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児童ポルノ規制法改正反対論に思う――そういう問題か?

2013-05-31 22:09:01 | 現代日本政治
 5月29日、自民、公明、日本維新の会の3党が児童ポルノ規制法改正案を衆院に共同提出したと報じられた。

 この件については、少し前に改正反対論の記事をBLOGOSで読んで、ちょっと思うところがあった。


1.定義があいまいという批判について

 山口浩・駒澤大学准教授の記事「嫌いな表現を守るということ」(2013年05月24日)より。

もともと現行法は、規制の対象となる「児童ポルノ」の定義自体に問題があるとかねてより指摘されていた。特に法第2条第3項第3号に規定されるいわゆる「3号ポルノ」は、「衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの」というきわめて曖昧な定義となっている。自分の子どもや自分自身の写真も場合によっては児童ポルノとされかねないという意味で多くの人々を法的に不安定な状態にさらすだけでなく、いわゆる着エロ(着衣状態だが「性欲を興奮させ又は刺激する」とされる写真等)が対象となりにくいため、子どもの保護という観点でも不十分だ。

本来、子どもの権利保護は、この法律が第一に重視すべき目的であるはずだ。にもかかわらず、保護強化に直接関係する上記部分を放置して持ち出されているのが、単純所持禁止である。これまでは児童ポルノを作ったり販売・提供したりした者に規制範囲を限っていたから目立たなかったあいまいな定義の弊害が、実際に改正されれば多くの人々(女性も老人も子どもももちろん例外ではない)を脅威にさらすこととなる。この法案を作った人たちが、子どもの保護とは異なる意図をもっているのではないかと疑いたくなる。


 3号ポルノの規定は確かにあいまいである。
 しかし、法律における定義があいまいであることは往々にしてある。
 特に、この種の規制対象の定義を厳密に定めてしまっては、それを逆手にとって、その厳密な点だけをクリアした規制逃れがまかりとおりかねない。
 こうしたものは、ある程度あいまいにしておくべきなのだ。

 刑法にはわいせつ物頒布罪があるが、条文には

(わいせつ物頒布等)
第百七十五条  わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。
2  有償で頒布する目的で、前項の物を所持し、又は同項の電磁的記録を保管した者も、同項と同様とする。


とあるだけで、「わいせつ」の定義はどこにもない。
 判例では、「わいせつ」とは「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反する」ものを言うとされているが、これまたあいまいなものだ。
 実際のところは、警察、検察、裁判所の判断に委ねられている。そしてそれは、個々の事例によっても、社会の推移によっても変わっていくものだから、こうしたあいまいな規定が維持されているのだろう。
 児童ポルノについても、同様でいいのではないか。


2.非実在児童は被害を受けていないという主張について

 みんなの党の山田太郎参議院議員の記事「表現の自由を大幅に規制する法案に反対」(2013年04月26日)より。

自由な創作活動の自主規制による制限

 現行の法律は「実際にいる児童」のポルノに制限をかけています。逆に言うと実際にいない「架空の児童(マンガなど)」に対しては制限をかけていません。今回の改正案では将来的に「架空の児童」に対しても制限をかける可能性を持たせています。

 本来の法律の趣旨は実在する児童を保護するためです。しかし、この改正ではだれを保護するのでしょうか。マンガの中の児童は実際にいないので、被害は受けていませんし、もちろん保護することもできません。それどころか、マンガ自体の衰退を促進すると考えています。実際に韓国では、同様の話でマンガ文化の衰退が著しい状態にあります。


 先の山口准教授の記事も、同じようなことを述べている。

この条項で取り上げているマンガやアニメ等は作者による創作物であって、その制作にあたって子どもの性的搾取も性的虐待も行われていない。市場で売られても権利を侵害される子どもは存在しない。

子どもの保護と無関係なマンガ等の規制(の可能性)が持ちだされていることを、先の着エロの問題と重ねて考えてみると想像がつく。この法律案を作った人たちの関心は、子どもの保護そのものよりも、表現行為の規制にあるということだろう。


 何だか、非実在なのだから何をどう描こうが自由じゃないかと言われているようで、ちょっと恐ろしい。

 もちろん法の趣旨は実在する児童を保護するというものだろう。しかし、そのために、児童を性の対象とする風潮それ自体を抑制しようという方向で、マンガやアニメの規制も検討されていることぐらい、少し考えればわかりそうなものだ。
 山口准教授は、

その「意図」がよりはっきりと見えるのが附則だ。ここには、子どもの保護とは無関係な、マンガ等の表現物への規制につながる内容が含まれている。


と述べているが、何故「子どもの保護とは無関係」とあっさり切り捨てられるのか理解しがたい。

 また、山口准教授は、着エロを規制しないままマンガやアニメの規制に向かうのは問題があるかのように述べているが、では着エロを具体的にどう規制せよというのか。
 「衣服の全部を着けた児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの」を追加せよとでも言うのか。さらにあいまいさが増すばかりではないか。
 それでいて単純所持禁止を「多くの人々」「を脅威にさらす」と批判するのだから、何を言っているのか理解できない。


3.およそ有り得ない事例を挙げて反対する手法について

 山田議員の記事より。

 例えばしずかちゃんのお風呂のシーンについて考えてみましょう。現実的にはしずかちゃんのお風呂のシーンは法律による規制の対象にはならないと言われています。しかしながら、どこまでならば今回の規制の対象となるかについて明示されていません。つまりグレーゾーンが幅広い範囲で存在すると言うことになります。

 グレーゾーンの恐いところは、自主規制を生むと言うことです。もう少し過激なマンガを発表することで懲役刑になる可能性があれば誰もそんな絵は書かなくなります。そしてやがては、しずかちゃんのお風呂シーンを書くことですら恐くなって書けなくなってしまうのです。

 そして、しずかちゃんの絵を児童ポルノだと判断し、作者を逮捕するのは基本的には警察や検察になります。いつ逮捕されるのか分からない状態で、しかもその基準がきわめて曖昧なままでは、自由な創作活動を続けていくことは難しいということが分かって頂けますでしょうか。


 山田議員は、別の記事「児童ポルノ規制法について、安倍総理と麻生副総理に迫りました!」(2013年05月10日)でも、参議院における次のような問答を紹介している。

○山田太郎君
 麻生副総理なら理解していただけるかなと思って、今回麻生総理を指名させていただきました。表現の自由ということで憲法にもかかわる問題ですので、この件、安倍総理にもお伺いしたいと思いますが。
 
実は、この自主規制、一九九九年十月時点でもうかなり自主規制がありまして、文化庁メディア芸術賞で大賞を取りました複数の漫画すら、この児童ポルノ法が通ったときに、紀伊国屋の書店五十七店舗、それから大阪の旭屋書店、そんなところからもうなくなってしまったという事態を生み出しました。実は、水島新司先生の野球漫画「ドカベン」、つまり、私と同じ名前の山田太郎という人が主人公の漫画なんですけれども、その中でも八歳以下のサチ子という妹が入浴シーンで出てきておりまして、こんな本なんかも発禁本になる可能性もあると。そんなことが自主規制、あるいはまかり通りますと、私としてもちょっとこれはゆゆしき事態だなと、こんなふうに思っています。隣の国、韓国におきましても、やっぱり同種の規制を行ったために自主規制を始めて漫画やアニメが大きな影響を受けていると、こういうふうに聞いています。


 しかし、いったい誰がしずかちゃんやサチ子の入浴シーンを児童ポルノとして規制すべきだと主張しているというのか。

 改正反対論の中には、家族の水着写真を持っていても逮捕だとか、メールで画像ファイルを送りつけられだけでも逮捕だとか、およそ有り得ない主張を平然と述べる者もいるが、全く説得力を覚えない。

 山口准教授は、「この件についてメディアの扱いは総じて小さく、あまり関心を持たれていないようだ。」と述べている。私の印象もそのとおりで、私が購読している朝日新聞は、紙面上では法案の3党共同提出を報じていない。
 ネット上のニュースでは見かけたほか、これに対するマンガ家や出版社側の反対論も報じられていたが、それほど重大視されていないように見える。
 それは、こうした極端な反対論が妥当でないことを国民の多くが理解しているからだろう。


4.表現の自由は絶対か?

 山田議員の記事「表現の自由を大幅に規制する法案に反対」より。

 もちろん、マンガなどであったとしても児童に対する性的表現に嫌悪感を抱く方はいると思います。ただし、現行の法律でもわいせつなマンガは取り締まられていますし、これ以上の過度な表現の規制は必要ないと考えています。
 
 そして、嫌いだから制限すると言うのであれば『納豆が嫌いだから、納豆を禁止する』という考え方と何ら違いが無いのです。私も納豆は苦手ですが、これを禁止すべきとは考えていません。食べなければいいだけです。同様に、殺人事件のあるサスペンスドラマやコナンなどのマンガも規制する話と全く同様だと理解して頂きたいのです。


 山口准教授の記事より。

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という有名なことばがある(18世紀フランスの哲学者ヴォルテールのことばとよくいわれるが実際にはちがうらしい)が、私たちはもう一度、民主主義の原点に立ち返るべきだ。表現の自由とは、自分がよいと思う表現だけ保護すればいいというような考え方ではない。人間の考え方は多様であり、その多様性こそが民主主義の価値を担保する。自らにとって都合の悪い表現、自分が嫌いな表現の存在を認めて初めて表現の自由と呼べるのだ。


 「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」
 これには私も全く異論はない。
 しかし、児童ポルノは「意見」ではない。
 そして、表現の自由はいついかなる場所でも全面的に認められなければならないというものでもまたないだろう。

 山田議員や山口准教授は、例えばわいせつ物頒布罪や公然わいせつ罪についてはどう考えるのか。
 民主主義を担保する多様性を認めるべしとして、罪とすべきではないと考えるのか。

 あるいは、昨今問題になったヘイトスピーチはどうか。先進国では法規制が当然とも言われている。

 山口准教授も少し触れているように、児童ポルノの規制は国際的動向に基づくものである。G8ではロシアとわが国を除く6か国が単純所持を禁止しているという。マンガやアニメを既に規制している国もある。
 表現の自由の保障は絶対的なものではない。
 これは結局のところ、どこで線を引くのかという問題にすぎない。

 山口准教授は、記事の最後でマルティン・ニーメラーの詩「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」を引用している。
 「自民党がナチスだと言いたいわけではもちろんない」と断ってはいるが、これはしかし、少しでも表現規制を認めていけば、やがてはナチスが支配したような社会になるぞという警告だろう。
 しかし、こんにちでもある程度の表現規制は存在するのだから、こんなものはただのアジテーションでしかない。
 山口准教授は、

児童ポルノ禁止法改正に反対というと、すぐに「お前は子どもを守りたくないのか」とか「エロ教授め」みたいなことをいう人が出てくるわけだが、もちろんそういう話ではない。そういうレッテル貼りこそが最も危険な発想だ。


とも述べている(本当にそんなことを言う人がいるのだろうか)が、これもまた逆の立場からのレッテル貼りでしかない。

 レッテル貼りでない、具体的な線引きの議論がなされることを望む。


石原慎太郎「侵略ではない」発言の不可解

2013-05-20 07:09:38 | 大東亜戦争
 18日付朝日新聞朝刊は1面で、橋下徹が先の大戦を「侵略」としたことを石原慎太郎が否定したと伝えた。

 日本維新の会の石原慎太郎共同代表は、先の大戦の旧日本軍の行為について「侵略じゃない。あの戦争が侵略だと規定することは自虐でしかない。歴史に関しての無知」と語り、侵略とした橋下徹共同代表の見解を否定した。朝日新聞の取材に答えた。従軍慰安婦などをめぐる橋下氏の発言への批判が収まらないところに加えて、歴史認識をめぐる両共同代表の認識でも違いがはっきりしたことで、党内の混乱が一層深まりそうだ。


 深まってほしくて仕方がないのだろう。

 4面に掲載された石原の発言要旨全文は次のとおり。

 (橋下徹共同代表が先の大戦を「侵略だと受け止めないといけない」と述べたことは、石原氏の意見と)違うね。全然違うね。(橋下氏の一連の発言は)みんな迷惑しているよね。やっぱり前後の脈絡を考えてものを言わないと。彼なりに論理立ててものを言ってもしょうがないんだ。過去にあったことは実際に事実だろうけども、現代の倫理観で判断してものを言わないと。
 正確な歴史観、世界観を持っていないとダメだ。国のトップになろうと思っているなら、(橋下氏に)世界観、歴史観がないとしょうがない。
 (先の戦争は)侵略じゃない。「自衛のための戦争」ってマッカーサーがちゃんと議会で証言しているじゃない。資源を断たれたらね、結局、東南アジアに展開せざるを得ない。日本のような有色人種が近代国家をつくるってことを許せなかったんだ、白人は。そういう歴史観というのを持たないで、あの戦争が侵略戦争だと規定をすることそのものが自虐でしかないんだ。歴史に関しての無知。(植民地支配について)そんなもの、近世になってからヨーロッパの白人は全部やったじゃない。世界中そうだった。食うか食われるかの時代だったんだよ、近代っていうのは。
 そういう歴史の連脈みたいなものを考えずに、東京裁判で決められた白か黒かみたいな価値観にのっとって、自分の歴史について、日本人が間違った規定をすることは間違いですよ。


 同日夕刊によると、橋下はTBSのテレビ番組で、

「石原代表は当時、命をかけて戦っていた(時代の)人。いろんな考え方があるだろう」と理解を示しつつ、「戦争を知らない僕の世代は敗戦国として(侵略を)引き受けなければだめだ」と自らの主張は変えない考えを示した。〔中略〕近く石原氏と意見交換することも明らかにした。


という。

 橋下は、最初の発言でこう述べていた。

それから戦争責任の問題だって敗戦国だから、やっぱり負けたということで受け止めなきゃいけないことはいっぱいありますけど、その当時ね、世界の状況を見てみれば、アメリカだって欧米各国だって、植民地政策をやっていたんです。

だからといって日本国の行為を正当化しませんけれども、世界もそういう状況だったと。そういう中で日本は戦争に踏み切って負けてしまった。そこは戦勝国としてはぜったい日本のね、負けの事実、悪の事実ということは、戦勝国としては絶対に譲れないところだろうし、負けた以上はそこは受け入れなきゃいけないところもあるでしょうけど。

ただ、違うところは違う。世界の状況は植民地政策をやっていて、日本の行動だけが原因ではないかもしれないけれど、第二次世界大戦がひとつの契機としてアジアのいろんな諸国が独立していったというのも事実なんです。そういうこともしっかり言うべきところは言わなきゃいけないけれども、ただ、負けたという事実だったり、世界全体で見て、侵略と植民政策というものが非難されて、アジアの諸国のみなさんに多大な苦痛と損害を与えて、お詫びと反省をしなければいけない。その事実はしっかりと受け止めなけれないけないと思いますね。

日本の政治家のメッセージの出し方の悪いところは、歴史問題について、謝るとこは謝って、言うべきところは言う。こういうところができないところですね。一方のスタンスでは、言うべきとこも言わない。全部言われっぱなしで、すべて言われっぱなしっていうひとつの立場。もう一つは事実全部を認めないという立場。あまりにも両極端すぎますね。(SYNODOSによる全文文字起こしより)


 私にはこうした主張が実にしっくり来る。
 そして、石原が今回言っていることは全く理解できない。

 この違いは世代的なものだろうか? しかし、石原と同じようなことを私よりはるかに若い世代が口にしているのを耳にすることもある。

 石原は、

>過去にあったことは実際に事実だろうけども、現代の倫理観で判断してものを言わないと。

と言いつつ、近代ヨーロッパは皆植民地支配をやっていたから、わが国のそれも正当化されるかのように語る。
 「現代の倫理観」からすればどちらも侵略だろうし、それを認めることが何故東京裁判史観の容認なのか。
 「前後の脈絡を考えてものを言」うべきなのはどちらだろうか。

 こういう主張は石原だけのものではない。2008年に田母神俊雄・航空幕僚長が更迭される原因となった論文「日本は侵略国家であったのか」も、古くは1986年に文部大臣を罷免された藤尾正行も、同様のことを言っている。大東亜戦争肯定論者にしばしばみられる主張である。
 当時の欧米列強がやっていたからといって、何故それでわが国の行動が「侵略じゃない」となるのか。ならば欧米列強のやったこともまた侵略ではないことになる。しかし大東亜戦争で、わが国は欧米の侵略からアジアを解放すると称して戦ったのではなかったか。

>「自衛のための戦争」ってマッカーサーがちゃんと議会で証言しているじゃない。

 この議会証言は、マッカーサーが朝鮮戦争で全面戦争も辞さずとの方針をとり、トルーマン大統領と対立して解任された件の真相究明のため行われたものであり、日米戦争がテーマであったのではない。マッカーサーの中共封鎖論が日米戦前の対日封鎖と同様であったのではとの質問に対して、マッカーサーがそのとおりだと答える中で語られたものにすぎない。
 そして、マッカーサーは、自衛すなわち self-defense のための戦争だったなどとは言っていない。security によるものだったと述べている。
 わが国には工場があり、労働力があったが、原料はなかった。原料はアジアの海に存在した。原料の供給が断ち切られたら膨大な失業者が発生することを日本は恐れた。したがって、日本が戦争に向かった目的は主として security によるものだったとマッカーサーは述べている。
 小堀桂一郎は『東京裁判 幻の弁護側資料』(ちくま学芸文庫、2011、旧版は『東京裁判 日本の弁明』講談社学術文庫、1995)で、この security を「安全保障」と訳し、証言中のこの箇所を

したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。


と訳している。そして、小堀による解説では、何故か

彼がその証言の一節において、日本が戦争に突入したのは自らの安全保障のためであり、つまりは大東亜戦争は自存自衛のための戦いであったという趣旨を陳述しているということが早くから知られていた


と、「安全保障」が「自存自衛」にすり替わっている。
 確かに security は「安全保障」とも訳される。日米安全保障条約は「Japan-U.S. Security Treaty」である。
 しかし、security は一般に「安全」や「安心」「無事」とも訳される。この証言の場合は、こちらの訳の方が適切ではないだろうか。失業者の発生の回避は普通「安全保障」とは表現しないだろう。
 「自衛のため」とは、意図的な誤訳ではないかと思える。

 この点についてはできれば稿を改めて論じたいが、こうした見方は私の独創によるものではなく、検索すればいくつか見ることができるはずだ。

>資源を断たれたらね、結局、東南アジアに展開せざるを得ない。

 わが国は延蒋ルートの遮断のため北部仏印進駐に踏み切った。これに対して米国は屑鉄や銅の対日禁輸で応じた。
 わが国はさらに東南アジアへの進出ルートを確保するため南部仏印にも進駐した。これに対して米国は石油を禁輸し、米英蘭は日本資産を凍結した。
 東南アジアに進出した結果として資源を断たれたのであり、因果関係が逆である。

>日本のような有色人種が近代国家をつくるってことを許せなかったんだ、白人は。

 では何故、ペリーやプチャーチンやパークスやロッシュは、わが国を軍事力で制圧しなかったのだろう。
 いわゆるお雇い外国人がわが国の近代化に貢献してくれたのは何故なのだろう。
 不平等条約の改正にも応じ、第一次世界大戦後の世界秩序に加えたのは何故なのだろう。

 あまりにも偏った見方ではないだろうか。

>そういう歴史観というのを持たないで、あの戦争が侵略戦争だと規定をすることそのものが自虐でしかないんだ。歴史に関しての無知。

 橋下が「そういう歴史観」を持ち合わせておらず「無知」であるのは幸いなことだと思う。

 橋下は石原とこの差異について直接話し合うとしているそうだが、不一致なら不一致で別にかまわないのではないだろうか。
 一致させるべく無理をしないでもらいたい。


 関連過去記事。

侵略国家だと誇りは持てない?


「当時の価値観」で過去を見るべき?


田母神論文への反応に対していくつか思ったこと(1)


Re:日本語感覚・日本語解釈(前編)


建国記念の日の産経「主張」を読んで


片言隻句を取り上げて批判する手法の行く末

2013-05-19 02:04:44 | 日本近現代史
 2007年1月、第1次安倍内閣の柳沢伯夫厚生労働相が講演で「女性は産む機械」と発言したとされ、マスコミ、野党から激しい攻撃を受けた。
 その当時、まだタレント弁護士だった橋下徹が、あるテレビ番組でコメンテーターとして、柳沢の講演全体はこのように要約できるものでは全くない、これは発言の一部を極大化した不当な批判だという趣旨のことを述べていたのを強く記憶している。

 それから6年余。橋下もまた同様の立場に立たされるに至った。

 発言がどのような文脈でなされたか、発言全体の意図するところは何なのかはどうでもいい。
 あたかも、××××という片言隻句が発言の主旨であるかのように取り上げて、騒ぎ立てる。
 政治家の失言問題のいつもの構図。

 そして、××××の内容が妥当かどうかすらどうでもいい。
 とにかく、××××と口にしたことそれ自体がけしからん。
 傷ついた、人権感覚がない、公人の資格がない、国益を害する。
 何だか、大人流のいじめを見ている気分になる。

 日本人の多くは公人をこのような手法で叩くのを好むのかもしれないが、私はこういう風潮は好きじゃない。

 私はこうした「問題」発言騒動の際に、しばしば天皇機関説事件を思い出す。
 拙ブログの過去記事。


暴力装置? そのとおりだろ

久間防衛相の「原爆投下、しょうがない」発言とその朝日記事について
 


 天皇機関説は、昭和初期には広く知られていた憲法学説であり、何ら問題視されていなかった。
 ところが、軍国主義、天皇中心主義の風潮が高まる中、1935年2月に貴族院で菊池武夫議員(陸軍中将)が、美濃部達吉の天皇機関説は国体にもとると攻撃した。同じく貴族院議員であった美濃部は院内でこれに反論した。
 当時首相であった岡田啓介海軍大将(のち二・ニ六事件で襲撃され、九死に一生を得る)は、占領時代に刊行された回顧録でこう述べている。

 美濃部博士は二十五日の貴族院で「これは著書の断片的な一部をとらえて、その前後との関係を考えずになされた攻撃である。わたしは君主主義を否定してはいない。かえって天皇制が日本憲法の原則であることをくりかえし述べている。機関説の生ずるゆえんは、天皇は国家の最高機関として、国家の一切の権利を総覧し、国家のすべての活動は天皇にその最高の源を発するものと考えるところにある」と論じた。
 日ごろおとなしい貴族院でも、美濃部博士が降壇したときは拍手が起こるほどだった。わたしもりっぱな演説だ、と思ったが、問題はそれではおさまらなかった。(『岡田啓介回顧録』中公文庫、1987)


 さらに衆議院でも陸軍出身の議員が岡田首相に美濃部の国体観念に誤りなきや否やを問い質し、貴衆両院の議員が機関説排撃の懇談会を開く。

この問題の起こったのをいい機会に、あわよくば政府を倒してやろうという政友会側の策動も、そろそろはじまっていたわけだ。それからというものは、いろいろな委員会で、〔中略〕わたしをはじめ後藤内相、小原法相、松田文相、金森法制局長官に対してしつっこく、正気の沙汰とも思えないくらい興奮して質問し、言質をとろうとかかる。(同)


 昭和天皇自身は「機関説でいいではないか」と述べていたにもかかわらず、機関説排撃運動は高まった。
 陸軍はやがて機関説絶対反対を主張しだすに至った。

こちらが陸軍大臣に期待するところは、軍のそういった動きを押さえてくれることなんだが、林は、その点ではどうにもたよりにならなかった。この問題だけでなく、たいていの場合そうだったが、一ぺん閣議で承知していることを、すぐあとでひっくり返す。陸軍省へ帰ったあとで、電話をよこして、さっき言ったことは取り消す、とこうなんだ。
 つまり本人はごく常識的な物わかりのいい人なんだが、閣議で決めたことを部下に話をすると反対される。反対されると、押し切れなくて前言をひるがえすということになったんだろうね。〔中略〕
 三月九日の貴族院本会議で林は、「美濃部博士の学説が軍に悪い影響を与えたということはない。ただ用語については心持よく感じていない」といっていたのに、十六日の衆議院では「天皇機関説は今や学者の論争の域を脱して、重大な思想問題になっている。これを機に国体に異見のないようにしなければならない。かかる説は消滅させるように努める」とだんだん態度を変えてきている。この発言は、政府としても思いがけないほど行き過ぎたもので、もしわたしや他の閣僚が、この言葉と食い違うことを言えば閣内不統一になるし、といって陸相を押さえることは困難だし、自然政府の答弁もこれと歩調を合わせなければならなくなって、また一歩押し切られてしまった。外部の気勢もこれで大いにあがった。(同)


 憲法学者として美濃部の師である一木喜徳郎・枢密院議長の家に、日本刀を持った右翼青年が暴れ込み、警官に取り押さえられるという事件も起きた。

 そうこうしているうちに議会の会期も迫って、とうとう治安維持法改正案や農林関係の重要法案が審議未了のままで閉会してしまった。多数党である政友会を相手にしてのことだから、なんともしようがなかったけれど、このためますます弱体内閣のそしりをうけなければならんことになってしまった。さて、そういった情勢から、政府はなるべくなら美濃部博士の自発的な処置を望んでいたが、博士は「政府の苦しい立場はよくわかるが、自分の学説はなんら恥じるところのないものである。非難はすべて曲解と認識不足にもとづくものだ」という態度だった。
 さらに美濃部博士は陸軍方面のおもだったものに会見を申し入れたようだ。論争をしようという気ではなかったらしく、曲解を正そうとする意図から出たものだと思われるが、軍はそれをことわっている。陸軍の言い分は、「信念として天皇機関説に反対であるから、学問上の主張を聞く必要はない」という単純なものであった。(同)


 機関説の内容の是非を問うのではなく、とにかく機関説そのもの、というよりその支持者自体の排除を目的としていた陸軍にとって、美濃部の主張を聞くことなど何の意味もなかったのだろう。

 そして政友会は、政府は機関説は国体に反すると明言せよとの国体明徴運動を展開し、民政党も消極的ながら同調した。岡田内閣は美濃部の著書を発禁とし、8月に国体明徴声明を発し、美濃部は9月議員を辞職した。

 もちろん、橋下は別に学説を述べたのではない。また、以前の記事でも述べたように、当初の発言にはおかしな点も確かにある。
 それでも、発言の全体を捉えず、片言隻句を取り上げて、発言者を絶対悪と見なして排撃する姿勢は、機関説事件と同じようなものだろう。

 これでは、橋下が当初述べていた、

しかし、なぜ、日本の従軍慰安婦問題だけが世界的に取り上げられるかというと、その当時、慰安婦制度っていうのは世界各国の軍は持っていたんですよ。これはね、いいこととは言いませんけど、当時はそういうもんだったんです。ところが、なぜ欧米の方で、日本のいわゆる慰安婦問題だけが取り上げられたかというと、日本はレイプ国家だと。無理矢理国を挙げてね、強制的に意に反して慰安婦を拉致してですね、そういう職に就職業に付かせたと。

レイプ国家だというところで世界は非難してるんだっていうところを、もっと日本人は世界にどういう風に見られているか認識しなければいけないんです。慰安婦制度が無かったとはいいませんし、軍が管理していたことも間違いないです。ただ、それは当時の世界の状況としては、軍がそういう制度を持っていたのも厳然たる事実です。だってそれはね、朝鮮戦争の時だって、ベトナム戦争だってそういう制度はあったんですから、第二次世界大戦後。

でもなぜ日本のいわゆる従軍慰安婦問題だけが世界的に取り上げられるかというと、日本は軍を使ってね、国家としてレイプをやっていたんだというところがね、ものすごい批判をうけているわけです。

僕はね、その点については、違うところは違うと言っていかなければならないと思いますね。

〔中略〕

それから戦争責任の問題だって敗戦国だから、やっぱり負けたということで受け止めなきゃいけないことはいっぱいありますけど、その当時ね、世界の状況を見てみれば、アメリカだって欧米各国だって、植民地政策をやっていたんです。

だからといって日本国の行為を正当化しませんけれども、世界もそういう状況だったと。そういう中で日本は戦争に踏み切って負けてしまった。そこは戦勝国としてはぜったい日本のね、負けの事実、悪の事実ということは、戦勝国としては絶対に譲れないところだろうし、負けた以上はそこは受け入れなきゃいけないところもあるでしょうけど。

ただ、違うところは違う。世界の状況は植民地政策をやっていて、日本の行動だけが原因ではないかもしれないけれど、第二次世界大戦がひとつの契機としてアジアのいろんな諸国が独立していったというのも事実なんです。そういうこともしっかり言うべきところは言わなきゃいけないけれども、ただ、負けたという事実だったり、世界全体で見て、侵略と植民政策というものが非難されて、アジアの諸国のみなさんに多大な苦痛と損害を与えて、お詫びと反省をしなければいけない。その事実はしっかりと受け止めなけれないけないと思いますね。(SYNODOSによる全文書き起こしから)


こうしたことすら言えなくなってしまう。
 ただただ、韓国や米国の主張を、御説ごもっともと拝聴し、わが国だけが悪逆非道の国家だったのだと平伏するしかなくなる。

 それでいいのだと主張する者もいる。
 わが国はそうした第二次世界大戦の戦勝国側による歴史観を受け入れることにより独立を果たしたのであり、今さら波風を立てるようなことは言うべきではない、それが大人の対応だと。
 しかし、戦後何十年もそうした対応を続けてきた結果、わが国を取り巻く情勢は近年どうなっているだろうか。

 そして、いや韓国や米国の歴史認識を一方的に受け入れるわけにはいかない、わが国にはわが国の言い分がある、戦後体制は受け入れるにしろ、言うべきことは言うべきだと思う者は、政治的理由により橋下排撃に同調するだけでなく、肯定すべき点は肯定してはどうか。少しでもそうした声を上げるべきではないか。

 岡田啓介は回顧録で、政党による国体明徴運動について、「だんだん議会政治否定の方向へ動いていったことを考えると、こういうことで問題を起こすやり方は、かえって政党人が自分の墓穴を掘るような心ないことだったと思う」と述べている。
 自民党や民主党は、政友会の轍を踏むべきではない。

 私は、右であれ左であれ、韓国であれ米国であれ、これ以上わが国を自由に物が言えない社会にはしてもらいたくない。


米政府、橋下発言を非難と伝える朝日の報道を読んで

2013-05-18 00:09:21 | 現代日本政治
 17日の朝日新聞朝刊の1面左には

風俗発言は「不適切」 橋下氏、撤回は否定


との見出しの記事が載った。
 その下にはこんな記事が。

一連の発言「言語道断で侮辱的」
米政府、橋下氏を非難

 米政府当局者は16日、戦時中の旧日本軍慰安婦を「必要だった」などとした日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長による一連の発言について、「発言は言語道断で侮辱的なものだ」などと厳しく非難するコメントを朝日新聞に寄せた。

 米政府の公式な立場を示したものとみられ、米当局者が同盟国である日本の政治家に対し、こうした態度を示すのは極めて異例だ。

 さらに、この当局者は従軍慰安婦について、「戦時中、性的な目的のために連れて行かれた女性たちに起きたことは、嘆かわしく、明らかに深刻な人権侵害で、重大な問題だ」との考えを示し、従来の米政府の立場を改めて強調した。

 橋下氏は6月に訪米を予定しているが、当局者は「橋下氏のこうした発言を踏まえると、面会したいと思う人がいるかはわからない」とも述べ、要人と会談はできないとの認識を示した。

 今回、当局者がこれまでにない厳しい言葉で非難したことは、橋下市長の発言の推移を見極めたうえで、なお米政府がいら立っていることのあらわれとみられる。

 橋下氏は13日、記者団に「銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で、命をかけて走っていくときに、どこかで休息をさせてあげようと思ったら慰安婦制度は必要なのは誰だって分かる」と発言。米軍の司令官と沖縄で面会した際、「もっと風俗業を活用してほしい」と言ったことも明らかにした。


 さらに、「デジタル版に米政府当局者のコメントの原文と日本語訳」と付記されていたので、デジタル版も見てみた。

橋下氏発言を非難する米政府当局者のコメント(全文)

 米政府当局者のコメントの原文と日本語訳は以下の通り。

〔原文略〕

 橋下市長の発言は、言語道断で侮辱的なものだ。米国が以前に述べている通り、戦時中、性的な目的で連れて行かれた女性たちに起きたことは、嘆かわしく、明らかに深刻な人権侵害で、重大な問題だ。橋下市長は米国訪問を計画しているそうだが、こうした発言を踏まえると、面会したいと思う人がいるかどうかはわからない。


 ほぼ紙面で述べられているとおりの、ごく短いものだった。
 詐欺か。

 米国様が「いら立って」おられるぞーって、どんな事大主義者だ。

 このコメントには「戦時中、性的な目的で連れて行かれた女性たちに起きたことは、嘆かわしく、明らかに深刻な人権侵害で、重大な問題だ。」とあるが、前回の拙記事でも述べたように、橋下も当初から

僕は、従軍慰安婦問題だってね、慰安婦の方に対しては優しい言葉をしっかりかけなきゃいけないし、優しい気持ちで接しなければいけない。意に反してそういう職業に就いたということであれば、そのことについては配慮しなければいけませんが。

〔中略〕

慰安婦制度が無かったとはいいませんし、軍が管理していたことも間違いないです。

〔中略〕

意に反して慰安婦になってしまった方はね、それは戦争の悲劇の結果でもあるわけで、戦争についての責任はね、我が日本国にもあるわけですから。そのことに関しては、心情をしっかりと理解して、優しく配慮していくことが必要だと思います(SYNODOSによる書き起こし


と述べており、深刻な人権侵害でないとも、重大な問題でないともしていないし、慰安婦制度がなかったと主張しているわけでもないので、全く話が噛み合っていない。
 この当局者が、橋下の発言それ自体ではなく、報道に載せられた片言隻句だけに基づいてコメントしていることがよくわかる。

 それにしても、氏名も地位も明らかにできない「米政府当局者」のコメントが「米政府の公式な立場を示した」ものだと断言するとは不思議だなあと思っていたら、同日の朝日夕刊にやや小さくこんな記事が載った。

米、橋下氏発言を非難

 米国務省のサキ報道官は16日の記者会見で、戦時中の旧日本軍の慰安婦について「必要だった」などとした日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長について、「発言は言語道断で侮辱的だ」と述べ、オバマ政権として橋下氏の発言を強く非難する立場を正式に表明した。

 米政府が記者会見で、日本の政治家の発言にこうした表現を使うのは極めて異例だ。サキ氏は「戦時中に性的な目的で連れて行かれた女性たちに起きたことは嘆かわしく、重大な人権侵害だ。被害者には心からの同情を改めて示す」と述べた。また、国務省高官は「全員が彼のコメントに立腹している」と述べ、ケリー国務長官を含めた国務省全体の見解であることを強調した。(ワシントン=大島隆)


 このサキ報道官の発言内容は、朝刊の「米政府当局者」によるコメントとほぼ同じであるから、サキ自身か、あるいは彼女に近い国務省職員が、朝日に事前にコメントを寄せたのだろう。
 朝日が「米政府の公式な立場を示したもの」と自信たっぷりに述べていたのもうなずける。

 今回の件でわかったことがある。
 サキ報道官の記者会見に先んじて「米政府当局者」によるコメントを報じていたのは、私の見たところ朝日新聞だけのようである。
 つまり、朝日新聞は、米国務省報道官の記者会見に先行して、その内容を知り得る立場にあるということである。
 そして、それを報じ得る立場にもあるということである。
 これもまた、一種の「対米追従」ではないのか。

 朝日はしばしば中韓朝の歴史認識に基づいて、わが国の政府や政治家の諸発言を批判してきたが、第二次世界大戦期に限れば、米国のスピーカーとしての役割も厭わないらしい。

 いや、70年近く前の占領期のプレスコードに未だ囚われ続けているというべきか。

当時の世界の状況としては、軍がそういう制度を持っていたのも厳然たる事実です。だってそれはね、朝鮮戦争の時だって、ベトナム戦争だってそういう制度はあったんですから、第二次世界大戦後。

でもなぜ日本のいわゆる従軍慰安婦問題だけが世界的に取り上げられるかというと、日本は軍を使ってね、国家としてレイプをやっていたんだというところがね、ものすごい批判をうけているわけです。

僕はね、その点については、違うところは違うと言っていかなければならないと思いますね。

〔中略〕

それから戦争責任の問題だって敗戦国だから、やっぱり負けたということで受け止めなきゃいけないことはいっぱいありますけど、その当時ね、世界の状況を見てみれば、アメリカだって欧米各国だって、植民地政策をやっていたんです。

だからといって日本国の行為を正当化しませんけれども、世界もそういう状況だったと。そういう中で日本は戦争に踏み切って負けてしまった。そこは戦勝国としてはぜったい日本のね、負けの事実、悪の事実ということは、戦勝国としては絶対に譲れないところだろうし、負けた以上はそこは受け入れなきゃいけないところもあるでしょうけど。

ただ、違うところは違う。世界の状況は植民地政策をやっていて、日本の行動だけが原因ではないかもしれないけれど、第二次世界大戦がひとつの契機としてアジアのいろんな諸国が独立していったというのも事実なんです。そういうこともしっかり言うべきところは言わなきゃいけないけれども、ただ、負けたという事実だったり、世界全体で見て、侵略と植民政策というものが非難されて、アジアの諸国のみなさんに多大な苦痛と損害を与えて、お詫びと反省をしなければいけない。その事実はしっかりと受け止めなけれないけないと思いますね。(SYNODOSによる書き起こし


 こうした橋下の諸発言に何の論評もできないようでは。


橋下徹市長の「慰安婦制度は必要」発言に思ったこと

2013-05-16 00:45:13 | 現代日本政治
 私は石原慎太郎の諸発言には何かと不審の念を持つことが多いが、今回は極めて同意する。

■石原氏「軍と売春はつきもの」「間違ったこと言ってない」

 日本維新の会の石原慎太郎共同代表は14日、橋下徹共同代表が戦時中の旧日本軍慰安婦を「必要だ」と発言したことに対し、「軍と売春はつきもので、歴史の原理みたいなもの。決して好ましいものではないが、彼は基本的にそんなに間違ったことは言っていない」と述べ、橋下氏を擁護する考えを示した。

〔中略〕

 石原氏は「(戦時中は)売春婦を取り持つみたいな施設をつくる商売があった。そういうものは歴史の中の一つの公理みたいなものだ」と指摘。そのうえで「ものの言い回しやタイミングの問題もあるが、あなた方(報道機関)の捉え方も問題がある。あまり被虐的に考えない方がいい」と語った。


 朝日新聞13日夕刊の第一報を読んでも、SYNODOSによる全文書き起こしを読んでも、全体としてはそれほどおかしなことを言っているとは思わなかった。

 朝日の第一報には、村山談話について、

「日本は敗戦国。敗戦の結果として、侵略だと受け止めないといけない。実際に多大な苦痛と損害を周辺諸国に与えたことも間違いない。反省とおわびはしなければいけない」と強調


したともあり、実際、朝日の見出しは、

橋下氏「慰安婦必要だった」
「侵略、反省・おわびを」


と、一応バランスのとれたものとなっている(ちなみに毎日新聞は「反省とおわび」は報じていない)。

 SYNODOSによると、この箇所の全文はこうなっている。

侵略とはなにかという定義がないことは確かなのですが、日本は敗戦国ですから。戦争をやって負けたんですね。そのときに戦勝国サイド、連合国サイドからすればね、その事実というものは曲げることはできないでしょうね。その評価についてはね。ですから学術上さだまっていなくてもそれは敗戦の結果として侵略だということはしっかりと受け止めなくてはいけないと思いますね。

実際に多大な苦痛と損害を周辺諸国に与えたことは間違いないですからその事実はしっかりと受け止めなくてはならなないと思います。その点についても反省とお詫びというものはしなくてはいけない。

またこの立場はずっと週刊朝日や朝日新聞にたいして言い続けていますけども、自らの一方当事者が「もう終わりだ、終わりだ」といって時間を区切って終わりにすることができないんですね。

それは時間が解決する、ようは相手方がある程度納得するまでの期間、時間的な経過が必要であることはまちがいないです。だから、戦後60年経ったんだから、70年経ったんだから、全部ちゃらにしてくれよってことを当事者サイドがいうことではないです。

これは第三国がね、まあアメリカや連合国の方が、また、まあアメリカもそりゃ損害はあったんでしょうけど、それでも第三者的な立場の国がね、「もういいんじゃないの」っていうのは、まあそれはいいんでしょうけど。当事者である日本サイドの方が「もう60年経ったんだから、70年経ったんだから、もうちゃらだよ」っていうのは、これは違うと思いますね。


 これには朝日新聞的な見方をされる方も、同意するのではないだろうか。

 にもかかわらず、結局「必要」だけが一人歩きして叩かれるんだろうなと思っていたが、やはりそうなった。

 朝日の第一報には、こんな発言もある。

「意に反して慰安婦になったのは戦争の悲劇の結果。戦争の責任は日本国にもある。慰安婦の方には優しい言葉をしっかりかけなければいけないし、優しい気持ちで接しなければいけない」

 
 私はこれはとても大事なことだと思う。
 ネット上で、大東亜戦争肯定論者が、朝鮮人慰安婦をひどく口汚い言葉で罵るのをしばしば見かけるが、どういう頭の構造をしているのか理解しがたい。
 強制性の有無は別として、彼女らが大変な目に遭ってきた方々であることは事実だろう。そして、そうした彼女らに数多くの日本兵がお世話になったことも事実だろう。
 ならば、お世話になったことを感謝こそすれ、彼女らをむやみに貶めるべきではないのではないか。
 しかし、そうした視点による慰安婦肯定論が政治家の口から語られることはまずない。橋下のこの発言は画期的なものではないかと思う。

「銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、精神的にも高ぶっている猛者集団をどこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度は必要なのは誰だってわかる」(朝日第一報)


 「必要」という言葉には確かに違和感がある。
 「必要悪」ならまだしも。
 しかし、「必要」とされたのは事実なのではないか。

 14日付毎日新聞は、こんな研究者のコメントを載せている。

木村幹・神戸大大学院国際協力研究科教授は「政権を狙う国政政党の代表とは思えない不用意な発言。慰安所の設置は中国大陸での暴行頻発が背景にあり、その必要性を認めることは『当時の日本軍は戦地で暴行をするような軍隊だった』と認めるも同然。首相として自衛隊の最高司令官になるかもしれない人物が、戦争状態では慰安婦制度もやむを得ないとも解釈される発言をするのは軽率だ」と語った。


 しかし、「中国大陸での暴行頻発」が慰安所設置の背景にあったことが事実なら、『当時の日本軍は戦地で暴行をするような軍隊だった』のもまた事実なのだから、それを認めるのは何もおかしくないのではないか。
 まさか木村は、「中国大陸での暴行頻発」が事実あったにもかかわらず、わが国の政治家としては政治的理由により『当時の日本軍は戦地で暴行をするような軍隊だった』とは認めるべきでないというのだろうか。それこそ強弁というものではないか。

 橋下が沖縄の米軍に風俗の利用を説いたというのもおかしい。

慰安婦制度じゃなくても風俗業ってものは必要だと思いますよ。それは。だから、僕は沖縄の海兵隊、普天間に行った時に司令官の方に、もっと風俗業活用して欲しいって言ったんですよ。そしたら司令官はもう凍り付いたように苦笑いになってしまって、「米軍ではオフリミッツだ」と「禁止」っていう風に言っているっていうんですけどね、そんな建前みたいなこというからおかしくなるんですよと。

法律の範囲内で認められている中でね、いわゆるそういう性的なエネルギーを、ある意味合法的に解消できる場所ってのが日本にはあるわけですから。もっと真正面からそういうところ活用してもらわないと、海兵隊のあんな猛者のね、性的なエネルギーをきちんとコントロールできないじゃないですかと。建前論じゃなくてもっとそういうとこ活用してくださいよと言ったんですけどね。それは行くなという風に通達を出しているし、もうこれ以上この話はやめようっていうんで打ち切られましたけどね。だけど風俗業ありじゃないですか。これ認めているんですから、法律の範囲でね。(SYNODOS)


 風俗が利用できないから、一般女性に対する性犯罪が起きるというものではないだろう。
 建前は建前として、現実に風俗は利用されているのだろうし、性犯罪は全く別の次元の欲望によるものではないだろうか。

 しかしこれについても橋下は、

―― 活用していないから事件が起こると?

いやいや、それは因果関係は別です。でももっと、だから、そういうのは堂々と……。それは活用したから事件がおさまるという風な因果関係にあるようなものではないでしょうけど、でも、そういうのを真正面から認めないと、建前論ばかりでやってたらダメですよ。そりゃあ兵士なんてのは、日本の国民は一切そういうこと考えずに成長するもんですから、あんま日本国民考えたことないでしょうが、自分の命を落とすかもわかんないような、そんな極限の状況まで追い込まれるような、仕事というか任務なわけで。それをやっぱり、そういう面ではエネルギーはありあまっているわけですから、どっかで発散するとか、そういうことはしっかり考えないといけないんじゃないですか。それは建前論で、そういうものも全部ダメですよ、ダメですよって言っていたら、そんな建前論ばっかりでは、人間社会はまわりませんよ。(SYNODOS)


と、当初から因果関係を否定しており、そもそも大真面目に犯罪防止策として風俗の利用を説いたわけではないのではないだろうか。

 そして、橋下が最も言いたかったのは、この点ではないのか。

「当時の歴史を調べたら、日本国軍だけでなく、いろんな軍で(慰安婦を)活用していた」と指摘。そのうえで「なぜ日本の慰安婦だけが世界的に取り上げられるのか。日本は国をあげて強制的に慰安婦を拉致し、職業に就かせたと世界は非難している。だが、2007年の(第1次安倍内閣の)閣議決定では、そういう証拠がないとなっている」と述べ、「事実と違うことで日本国が不当に侮辱を受けていることにはしっかり主張しなければいけない」と語った。(朝日の第一報)


 こうした趣旨のことをかねてから述べていた産経新聞や自民党の一部政治家が、このたびの橋下発言を批判するのはどうしたことだろうか。
 15日付産経新聞「主張」(社説に相当)より。

【主張】橋下市長発言 女性の尊厳損ね許されぬ

 日本維新の会の橋下徹共同代表(大阪市長)が「慰安婦制度は当時は必要だった」などと語った。米軍幹部に「海兵隊員に風俗業を活用してほしい」と述べたことも自ら明らかにした。

 今の時代に政治家がこうしたことを公言するのは女性の尊厳を損なうものと言わざるを得ない。許されない発言である。

 慰安婦問題をめぐっては、宮沢喜一内閣当時に根拠もないまま強制連行を認める河野洋平官房長官談話が発表され、公権力による強制があったとの偽りが国内外で独り歩きする原因となった。

 安倍晋三首相は有識者ヒアリングを通じて談話を再検討する考えを示してきた。橋下氏が「必要な制度」などと唱えるのは事実に基づく再検討とは無関係だ。国際社会にも誤解を与えかねない。

 橋下氏は「慰安婦制度は世界各国の軍が活用したのに、なぜ日本だけ取り上げられるのか」「軍の規律を維持するためには必要だった」などと、当時の慰安婦の必要性を肯定した。

 これに対し、稲田朋美行政改革担当相は「慰安婦制度は女性の人権に対する大変な侵害だ」と批判し、下村博文文部科学相も「あえて発言する意味があるのか」と指摘した。稲田、下村両氏は自民党内の保守派として河野談話の問題点を厳しく指摘したこともあるが、橋下氏の考えとは相いれないことを示すものといえる。

 安倍首相も「筆舌に尽くしがたいつらい思いをされた方々のことを思い、非常に心が痛む」との認識を表明している。

 河野談話の発表にあたっては、二百数十点に及ぶ公式文書には旧日本軍や官憲が慰安婦を強制連行したことを裏付ける資料は一点もなかった。だが、発表直前に韓国のソウルで行った韓国人元慰安婦からの聞き取り調査だけで、強制連行があったと決めつけた。

 裏付けなく発表された談話が、韓国などの反日宣伝を許す要因となっている状況を安倍政権は見直そうとしている。いわれなき批判を払拭すべきだという点は妥当としても、橋下氏の発言が見直しの努力を否定しかねない。

 橋下氏が米軍幹部に述べた「風俗業活用」発言など、もってのほかだ。人権を含む普遍的価値を拡大する「価値観外交」を進める日本で、およそ有力政治家が口にする言葉ではなかろう。


 稲田が「慰安婦制度は女性の人権に対する大変な侵害だ」と批判したというが、橋下は別に、大変な侵害ではないと述べたわけではないので、話が噛み合わない。
 安倍が「非常に心が痛む」と述べているというが、橋下も、上記のように「慰安婦の方には優しい言葉をしっかりかけなければいけないし、優しい気持ちで接しなければいけない」と述べている。心が痛まないなどとは述べていない。
 何の反論にもなっていない。

 「風俗業活用」が「価値観外交」に反するとは思い至らなかった。では産経は、風俗業の即時全面禁止を社論にしてはいかがだろうか。どうせ「必要」のないものなのだろうし。

 河野談話を批判しつつ橋下発言も批判するという産経の論理は不可解である。

 SYNODOSによると、橋下はこうも述べている。

その当時ね、世界の状況を見てみれば、アメリカだって欧米各国だって、植民地政策をやっていたんです。

だからといって日本国の行為を正当化しませんけれども、世界もそういう状況だったと。そういう中で日本は戦争に踏み切って負けてしまった。そこは戦勝国としてはぜったい日本のね、負けの事実、悪の事実ということは、戦勝国としては絶対に譲れないところだろうし、負けた以上はそこは受け入れなきゃいけないところもあるでしょうけど。

ただ、違うところは違う。世界の状況は植民地政策をやっていて、日本の行動だけが原因ではないかもしれないけれど、第二次世界大戦がひとつの契機としてアジアのいろんな諸国が独立していったというのも事実なんです。そういうこともしっかり言うべきところは言わなきゃいけないけれども、ただ、負けたという事実だったり、世界全体で見て、侵略と植民政策というものが非難されて、アジアの諸国のみなさんに多大な苦痛と損害を与えて、お詫びと反省をしなければいけない。その事実はしっかりと受け止めなけれないけないと思いますね。

日本の政治家のメッセージの出し方の悪いところは、歴史問題について、謝るとこは謝って、言うべきところは言う。こういうところができないところですね。一方のスタンスでは、言うべきとこも言わない。全部言われっぱなしで、すべて言われっぱなしっていうひとつの立場。もう一つは事実全部を認めないという立場。あまりにも両極端すぎますね。(太字は引用者による)


 私はこれは聞くべき主張だと思う。
 そして、産経や稲田のように、同調できる部分を含んでいるのに(おそらくは政治的な理由で)それを無視して全否定するより、はるかに誠実な態度ではないかとも思う。


韓国の憲法改正の歴史

2013-05-13 00:47:07 | 韓国・北朝鮮
 5月10日付朝日新聞2面のシリーズ「憲法はいま」から。

最低投票率を設定■総選挙を経て発議
 各国、独自の改憲手続き

〔前略〕

 改憲の際に国民投票にかけなければならない国はデンマークや韓国、スイス、豪州など。フランスやイタリア、ロシア、スペインにも国民投票の規定はあるが、国民投票なしに改正できる場合もある。

 ただ、大半の国で改憲手続きに通常の法改正より厳しい要件を設けている。米国は上下両院の3分の2以上の賛成で発議、4分の3以上の州議会の承認が必要になる。ドイツも、連邦議会と連邦参議院の3分の2以上の賛成が条件。フランスは上下両院の過半数で発議できるが、成立は両院合同会議で5分の3以上の賛成が必要だ。

〔中略〕

 韓国の改憲手続きはもっと厳しい。一院制の国会の3分の2以上の賛成で国民投票にかける点では日本と同じ。しかも、国民投票には有権者の過半数が投票しなければ成立しない「最低投票率」を設けている。それでも第2次大戦後、9回の改正を行った。


 ン?
 これでは、韓国はこの「厳しい」条件の下で、9回の改正を行ってきたようではないか。
 いやいや、この条件は1987年のいわゆる民主化により成立した現行憲法(第6共和国憲法)のもので、これ以後韓国の憲法は改正されていない。
 以前にも少し書いたが、これより前の8回の改正の多くは独裁政権の下で行われたものであり、他の民主制の国と単純に比較するのは相当でない。

 これは、戦後9回という数字のみに着目したための誤解だろう。
 それにしても、この記事を書いた記者は韓国に独裁政権の時代があったことを知らないのだろうか。

 こんな誤解が広まるのを少しでも防ぐため、韓国の憲法改正の歴史をごく簡単にまとめてみた。


1.憲法制定(1948.7.17)

 1948年5月、国連の監視下で制憲議会議員の総選挙が実施された。成立した制憲議会(議長は古くからの独立運動家であった李承晩)において憲法が制定され、同年7月17日に公布、即日施行。
 大統領は国会による間接選挙で選出され、任期は4年。憲法改正は、大統領または国会在籍議員の3分の1以上による発議に基づき、国会でその在籍議員3分の2以上の賛成で確定されるものとされた(国民投票はない)。
 同年7月20日、国会は李承晩を初代大統領に選出し、同年8月15日、政府は大韓民国樹立を宣言した。


2.第1次改正(1952.7.7)
 国会で野党が多数派を占めたため再選が困難となった李承晩は、大統領を国民の直接選挙により選出されるよう変更する改憲案を提出し、反対する野党議員を逮捕したり暴力団に脅迫させるなどの圧力を加え、議場へ連行して、討論を省略し、起立投票の方式で1952年7月4日改憲案を可決させた。
 同年8月5日には国民による正副大統領の選挙が行われ、大統領には李承晩が再選された。


3.第2次改正(1954.11.29、四捨五入改憲)
  
 憲法は大統領の3選を禁止していたが、初代大統領に限りこれを可能とする改憲案を与党自由党が1954年9月8日に国会に提出。同年11月17日の採決では、在籍議員203人中、賛成135票で、改憲に必要な3分の2には1票足りず、同案は否決された。しかし、2日後に自由党議員のみが出席した国会で、203の3分の2は四捨五入すれば135であるとして、否決を取り消し可決を宣言した。
 1956年5月15日に行われた第3代正副大統領選挙では、野党候補の急死にも助けられ、李承晩が3選を果たした。副大統領には野党民主党の張勉が当選した。


4.第3次改正(1960.6.15、第2共和国憲法)

 1960年3月15日に行われた第4代正副大統領選挙では、これまた野党候補の急死により李承晩が4選を果たし、副大統領にも与党自由党の李起鵬が当選した。しかし、あらゆる手口を弄した不正選挙に国民の不満は高まり、いわゆる4月学生革命によって政権は倒れ、李承晩はハワイへ亡命し、李起鵬は自殺した。
 許政外相を首班とする過渡政権の下、李承晩独裁への反省から、大統領制から議院内閣制へ変更するなどの改憲案が同年6月15日圧倒的多数の賛成により国会で可決、即日公布された。副大統領は廃止された。
 同年7月29日国会議員選挙が実施され、李承晩時代の第1野党だった民主党が圧勝し、首相に張勉、象徴的な地位となった大統領には尹フ善(フはさんずいに普)が選出された。


5.第4次改正(1960.11.29)

 3月の不正選挙に従事した者を遡及して厳格に処罰すべきとの学生デモの高まりを受け、遡及罰を認める特別法を根拠づけるための改正。


6.第5次改正(1962.12.26、第3共和国憲法)

 政権を獲得した民主党は張勉らと尹フ善らに分裂して対立し、政界は混乱し、経済もはかばかしくなかった。学生は北朝鮮との交流を主張して盛り上がった。危機感を募らせた軍部は1961年5月16日クーデターを起こし、張勉内閣を総辞職させ、国会を解散し、統治機構として軍人による国家再建最高会議を設置した(議長は陸軍参謀総長の張都暎、間もなく真の指導者である朴正煕がとって代わる)。尹フ善大統領は国家の正統性維持のため留任したが、旧来の政治家の活動を禁止する政治活動浄化法が1962年3月に制定されたことに抗議して辞任した。
 軍事政権は民政移管に備えて憲法改正作業を進めたが、これは憲法に規定された改正手続に拠るものではなかった。また、この憲法改正は国民投票により確定するとされた。1962年11月、国家再建最高会議は憲法改正案を議決し、これは同年12月国民投票によって確定され、1963年12月に施行された。
 この改正により、議院内閣制から再び大統領制に戻った。また、憲法改正における国民投票制度が新設された。
 1963年8月、第5代大統領選挙が行われ、朴正煕が尹フ善を破って当選。1967年に再選。


7.第6次改正(1969.10.21 3選改憲)

 憲法の3選禁止規定を3選までは可能とする改憲案を、野党新民党の強い反対にもかかわらず、与党民主共和党が単独で強行可決。国民投票は圧倒的多数が改憲を支持した。
 1971年4月、第7代大統領選挙で朴正煕は「これがわたくしの最後の選挙」と訴え、新民党の金大中を破って3選を果たした。しかし金大中の人気は高く、同年5月の選挙でも新民党は議席を伸ばした。


8.第7次改正(1972.12.17、第4共和国憲法(維新憲法とも))

 朴正煕大統領は米中接近の中、北朝鮮との対話を進め、1972年7月には南北共同声明を発する一方、国家の団結を図るとして、同年10月17日に非常戒厳令を布告し、国会を解散、政治活動を禁止した(10月維新)。
 同月10月27日に改憲案が公告され、11月21日の国民投票で圧倒的賛成を得て確定され、同年12月27日に公布された。
 大統領の直接選挙制は廃止され、統一主体国民会議という国会とは別の新議会を設け、これが大統領を選出し、また国会議員の3分の1を選出するとされた。大統領の任期は4年から6年となり、重任禁止規定は廃止された。
 基本的人権には留保規定が設けられ、大統領は国会を介さずに超法規的な緊急措置を発令することができるとされ、実際に多用された。極めて独裁色の強い改憲であった。
 朴正煕は1972年12月統一主体国民会議によって第8代大統領に選出され(4選)、1978年12月にも同様に選出された(5選)。


9.第8次改正(1980.10.27、第5共和国憲法)

 維新体制の下でも民主化闘争は高まり、米国との関係も悪化した。1979年10月26日、金載圭中央情報部長は対立を深めていた大統領警護室長を射殺し、続いて朴正煕大統領をも射殺した。
 外交官出身の崔圭夏首相が統一主体国民会議により大統領に選出され、民主化に向けた作業が進められた。金大中らが政治活動を再開した。
 しかし、射殺事件の捜査を進める国軍保安司令官の全斗煥を中心とする勢力は、同年12月12日の粛軍クーデターで鄭昇和陸軍参謀総長を事件に関与した容疑で逮捕して軍の実権を握り、1980年5月17日には非常戒厳令を全国に拡大して政治活動を禁止し、金大中らを逮捕し、金大中支持派が起こした光州の暴動を軍を投入して鎮圧した。
 同年8月、全斗煥は統一主体国民会議により第11代大統領に選出され、憲法改正を進めた。改正案は同年10月22日に国民投票により確定され、同月27日に公布された。
 統一主体国民会議は廃止され、大統領選挙人団による間接選挙となった。任期は7年となり重任は禁止され、任期延長または重任変更のための改憲は当代大統領には及ばないとされた。
 1981年1月非常戒厳令が解除され、同年2月に大統領選挙人団(5278人)が国民により選出され、同月25日に選挙人団による選挙で全斗煥が第12代大統領に選出された。
 改憲の発効に伴い国会議員の任期は終了するものとされ、同年3月に新たな国会議員総選挙が実施されたが、従来からの主要な政治家はなお活動を禁止されており、立候補できなかった。金大中は光州事件の首謀者として死刑判決を受け、のち無期懲役に減刑され、亡命した。


10.第9次改正(1987.10.29、第6共和国憲法(現行憲法))

 全斗煥の任期満了が近づき、大統領の直接選挙を求める民主化運動が高まる中、全斗煥の後継者と目された盧泰愚は1987年6月29日、いわゆる民主化宣言を行い、直接選挙も受け入れた。同年9月には、与野党が共同で作成された改憲案が国会に発議され、10月に議決され、国民投票により確定された。
 大統領は直接選挙に戻され、任期は5年、重任は禁止された。
 同年12月、第13代大統領選挙が実施され、野党は旧来の指導者である金泳三、金大中、金鍾泌がそれぞれ立候補したため分裂し、盧泰愚が当選した。
 このいわゆる民主化以後、韓国の憲法は改正されていない。


 つまり、韓国の憲法改正は、第3次、第4次、第9次の改正を除き、いずれも時の政府により強権的に行われたものだ。何も「厳しい」条件の下で行われたものではない。
 しかも、その多くが、政権維持のために、大統領の3選禁止を廃止したり、直接選挙を間接選挙に改める(あるいはその逆)といったものになっている。
 第5次以降の改正では国民投票も行われているが、そのうち第5次、第7次、第8次は野党の政治活動が禁止され、言論の自由が極度に制限された中で行われたものである。そんな国民投票に何の正統性があるだろうか。

 こんなものを含めて「それでも第2次大戦後、9回の改正を行った」などと、あたかもわが国より厳しい条件の下でたびたび民主的に改憲が行われたかのように、読者を惑わさないでいただきたいものだ。


参考文献
閔炳老(ミンビョンロ)全南大学講師「諸外国の憲法事情 韓国」国立国会図書館調査および立法考査局、2003.12(国立国会図書館のウェブサイトから)
池東旭『韓国大統領列伝』中公新書、2002


門田隆将「「日本の司法」は大丈夫なのか」を読んで

2013-05-12 10:05:20 | 事件・犯罪・裁判・司法
 ノンフィクション作家の門田隆将によるこんな記事を読んだ。

「日本の司法」は大丈夫なのか
2013年03月14日 19:23

日本の「司法」、いや「裁判官」というのは大丈夫なのだろうか。そんな話を今日はしてみたい。本日、日本のノンフィクション界にとって、極めて興味深い判決があったからだ。

これは、私自身にかかわるものだが、非常に「大きな意味」を持っているので、かいつまんで説明させていただきたい。

〔中略〕

私は日航機墜落事故から25年が経った2010年夏、『風にそよぐ墓標 父と息子の日航機墜落事故』(集英社)というノンフィクションを上梓した。これは、1985年8月に起こった日航機墜落事故の6遺族の「その後の四半世紀」を追った作品だ。

〔中略〕

私はノンフィクション作家であり、いうまでもなく作品はすべてノンフィクションである。つまり、私の作品には、フィクション(虚構)がない。記述は「事実」に基づいており、そのため、取材が「すべて」である。

私は、本書に登場する6家族の方々に、直接、私自身が取材に伺い、絶望から這い上がってきた四半世紀に及ぶ「勇気」と「感動」の物語をお聞きし、すべてを実名で描かせてもらった。

ご本人たちの了解を得て、取材させてもらい、日記や手記があるならそれを提供してもらい、「事実」と異ならないように気をつけて原稿を書かせていただいたのである。

〔中略〕

しかし、私は、この作品の第3章に登場するご遺族、池田知加恵(いけだ・ちかえ)さんという80歳になる女性から「著作権侵害」で訴えられた。「門田は自分の作品である『雪解けの尾根』(ほおずき書籍)の著作権を侵害した」というのである。

〔中略〕

その取材の折、知加恵さんは17年前に出したという事故の時の自身の体験をまとめた当該の『雪解けの尾根』という手記本をわざわざ「門田隆将様 感謝をこめて 池田知加恵」とサインして私に提供してくれた。

この時、事故から25年も経過しており、ご高齢だったこともあり、ご本人が「私にとっては、この本を書いた時が“記憶の期限”でした」と仰られたので、私の取材は、提供されたこの本に添って「事実確認」をする形でおこなわれた。

ご高齢の方への取材というのは、こういう方法は珍しいものではない。私は戦争関連をはじめ、多くのノンフィクション作品を上梓しているが、たとえば太平洋戦争の最前線で戦った元兵士に取材する際は、自分が若い時に戦友会誌などに書いた回想録を提供され、それをもとに「記憶を喚起」してもらいながら取材させていただくことが多い。

より正確に事実を書いて欲しい、というのは誰にも共通のものであり、私は池田知加恵さんにも長時間にわたって、この本に基づいて記憶を喚起してもらいながら、取材をさせていただいたのである。

その取材時間は、ご自宅にお邪魔していた4時間半のうち実に3時間半に及んだ。途中、知加恵さんは、「このことは本に書いてなかったかしら?」「そうそう、それ書いているでしょ」と何度も仰り、そのたびに本の中の当該の箇所を探すことが度々あった。

〔後略〕


 私はこの門田の著作をおそらくほとんど読んだことがない。記事中で門田が挙げている『裁判官が日本を滅ぼす』は昔読んだような気もするが、記憶違いかもしれない。『風にそよぐ墓標 父と息子の日航機墜落事故』は読んだことがない。また、この日航機事故にも知識も関心もない。

 門田の記事を一読して、次のように思った。

 この裁判は著作権侵害が争われたものである。なのに、門田は具体的な争点に何も触れていない。
 門田は言う。

私は提供された手記本をもとに、丹念にご本人に事実関係の確認をさせてもらい、この著書が「事実を記したもので間違いない」ものであることを確認し、長時間にわたった取材を終わらせてもらった。

取材の際、知加恵さんは著書だけでなく、事故に関連してご自身が登場したニュースやワイドショーのDVDを提供してくれたり、取材後も自分の発言の訂正部分を手紙で書いて寄越してくれたり、積極的に取材にご協力をいただいた。

私は、ご自宅をお暇(いとま)する時も、「大変ありがとうございました。今日の取材と、このご本に添って、事実を間違えないようにきちんと書かせてもらいます」と約束し、その言葉通り、事実関係に間違いのないように原稿を書かせてもらった。そして、巻末には、「参考文献」として『雪解けの尾根』を明記させてもらったのである。

つまり、私は「本人に直接会って」、「手記本を提供され」、記憶が曖昧になっていた本人に「記憶を喚起してもらいながら、その手記本をもとに事実確認取材をおこない」、巻末に「参考文献と明記」して、当該の第3章を書かせてもらったことになる。


 しかし、手記本の提供を受けたことと、手記本の記述をそのまま自己の記述として用いることを許されることとは異なる。
 おそらくは、その点が争われているのだろう。
 参考文献と明記しただけでそれが許されるというものではもちろんない。

 門田もこう書いている。

長くジャーナリズムの世界に身を置いている私は、著作権とは、「事実」ではなく「表現」を侵した場合は許されないことを知っている。そのため、細心の注意を払って「事実」だけを描写し、同一の文章はひとつとしてない。


 「同一の文章はひとつとしてない」のかもしれないが、同一の「表現」はあったのではないか。
 それは果たして著作権侵害と言えるのか、どうなのか。それが問題なのではないか。

 判決に不服があるのなら、そういった具体的な争点を挙げて反論すればよい。
 それをせずに、手記の提供を受けた、参考文献と明記した、これでは「事実」が書けないと言いつのるだけでは、全く説得力を覚えない。

 門田は次のようにも言う。

この訴訟が不思議だったのは、訴訟が起こる4か月も前に、まだ当事者以外の誰も知らない段階で、朝日新聞によって大報道されたことだ。同紙は社会面で五段も使って、「日航機事故遺族、作家提訴の構え」という見出しを掲げ、「(両者の)記述が類似している」と大々的に報じたのである。

つまり、訴訟は朝日新聞が「先行する形」で起こされた。同紙は、今回のように本人から直接、手記本を提供され、それをもとに本人に事実確認の取材をおこない、巻末に参考文献と明記しても、それでも「著作権侵害だ」と言いたいようだ。


 朝日新聞デジタルを検索してみると、2011年7月11日付でこんな記事があった。おそらくこれのことだろう。

日航機事故遺族、作家提訴の構え 「手記と表現酷似」

 日本航空ジャンボ機墜落事故を題材に、ノンフィクション作家・門田隆将氏が昨年出版した「風にそよぐ墓標」(集英社)の複数の記述が、1996年に出版された遺族の手記(著書)に酷似していることがわかった。

 門田氏側は「承諾を得て参考にした。盗用ではない」としているが、遺族側は「承諾していない」と抗議。著作権を侵害されたとして訴訟を起こす構えだ。

 抗議しているのは、事故で夫を亡くした大阪府茨木市の池田知加恵さん(78)。事故から11年後の96年に「雪解けの尾根」(ほおずき書籍)を出版。一方、「風に――」は昨年夏、門田氏が複数の遺族を取材して出版した。

 池田さん側が「酷似」と指摘するのは計26カ所。たとえば池田さんの家族を取り上げた部分で「不安と疲労のために、家族たちは“敗残兵”のようにバスから降り立った」という記述は、「雪解けの尾根」の「みなさすがに不安と疲労の色濃く、敗残兵のようにバスから降り立った」と似通っている。

 池田さんは「敗残兵という表現は、戦争を体験した世代で、かつその場にいた遺族だからこそ発することのできた固有の表現。著書に記した言葉は、苦悩の中で紡ぎ上げたもので、盗用は許されない」と話す。

 門田氏は執筆に際し、池田さんから約4時間取材し、サイン入りの著書、当時のニュース映像を収録したDVDなど複数の資料提供も受けた。池田さんは「事実関係を整理する参考にと本を渡したが、表現を使っていいとは一切認めていない」としている。

 門田氏は「本人に長時間取材し、提供されたサイン入りの本を、本人承諾の上で参考文献として巻末に明記し、参考にした。それを後になって著作権侵害とは、ただただ驚きだ。これが問題となるなら、日本のノンフィクションは成り立たない」と話している。

 門田氏は事件や歴史など幅広いテーマで執筆をしており、NHKのドラマ「フルスイング」の原案になった「甲子園への遺言」(講談社)、光市母子殺害事件の遺族を描いた「なぜ君は絶望と闘えたのか」(新潮社)、元陸軍中将・根本博の人生をたどった「この命、義に捧ぐ」(集英社)などがある。

 集英社広報室は取材に対し「門田氏が池田氏を取材した際に資料として著書をいただきました。その扱いについて行き違いがあり、協議を重ねてきたところです」とだけ回答した。(佐々木学)


 この記事で例示されている「敗残兵」は、門田に倣って言うなら「事実」ではなく「表現」ではないのか。
 これでは盗用と指摘されても仕方がないのではないか。
 これを自分の文章として「不安と疲労のために、家族たちは“敗残兵”のようにバスから降り立った」としてしまっては、著作権侵害を問われて当然ではないか。
 何故なら、「敗残兵」はあくまで池田知加恵の心象にすぎない。「不安と疲労」もまた同様だ。「事実」は「バスから降り立った」ことだけだ。
 門田が「「事実」だけを描写」したいのなら、誰がどこで何をしたという、誰の目にも客観的な「事実」のみで作品を構成すればよい。しかしそれでは、役所の報告書のようなものになってしまうことだろう。

 そうではなく、当事者の心情あふれる臨場感たっぷりの読み物を書きたいのなら、門田は例えばこう書くべきだったのではないか。

《池田知加恵さんは手記でこう述べている。「みなさすがに不安と疲労の色濃く、敗残兵のようにバスから降り立った」》

 そんな引用元を明記するまどろっこしい表現では、読者の心に響く力強い作品が書けないという反論があるかもしれない。
 しかしそれは書き手と売り手の都合であり、読者や引用元の著作権者には何ら関わりのない話だ。

これが著作権侵害にあたるなら、日本のノンフィクションは、もはや「事実そのものを描けなくなる」と思っている。つまり日本でノンフィクションは「成り立たなくなる」のである。


と門田は言うが、そんなことはあるまい。
 そんなことで「成り立たなくなる」のは門田流の「ノンフィクション」だけであり、「成り立たなくな」っても一向にかまわないレベルのものではないか。

 そんな感想を持った。

 いずれこの判決を読んでみたいものだと思っていたら、評論家の小谷野敦がブログで5月6日にこの訴訟を取り上げ、判決文へのリンクも張っていたので、読むことができた。

 小谷野は、

原告は25か所について著作権侵害などを申し立てたが、裁判所は、うち15点および、2点については前後に分離して片方につき、原告の著作に創作性があると認めたから、25件中16件である。


としているが、私が判決文を読んだところ、申立は26箇所で、うち14箇所については複製又は翻案したものだと認め、さらにそれ以外の3箇所については、それぞれに複製又は翻案した部分とそうでない部分があるとしているので、小谷野の数え方に倣えば26箇所中15.5箇所とすべきではないかと思う。

 その個々の箇所の検討においても、判決文を読む限りでは、ごくまともな判断をしているとしか思えない。
 上記の「敗残兵」についても、「複製又は翻案したもの」だと認められている。
 また、認められていない箇所も半分弱あり、それはそれでもっともな理由だと思える。

 門田は、

裁判員制度が導入されたのは、その一部の刑事裁判だけだ。膨大な数の民事裁判には、裁判員として国民は参加できないのである。つまり、民事裁判において、裁判官の常識は「問われないまま」現在に至っている。

私は、以前から民事裁判にも裁判員制度を導入すべきだと思っていた。だが、膨大な数の民事裁判にいちいち国民を参加させるわけにはいかない。現実的には不可能だ。

しかし、今回の高野判決を見たら、私は「それでも民事裁判に裁判員制度導入を」と思ってしまう。少なくとも「知財裁判所」には、なんとしても「国民の健全な常識」を生かす裁判員制度を導入して欲しいと思う。


とも言うが、仮にこの裁判が裁判員制度によって行われたとしても、同様の判決が下されたのではないだろうか。
 それが「国民の健全な常識」だと思える。

 門田はこの記事を次のように締めくくっている。

戦後、日本人がやっと獲得した言論・表現の自由には、長い苦難の歴史がある。多大な犠牲の上に獲得した「言論・表現の自由」という民主主義の根幹が官僚裁判官たちによる締めつけで、“風前の灯”となっている。

「知的財産権ブーム」の中で、ジャーナリズムの役割や意義を忖度(そんたく)しないまま、言論・表現の範囲がどんどん狭められているのである。少なくとも今日の高野判決は、事実上、ノンフィクションが「日本では成立しなくなる」という意味で「歴史に残るもの」であると思う。

今後、どうやってジャーナリズムは「事実」というものを描写すればいいのだろうか。『裁判官が日本を滅ぼす』の著者でもある私が、予想通り、「ノンフィクションを滅ぼす判決」を出してくれた高野裁判長に「この判決を通じて」出会えたのは、むしろ喜ばしいことかもしれない。

“暴走”する知財裁判官と今後、徹底的に闘っていくことが、私の新たなライフワークとなったのである。


 「表現」の盗用を指摘されたにもかかわらず、これでは「事実」の描写ができない、「ノンフィクションを滅ぼす判決」だとあくまで主張する門田。
 「ジャーナリズムの役割や意義」の前には、知的財産権の多少の侵害も容認されるべきだと主張しているに等しい。
 “暴走”しているのはいったいどっちなのだろうか。

 門田が挙げている『裁判官が日本を滅ぼす』のAmazonレビューを見ると、高い評価もある一方、著者の一方的な姿勢を批判する声も多く、参考になる。

 不思議なのは、門田はこの訴訟について以前から同様の発言を繰り返しているようだが、それを批判的に評する声が、ネット上で検索してみた限り、ほとんど見られないことだ。
 皆、さして関心がないのだろうか。係争中の事案であるから、最終的な判決の確定を待つということなのだろうか。
 それとも、門田が言うように、ノンフィクション作品の世界では、こうした手法がまかりとおっており、下手に口出しすると藪蛇になるからなのだろうか。

 こんな作家に

日本の「司法」、いや「裁判官」というのは大丈夫なのだろうか。


と問われても、日本のノンフィクション、いやジャーナリズムは大丈夫なのだろうかと逆に問いかけたい気分に駆られる。

(文中敬称略)

事実に即した憲法改正論議を

2013-05-06 01:30:50 | 日本国憲法
 これじゃデマ合戦だよ。

 5月4日付朝日新聞朝刊2面の小林節・慶大教授(憲法学)による「96条改正は「裏口入学」。憲法の破壊だ」という記事(太字は引用者による)。

 私は9条改正を訴える改憲論者だ。自民党が憲法改正草案を出したことは評価したい。たたき台がないと議論にならない。だが、党で決めたのなら、その内容で(改正の発議に必要な衆参両院で総議員の)「3分の2以上」を形成する努力をすべきだ。改憲政党と言いながら、長年改正を迂回(うかい)し解釈改憲でごまかしてきた責任は自民党にある。

 安倍首相は、愛国の義務などと言って国民に受け入れられないと思うと、96条を改正して「過半数」で改憲できるようにしようとしている。権力参加に関心のある日本維新の会を利用し、ひとたび改憲のハードルを下げれば、あとは過半数で押し切れる。「中身では意見が割れるが、手続きを変えるだけなら3分の2が集まる。だから96条を変えよう」という発想だ。

 これは憲法の危機だ。権力者は常に堕落する危険があり、歴史の曲がり角で国民が深く納得した憲法で権力を抑えるというのが立憲主義だ。だから憲法は簡単に改正できないようになっている。日本国憲法は世界一改正が難しいなどと言われるが、米国では(上下各院の3分の2以上の賛成と4分の3以上の州議会の承認が必要で)改正手続きがより厳しい。それでも日本国憲法ができた以降でも6回改正している。

 自分たちが説得力ある改憲案を提示できず、維新の存在を頼りに憲法を破壊しようとしている。改憲のハードルを「過半数」に下げれば、これは一般の法律と同じ扱いになる。憲法を憲法でなくすこと。「3分の2以上で国会が発議し、国民投票にかける」というのが世界の標準。私の知る限り、先進国で憲法改正をしやすくするために改正手続きを変えた国はない。

 権力者の側が「不自由だから」と憲法を変えようという発想自体が間違いだ。立憲主義や「法の支配」を知らなすぎる。地道に正攻法で論じるべきだ。「96条から改正」というのは、改憲への「裏口入学」で、邪道だ。(聞き手・石松恒)


 小林節。この人は確かにかねてからの改憲論者だが、第1次安倍内閣のころの自民党の改憲論に対しても、愛国心を強調する姿勢などを批判し護憲派寄りに回った。私は当時、「言わばなんちゃって改憲派」「現憲法の下で諸活動を続けているうちに、日和った」と評していた。今もそのスタンスに変わりはないように見える。
 彼は本当に改憲を実現させたいのだろうか。それとも、改憲が困難な情勢の下での「改憲派」という立場それ自体を維持したいにすぎないのだろうか。
 「権力参加に関心のある日本維新の会」って、維新の会が自民党との連立を主張しているの? そもそも政党が権力参加を志向して何が悪いの? 「確かな野党」がそんなに偉いの?
 「だから憲法は簡単に改正できないようになっている」そうしたのは誰なの? 日本国民なの?
 閑話休題。

 日本国憲法が世界一改正が難しいなどということはなく、例えば米国の方がより厳しいという見方には、以前の記事にも書いたように私も同感だ。
 だが、「改憲のハードルを「過半数」に下げれば、これは一般の法律と同じ扱いになる。憲法を憲法でなくすこと。」とはおかしいだろう。一般の法律には国民投票はないのだから。
 そして、「「3分の2以上で国会が発議し、国民投票にかける」というのが世界の標準。」とは言い過ぎではないだろうか。以前民主国家の改正手続を比較してみたが、「3分の2以上で国会が発議し、国民投票にかける」国は日本と韓国ぐらいしかなかった(註)。
 「世界の標準」並みの厳格さだという趣旨かもしれないが、しかしこれでは、「3分の2以上で国会が発議し、国民投票にかける」国はわが国だけでなく多数あるのだろう、何しろ憲法学者サマ、しかも改憲派の方がおっしゃっているのだから間違いない、と誤解する読者も多いのではないだろうか。

 一方、同じく憲法学者の西修・駒澤大学名誉教授による「憲法改正へ「世界一の難関」崩せ」「先進国で最も厳しい発議要件」といった見出しの記事を4月1日付産経新聞が掲載していたのは以前批判したとおりだ。

 96条改正論に対して、これを支持するなり、批判するなり、様々な見方が当然有り得るだろう。
 しかし、各国と比較してわが国の改正要件はどうなのかというごく客観的な考察において、何故これほどまでに極端な差が出るのか。
 しかも素人ではない、憲法学者によって。

 学者でありながら、自らの政治的主張のために、事実を枉げてはばからない。
 こういうのを曲学阿世の徒と言うのではないか。

 いわゆる有識者がこんなことでは困る。
 そして報道機関も、社論に沿ったデマを無定見に拡散するのではなく、もう少し本質を突いた議論が行われるよう配慮してもらいたいものだ。


註 「3分の2以上で国会が発議し、国民投票にかける」国は日本と韓国ぐらいしかなかった

 スペインは、特別な場合にのみ3分の2以上を2回、さらに国民投票を要する。
 通常の改正では上下両院のそれぞれ5分の3以上の賛成で足りる(いずれかの院の10分の1が要求すればさらに国民投票)が、憲法の全面改正や、憲法の基本原理、基本的権利及び義務、国王に関する規定などの重要規定の改正については、両院の3分の2以上の賛成の後、解散総選挙し、新国会で再び両院の3分の2以上の賛成を得て、さらに国民投票で過半数の賛成を要する。
 詳しくは↓参照。
http://www.derecho-hispanico.net/boletin/pdf/20090523noguchi.pdf
 後者は特別な場合であり、また紙数の制約があるとはいえ、上記の西修の記事中の「憲法改正を必ず国民投票に付さなければならないという規定を持つ国」についての記述において、このスペインの事例に一切言及していないことには不審を覚える。

憲法96条改正は「ルール」の変更か?

2013-05-04 01:25:34 | 日本国憲法
 政府与党が日本国憲法の改正手続を規定した96条の改正を主導するのは、ルールを勝手に変えるものだという批判がある。

 かさこ「憲法違反の政治家が憲法を変えやすいようルールを変えちまえって恐ろしい話」

憲法違反している政治家が憲法を変えようって犯罪者が取締りルールを勝手に変えちまえって話と同じ。
しかもそういう無茶苦茶なことができないようにルールを改正するには高いハードルが課されているのに「だったらルール改正のルールから変えたらいいじゃん!」ってルールを守っていない人たちが勝手に決めるってこんなひどい国はない。


 辻元清美「「憲法九六条改正」問題について━━自分が有利になるようルールを変えるのは卑怯だ」

これは、たとえばスポーツの世界でいえば、試合になかなか勝てないから、自分が有利になるようにルールを変えてしまえ、と言っているに等しいのではないですか。
どんな世界でもそんなことをしたら「ズルイ」「卑怯だ」という声が飛んできそうです。それは、道理に反するからです。
安部総理は「こどもの道徳教育が大事」とおっしゃっています。そうであるのなら、今のルールで、正々堂々と自分の主張を実現する努力をするべきではないでしょうか。


 初鹿明博「96条改正は国民主権の危機だ!」

憲法は、多数を握った権力者が横暴、圧制を働くことがないように、国民の基本的人権や自由を守るために、守らなくてはならない最低限のルールをあらかじめ定めたものであります。つまり、国民が権力者を縛るためのものが憲法です。

ですから、権力者が変わるごとに、自分達(もしくは自分)の都合が良いように安易にルールの変更が出来ないように改正の手続きが他の法律よりも厳しく規定されているのです。

ですから96条を改正して改正の要件を緩和するということは、時の権力者もしくは多数者の意向によって、都合の良いように変えることが出来るようにするということで、立憲主義に反することであります。

しかも、それを時の権力者である総理大臣が先頭に立って言っているというのは、民主主義や国民主権、立憲主義の基本を理解していない、民主主義国の政治家として失格だと私は感じています。憲法改正について権力を握っている内閣の構成員が発言することは減に慎むべしと思います。


 憲法記念日である昨日、朝日新聞朝刊のオピニオン面に掲載された石川健治・東大教授による「96条改正という「革命」」と題する長文の寄稿も、似たようなことを述べているが、さらに問題の本質に迫っている。

憲法改正条項たる96条を改正する権限は、何に根拠があり、誰に与えられているのだろうか。これが、現下の争点である。結論からいえば、憲法改正権者に、改正手続きを争う資格を与える規定を、憲法の中に見いだすことはできない。それは、サッカーのプレーヤーが、オフサイドのルールを変更する資格をもたないのと同じである。

 フォワード偏重のチームが優勝したければ、攻撃を阻むオフサイド・ルールを変更するのではなく、総合的なチーム力の強化を図るべきであろう。それでも、「ゲームのルール」それ自体を変更してまで勝利しようとするのであれば、それは、サッカーというゲームそのものに対する、反逆である。

 同様に、憲法改正条項を改正することは、憲法改正条項に先行する存在を打ち倒す行為である。打ち倒されるのは、憲法の根本をなす上位の規範であるか、それとも憲法制定者としての国民そのものかは、意見がわかれる。だが、いずれにせよ、立憲国家としての日本の根幹に対する、反逆であり「革命」にほかならない。打ち倒そうとしているのは、内閣総理大臣をはじめ多数の国会議員である。これは、立憲主義のゲームに参加している限り、護憲・改憲の立場の相違を超えて、協働して抑止されるべき事態であろう。

 なかなか憲法改正が実現しないので、からめ手から攻めているつもりかもしれないが、目の前に立ちはだかるのは、憲法秩序のなかで最も高い城壁である。憲法96条改正論が、それに気がついていないとすれば、そのこと自体、戦慄すべきことだといわざるを得ない。


 改正規定それ自体は改正できないという説はしばしば聞く。
 しかしそれでは、クーデターや革命によって政体が変わらなければ、永遠に改正規定が維持されてしまうことになる。
 制定者の意思が、未来永劫将来の世代を縛ることになる。
 それはおかしいのではないだろうか。

 私は、無制限改正説でよいのではないかと思う。

 その点を差し引いても、こうした「ルール」という観点からの主張に対しては、さらに次のような疑問がある。

 では、その「ルール」は、誰がどのように決めたのか。

 これを国民が決めたというなら、話はまだわかる。
 国民が革命を起こして独裁者を打倒し、民主的な国家に変えた。その体制の根幹である憲法の制定に際して、改正するには厳しい要件を付した。だからこれを安易に変えてはならない――と言うのなら。

 しかし、日本国憲法を制定したのは、国民ではない。
 言うまでもなく、GHQである。

 GHQが1946年2月13日に日本政府に呈示したいわゆるマッカーサー草案の外務省仮訳では、改正規定は次のようになっていた。

第八十九條 此ノ憲法ノ改正ハ議員全員ノ三分ノ二ノ賛成ヲ以テ國會之ヲ發議シ人民ニ提出シテ承認ヲ求ムヘシ人民ノ承認ハ國會ノ指定スル選擧ニ於テ賛成投票ノ多数決ヲ以テ之ヲ爲スヘシ右ノ承認ヲ經タル改正ハ直ニ此ノ憲法ノ要素トシテ人民ノ名ニ於テ皇帝之ヲ公布スヘシ
(江藤淳編『占領史録 3 憲法制定経過』講談社学術文庫、1989、p.202。一部の旧字体の漢字はフォントが見当たらず新字体に直した)


 これは、成立した憲法96条の

第九十六条  この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2  憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。


とほぼ同じである。
 マッカーサー草案に対しては、わが国の政府や国会における憲法制定過程において、一院制が二院制に変更されるなど、さまざまな修正が加えられたが、この改正規定はほとんど問題にされなかったという。問題にできる性質のものでもなかったのだろう。
 だから、この「ルール」を決めたのはGHQであって、日本国民の意思は反映されていない。

 もっとも、当時の政府も国会も、この「ルール」を承認している。
 しかしそれは、占領下という、承認せざるを得ない情勢にあったからこそ、承認したにすぎない。

 したがって、石川が言う

打ち倒されるのは、憲法の根本をなす上位の規範であるか、それとも憲法制定者としての国民そのものか


は、どちらでもない。
 打ち倒されるのは、GHQによる占領管理体制である。

いずれにせよ、立憲国家としての日本の根幹に対する、反逆であり「革命」にほかならない。
 

 これも当たらない。
 占領管理体制として形成された日本の根幹に対する、反逆であり「革命」にすぎない。

打ち倒そうとしているのは、内閣総理大臣をはじめ多数の国会議員である。これは、立憲主義のゲームに参加している限り、護憲・改憲の立場の相違を超えて、協働して抑止されるべき事態であろう。


 そんなことはあるまい。
 憲法の下で民主的に選出された国会議員、そして彼らが選出した内閣総理大臣の行動が、立憲主義に基づくものでなくて何だというのか。
 100年前のわが国に、第1次憲政擁護運動があった。わが国が当時のような情勢なら、石川の言うこともわからないではない。しかし、現在のわが国は、当時のような藩閥政府によって治められているのではない。

 独立国が国内に残存する占領管理体制を打倒する。誠に結構なことではないか。
 石川は、図らずも問題の本質を露呈してくれたようだ。

 日本国憲法無効論というのがあるが、私はこれを支持しているわけではない。
 現実に有効なものとして機能してきたのであり、今さら無効だと言ったところで始まらない。

 また、現憲法や、占領下の諸改革の意義を全否定するつもりもない。評価すべき点は多々あろう。
 現憲法が諸悪の根源であるかのごとき主張もあるが、私はこれに与しない。

 しかし、GHQ製の憲法であるにもかかわらず、日本国民が国家を縛るために生み出したかのごとく語る欺瞞は、全く支持できるものではない。

 96条改正論にしても、それは96条に規定された手続を踏まないと実現できないのに、いったい何をそんなに恐れているのだろうか。

 仮に両議院の3分の2以上の賛成を得て国民投票が実施されたとしても、そこで否決されれば、それはこの改正規定が国民によって明確に支持されたということになるというのに。

 現在のルール(96条)にのっとったプレイ(改正手続)を否定する者こそがむしろルール違反ではないのだろうか。


国民の不可解な憲法意識

2013-05-03 15:35:19 | 日本国憲法
 朝日新聞が昨日の朝刊で報じた全国郵送世論調査によると、憲法9条を「変えない方がよい」とする意見が過半数だったという。

憲法記念日を前に朝日新聞社は全国郵送世論調査を行い、憲法に関する有権者の意識を探った。それによると、憲法96条を変え、改憲の提案に必要な衆参各院の議員の賛成を3分の2以上から過半数に緩める自民党の主張について、反対の54%が賛成の38%を上回った。9条についても「変えない方がよい」が52%で、「変える方がよい」の39%より多かった。

〔中略〕

 9条については、昨年4月下旬に実施した電話調査でも「変えない方がよい」が55%、「変える方がよい」30%だった。調査方法が違い、質問文もやや異なるため単純に比較できないが、「変えない方がよい」という人が多い傾向は続いている。

 参院比例区の投票先で自民を挙げた人は49%に達したが、自民投票層でも、9条を「変える」が45%、「変えない」が46%とほぼ並んだ。自民党は9条を変えるべきだと主張しているが、変えない方がよいという人でも「景気や雇用」などを重視して自民に投票するという構図だ。

 また、今の憲法を「変える必要がある」は54%、「変える必要はない」が37%だった。質問文がやや異なるが、過去の電話や面接調査では1990年代後半以降、改憲派が多い。


 9条に関する質問と回答は以下のとおり(数字は%)。

◆以下は、憲法第9条の条文です。(憲法9条条文は省略)憲法第9条を変える方がよいと思いますか。変えない方がよいと思いますか。

 変える方がよい  39

 変えない方がよい 52

◇(「変える方がよい」と答えた39%の人に)それはどうしてですか。

 今の自衛隊の存在を明記すべきだから        37〈14〉

 自衛隊を正式な軍隊にすべきだから         17 〈7〉

 日米同盟の強化や東アジア情勢の安定につながるから 41〈16〉

◇(「変えない方がよい」と答えた52%の人に)それはどうしてですか。

 戦争を放棄し、戦力を持たないとうたっているから 48〈25〉

 今のままでも自衛隊が活動できるから       34〈18〉

 変えると東アジア情勢が不安定になるから     14〈7〉

〔中略〕

◆憲法第9条があったから非核三原則や武器輸出の原則禁止の政策がつくられ、戦後の日本で軍事の分野が強くなることへの歯止めになった、という意見があります。その通りだと思いますか。

 その通りだ   69

 そうは思わない 25

◆憲法第9条の条文が多少現実と違っていても日本のとるべき姿勢として変えないでおく方がよい、という意見があります。その通りだと思いますか。

 その通りだ   59

 そうは思わない 35

◆いまの自衛隊は憲法に違反していると思いますか。違反していないと思いますか。

 違反している  17

 違反していない 74


 この調査結果に対して、森達也はこう述べている

■映画監督・作家で明治大特任教授の森達也さん

 憲法9条を変えない、という意見が多かったのは、意外だった。

 総選挙では予想通りというか、予想を上回るほどの自民党圧勝だった。小選挙区のマジックを差し引いても、自民党や安倍政権への支持が強いのは間違いない。票を入れた人の多くは、憲法9条改定にも賛成なのだろう、と思い込んでいた。だが、調査結果では、景気浮揚策への期待から政権を支持しても、憲法9条改定までは支持していないことが浮かび上がる。自民党や安倍晋三首相には、軌道修正を期待したい。

 ただし僕は、がちがちの護憲派ではない。半世紀以上たっているのだから、時代に合わない要素があればマイナーチェンジしてもいい。でも9条も含め、基本理念は安易に変えるべきではない。

〔後略〕


 私も意外に思った。全く同様に、安倍政権支持者の多くは9条改正にも賛成なのだろうと漠然と思っていたからだ(同じ世論調査で、安倍政権の支持率は66%)。

 世論調査では、意図した結果が出るように誘導的な質問が用いられることがしばしばある。
 この調査でも、

◆衆議院や参議院の一票の格差が是正されない状態で選ばれた議員が改憲の提案をするのは、問題だと思いますか。問題ではないと思いますか。

 問題だ    54

 問題ではない 38


こんな質問がある。
 問題か問題でないかと問われれば、問題があると考える人は多いだろう。
 しかし、問題があることと、改憲の提案をしてはならないこととは別である。
 何故、「改憲の提案をしてよいと思いますか。してはならないと思いますか。」と問わないのか。
 それは、紙面に掲載されている、こんな識者のコメントを得るためだろう。

 96条の改憲手続きを緩和する自民党案に賛成の人でも、一票の格差が是正されていない状態で選ばれた議員が改憲の提案をするのは問題だという人が44%いた。この結果が示す通り、今の議員は国民の代表としての資格がない。認められているのは選挙制度改革をして選挙を実施することと、国民生活に支障を及ぼさないよう必要最小限の国政をすることだけだ。それ以上の資格はなく、まして憲法をいじる資格はない。(浦部法穂・神戸大名誉教授)


 「問題がある」という意見が多かっただけで、改憲の「資格はない」と断じている。
 仮に「提案をしてよいと思いますか。してはならないと思いますか。」という質問だったら、果たしてどうだっただろうか。

 また、木走正光氏が指摘しているように、天皇を元首と定めることが、戦前のような人権が制限された社会になることにつながるとの印象を与える質問もある。

 しかし、この9条関連のいくつかの質問は、そのようなトリッキーなものではない。
 にもかかわらず、このような結果となったことが私には意外だった。

 紙面によると、自民支持層で9条を「変える」が49%、「変えない」が43%。この夏の参院選で自民に投票するとしている層では「変える」45%、「変えない」46%とのこと。

 そして自衛隊を違憲とするのが17%、合憲とするのが74%。
 さらに、「憲法第9条の条文が多少現実と違っていても日本のとるべき姿勢として変えないでおく方がよい、という意見」に対して、「その通りだ」が59%、「そうは思わない」が35%。この数字は9条を「変えない」52%、「変える」39%に近いから、かなり重複しているのだろう。
 つまり、国民の半数強は、9条と自衛隊の現実との乖離を支持しているということだ。

 私はこうした結果と、それを何ら問題視しないマスコミの報道姿勢が恐ろしい。
 何故なら、これは、憲法は理想を掲げていればよく、現実に守られなくてもよいということにほかならないからだ。
 法は守られなければならず、現実にそぐわない法は改めるべしという意識がない。

 9条全文を素直に読めば、自衛隊のような組織ですら持てないことは明らかであろう。現に憲法制定時には、政府もそのような解釈をしていた。しかし、自衛隊の前身の前身である警察予備隊が押しつけにより創設された後、これは自衛のための必要最小限度の「実力」であって、憲法で禁止された「戦力」には当たらないと解釈を変更した。これは基本的には現在も変わっていない。
 しかし、「必要最小限度」とはどの程度か。そして現在の自衛隊は果たして「必要最小限度」と言えるのか。
 「条文が多少現実と違っていても」どころか、全然現実と合致していないのではないか。

 こうした解釈改憲は苦肉の策であり、邪道であった。
 だから鳩山一郎内閣は改憲を志向したが、3分の2の壁に阻まれた。
 当時の情勢ではやむを得なかったかもしれない。
 しかし、いったい何十年、このような不正常な状態を続けるつもりなのか。

 古くから拝読している日記サイト「AE~攻撃側全滅」で、昨年の憲法記念日に全滅屋団衛門さんはこう書いていたが、

2012/5/3(木)

憲法記念日か

まあ、明らかに日本のおかれた現状からは矛盾する条項のある憲法を一字一句変えることは許しません
って主張するのはどうなんだろうなあ
例えば憲法9条は普通に読めば自衛隊の存在を認めない内容の文章に読めるよね
けど自衛隊は実際に日本国内に存在しているわけだ

普通に考えたら「自衛隊は違法だから解散させろ」という世論になるわけだが
実際のところ日本国民にアンケートをとれば
自衛隊は必要
という答えが圧倒的だ
つまり民意は自衛隊は必要だと思っているとかんがえていいわけだ

となれば世論は当然「自衛隊の存在を認めるように憲法を改正しよう」ということになるはずなのだけれども
実際にアンケートをとってみれば「憲法は今のままでいい」という答えが大半だったりするわけで
自衛隊は必要だが自衛隊の存在を否定する憲法は変えてはいけない
非常に矛盾する答えだが
これを私なりに意訳すると
「日本国憲法は守る必要が全くない」というのが民意だということらしいので

そんな守る必要がない憲法を記念する祝日とか存在しないほうがいいと思います

まったく、どいつもこいつも無責任な考え方しかできねえってのはなあ・・・


まさにわが意を得たりの思いだった。

 憲法は理想を掲げていればよく、現実に守られなくてもよいのであれば、諸々の国民の権利規定についても、同様のことが行われればどうなるか。
 中国や北朝鮮の憲法にも、国民の諸権利が明記されている。しかし、それらは決して守られていない。
 「条文が多少現実と違っていても」「変えないでおく方がよい」というなどという姿勢は、結局は憲法を有名無実化するものではないか。
 国民が自ら作り上げた憲法でないから、それを愚直に守る気概も、時代に合わせて改正すべきという気概も生まれず、邪道による現状維持にとどまりたいと思うのだろうか。

 憲法は国民が国家を縛るものであり、権力者が都合に合わせて改憲を図るべきではないなどと、立憲主義の観点から安倍政権の改憲への動きを批判する人々が、こうした憲法の有名無実化を容認する国民の姿勢には何ら言及しないのが不思議でならない。

 9条だけが改憲のポイントではない。
 しかし、9条だけをとっても、速やかな改憲が必要なのは明らかだと私は思う。