(承前)
先日の、共産党は破防法の調査対象であると述べた政府の答弁書を批判したしんぶん赤旗の記事「「議会の多数を得ての革命」の路線は明瞭/政府の「暴力革命」答弁書は悪質なデマ 」にはこうあった(太字は引用者による。以下同じ)。
では、綱領を真面目に読んでみるとしよう。
前回も述べたとおり、宮本顕治書記長の下、1961年の第8回党大会で、綱領草案が満場一致で決定された。ここではこれを仮に61年綱領と呼ぶが、この路線が基本的には現在まで続いている。ただ、社会情勢の変化に応じて何度か改定されており、現在の綱領は2004年の第23回党大会で改定されたものである。これを以下現綱領と呼ぶ。
現綱領では、「社会変革」はどのように進めるとされているだろうか。
いわゆる二段階革命論である。
マルクス=レーニン主義では、絶対王政をブルジョア民主主義革命が打倒してブルジョア階級を支配階級とする資本主義体制が打ち立てられ、さらに労働者階級(プロレタリア)がこれをプロレタリア社会主義革命によって打倒して社会主義体制をうち立てるとされた。
1920年代から30年代にかけて、わが国のマルクス主義者の間で、わが国の現状規定と目指すべき革命の在り方をめぐって、日本資本主義論争と呼ばれる論争があった。天皇制を絶対王政とみなして、これを打倒するブルジョア民主主義革命がまず必要だとする立場が二段階革命論、天皇制の下でも既にわが国は資本主義体制であり、必要なのは社会主義革命であるとするのが一段階革命論である。前者はコミンテルンから指令された日本共産党の理論でもあり、後者は山川均、荒畑寒村、猪俣津南雄ら、初期の日本共産党には参加したが後に袂を分かったマルクス主義者が提唱し、戦後に社会党左派に継承された。
それから90年ほど経ち、わが国がいわゆる先進国入りして半世紀が経つというのに、未だに二段階革命論を後生大事に抱え込んでいる。
「国会を名実ともに最高機関とする」と聞いて私が連想するのは、かつてのソ連のソビエト制度である。
ソビエトとは会議の意味であり、ソ連では市や村から州、地方、共和国にそれぞれソビエトが設けられ、トップに連邦の最高ソビエトがあったが、これは西側諸国のような単なる議会ではなく、全ての権力がソビエトに集中するとされた。最高ソビエトは閣僚会議(内閣)メンバーを選出し、また最高裁判所の長官や裁判官を選出した。最高ソビエトは年に2回、二三日しか開かれないため、常設の最高ソビエト幹部会が事実上の最高機関であり、その幹部会議長が対外的には国家元首として扱われた。
しかし、真の権力は共産党にあり、ソビエトは共産党の決定を追認する形式的な存在でしかなかった。
現在の中国でも全国人民代表大会が、北朝鮮でも最高人民会議が、それぞれ憲法で最高機関とされている。これらもまた最高ソビエトと同様の存在であることは言うまでもない。
複数政党制を認めるとあるが、中国や北朝鮮でも複数政党は認められている。ただ、共産党(北朝鮮では労働党)の指導の下では、何ら実質的には政治に関与することができないだけである。
政権交代制も当然堅持するとしているが、制度として存在することと実質的に機能することとは異なる。中国や北朝鮮のように、政権党以外の政党が選挙で多数を占めることが実情として有り得ない場合でも、制度としては政権交代が可能とされているということにはならないか。
「日本共産党は、国民的な共同と団結をめざすこの運動で、先頭にたって推進する役割を果たさなければならない」
これは、いわゆる革命の前衛ということである。平易な言葉に書き直しているが、実質的な意味は変わっていない。
「日本共産党と統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占めるならば、統一戦線の政府・民主連合政府をつくることができる。日本共産党は、「国民が主人公」を一貫した信条として活動してきた政党として、国会の多数の支持を得て民主連合政府をつくるために奮闘する。」
なるほど議会主義を主張している。
国会で安定した過半数を占める「ならば」、確かに民主連合政府をつくることができるだろう。
しかし、この道しかないとは言っていない。あくまで、こういう手段もあるという主張である。
その前には「国会外の運動と結びついてたたかうこと」も「重要」だとしている。
「国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占め」られないときはどうするのか、何も語っていない。常に国会で安定した過半数を占めるよう努力するとは言わない。
何故なら、前回の記事でも述べたように、「敵の出方論」とは、そもそも自らの手をしばる必要はないという主張だからだ。
暴力の行使も含めた、フリーハンドを保持しておくべきだということだからだ。
そして、現綱領は
「このたたかいは、政府の樹立をもって終わるものではない」
とし、
「統一戦線の政府が国の機構の全体を名実ともに掌握し、行政の諸機構が新しい国民的な諸政策の担い手となることが、重要な意義をもってくる」
としている。
これはつまり、行政の諸機構の革命化を指しているのではないだろうか。
その時その時の政府に行政機構が従うのではなく、行政機構自体が共産党の意向に従ったものに作り変えられるということではないだろうか。
「日本共産党と統一戦線」の勢力が、「国会で安定した過半数を占め」れば、民主連合政府が成立するのだろう。
しかし、その勢力が国会で過半数を失い、他の勢力が過半数を占めた場合、「日本共産党と統一戦線」はおとなしく政権を譲り渡すのだろうか。綱領には何も記されていない。
先に、複数政党制や政権交代制は当然堅持するとしている箇所を挙げたが、これは「現在、日本社会が必要とする民主的改革の主要な内容」の一つにすぎない。
「統一戦線の政府が国の機構の全体を名実ともに掌握し、行政の諸機構が新しい国民的な諸政策の担い手とな」ってからも、こんにちのような複数政党制や政権交代制が堅持されるのか、私には非常に疑問だ。
中国や北朝鮮にも複数の政党があり、国民の圧倒的多数の「支持」により現政権が維持されていることを思い起こしていただきたい。
なお、61年綱領では、統一戦線の政府について次のように書かれている。
こちらが彼らの本音なのではないだろうか。
そして、民主主義革命に続く社会主義革命について、現綱領は次のように述べている。
「生産手段の社会化」によって様々な問題が解決され、人間社会は新たな段階に発展するらしい。まるで魔法のステッキのようだ。
ではその「生産手段の社会化」とは具体的に何を指すのか。旧ソ連や現北朝鮮の国営企業や協同農場とどう違うのか。現綱領ではまるで明らかではない。
61年綱領を見てみると、社会主義社会は次のように描かれている。
・プロレタリアート独裁の確立
・生産手段の社会化
・社会主義的な計画経済
こそが社会主義であるとしている。ソ連が宇宙開発競争で米国に先行し、まだ社会主義体制の優位性にそれほど疑問が持たれていなかった1961年という時代を考えれば、当然の規定だろう。
しかしその後、プロレタリアート独裁とはただの共産党幹部による独裁であり、計画経済も市場経済に劣ることが広く明らかになったため、これらを目指すとはさすがに言えなくなった。
そこで、「生産手段の社会化」だけが残ったということではないのか。
「生産者を抑圧する官僚専制の体制をつくりあげた旧ソ連の誤りは、絶対に再現させてはならない」と言うが、再現させないためにはどうするのか。
それなしに、単に再現させてはならないとだけ語ったところで、何の保証になるだろうか。
武装闘争路線を放棄すると言わずに、六全協で「極左冒険主義」と手を切ると宣言したから解決済みだとする姿勢と同じである。
「市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である」とも言うが、中国が社会主義的市場経済と言いだしてから20年以上経ち、その間の経済成長には著しいものがあったが、かの国で社会主義的改革が推進されていると日本共産党は見るのだろうか。
それから、
「日本共産党は、社会主義への前進の方向を支持するすべての党派や人びとと協力する統一戦線政策を堅持し、勤労市民、農漁民、中小企業家にたいしては、その利益を尊重しつつ、社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進むよう努力する」
とあるが、「努力する」とはどういう言い草だろうか。何故「社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進む」と明言しないのか。
それは、「努力」したけれども「社会の多数の人びとの納得と支持」が得られなかった場合、それらを欠いての「社会主義的改革の道を進む」ことが有り得るからではないか。
何とも不気味な文章である。
なお、冒頭で引用したしんぶん赤旗の記事は、この箇所を
「さらに将来の社会主義的変革についても、「国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力」をつくるのをはじめ、「社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進む」ことを明らかにしています。」
と「よう努力する」をカットして引用している。
まあ、共産党のやることなんて、こんなもんですよ。
ちなみにこの箇所は、61年綱領では次のようになっている。
元々は「納得」は「勤労農民および都市勤労市民、中小企業家」に要求されるものだった。それが「社会の多数の人びとの納得と支持」に変えられたのは、おそらくは共産党が一方的に「納得」を強いるのではないと強調したかったのだろうが、かえって恐ろしい表現になっている。
さて、現綱領は
「社会主義的変革は、短期間に一挙におこなわれるものではなく、国民の合意のもと、一歩一歩の段階的な前進を必要とする長期の過程」
と言うが、
「その出発点となるのは、社会主義・共産主義への前進を支持する国民多数の合意の形成であり、国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力がつくられることである。そのすべての段階で、国民の合意が前提となる」
とあるから、「国会の安定した過半数」は「出発点」でしかない。
そしてまた「社会主義・共産主義への前進を支持する国民多数の合意の形成」とあるから、読みようによっては、社会主義・共産主義への前進を支持しない国民を排除した上で、支持する国民を多数派として合意を形成するとも読める。
その後も社会主義的変革の「すべての段階で、国民の合意が前提となる」と言うが、それが国会の過半数を意味するのかどうかは明確でない。議会制度を維持するのかどうかすらわからない。暴力革命であってもそれが「国民の合意」であればかまわないということではないか。
また、仮に国会の過半数であれば民主的なのだろうか。
かつてのソ連の最高ソビエト、現在の中国の全人代や北朝鮮の最高人民会議でも、さまざまな事柄が当然過半数の賛成で決定された。
統一戦線下の国会の過半数が、今の過半数と同じものである保証はどこにもない。
行政機構を「新しい国民的な諸政策の担い手」として変革するのであるから、それが反対派の国民への弾圧の道具として用いられることはないのか。
本記事の冒頭で引用したしんぷん赤旗の記事には、
とあったが、確かに現綱領には
「国会の多数の支持を得て民主連合政府をつくるために奮闘する」
とはあるが、それのみが民主主義革命の方策であるとは述べていない、つまり暴力革命を否定していないし、将来の社会主義的変革についても、
「国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力」
をつくるとはあるが、それは「出発点」であって、その後の変革については
「社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進む」
とあるだけで、国会はどうなるのか、「納得と支持」とは実際の共産党政権の国々とどう異なるのか、全く明らかでない。
したがって、
「「議会の多数を得て社会変革を進める」――これが日本共産党の一貫した方針であり、「暴力革命」など縁もゆかりもない」
とはまるで言えないだろう。
また、同じしんぶん赤旗の記事には、
ともあったが、61年綱領を見てみると、「国会」が出てくるのは次の5箇所で、
現綱領と同様、「国会で安定した過半数をしめることができるならば、……革命の条件をさらに有利にすることができる」
というだけで、
「どのような変革も、「国会で安定した過半数」を得て実現することをめざす」
なんて全く言っていない。
いったい、「悪質なデマ」を飛ばしているのは誰なのだろうか。
しんぶん赤旗の記事は
と述べていたが、綱領を真面目に読んでみて、「議会の多数を得て社会変革を進める」が日本共産党の一貫した方針とはとても思えないし、「暴力革命」を未だ否定していないのは「あまりに明瞭なこと」だとよくわかった。
(続く)
先日の、共産党は破防法の調査対象であると述べた政府の答弁書を批判したしんぶん赤旗の記事「「議会の多数を得ての革命」の路線は明瞭/政府の「暴力革命」答弁書は悪質なデマ 」にはこうあった(太字は引用者による。以下同じ)。
日本共産党の綱領には、「『国民が主人公』を一貫した信条として活動してきた政党として、国会の多数の支持を得て民主連合政府をつくるために奮闘する」こと、さらに将来の社会主義的変革についても、「国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力」をつくるのをはじめ、「社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進む」ことを明らかにしています。
「議会の多数を得て社会変革を進める」――これが日本共産党の一貫した方針であり、「暴力革命」など縁もゆかりもないことは、わが党の綱領や方針をまじめに読めばあまりに明瞭なことです。
〔中略〕
日本共産党が綱領路線を確立した1961年の第8回党大会では、日本の社会と政治のどのような変革も、「国会で安定した過半数」を得て実現することをめざすことを綱領上も明確にしました。これは外国の干渉者たちが押しつけてきた武装闘争方針を排除したことを綱領上はっきり表明したものでした。
では、綱領を真面目に読んでみるとしよう。
前回も述べたとおり、宮本顕治書記長の下、1961年の第8回党大会で、綱領草案が満場一致で決定された。ここではこれを仮に61年綱領と呼ぶが、この路線が基本的には現在まで続いている。ただ、社会情勢の変化に応じて何度か改定されており、現在の綱領は2004年の第23回党大会で改定されたものである。これを以下現綱領と呼ぶ。
現綱領では、「社会変革」はどのように進めるとされているだろうか。
四、民主主義革命と民主連合政府
(一一)現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破―日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革の実現を内容とする民主主義革命である。それらは、資本主義の枠内で可能な民主的改革であるが、日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力から、日本国民の利益を代表する勢力の手に国の権力を移すことによってこそ、その本格的な実現に進むことができる。この民主的改革を達成することは、当面する国民的な苦難を解決し、国民大多数の根本的な利益にこたえる独立・民主・平和の日本に道を開くものである。
いわゆる二段階革命論である。
マルクス=レーニン主義では、絶対王政をブルジョア民主主義革命が打倒してブルジョア階級を支配階級とする資本主義体制が打ち立てられ、さらに労働者階級(プロレタリア)がこれをプロレタリア社会主義革命によって打倒して社会主義体制をうち立てるとされた。
1920年代から30年代にかけて、わが国のマルクス主義者の間で、わが国の現状規定と目指すべき革命の在り方をめぐって、日本資本主義論争と呼ばれる論争があった。天皇制を絶対王政とみなして、これを打倒するブルジョア民主主義革命がまず必要だとする立場が二段階革命論、天皇制の下でも既にわが国は資本主義体制であり、必要なのは社会主義革命であるとするのが一段階革命論である。前者はコミンテルンから指令された日本共産党の理論でもあり、後者は山川均、荒畑寒村、猪俣津南雄ら、初期の日本共産党には参加したが後に袂を分かったマルクス主義者が提唱し、戦後に社会党左派に継承された。
それから90年ほど経ち、わが国がいわゆる先進国入りして半世紀が経つというのに、未だに二段階革命論を後生大事に抱え込んでいる。
(一二)現在、日本社会が必要とする民主的改革の主要な内容は、次のとおりである。
〔中略〕
〔憲法と民主主義の分野で〕
1 現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす。
2 国会を名実ともに最高機関とする議会制民主主義の体制、反対党を含む複数政党制、選挙で多数を得た政党または政党連合が政権を担当する政権交代制は、当然堅持する。
「国会を名実ともに最高機関とする」と聞いて私が連想するのは、かつてのソ連のソビエト制度である。
ソビエトとは会議の意味であり、ソ連では市や村から州、地方、共和国にそれぞれソビエトが設けられ、トップに連邦の最高ソビエトがあったが、これは西側諸国のような単なる議会ではなく、全ての権力がソビエトに集中するとされた。最高ソビエトは閣僚会議(内閣)メンバーを選出し、また最高裁判所の長官や裁判官を選出した。最高ソビエトは年に2回、二三日しか開かれないため、常設の最高ソビエト幹部会が事実上の最高機関であり、その幹部会議長が対外的には国家元首として扱われた。
しかし、真の権力は共産党にあり、ソビエトは共産党の決定を追認する形式的な存在でしかなかった。
現在の中国でも全国人民代表大会が、北朝鮮でも最高人民会議が、それぞれ憲法で最高機関とされている。これらもまた最高ソビエトと同様の存在であることは言うまでもない。
複数政党制を認めるとあるが、中国や北朝鮮でも複数政党は認められている。ただ、共産党(北朝鮮では労働党)の指導の下では、何ら実質的には政治に関与することができないだけである。
政権交代制も当然堅持するとしているが、制度として存在することと実質的に機能することとは異なる。中国や北朝鮮のように、政権党以外の政党が選挙で多数を占めることが実情として有り得ない場合でも、制度としては政権交代が可能とされているということにはならないか。
(一三)民主主義的な変革は、労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生など、独立、民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人びとを結集した統一戦線によって、実現される。統一戦線は、反動的党派とたたかいながら、民主的党派、各分野の諸団体、民主的な人びととの共同と団結をかためることによってつくりあげられ、成長・発展する。当面のさしせまった任務にもとづく共同と団結は、世界観や歴史観、宗教的信条の違いをこえて、推進されなければならない。
日本共産党は、国民的な共同と団結をめざすこの運動で、先頭にたって推進する役割を果たさなければならない。日本共産党が、高い政治的、理論的な力量と、労働者をはじめ国民諸階層と広く深く結びついた強大な組織力をもって発展することは、統一戦線の発展のための決定的な条件となる。
日本共産党と統一戦線の勢力が、積極的に国会の議席を占め、国会外の運動と結びついてたたかうことは、国民の要求の実現にとっても、また変革の事業の前進にとっても、重要である。
日本共産党と統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占めるならば、統一戦線の政府・民主連合政府をつくることができる。日本共産党は、「国民が主人公」を一貫した信条として活動してきた政党として、国会の多数の支持を得て民主連合政府をつくるために奮闘する。
統一戦線の発展の過程では、民主的改革の内容の主要点のすべてではないが、いくつかの目標では一致し、その一致点にもとづく統一戦線の条件が生まれるという場合も起こりうる。党は、その場合でも、その共同が国民の利益にこたえ、現在の反動支配を打破してゆくのに役立つかぎり、さしあたって一致できる目標の範囲で統一戦線を形成し、統一戦線の政府をつくるために力をつくす。
また、全国各地で革新・民主の自治体を確立することは、その地方・地域の住民の要求実現の柱となると同時に、国政における民主的革新的な流れを前進させるうえでも、重要な力となる。
民主連合政府の樹立は、国民多数の支持にもとづき、独占資本主義と対米従属の体制を代表する支配勢力の妨害や抵抗を打ち破るたたかいを通じて達成できる。対日支配の存続に固執するアメリカの支配勢力の妨害の動きも、もちろん、軽視することはできない。
このたたかいは、政府の樹立をもって終わるものではない。引き続く前進のなかで、民主勢力の統一と国民的なたたかいを基礎に、統一戦線の政府が国の機構の全体を名実ともに掌握し、行政の諸機構が新しい国民的な諸政策の担い手となることが、重要な意義をもってくる。
民主連合政府は、労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生など国民諸階層・諸団体の民主連合に基盤をおき、日本の真の独立の回復と民主主義的変革を実行することによって、日本の新しい進路を開く任務をもった政権である。
「日本共産党は、国民的な共同と団結をめざすこの運動で、先頭にたって推進する役割を果たさなければならない」
これは、いわゆる革命の前衛ということである。平易な言葉に書き直しているが、実質的な意味は変わっていない。
「日本共産党と統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占めるならば、統一戦線の政府・民主連合政府をつくることができる。日本共産党は、「国民が主人公」を一貫した信条として活動してきた政党として、国会の多数の支持を得て民主連合政府をつくるために奮闘する。」
なるほど議会主義を主張している。
国会で安定した過半数を占める「ならば」、確かに民主連合政府をつくることができるだろう。
しかし、この道しかないとは言っていない。あくまで、こういう手段もあるという主張である。
その前には「国会外の運動と結びついてたたかうこと」も「重要」だとしている。
「国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占め」られないときはどうするのか、何も語っていない。常に国会で安定した過半数を占めるよう努力するとは言わない。
何故なら、前回の記事でも述べたように、「敵の出方論」とは、そもそも自らの手をしばる必要はないという主張だからだ。
暴力の行使も含めた、フリーハンドを保持しておくべきだということだからだ。
そして、現綱領は
「このたたかいは、政府の樹立をもって終わるものではない」
とし、
「統一戦線の政府が国の機構の全体を名実ともに掌握し、行政の諸機構が新しい国民的な諸政策の担い手となることが、重要な意義をもってくる」
としている。
これはつまり、行政の諸機構の革命化を指しているのではないだろうか。
その時その時の政府に行政機構が従うのではなく、行政機構自体が共産党の意向に従ったものに作り変えられるということではないだろうか。
「日本共産党と統一戦線」の勢力が、「国会で安定した過半数を占め」れば、民主連合政府が成立するのだろう。
しかし、その勢力が国会で過半数を失い、他の勢力が過半数を占めた場合、「日本共産党と統一戦線」はおとなしく政権を譲り渡すのだろうか。綱領には何も記されていない。
先に、複数政党制や政権交代制は当然堅持するとしている箇所を挙げたが、これは「現在、日本社会が必要とする民主的改革の主要な内容」の一つにすぎない。
「統一戦線の政府が国の機構の全体を名実ともに掌握し、行政の諸機構が新しい国民的な諸政策の担い手とな」ってからも、こんにちのような複数政党制や政権交代制が堅持されるのか、私には非常に疑問だ。
中国や北朝鮮にも複数の政党があり、国民の圧倒的多数の「支持」により現政権が維持されていることを思い起こしていただきたい。
なお、61年綱領では、統一戦線の政府について次のように書かれている。
党と労働者階級の指導的役割が十分に発揮されて、アメリカ帝国主義と日本独占資本に反対する強大な民族民主統一戦線が発展し、反民族的・反人民的勢力を敗北させるならば、そのうえにたつ民族民主統一戦線政府は革命の政府となり、わが国の独占貿本を中心とする売国的反動支配をたおし、わが国からアメリカ帝国主義をおいはらって、主権を回復し人民の手に権力をにぎることができる。労働者、農民を中心とする人民の民主連合独裁の性格をもつこの権力は、世界の平和、民主主義、社会主義の勢力と連帯して独立と民主主義の任務をなしとげ、独占資本の政治的経済的支配の復活を阻止し、君主制を廃止し、反動的国家機構を根本的に変革して人民共和国をつくり、名実ともに国会を国の最高機関とする人民の民主主義国家体制を確立する。
独立・民主・平和日本の建設によって、日本人民の歴史は根本的に転換する。日本人民は、アメリカ帝国主義と日本独占資本の抑圧、戦争政策、収奪から解放され、はじめて国の主人となる。あたらしい人民の民主主義とその制度は、労働者階級をはじめ農民、一般勤労者、祖国の自主的発展と平和、人民の自由をねがうすべての人びとが、国の政治に積極的に参加する道を保障する。民族の威信と自由は回復され、日本は侵略戦争の温床であることをやめ、アジアと世界の平和の強固ないしずえの一つとなる。日本の経済と文化は、各国との平等・互恵の交流をつうじて繁栄し、人民の生活は向上する。
独占資本主義の段階にあるわが国の当面の革命はそれ自体社会主義的変革への移行の基礎をきりひらく任務をもつものであり、それは、資本主義制度の全体的な廃止をめざす社会主義的変革に急速にひきつづき発展させなくてはならない。すなわちそれは、独立と民主主義の任務を中心とする革命から連続的に社会主義革命に発展する必然性をもっている。
こちらが彼らの本音なのではないだろうか。
そして、民主主義革命に続く社会主義革命について、現綱領は次のように述べている。
五、社会主義・共産主義の社会をめざして
(一五)日本の社会発展の次の段階では、資本主義を乗り越え、社会主義・共産主義の社会への前進をはかる社会主義的変革が、課題となる。これまでの世界では、資本主義時代の高度な経済的・社会的な達成を踏まえて、社会主義的変革に本格的に取り組んだ経験はなかった。発達した資本主義の国での社会主義・共産主義への前進をめざす取り組みは、二一世紀の新しい世界史的な課題である。
社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である。社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される。
生産手段の社会化は、人間による人間の搾取を廃止し、すべての人間の生活を向上させ、社会から貧困をなくすとともに、労働時間の抜本的な短縮を可能にし、社会のすべての構成員の人間的発達を保障する土台をつくりだす。
生産手段の社会化は、生産と経済の推進力を資本の利潤追求から社会および社会の構成員の物質的精神的な生活の発展に移し、経済の計画的な運営によって、くりかえしの不況を取り除き、環境破壊や社会的格差の拡大などへの有効な規制を可能にする。
生産手段の社会化は、経済を利潤第一主義の狭い枠組から解放することによって、人間社会を支える物質的生産力の新たな飛躍的な発展の条件をつくりだす。
社会主義・共産主義の日本では、民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展させられる。「搾取の自由」は制限され、改革の前進のなかで廃止をめざす。搾取の廃止によって、人間が、ほんとうの意味で、社会の主人公となる道が開かれ、「国民が主人公」という民主主義の理念は、政治・経済・文化・社会の全体にわたって、社会的な現実となる。
さまざまな思想・信条の自由、反対政党を含む政治活動の自由は厳格に保障される。「社会主義」の名のもとに、特定の政党に「指導」政党としての特権を与えたり、特定の世界観を「国定の哲学」と意義づけたりすることは、日本における社会主義の道とは無縁であり、きびしくしりぞけられる。
社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる。
人類は、こうして、本当の意味で人間的な生存と生活の諸条件をかちとり、人類史の新しい発展段階に足を踏み出すことになる。
「生産手段の社会化」によって様々な問題が解決され、人間社会は新たな段階に発展するらしい。まるで魔法のステッキのようだ。
ではその「生産手段の社会化」とは具体的に何を指すのか。旧ソ連や現北朝鮮の国営企業や協同農場とどう違うのか。現綱領ではまるで明らかではない。
61年綱領を見てみると、社会主義社会は次のように描かれている。
日本人民の真の自由と幸福は、社会主義の建設をつうじてのみ実現される。資本主義制度にもとづくいっさいの搾取からの解放、まずしさからの最後的な解放を保障するものは、労働者階級の権力、すなわちプロレタリアート独裁の確立、生産手段の社会化、生産力のゆたかな発展をもたらす社会主義的な計画経済である。党は、社会主義建設の方向を支持するすべての党派や人びとと協力し、勤労農民および都市勤労市民、中小企業家にたいしては、その利益を尊重しつつ納得をつうじ、かれらを社会主義社会へみちびくように努力する。
・プロレタリアート独裁の確立
・生産手段の社会化
・社会主義的な計画経済
こそが社会主義であるとしている。ソ連が宇宙開発競争で米国に先行し、まだ社会主義体制の優位性にそれほど疑問が持たれていなかった1961年という時代を考えれば、当然の規定だろう。
しかしその後、プロレタリアート独裁とはただの共産党幹部による独裁であり、計画経済も市場経済に劣ることが広く明らかになったため、これらを目指すとはさすがに言えなくなった。
そこで、「生産手段の社会化」だけが残ったということではないのか。
(一六)社会主義的変革は、短期間に一挙におこなわれるものではなく、国民の合意のもと、一歩一歩の段階的な前進を必要とする長期の過程である。
その出発点となるのは、社会主義・共産主義への前進を支持する国民多数の合意の形成であり、国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力がつくられることである。そのすべての段階で、国民の合意が前提となる。
日本共産党は、社会主義への前進の方向を支持するすべての党派や人びとと協力する統一戦線政策を堅持し、勤労市民、農漁民、中小企業家にたいしては、その利益を尊重しつつ、社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進むよう努力する。
日本における社会主義への道は、多くの新しい諸問題を、日本国民の英知と創意によって解決しながら進む新たな挑戦と開拓の過程となる。日本共産党は、そのなかで、次の諸点にとくに注意を向け、その立場をまもりぬく。
(1)生産手段の社会化は、その所有・管理・運営が、情勢と条件に応じて多様な形態をとりうるものであり、日本社会にふさわしい独自の形態の探究が重要であるが、生産者が主役という社会主義の原則を踏みはずしてはならない。「国有化」や「集団化」の看板で、生産者を抑圧する官僚専制の体制をつくりあげた旧ソ連の誤りは、絶対に再現させてはならない。
(2)市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である。社会主義的改革の推進にあたっては、計画性と市場経済とを結合させた弾力的で効率的な経済運営、農漁業・中小商工業など私的な発意の尊重などの努力と探究が重要である。国民の消費生活を統制したり画一化したりするいわゆる「統制経済」は、社会主義・共産主義の日本の経済生活では全面的に否定される。
「生産者を抑圧する官僚専制の体制をつくりあげた旧ソ連の誤りは、絶対に再現させてはならない」と言うが、再現させないためにはどうするのか。
それなしに、単に再現させてはならないとだけ語ったところで、何の保証になるだろうか。
武装闘争路線を放棄すると言わずに、六全協で「極左冒険主義」と手を切ると宣言したから解決済みだとする姿勢と同じである。
「市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である」とも言うが、中国が社会主義的市場経済と言いだしてから20年以上経ち、その間の経済成長には著しいものがあったが、かの国で社会主義的改革が推進されていると日本共産党は見るのだろうか。
それから、
「日本共産党は、社会主義への前進の方向を支持するすべての党派や人びとと協力する統一戦線政策を堅持し、勤労市民、農漁民、中小企業家にたいしては、その利益を尊重しつつ、社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進むよう努力する」
とあるが、「努力する」とはどういう言い草だろうか。何故「社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進む」と明言しないのか。
それは、「努力」したけれども「社会の多数の人びとの納得と支持」が得られなかった場合、それらを欠いての「社会主義的改革の道を進む」ことが有り得るからではないか。
何とも不気味な文章である。
なお、冒頭で引用したしんぶん赤旗の記事は、この箇所を
「さらに将来の社会主義的変革についても、「国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力」をつくるのをはじめ、「社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進む」ことを明らかにしています。」
と「よう努力する」をカットして引用している。
まあ、共産党のやることなんて、こんなもんですよ。
ちなみにこの箇所は、61年綱領では次のようになっている。
党は、社会主義建設の方向を支持するすべての党派や人びとと協力し、勤労農民および都市勤労市民、中小企業家にたいしては、その利益を尊重しつつ納得をつうじ、かれらを社会主義社会へみちびくように努力する。
元々は「納得」は「勤労農民および都市勤労市民、中小企業家」に要求されるものだった。それが「社会の多数の人びとの納得と支持」に変えられたのは、おそらくは共産党が一方的に「納得」を強いるのではないと強調したかったのだろうが、かえって恐ろしい表現になっている。
さて、現綱領は
「社会主義的変革は、短期間に一挙におこなわれるものではなく、国民の合意のもと、一歩一歩の段階的な前進を必要とする長期の過程」
と言うが、
「その出発点となるのは、社会主義・共産主義への前進を支持する国民多数の合意の形成であり、国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力がつくられることである。そのすべての段階で、国民の合意が前提となる」
とあるから、「国会の安定した過半数」は「出発点」でしかない。
そしてまた「社会主義・共産主義への前進を支持する国民多数の合意の形成」とあるから、読みようによっては、社会主義・共産主義への前進を支持しない国民を排除した上で、支持する国民を多数派として合意を形成するとも読める。
その後も社会主義的変革の「すべての段階で、国民の合意が前提となる」と言うが、それが国会の過半数を意味するのかどうかは明確でない。議会制度を維持するのかどうかすらわからない。暴力革命であってもそれが「国民の合意」であればかまわないということではないか。
また、仮に国会の過半数であれば民主的なのだろうか。
かつてのソ連の最高ソビエト、現在の中国の全人代や北朝鮮の最高人民会議でも、さまざまな事柄が当然過半数の賛成で決定された。
統一戦線下の国会の過半数が、今の過半数と同じものである保証はどこにもない。
行政機構を「新しい国民的な諸政策の担い手」として変革するのであるから、それが反対派の国民への弾圧の道具として用いられることはないのか。
本記事の冒頭で引用したしんぷん赤旗の記事には、
日本共産党の綱領には、「『国民が主人公』を一貫した信条として活動してきた政党として、国会の多数の支持を得て民主連合政府をつくるために奮闘する」こと、さらに将来の社会主義的変革についても、「国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力」をつくるのをはじめ、「社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進む」ことを明らかにしています。
「議会の多数を得て社会変革を進める」――これが日本共産党の一貫した方針であり、「暴力革命」など縁もゆかりもないことは、わが党の綱領や方針をまじめに読めばあまりに明瞭なことです。
とあったが、確かに現綱領には
「国会の多数の支持を得て民主連合政府をつくるために奮闘する」
とはあるが、それのみが民主主義革命の方策であるとは述べていない、つまり暴力革命を否定していないし、将来の社会主義的変革についても、
「国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力」
をつくるとはあるが、それは「出発点」であって、その後の変革については
「社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進む」
とあるだけで、国会はどうなるのか、「納得と支持」とは実際の共産党政権の国々とどう異なるのか、全く明らかでない。
したがって、
「「議会の多数を得て社会変革を進める」――これが日本共産党の一貫した方針であり、「暴力革命」など縁もゆかりもない」
とはまるで言えないだろう。
また、同じしんぶん赤旗の記事には、
1961年の第8回党大会では、日本の社会と政治のどのような変革も、「国会で安定した過半数」を得て実現することをめざすことを綱領上も明確にしました。これは外国の干渉者たちが押しつけてきた武装闘争方針を排除したことを綱領上はっきり表明したものでした。
ともあったが、61年綱領を見てみると、「国会」が出てくるのは次の5箇所で、
この闘争において党と労働者階級の指導する民族民主統一戦線勢力が積極的に国会の議席をしめ、国会外の大衆闘争とむすびついてたたかうことは、重要である。国会で安定した過半数をしめることができるならば、国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具にかえ、革命の条件をさらに有利にすることができる。
〔中略〕
党と労働者階級の指導的役割が十分に発揮されて、アメリカ帝国主義と日本独占資本に反対する強大な民族民主統一戦線が発展し、反民族的・反人民的勢力を敗北させるならば、そのうえにたつ民族民主統一戦線政府は革命の政府となり、わが国の独占貿本を中心とする売国的反動支配をたおし、わが国からアメリカ帝国主義をおいはらって、主権を回復し人民の手に権力をにぎることができる。労働者、農民を中心とする人民の民主連合独裁の性格をもつこの権力は、世界の平和、民主主義、社会主義の勢力と連帯して独立と民主主義の任務をなしとげ、独占資本の政治的経済的支配の復活を阻止し、君主制を廃止し、反動的国家機構を根本的に変革して人民共和国をつくり、名実ともに国会を国の最高機関とする人民の民主主義国家体制を確立する。
現綱領と同様、「国会で安定した過半数をしめることができるならば、……革命の条件をさらに有利にすることができる」
というだけで、
「どのような変革も、「国会で安定した過半数」を得て実現することをめざす」
なんて全く言っていない。
いったい、「悪質なデマ」を飛ばしているのは誰なのだろうか。
しんぶん赤旗の記事は
「議会の多数を得て社会変革を進める」――これが日本共産党の一貫した方針であり、「暴力革命」など縁もゆかりもないことは、わが党の綱領や方針をまじめに読めばあまりに明瞭なことです。
と述べていたが、綱領を真面目に読んでみて、「議会の多数を得て社会変革を進める」が日本共産党の一貫した方針とはとても思えないし、「暴力革命」を未だ否定していないのは「あまりに明瞭なこと」だとよくわかった。
(続く)