだけなのだろうか。

 本書でも詳しく述べられているように、2005年8月の小泉首相の郵政解散で、「第一次草案」の作成は一旦中断した。そして総選挙での自民党圧勝と郵政民営化法案の衆参両院可決を経て、同年11月に「第一次草案」が正式に成立した。
 しかし、それがすぐに改正手続にかけられる可能性はなかった。改正は国会が発議し、国民投票における過半数の賛成を必要とするが、その国民投票の手続を定めた法律がまだ存在しなかったからだ。
 第1次安倍内閣の下で2007年5月にようやく国民投票法は成立した。しかし同年夏の参院選で自民党は大敗し、この「第一次草案」が改正手続にかけられる目途はなくなった。
 だから批判を回避し得たのではないか。

 その後下野した自民党は、「第二次草案」を決定し、政権を奪還し、第2次安倍内閣が成立した。自民党のみならずみんなの党や日本維新の会も改憲を掲げているため、改憲が現実のものとなる可能性は高まった。だから護憲派や安倍政権を危険視する人々から注目を浴び、批判されているのではないか。

 仮に郵政解散がなく、小泉政権下で国民投票法が成立し、「第一次草案」が現実に改正手続に載せられたとすれば、「第二次草案」と同様の事態になったのではないだろうか。

 そして、発議要件の緩和や「公益及び公の秩序」への言い換えは「第一次草案」にも存在したものであり、舛添としては問題視ししていないのなら、「静かに苦笑するのみ」にとどまらず、きちんとそう主張すべきではないか。
 なのに、彼は本書でこう明言している。

 それにしても「第二次草案」の出来映えは芳しくない。政権を担っている党が、人類が長年の努力を重ねて国家権力から勝ち取った基本的人権を、「西欧の天賦人権説」として否定するような愚は許されることではない。私は、主権者である国民の一人として、立憲主義の原則に反するような憲法を書くつもりはない。
 自民党が、「第二次草案」をそのままの形で提案するのならば、私は国民投票で反対票を投じる。(p.277、太字は原文のまま)


 確かに、「第二次草案」には不審な点があるとは私も思う。
 しかし、国民投票で反対するということは、「第二次草案」よりも現行憲法の方がまだマシだと考えているということだろう。
 本当にそれでいいのだろうか。
 ここで舛添が批判している天賦人権説の否定は、「第二次草案」について自民党が作成したQ&Aに記されていることである。草案の条文そのものに記されているわけではない。
 本書で「第二次草案」における基本的人権の章を読み、これと現行憲法と比較しても、それほど受け入れがたい内容であるとは思えないし、表現としては改善されていると思われる部分もある。

 そもそも、今、何のために憲法改正が必要なのだろうか。立憲主義の不徹底を是正するためか。違う。
 2つ前の引用部分で舛添が述べているように、「憲法改正の最重要課題は9条2項である」からだ。
 舛添は本書の「はじめに」でもこう述べている。

 私は、憲法改正の眼目は、9条2項だと思っている。たしかに、現行憲法は国民の権利・義務などをはじめ、完成度が高くよくできた内容だと思う。しかし、変化する国際情勢に対応して、日本の平和と独立、国民の安全を守るために軍隊を持つ(現実に自衛隊が存在している)ことを明記すべきである。その改正こそが急がれている。(p.7、太字は原文のまま)


 私もそのとおりだと思う
 では、その急ぐべき9条2項の改正の実現を思いとどまらせるほどに、「第二次草案」は不出来なものなのだろうか。
 私にはそこまでひどいものだとは思えない。
 ちなみに、「第二次草案」における9条の部分については、舛添は特段の批判を加えてはいない。

 舛添は、先の部分に続けて、

また、環境権や犯罪被害者の権利など、新たな権利を憲法に加える必要もあり、多くの国民がこれらの点では賛成であろう。ところが、そのような国民も、立憲主義の原理に背反するような憲法改正案を提示されたのでは、拒否せざるを得なくなる。今の自民党は、本当に憲法改正を実現させたいのだろうか。皮肉に言えば、護憲勢力の後押しをしているとしか思えないのである。(前同)
 

と述べているが、私には、後押しをしているのはむしろ舛添の方ではないかと思える。

 誰が作った案か、どのような思惑で作られた案かは、さして重要なことではない。将来に残るのは条文そのものだけである。
 「急がれている」課題をどう実現させるか。それこそが重要だと私は思う。

(文中敬称略)



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