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日々の思いをたまに綴るブログ。

「「戦争をしない」こそ得」?

2014-07-19 23:12:51 | 現代日本政治
 前回紹介した6月22日付朝日新聞朝刊社会面の絵本「へいわってすてきだね」を紹介する記事の左には、連載「集団的自衛権を問う」が掲載されていた。
 この連載は著名人の集団的自衛権行使容認に対する見解(ほとんどが反対論。賛成論があっても安倍政権の姿勢には反対とするもの)を紹介するもので、この日は「「戦争をしない」こそ得」との表題で作家の高村薫氏が次のように述べている。

 戦後69年間、日本は戦争で人を殺していないし、殺されていない。集団的自衛権を使う国になれば、その誇りを失う。私には耐え難いし、全ての日本人に覚悟があるとは思えません。


 戦後69年間、わが国が戦争で人を殺していないことを、国民は「誇り」に思っているのだろうか。
 少なくとも私には「誇り」に思えない。
 自衛隊が1人も人を殺さずに済んだのは、まず、戦後のわが国が侵略を受けなかったからだろう。それは、独立と同時に、日米安全保障条約により米国の庇護下に置かれたからだ。
 また、自衛隊が海外における戦闘に積極的に関与してこなかったのは、憲法9条の制約があるからだ。そして、日本国憲法が米国製であることは言うまでもない。
 他国がわが国を侵略しなかったのは他国の自由意志によるものだし、わが国が他国において戦闘に参加しなかったのは米国の自由意志によるものだ。いずれも、わが国の自由意志によるものではない。
 国民が自ら9条のような憲法を制定した、あるいは9条がなく海外での戦闘に参加できるにもかかわらずそれを自制したというなら、高村氏の言うこともわからないでもない。
 しかし、自らの意志に依らず、他者の意志により結果的にそうなっているにすぎないことを「誇り」に思うという感覚は私には理解できない。
(過去記事「誇るべきものとは」参照)

 集団的自衛権の行使は限定的に、と安倍晋三首相は言います。でも、銃弾を一発撃てば戦争の当事者。戦場で若者の命が失われ、国内でテロが起きる可能性もある。「国民の命を守る」という首相の言葉は間違った事実認識に基づいています。特定秘密保護法で肝心な情報が出ず、検証の仕組みがないまま戦争に関わることにもなりかねない。

 私は大阪人。何が得なのかを合理的に考えると、結論は「戦争をしない」。1千兆円の借金を抱える日本に戦争ができますか。力を入れるべきなのは、平和のための外交なんです。

 「武力が使える」という選択肢ができれば、独自の外交を展開する力が弱まります。「戦争放棄」をうたう憲法9条には、まだ利用価値がある。合理的に考えれば分かるはずです。(聞き手・佐藤達弥)


 ○○人だから○○○○と考える――という発想は、個々人の人格を認めずに出身地や民族で性格や思想を決めつけようとするもので、いわゆる差別につながるものではないか。

 それはさておき、私も大阪人だが、「何が得なのかを合理的に考えると、」集団的自衛権の行使を容認することの方が「得」だと思える。

 そもそも、戦争をする・しないという二択について「何が得なのかを合理的に考え」られるという前提がおかしい。具体的にどういう戦争なのかによって、結論は全く変わってくるのではないか。

 確かに、かつての対米英蘭戦は、損得勘定で言えば「損」だった。それもとてつもない「大損」だった。それは当時においても想定できたことであり、それを回避できなかったわが国の指導層は愚かだった。
 だが、全ての戦争が「損」だと断言できるのか。それは何と比較しての「損」なのか。戦争で失うものもあれば、得られるものもあるだろう。また戦争をしないことにより失うものもあれば、得られるものもあるだろう。戦争をするより戦争をしない方が失うものが多く、得られるものが少なければ、損得勘定で言うなら、戦争をする方が「得」だろう。そうした事態は決して有り得ないのだろうか。

 第二次世界大戦後も、さまざまな戦争は起こった。そしてさまざまな国が参戦してきた。それらの国々は皆「損」をし、参戦してこなかったわが国だけが「得」をしてきたのだろうか。
 私には、とてもそうは思えないのだが。

 例えば、中国が尖閣諸島を併合しようと侵攻してきたら、わが国はどうすべきだと高村氏は考えるのだろうか。
 戦争で人命が失われるよりは無人の岩礁をくれてやる方が「得」だとして、応戦せずに併合を認めるのだろうか。そして「平和」が保たれたことを自賛するのだろうか。
 ではさらに中国が、歴史的な経緯から、沖縄諸島の領有権も主張し、侵攻してきたらどうするのだろうか。これまた人命には代えられないと、譲り渡すのだろうか。
 そしてさらに九州までをも要求して侵攻してきたらどうするのだろうか。歴史的根拠のない九州への要求は明らかな侵略であるとしてようやく応戦するのだろうか。しかし沖縄を押さえられていてはわが国にとって地政学的に不利であり、多大な犠牲を出すことになるだろう。となるとはじめから尖閣諸島で応戦しておく方が「得」だったということにならないか。あるいは、勝ち目のない戦いはすべきではないとして、九州でもどこでも譲り渡して、ついには併合されることを選ぶのだろうか。しかし勝ち目がないのは一対一で立ち向かおうとするからだ。複数の国でまとまって対抗すれば、勝ち目が出てくる場合も有り得るだろう。そのための集団的自衛権ではないのか。

 「1千兆円の借金を抱える日本に戦争ができますか」と述べる高村氏の頭には、戦争と言えば先の対米英蘭戦のような国運を賭した全面戦争しかないかのようだが、そんなことはないだろう。第二次世界大戦後、限定的に行われた戦争はいくつもある。
 あらゆる戦争を常に「損」と見るのなら、それはもう「合理的」な判断でも何でもないだろう。単なる狂信的な平和主義にすぎない。

 高村氏は「力を入れるべきなのは、平和のための外交なんです」「「武力が使える」という選択肢ができれば、独自の外交を展開する力が弱まります」と言う。
 フランスドイツカナダスウェーデンといった国々が「独自の外交を展開」しているといった評価を受けることがあるが、これら諸国は「武力が使える」という選択肢をもっていないのだろうか。むしろ「武力が使える」からこそ「独自の外交を展開」できるのではないか。
 普通の国のようには「武力が使え」ず、その点では米国に全面的に依拠しているわが国に、いったいどのような「独自の外交」を行う余地があるというのか。

 高村氏は「「戦争放棄」をうたう憲法9条には、まだ利用価値がある」とも言うが、憲法9条は戦争全般を放棄したのではない。「国際紛争を解決する手段として」の戦争を放棄したのだ。自衛のための戦争は放棄していない。そしてその自衛が自国のみならず他国における自衛をも含むものであって何故いけないのだろうか。
 憲法前文にもこうあるではないか。

われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。


 もっとも、損得で言うと、集団的自衛権を行使できる国になることは「損」だという見方があることは理解できる。
 自国が攻められているわけでもないのに、他国の防衛のために出兵し、国民が傷つき死亡し、国内でテロが起きたりすることは「損」だと。なるほどそう言えるかもしれない。
 しかし、そういうことを言う国は、自国もまた、他国に防衛してもらい、犠牲を払ってもらうことを否定すべきではないのか。日米安保や、国連による集団安全保障を拒否し、他国から侵略されても自国だけで対処しますと宣言すべきではないのか。
 だが、集団的自衛権行使容認に反対する人々から、そうした見解を聞くことはない。
 自国は他国のために犠牲になるつもりはない、しかし他国は自国のために犠牲になってくれ。そんな国をどこの国が身を挺して守ろうとするというのだろうか。
 ましてや、そんな立場を「得」だと公言することは、結果的に見れば「損」になるのではないか。

 あるいは、反対論者は純粋な自衛戦争ではなく、イラク戦争やベトナム戦争のような大義なき戦争(私はそうは思わないが)に巻き込まれることを危惧しているのかもしれない。
 しかし、かつてそうした戦争に参加し、のちにそうした過去に批判的になった国々の中に、もう集団的自衛権はこりごりだ、こんなものは返上しよう、日本を見習って個別的自衛権のみとし、他国に守ってもらおうなどと主張している国があるだろうか。
 それは政策の選択の問題であって、そうしたリスクがあるから、全面的に集団的自衛権は行使すべきではないと考えるのも、「合理的」とは言えないのではないか。


「平和のために戦いに行く」ことからは平和は生まれない?

2014-07-15 23:16:04 | 現代日本政治
 朝日新聞朝刊1面の右端には、その日の2面以降のいくつかの記事のダイジェストが載っている。
 6月22日朝刊のダイジェストの中に、こんなものがあった。

「へいわってすてき」絵本に

 へいわってすてきだね――。昨年、沖縄で6歳の少年が読み上げた詩を、大阪の人気作家が絵本にした。「平和のために戦いに行くなんて、そんなことから平和は生まれへんねん」。詩の優しさが、大人の心をも動かした。 


 「平和のために戦いに行く」ことからは平和は生まれない?
 何だか、このころ紙上で大騒ぎになっていた、安倍内閣の集団的自衛権の行使容認の動きへのあてつけのようなセリフだな。

 果たしてそうなのだろうか。

 第二次世界大戦は、ナチス・ドイツのポーランド侵攻に対して、英国とフランスが、それぞれポーランドと結んでいた相互援助条約に基づいて、ドイツに宣戦布告したことから始まった。今で言う集団的自衛権の行使である。
 フランスは結局ドイツに降伏し、国土の半分を占領された。イギリスは抗戦を続けたが、空爆や潜水艦による通商破壊に苦しんだ。
 ポーランドがドイツに占領されようが、英国とフランスが直接害をこうむるわけではない。だから、両国は自国の「平和」を優先してドイツに宣戦するべきではなかったのだろうか。
 ドイツはソ連と不可侵条約を結んで、ポーランドなど東ヨーロッパ諸国をソ連と分割した。そしてドイツはポーランドのアウシュヴィッツなどに強制収容所を建て、ユダヤ人の絶滅を図った。非ユダヤ人も劣等民族として強制労働に徴用され、抵抗するおそれのある知識層や聖職者は殺害された。
 やがてドイツはソ連に宣戦し、さらに日本の真珠湾攻撃をきっかけに米国にも宣戦したため、ヨーロッパの東西で戦うことになり、消耗の末滅びた。しかし、仮にドイツがソ連にも米国にも宣戦しなければどうなっていただろうか。ファシズムとコミュニズムという二つの全体主義が仲良くヨーロッパ大陸を支配し続けることになっていたかもしれない。

 朝鮮戦争は北朝鮮軍による韓国への侵攻により始まった。国連安全保障理事会は北朝鮮を侵略者と非難し、韓国を支援するため米国軍を主力とする国連軍が結成された。韓国側は釜山周辺にまで追い詰められたが、仁川上陸作戦による反攻に成功し、逆に北朝鮮側を中国との国境付近にまで追い詰めた。しかし今度は中国が北朝鮮を支援するため義勇軍と称して人民解放軍を派遣し、韓国側は押し戻され、当初の分断ラインだった38度線付近で戦線は膠着状態となり、休戦協定が結ばれた。
 北朝鮮が韓国を併合したとしても、米国をはじめとする国連軍参加諸国が直接害をこうむるわけではない。だから、各国は自国の「平和」を優先して戦争に加わるべきではなかったのだろうか。
 しかし、北朝鮮が朝鮮半島を統一すれば、その後の韓国の発展はなかっただろうし、北朝鮮の倍に及ぶ人民が、金日成王朝の下で呻吟することになっただろう。そのような国と海峡で対峙することはわが国にとっても脅威となったことだろう。

 1991年の湾岸戦争は、前年にイラクがクウェートに侵攻し、国連の撤退勧告を拒否したため行われた。
 これも、クウェート1国がイラクに併合されても、米国をはじめとする多国籍軍に参加した国々の多くが直接害をこうむるわけではなかった。だから、各国は自国の「平和」を優先して戦争に加わるべきではなかったのだろうか。
 しかし、イラクがやったのは、世界秩序の現状を武力により変更することだった。これを容認すれば、イラクがさらに周辺の産油国に手を伸ばしたり、イスラエルやエジプトを攻撃することも考えられた。そのようにこの地域が不安定化することは、多国籍軍に参加した国々にとっても不利益だったろう。また、イラク以外の国が同様の行為に及ぶのを防ぐ意味もあったろう。

 「平和のために戦いに行く」ことを否定するのは、侵略国のやりたい放題を容認するということではないのか。
 自国が「平和」でありさえすればそれでいいのだろうか。

 そんなことを思いながら記事のページをめくってみると、こうあった(太字は原文ではゴシック体)。

 「へいわってすてきだね」。日本のいちばん西にある、沖縄県与那国島。そこの当時6歳だった少年が書いた詩が、絵本になった。昨年6月23日、糸満市であった沖縄戦の全戦没者を悼む式典で、本人が読み上げた。素直な言葉が、大人たちを動かした。

〔中略〕

 絵をつけたのは、人気絵本作家の長谷川義史さん(53)=大阪市北区。丸めがねに柔らかな関西弁。テーマは一貫して「生まれてきて、生きているだけでありがたい」。ダイナミック、そしてユーモアたっぷりに描き上げる。「今、やらなきゃ」。詩を読んですぐ、覚悟を決めた。

〔中略〕

 やさしいこころがにじになる。へいわっていいね。へいわってうれしいね。みんなのこころから、へいわがうまれるんだね。

 長谷川さんは言う。「平和のために戦いに行くなんて、そんなことから平和は生まれへんねん。優しい心からじゃなきゃ。それを安里君が教えてくれている」


 「平和のために戦いに行くなんて、そんなことから平和は生まれへんねん」はこの少年の詩ではなく、絵本作家・長谷川義史氏によるものだった。
 まぎらわしいことをしてくれるものだ。

 断っておくが、長谷川氏は現代における優れた絵本作家だと私は思っている。
 その上で言うが、しかしこの言葉はいただけない。
 「平和のために戦いに行く」ことが平和を生むことは、上で述べたように多々あるのではないか。
 仮に私が独裁国家の占領下で呻吟しているとしたら、「優しい心から」だろうがなかろうが関係ない、「平和のために戦いに」来てほしいと乞い願うことだろう。

 記事には「デジタル版に詩の全文」とあったので、こちらも確認してみた。

 そして、ぎょっとした。

せんそうは、おそろしい。

「ドドーン、ドカーン」

ばくだんがおちてくるこわいおと。

おなかがすいて、くるしむこども。

かぞくがしんでしまってなくひとたち。

 

ああ、ぼくは、へいわなときにうまれてよかったよ。

このへいわが、ずっとつづいてほしい。

みんなのえがおが、ずっとつづいてほしい。


 6歳の戦争観などはこんなものだろうし、戦争が何故起こるのかも理解できないだろう。
 しかし、戦争でなくても、
「おなかがすいて、くるし」んだり、
「かぞくがしんでしまってなく」
ことが有り得ることは、知っておいてほしい。
 そして、戦争が、そうした状態から人々を解放することがあることも。

へいわなかぞく、

へいわながっこう、

へいわなよなぐにじま、

へいわなおきなわ、

へいわなせかい、

へいわってすてきだね。

 

これからも、ずっとへいわがつづくように

ぼくも、ぼくのできることからがんばるよ。


 どうやら、幼き平和運動家の誕生をうたった詩だったらしい。
 この詩は、或る種の英才教育のたまものだったのだろうか。

 「へいわなかぞく」「へいわながっこう」「へいわなよなぐにじま」と、身の回りからだんだん広がって、「へいわなおきなわ」と来て、何故一足飛びに「へいわなせかい」となるのだろうか。
 「へいわなにほん」はこの子の頭にはないのだろうか。
 この子に「へいわ」や「せんそう」を教えた者は、きっと「にほん」のことは教えなかったのだろう。

 「ぼくのできることからがんばる」とは、具体的に何をどう頑張るのだろうか。
 「せんそー、はんたーい」と叫ぶことか。
 しかし、或る種の人々を敵視し、攻撃することが「やさしいこころ」「みんなのえがお」を保つことになるのだろうか。


個別的自衛権なら戦争への「歯止め」になるのか(下)

2014-07-06 23:06:18 | 日本国憲法
 政府は今回の閣議決定に際して、集団的自衛権の行使については極めて限定的に容認する立場をとった。しかし、その限定の字句はあいまいであり、時の政府の意向次第でどうにでもなるものだという批判がある。例えば、朝日新聞は閣議決定をこう報じた

 今回の閣議決定は、海外での武力行使を禁じた憲法9条の趣旨の根幹を読み替える解釈改憲だ。政府は1954年の自衛隊発足以来、自国を守る個別的自衛権の武力行使に限って認めてきた。しかし、閣議決定された政府見解では、日本が武力を使う条件となる「新3要件」を満たせば、個別的、集団的自衛権と集団安全保障の3種類の武力行使が憲法上可能とした。

 首相は記者会見で「いままでの3要件とほとんど同じ。憲法の規範性をなんら変更するものではなく、新3要件は憲法上の明確な歯止めとなっている」と強調した。

 しかし、これまでの政府の3要件には「我が国に対する急迫不正の侵害があること」という条件があり、日本は個別的自衛権しか認められないとされてきた。新3要件は「他国に対する武力攻撃」を含んでおり、集団的自衛権を明確に認めた点で全く異なる。さらに首相が「歯止め」と言う新3要件は抽象的な文言で、ときの政権がいかようにも判断できる余地を残している。

 首相は「日本が戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなっていく」とした。だが、集団的自衛権行使の本質は、他国の戦争に日本が加わることだ。(円満亮太)

〔中略〕

 〈武力行使の新3要件〉 ①我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合に、②これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない時に、③必要最小限度の実力を行使すること――という内容。


 しかし、この新3要件が「抽象的な文言」だと言うなら、「これまでの政府の3要件」はどうだったのか。
 防衛省・自衛隊のホームページには、「これまでの政府の3要件」が次のように説明されている

(2)自衛権発動の要件
憲法第9条の下において認められる自衛権の発動としての武力の行使については、政府は、従来から、

①わが国に対する急迫不正の侵害があること
②この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと
③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

という三要件に該当する場合に限られると解しています。


 「急迫不正の侵害」とは何か。
 「必要最小限度の実力行使」とはどこまでなのか。
 これもまた「ときの政権がいかようにも判断できる余地を残している」のではないか。

 1954年12月22日、鳩山一郎内閣の大村清一防衛庁長官は衆議院予算委員会で、憲法は戦争を放棄したが自衛のための抗争は放棄しておらず、自衛のための必要相当な範囲の実力部隊を設けることは憲法に違反しないとの新たな政府統一見解を示した。
 これについて翌23日の同委員会で、野党自由党の本間俊一議員と大村長官及び林修三・内閣法制局長官との間に次のような問答があった(国会会議録検索システムより。明らかな誤記と思われる箇所がいくつもあるがそのままとした。〔 〕内は引用者による註)。

○本間委員 〔中略〕政府の解釈がそういうふうに拡張されて来たことは事実です。そこで前の内閣は、憲法の禁止をしておる戦力とは近代戦争を遂行する能力だ、こういう限界を置いておつたわけです。そこで現内閣はどういう限界を置かれるかということを明らかにしていただきたいと思います。

○大村国務大臣 さきに申し上げますように、自衛権の内容でありますところの自衛力限界は、自衛目的で制約をされておる、こう考えております。

○本間委員 自衛目的で制約されておるということですと、これはちよつとわからないのですが、どういうことなんでする。

○林政府委員 先ほどから防衛庁長官がおつしやつておる通りだと思うのでありますが、昨日来申し上げております通りに、自衛権を認めておるわけでありますから、自衛の目的のためにはもちろん持てる。但しその限度も、自衛権の国土防衛というもののために必要、相当な限度こういう二つの考え方で行くと言われたものと、かように考えます。

○本間委員 亦法制局長官の答弁によりますと、どうもわくのない解釈に立たないとそういう解釈はできないのじやないかと私は思うのです、よろしゆうございますか。防衛目的といいますか自衛のためといいますか、日本を自衛するためにしからば必要なものとなりますと、必要な実力部隊と申しますか、そういうものの限界はないことになります。〔中略〕憲法には一定のわくがあるんだ、こういう説明なんですが、今の御答弁だと、わくのない解釈に立つておられるように私は思う。そこでもしわくがあると言うならば、そのわくはどういうものかということをお尋ねいたしたいと思います。

○林政府委員 今申し上げましたことは、――いわゆるわくはあるものと私ども思つております。要するに自衛のために必要、相当と申しますのは、やはりその国々が置かれた客観的ないろいろな情勢なり、ある時期、状況によりまる判断によけつて、国会がおきめになることだと実は思うわすでございます。これは、いわゆる近代戦争遂行能力という言葉自身も、客観的に一定したものではないと私どもは思うのです。それぞれそのときどきによつて、おのずからやはりそこに上下の動き方がある、かように考えるわけであります。その点は双方どちらも一つのわくであろう、かように考えます。

○本間委員 そうしますと、お尋ねしますが、前の内閣は、この憲法のわくを――(発言する者あり)憲法のわくを近代戦争遂行をする能力だ、要するに近代戦争に耐え得るものは憲法で禁止しておる戦力だ、こう説明しておる。そうすると、今の内閣は前の内閣がとましたわくよりも一体広いのか、狭いのか、その点をひとつ伺いたい。

○大村国務大臣 広いか狭いかということは、これは客観情勢によつてきまることでありまして、わからぬと思います。

○本間委員 わくがあるとおつしやられるから聞いたのですが……。御承知のように実際の問題に当てはめてみれば、その国の地理的な環境によつて、あるいは相手によりましてこれは違つて来るのです。たとえば日本の自衛力あるいは日本の防衛する力というものは違つて来るのです。違つて来るのだが、少くとも今は憲法の解釈を論議しておるのだから、そのわくがあるというのならば、そのわくの概念をどこに置くか。相手によつて違いますということではわくがないということと同じことでしよう。それでは一体現内閣はそのわくをどう考えられるかということとを私はお尋ねしておるわけです。

○大村国務大臣 その点は先ほど来お答えをいたしておりますように、自衛目的で制約されます。

○本間委員 自衛目的でわくがあるということは概念の上でもわくがないということでしよう。
 そうすると、これだけひとつ具体的にお尋ねしますが、前の内閣よりも憲法で禁止しておる戦力のわくは少くとも概念の上では広くお考えですか、狭くお考えですか。おそらく広くお考えになつておるのじやないかと思いますが、広いなら広いでいいのです。その点どつちでもいいのですから……。

○大村国務大臣 これも先ほどお答えいたしましたように、自衛目的に制約された限度でありますから、これは客観情勢によつて広い場合も狭い場合も想像すればあり得ると思います。

○本間委員 それでは、今のような御説明だとすれば、自衛のためにはわくがないんだという解釈をおとりになりたいのじやないですか。その点はどうなんですか。もう一度御答弁を願います。

○大村国務大臣 先ほど来申し上げた通りであります。


 こうした政府の立場は現在でも受け継がれている。
 だから、「自衛目的」であれば、空母の保有も核兵器の保有も憲法には違反しないというのが従来からの政府見解である(最近、安倍首相が小泉内閣の官房副長官だった頃に「核兵器の使用は違憲ではない」という趣旨の発言をしていると騒ぎ立てているツイートを見かけたが、今さら何を言っているんだろうか)。
 個別的自衛権の行使であっても、事実上「わく」など存在しないのである。

 したがって、北方領土や竹島の不法占拠や、北朝鮮による日本人拉致、中国による日本人拘束や火器管制レーダー照射などを、政府が「わが国に対する急迫不正の侵害」とみなし、「他に適当な手段がない」と判断すれば、「必要最小限度の実力行使」を行うことは、従来の憲法解釈上でも可能なのである。
 そうならないのは、単に政府が自制しているからにすぎない。
 「歯止め」となっているのは、その時その時の政府の判断であって、憲法の条文や内閣法制局の憲法解釈ではない。 

 安倍首相が記者会見で「いままでの3要件とほとんど同じ」と述べたというのは全く正しい。

 朝日新聞の円満亮太記者は「今回の閣議決定は、海外での武力行使を禁じた憲法9条の趣旨の根幹を読み替える解釈改憲だ」と述べているが、9条の条文のどこにも、海外での武力行使を禁ずるなどという文言はない。
 9条の趣旨は、「国際紛争を解決する手段として」の戦争の永久放棄、そして「陸海空軍その他の戦力」の不保持であったはずである。2項の「国の交戦権は、これを認めない」とは、自衛のためであれ、戦うこと自体を禁じたと見るべきだろう。だから、1946年の時点では吉田茂首相は、軍備を持たないわが国が独立後侵略を受けたとしても、国際連合がどうにかしてくれるはずだと答弁している
 それを、1950年代の「ときの政権」が、自衛のための実力組織は9条に言う「戦力」には当たらないと解釈を変えた。そちらの方がよっぽど「趣旨の根幹を読み替え」たものではなかったか。
 
 朝日新聞が集団的自衛権の行使容認に反対するのは自由だが、報道と論評は峻別していただきたいものだ。

個別的自衛権なら戦争への「歯止め」になるのか(上)

2014-07-05 23:14:17 | 日本国憲法
 前回取り上げた今年6月20日付朝日新聞の記事「いま聞く A級戦犯の声」のリードにはこうある。

 第2次世界大戦の終結から11年後の1956年、ラジオ番組でA級戦犯となった政治家らの声が流れた。「敗戦は我々の責任じゃない」。それから58年。国会では集団的自衛権をめぐる議論が大詰めを迎える。戦争に関わった人たちの言葉を見つめ直し、いま何ができるのかを考えたい――。声の音源をDVDに収め、共有しようとする動きがある。


 しかし、「集団的自衛権をめぐる議論」とA級戦犯に何の関係があるのだろうか。
 A級戦犯すなわち「平和に対する罪」を問われた者たちは、集団的自衛権に基づいて戦争を起こしたのだろうか。

 もちろん違う。
 わが国が保有していた南満州鉄道の爆破を自作自演して満洲事変を起こし、中国に駐屯していたわが軍に対する攻撃をきっかけに支那事変を起こし、経済制裁に対して「自存自衛の為」と称して対米英蘭戦を起こしたのである。
 いずれも、個別的自衛権に基づいて戦争を起こしたのである。

 昨今の朝日新聞を読んでいると(朝日だけではないだろうが)、従来の個別的自衛権の行使のみであればわが国は平和だが、集団的自衛権の行使容認は「戦争ができる国」になることであり「戦争への道」だといった主張が幅をきかせている。
 「殺さない軍隊」である自衛隊が「殺す軍隊」になるんだとか何とか。
 何を根拠にそんなことが言えるのかさっぱりわからない。
 個別的自衛権しか行使できなくとも戦争になる時にはなるだろうし、集団的自衛権が行使できるようになっても常に戦争に参加するとは限らないからだ。

 今月5日付朝日新聞の連載「日本はどこへ 集団的自衛権」第4回は、古谷浩一・中国総局長が「対日強硬派 利する危うさ」と題して次のように述べている。

 「戦争はいやだ。(集団的自衛権には)反対」。戦中、日本に強制連行された元労働者の一人、張世傑さん(88)は北京の自宅で、そう短く語った。韓国からも、再び朝鮮半島に日本の軍靴が響くことは許さない、といった懸念の声が伝えられる。

 今回の安保政策の転換によって、この地域の民衆レベルで「再び戦争をしようとしているのは日本である」といった警戒感が高まっているのは事実である。

 「(戦争は)断じてあり得ない」と安倍首相が語っても、それは響かない。

 日本の侵略や植民地支配の記憶は、今も深く刻まれている。当局の反日プロパガンダと片付けるわけにはいかない。慰安婦や靖国参拝といった歴史問題での安倍首相の言動に対する不信が、こうした感情をことさら敏感にさせている。

 今月下旬に、日清戦争の開戦120年を迎える。人々が思い起こすのは、朝鮮半島にいる自国民の保護との名目で、日本軍が出兵していたという歴史である。

〔中略〕

 安倍政権がやるべきだったのは、この地域の民の感情に気を使い、説明を尽くし、不信を解いていく努力ではなかったか。

 日本への警戒の高まりは、かえって中国内部の対日強硬派を利する危うさをはらんでいる。十数億人に上る東アジアの人々を敵に回すような「抑止力」はむしろ、日本の安全を脅かしかねない。


 しかし、「朝鮮半島にいる自国民の保護との名目で、日本軍が出兵していた」のは個別的自衛権によるものである。集団的自衛権とは関係ない。

 今回のわが国の動きに対して、韓国政府は、朝鮮半島の安全保障に影響を及ぼす事案では、韓国の同意がない限り、日本の集団的自衛権行使は容認できないとしている。しかし、一般論としてわが国の集団的自衛権行使を容認できないとしているのではない。例えば北朝鮮が再度韓国に侵攻してきた場合、韓国の同意があれば、半島でわが国が韓国を支援することも容認するのだろう。

 仮に中国に対してわが国が集団的自衛権を行使するとすれば、それは、中国が他の国を侵略し、かつ、中国が国連安保理の常任理事国として拒否権を有しているため、国連の集団安全保障が機能しない場合だろう。つまり、中国と某国の間で既に戦争は始まっているのだ。その状況下で「戦争はいやだ」と言ったところではじまらないだろう。この元労働者が集団的自衛権を正しく理解した上で発言しているとは思えない。

 今月1日、中国外務省の副報道局長は「我々は日本国内に強烈な反対の声があることを注視している」と述べたという。そうした「反対の声」の方がよほど「中国内部の対日強硬派を利」しているのではないか。

 自ら他国の警戒を招くような報道をしておきながら、「やるべきだったのは、この地域の民の感情に気を使い、説明を尽くし、不信を解いていく努力ではなかったか」などとよく言えたものだと思う。


朝日新聞記事「いま聞く A級戦犯の声」を読んで

2014-07-01 23:04:29 | 大東亜戦争
 今年6月20日の朝日新聞社会面に「いま聞く A級戦犯の声 58年前のラジオ番組 DVDに」との見出しの記事が載っていた。
 1956年に文化放送が流したラジオ番組「マイクの広場 A級戦犯」を録音したDVDを、大阪市のミニコミ紙「新聞うずみ火」が1枚1000円で頒布しているのだという。
 そのA級戦犯とは橋本欣五郎、賀屋興宣、鈴木貞一、荒木貞夫の4名で、彼らは東京裁判で終身刑となり、独立後に釈放された。
 記事はその発言を詳しく紹介し、彼らに聞き取りをした当時の文化放送のプロデューサー、水野肇(93)のインタビューも掲載している。

 橋本欣五郎の

東京裁判はね、ひとつの「ショー」であると僕は思うね。見せ物。要するに、この日本を弱体化させようと思っとるんだね。


という発言、荒木貞夫の

この戦争はアメリカの(大統領の)ルーズベルトの野心による戦争への誘導に日本が落ちた。これ(日本)を侵略国などと言うのは私は当たらない。


という発言などは、昨今のわが国でもしばしば同様のものを目にするが、この頃からこの種の人々によってこうしたことが語られてきたのだろう。

 また、橋本の

 戦争をやるべく大いに宣伝したということは事実。そして、これが負けたということは、誠に僕は国民に相すまんと思っている。けれども、外国に向かって相すまないとは一つも思っておらない。
 わっちら断然勝つと思っとったんだ。勝たんと思っとんのに戦する人はないですよ。誰でもね、みんな勝つと思っとった。誤算でしょうね、日本の国力が足らなかった。


という発言は、ルーズベルト陰謀論を唱える荒木と相反しており興味深い。

 中見出しに

「敗戦は我々の責任じゃない」転嫁する政治家ら

とある。
 これは、賀屋や鈴木の次のような発言を受けてのものだ。

元大蔵大臣・賀屋興宣 (1889~1977)
 敗戦というものは誰の責任か。我々の責任じゃない。我々がけしからんと言って憤慨するのは少し筋違いじゃないか。おまえ、自分の責任が大いに原因してるぞ。
 あらゆる責任はいわゆる軍閥(軍上層部)が主です。
 財閥や官僚は戦争を起こすことについては、非常に力が薄い。むしろ、反対の者が相当にあった。主たるところは軍人の一部です。

元陸軍中将・鈴木貞一 (1888~1989)
 国民が戦争を本当に欲しないという、それが政治の上に強く反映しておれば、それはそうできない。政治の力が足りなかった。
 政治家は一人で立っているわけじゃないからね、国民の基盤の上に立っている。世論というものが本当にはっきりしていないということから(戦争が)起こっていると思う。
 当時の政治家が軍に頭を下げるようなことをやっておった。軍人を責めるのは無理だ。


 しかし、これは責任転嫁なのだろうか。
 国民が欲しなければ戦争にならなかったというのは事実ではないのだろうか。

 朝日新聞も、敗戦の年の9月6日付「天声人語」では、

▼東久邇首相宮殿下には、切々数千言をもって大東亜戦争の結末にいたる経過と敗戦の因って来る所以を委曲説述され、今後の平和日本創建の方途を示された▼『敗戦の因つて来る所は、もとより一にして止らず、今日われわれが徒らに過去に遡つて誰を責め、何を咎むることもないが、前線も銃後も、軍も官も民も国民尽く、静に反省する所がなければならぬ』▼この首相宮殿下の御言葉の通り敗戦の責任は国民斉しくこれを負荷すべきである


と述べていたというではないか(江藤淳『忘れたことと忘れさせられたこと』文春文庫、1996、p.50-51、太字は引用者による)。

 それに、賀屋が「我々の責任じゃない」と言った「我々」とは、記事ではA級戦犯あるいは政治家を指しているかのように扱っているが、果たしてそうなのだろうか。賀屋は大蔵官僚出身で次官まで上り詰め、大蔵大臣や貴族院議員を務めるに至った人物だ。また、そのあとで軍閥の責任が主だと述べている。「我々」とは賀屋が「力が薄い」と言う「財閥や官僚」のことではないのだろうか。
 賀屋は東條内閣で大蔵大臣を務めたが、対米英蘭戦開戦前の大本営・政府連絡会議では、東郷茂徳外相と共にかなりぎりぎりの段階まで開戦に反対していたことをこの記事を書いた記者は知っているのだろうか。

 また、橋本は、上で引用したように、「負けたということは、誠に僕は国民に相すまんと思っている」と発言しているのだが、こうした箇所に記事が着目しないのはアンフェアではないか。

 ちなみに賀屋は、その後1958年から衆議院議員を5期、池田内閣で法相を務めたが、1975年に朝日カルチャーセンターで戦時財政についての講座を担当したときには、

 国民は、最も苦しいときには、所得の三分の一で生活してもらった。だから戦争に勝てばたいへんなことですが、戦争に負けて、せっかくの貯蓄もゼロになり、苦しい生活をされ、なんらいい結果にならなかったということは、私として、まことに国民に相すまないと、いまだに痛恨の念が残っております。


と述べている(『語りつぐ昭和史 2』(朝日文庫、1990、p.121)。

 そもそも、東條内閣で閣僚を務めた賀屋と鈴木はともかく、クーデター未遂事件を起こした後大佐で退役した橋本や、皇道派に担がれたが二・二六事件で予備役入りし第1次近衛内閣の文相を最後に表舞台から去っていた荒木は、果たしてA級戦犯すなわち「平和に対する罪」を問われるにふさわしい人物だったと言えるのだろうか。
 彼らの発言をいっしょくたにして「A級戦犯の声」として評することに、私は違和感を覚える。

 ところで、検索していると、このラジオ番組の音源については、既に昨年8月13日に高知新聞が報じていることがわかった。この頃水野が知人から託されたのだという。

A級戦犯 ラジオ番組で語る 57年前の音源発見 「敗戦 我々の責任でない」

 そして、今年1月15日、高知新聞はこの記事を含む平和、人権、民主主義に関する一連の報道で第18回新聞労連ジャーナリズム大賞を受けたのだという。

高知新聞に新聞労連大賞 平和、人権、民主主義報道で

 また、このラジオ番組は、高知新聞の報道と同日の昨年8月13日に高知放送ラジオで放送され、

「敗戦、我々の責任でない」A級戦犯ラジオ番組で語る~57年前の音源(高知新聞)/吉良佳子さんのFBから

昨年12月8日には大阪の毎日放送MBSラジオでも「A級戦犯の声~開戦の日に問う」と題する報道特別番組の中で流されたそうだ。

■2013年12月 6日【金】次週はスペシャルウィーク!

来週9日(月)から一週間はMBSラジオの「スペシャルウィーク」!
〔中略〕
また8日(日)夜8時からは
報道特別番組「A級戦犯の声~開戦の日に問う」を放送します。
A級戦犯4人が、自らの戦争責任について語った、
貴重なインタビューをお聴き頂きます。
そして、情報が閉ざされていき、
戦争に至った過程を
ノンフィクション作家の保阪正康さんに伺います。
あの頃と、今が、どうリンクしているのか。
今こそ聴いて頂きたい番組です。
日曜夜8時です。


報道特別番組「A級戦犯の声~開戦の日に問う」(2013/12/8)

 一応今回の朝日の記事は、DVDが頒布されているということを報じるかたちをとっているが、何故この時期にこんなニュースが報じられるのか、書きぶりに何となく不自然な印象を受けていたのだが、そういう事情か。
 だったら、先行報道に敬意を表してもいいように思うが。
 素材が同じだからやむをえないのだろうが、高知新聞のものと内容的にも非常に似通った記事になっているのだし。

(文中敬称略)