トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

小谷野敦の賢明

2008-04-30 22:11:37 | ブログ見聞録
 小谷野敦が、至極まっとうなことを述べている

《本村洋氏の手記が『Will』のような右翼雑誌に載ったことに、私は悲しみを覚える。こうして結局、死刑存置論者は保守派であり右翼的であるということになってしまうのだ。いったい、凶悪な殺人犯を死刑にせよと主張することがなぜ右翼的なのか。北朝鮮拉致被害者もそうだが、「なんとなく、リベラル」のマスコミによって、非道な目に遭った人々の家族が「右翼」的位置を与えられてしまうことに、私は憤りを覚える。》

 ブログを見ていると、奇矯な主張や、どうでもいいような私怨的な記述がしばしば目について、最近関心を失いつつあったのだが、こうした指摘を読むと、やはりあなどれない。



嘘を撒き散らす「ブロガー新党」

2008-04-27 12:23:27 | ブログ見聞録
 「ブロガー新党」の代表だか代表世話人だかの堀端勤さんが、22日に言い渡された光市母子殺人事件の判決に絡んで、わが国の刑事制度について論評している
 その内容があまりにデタラメ極まりない。


《例えば、我国で自分以外の第三者を死に至らしめた場合、量刑として運用されるのは「殺人罪(刑法39条)」と「過失致死罪」の二つだけである。》

 そんなことはない。傷害致死罪もあれば、危険運転致死罪もある。強盗致死罪も強姦致死罪もある。ほかにもあるかもしれない。
 ついでに言うと、殺人罪は刑法39条ではない。
 さらに言えば、「自分以外の第三者」の意味がわからない。自分(主体)がいて、自分の行為の相手(客体)がいて、さらにその場に存在する人物が第三者だ。自分が死に至らしめた相手は第三者ではない。


《しかも明らかな「未必の故意(第三者を殺そうと言う意志)」が証明できなければ「過失致死」扱いにされる始末だ。》

 未必の故意とは、確定的ではない故意のことである。つまり、自分の行為によって、ある結果が必ず生じると認識していたわけではないが、そうした結果に至るかもしれないし、それでもかまわないという程度の認識をもっていたということである。
 未必の故意があったことが証明できなくとも、確定的な故意があったことが証明できれば、当然殺人罪は成立する。


《一方、米国の刑法で「殺人罪」と言うと、今回の様な強姦殺人・乳児殺害に関しては例外なく「第一級殺人罪」として起訴される。この場合は死刑、運が良くて終身禁固と言う結末が待っている。今述べたように米国では第一級~第三級まで、犯罪の重大性・被害者や遺族に与えた心の傷の度合いを細分化し、各事例に応じて検察側が選ぶ仕組みとなっている。米国では「陪審員制裁判」であり、有罪無罪を決定の後に裁判官が検察側の量刑が妥当か審議する訳だ。これは犯罪の事態に応じて量刑の妥当性を考え、裁判官が時には「大岡裁き」の様な寛大な判決も出せる仕組みとなっている。
いわゆる「英米法」である。》

 私は米国の刑事制度について詳しくは知らないが、仮に堀端勤さんが言うように「第一級殺人罪」には死刑又は終身禁錮しか認められていないのなら、陪審員は死刑か終身禁錮か無罪かを選択できるにすぎないのではないか?
 「第一級殺人罪」の場合は、陪審員の裁量の余地は極めて少なく、検察官の裁量の余地が大きいということるなるのではないか? ならば「大岡裁き」はできまい。
 主張がおかしくないか?


《此れに対して、日本が明治政府の立法の際に参考にしたプロイセン(ドイツ)の刑法は「成文法」と言われ、一度法律で量刑を名文化すれば、先に「英米法」で述べた実態に応じた量刑判断を裁判官が出来ない様にしている。》

 「英米法」と「成文法」は対立する概念ではない。英米法の法体系の国でも、法を成文化していればそれは成文法だ。
 米国では刑事法の法典化が完了している国が多いと、ウィキペディアの「コモン・ロー」の項目に記されている。
 「英米法」の対立概念は「大陸法」である。
 そして、わが国の刑法は、プロイセンではなく、フランスのそれを元に制定された。

 さて、わが国の刑法は、「実態に応じた量刑判断を裁判官が出来ない様にしている」か?
 殺人罪については、次のように定められている。

第百九十九条  人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。

 5年以上とはいつまでか。

第十二条  懲役は、無期及び有期とし、有期懲役は、一月以上二十年以下とする。

 つまり、殺人罪には、死刑、無期懲役、5年以上20年以下の有期懲役の選択肢があることになる。
 これに加えて、累犯の有無や情状酌量による減軽などが考慮されるので、実際に言い渡され得る刑の幅は、さらに広い。
 だから、

《そうした点からも日本の「刑法」は「犯罪者に罪の重さを認識させ、量刑を以って犯罪抑止力とする」力が無い…正にザル法と言われても仕方が無い。》

とは全くのデタラメだし、

《しかも未だに明治時代のカタカナ文面で難解奇怪な法律を放置した国家や司法関係者の怠慢は、激烈に批判されても致し方ない。》

10年以上前にひらがな化されていることも知らずにこのような批判をぶつ堀端勤さんの怠慢ぶりこそ、激烈に批判されてしかるべきだろう。


《もう一つは、来年から始まる「裁判員制度」を前に、マスゴミなどによって法廷での内容がライブハウスの如く報道され、事と次第によっては、被害者の遺族感情が影響して被告人の弁明の機会を奪い、国民世論によって袋叩きにする「リンチ化法廷」が生まれる恐れがある。》

 ライブハウスの如く?
 ライブハウスの状況がどこで逐一報道されているというのか?

 国民世論がどう動こうが、裁判所は粛々と審理を進めればいいだろう。
 法廷とは公開されるべきものなのだ。秘密裁判にしろとでも言うのか。


《だが、法はあくまで尊重されねばならず、感情論が法廷を支配すれば、さながら戦前の「弁護士抜き裁判」同様の光景が広がる訳だ。》

 裁判について報道されることと、感情論が法廷を支配することとは別だろう。
 当事者が感情論に陥らないよう心がけていれば、そしてそのように裁判官が裁判を進行していけば、それで済むことだ。

 ところで、堀端勤さんは以前こんなことを言っている

《良識ある国民よ、国会を実力で解散させよう!!》
《もはや法に則る云々の問題ではない。》
《我々は法に順ずる必要などない。今こそ実力で国会を解散させ救国革命政府の設立を急がねばならない。》

 こんな人物が「法はあくまで尊重されねばならず」などと説いたところで、何の説得力もあるまい。


《裁判になれば原告も被告も互いに尊重されねばならない。その関係が崩れる恐れが出てきたのだ。日弁連などが「裁判員制導入延期」の運動を行っている理由がよく分かる。》

 日弁連は裁判員制度導入延期の運動など行っていない。

 一知半解どころか、零知零解で嘘を撒き散らすのはやめていただきたい。


塩谷公夫『今も生きている民社党』(さんこう社、2006)

2008-04-23 21:32:09 | 現代日本政治
 最近、社会党や民社党といった過去の政党に関心を強めている。
 自民党については今後も語り継がれるだろうが、ほぼ野党のままで終わったこれらの政党については、顧みられることもなく歴史の流れの中に埋没していくように思えるからだ。

 民社党で検索していて、たまたま見つかったのがこの本。
 著者は元衆議院議員政策秘書、元民社党本部機関紙局編集員だという。

 民社党は、結局中規模政党の枠を超えることはなかったものの、体制内改革派として一定の存在感を示し続けた。国防や原発についての政策では他の野党とは一線を画し、むしろ自民党よりも積極的であったことでも知られる。西尾末広、春日一幸、佐々木良作といった個性的な指導者も輩出した。

 本書により、内側から見た民社党論が読めるものと期待したのだが……。

 党史に関する記述の多くが抽象的に過ぎて、つまらない。

 なるほど民社党がどういう思想の下に結成されたのか、その主張がどのように優れていたのか、またどのような点で至らなかったのかについて一応は語られている。
 しかしその多くが抽象的、総論的で、具体的に民社党がどのような主張をしてきたのか、どのような行動をしてきたのか、それは現在のわが国にどのような影響を与えているのかといった点の記述がほとんどない。何が「今も生きている」なのか、わからない。
 また、先に挙げた指導者についてもほとんど触れられていない。もっと内幕モノ的な記述を期待していたので、失望した。

 あと、これは編集の問題だが、引用部分と地の文が区別しにくく、読みづらい。

 参考になったのは、所詮議員政党で、個々の議員の後援会頼みであり、同盟のバックアップはあったものの、書記局がルーズで、政党としては力を発揮できなかったといった記述ぐらいか。

《それなりに書記局員も真剣に仕事はしていた。一生懸命やろうという気持ちも持っていた。しかし本当の気合いは入っていなかった。チームワークはなかったし、真剣な話し合いをする機会もなかった。人事も人事考課もいい加減だし、出勤チェックもいい加減だった。マンネリに陥り、それを打破しようという意識は皆目なかった。
 「政党本部は民間企業とは違うんだ」という、自分勝手な理屈をもちあそび、安易な方向へ安易な方向へといつも流れていた。》

 最終章では著者独自の幸福論、政治論が展開される。もはや民社党はほとんど関係ない。

《近年の「日本人の精神の貧困」はあまりにひど過ぎる。学校ではいじめ、暴力、不登校などさまざまなことが噴出している。社会を震撼とさせる〔深沢註・原文ママ〕ような事件、犯罪、人権無視などの例は枚挙に暇がない。親殺し、子殺しが日常茶飯事的になりつつある。
 そうした心の乱れが離婚の増大、家庭崩壊、学校崩壊、地域社会の崩壊などにまでつながっている。要するに自分勝手、わがままになり、忍耐心や思いやりの心が欠如してしまっているのである。〔中略〕
 こんな風になってしまったのははっきりとした原因がある。それは戦後の政治、戦後の教育、そして新憲法の解釈の仕方などにあった。》

 以下、「個人の自由」を何よりも尊いものとし、不可侵とした風潮が、戦後のわが国を歪めたといった話が続く。
 読むに堪えない。

 民社党に関することなら何でも知っておきたいというような特異な読者でない限り、お薦めできない。


市川正一・元参議院議員が死去

2008-04-15 22:31:55 | 日本共産党
 昨日の『朝日新聞』夕刊にこんな訃報が載っていた。

《市川 正一さん(いちかわ・しょういち=元共産党参院議員)7日死去、84歳。10日にお別れ会を近親者で行った。喪主は妻多賀子(たかこ)さん。自宅は和歌山県白浜町中1700の2、シャングリラ120。
 77年に共産党から全国区で初当選。全国区、比例区で連続3期務め、党参院国会対策委員長などを歴任した。88年にソウル五輪視察のため党国会議員として初めて訪韓。00年に党を除名された。
(太字は引用者による。以下同)

 市川正一の名は聞いたことがある(戦前に獄死した党幹部の市川正一とは別人)。たしか、共産党の常任幹部会委員を務めていたから、かなりの上級幹部といっていいだろう。全国区、比例区で3期務めたという点からもそれはうかがえる。人物像については何も知らないが。
 彼が党を除名されていた? それは知らなかった。私はそれなりに政治には関心があるつもりだが、全然聞いた覚えがない。

 ネットで検索すると、時事通信の記事にはこうある。

《77年参院選に旧全国区から出馬、初当選。当選3回。党参院国対委員長などを務め95年に政界を引退したが、2000年に規律違反行為があったとして党を除名された。

 規律違反行為か。どんな?
 
 創価学会系の出版社である潮出版社のサイトに、次のような記事があった。

《日本共産党では、2000年5月にも、市川正一・元参院国対委員長を不倫による党規律違反を理由に除名処分にしています。その際にも、党は不倫に関する事実関係をほとんど公表しませんでした。》

 不倫か。
 不倫が、党の規律違反行為なのか。

 この潮出版社の記事でも取り上げられている、筆坂秀世のセクハラ問題での議員辞職は広く話題になった。市川の除名がそれほど話題にならなかったのは、既に議員を引退していたからだろう。それでも除名されるのだな。
 レイプなら犯罪だし、セクハラもそれに準ずると言えるだろうが、不倫はそうではないだろうに。
 そんなものの事実関係を公表する必要があるのか。
 
 共産党はいつのころからか、そういう市民道徳にひどく敏感な政党になってしまった。宮本体制が確立したころからだろうか。まるで共産党員は聖人君子でなければならないかのように。非合法時代はハウスキーパー制度とか好き放題にやっていたのにね。

 自民党でも民主党でも議員の不倫問題をしばしば耳にするが、議員辞職に至ったとか、党を除名されたという話は聞かない。
 それが政界の常識というものではないのかな。
 別に不倫を奨励するつもりもないが、そんなもの政治家としての評価とは全く関係ないことだろう。
 共産党が長期低落傾向から免れない理由の1つには、そうした従来からの枠組みを打破できないということがあるように思う。
 それはつまり、共産党が常識が通用しない集団であることを意味するのだが。
 まあ、私は反共だから、共産党がどうなろうが知ったことではないのだが。


小沢一郎がヒトラーと同じ?

2008-04-13 23:15:13 | 現代日本政治
「ヒトラーの政治と同じ」 鳩山法相、小沢氏批判(西日本新聞) - goo ニュース

《鳩山邦夫法相(衆院福岡6区)は12日、福岡県久留米市での自民党支部総会であいさつし、日銀副総裁人事の参院本会議採決で民主党の3人が政府案賛成に回ったことに触れ「民主の9割は同意(賛成)の意向だったのに、ただ1人がダメ(反対)と言ったのでそうなった。ヒトラーの政治と同じ。すべてがその調子だ」と、名指しを避けながら小沢一郎民主党代表を批判。「次期衆院選で自民が勝てば、民主は必ず分裂する」と述べた。》

 たしかに、民主党では政府案賛成論が多数を占めていたのに、執行部の方針で反対に回ることになったと報じられている。前原副代表も同様の発言をしているという。

「渡辺副総裁」不同意に不満=民主・前原氏(時事通信) - goo ニュース

 しかし、ヒトラーの政治とは、そういうものだったのだろうか。
 大多数が賛成だと考えていても、トップが反対だと主張すれば、その鶴の一声に全員が服従する。ヒトラーの政治とは、そのようなものだったのだろうか。

 ナチス論の古典的な入門書であるH.マウ,H.クラウスニック共著『ナチスの時代』(岩波新書、1961)に次のような記述がある。

《全体主義の権力行使による圧力が増大したにもかかわらず、また上から強制されるナチ体制によりますます生活から疎外されたにもかからわず、ドイツ国民の圧倒的多数が国家に忠実だったのは、主として経済政策と外交政策における政府の成功によるものであった。》

 ドイツ国民がヒトラーを支持していたことは、よく知られた事実である。
 ヒトラーは、嫌がる大衆を暴力で強引に支配したのではない。大衆もまたヒトラーを支持していた。
 また、政権内部においても、ヒトラーに対して大多数の幹部が反対に回り、それをヒトラーが服従させるといった現象は生じなかった。
 鳩山は、ヒトラーについて何をどれだけ知っているというのだろうか。

 9割が賛成でも、ただ1人がダメと言ったらダメになるという表現に、私はむしろ自民党の派閥のことを想起した。
 派閥の親分がカラスは白いと言えば白なんだという話をしばしば聞く。元衆議院議員の白川勝彦によると、これは金丸信が田中派の鉄の結束の例えとして述べたのだという。
 鳩山邦夫は、新進党、民主党を経て自民党に戻った出戻り組だが、元々は田中派、そして竹下派に属していた。今また竹下派の後身である津島派に属している。さぞかし、カラスは白なんだと言い続けてきたことだろう。

 9割が賛成でも、トップが反対と言い、それに全員が従うのなら、それはむしろリーダーシップの発露と言うべきだろう。トップが部下の意見を尊重して賛成に回るか、それとも反対を堅持するか、それはトップが決断すべきことだ。その結果どういう事態が生じたとしても、その責任は部下ではなくトップがとるのだから。
 鳩山は、組織論というものがわかっていないのではないか。あるいはわかっていても、政治的目的から敢えてオーバーな表現をしているのか。しかし、現職の法相が野党第1党の党首をヒトラー呼ばわりするのは妥当だろうか。

 冒頭の西日本新聞の記事はこう続く。

《また、法相就任から4カ月間で死刑執行が計10人に上ることについて「(10人の)記録を読んでいるだけで怒りが込み上げてくる。そういう案件ばかりだ」「粛々と法と正義に従って法相としての仕事を果たせばこういう結果になる。正義のために法律に従って粛々と行動していく」と述べた。》

 例えば、もし法務官僚の多数が拙速な死刑執行に反対したら、鳩山は執行のペースを落とすのだろうか。法が死刑執行を判決確定後6か月以内と定めている以上、それを粛々と執行していくのが職務上当然のことだろう。

 以前からのことではあるが、本当に、言葉の軽い人物だと思う。