トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

文民統制とは何か

2007-10-24 12:46:44 | 現代日本政治
 昨日の『朝日新聞』夕刊のコラム「素粒子」から。

《政治家をないがしろにし、国民
を欺き、国事を専断しようとする
のは、旧陸海軍以来軍部の伝統。
   ×   ×
 大事なのは文民統制、とはいえ
業者接待ゴルフ三昧の文民じゃ、
報告を上げる気にもなれまいて。 》

 「業者接待ゴルフ三昧の文民」とは、今、軍需専門商社「山田洋行」による接待ゴルフ等が問題となっている、守屋武昌・前防衛事務次官のことだろう。
 防衛事務次官が何で文民なんだよ。

 昨日の『朝日新聞』朝刊の社説「データ隠し―文民統制が侵された」(ウェブ魚拓
 
も、次のように述べている。

《防衛省の説明通りだとすれば、自衛隊の制服組が都合の悪いことを内局の官僚に知らせていなかったことになる。文官は現場の状況を十分に把握できておらず、重要な情報のらち外に置かれていた。国会や国民が欺かれていた。文民統制の空洞化である。》

 制服組は軍人、背広組(内局)は文民というのが、朝日の理解であるらしい。

 しかし、防衛省は戦前で言うなら陸軍省、海軍省に相当する。つまりは軍人である。
 守屋前次官の接待が問題となっているのは、彼が「自衛隊員倫理規程」に違反したからだ。つまり、防衛事務次官もまた自衛隊員なのである。
 防衛省(背広組)とは別に自衛隊(制服組)という組織が存在し、自衛隊が防衛省の下部組織であるのではない。防衛省と自衛隊とは、同じ組織を別な側面から見た呼称の違いにすぎない。

 背広組は「文官」とは言えるかも知れないが、「文民」ではない。ましてや、背広組の制服組に対する優越が文民統制などと、見当違いも甚だしい。

 文民統制(シビリアン・コントロール)とは、軍の最高指揮権が文民(非軍人)の手に委ねられていることを指すのである。
 文官一般が武官一般に優越しているという話ではないし、テロ特措法の関係で現在問題になっている、国会による自衛隊の行動の事後承認の廃止をもって文民統制が揺らぐなどというのも誤った理解だろう。
 『政治学事典』(平凡社、1949)には「文民統制」という項目はないが、「文民優越制」(civilian supremacy)という項目はあり、次のように説明されている。

《軍人にたいして、文民が最高の指揮権をもつ制度。たとえばワイマール憲法第47条‘大統領は国の全軍隊にたいして最高指揮権を有す’、アメリカ合衆国憲法第2条第2節‘大統領は合衆国陸海軍の最高司令官 Commander in Chief である’などの条文は、この原則を成文にしめしたものであり、マッカーサー元帥を解任したトルーマン大統領の行為は、このような文民優越制の存在を現実に証明したものである。》

 では、わが国の自衛隊はどうだろうか。
 現行の自衛隊法には、次のように定められている。

《(内閣総理大臣の指揮監督権)
第7条 内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する。

(防衛大臣の指揮監督権)
第8条 防衛大臣は、この法律の定めるところに従い、自衛隊の隊務を統括する。ただし、陸上自衛隊、海上自衛隊又は航空自衛隊の部隊及び機関(以下「部隊等」という。)に対する防衛大臣の指揮監督は、次の各号に掲げる隊務の区分に応じ、当該各号に定める者を通じて行うものとする。
1.統合幕僚監部の所掌事務に係る陸上自衛隊、海上自衛隊又は航空自衛隊の隊務 統合幕僚長
2.陸上幕僚監部の所掌事務に係る陸上自衛隊の隊務 陸上幕僚長
3.海上幕僚監部の所掌事務に係る海上自衛隊の隊務 海上幕僚長
4.航空幕僚監部の所掌事務に係る航空自衛隊の隊務 航空幕僚長》

 防衛省のトップは防衛大臣だが、このように、自衛隊の最高指揮権は内閣総理大臣にある。
 そして、日本国憲法第66条第2項は「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」と定めているから、自衛隊は文民の統制に服することになる。
 文民統制とはこのことを指すのであり、それは現行法制上十分に果たされている。

 自衛隊法がこのように最高指揮権を内閣総理大臣にあると明記しているのは、明治憲法にはそのような規定がなく、戦前のわが国の陸軍が暴走したことへの反省があることは言うまでもないだろう。
 そうした違いを無視して「旧陸海軍以来軍部の伝統。」と自衛隊を危険視する朝日。
 自らもまた「政治家をないがしろにし、国民を欺き、国事を専断しようとする」傾向がなかったか、少しは省みてもらいたいものだ。

関連記事「朝日は「素粒子」と社説を訂正せよ」

更新頻度低下のお知らせ

2007-10-23 22:58:03 | このブログについて
 2週間も更新していませんでしたが、別に旅行に行っていたわけでも、体を壊していたわけでもありません。単に時間がとれなかっただけです。
 今後も当分、なかなか更新できない日々が続きそうです。
 書く意欲をなくしたわけではありません。無理をせずに、少しずつでも、続けていきたいと思っています。
 たまにでも、覗いていただければ幸いです。

ユリヤ・ユージック『アッラーの花嫁たち』(WAVE出版、2005)

2007-10-08 23:02:26 | その他海外情勢
 副題は「なぜ「彼女」たちは“生きた爆弾”になったのか? 」。

 以前、アンナ・ポリトコフスカヤの『プーチニズム』(NHK出版、2005)を Amazon で買ったら、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」として表示された(ところで、あのメッセージは本当なのだろうか? 私には、関連書籍を自動的に表示するようになっているとしか思えないのだが。だとすれば、虚偽表示ではないだろうか?)ことから本書を知り、内容に興味を抱いて購入してみた。

 チェチェン紛争では、女性による自爆テロが見られた。また、モスクワ劇場占拠事件(2002年)などにも多くの女性がテログループに参加している。
 彼女らの中には、宗教的信念や、個人的な復讐のために自爆をも辞さない者もいたという。
 しかし多くは、夫を失うといった個人的な悲劇、あるいは誘拐や人身売買により、そうした道へ進まざるを得なかった女性だという。
 彼女らはテロ組織の下で幽閉され、教育され、自爆テロ犯に仕立て上げられるのだという。その過程で向精神薬も用いられる。
 そして、爆弾を装着した女は群衆の中に放たれ、遠隔操作により爆発させられるのだという。

 そうした彼女らの実態を、若きロシア人女性ジャーナリスト(当時22歳!)が取材し、告発した本。ロシアでは発売禁止になった(一時的に解かれることもあった)という。
 
 チェチェン紛争というものがあることは知っていたが、詳しいことは知らず、そうした「花嫁」たちの存在もまた知らなかった。
 何ともおぞましい現実に、慄然とした。
 一方、テロ組織の指導者、シャミール・バサエフは、その経歴にロシア当局との関連が見られるという。著者は「クレムリンと連邦保安局のパートナーであるバサエフ」とまで述べている(バサエフは2006年ロシア軍により殺害された)。また、著者の取材活動に対する当局の不可解な干渉にも触れられている。

 テロとの戦いには終わりはない、テロリストにもそれなりの動機があるのだから、それを解消することにこそ力を注ぐべきだというような意見を時々見る。
 しかし、こうしたテロリスト側の現実を考えると、そんな簡単な問題ではないと思う。
 有効な異議申立の手段のない社会的弱者が、やむを得ずテロに走る――そういう構図ではないからだ。
 テロ自体が彼らの人生であり、またビジネスでもある、そういう人々が存在するからだ。

 ところで、本書は、翻訳がはなはだしく悪い。
「シャヒード」あるいは「女シャヒード」、「ジャマートの人たち」、「バーブ教」といった用語が頻出するが、何の脚注も解説もないので、何のことやらわからない。読み進めて行くにつれ、「シャヒード」はテロリスト、「ジャマートの人たち」はテロ組織、「バーブ教」はテロリストが信仰するイスラム教の一派のことかな……と推測してみたが。
 今ネットで検索してみると、「シャヒード」は、

《シャヒードとは殉教者と翻訳されることが多いのですが、信仰、祖国、思想など、何かの大義に殉じた人、と解説がつけられています。》 

と、フォトジャーナリストで『DAYS JAPAN』編集長の広河隆一のサイトに記述があった。
 あとの2つは、だいたい上記のような意味らしい。

 帯の背の部分に「衝撃的な内容に世界が涙した!」と書かれているように、どう考えても専門家ではなく一般人を対象としているので、チェチェン紛争や自爆テロ、劇場占拠事件についての簡単な解説も欲しいところだ。

 そして、訳文が硬く、読みにくい。
 意味不明の箇所もある。

《裁判官はムジャホエワに禁固二十年の刑を言い渡しました。被告はその場で激しいヒステリー症状に襲われました。
 この過酷な刑によって、ロシアの裁判はチェチェンの女性決死隊たちの事件に終止符を打ちました。それが終止符であることを望むばかりです。なぜなら多重点はありとあらゆることを想定させるからです。》(p.224)
(太字は引用者による)
 もうちょっとどうにかならないものか。

 Amazon 流に☆で点数を表示するなら、そういったマイナス面を考慮して☆3つ。


郵政民営化でふと思い出したこと

2007-10-02 07:27:25 | 事件・犯罪・裁判・司法
 その昔、はがきを作る業者が、官製はがきの販売をめぐって国を訴えたことがあった。
 業者のはがきはいくばくかの値段で売られている。それを買った客は、さらにそのはがきに50円の切手を貼って、ポストに投函する。そうしないと郵送してもらえない。つまり、50円+はがき代がかかる。
 官製はがきは、50円で売られている。客はそれを買い、書き込んで、そのまま投函すればよい。官製はがきなら、50円で済む。
 ところで、50円とは、あくまではがきの送料である。はがきと同じサイズに厚紙を切って、それに50円切手を貼って投函しても、郵便局はちゃんと届けてくれる。この場合、50円とは別に紙を用意しなければならない。
 しかし、官製はがきは、その紙自体も含めて50円で売られている。紙代、そして紙に郵便番号欄などを印刷する費用を考えると、明らかに50円で済むはずがないのに、50円で売られている。これはダンピングであり、不当に民業を圧迫するものではないか。
 こういう趣旨だったと思う。
 聞いたとき、なるほどもっともな話だと思った。
 しかし、この訴訟は、業者側の敗訴に終わったと記憶している。もうずいぶん昔のことで、敗訴した理由もよく覚えていないのだが……。

「官業が民業を圧迫するのはおかしい」
「民間でできることは民間に」
 私は、単純にこうした見地から、郵政民営化を支持してきた。
 かねてから、郵便局のサービスに不満を抱いていたこともある。

 そして、いよいよ民営化が成ったわけだが、果たして、官製はがき――じゃないや、なんて呼ぶんだろう、検索してもまだちゃんと決まっていないようですね――は、50円+はがき代で売られるようになるのだろうか。
 郵便事業に他業者が対等に参入できるようになるのだろうか。
 単に郵便事業会社が効率化、スリム化して一人勝ちするなら、何のための民営化だったのかということになる。
 今後を見守りたい。

「関与」と「強制」は違う

2007-10-01 08:19:36 | 大東亜戦争
 高校の日本史教科書の検定で、沖縄戦で日本軍が住民に「集団自決」を強制したとの記述が削除されたことに対し、検定意見の撤回を求める県民大会が開かれ、主催者発表で11万人が参加したという。9月30日付『朝日新聞』は1面トップにこの記事(ウェブ魚拓)を掲載した。
 2面に掲載された「沖縄県民大会決議(要旨)」には、こうある。

《沖縄戦における「集団自決」が、日本軍による関与なしに起こり得なかったことは紛れもない事実であり、今回の(日本軍による命令・強制・誘導などの表現の)削除・修正は体験者による数多くの証言を否定しようとするものである。
 文部科学省は〔中略〕検定意見の撤回と「集団自決」に関する記述の回復を拒否し続けている。
 〔中略〕
 沖縄県民は、県民の総意として国に対し今回の教科書検定意見が撤回され、「集団自決」記述の回復が直ちに行われるよう決議する。》

 あれ?
「関与なしに起こり得なかったことは紛れもない事実」って、何?
「強制なしに」じゃないの?

 そういえば従軍慰安婦の報道でも、軍の「関与」の証拠があったとしきりに言われていたなあ。
 そりゃあ関与はあるだろう。軍のための慰安所なんだから。「民間業者が勝手に連れ歩いていただけ」などという言い訳は通用しない。しかし、軍の関与があったことと、軍が人さらい同然に朝鮮半島で若い女性を狩り集めて慰安婦に仕立てたということとは違う。
 自決用に手榴弾が配られたのなら、手榴弾の出所は軍だろうから、そりゃあ関与があったとは言えるだろう。
 関与があったことと、強制されたこととは違う。

 同じ2面の記事によると、

《自民党幹事長になった伊吹文明・前文科相は8月の会見で、検定に介入できないとする一方、沖縄県議会が、意見書で「軍命」という言葉を避け「軍の関与」でまとめたことに触れ、沖縄の国会議員らに「さすがに一つの政治の知恵だ」と述べたことを明らかにし、〔深沢注・訂正への〕含みを残した。》

という。
 そんな、慰安婦問題の解決みたいなことはやめてくれ。

 私はこの集団自決の問題についてほとんど何も知らない。
 しかし、この大会決議が「強制」でなく「関与」という語句を用いていることに、強い不信感を覚える。

 同日の朝日社説「集団自決 検定意見の撤回を急げ」(ウェブ魚拓)は言う。

《集団自決が日本軍に強制されたことは、沖縄では常識だった。「沖縄県史」や市町村史には、自決用の手投げ弾を渡されるなど、自決を強いられたとしか読めない数々の証言が紹介されている。

 その事実を文科省が否定するのなら、改めて証言を集めよう。そうした動きが沖縄で起きている。

 そのひとつが、県議会による聞き取り調査だ。意見書の再可決に先立ち、住民の集団自決が起きた慶良間諸島の渡嘉敷島と座間味島で新たな証言を得た。

 ことし80歳の宮平春子さんは45年3月25日夜、当時の村助役だった兄が父に「(敵の)上陸は間違いないから軍から玉砕しなさいと命令が下りた。潔く玉砕します。死にましょう」と伝えるのを聞いた。軍隊用語の「玉砕」が使われていること自体が軍のかかわりを物語る。

 84歳の上洲幸子さんの証言は「もしアメリカ軍に見つかったら、舌をかみ切ってでも死になさい」と日本軍の隊長から言われた、というものだ。

 こうした生々しい体験を文科省はどう否定できるというのか。》

 これも、何だかおかしくないか。
「自決用の手投げ弾を渡されるなど、自決を強いられたとしか読めない数々の証言が紹介されている。」
 「強いられたとしか読めない」ということは、「自決せよ」と口頭や文書ではっきりと命じられた証言がないということではないか。明確に命じられてはいないが、手投げ弾を渡すといった行為をもって、強制されたと読み取れるということではないか。
「軍隊用語の「玉砕」が使われていること自体が軍のかかわりを物語る。」
 こんなことよく言うなあ。
 戦時中の朝日の紙面にも「玉砕」の文字が踊っていたではないか。
「舌をかみ切ってでも死になさい」
 これは命令なのか。強制なのか。従わなかったらどうなったのか。
 本土でも戦争末期には、そのようなことが広く言われていたのではないか。
 

《そもそも、教科書の執筆者らは「集団自決はすべて日本軍に強いられた」と言っているのではない。そうした事例もある、と書いたにすぎない。それなのに、日本軍のかかわりをすべて消してしまうのは、あまりに乱暴というほかない。》

 これは違う。前にも書いたが、朝日の以前の報道を読む限り、「そうした事例もある、と書いた」ようには見えない。
 「軍に集団自決を強いられた」と書き、「軍に強いられない集団自決もあった」とは書かないのなら、読者は「集団自決はすべて日本軍に強いられた」と当然受け取るではないか。詭弁もいいところだ。

《沖縄戦をめぐっては検定が変わったことがある。82年の検定で、日本軍による「住民殺害」の記述が削られたが、当時の文相が「県民の心の痛手に対し、十分な配慮がなされなければならない」と答弁し、記述は復活した。

 問題の教科書は来年度から使用される。ことは急を要する。渡海文科相はただちに検定意見を撤回すべきだ。》
 
 自決の強制はあったのか、なかったのか。あったとすればその実相はどうだったのか。そしてそれは教科書に載せるべきものなのか。
 これは、そうした観点から検討すべきことであって、県民が反発しているからと、安易に「軍の強制」を復活させるべきではない。