トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

ある新聞コラムを読んで

2011-09-15 00:15:48 | マスコミ
 12日の記事を書くに当たって、駒野剛の名で検索したら、こんなページが見つかった。


〈社説余滴〉天下の法は立つべからず(2011 年6 月9 日)
朝日新聞
駒野剛(経済社説担当)


 「社説余滴」とは、論説委員(社説を書く人)が実名で書くコラムらしい。
 私が読んでいる大阪本社発行版にはないが、他の地域ではあるのだろう。

 駒野は、荻生徂徠の「徂徠訓」を引いて、当時の菅首相をこき下ろしている。

 しかし、こういうのは、人の上に立つ者が、自らを律する言葉として記憶しておくべきものではないだろうか。
 所詮理想論であり、現実にどこまで実践できるかはわからない。だが少しでもそれに近づきたいとして、心にとどめておくべきものではないだろうか。
 
 それを、人を批判する道具として用いるのは、何か間違ってやしないか。

 自分で考えたわけでもない、先人の名言を引いて、それに比べて某はあれもできていない、これもだめだとこき下ろす。
 これがメシの種。
 これが大新聞の論説委員。
 新聞記者とは気楽な稼業だと言うしかない。

鉢呂「放射能」報道は「オフレコ破り」なのか

2011-09-14 12:57:31 | マスコミ
 10日の鉢呂吉雄経済産業相の辞任は、福島を視察後「まさに死の町だった」と評したことと、記者に対し「放射能を付けちゃうぞ」などと言って防災服をなすりつけるような仕草をしたことの2点が問題視されたことによるものだった。
 前者は公式な記者会見での発言だったが、後者についてはオフレコの懇談会での発言だと述べる人がいた。例えばBLOGOSのまとめ記事にはこうある。

9日の会見で、前日視察した福島第一原発について「残念ながら周辺市町村の市街地は人っ子一人いない『死の町』だった」と語り、批判を受けた。さらにその前日、東京・赤坂の議員宿舎に10社ほどの記者とオフレコの非公式懇談会を開いた。その場で鉢呂氏は毎日新聞の記者の体に触れるような仕草をしながら、「放射性物質をつけたぞ」という趣旨の発言をしたとされ、これらの問題発言が重なり、野田内閣には与野党から批判が噴出。鉢呂氏は野田佳彦首相に辞表を提出し、受理された。


 フリージャーナリストの田中龍作は、鉢呂が辞任に際して開いた記者会見に出席し、こう書いている

 「藪の中」とはこのことである。鉢呂吉雄経産相を辞任に追い込んだ「放射能すりつけてやる発言」。10日夕の緊急記者会見で鉢呂氏は「そんなことを発言したという確信を持っていない」と否定した。

 件の発言はオフレコ懇談会の中で出たものだ。鉢呂氏は「記者さんがたくさんいたものだから誰に言ったのかも覚えていない」とした上で「聞くのが専門の記者さんだから…」と皮肉を込めている。

 オフレコ懇は日本の記者クラブ特有のものだ。出席できるのは、クラブ詰の記者だけである。極端な話、記者全員が一致団結して大臣のコメントを捏造することさえ可能だ。本来オフレコのはずの、それも真偽の定かでない発言が表に出てきたのが不思議である。今回、経産省記者クラブが全社一致したのか。それを知ることはできないが、発言をめぐって鉢呂氏は「定かに記憶していない」としている。


 私はこれらを読んで、てっきり、オフレコの懇談会という場が設けられて、そこで鉢呂が件の発言をしたのだと思っていた。

 ところが、昨日の朝日新聞朝刊に掲載された鉢呂発言報道をめぐる検証記事を読んでみると、発言の経緯はこうなっている。

 鉢呂氏が問題の言動をしたのは、東京・赤坂にある衆院議員宿舎の玄関前であった記者団とのやりとりの中だった。東京電力の福島第一原発周辺の視察を終えた鉢呂氏は、8日午後11時20分ごろ、経産相の公用車で帰宅。公用車から降りるとオートロック式の宿舎玄関まで数メートル歩いた。玄関付近で待機していた記者団が一斉に追いかけると、エントランスで足を止めて振り返った。
 鉢呂氏は防災服のままで、隣には警護警察官(SP)と経産相秘書官が立っていた。ドアを背に振り向いた鉢呂氏を、経産省担当と見られる記者5、6人が半円形に取り囲んだ。朝日新聞とNHKは、現場に居合わせた政治担当記者が、後ろからやりとりに加わった。経産省担当記者らの所属する会社などは分からなかった。
 「視察はどうでしたか」。記者団が切り出すと、鉢呂氏は視察の模様を自らの感想を交えながら語った。途中で質問が途切れると、防災服の胸ポケットにしまっていた個人用線量計をのぞき、その日に測定された数値の一つを読み上げた。その直後、目の前にいた記者の1人に防災服の袖をこすりつけるようなしぐさをして、「放射能をつけちゃうぞ」と発言した。
 鉢呂氏の行為について、その場にいた記者は抗議や反応をしなかった。その後は除染対策をめぐる予算措置の話題に移り、やりとりは終了した。全体で5分程度だった。


 宿舎前での、立ったままでの取材の中での発言だったという。
 朝日が最初に報じた10日朝刊の記事を読み返してみた。たしかに、そうなっている。

 これは「オフレコ破り」なのだろうか。

 私はこうしたマスコミによる取材の現場は知らない。しかし、オフレコとは普通、オフレコであることを前提に取材の場を設けるとか、ここから先はオフレコだからと断って話をするといったものではないのだろうか。
 現に、ウィキペディアの「オフレコ」の項目には現在こうある。

成立条件
発言者が先にオフレコであることを宣言し、それに対してその場にいた取材者全員が了承した場合のみ成立する。すなわち、「契約成立後の発言内容について、口頭約定のみによって完成する秘密保持契約を締結」したものである。広義では発言者と取材者以外に居合わせた第三の当事者たちにも適用される場合もある。

種類
オフレコの程度は、取材時に記者と発言者の間の約束として取り決められる。日本では名前と発言内容の両方の公表を拒否する完全オフレコと、名前だけを隠して、発言内容は公表出来る匿名報道がある。


 今回のような、宿舎前での立ったままの発言も、オフレコなのだろうか。

 これについて佐藤優は、

通常、このような宿舎での「ぶら下がり」もオフレコと見なされる。オフレコ懇談は、録音もせず、メモもとらないという不文律があるが、実態は異なる。政治家が記者の身体検査をすることはないので、ICレコーダーを隠し持っている記者もいる。記憶力に自信がない記者がそうするのだ。また、重要な話がオフレコ懇談であった場合は、記者たちが集まって「メモ合わせ」をすることがある。今回に関しては、各報道で鉢呂氏の発言内容に関するブレがある。これは記者たちが「メモ合わせ」をしなかったからだ。


と書いているから、通常はオフレコ扱いなのかもしれない。
 しかしそれは単なる慣習でしかないのではないだろうか。
 現に朝日の検証記事で、渡辺勉・政治エディターは、

辞任会見で鉢呂氏が、議員宿舎での取材を「非公式の懇談」と語ったことについては「議員宿舎の玄関付近での取材は自由であり、扱いについて特段のルールはない」としている。


と、オフレコ性を否定している。

 そもそも、議員宿舎の玄関前などというオープンな場所での発言についてオフレコなどということが通用するのがおかしな話ではないだろうか。

 鉢呂発言が辞任に値するほど不適切とは私は思わないし、辞任の記者会見では記者側から問題発言もあったようだが、それらとは別の話として、今回の報道を「オフレコ破り」だと問題視する必要があるのか疑問である。

厳格な「お上」たれと説く朝日論説委員

2011-09-12 06:03:58 | マスコミ
 10日付け朝日新聞夕刊のコラム「窓 論説委員室から」。

お上の厳しさ

 森鴎外の短編小説の一つに「最後の一句」がある。
 大阪の船乗り業、桂屋太郎兵衛は、西町奉行から斬罪の裁きを受けた。人を殺したわけではないが、客から預かった米をいわば横領して金に換え着服した罪を問われた。
 これを聞いた太郎兵衛の長女、16歳のいちは「お父っさんを助けて、その代わりに私ども子どもを殺して下さい」という願い書を、西町奉行、佐佐又四郎に届けようとする。
 佐佐は、いちらに、願いを聞き届ければお前たちはすぐに殺される、父の顔も見ることも出来ないが、それでもよいか、と尋ねる。
 これに対し、いちは「よろしゅうございます」と述べ、少し間を置いて「お上の事には間違いはございますまいから」と言い足した。
 治められる側も、治める側も、裁きを含めた御政道とは、それほど厳格なもの、と言う暗黙の了解がないと成り立たないやりとりだ。
 無論、自らの判断、行動により厳しさを求められるのは為政者の側である。甘さ、間違いは許されない。
 それに比べて今の政治家諸君は、国民に甘いのか優しいのかどうか。例えば復興財源をめぐる負担増の議論がいまもってまとまらない。
 要は厳しい判断を避けているだけではないか。自らに優しいお上なら為政者とは呼べまい。
 〈駒野剛〉


 一読しただけでは何が言いたいのかわからなかった。

1.江戸時代には、治められる側にも治める側にも、御政道とは厳格なものであるという暗黙の了解があった。

2.しかるに今日は、復興財源をめぐる議論がまとまらないことに見られるように、政治家が国民に甘く優しいように見える。

3.だがそれは単に厳しい判断を避けているだけで、自らをも甘やかしているだけであり、為政者のとるべき態度ではない。

 こういう理解でいいのかな。

 しかし、御政道とは厳格なものであるという了解があったとして、それは「自らの判断、行動により厳しさを求められるのは為政者の側」などという考えに基づくものなのだろうか。
 単に、当時の権力は絶対的であり、その判断が間違っていようがいまいが、間違いはないという建前がまかり通っていたというだけではないのか。

 そして、「お上の事には間違はございますまいから」といういちの「最後の一句」は、文字どおりお上のすることには間違いはないはずだという絶大な信頼の下に発せられた言葉なのだろうか。
 違うだろう。
 これは、お上のすることに間違いはないとの当時の建前を逆手にとった、ある種の嫌味だろう。
 父を助命する代わりに5人の子を殺すなどという非道非理なことができるのならやってみるがいい、だがそれが間違いはないとされるお上のすることなのか、と。
 鴎外の文中にあるように「反抗の鋒(ほこさき)」であって、だからこそ佐々は城代らに「生先(おひさき)の恐ろしいものでござりますな」と漏らさずにはいられなかったのだろう。

 そして、翌日に予定されていた父の刑の執行は江戸へ伺い中として日延べされ、さらに大嘗會から日が経たないことを理由に死罪を赦免され、追放刑となった。「桂屋の家族は、再び西奉行所に呼び出されて、父に別を告げることが出來た。」

 斬罪とすべきという奉行所の判断が、一少女の「最後の一句」によって覆され、父親の命を救ったというストーリーである。

 だがそれでは、当初の斬罪という判断は間違っていたということになる。

 いちの願書がなければ、父親は斬罪とされていたのだろう。しかし、願書と「最後の一句」により、「お上」は再考し、追放にとどめた。
 追放で済ませることができたのなら、そもそも最初から斬罪にする必要はなかったと言える。
 つまり、「お上」とて「間違」うことはあるのである。
 それを改めさせた実例があったことを知らしめたいというのが、鴎外にこの短編を書かせた動機ではないのだろうか。

 そしてまた「お上」は、駒野流に言えば、「厳しい判断を避け」たのだとも言えよう。

 どうしてこのような短編が、治者にも被治者にも「御政道とは、それほど厳格なもの、と言う暗黙の了解」があり、政治家は自らに対しても国民に対しても厳格でなければならないなどという話の例証のように用いられなければならないのか、不可解である。

 そうした政治家観は、おそらくこの駒野剛論説委員の持論なのだろう。
 政治家たるもの、自らを厳しく律し、国民に対しても求めるべき負担は求めるなど、厳しく当たらなければならない。人気取りのための甘い言動や間違った判断は許されない――という具合に。

 しかし、そうした「治める側」と「治められる側」を峻別する思考法は、この大衆民主制の世にふさわしくないものではないだろうか。
 官僚が「お上」だと言うならまだわかる。しかし現代の政治家は「治められる側」を代表して「治める側」に一時的に就いているにすぎない。これを「お上」と見るのは筋違いではないか。
 江戸時代にはもちろん選挙もなければ議会もなく、マスコミもなかった。そんな時代の政治観を現代にそのまま持ち出して何をどうしたいのか。最後の一句程度の反抗しか許されない社会に戻したいのか。

 こういう人物が大新聞の論説委員としてのさばっている限り、わが国民が長年の「お上」意識から脱却するのは容易なことではないだろう。


(「最後の一句」からの引用は、青空文庫版による)


オオサンショウウオに交雑の恐れというが・・・(5)

2011-09-03 11:07:39 | 生物・生態系・自然・環境
 昔の記事にponさんという方からこんなコメントを頂いた。

初めまして。ブログ拝見させて頂きました。

私は京都の加茂川上流に住んでいて、近所の川でオオサンショウウオをよく見かけます。
交雑種は本来日本に「いるはずがない」ものです。中国と日本のオオサンショウウオは、気性や文化も全く違います。食べ物にどん欲な交雑種がいることによって、現に加茂川の鮎は急激に減っています。これは悪い影響ではないのでしょうか?


 レスを書こうとして少し調べていると、いろいろ思うことところがあったので新記事にする。

 ponさん、はじめまして。
 鮎が交雑種の食害にあっているとは初めて聞きました。
 交雑種についてのこれまでの新聞報道には、そんな話はなかったように思います。
 この問題の専門家であるらしい松井正文・京大教授の『外来生物クライシス』(小学館新書、2009)にもそんな話は出ていません。

 しかし、コメントいただいた記事に「現実論」さんもコメントで紹介しておられましたが、少し前にNHKで放送された「ちょっと変だぞ日本の自然 新型生物誕生SP」という番組では、この問題が取り上げられ、松井教授も出演されていたそうですね。 

 「老兵は黙って去りゆくのみ」というブログで、詳しい内容が紹介されていました。

 この方によると、こんなシーンがあったそうですね。

交雑種オオサンショウウオには日本のオオサンショウウオに見られない特徴がある。それはエサを与えたときの反応です。

交雑種オオサンショウウオの池に切り身のエサを放りこむ映像が出てきた。

ぞくぞくとエサに集まってきます。1分足らずで大混乱。エサに群がり、さらに噛みつき合いも始まりました。エサに興奮しているのです。

日本固有のオオサンショウウオの池に切り身のエサを放りこむ映像が出てきた。

何と、15分待ってもエサに変化はありません。それもそのはず日本のオオサンショウウオは獲物を待ち伏せして捕まえます。獲物を追いかけて捕まえることはほとんどありません。

人が外来種を持ち込んだゆえに生まれた新型オオサンショウウオ。日本固有のオオサンショウウオを始め、鴨川上流の生き物たちに大きな影響を与えているのです。


 なるほど確かに交雑種と日本固有種とでは餌のとり方や気性が違うようですね。

 ただ、これまでの新聞報道にはそんな話もなかったように思いますし、上記の松井教授の『外来生物クライシス』にもやはりありません。オオサンショウウオについて解説しているホームページをいくつか確認しましたが、見当たりません。
 本当に、そこまであからさまな差があるのでしょうか。

 例えば、交雑種にはしばらく餌をやらないで空腹にさせておき、固有種には餌をやったばかりの満腹の状態で、餌をやったとすれば、上記のような映像を撮ることは可能でしょう。
 また、交雑種は切り身の餌に慣らしておいて、固有種には生き餌ばかり与えていても、同様のことが可能です。
 あるいは、餌である魚の種類を、オオサンショウウオが好むものとそうでないものを使い分けることによっても。

 映像を全く見ないで言うのも何ですが、私はテレビというのはそういう仕掛け(彼らは「演出」と言う)を平気でやるメディアだと見ています。あるいはテレビは関知せずとも、撮影に協力した研究施設の方でそのような作為を加えることは可能でしょう。
 本当にそのような歴然とした差異があるのか、私はやや疑っています。

 「大山椒魚ウオッチング」というサイトによると、待ち伏せだけでなく餌を求めて歩き回ることもあるそうです。

羽束川での調査では、仕掛けておいたカニ籠に入っていました。このときの餌は、アジやイワシでしたから目の前に来たものだけでなく、餌を求めて歩き回っていることが分かります。ウナギの流し針仕掛けに食いついて発見されることも多いです。


 さて、交雑種により鮎が急速に減っているとのことですが、鮎が減少して餌を得ることができなくなれば、オオサンショウウオもまた減るのではないでしょうか。
 そのようにして様々な生物が増えたり減ったりして、生態系のバランスが保たれるのではないでしょうか。

 また、上記の「老兵は……」さんの記事によると、NHKの番組では、京都府賀茂川漁業協同組合が毎年鮎の放流を行なっているが、最近鮎を放流しても上流ではいつのまにかほとんどが消えてしまうと紹介されていたようです。

 わざわざ餌となる鮎を放流すれば、それを捕食する動物が増加するのは当然のことでしょう。
 それでは生業が成り立たない、放流はしたいが捕食されるのは困るというのであれば、交雑種のオオサンショウウオに限っては保護動物ではなく害獣であると公的に指定してもらって、駆除するしかないでしょう。

 しかし、チュウゴクオオサンショウウオもまた国際的な保護動物ですから、それと固有種との交雑種を害獣指定するのは容易なことではないでしょう。
 仮に指定し得たとしても、固有種は保護動物のままなら、一体一体DNA鑑定する必要があるということになり、たいへんなコストがかかります。
 そんな作業に予算を付けることに、国民は納得するでしょうか。

 おまけに、この放流されている鮎は、賀茂川産ではないようです。
 ウィキペディアの「鴨川(淀川水系)」の項目には、現在次のような記述があります。

天然アユは戦前まで遡上していたが、1935年に発生した2度の水害対策で川底の掘り下げと多数の堰の設置で、鮎の遡上が妨げられた。そのため現在は賀茂川漁協が琵琶湖産の鮎を放流している。


 つまり、あなたの言う交雑種同様、放流されている鮎も本来賀茂川に「いるはずがない」ものなのです。

 もちろん、鮎で生計を立てている人がいる以上、その食害は問題です。
 しかし、鮎は水産資源であるから他の地域産のものであっても放流してもかまわないが、オオサンショウウオは外来種も交雑種もその存在を許さないというのは、何だかおかしな話だと思います。

 それに、この交雑種による食害は、それほど重大な問題なのでしょうか。
 もしそうなら、交雑問題自体よりももっと伝えられていてもいいはずですが、私は聞いたことがありません。
 地元紙である京都新聞のサイトで検索しましたが、見当たりません。
 賀茂川漁協のサイトも見てみましたが、やはり見当たりません。
 「漁協の取り組み」という項目で、川鵜対策は挙げられています。

賀茂川には色々な鳥が行き来しています。中でも川鵜という鳥から鮎の稚魚を守るために4月頃から鮎の稚魚を放流しますが、成長するまでは川鵜に食べられないように川にロープを張り、対策しています。


 トップページの「川日記」で、NHKの番組については触れられていますが、

11/8/12(金) 先日TVで賀茂川出てましたね!日本の生態系が変?みたいな番組でした(^_^;)熊田曜子が出てたやつです。
賀茂川のオオサンショウウオのほとんどが中国産と混ざっていると言う話でした!!
純国産と違って獰猛で、放流した鮎や他の魚を食べ尽くす(-.-;)その上人まで噛まれる事もあります!!
川遊び中にオオサンショウウオを発見しても絶対に顔付近には手を近づけ無い様に気をつけてください(^_^;)


番組の内容をなぞっただけで、どうも深刻さに欠けるような。

 交雑種を問題視したい研究者とセンセーショナルな番組を作りたいNHKがタッグを組んで、問題を大げさに吹聴しているのではないかという気が私にはします。