「
ブロガー新党」の代表だか代表世話人だかの堀端勤さんが、22日に言い渡された光市母子殺人事件の判決に絡んで、
わが国の刑事制度について論評している。
その内容があまりにデタラメ極まりない。
《例えば、我国で自分以外の第三者を死に至らしめた場合、量刑として運用されるのは「殺人罪(刑法39条)」と「過失致死罪」の二つだけである。》
そんなことはない。傷害致死罪もあれば、危険運転致死罪もある。強盗致死罪も強姦致死罪もある。ほかにもあるかもしれない。
ついでに言うと、殺人罪は刑法39条ではない。
さらに言えば、「自分以外の第三者」の意味がわからない。自分(主体)がいて、自分の行為の相手(客体)がいて、さらにその場に存在する人物が第三者だ。自分が死に至らしめた相手は第三者ではない。
《しかも明らかな「未必の故意(第三者を殺そうと言う意志)」が証明できなければ「過失致死」扱いにされる始末だ。》
未必の故意とは、確定的ではない故意のことである。つまり、自分の行為によって、ある結果が必ず生じると認識していたわけではないが、そうした結果に至るかもしれないし、それでもかまわないという程度の認識をもっていたということである。
未必の故意があったことが証明できなくとも、確定的な故意があったことが証明できれば、当然殺人罪は成立する。
《一方、米国の刑法で「殺人罪」と言うと、今回の様な強姦殺人・乳児殺害に関しては例外なく「第一級殺人罪」として起訴される。この場合は死刑、運が良くて終身禁固と言う結末が待っている。今述べたように米国では第一級~第三級まで、犯罪の重大性・被害者や遺族に与えた心の傷の度合いを細分化し、各事例に応じて検察側が選ぶ仕組みとなっている。米国では「陪審員制裁判」であり、有罪無罪を決定の後に裁判官が検察側の量刑が妥当か審議する訳だ。これは犯罪の事態に応じて量刑の妥当性を考え、裁判官が時には「大岡裁き」の様な寛大な判決も出せる仕組みとなっている。
いわゆる「英米法」である。》
私は米国の刑事制度について詳しくは知らないが、仮に堀端勤さんが言うように「第一級殺人罪」には死刑又は終身禁錮しか認められていないのなら、陪審員は死刑か終身禁錮か無罪かを選択できるにすぎないのではないか?
「第一級殺人罪」の場合は、陪審員の裁量の余地は極めて少なく、検察官の裁量の余地が大きいということるなるのではないか? ならば「大岡裁き」はできまい。
主張がおかしくないか?
《此れに対して、日本が明治政府の立法の際に参考にしたプロイセン(ドイツ)の刑法は「成文法」と言われ、一度法律で量刑を名文化すれば、先に「英米法」で述べた実態に応じた量刑判断を裁判官が出来ない様にしている。》
「英米法」と「成文法」は対立する概念ではない。英米法の法体系の国でも、法を成文化していればそれは成文法だ。
米国では刑事法の法典化が完了している国が多いと、ウィキペディアの「コモン・ロー」の項目に記されている。
「英米法」の対立概念は「大陸法」である。
そして、わが国の刑法は、プロイセンではなく、フランスのそれを元に制定された。
さて、わが国の刑法は、「実態に応じた量刑判断を裁判官が出来ない様にしている」か?
殺人罪については、次のように定められている。
第百九十九条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。
5年以上とはいつまでか。
第十二条 懲役は、無期及び有期とし、有期懲役は、一月以上二十年以下とする。
つまり、殺人罪には、死刑、無期懲役、5年以上20年以下の有期懲役の選択肢があることになる。
これに加えて、累犯の有無や情状酌量による減軽などが考慮されるので、実際に言い渡され得る刑の幅は、さらに広い。
だから、
《そうした点からも日本の「刑法」は「犯罪者に罪の重さを認識させ、量刑を以って犯罪抑止力とする」力が無い…正にザル法と言われても仕方が無い。》
とは全くのデタラメだし、
《しかも未だに明治時代のカタカナ文面で難解奇怪な法律を放置した国家や司法関係者の怠慢は、激烈に批判されても致し方ない。》
10年以上前にひらがな化されていることも知らずにこのような批判をぶつ堀端勤さんの怠慢ぶりこそ、激烈に批判されてしかるべきだろう。
《もう一つは、来年から始まる「裁判員制度」を前に、マスゴミなどによって法廷での内容がライブハウスの如く報道され、事と次第によっては、被害者の遺族感情が影響して被告人の弁明の機会を奪い、国民世論によって袋叩きにする「リンチ化法廷」が生まれる恐れがある。》
ライブハウスの如く?
ライブハウスの状況がどこで逐一報道されているというのか?
国民世論がどう動こうが、裁判所は粛々と審理を進めればいいだろう。
法廷とは公開されるべきものなのだ。秘密裁判にしろとでも言うのか。
《だが、法はあくまで尊重されねばならず、感情論が法廷を支配すれば、さながら戦前の「弁護士抜き裁判」同様の光景が広がる訳だ。》
裁判について報道されることと、感情論が法廷を支配することとは別だろう。
当事者が感情論に陥らないよう心がけていれば、そしてそのように裁判官が裁判を進行していけば、それで済むことだ。
ところで、堀端勤さんは
以前こんなことを言っている。
《良識ある国民よ、国会を実力で解散させよう!!》
《もはや法に則る云々の問題ではない。》
《我々は法に順ずる必要などない。今こそ実力で国会を解散させ救国革命政府の設立を急がねばならない。》
こんな人物が「法はあくまで尊重されねばならず」などと説いたところで、何の説得力もあるまい。
《裁判になれば原告も被告も互いに尊重されねばならない。その関係が崩れる恐れが出てきたのだ。日弁連などが「裁判員制導入延期」の運動を行っている理由がよく分かる。》
日弁連は裁判員制度導入延期の運動など行っていない。
一知半解どころか、零知零解で嘘を撒き散らすのはやめていただきたい。