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日々の思いをたまに綴るブログ。

薄熙来は「保守派」か

2012-03-18 13:37:43 | マスコミ
 中国の温家宝首相が、3月14日の全人代閉幕後の記者会見で
「文化大革命の誤りと封建的な問題が完全には取り除かれていない」
「政治体制改革が成功しなければ経済体制改革は徹底できない。これまでの成果も失われ、文革の悲劇が繰り返される恐れがある」
「党員と幹部は緊迫感を持つべきだ」
などと述べたと、15日の朝日新聞朝刊の記事で読んだ。
 今さら文革とは何事かと思っていたら、その日の夕刊に次のような記事が載った。

重慶市の薄書記を解任
 中国共産党 駆け込み事件で更迭か

 中国共産党は15日、重慶市トップの薄熙来(ポー・シーライ)・市共産党委員会書記(62)を解任する、と発表した。理由は明らかになっていないが、同市の王立軍・副市長(52)が四川省成都の米国総領事館に駆け込んで取り調べを受けた事件の監督責任を問われたとみられる。
 後任は張徳江(チャン・トーチアン)・副首相(65)が兼任する。故薄一波・元副首相を父に持つ薄氏は党政治局員で、秋に世代交代する予定の最高指導部入りが有力と見られていた。今後、どのような処遇をされるかが注目される。
 薄氏は2007年、商務相から重慶市書記に就任。08年、かつての側近だった王氏を重慶市公安局党委副書記に引き抜き、マフィア一掃運動「打黒」を主導した。しかし王氏は先月6日、米総領事館に逃げ込んだ後、党の調査部門に身柄を引き渡されて取り調べを受けている。党は15日、王氏も解任し、後任に青海省の何挺・副市長を充てることを発表した。

 事件をめぐっては、温家宝(ウェン・チアパオ)首相が14日の会見で、「今の市党委と市政府は反省し、教訓をくみ取るべきだ」と述べ、薄氏の責任を追及する構えをみせていた。(北京=峯村健司)


 私は最近の中国の政治についてあまり詳しくない。
 王立軍の米国総領事館駆け込みについてはニュースを読んだ覚えがあるが、どういう意図で、どういう背景のもとに起こった事件なのかよくわかっていなかった。
 マフィア一掃運動の何が問題なの?

 その後の報道で、「打黒」を名目に、政治的反対派や有力者を拘束、処罰して財産を没収し、重慶を薄熙来が統治する「独立王国」化している、しかも文化大革命を想起させるような大衆動員の手法をとっていることが問題視されていると知った。
 16日の朝日新聞朝刊の記事より。

重慶市トップ・薄氏解任
中国 政治闘争の季節
 改革派VS.保守派か

〔前略〕

 薄氏は党の最高指導部である政治局常務委員の有力候補と言われた政治局員。2007年に直轄市である重慶市に着任し「打黒(マフィア一掃)」などの政治運動を展開した。「貧富の格差」の是正を訴える「保守派」の期待を集めていた。

〔中略〕
 薄氏の解任は温首相をはじめとする「改革派」が、「保守派」の増長を許さないと発したメッセージだと受けとめられている。
 改革派は文革を批判し、党の権力分散を志向する。胡錦涛(フー・チンタオ)国家主席の政治理念もこれに近いと見られる。一方、保守派は党の求心力維持を求める人々で、呉邦国(ウー・バンクオ)・全人代常務委員長らが代表格だ。両派は党の路線をめぐり激しく対立する。
 保守派は薄氏を守ろうにも守りきれなかったとの見方がある。薄氏の政治手法が度を超していたからだ。
 昨年9月、温氏を含む複数の政治局常務委員に、ある大学教授の報告書が届けられた。
 「重慶では権力が党や党書記に集中し、好き勝手に人に罪をかぶせている」。
 有力企業の経営者が相次いで「マフィア」として不当に拘束され、財産を没収されているとの告発だった。
〔後略〕(北京=林望、峯村健司)


 17日の朝日新聞朝刊の記事より。

中国・薄氏解任…保守系サイト封鎖
改革派、情勢見極め慎重

 中国共産党が薄熙来(ポー・シーライ)・重慶市党委書記を解任した直後から、急速な改革に異議を唱える保守派(左派)の論壇サイトが軒並み開けない状態が続いている。薄氏は保守派勢力の期待の星。中国当局が保守派論壇の反発を警戒して閉鎖した可能性がある。
〔中略〕
 薄氏は重慶市で「唱紅歌(革命歌を歌う)」などの文革さながらのキャンペーンを展開。「共同富裕」の理念を掲げて格差の是正を強く訴えてきた。青年時代、文革の実働部隊の「紅衛兵」に参加した経歴も含め、党内外の保守勢力を象徴する政治スターだった。
 「早すぎる改革に慎重な立場を取る穏健派から文革時代への回帰を望む極端な意見まで、薄氏は様々な保守勢力の期待を背負ってきた。保守派は今、ひとつの核を失った形だ」。改革派の党長老らが支える雑誌「炎黄春秋」の幹部はそう話す。
 全国人民代表大会(全人代)閉幕後の会見で、重慶の薄氏指導部を厳しく批判した温家宝(ウェン・チアパオ)首相の発言に改革派の知識人からは「文革を批判・総括した小平路線にしっかり立ち戻り、改革を推し進めるという決意を強く感じた」(大学教授)と歓迎の声が相次ぐ。
 ただ、薄氏の解任が党内の保守派と改革派の勢力争いを決定づけるとの見方は少ない。〔後略〕(北京=林望)


 しかし、薄熙来の父薄一波(1908-2007)は、副首相を務めていたが、文化大革命で失脚したはずである。その後毛沢東が死に、トウ小平が復活して、ようやく副首相に復帰するまで10年ほどかかっている。
 その息子が文革で紅衛兵に参加したというのも不思議なら(失脚前のことか?)、30年以上経った現在でも文革的手法をとったというのは解せない話である。

 20年ほど前、中国は八老治国であると言われた。当時党総書記や首相を務めていた胡耀邦や趙紫陽、江沢民や李鵬といった人々ではなく、その上の世代、第一線からは退いたトウ小平、陳雲ら8人の老人によって治められているというのだ。その8人の中には薄一波も含まれている。
 彼らは皆文革で排除された人々である。しかし毛沢東の死後、後継者となった華国鋒は軍の元老葉剣英らと組んで江青ら文革派を排除し、トウ小平らを復活させた。その後はトウの改革・開放政策が既定路線となり、文革は重大な誤りとして総括された。

 したがって、現在の中国では、共産党による一党独裁を否定することはないにしろ、文革が復活するなどありえないと私は考えていたのだが、そう単純な話ではないらしい。
 もともと文革的なものを受け入れる素地が中国人にあったからこそ、文革があれほど猛威を振るったのだろう。そのおそれは未だに否定できないのかもしれない。

 薄熙来についてはウエッジ・インフィニティの

「黒」を制し「赤」を煽る中国・重慶市 2011年08月03日(Wed) 阿古智子

という記事が、また王立軍事件については同サイトの

解任された公安トップが米国総領事館に逃げ込む 薄熙来VS王立軍 重慶事件の真相 2012年02月15日(Wed) 城山英巳

という記事が参考になった。こうした専門家には今回の事態はあらかじめ予測されていたのだろう。

 ところで、上に引用した16日と17日の朝日の記事は、薄熙来を「保守派」とし、温家宝ら「改革派」との路線対立の現れだと唱えている。
 産経や日経も同様の呼び方をしているようだが、私はこれに強い違和感を覚える。

 ソ連末期に、「改革派」ゴルバチョフと「保守派」リガチョフの対立ということが言われた。そのころの中国でも、「改革派」趙紫陽と「保守派」李鵬の対立、あるいは「改革派」トウ小平と「保守派」陳雲の対立といったことが言われた。
 しかし、共産主義の立場からすれば、社会が資本主義から共産主義へと移行するのが歴史の必然なのだから、それを進めることこそが改革であって、経済に資本主義的要素を取り入れたり、言論の自由や政治的選択の自由を認めることはむしろ保守と言うべきではないかという批判は当時からあった。

 共産主義の現状を改革しようとするのか、それとも保守しようとするのかの違いだから、「改革派」「保守派」でよいのだという反論があるかもしれない。なるほどそれも一理ある。
 しかし、そうした見方に立ったとしても、現代中国においては、改革・開放が既定路線なのだから、それを忠実に守ろうとする温家宝らを「改革派」、その路線によって生じた貧富の格差の是正を訴え、路線の修正を図る薄熙来を「保守派」と呼ぶのはやはりおかしいだろう。
 例えば、文革当時、文革派を「保守派」とは誰も呼ばなかった。

 こうした「保守派」「改革派」というのは、要するに「いいもの」「わるもの」というある種のレッテル貼りではないだろうか。
 日本人は、進取の気性に富んでいるのか、「改革」と聞けば無条件で良いこと、「保守」と聞けば頑迷固陋で時代の変化に取り残される、忌むべきものとしてしまいがちのように思える。
 いわゆる保守陣営においてさえそうであり、例えばいわゆる55年体制は保革対立と言われたが、結党時の自民党の綱領や「党の性格」「党の使命」「党の政綱」といった文書のどこにも「保守」の文字はない。「党の性格」では、「わが党は、進歩的政党である。」と自己規定している。
 結党から実に半世紀以上過ぎた、一昨年の平成22年綱領でようやく「保守」の文字が登場するが、そこでも「我が党は常に進歩を目指す保守政党である」とされている。

 そして、マスコミにおいて「保守派」と「改革派」の対立として語られる場合、「保守派」を肯定的に、「改革派」を否定的に評するケースはほとんどないように思える。

 しかし、今回のような「保守派」の用い方は、「保守」という用語のイメージダウンをもたらすもの、あるいはそうしたイメージに乗っかって安易に薄熙来らに「わるもの」との印象を植え付けるものではないだろうか。

 こうした場合は、17日の記事に「保守派(左派)」とあるように、「左派」「右派」という言葉を用いた方がまだしも正確であり、価値中立的ではないかと私には思う(もちろん、薄熙来が左派で、温家宝が右派)。

 しかし、ふだん政治にあまり関心のない人は、そもそも「左」「右」が何を指すのかよくわからないという話も聞くので、新聞の用語としてはやはり不適切だろうか。


(以下2012.3.19付記)
 ロシアの国営ラジオ放送「The Voice of Russia」(ソ連時代のモスクワ放送の後身)の日本語サイトに掲載されている無署名記事は、「中国:左派と右派の戦い始まる」との表題で、薄熙来を「新左派」としている。

 もっとも、

中国の政治的エリート層は、小平により導入された市場経済化を支持する派閥と「新左派」と呼ばれる中国共産党における保守派閥に別れ対立を深めている。


と、やはり薄熙来らを「保守派閥」と見なしているが。


(以下2012.7.16付記)
 朝日新聞国際面の連載「紅の党 薄熙来」の第14回(7月6日付)には、薄による次のような文革観の記述がある。

 昨年9月27日、重慶市内のホテルの会議室で、非公開の座談会が開かれた。参加者のひとりによると、薄熙来が市政について意見を求めるため、北京などの学者ら十数人を招いた。
 〔中略〕薄に迎合し、業績をたたえる意見が相次いだ。
 しかし、最後に改革派寄りのメディア幹部が苦言を呈した。
 「文化大革命を連想させるイデオロギーの色彩は少し薄めた方がいいのでは」
 一瞬、鋭い視線を飛ばした薄は言った。
 「私は文化大革命で父が打倒され、自分も監獄につながれた。文革を憎むべきなのだろう。が、今の中国には毛沢東が目指した道が必要だと思うに至った」

あなたは今上天皇が第何代目の天皇に当たるかご存知ですか?(投票結果)

2012-03-12 23:11:00 | 天皇・皇室
 以前産経抄が、今上天皇が何代目に当たるかなど「日本人なら誰でも知っている」と述べていたことに触発されて、「今上天皇が第何代目かを知らなければ日本人ではない?」という記事を書いた。
 さらに、人気ブログランキングの投票サービス機能を利用して、「あなたは今上天皇が第何代目の天皇に当たるかご存知ですか?」という質問への投票を募ってみた。
 そのことも記事にしたが、投票結果について取り上げるのを忘れていた。

 結果はこちら。投票期間は2011年06月12日~2011年09月11日。



もちろん第125代目だと即答できる 92件 (62.6%)
120……何代目だっけ? 14件 (9.5%)
100代は過ぎてるはずだけど 12件 (8.2%)
50代は過ぎてるんじゃないかな 2件 (1.4%)
そんなこと、俺が知るか! 24件 (16.3%)
今上天皇って誰? 平成天皇のこと? 3件 (2.0%)


 投票してくださった方々、どうもありがとうございました。

 最初は「もちろん第125代目だと即答できる」がダントツだったのだが、時間が経つにつれて他の答も増えていった。
 今にして思えば、これは選択肢の順番を逆にした方がよかったかもしれない。

 もちろんこれはただのアンケートであり、統計的な調査では全くないが、この結果からも、産経抄が言うように「日本人なら誰でも知っている」とまでは言えないことは明らかだろう。

 ところでその後、昔『週刊文春』に連載されていた高島俊男のエッセイ『お言葉ですが… 5 キライなことば勢揃い』(文春文庫、2004)を読み返していると、「何代目?」というタイトルのエッセイに次のような話があった。
 昔々、英語の先生たちの間で、ある米国の大統領が何代目に当たるかを英語で何というかが話題になったという。先生たちにはわからなかったので高名な学者に聞いてみたが、彼にもわからない。そもそも英語には「何代目」にあたる言葉がないのだという。
 そして、文庫版で追記された「あとからひとこと」には、さらにこんな話があった。
 エッセイを読んだ在米中の商社員が、米国人に何と言うのか質問したところ、「今まで何人大統領がいた? クリントンは何番目?」というような尋ね方があるにはあるが、それに対する答えは「知ったことか」といったもので、何代目かを数えるということ自体がない。そして返す刀で「日本の首相は今何代目なの?」と聞かれ、全く答えられなかった――という手紙が高島のもとに届いたという。
 高島はそれを受けて

 そういえばそのとおり。森喜朗さんが何代目の総理大臣かなんて、だれも言い出す人はいませんわなあ。なんでよその国の大統領のことばかり、リンカーンは何代目とかケネディは何代目とか気にするのだろう? あるいは、日本の天皇に相当するという感覚なのかな。天皇ならいま百二十五代目とだれでも知っているから。


と述べている。

 高島は1937年生まれ。いわゆる戦中派より下の世代(焼け跡・闇市世代?)に属する。青少年期に皇国史観を叩き込まれた世代ではない。『お言葉ですが…』などを読む限り、別に熱烈な天皇崇拝者というわけでもない。
 そんな高島から、「天皇ならいま百二十五代目とだれでも知っている」と、産経抄と同様の言葉がサラリと出たことにちょっと驚いた。

 とはいえ、以前の記事でも述べたように、産経抄は

枝野氏は菅直人首相の後継候補に名前があがり、政府の中枢にいる。▼もし首相となれば、外国要人との会談の合間に「日本の天皇は何代続いていますか」と聞かれるかもしれない。答えられなければ国として恥をさらすことになる。政治家は国の将来だけでなく、その歴史も背負っているのである。


と憂えていたが、少なくとも英語圏の国々の要人からは、そうした質問を受けることはなさそうである。


「とても美しい」は「流行語」だった

2012-03-11 20:19:48 | 日本近現代史
 反骨のジャーナリストとして知られる桐生悠々(1873-1941)の文集『畜生道の地球』(中公文庫、1989、親本は1952)を読んでいると、次のような文章があったのでちょっと驚いた。

 言語と思想と

 言語は思想、従って文化を表示する。この角度から眺めるとき、現在の私たちの思想、従って私たちの文化が、如何に混沌たる状態にあるかを察知するに足る。「とても」という否定的、消極的の言語が、肯定的、積極的、しかも最大級の形容語として用いられつつある、心あるものが見れば眉をひそめずにはいられないほどの現在の状態を見れば、思半ばに過ぐるものがある。
「とてもよい」「とても甘い」「とても美しい」という流行語を聞くとき、私は身震いするほど、厭な気持ちになる。(p.72)


 私はこれまで何の違和感もなく「とてもよい」「とても甘い」「とても美しい」といった用法をとっているが、これは「流行語」だったのか?
 びっくりして、goo辞書(デジタル大辞泉)を引いてみると、たしかにこうある。

とて‐も【×迚も】
[副]《「とてもかくても」の略》
1 (あとに打消しの表現を伴って用いる)どのようにしても実現しない気持ちを表す。どうしても。とうてい。「―食べられない量」「―無理な相談」
2 程度のはなはだしいさま。非常に。たいへん。とっても。「空が―きれいだ」
3 結局は否定的な結果になるという投げやりな気持ちを表す。どうせ。しょせん。
「―お留守だろうと思ったんですけどね」〈里見・多情仏心〉
「―、地獄は一定すみかぞかし」〈歎異抄〉
4 よりよい内容を望む気持ちを表す。どうせ…なら。
「―我をあはれみ給ふ上は」〈仮・伊曽保・上〉
[補説]「迚」は国字。


 1、2とあるから、まず1の意味があって、その後2の意味が派生したのだろう。

 私は子供のころから2の意味で「とても」を用いていたと思うが、わずかそのン十年前に流行した用法でしかなかったとは。

 ところで、続く桐生の文章は大変興味深いので、ここに紹介したい。

従って、現在の私たちの思想及び文化も、否定的、消極的であらねばならないところのものを、肯定的、積極的として取扱い、しかもこれに最高なる賞賛の辞を捧げている。例えば、ファシズムの如き、本能的に私たち自由を欲する人間が「とても」肯定し得ない思想や、観念を謳歌して、これをその儘、我国に応用せんとしているものがある。これと同様、コムミニズムも人間の獲得的本能から見て「とても」肯定し能わない制度を、絶対的に肯定している人たちもある。戦争は「必要悪」である。にもかかわらず、これを絶対善として肯定し、戦争する人のみが、忠君愛国の徒として、絶対に賞賛している人もある。
 また心ある人たちは、日本語の将来と進歩とを慮って、なりたけ漢語、漢字を用いないようにと、苦心惨憺しつつあるにもかかわらず、一般人は盛にこれを使用しつつある。少くともヨリ多くこれを使用しつつある。「宿屋」で、何人にも通り、またふさわしいものを強いて「旅館」といい「ホテル」といわなければ、承知しないのが、現在の我人心である。「木賃宿」まがいのものすらも「何々ホテル」と名づけられつつあるのを見ると、浮薄にして虚栄的なる現代の人心を察知するに足る。
 「監獄」というところが「刑務所」と改名されてから、監獄行が何でもない気持になったような気がする。「監獄」というだけで、「とても」厭な気持になるところが、「刑務所」となってから、人間が何か知ら、果さねばならないところの「義務」を、そこへ行けば果し得るという観念が流行しつつあるように思われる。(p.72-73)


 そして現在、「刑務所」ですらも耐え難い人々に配慮してか、PFI方式による一部の刑務所は「社会復帰促進センター」と名付けられている。
 ますますもって「何でもない気持」で赴けるというものだろう。

 昔の「丁稚」「小僧」が「小店員」と改められた。これはたしかに一の進歩である。だが、それは言語上だけの進歩で、実質的の進歩ではない。彼等は「小店員」となっても、昔ながらの「丁稚」「小僧」である。否、彼等は「小店員」となったので、却って御主人と雇人とを結びつけた昔ながらの紐がゆるんで、二者共に、益利己主義となりつつある。店主は小店員の面倒を見てくれること昔の如く温からず、小店員が店主に奉仕すること昔の如く厚からぬようになった。
 だと言って、私たちは言語の上だけでも、昔には返られない。否、返ってはならない。言語も社会的の一現象であるから、社会が変化すると共に、変化する。特に外国の思想、従って文化に接して変化する、変化せずにはいられない。だが、変化中には退化がある。この退化は、なるべくこれを避けて、進化したもののみを取りたいものである。
 「日本精神」もよいが、私たちが「にほん」と言い来ったところのものを、今更「にっぽん」といいかえる必要もない。「にっぽん」というならば、寧ろ「日の本」といった方のよいことは、既に記者の言及したところ、そうも昔に返りたかったら「豊葦原瑞穂国」といった方がよい。だがそれでは今更始まるまい。(昭和十年十一月)(p.72-73)


 「にほん」ではなく「にっぽん」と呼ぶべしという主張がこのころあったのだろうか。
 近年でも小池百合子がそのような主張をしていたと記憶しているが、今検索してみると全く出所を見つけることができなかったので、誤認かもしれない。

 ファシズムと共にコムミニズムをも批判していることからもわかるように、桐生の本質は自由主義者である。別の文章では、政治は五箇条の御誓文の精神にのっとって行われるべしとも説いている。
 桐生が「関東防空大演習を嗤う」を書いて信濃毎日新聞を退社せざるを得なくなったのは昭和8年のことである。まだ日中戦争も始まっておらず、二・ニ六事件も起きていない。五・一五事件を受けて成立した齋藤内閣の時代である。
 今、「関東防空大演習を嗤う」を読んでも、しごくもっともなことが書かれているとしか思えない。当時であっても同様だろう。にもかかわらず、軍のやることを「嗤」ったというただそれだけのために、桐生は退社を余儀なくされた。その後『他山の石』という個人誌を発行するが、これもしばしば発禁とされ、昭和16年8月に廃刊となる。桐生は翌9月に病死し、日米開戦を見ることはなかった。

 昭和戦前期のわが国を、こんにちの北朝鮮のような社会と同列視するのは誤りだと説く人がいる(西尾幹二だったか?)。米国の映画も開戦直前まで上映されていた云々。
 しかし、桐生のような人物を排撃した当時のわが国は、やはり相当におかしかったのだと、本書を読みながら思わざるを得なかった。

「領土問題に「引き分け」などあり得ない」?

2012-03-07 00:28:19 | 領土問題
 プーチンの大統領当選を論じる6日付産経「主張」は、その多くを北方領土問題に充てている。

プーチン氏復帰 「2島返還」に幻想抱くな

 ロシア最高実力者プーチン首相の大統領への返り咲きが決まった。2000年から12年に及ぶプーチン支配体制がさらに6年続くことになる。

 プーチン氏は「われわれは正々堂々と戦って勝った」と大統領選勝利を宣言した。だが、氏の高得票率は有権者がソ連崩壊後の大混乱よりも安定を選んだというだけでなく、改革派野党を締め出し、政府機関を挙げてキャンペーンした所産でもある。公正だったとは言い難い。

 体制の長期化で民主主義が後退することを案じざるを得ない。

 そのプーチン氏が選挙直前、一部の外国報道陣と会見し、北方領土問題を「最終的に解決したい」と述べ、日本に経済協力期待の秋波を送って注目された。


 「秋波を送る」とは、goo辞書(デジタル大辞泉)を引くと、「異性の関心をひこうとして色目を使う。こびを送る」とある。
 「領土問題を最終的に解決したい」という表明は、果たしてこのように評すべきものなのだろうか。
 2日付朝日新聞に掲載された若宮啓文主筆との会見の要旨を読む限り、経済協力などという言葉はどこにも出てこないのだが。

 氏は柔道家らしく日本語の「引き分け」という語を使い、平和条約締結後に歯舞群島、色丹の2島を引き渡すとうたった1956年の日ソ共同宣言を持ち出して、北方四島全島の返還を求める日本側に譲歩を迫る姿勢までみせた。

 しかし、北方四島は、第二次大戦終戦間際に、日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦したソ連軍が終戦時のどさくさに紛れて略奪した日本固有の領土である。

 その四島を継承国ロシアは今も不法に占拠し続けている。国後、択捉の両島を除いた2島返還では解決されない問題である。

 しかも、ソ連崩壊後のロシア初の指導者、エリツィン大統領(故人)は93年の東京宣言で、四島の帰属問題を「法と正義」にのっとって解決することで合意した。にもかかわらず、今回の会見ではこの点に一言も触れていない。

 プーチン氏自身も、前回の大統領当時の2001年に、シベリアのイルクーツクで森喜朗首相(当時)と行った会談で、北方四島の問題解決に合意している。

 外交とは、当事国の合意を積み上げて履行していくものであり、自国に都合のいい部分のみを押し通せばいいというものではない。積み重ねてきた合意を反故(ほご)にして日ソ共同宣言だけを持ち出すような姿勢では、両国の信頼関係を築くことは到底できないだろう。


 プーチンは、東京宣言などの領土問題に関するその他の合意を無視して、ただ歯舞・色丹の2島の引き渡しが定められている日ソ共同宣言のみを持ち出して、わが国に譲歩を迫ったというのが産経の理解らしい。

 しかし、前回の拙記事で引用した会見でのやりとりを読むと、必ずしもそうとはとれない。

 そこでプーチンが述べている北方領土問題の経緯には、前回述べたように事実誤認あるいは虚偽が含まれていると私は考えるが、日本側の4島返還論に対して「これは既に56年宣言ではない。我々は再びスタート地点に戻ってしまったのだ」と述べるのみで、これを否定しているわけではない。たしかに東京宣言にも2001年のイルクーツク声明にも触れていないが、別にこれらを否定しているわけでもない。

 肝要なのは、プーチンが

「我々は、勝利を手にしなければならないわけではない。必要なのは受け入れ可能な妥協だ」

「問題の解決に向けて我々を推し進めてくれるような互いの接点を見つけたい」

といった姿勢を示したことではないかと思うが、産経にとっては、4島返還を認めない限りは何を表明しようがどうでもいいことなのだろう。

 「自国に都合のいい部分のみを押し通せばいいというものではない」と言うが、この産経「主張」が、わが国はサンフランシスコ平和条約で千島列島を放棄していること、そして一時はその放棄した千島列島に国後・択捉も含まれるとしていたことに触れないのも、「自国に都合のいい部分のみを押し通」すものではないだろうか。

 日本の一部には、「2島返還」への誤った期待がある。しかし、信頼関係がないまま経済協力などに突き進むのは危うい。日本は幻惑されず、4島一括返還を求め続けるべきだ。領土問題に「引き分け」などあり得ない。


 はしょった書きぶりなので意味がつかみにくいが、ここに言う「2島返還」とは、2島だけで妥協して平和条約を結び経済協力などを進めることを指すのだろうか。それともいわゆる2島返還先行論を指すのだろうか。2島だけ先行させて経済協力を進めても、残り2島の返還など期待できないよということだろうか。

 別に4島一括返還を求めるのは産経の勝手だが、最後の一文が意味不明。筆がすべったのだろうか。
 何らかの双方の妥協によって、領土問題を解決することはしばしばあるのではないだろうか。今回の会見でプーチンが述べている中国との国境画定問題の解決もその一つだろう。
 もちろん、中露の国境問題と北方領土問題は全く経緯が異なる。中立条約に反してわが国に宣戦を布告し、カイロ宣言の精神に反してわが国固有の領土である4島を併合したソ連の不当性は言うまでもない。
 しかし、その不当性をなじっているだけで、問題の解決に向けて何かが進むのだろうか。

 「外交とは」と産経「主張」が仰々しく述べるので、私も以前紹介した戦前・戦中期の外交官の回顧録における外交論を再掲する。

 私は外交というもの、また霞ヶ関外交の姿を、いつも卑近な言葉で人に説明した。
 外交に哲学めいた理念などあるものか。およそ国際生活上、外交ほど実利主義的なものがあるであろうか。国際間に処して少しでも多くのプラスを取り込み、できるだけマイナスを背負い込まないようにする。理念も何もない。外交の意義はそこに尽きる。問題は、どうすればプラスを取り、マイナスから逃れ得るかにある。外務省の正統外交も、これを集大成した幣原外交も、本質的にはこの損得勘定から一歩も離れたものではないのである。
 この意味において、外交は商取引きと同じである。一銭でも多く利益を挙げたいのが商取引きだが、そこには商機というものがある。市場の動き、顧客の購買力、流行のはやりすたり、それらの客観情勢によって、売価に弾力を持たせなければならない。売価を高くつけ得ないために、時によっては見込んだ利益を挙げ得ないのもやむを得ない。あるいは流行おくれのストックに見切りを付け、捨て売りにして、マイナスを少なくするのも商売道であり、薄利多売も商売の行き方である。
 外交もこれと同じなのだ。国際問題を処理するに当たって、少しでもわが方に有利に解決したくとも、自国の国力、相手国の情勢、国際政治の大局を無視して、無理押しはできない。彼我五分五分、あるいは彼七分我三分の解決に満足し、マイナスをそれ以上背負い込まない工夫も必要であり、そこに妥協が要請される。そして、こうした操作に当るのが外交機関なのだ。(石射猪太郎『外交官の一生』(中公文庫、1986(親本は1950年刊))
 

 「「引き分け」などあり得ない」などという姿勢では外交になるまい。

 9条護持論者に対する「平和、平和と念仏を唱えていれば平和が実現できると思っている」といった批判をしばしば耳にする。
 この産経「主張」流の4島一括返還固執論に対しても、全く同様の批判が可能ではないだろうか。

 また、若宮はこの会見について2日付朝日新聞朝刊で次のように述べている。

 いま、アジア太平洋に目を向けて経済進出をはかるロシアにとって、日本との協力が得にならないわけはない。経済だけでなく軍事的にも急成長する中国は、日ロ双方にとってビジネスチャンスであると同時に、大いに気がかりな存在でもある。領土問題の解決に向けて日ロがボタンのかけ直しを始めるのは戦略的にも意味がある。


 朝日以上に中国脅威論を唱えてやまない産経には、こうした観点からの論評も期待したいところだ。


プーチンの北方領土問題「最終決着」発言を読んで

2012-03-04 16:55:27 | 領土問題
 朝日新聞の若宮啓文主筆ら日欧などの主要紙編集トップが1日、ロシアのプーチン首相と会見した。朝日はこの記事を同日の夕刊の1面トップで報じ、さらに2日の朝刊にも詳報を載せている。
 1日の夕刊の記事によると、プーチンは、北方領土問題について、柔道の用語である「引き分け」という日本語を用いて、「我々は勝利ではなく、受け入れ可能な妥協に至らなければならない」「領土問題を最終決着させたいと強く望む」と表明したという。

 しかし、2日の朝刊に掲載された会見でのやりとりの要旨を見ると、プーチンの発言には事実誤認、あるいは意図的な虚偽がある。

Q 日本は1956年の日ソ共同宣言に書かれた2島だけでは不十分だと繰り返してきた。大統領に復帰したら、大胆に一歩を踏み出せるか。
A 柔道家には大胆な一歩が必要だが、勝つためではなく、負けないためだ。我々は、勝利を手にしなければならないわけではない。必要なのは受け入れ可能な妥協だ。いわば「(※日本語で)引き分け」のようなものだ。
 ソ連は56年に日ソ共同宣言に署名した。第9項には、平和条約の締結の後にソ連は2島を日本に引き渡すと書いてある。つまり平和条約は、日本とソ連との間に領土をめぐるそれ以外の要求がないことを意味する。2001年に森喜朗首相は私に「ロシアは56年宣言に立ち返る用意はあるか」と聞いた。私は、用意があると答えた。
 ところが日本側はしばらく間をおいてから、4島がまず欲しい、そのあとに平和条約だ、と言い出した。これは既に56年宣言ではない。我々は再びスタート地点に戻ってしまったのだ。問題の解決に向けて我々を推し進めてくれるような互いの接点を見つけたい。


 わが国は当初2島返還で了承し共同宣言に署名したが、のちに4島返還に転じたというのである。
 日本人にもこのような主張をする方がいるが、これは事実とは異なる。
 わが国は当初から4島返還を主張していた。ソ連は譲っても2島が限度だと主張した。わが国としては2島返還で戦争状態の最終的解決である平和条約を結ぶわけにはいかなかった。やむなく、共同宣言というかたちで国交を正常化し、国連加盟も果たしたが、4島返還論を取り下げたわけではない。詳しくは過去記事をご覧いただきたい。

 この点については2日の朝刊の記事で若宮主筆も触れている。そのため若宮は会見で、

Q あなたは「引き分け」と言うが、それには2島では不十分だ。


と問いかけ、プーチンはそれに対して

A では私が大統領になったら、日本の外務省とロシアの外務省を向かい合わせにして「(※日本語で)始め」の号令をかけよう。


と応じたという。
 若宮はかつて、竹島をいっそ韓国に譲り「友情島」としてはどうかと「夢想」した人物だが、北方領土問題については常識的な見解をお持ちのようだ。
 
 さて、若宮は、2日朝刊1面の「ボタンかけ直す時だ」と題する記事で、鈴木宗男の問題やロシア経済の急成長、わが国首相の「不法占拠」発言やメドベージェフ大統領の訪問など、「お互いにボタンのかけ違えが重なったのではなかったか」とし、中国への対応という点でも日ロの協力は戦略的にも意味があるとして、

 せっかくのプーチン発言だ。何とかこれを前向きに生かすよう、まずはしっかりと組み手を組むことである。


と結んでいる。
 私は、別に「ボタンのかけ違え」ではなく、要するに双方が原則論にのっとり言いたいことを言ったにすぎないと思うが、前向きに生かすべきというのはそのとおりだろう。

 わが国としては、ソ連が中立条約に反してわが国に宣戦を布告し、カイロ宣言の精神に反してわが国固有の領土である北方4島をも併合したことの非を現ロシア政府が認め、4島を返還するのであれば万々歳であろう。
 だがそんなことが現実的に可能とは思えない。

 ではこの先100年経っても200年経っても、わが国はかつてのソ連の不当性を非難し北方領土返還を要求し続けるべきなのか。
 私は、個人的にはそれでもよいと思う。
 それでこそ、仮に将来ロシアで不測の事態が生じた場合に、わが国が北方領土に進駐しこれを併合することも可能となるだろう。
 しかし、現実にロシアと対峙している漁業関係者をはじめとする北海道民や、旧島民などからすればそうもいかないだろう。
 若宮が言うように、中国のことを考えても、ロシアとの協力には意味がある。

 だとすれば、現実的な解決策を考えなければならない。

 かつて、鈴木宗男や東郷和彦が2島返還先行論を唱えていたと聞く。
 その内容がどのようなものなのか私はよく知らないが、もともと歯舞・色丹と択捉・国後は問題の経緯からして別個に扱うべきものなのだから、とりあえず2島の返還を先行させるようわが国が譲歩することは可能だろう。
 4島同時返還にこだわるべきではない。

 ヤルタ協定は千島列島のソ連への引き渡しを認めている。またサンフランシスコ平和条約でわが国は千島列島を放棄した(のちに択捉・国後については放棄していないと主張)。
 しかし、歯舞・色丹はそもそも千島列島ではない。したがってソ連に併合する根拠は全くなかった。
 だから、1956年の日ソ共同宣言では将来の返還が前提とされたのだろう。
 共同宣言は次のようにうたっている。

9 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は,両国間に正常な外交関係が回復された後,平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。

 ソヴィエト社会主義共和国連邦は,日本国の要請にこたえかつ日本国の利益を考慮して,歯舞諸島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし,これらの諸島は,日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。


 同宣言に基づき、両国間に平和条約が締結されれば、ロシアは当然に歯舞・色丹を返還しなければならない。
 その上で、さらにわが国は択捉・国後の返還をも要求しているのである。

 したがって、歯舞・色丹については即時返還を求めるにしても、択捉・国後については、わが国の潜在的主権を認めさせた上で、とりあえず現状としてのロシアによる統治を容認し、段階的にロシアからわが国に施政権を移管していくという条件で平和条約を締結するといった選択も有り得るのではないか。

 もっとも、それすらもロシアが容易に認めるとは思えない。
 しかし、プーチンが問題解決への意欲を見せている以上、こちらもそれに応じる姿勢は示すべきだろう。

 野田首相は今日海外メディアとの共同会見で、プーチン発言について「問題を解決していこうという意欲を感じた」「(発言の)真意は直接お尋ねしなければならないが、さまざまな議論を深めていきたい」と述べたという。
 当然の反応だと思うし、歓迎したい。