前回紹介した6月22日付朝日新聞朝刊社会面の絵本「へいわってすてきだね」を紹介する記事の左には、連載「集団的自衛権を問う」が掲載されていた。
この連載は著名人の集団的自衛権行使容認に対する見解(ほとんどが反対論。賛成論があっても安倍政権の姿勢には反対とするもの)を紹介するもので、この日は「「戦争をしない」こそ得」との表題で作家の高村薫氏が次のように述べている。
戦後69年間、わが国が戦争で人を殺していないことを、国民は「誇り」に思っているのだろうか。
少なくとも私には「誇り」に思えない。
自衛隊が1人も人を殺さずに済んだのは、まず、戦後のわが国が侵略を受けなかったからだろう。それは、独立と同時に、日米安全保障条約により米国の庇護下に置かれたからだ。
また、自衛隊が海外における戦闘に積極的に関与してこなかったのは、憲法9条の制約があるからだ。そして、日本国憲法が米国製であることは言うまでもない。
他国がわが国を侵略しなかったのは他国の自由意志によるものだし、わが国が他国において戦闘に参加しなかったのは米国の自由意志によるものだ。いずれも、わが国の自由意志によるものではない。
国民が自ら9条のような憲法を制定した、あるいは9条がなく海外での戦闘に参加できるにもかかわらずそれを自制したというなら、高村氏の言うこともわからないでもない。
しかし、自らの意志に依らず、他者の意志により結果的にそうなっているにすぎないことを「誇り」に思うという感覚は私には理解できない。
(過去記事「誇るべきものとは」参照)
○○人だから○○○○と考える――という発想は、個々人の人格を認めずに出身地や民族で性格や思想を決めつけようとするもので、いわゆる差別につながるものではないか。
それはさておき、私も大阪人だが、「何が得なのかを合理的に考えると、」集団的自衛権の行使を容認することの方が「得」だと思える。
そもそも、戦争をする・しないという二択について「何が得なのかを合理的に考え」られるという前提がおかしい。具体的にどういう戦争なのかによって、結論は全く変わってくるのではないか。
確かに、かつての対米英蘭戦は、損得勘定で言えば「損」だった。それもとてつもない「大損」だった。それは当時においても想定できたことであり、それを回避できなかったわが国の指導層は愚かだった。
だが、全ての戦争が「損」だと断言できるのか。それは何と比較しての「損」なのか。戦争で失うものもあれば、得られるものもあるだろう。また戦争をしないことにより失うものもあれば、得られるものもあるだろう。戦争をするより戦争をしない方が失うものが多く、得られるものが少なければ、損得勘定で言うなら、戦争をする方が「得」だろう。そうした事態は決して有り得ないのだろうか。
第二次世界大戦後も、さまざまな戦争は起こった。そしてさまざまな国が参戦してきた。それらの国々は皆「損」をし、参戦してこなかったわが国だけが「得」をしてきたのだろうか。
私には、とてもそうは思えないのだが。
例えば、中国が尖閣諸島を併合しようと侵攻してきたら、わが国はどうすべきだと高村氏は考えるのだろうか。
戦争で人命が失われるよりは無人の岩礁をくれてやる方が「得」だとして、応戦せずに併合を認めるのだろうか。そして「平和」が保たれたことを自賛するのだろうか。
ではさらに中国が、歴史的な経緯から、沖縄諸島の領有権も主張し、侵攻してきたらどうするのだろうか。これまた人命には代えられないと、譲り渡すのだろうか。
そしてさらに九州までをも要求して侵攻してきたらどうするのだろうか。歴史的根拠のない九州への要求は明らかな侵略であるとしてようやく応戦するのだろうか。しかし沖縄を押さえられていてはわが国にとって地政学的に不利であり、多大な犠牲を出すことになるだろう。となるとはじめから尖閣諸島で応戦しておく方が「得」だったということにならないか。あるいは、勝ち目のない戦いはすべきではないとして、九州でもどこでも譲り渡して、ついには併合されることを選ぶのだろうか。しかし勝ち目がないのは一対一で立ち向かおうとするからだ。複数の国でまとまって対抗すれば、勝ち目が出てくる場合も有り得るだろう。そのための集団的自衛権ではないのか。
「1千兆円の借金を抱える日本に戦争ができますか」と述べる高村氏の頭には、戦争と言えば先の対米英蘭戦のような国運を賭した全面戦争しかないかのようだが、そんなことはないだろう。第二次世界大戦後、限定的に行われた戦争はいくつもある。
あらゆる戦争を常に「損」と見るのなら、それはもう「合理的」な判断でも何でもないだろう。単なる狂信的な平和主義にすぎない。
高村氏は「力を入れるべきなのは、平和のための外交なんです」「「武力が使える」という選択肢ができれば、独自の外交を展開する力が弱まります」と言う。
フランス、ドイツ、カナダ、スウェーデンといった国々が「独自の外交を展開」しているといった評価を受けることがあるが、これら諸国は「武力が使える」という選択肢をもっていないのだろうか。むしろ「武力が使える」からこそ「独自の外交を展開」できるのではないか。
普通の国のようには「武力が使え」ず、その点では米国に全面的に依拠しているわが国に、いったいどのような「独自の外交」を行う余地があるというのか。
高村氏は「「戦争放棄」をうたう憲法9条には、まだ利用価値がある」とも言うが、憲法9条は戦争全般を放棄したのではない。「国際紛争を解決する手段として」の戦争を放棄したのだ。自衛のための戦争は放棄していない。そしてその自衛が自国のみならず他国における自衛をも含むものであって何故いけないのだろうか。
憲法前文にもこうあるではないか。
もっとも、損得で言うと、集団的自衛権を行使できる国になることは「損」だという見方があることは理解できる。
自国が攻められているわけでもないのに、他国の防衛のために出兵し、国民が傷つき死亡し、国内でテロが起きたりすることは「損」だと。なるほどそう言えるかもしれない。
しかし、そういうことを言う国は、自国もまた、他国に防衛してもらい、犠牲を払ってもらうことを否定すべきではないのか。日米安保や、国連による集団安全保障を拒否し、他国から侵略されても自国だけで対処しますと宣言すべきではないのか。
だが、集団的自衛権行使容認に反対する人々から、そうした見解を聞くことはない。
自国は他国のために犠牲になるつもりはない、しかし他国は自国のために犠牲になってくれ。そんな国をどこの国が身を挺して守ろうとするというのだろうか。
ましてや、そんな立場を「得」だと公言することは、結果的に見れば「損」になるのではないか。
あるいは、反対論者は純粋な自衛戦争ではなく、イラク戦争やベトナム戦争のような大義なき戦争(私はそうは思わないが)に巻き込まれることを危惧しているのかもしれない。
しかし、かつてそうした戦争に参加し、のちにそうした過去に批判的になった国々の中に、もう集団的自衛権はこりごりだ、こんなものは返上しよう、日本を見習って個別的自衛権のみとし、他国に守ってもらおうなどと主張している国があるだろうか。
それは政策の選択の問題であって、そうしたリスクがあるから、全面的に集団的自衛権は行使すべきではないと考えるのも、「合理的」とは言えないのではないか。
この連載は著名人の集団的自衛権行使容認に対する見解(ほとんどが反対論。賛成論があっても安倍政権の姿勢には反対とするもの)を紹介するもので、この日は「「戦争をしない」こそ得」との表題で作家の高村薫氏が次のように述べている。
戦後69年間、日本は戦争で人を殺していないし、殺されていない。集団的自衛権を使う国になれば、その誇りを失う。私には耐え難いし、全ての日本人に覚悟があるとは思えません。
戦後69年間、わが国が戦争で人を殺していないことを、国民は「誇り」に思っているのだろうか。
少なくとも私には「誇り」に思えない。
自衛隊が1人も人を殺さずに済んだのは、まず、戦後のわが国が侵略を受けなかったからだろう。それは、独立と同時に、日米安全保障条約により米国の庇護下に置かれたからだ。
また、自衛隊が海外における戦闘に積極的に関与してこなかったのは、憲法9条の制約があるからだ。そして、日本国憲法が米国製であることは言うまでもない。
他国がわが国を侵略しなかったのは他国の自由意志によるものだし、わが国が他国において戦闘に参加しなかったのは米国の自由意志によるものだ。いずれも、わが国の自由意志によるものではない。
国民が自ら9条のような憲法を制定した、あるいは9条がなく海外での戦闘に参加できるにもかかわらずそれを自制したというなら、高村氏の言うこともわからないでもない。
しかし、自らの意志に依らず、他者の意志により結果的にそうなっているにすぎないことを「誇り」に思うという感覚は私には理解できない。
(過去記事「誇るべきものとは」参照)
集団的自衛権の行使は限定的に、と安倍晋三首相は言います。でも、銃弾を一発撃てば戦争の当事者。戦場で若者の命が失われ、国内でテロが起きる可能性もある。「国民の命を守る」という首相の言葉は間違った事実認識に基づいています。特定秘密保護法で肝心な情報が出ず、検証の仕組みがないまま戦争に関わることにもなりかねない。
私は大阪人。何が得なのかを合理的に考えると、結論は「戦争をしない」。1千兆円の借金を抱える日本に戦争ができますか。力を入れるべきなのは、平和のための外交なんです。
「武力が使える」という選択肢ができれば、独自の外交を展開する力が弱まります。「戦争放棄」をうたう憲法9条には、まだ利用価値がある。合理的に考えれば分かるはずです。(聞き手・佐藤達弥)
○○人だから○○○○と考える――という発想は、個々人の人格を認めずに出身地や民族で性格や思想を決めつけようとするもので、いわゆる差別につながるものではないか。
それはさておき、私も大阪人だが、「何が得なのかを合理的に考えると、」集団的自衛権の行使を容認することの方が「得」だと思える。
そもそも、戦争をする・しないという二択について「何が得なのかを合理的に考え」られるという前提がおかしい。具体的にどういう戦争なのかによって、結論は全く変わってくるのではないか。
確かに、かつての対米英蘭戦は、損得勘定で言えば「損」だった。それもとてつもない「大損」だった。それは当時においても想定できたことであり、それを回避できなかったわが国の指導層は愚かだった。
だが、全ての戦争が「損」だと断言できるのか。それは何と比較しての「損」なのか。戦争で失うものもあれば、得られるものもあるだろう。また戦争をしないことにより失うものもあれば、得られるものもあるだろう。戦争をするより戦争をしない方が失うものが多く、得られるものが少なければ、損得勘定で言うなら、戦争をする方が「得」だろう。そうした事態は決して有り得ないのだろうか。
第二次世界大戦後も、さまざまな戦争は起こった。そしてさまざまな国が参戦してきた。それらの国々は皆「損」をし、参戦してこなかったわが国だけが「得」をしてきたのだろうか。
私には、とてもそうは思えないのだが。
例えば、中国が尖閣諸島を併合しようと侵攻してきたら、わが国はどうすべきだと高村氏は考えるのだろうか。
戦争で人命が失われるよりは無人の岩礁をくれてやる方が「得」だとして、応戦せずに併合を認めるのだろうか。そして「平和」が保たれたことを自賛するのだろうか。
ではさらに中国が、歴史的な経緯から、沖縄諸島の領有権も主張し、侵攻してきたらどうするのだろうか。これまた人命には代えられないと、譲り渡すのだろうか。
そしてさらに九州までをも要求して侵攻してきたらどうするのだろうか。歴史的根拠のない九州への要求は明らかな侵略であるとしてようやく応戦するのだろうか。しかし沖縄を押さえられていてはわが国にとって地政学的に不利であり、多大な犠牲を出すことになるだろう。となるとはじめから尖閣諸島で応戦しておく方が「得」だったということにならないか。あるいは、勝ち目のない戦いはすべきではないとして、九州でもどこでも譲り渡して、ついには併合されることを選ぶのだろうか。しかし勝ち目がないのは一対一で立ち向かおうとするからだ。複数の国でまとまって対抗すれば、勝ち目が出てくる場合も有り得るだろう。そのための集団的自衛権ではないのか。
「1千兆円の借金を抱える日本に戦争ができますか」と述べる高村氏の頭には、戦争と言えば先の対米英蘭戦のような国運を賭した全面戦争しかないかのようだが、そんなことはないだろう。第二次世界大戦後、限定的に行われた戦争はいくつもある。
あらゆる戦争を常に「損」と見るのなら、それはもう「合理的」な判断でも何でもないだろう。単なる狂信的な平和主義にすぎない。
高村氏は「力を入れるべきなのは、平和のための外交なんです」「「武力が使える」という選択肢ができれば、独自の外交を展開する力が弱まります」と言う。
フランス、ドイツ、カナダ、スウェーデンといった国々が「独自の外交を展開」しているといった評価を受けることがあるが、これら諸国は「武力が使える」という選択肢をもっていないのだろうか。むしろ「武力が使える」からこそ「独自の外交を展開」できるのではないか。
普通の国のようには「武力が使え」ず、その点では米国に全面的に依拠しているわが国に、いったいどのような「独自の外交」を行う余地があるというのか。
高村氏は「「戦争放棄」をうたう憲法9条には、まだ利用価値がある」とも言うが、憲法9条は戦争全般を放棄したのではない。「国際紛争を解決する手段として」の戦争を放棄したのだ。自衛のための戦争は放棄していない。そしてその自衛が自国のみならず他国における自衛をも含むものであって何故いけないのだろうか。
憲法前文にもこうあるではないか。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
もっとも、損得で言うと、集団的自衛権を行使できる国になることは「損」だという見方があることは理解できる。
自国が攻められているわけでもないのに、他国の防衛のために出兵し、国民が傷つき死亡し、国内でテロが起きたりすることは「損」だと。なるほどそう言えるかもしれない。
しかし、そういうことを言う国は、自国もまた、他国に防衛してもらい、犠牲を払ってもらうことを否定すべきではないのか。日米安保や、国連による集団安全保障を拒否し、他国から侵略されても自国だけで対処しますと宣言すべきではないのか。
だが、集団的自衛権行使容認に反対する人々から、そうした見解を聞くことはない。
自国は他国のために犠牲になるつもりはない、しかし他国は自国のために犠牲になってくれ。そんな国をどこの国が身を挺して守ろうとするというのだろうか。
ましてや、そんな立場を「得」だと公言することは、結果的に見れば「損」になるのではないか。
あるいは、反対論者は純粋な自衛戦争ではなく、イラク戦争やベトナム戦争のような大義なき戦争(私はそうは思わないが)に巻き込まれることを危惧しているのかもしれない。
しかし、かつてそうした戦争に参加し、のちにそうした過去に批判的になった国々の中に、もう集団的自衛権はこりごりだ、こんなものは返上しよう、日本を見習って個別的自衛権のみとし、他国に守ってもらおうなどと主張している国があるだろうか。
それは政策の選択の問題であって、そうしたリスクがあるから、全面的に集団的自衛権は行使すべきではないと考えるのも、「合理的」とは言えないのではないか。