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日々の思いをたまに綴るブログ。

マルティン・ニーメラーの詩について 反共は戦争の前夜か

2016-05-23 06:18:23 | 現代日本政治
 今年3月に、共産党を破防法の調査対象団体であるとする政府答弁書を批判するしんぶん赤旗の記事をBLOGOSで読んだ。

   「2016 とくほう・特報/「破防法」答弁書 市民が批判/時代錯誤 安倍政権/「共産党への攻撃は市民への脅し」「反共は戦争の前夜」 識者も指摘」(2016年3月26日付)

 記事の一部を引用する。

 「共産支持者ではないが、共産党に破壊(活動)防止法適用のニュースには怒りを感じる。国民の支持を受ける公党への誹(ひ)謗(ぼう)とうつる」、「自民党こそ、日本の平和を破壊しようとしている」。党本部への電話・メールやツイッターなどの投稿で、こんな批判が広がっています。

国民は分かっている

 法政大学元教授(政治学)の五十嵐仁氏は、閣議決定に対し「古色蒼然(そうぜん)です。共産党は暴力的な方法で政権転覆を考えていないし、暴力革命を方針としていないことは多くの国民はわかっています」と指摘します。

〔中略〕

 五十嵐氏は共産党へのデマによる誹謗は戦争前夜の声であると指摘します。

 「戦前日本もドイツも、戦争へと突入できるようにするために、もっとも頑強に戦争に反対した共産党を弾圧しました。ナチスは国会議事堂放火事件をでっち上げ、それを口実に共産党を弾圧し、ヒトラーの独裁体制を確立しました。やがてその弾圧は自由主義者やカトリックへと拡大し、ドイツは世界を相手に戦争をする国になっていったのです。同じように、安倍政権は、共産党を狙い撃ちにした攻撃によって戦争をする国づくりをすすめようとしています」と戦前と共通の危険性を語ります。

 まさに「反共は戦争の前夜」との指摘です。


 これは、共産党への弾圧を危険視する際によく引用されるマルティン・ニーメラーの詩を念頭に置いているのだろう。

 五十嵐氏は、自身のブログの4月29日付の記事「再びかみしめるべき「反共は戦争前夜の声」という言葉」でも、この詩を持ちだして次のように述べている。

 「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
 私は共産主義者ではなかったから
 社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
 私は社会民主主義ではなかったから
 彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
 私は労働組合員ではなかったから
 そして、彼らが私を攻撃したとき
 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。」

 これは、マルティン・ニーメラー牧師の有名な詩です。今また、これと似たような状況が生まれつつあります。再び「反共は戦争前夜の声」という言葉をかみしめなければなりません。
 安倍政権は閣議決定した答弁書によって、共産党が破壊(活動)防止法の適用対象だと回答しました。普通に活動して多くの支持を得ている天下の公党に対するこのような攻撃は古色蒼然たるもので荒唐無稽ですが、まさに「ナチスの手口」に学んだものでもあります。
 戦前の日本もドイツも、戦争準備の過程で頑強な反対勢力であった共産党を弾圧しました。やがてその弾圧は自由主義者やカトリックへと拡大していきます。同じように、安倍政権は共産党を狙い撃ちにして、戦争する国づくりをすすめようとしているわけです。

 悪質なデマまで使って攻撃するのは、野党共闘の強力な推進力となった共産党を排除できなくなったからです。その力を恐れているからこそ目の敵にしているわけで、共産党が手ごわい政敵になったと自民党が太鼓判を押したようなものです。
 これは安倍政権の弱さと焦りの現れでもあります。市民から大きな声を上げて糾弾しなければなりません。「最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった」という間違いを繰り返さないために。そして、後になって「私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」という状況を生まないためにも……。


 この詩は共産党擁護によく持ち出されるので以前から知っていたが、出典は何なのだろうとふと気になった。
 ネットで検索してみると、ブログ「世に倦む日々」の4月27日付の記事「「結末を考えよ」 - ニーメラーの教訓と弱すぎる戦争への危機感」に、この詩をわが国で広く紹介したのは政治学者の丸山眞男(1914-1996)であるとの主張があった。

ニーメラーはルター派教会の牧師で、ナチスに抵抗して1937年に強制収容所に入れられ、生還後にこの悔恨の言葉を残した。ところで、今日、この言葉は政治に関心を持つ現代人の常識の範疇となっているけれど、出典は何で、どこから広く知られるようになったのだろうか。実は、この痛切な反省を日本に紹介したのは、丸山真男の『現代政治の思想と行動』である。1961年の論文「現代における人間と政治」の中に、ミルトン・マイヤーの著書からの引用として紹介されている。原文を日本語に翻訳したのは丸山真男だ。

この言葉を日本の政治学の一般知識にしたのは丸山真男である。が、このニーメラーの警句を説明するWiki情報には、なぜか丸山真男についての言及がなく、この国の政治学で最も多く読まれてきた古典的著作で紹介しているという記述がない。この事実はきわめて不審で、偶然だとすれば奇妙であり、何か動機があって悪意で丸山真男を捨象したのではないかという疑いを禁じ得ない。丸山真男の『現代政治の思想と行動』というのは万事がこんな感じで、ビートルズの名曲のように「これがあれだったのか」と既視感の衝撃を覚える発見が随所に散らばっている。アクトンの「絶対的権力は絶対的に腐敗する」の言葉(P.444)もそうだし、トクヴィルの回想録の「ひとが必要欠くべからざる制度と呼んでいるものは、しばしば習慣化した制度にすぎない」の一節(P.576)もそうだ。まさに政治学の宝石箱。


 そこで、丸山の『現代政治の思想と行動』に収録された「現代における人間と政治」という文を読んでみると、次のようにあった。

ニーメラーの次のような告白を見よ――
  「ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども依然として自分は社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた」(Mayer,op.cit.,pp.168-169)
 こうした痛苦の体験からニーメラーは、「端初に抵抗せよ」(Principiis obusta)而して「結末を考えよ」(Finem respice)という二つの原則をひき出したのである。彼の述べているようなヒットラーの攻撃順序は今日周知の事実だし、その二原則も〔中略〕言葉としてはすでに何度も聞かされたことで、いささか陳腐にひびく。けれどもここで問題なのは、あの果敢な抵抗者として知られたニーメラーさえ、直接自分の畑に火がつくまでは、やはり「内側の住人」であつたということであり、しかもあの言語学者がのべたように、すべてが少しずつ変つているときには誰も変つていないとするならば、抵抗すべき「端初」の決断も、歴史的連鎖の「結末」の予想も、はじめから「外側」に身を置かないかぎり実は異常に困難だということなのである。しかもはじめから外側にある者は、まさに外側にいることによつて、内側の圧倒的多数の人間の実感とは異ならざるをえないのだ。(丸山『増補版 現代政治の思想と行動』未来社、1964、p.475-476、原文中の傍点は引用ではゴシック体に変更した)


 さて、では心ある国民は、五十嵐氏やしんぶん赤旗が言うように、共産党が破防法の調査対象団体とされていることを「弾圧」であり「戦争の前夜」だととらえて、安倍政権を「大きな声を上げて糾弾しなければな」らないのだろうか。
 私にはそうは思えない。
 破防法の調査対象団体とされていることは、何ら結社の自由を害するものではないということもあるが、それより何より、共産党が政権を獲得した場合、ナチスと同じことをする恐れが多分にあり、実際に共産党政権の国々ではそうしたことが行われてきた以上、共産党がこんな詩を持ち出して危険性を煽っても全く説得力を覚えないからだ。

 1917年のロシア革命では、皇帝が退位した後、臨時政府とソビエトの二重権力となった。ソビエトを基盤としたボリシェビキのレーニンは武装蜂起してケレンスキーの臨時政府を打倒し、社会革命党左派と組んでソビエト政権を樹立した。
 憲法制定会議の普通選挙が行われたが、ボリシェビキは議席の4分の1しか得られず、社会革命党が過半数を獲得した。自由主義者の政党である立憲民主党も議席を得たが、ソビエト政権により解散させられ、メンバーは逮捕されるか亡命した。憲法制定会議は開かれたが、少数派であるボリシェビキと社会革命党左派は権力をソビエトに委ねるよう求め、否決されると退場した。翌日会場は軍により封鎖され、ソビエト政権は会議の解散を命じた。監禁されていた廃帝ニコライ2世とその一家は1918年7月にソビエトの秘密警察により銃殺された。
 松田道雄は『ロシアの革命』でその後の状況を次のように描いている。

 ボリシェヴィキが権力を奪取してしばらくは、他の政党も合法的に存在していた。〔中略〕
 一九二〇年の第八回ソヴィエト大会には、社会革命党もメンシェヴィキも、その代表を公然と出席させることができた。一九二一年になると事態はかわってきた。メンシェヴィキの指導者たちは、国外に亡命しなければならなくなった。メンシェヴィキはまだ亡命できたが、社会革命党は、それさえできず、一九二二年には、指導者たちは反革命のかどで裁判され、処罰されなければならなかった。それ以後、共産主義者でないものには結社をつくる自由はなくなった。
 しかし、ボリシェヴィキ党のなかでは、反対派は自由に意見をのべることはできた。ブレスト・リトフスクの講和を受諾するかどうかでは、レーニンは数からいえば自分より多い反対派を説得しなければならなかった。
 一九二〇年の第九回党大会は、反対派がもっとも自由に発言できた最後の機会であった。〔中略〕第九回党大会は、左翼反対派の意見を反映して、ことなった意見のゆえに党員にどんな圧迫もくわえてはならないむねの宣言さえした。(松田道雄『ロシアの革命』河出文庫、1990、p.350-352)


 だが、革命軍の内部からソビエト政権に抵抗するクロンシュタットの反乱が起きると、第10回党大会で分派活動は禁止された。
 1924年にレーニンが死ぬと、後継者争いにスターリンが勝利し、敗れたトロツキーは国外追放された。1930年代にはいわゆる大粛清が行われ、多数のオールド・ボリシェヴィキが処刑された。トロツキーも1940年にメキシコで暗殺された。
 これらは政治家の話であって、一般国民に対してどれほど苛烈な弾圧が加えられたか、ここで詳述する余裕はない。

 ニーメラー、あるいは丸山に倣うなら、次のような詩も成り立つのではないだろうか。

 共産主義者が皇帝や貴族を襲ったとき、私はやや不安になった。けれども自分は皇帝でも貴族でもなかったので何もしなかった。
 それから共産主義者は富農や資本家を攻撃した。私は不安はやや増大した。けれども自分は富農でも資本家でもなかったので、やはり何もしなかった。
 それから共産主義者の攻撃の手は社会主義者やアナーキスト、さらに共産主義者内部の反対派へと伸び、私の不安はそのたびに増大したが、私は社会主義者でもアナーキストでも共産主義者内部の反対派でもなかったので、なおも何もしなかった。
 そして共産主義者の攻撃の手は彼らの政府に忠実な一般国民にまで伸びてきた。私は一般国民であったから何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであった。

 ソ連に限らず、中国でも北朝鮮でもベトナムでも、共産党政権の下では同じようなことが行われてきた。
 現在の日本共産党は、ソ連型の社会主義建設は行わないと主張している。しかし、元々ボリシェビキが世界革命のために設立したコミンテルンの日本支部として誕生し、マルクス=レーニン主義を理論的基礎とし(現在の日本共産党は「科学的社会主義」と称しているが、これは単なる言い換えである)、レーニンの党組織原理である民主集中制を未だ放棄していない日本共産党が、単に行わないと宣言しても、何の説得力があるだろうか。

 私は、思想・信条の自由や結社の自由は、民主制の下で何よりも尊重されなければならないと思っている。
 だから、共産主義を信奉する自由も、共産党を組織する自由も認められるべきだと思う。
 しかし、かつて武装闘争を行った結社が、破防法の調査対象とされることもまた当然だと考える。調査は結社の自由を侵すものではないし、それが「弾圧」だとも「戦争前夜」だとも思えない。
 また、「端初に抵抗せよ」と言うなら、かつて武装闘争路線を採った日本共産党に対しても、その行動を調査し、共産主義が国民への独裁である危険性を指摘することは何ら否定されるべきではないのではないか。

 反共が必ず戦争を起こすというものでもあるまい。スペインのフランコやチリのピノチェトは共産党が参加した政権を打倒し、インドネシアのスハルトは共産党によるクーデターを鎮圧してそれぞれ権力を握ったが、別に侵略戦争に手を染めたことはない。
 第二次世界大戦はナチス・ドイツとソ連が密約を交わして起こしたものだから、言わばソ連は共犯である。戦後も朝鮮戦争をはじめ共産党政権が戦争を起こすことはしばしばあったことも思い起こすべきだろう。

 なお、上で引用した丸山眞男の「現代における人間と政治」は、六〇年安保闘争を振り返ってその翌年に書かれたもののようである。
 当時はまだ民主主義の敵と言えばナチスという印象が濃厚だったのだろう。
 しかし、文化大革命やカンボジア大虐殺やソ連崩壊を経て、共産党政権の様々な害悪が広く明らかになったこんにち、未だに半世紀前と同様にニーメラーの詩でおどかす手法が通用すると思っている時代錯誤にはあきれるほかない。

 ニーメラーの詩については、以下の2つの記事が興味深い内容だった。

   はてなキーワードの「マルチン・ニーメラー」

   愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt) マルチン・ニーメラーが本当に言ったことと、リベラルな人の嘘

 また、丸山の「現代における人間と政治」については、これをドイツ文学者の西義之(1922-2008)が批判的に取りあげていたことを思い出した。私はこの批判に共感する。
 当ブログの記事
   53年前の「おどかし屋」――特定秘密保護法案騒動と60年安保騒動
を参照。

共産党は破防法調査対象との答弁を印象操作と批判する大学教授の印象操作

2016-05-13 07:58:35 | 日本共産党
 前回までの一連の記事で取りあげた、政府が共産党を破防法の調査対象団体としている答弁書について、朝日新聞デジタルが運営しているオピニオンサイト「WEB RONZA」に、小林正弥・千葉大学大学院人文社会科学研究科教授(政治学)による「「左翼」の共産党を「極左」に見せる印象操作」という記事が掲載されていると朝日の紙面で紹介されていた。

 何が「印象操作」なのかと不審に思って、WEB RONZAで4月13日付の当該記事を読んでみた。「共産党は破壊活動を行う政党なのか?」という副題が付いている。
 この小林教授は、共産党が野党統一候補を立てるために独自候補を取り下げる動きを歓迎しているようで、

 これはもちろん、議会政治の中の正当な戦略だ。このような画期的方針を取るのは、危機にある立憲主義を守るためだ、と共産党は説明している。これまで共産党は自党の議席や得票のために実際に当選可能性はなくとも候補者を立て、大局から見れば党利党略だと批判されることもあった。

 筆者自身も、第1次安倍政権の時には「平和への結集」という概念のもとで平和のための統一候補を実現するように主張し、当時の「護憲政党」に対してそのような批判を行った。だから逆に今の共産党の方針は、自党だけの利益よりも立憲主義や民主主義の擁護という大義を優先しているように見える。

 その意味ではこれは、こうした大義のための自己犠牲的な戦略にすら見える。民主主義や立憲主義の観点からはこの歴史的大転換を賞賛することはあっても、これを批判することは難しい。

 そのため、理性的に政治的現実を見れば、今の共産党が「破壊活動」を行って虎視眈々と「暴力革命」を狙っているなどと想像することはできないし、そんなことを言ったら妄想だと一蹴されるだろう。


と述べているが、「印象操作」についての説明は、無料で読める記事前半部にはなかった。有料である後半部にはあるのかもしれないが、購読する意欲をそそられなかった。
 もしかすると、「印象操作」の語はWEB RONZAの編集者が付けたのかもしれない。

 しかし、小林教授の記事には

政府は鈴木貴子衆議院議員(無所属)の質問趣意書に答えて、政府は共産党を「警察庁としては『暴力革命の方針』に変化はないと認識している」という答弁書を閣議決定した(3月22日)。共産党は今でも破壊活動防止法の調査対象団体であり、「共産党が(合法化した)1945年以降、国内で暴力主義的破壊活動を行った疑いがある」と記したという。

 当然ながら、共産党はこれに対して強く反発した。


とあるが、鈴木議員の質問中のこれに関連する箇所は、

四 昭和五十七年四月二十日、第九十六回国会、衆議院地方行政委員会に於いて、警察庁は「ただいまお尋ねの日本共産党につきましては、民青を含めまして、いわゆる敵の出方論に立ちました暴力革命の方針を捨て切っていないと私ども判断しておりますので、警察としましては、警察法に規定されます「公共の安全と秩序を維持する」そういう責務を果たす観点から、日本共産党の動向について重大な関心を払っている」旨答弁されているが、現在も警察庁は、日本共産党は暴力革命の方針を捨て切っていないと認識されているか、見解を求める。

五 昭和二十年八月十五日以後、いわゆる戦後、日本共産党が合法政党となって以降、日本共産党及び関連団体が、日本国内に於いて暴力主義的破壊活動を行った事案があるか確認を求める。(太字は引用者による)


であり、これに対する政府の答弁は、

四について
 警察庁としては、現在においても、御指摘の日本共産党の「いわゆる敵の出方論」に立った「暴力革命の方針」に変更はないものと認識している。

五について
 お尋ねのうち、「関連団体」については、その具体的な範囲が必ずしも明らかではないため、お答えすることは困難であるが、政府としては、日本共産党が、昭和二十年八月十五日以降、日本国内において暴力主義的破壊活動を行った疑いがあるものと認識している。


であるから、四については、従来からの政府見解に変更はないと述べているだけで、「今の共産党が「破壊活動」を行って虎視眈々と「暴力革命」を狙っている」などとは述べていない。
 また、五についても、共産党がかつて暴力主義的破壊活動を行ったことは歴史的事実ではないのだろうか。
 
 小林教授の記事には、

ネガティブ・キャンペーン?

 多くの平和志向の市民たちが安保法「成立」の後で野党共闘の成立を願ったにもかかわらず、民主党―民進党は共産党との連携に消極的で、支持率も上がらなかったから、共産党が「他の野党が国民連合政権構想に同意しないなら独自候補を擁立する」というスタンスをとれば、幅広い野党共闘は実現せず、参院選(ないし衆参同日選)は与党が大勝することになっただろう。

 ところが、驚いたことに共産党は自主的に独自候補擁立を止めて野党統一候補の実現に努めたので、参院一人区でも野党統一候補が勝利する可能性が生じてきた。

 自民党はこれに警戒感を強めており、この時期にあえてこのような異例の閣議決定を行ったのは、共産党に対するネガティブ・キャンペーンの一環だろうとも言われている。


ともあるが、政府がこの答弁書を閣議決定したのは、鈴木貴子衆議院議員から質問主意書の提出があったからだ。
 議員からの質問に対して、従来からの政府見解に変更がなければ、その旨を答弁するのは当然であり、政府の義務でもあろう。何が「異例」で「ネガティブ・キャンペーン」なのか私にはわからない。

 小林教授が、鈴木議員も政府答弁書も述べていない「今の共産党が「破壊活動」を行って虎視眈々と「暴力革命」を狙っているなど」という主張を勝手に「想像」して、それを「妄想だと一蹴」するのは自由だが、政府答弁書の内容がおかしい、共産党が破防法の調査対象団体とされているのは不当であると言うのなら、まずはその理由を具体的に説明すべきではないのだろうか。
 共産党がかつて暴力主義的破壊活動を行ったこと、現在でも暴力革命を否定していないこと、民主集中制をとり続けている以上指導部が暴力革命の方針に転じれば下部組織はそれに無条件で従うようになっていることは、私が前回までの一連の記事で述べたとおりである。
 例えば、現在の共産党はもはや暴力革命とは無縁であるというなら、共産党が綱領や規約のどこでそんなことを述べているのか挙げてもらいたいものだ。

 私は、ネットで多用されるこの「印象操作」という語が嫌いである。定義がよくわからないし、何も「操作」などしていない、単なる主張自体を批判する際にも用いられることがあるからだ。
 しかし、政府答弁書のどこがどうおかしいのかを具体的に指摘せず、共産党がかつて暴力主義的破壊活動を行ったことや現在でも暴力革命を否定していないことに触れずに、選挙目当てのネガティブ・キャンペーンの一環であると断じるこの小林教授の記事の方が、「印象操作」の名にふさわしいのではないかとの読後感を持った。

共産党の破防法調査対象への抗議を読んで思ったこと(下) 問題は民主集中制にある

2016-05-10 08:35:56 | 日本共産党
承前

 この一連の記事の「(中) 「敵の出方論」について」で引用したように、政府は、鈴木貴子衆議院議員の質問主意書に対する答弁書で、こう述べている。

 警察庁としては、現在においても、御指摘の日本共産党の「いわゆる敵の出方論」に立った「暴力革命の方針」に変更はないものと認識している。


 そして、共産党が暴力革命を否定していないことは、これまでの記事で説明したとおりである。

 では、仮に共産党が「いわゆる敵の出方論」を否定すれば、共産党は破防法の調査団体ではなくなるのだろうか。
 共産党が、「敵の出方」がどうであれ、一切の暴力を否定し、議会による民主制を堅持すると宣言すれば、公安調査庁は共産党への監視を中止するのだろうか。

 私には、共産党が「敵の出方論」を採るから監視しているというのは、ある種の方便ではないかと思える。
 仮に、共産党が「敵の出方論」の放棄を宣言したとしても、おそらく公安調査庁は共産党への監視をやめないだろうし、やめるべきではないと私は思う。
 その理由は三つある。
 まず、かつて武装闘争を行ったというれっきとした前歴がある以上、その団体が監視対象とされるのは当然だということ。
 次に、共産党が理論的基礎としているマルクス・レーニン主義(近年の彼らは科学的社会主義と呼んでいるが、これは単なる言い換えである)は、元々暴力革命を肯定していること。
 そして、共産党特有の組織原理である民主集中制には、何ら変化が見られないことだ。

 民主集中制とは、ロシア革命を成功させたレーニンが打ち出した共産党の組織原理である。
 コトバンクで「民主集中制」を引くと出てくる、日本大百科全書(ニッポニカ)の加藤哲郎氏による解説中に、次のようにある(引用文中の太字は引用者による。以下同じ)。

共産主義政党および社会主義諸国家において公式の組織原理とされたもので、民主主義的中央集権制ともいう。自由主義的分散主義と官僚主義的集権主義の双方と異なり、民主主義の原則と中央集権主義の原則とを統一したと称される論争的概念。典型的には、スターリン時代の1934年にソ連共産党規約に明記され、各国共産党規約に採用された、〔1〕党の上から下まですべての指導機関の選挙制、〔2〕党組織に対する党機関の定期的報告義務制、〔3〕厳格な党規律と少数者の多数者への服従、〔4〕下級機関および全党員にとっての上級機関の決定の無条件的拘束性、の原則をいうが、その実際の運用にあたっては、「党内民主主義」を制限し、共産主義政党の国民に対する閉鎖性・抑圧性を印象づける現実的機能をも果たした。そのため1989年東欧革命前後に、イタリア、フランス、スペインなどの共産党は民主集中制を放棄して変身をはかった。


 現在の日本共産党規約(2000年11月24日改定)には次のようにある。

第三条 党は、党員の自発的な意思によって結ばれた自由な結社であり、民主集中制を組織の原則とする。その基本は、つぎのとおりである。
 (一) 党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める
 (二) 決定されたことは、みんなでその実行にあたる。行動の統一は、国民にたいする公党としての責任である。
 (三) すべての指導機関は、選挙によってつくられる。
 (四) 党内に派閥・分派はつくらない
 (五) 意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない。


 これだけを読むと、(四)を除けば、組織としてごく当たり前のことを述べているにすぎないように見える。
 しかし、規約の次の条文を合わせて読んでみると、どうだろうか。

第五条 党員の権利と義務は、つぎのとおりである。
 (一) 市民道徳と社会的道義をまもり、社会にたいする責任をはたす。
 (二) 党の統一と団結に努力し、党に敵対する行為はおこなわない
 (三) 党内で選挙し、選挙される権利がある。
 (四) 党の会議で、党の政策、方針について討論し、提案することができる。
 (五) 党の諸決定を自覚的に実行する。決定に同意できない場合は、自分の意見を保留することができる。その場合も、その決定を実行する。党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない
 (六) 党の会議で、党のいかなる組織や個人にたいしても批判することができる。また、中央委員会にいたるどの機関にたいしても、質問し、意見をのべ、回答をもとめることができる。
 (七) 党大会、中央委員会の決定をすみやかに読了し、党の綱領路線と科学的社会主義の理論の学習につとめる。
 (八) 党の内部問題は、党内で解決する
 (九) 党歴や部署のいかんにかかわらず、党の規約をまもる。
 (十) 自分にたいして処分の決定がなされる場合には、その会議に出席し、意見をのべることができる。


 何やら実に息苦しいものを感じる。
(なお、第五条の(一)で「市民道徳と社会的道義をまも」るとあるが、法律を守るとしていない点が興味深い)

 一見、党外はともかく、党内であれば、党の決定に反対する意見を述べる自由や、その意見を保留する自由が認められており、反対意見を理由に排除されることはないように読める。
 だが、実際にはどうか。

 この一連の記事の「中の3」で述べたように、現在の日本共産党綱領の原型は、宮本顕治書記長の下、1961年の第8回党大会で決定された党綱領である。
 1958年の第7回党大会で、宮本らは綱領と規約を一体化した「党章」の決定を図ったが、党中央に春日庄次郎(1903-1976)ら少数の反対派がおり、大会でも代議員の3分の2以上の賛成が得られなかったため、規約のみを決定し、綱領については持ち越しとなった。
 党内の綱領論争は続いたが、宮本ら主流派が大勢を制し、第8回党大会では綱領反対派の意見表明もなされずに綱領が決定される見通しとなった。
 戦前からの非転向の党幹部である春日庄次郎は、大会を前に離党した。共産党は離党を認めず春日を反党行為者として除名した。

 離党に当たって春日が発表した「日本共産党を離れるにあたっての声明」の中に、民主集中制の問題点をわかりやすく説明していると思われる箇所があるので、引用する(〔〕内は引用者による註)。

三、この誤った路線〔第8回党大会で決定される予定の宮本書記長らの綱領の路線〕にたいする幹部の異常な執着は、党内外の批判・反対をおさえるために党内民主主義を破壊し、いま、第八回党大会を前にして、みずから規約をふみにじり、反対意見の代議員の選出を組織的に排除し、少数意見の中央委員の意見書も発表させず、代議員権の獲得もさまたげ、一方的なやり方で大会を開こうとしています。このような度はずれの幹部独裁は、「下級は上級に無条件に服従し、決定は忠実に実践する」という「組織原則」に、誠実、献身的な党員大衆をしばりつけることによって保証されています。それは幹部が自己の政策・方針をつねに「基本的に正しい」といえば、末端まで「基本的に正しい」とシュプレヒコールする自動連動装置であります。幹部会の方針に批判を加えたり、反対したりするものは、すべて自由主義、分散主義、修正主義、反中央、反党分子として排除されます。これは、いかなる失敗があっても「基本的に正しい」といわせられる、上から下までの自己瞞着、政治的腐敗の体系であります。何月何日までに党員倍加達成、アカハタ何部の拡大、責任買取り制が、下部でどのような危険と困難をよびおこしていようと、幹部会はこの「基本的に正しい」「偉大な成果」の上に自己の権威を高めようとしています。
四、こういう状態の中では、党内民主主義に依拠して、原則的な党内闘争によって事態を改善してゆく余地はほとんどありません。真面目な党員、批判力をもった党員は、上級の圧力によって漸次、面従腹背の二重人格においやられています。だんだん党員は無気力になります。上向きの出世主義がはびこります。「いかなる分派の存在も許さぬ一枚岩の党」の圧力に耐えられないものは脱出します。〔中略〕
五、私は熟慮の結果、離党の道を選びました。現職の統制監査委員会議長が離党を決意するということは非常なことです。私は四十年近い自分の革命経歴の重味におしまかされて、安易につくべきではないと決断しました。私は自己瞞着の体系を破って全党員諸君と共に大胆、卒直〔原文ママ〕に語り合う自由をえたいのです。(日本出版センター編『日本共産党史 -私の証言』日本出版センター、1970、p.327-328)


 民主集中制の「民主」の実態は、こんなものなのだろう。
 春日に限らず、宮本体制確立後、執行部への反対派が党にとどまっているという事例は聞いたことがない。

 共産党は、党員による党首の普通選挙を行ったことがない。自民党の総裁選や、旧民主党の代表選のように、複数の候補者が公然と党首の座を争ったことがない。
 規約第3条に「すべての指導機関は、選挙によってつくられる。」とあるように、選挙は行われている。
 まず、党の最高機関とされている党大会が中央委員会を選出する。中央委員会は幹部会委員と幹部会委員長(党首)、書記局長などを選出する。
 ではその党大会の代議員はどうやって選出されるのかというと、これは中央委員会が決めるのである。
 つまりは、中央の意に沿う人間しか代議員に選出されない。第7回党大会前後のように党中央に反対派がいればいざしらず、党中央が一枚岩であれば満場一致で中央の決定を追認するだけである。
 かつてのソ連共産党、現在の中国共産党、朝鮮労働党が行ってきたことと同じである。

 宮本は1970年に書記長に代わって新設の幹部会委員長(党首)に就任した。新設の書記局長に40歳の不破哲三氏が起用された。不破氏は宮本の後継者と目された。
 1982年には宮本は野坂参三に代わって名誉職的な中央委員会議長に選出され(野坂は新設の名誉議長に就任)、幹部会委員長は不破氏が継いだ。書記局長には労働者出身の金子満広(1924-2016)が就いたが、1990年に党職員で35歳の志位和夫氏に代わった。志位氏は不破氏の後継者と目された。
 2000年に志位氏は幹部会委員長に就任し、不破氏は老齢の宮本を引退させて議長に就いた。2006年には議長も引退し たが常任幹部会にはとどまっている。志位氏はその後現在まで幹部会委員長を務めている。
 この間党勢は様々に推移した。しかし、党勢が低迷した時期に、党内で宮本や不破氏や志位氏の責任が問われることは全くなかった。何故、経験豊富な他の幹部ではなく、若手の不破氏や志位氏が後継者候補なのか、その説明もなかった。
 同じ左翼政党であり、衰退が著しい社民党ですら、福島瑞穂の党首辞任に際しては選挙が行われた。
 わが国の政党で、党首の人事がブラックボックスと化しているのは共産党と公明党ぐらいのものである。

 春日が言うように、「下級は上級に無条件に服従し、決定は忠実に実践する」のが民主集中制の本質である。
 だから、米軍占領下での平和革命が可能だなどという珍論を執行部が唱えれば下級党員はそれに従う。
 そして、執行部より「上級」のコミンフォルムから平和革命論を批判されれば、執行部はそれに従い、下級党員もまたそれに従う。
 朝鮮戦争が始まり、執行部の主流派が地下に潜行して武装闘争路線を採ると、下級党員もまたそれに従う。
 執行部の主流派と反主流派が逆転して、武装闘争は戦術的誤りだったと批判すると、下級はこれまた従う。
 新たな主流派となった宮本らが新綱領を定めると、それにも従う。
 やがて執行部がソフト路線に転じて、「自由と民主主義の宣言」を打ち出したり、天皇制や自衛隊の廃止を明言しなくなったりしても、それに従う。
 「上級」から何を言われても、「下級」はただただそれに従う。それが共産党である。そうでない人間は排除されてきた。
 個々の議員が議会政治を前提に結成し、離合集散を経てきた、自民党や民進党といった諸政党とは異質な存在なのである(公明党は、共産党に類似している。ただ、公明党に武装闘争の前歴はない)。

 ならば 執行部が再び武装闘争を実行する条件が整ったと判断すれば、執行部はそれを指示し、下級党員はやはり無条件にそれに従うのではないか。
 この疑念が、日本共産党が現在でも破防法における監視対象とされている最大の理由だろう。

 レーニンが民主集中制を採用したのは、帝政ロシアを打倒し、白衛軍との内戦を経て共産党政権を建設するためには、徹底した上意下達に基づいた軍事的な党組織が必要だったからだろう。暴力革命を前提としていたからだろう。
 しかし、前回の記事でも述べたとおり、日本共産党はこんにち「議会の多数を得て社会変革を進める」と標榜している。
 ならば、民主集中制に固執する必要はないはずである。

 上で引用した日本大百科全書の記事にあるように、イタリア、フランス、スペインの共産党は、既に民主集中制を放棄している。
 この3国の共産党は、1970年代に、ソ連型の社会主義建設を批判し、議会主義による社会主義への移行や複数政党制の容認などを主張し、その動きは 「ユーロコミュニズム」と呼ばれた。
 70年代に民主連合政府構想や「自由と民主主義の宣言」を打ち出した日本共産党もこれに類するものだとして、「ユーロ・ニッポ・コミュニズム」という呼称もあった。

 それから40年ほど経つというのに、未だに日本共産党だけが民主集中制に固執している。何故だろうか。
 ソ連や東欧の共産党政権崩壊後も、中国や北朝鮮、ベトナムにまだ共産党政権が残っていることに象徴されるように、アジア的な後進性の現れなのだろうかとさえ思える。

 イタリア共産党は、西欧諸国の中では特に有力な共産党であったが、冷戦期には政権から排除されていた。トリアッティ書記長の下でいわゆる構造改革路線を採用し、早くからソ連型社会主義と異なる独自の立場をとっていた。
 1989年に民主集中制を放棄したが、さらに1991年には党を解散し、主流派は「左翼民主党」を、左派は「共産主義再建党」を結成した。両党は1996年の総選挙でプロディ元産業復興公社総裁率いる中道左派連合「オリーブの木」に参加し、勝利した。左翼民主党のダレーマ書記長は1998年プロディに代わって首相に就き、約1年半務めた。
 左翼民主党は1998年に「左翼民主主義者」と改称し、さらに2007年、中道左派政党「マルゲリータ」(旧キリスト教民主党左派の流れをくむ)と共に新党「民主党」を結成した。
 民主党は中道左派連合の中核となり、2013年の総選挙で勝利し、民主党のレッタ、続いてレンツィが首相に就任した。現在のレンツィ内閣の閣僚をウィキペディアで確認したところ、国防相(女性)や司法相は元々共産党出身のようである。

 今、イタリア共産党の歴史を確認してみて、彼我の違いに愕然とした。
 イタリアとわが国では政治の歴史も選挙制度も政党の構成もまるで違うので、イタリアで成功したからといってわが国でも民主集中制を放棄すれば連合政権を樹立できるなどと言うつもりはない。やはり民主集中制を放棄したフランスやスペインの共産党は低迷しているようであるし。
 しかし、半世紀以上も前に決定された綱領の路線を後生大事に抱えつづけ、「確かな野党」の座に安住しつづける政党に、未来があるとも思えない。
 そして、日本共産党がそうした集団であり続けることは、わが国の一党優位体制を補完しているという点で、わが国にとって不幸なことだと思う。

(完)