中国の温家宝首相が、3月14日の全人代閉幕後の記者会見で
「文化大革命の誤りと封建的な問題が完全には取り除かれていない」
「政治体制改革が成功しなければ経済体制改革は徹底できない。これまでの成果も失われ、文革の悲劇が繰り返される恐れがある」
「党員と幹部は緊迫感を持つべきだ」
などと述べたと、15日の朝日新聞朝刊の記事で読んだ。
今さら文革とは何事かと思っていたら、その日の夕刊に次のような記事が載った。
私は最近の中国の政治についてあまり詳しくない。
王立軍の米国総領事館駆け込みについてはニュースを読んだ覚えがあるが、どういう意図で、どういう背景のもとに起こった事件なのかよくわかっていなかった。
マフィア一掃運動の何が問題なの?
その後の報道で、「打黒」を名目に、政治的反対派や有力者を拘束、処罰して財産を没収し、重慶を薄熙来が統治する「独立王国」化している、しかも文化大革命を想起させるような大衆動員の手法をとっていることが問題視されていると知った。
16日の朝日新聞朝刊の記事より。
17日の朝日新聞朝刊の記事より。
しかし、薄熙来の父薄一波(1908-2007)は、副首相を務めていたが、文化大革命で失脚したはずである。その後毛沢東が死に、トウ小平が復活して、ようやく副首相に復帰するまで10年ほどかかっている。
その息子が文革で紅衛兵に参加したというのも不思議なら(失脚前のことか?)、30年以上経った現在でも文革的手法をとったというのは解せない話である。
20年ほど前、中国は八老治国であると言われた。当時党総書記や首相を務めていた胡耀邦や趙紫陽、江沢民や李鵬といった人々ではなく、その上の世代、第一線からは退いたトウ小平、陳雲ら8人の老人によって治められているというのだ。その8人の中には薄一波も含まれている。
彼らは皆文革で排除された人々である。しかし毛沢東の死後、後継者となった華国鋒は軍の元老葉剣英らと組んで江青ら文革派を排除し、トウ小平らを復活させた。その後はトウの改革・開放政策が既定路線となり、文革は重大な誤りとして総括された。
したがって、現在の中国では、共産党による一党独裁を否定することはないにしろ、文革が復活するなどありえないと私は考えていたのだが、そう単純な話ではないらしい。
もともと文革的なものを受け入れる素地が中国人にあったからこそ、文革があれほど猛威を振るったのだろう。そのおそれは未だに否定できないのかもしれない。
薄熙来についてはウエッジ・インフィニティの
「黒」を制し「赤」を煽る中国・重慶市 2011年08月03日(Wed) 阿古智子
という記事が、また王立軍事件については同サイトの
解任された公安トップが米国総領事館に逃げ込む 薄熙来VS王立軍 重慶事件の真相 2012年02月15日(Wed) 城山英巳
という記事が参考になった。こうした専門家には今回の事態はあらかじめ予測されていたのだろう。
ところで、上に引用した16日と17日の朝日の記事は、薄熙来を「保守派」とし、温家宝ら「改革派」との路線対立の現れだと唱えている。
産経や日経も同様の呼び方をしているようだが、私はこれに強い違和感を覚える。
ソ連末期に、「改革派」ゴルバチョフと「保守派」リガチョフの対立ということが言われた。そのころの中国でも、「改革派」趙紫陽と「保守派」李鵬の対立、あるいは「改革派」トウ小平と「保守派」陳雲の対立といったことが言われた。
しかし、共産主義の立場からすれば、社会が資本主義から共産主義へと移行するのが歴史の必然なのだから、それを進めることこそが改革であって、経済に資本主義的要素を取り入れたり、言論の自由や政治的選択の自由を認めることはむしろ保守と言うべきではないかという批判は当時からあった。
共産主義の現状を改革しようとするのか、それとも保守しようとするのかの違いだから、「改革派」「保守派」でよいのだという反論があるかもしれない。なるほどそれも一理ある。
しかし、そうした見方に立ったとしても、現代中国においては、改革・開放が既定路線なのだから、それを忠実に守ろうとする温家宝らを「改革派」、その路線によって生じた貧富の格差の是正を訴え、路線の修正を図る薄熙来を「保守派」と呼ぶのはやはりおかしいだろう。
例えば、文革当時、文革派を「保守派」とは誰も呼ばなかった。
こうした「保守派」「改革派」というのは、要するに「いいもの」「わるもの」というある種のレッテル貼りではないだろうか。
日本人は、進取の気性に富んでいるのか、「改革」と聞けば無条件で良いこと、「保守」と聞けば頑迷固陋で時代の変化に取り残される、忌むべきものとしてしまいがちのように思える。
いわゆる保守陣営においてさえそうであり、例えばいわゆる55年体制は保革対立と言われたが、結党時の自民党の綱領や「党の性格」「党の使命」「党の政綱」といった文書のどこにも「保守」の文字はない。「党の性格」では、「わが党は、進歩的政党である。」と自己規定している。
結党から実に半世紀以上過ぎた、一昨年の平成22年綱領でようやく「保守」の文字が登場するが、そこでも「我が党は常に進歩を目指す保守政党である」とされている。
そして、マスコミにおいて「保守派」と「改革派」の対立として語られる場合、「保守派」を肯定的に、「改革派」を否定的に評するケースはほとんどないように思える。
しかし、今回のような「保守派」の用い方は、「保守」という用語のイメージダウンをもたらすもの、あるいはそうしたイメージに乗っかって安易に薄熙来らに「わるもの」との印象を植え付けるものではないだろうか。
こうした場合は、17日の記事に「保守派(左派)」とあるように、「左派」「右派」という言葉を用いた方がまだしも正確であり、価値中立的ではないかと私には思う(もちろん、薄熙来が左派で、温家宝が右派)。
しかし、ふだん政治にあまり関心のない人は、そもそも「左」「右」が何を指すのかよくわからないという話も聞くので、新聞の用語としてはやはり不適切だろうか。
(以下2012.3.19付記)
ロシアの国営ラジオ放送「The Voice of Russia」(ソ連時代のモスクワ放送の後身)の日本語サイトに掲載されている無署名記事は、「中国:左派と右派の戦い始まる」との表題で、薄熙来を「新左派」としている。
もっとも、
と、やはり薄熙来らを「保守派閥」と見なしているが。
(以下2012.7.16付記)
朝日新聞国際面の連載「紅の党 薄熙来」の第14回(7月6日付)には、薄による次のような文革観の記述がある。
「文化大革命の誤りと封建的な問題が完全には取り除かれていない」
「政治体制改革が成功しなければ経済体制改革は徹底できない。これまでの成果も失われ、文革の悲劇が繰り返される恐れがある」
「党員と幹部は緊迫感を持つべきだ」
などと述べたと、15日の朝日新聞朝刊の記事で読んだ。
今さら文革とは何事かと思っていたら、その日の夕刊に次のような記事が載った。
重慶市の薄書記を解任
中国共産党 駆け込み事件で更迭か
中国共産党は15日、重慶市トップの薄熙来(ポー・シーライ)・市共産党委員会書記(62)を解任する、と発表した。理由は明らかになっていないが、同市の王立軍・副市長(52)が四川省成都の米国総領事館に駆け込んで取り調べを受けた事件の監督責任を問われたとみられる。
後任は張徳江(チャン・トーチアン)・副首相(65)が兼任する。故薄一波・元副首相を父に持つ薄氏は党政治局員で、秋に世代交代する予定の最高指導部入りが有力と見られていた。今後、どのような処遇をされるかが注目される。
薄氏は2007年、商務相から重慶市書記に就任。08年、かつての側近だった王氏を重慶市公安局党委副書記に引き抜き、マフィア一掃運動「打黒」を主導した。しかし王氏は先月6日、米総領事館に逃げ込んだ後、党の調査部門に身柄を引き渡されて取り調べを受けている。党は15日、王氏も解任し、後任に青海省の何挺・副市長を充てることを発表した。
事件をめぐっては、温家宝(ウェン・チアパオ)首相が14日の会見で、「今の市党委と市政府は反省し、教訓をくみ取るべきだ」と述べ、薄氏の責任を追及する構えをみせていた。(北京=峯村健司)
私は最近の中国の政治についてあまり詳しくない。
王立軍の米国総領事館駆け込みについてはニュースを読んだ覚えがあるが、どういう意図で、どういう背景のもとに起こった事件なのかよくわかっていなかった。
マフィア一掃運動の何が問題なの?
その後の報道で、「打黒」を名目に、政治的反対派や有力者を拘束、処罰して財産を没収し、重慶を薄熙来が統治する「独立王国」化している、しかも文化大革命を想起させるような大衆動員の手法をとっていることが問題視されていると知った。
16日の朝日新聞朝刊の記事より。
重慶市トップ・薄氏解任
中国 政治闘争の季節
改革派VS.保守派か
〔前略〕
薄氏は党の最高指導部である政治局常務委員の有力候補と言われた政治局員。2007年に直轄市である重慶市に着任し「打黒(マフィア一掃)」などの政治運動を展開した。「貧富の格差」の是正を訴える「保守派」の期待を集めていた。
〔中略〕
薄氏の解任は温首相をはじめとする「改革派」が、「保守派」の増長を許さないと発したメッセージだと受けとめられている。
改革派は文革を批判し、党の権力分散を志向する。胡錦涛(フー・チンタオ)国家主席の政治理念もこれに近いと見られる。一方、保守派は党の求心力維持を求める人々で、呉邦国(ウー・バンクオ)・全人代常務委員長らが代表格だ。両派は党の路線をめぐり激しく対立する。
保守派は薄氏を守ろうにも守りきれなかったとの見方がある。薄氏の政治手法が度を超していたからだ。
昨年9月、温氏を含む複数の政治局常務委員に、ある大学教授の報告書が届けられた。
「重慶では権力が党や党書記に集中し、好き勝手に人に罪をかぶせている」。
有力企業の経営者が相次いで「マフィア」として不当に拘束され、財産を没収されているとの告発だった。
〔後略〕(北京=林望、峯村健司)
17日の朝日新聞朝刊の記事より。
中国・薄氏解任…保守系サイト封鎖
改革派、情勢見極め慎重
中国共産党が薄熙来(ポー・シーライ)・重慶市党委書記を解任した直後から、急速な改革に異議を唱える保守派(左派)の論壇サイトが軒並み開けない状態が続いている。薄氏は保守派勢力の期待の星。中国当局が保守派論壇の反発を警戒して閉鎖した可能性がある。
〔中略〕
薄氏は重慶市で「唱紅歌(革命歌を歌う)」などの文革さながらのキャンペーンを展開。「共同富裕」の理念を掲げて格差の是正を強く訴えてきた。青年時代、文革の実働部隊の「紅衛兵」に参加した経歴も含め、党内外の保守勢力を象徴する政治スターだった。
「早すぎる改革に慎重な立場を取る穏健派から文革時代への回帰を望む極端な意見まで、薄氏は様々な保守勢力の期待を背負ってきた。保守派は今、ひとつの核を失った形だ」。改革派の党長老らが支える雑誌「炎黄春秋」の幹部はそう話す。
全国人民代表大会(全人代)閉幕後の会見で、重慶の薄氏指導部を厳しく批判した温家宝(ウェン・チアパオ)首相の発言に改革派の知識人からは「文革を批判・総括した小平路線にしっかり立ち戻り、改革を推し進めるという決意を強く感じた」(大学教授)と歓迎の声が相次ぐ。
ただ、薄氏の解任が党内の保守派と改革派の勢力争いを決定づけるとの見方は少ない。〔後略〕(北京=林望)
しかし、薄熙来の父薄一波(1908-2007)は、副首相を務めていたが、文化大革命で失脚したはずである。その後毛沢東が死に、トウ小平が復活して、ようやく副首相に復帰するまで10年ほどかかっている。
その息子が文革で紅衛兵に参加したというのも不思議なら(失脚前のことか?)、30年以上経った現在でも文革的手法をとったというのは解せない話である。
20年ほど前、中国は八老治国であると言われた。当時党総書記や首相を務めていた胡耀邦や趙紫陽、江沢民や李鵬といった人々ではなく、その上の世代、第一線からは退いたトウ小平、陳雲ら8人の老人によって治められているというのだ。その8人の中には薄一波も含まれている。
彼らは皆文革で排除された人々である。しかし毛沢東の死後、後継者となった華国鋒は軍の元老葉剣英らと組んで江青ら文革派を排除し、トウ小平らを復活させた。その後はトウの改革・開放政策が既定路線となり、文革は重大な誤りとして総括された。
したがって、現在の中国では、共産党による一党独裁を否定することはないにしろ、文革が復活するなどありえないと私は考えていたのだが、そう単純な話ではないらしい。
もともと文革的なものを受け入れる素地が中国人にあったからこそ、文革があれほど猛威を振るったのだろう。そのおそれは未だに否定できないのかもしれない。
薄熙来についてはウエッジ・インフィニティの
「黒」を制し「赤」を煽る中国・重慶市 2011年08月03日(Wed) 阿古智子
という記事が、また王立軍事件については同サイトの
解任された公安トップが米国総領事館に逃げ込む 薄熙来VS王立軍 重慶事件の真相 2012年02月15日(Wed) 城山英巳
という記事が参考になった。こうした専門家には今回の事態はあらかじめ予測されていたのだろう。
ところで、上に引用した16日と17日の朝日の記事は、薄熙来を「保守派」とし、温家宝ら「改革派」との路線対立の現れだと唱えている。
産経や日経も同様の呼び方をしているようだが、私はこれに強い違和感を覚える。
ソ連末期に、「改革派」ゴルバチョフと「保守派」リガチョフの対立ということが言われた。そのころの中国でも、「改革派」趙紫陽と「保守派」李鵬の対立、あるいは「改革派」トウ小平と「保守派」陳雲の対立といったことが言われた。
しかし、共産主義の立場からすれば、社会が資本主義から共産主義へと移行するのが歴史の必然なのだから、それを進めることこそが改革であって、経済に資本主義的要素を取り入れたり、言論の自由や政治的選択の自由を認めることはむしろ保守と言うべきではないかという批判は当時からあった。
共産主義の現状を改革しようとするのか、それとも保守しようとするのかの違いだから、「改革派」「保守派」でよいのだという反論があるかもしれない。なるほどそれも一理ある。
しかし、そうした見方に立ったとしても、現代中国においては、改革・開放が既定路線なのだから、それを忠実に守ろうとする温家宝らを「改革派」、その路線によって生じた貧富の格差の是正を訴え、路線の修正を図る薄熙来を「保守派」と呼ぶのはやはりおかしいだろう。
例えば、文革当時、文革派を「保守派」とは誰も呼ばなかった。
こうした「保守派」「改革派」というのは、要するに「いいもの」「わるもの」というある種のレッテル貼りではないだろうか。
日本人は、進取の気性に富んでいるのか、「改革」と聞けば無条件で良いこと、「保守」と聞けば頑迷固陋で時代の変化に取り残される、忌むべきものとしてしまいがちのように思える。
いわゆる保守陣営においてさえそうであり、例えばいわゆる55年体制は保革対立と言われたが、結党時の自民党の綱領や「党の性格」「党の使命」「党の政綱」といった文書のどこにも「保守」の文字はない。「党の性格」では、「わが党は、進歩的政党である。」と自己規定している。
結党から実に半世紀以上過ぎた、一昨年の平成22年綱領でようやく「保守」の文字が登場するが、そこでも「我が党は常に進歩を目指す保守政党である」とされている。
そして、マスコミにおいて「保守派」と「改革派」の対立として語られる場合、「保守派」を肯定的に、「改革派」を否定的に評するケースはほとんどないように思える。
しかし、今回のような「保守派」の用い方は、「保守」という用語のイメージダウンをもたらすもの、あるいはそうしたイメージに乗っかって安易に薄熙来らに「わるもの」との印象を植え付けるものではないだろうか。
こうした場合は、17日の記事に「保守派(左派)」とあるように、「左派」「右派」という言葉を用いた方がまだしも正確であり、価値中立的ではないかと私には思う(もちろん、薄熙来が左派で、温家宝が右派)。
しかし、ふだん政治にあまり関心のない人は、そもそも「左」「右」が何を指すのかよくわからないという話も聞くので、新聞の用語としてはやはり不適切だろうか。
(以下2012.3.19付記)
ロシアの国営ラジオ放送「The Voice of Russia」(ソ連時代のモスクワ放送の後身)の日本語サイトに掲載されている無署名記事は、「中国:左派と右派の戦い始まる」との表題で、薄熙来を「新左派」としている。
もっとも、
中国の政治的エリート層は、小平により導入された市場経済化を支持する派閥と「新左派」と呼ばれる中国共産党における保守派閥に別れ対立を深めている。
と、やはり薄熙来らを「保守派閥」と見なしているが。
(以下2012.7.16付記)
朝日新聞国際面の連載「紅の党 薄熙来」の第14回(7月6日付)には、薄による次のような文革観の記述がある。
昨年9月27日、重慶市内のホテルの会議室で、非公開の座談会が開かれた。参加者のひとりによると、薄熙来が市政について意見を求めるため、北京などの学者ら十数人を招いた。
〔中略〕薄に迎合し、業績をたたえる意見が相次いだ。
しかし、最後に改革派寄りのメディア幹部が苦言を呈した。
「文化大革命を連想させるイデオロギーの色彩は少し薄めた方がいいのでは」
一瞬、鋭い視線を飛ばした薄は言った。
「私は文化大革命で父が打倒され、自分も監獄につながれた。文革を憎むべきなのだろう。が、今の中国には毛沢東が目指した道が必要だと思うに至った」