前回の記事で、風見章(1886-1961)の回想録『近衛内閣』(中公文庫、1982、親本は1951)における国家総動員法の発動をめぐる次の記述
に非常な不信感を抱いたと書いたが、ここで挙げられている池田成彬蔵相兼商工相については、第11条の発動に反対したという事実があったことを後で知った。
中公文庫版『日本の歴史』シリーズの第25巻、林茂『太平洋戦争』〔註〕(中公文庫、1974、2006改版、単行本は1967)に次のような記述がある。
この国家総動員法第11条の条文は次のとおり(中野文庫による)。
風見の記述は、一応はこうした事実に基づいているのだろう。
しかし、『太平洋戦争』には「第十一条発動を主張する軍部、末次内務・木戸厚生両相と、これに反対する池田蔵相兼商工相および財界はまっこうから対立した。事態の成行きに驚いた近衛首相は内々に折衝をかさね」とあるのだから、風見が言うように、内閣が一致してその発動に慎重であったわけではないのではないだろうか。
そして、第11条の発動を、法全体の発動であるかのように語る風見の記述にはやはり疑問が残る。前回述べたように、国家総動員法の一部は施行と同時に発動し、その他の条文にもこの第11条より前に発動しているものはあったのだから。
ちなみに、末次内相とは海軍大将の末次信正(1880-1944)。ロンドン海軍軍縮条約問題における艦隊派(条約反対派)の中心人物であり、連合艦隊司令長官などを経て予備役入り。右翼団体とのつながりが深く、支那事変に対しては強硬論を主張し、近衛首相をして「内閣の癌」と言わしめた。
木戸厚相とは木戸幸一(1889-1977)。木戸孝允の孫であり、近衛文麿の友人。農商務省勤務などを経て、第1次近衛内閣に文相として入閣、1938年に新設された厚相も兼任。後に天皇の側近である内大臣を務め、東條英機を首相に推し、また終戦工作に尽力した。
余談だが、『近衛内閣』で風見が述べる、国家総動員法の発動を唱えた陸軍の情報部長とは、『太平洋戦争』によれば、前々回取り上げた「黙れ」事件の佐藤賢了であることがわかるが、前回の記事で取り上げたとおり『近衛内閣』は「黙れ」事件に触れているにもかかわらず、情報部長談話の箇所では何故か風見はその名を挙げていない。
また、前々回の記事で取り上げた『佐藤賢了の証言』は、この情報部長談話に触れていない。
さらに余談だが、池田成彬の「成彬」は「しげあき」と読むのだと思っていたが、『太平洋戦争』は「せいひん」とルビをふっている。
調べてみると、コトバンクで出てくるデジタル版日本人名大辞典や世界大百科事典など多くは「しげあき」としているが、池田が総裁を務めた日本銀行のサイトや、出身地である山形県の県立図書館のサイトでは「せいひん」としている。
三井財閥の後身である三井グループの三井広報委員会のサイトでは、「しげあき」としているが、
との記述がある。
註 林茂『太平洋戦争』
2006年の改版に際して付された巻末の佐々木隆・聖心女子大学教授による解説には、「東京大学社会科学研究所教授の林茂氏の単著とされているが、実際には大半は同研究所周辺の中堅・若手研究者が分担執筆したもので林氏が監修したものと伝えられる」とある。
総動員法は、「今次事変には適用せず」と内閣としては、議会において公約したのであった。ところが、のちに内閣は、この公約を勝手に破棄して、それを適用することのよぎなきにいたったのである。このことは、内閣の権威をきずつけるところ甚大であったのだが、ここにいたらしめたのは、軍部の圧力によるのであった。はじめ内閣はこの公約無視をがえんじなかったのである。
いったい、この総動員法を、一九三八年春の議会にかけて成立させておこうとは、内閣一致の考えではあったが、しかし、それだからとて、その実施については、細心の注意をはらって、情勢を見きわめた上のことにするのは、もちろん、議会にはからねばならぬことと、たれもが諒解しあっていたのである。
議会においての「公約」を無視するとあっては、内閣において、ひどい黒星となることなので、同法実施要求の声が軍部方面からあがりかかっても、内閣としては、その要求を無視していたのであった。ところが、とつぜん、陸軍は内閣とはなんのうちあわせもなしに、同法発動の必要を強調した長文の情報部長談を発表したのである。つまり内閣を威圧して、いやおうなしに、その発動をやらせてみせるぞという態度に出たのである。これには近衛氏はもちろん、同法にもっとも関係深い立場にある蔵商相の池田氏のごときは、内心、ひどく憤慨したのであった。池田氏は、それを発動しなくとも、じゅうぶんやっていけるとし、発動しないほうがいいのだと、確信していたのも、たしかである。しかし、事態がこうなったので、閣議はこれを発動するかどうかを議題にする必要にせまられたのであったが、関係各省の官僚が、軍部と歩調をあわせて、それを発動しないことには、やってゆけぬというのであったから、各省大臣もそれにおされて、ついに同法の発動を決定するのよぎなきにいたったのである。(p.152-153)
に非常な不信感を抱いたと書いたが、ここで挙げられている池田成彬蔵相兼商工相については、第11条の発動に反対したという事実があったことを後で知った。
中公文庫版『日本の歴史』シリーズの第25巻、林茂『太平洋戦争』〔註〕(中公文庫、1974、2006改版、単行本は1967)に次のような記述がある。
国家総動員法とならんで第七三議会で成立した重要法律に「電力管理法」「日本発送電株式会社法」などの電力国家管理関係法があった。これは各電力会社から一定規模以上の発電・送電施設を現物出資させて、日本発送電株式会社を設立し、それを国家の管理下に置おこうというものであった。会社所有は民間資本にまかせるが、経営は国家が行なうというこの法律は、企業経営の自由、ひいては資本主義そのものを否定するものとして財界・実業家たちをおそれさせた。電力統制は、一六年には配電部門までに及び、国家総動員法にもとづく「配電統制令」によって、地域別に統合された九配電会社の設立命令が出されるのである。
国家総動員法自体、このような私的資本の自由な競争、自由な経営を否定するものであったから、財界人の総動員法発動にたいするおそれはすでに潜在的に存在していた。これがはっきりと表面にあらわれたのは、同法第十一条の発動をめぐってであった。
十三年十一月、戦争が新たな段階にはいるに及んで、総動員法の全面発動が日程にのぼってきた。陸軍省佐藤(賢了)情報部長は「……すでに『東亜新秩序建設』という大理想を宣言し、かつ現下内外の情勢に鑑みる時は、なるべく速かに重要な条項は全部、ついには全条項が洩れなく発動されて有機的戦時態勢を完成するは刻下の急務である」として、資金統制・会社利益金処分関係を規定した第十一条の発動をほのめかす談話を発表した。
これにたいして池田成彬蔵相兼商工相は、財界の立場にたって「今産業界は戦時経済体制下のいろいろの統制を受け、増税の圧力下にもある。唯一の残された活路は配当の自由……だと思う。もし配当制限をすればけっきょく経済界は萎縮し、ひいては生産力拡充という重要な目標を阻害してしまうだろう」と語り、第十一条の発動に反対の態度を示した。
かくして第十一条発動を主張する軍部、末次内務・木戸厚生両相と、これに反対する池田蔵相兼商工相および財界はまっこうから対立した。事態の成行きに驚いた近衛首相は内々に折衝をかさね、けっきょく、発動はするが財界を刺激しないよう慎重にこれを行なうという「政治的」解決にこぎつけた。
国家総動員法は、このようにして十三年末までに全面的に発動されることになった。(p.103-104)
この国家総動員法第11条の条文は次のとおり(中野文庫による)。
第十一条 政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ会社ノ設立、資本ノ増加、合併、目的変更、社債ノ募集若ハ第二回以後ノ株金ノ払込ニ付制限若ハ禁止ヲ為シ、会社ノ利益金ノ処分、償却其ノ他経理ニ関シ必要ナル命令ヲ為シ又ハ銀行、信託会社、保険会社其ノ他勅令ヲ以テ指定スル者ニ対シ資金ノ運用、債務ノ引受若ハ債務ノ保証ニ関シ必要ナル命令ヲ為スコトヲ得
風見の記述は、一応はこうした事実に基づいているのだろう。
しかし、『太平洋戦争』には「第十一条発動を主張する軍部、末次内務・木戸厚生両相と、これに反対する池田蔵相兼商工相および財界はまっこうから対立した。事態の成行きに驚いた近衛首相は内々に折衝をかさね」とあるのだから、風見が言うように、内閣が一致してその発動に慎重であったわけではないのではないだろうか。
そして、第11条の発動を、法全体の発動であるかのように語る風見の記述にはやはり疑問が残る。前回述べたように、国家総動員法の一部は施行と同時に発動し、その他の条文にもこの第11条より前に発動しているものはあったのだから。
ちなみに、末次内相とは海軍大将の末次信正(1880-1944)。ロンドン海軍軍縮条約問題における艦隊派(条約反対派)の中心人物であり、連合艦隊司令長官などを経て予備役入り。右翼団体とのつながりが深く、支那事変に対しては強硬論を主張し、近衛首相をして「内閣の癌」と言わしめた。
木戸厚相とは木戸幸一(1889-1977)。木戸孝允の孫であり、近衛文麿の友人。農商務省勤務などを経て、第1次近衛内閣に文相として入閣、1938年に新設された厚相も兼任。後に天皇の側近である内大臣を務め、東條英機を首相に推し、また終戦工作に尽力した。
余談だが、『近衛内閣』で風見が述べる、国家総動員法の発動を唱えた陸軍の情報部長とは、『太平洋戦争』によれば、前々回取り上げた「黙れ」事件の佐藤賢了であることがわかるが、前回の記事で取り上げたとおり『近衛内閣』は「黙れ」事件に触れているにもかかわらず、情報部長談話の箇所では何故か風見はその名を挙げていない。
また、前々回の記事で取り上げた『佐藤賢了の証言』は、この情報部長談話に触れていない。
さらに余談だが、池田成彬の「成彬」は「しげあき」と読むのだと思っていたが、『太平洋戦争』は「せいひん」とルビをふっている。
調べてみると、コトバンクで出てくるデジタル版日本人名大辞典や世界大百科事典など多くは「しげあき」としているが、池田が総裁を務めた日本銀行のサイトや、出身地である山形県の県立図書館のサイトでは「せいひん」としている。
三井財閥の後身である三井グループの三井広報委員会のサイトでは、「しげあき」としているが、
三井銀行、三井合名の重職を担った池田だが、身辺は質素で、「成彬」(せいひん)ではなく「清貧」とも呼ばれ、引退後は所蔵する書画骨董を売って生計を立てていたほどだった。
との記述がある。
註 林茂『太平洋戦争』
2006年の改版に際して付された巻末の佐々木隆・聖心女子大学教授による解説には、「東京大学社会科学研究所教授の林茂氏の単著とされているが、実際には大半は同研究所周辺の中堅・若手研究者が分担執筆したもので林氏が監修したものと伝えられる」とある。