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日本の人類学者32.森田 茂(Shigeru MORITA)[1915-1988]

2012年09月09日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Shigerumorita

森田 茂(Shigeru MORITA)[1915-1988][加藤 征(1990)「森田茂先生を偲ぶ」『解剖学雑誌』第65巻第6号より改変して引用](以下、敬称略。)

 森田 茂は、1915年1月1日に、森田斉次[1877-1943]の次男として東京都新宿区で生まれました。森田斉次は、東京帝国大学医学部卒業後、1903年から東京慈恵医院医学専門学校(現・東京慈恵会医科大学)の解剖学教授に就任し、1943年までその職にとどまっています。

 森田 茂は、1940年に東京慈恵会医科大学を卒業します。しかし、その後海軍に入り海軍軍医として勤務し、1945年にはラバウルで海軍軍医少佐として終戦を迎えました。

 終戦後の1946年、母校の解剖学教室助手に就任しました。解剖学教室では、現代人の頭蓋骨の研究を行っています。1950年、「関東地方人頭蓋骨の人類学的研究」により、母校の東京慈恵会医科大学から医学博士号を取得しました。その後、1954年には、助教授に昇任しています。

 1954年に森田 茂は東京教育大学(現・筑波大学)の助教授として移籍し、1956年に教授に昇任します。東京教育大学では、人体形態学研究室の初代教授として、主に、生体計測の研究を行いました。この研究室では、加藤 征(元東京慈恵会医科大学)や大槻文夫(元東京都立大学)を育てています。

 1964年に新井正次[1899-1988]の後任として、母校・東京慈恵会医科大学の第1解剖学教室教授に就任しました。父親の森田斉次と親子2代にわたっての就任です。1971年11月6日から同7日にかけて、日本人類学会・日本民族学会第25回連合大会が東京慈恵会医科大学で開催され、森田 茂は大会会長として主催しました。

 森田 茂は多くの生体計測や骨学の論文を書いていますが、最も引用されているのは、以下の2点の論文です。

  • 森田 茂(1950)「関東地方人頭蓋骨の人類学的研究」『東京慈恵会医科大学解剖学教室業績集』、第3巻、pp.1-54

 森田・河越(1960)は、東京の湯島無縁坂から出土した江戸時代人骨の頭蓋骨165体(男性102体・女性63体)の68項目の計測値と49項目の示数が示されており、今でもよく引用されている論文です。

  • 森田 茂・河越逸行(1960)「湯島無縁坂出土の江戸時代人頭蓋骨の人類学的研究補遺」『人類学雑誌』、第67巻第5号、pp.278-295

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森田・河越(1960)が掲載された『人類学雑誌』第67巻第5号表紙(*画像をクリックすると、拡大します。)

 森田 茂は、1970年に東京慈恵会医科大学を定年退職し、客員教授となりました。また、慈恵看護専門学校の第7代校長にも就任しています。1988年7月4日、森田 茂は73歳で死去しました。親子2代にわたり、解剖学と人類学に捧げた一生だと言えるでしょう。死後、その遺体は母校に献体されています。

*森田 茂に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 加藤 征(1990)「森田茂先生を偲ぶ」『解剖学雑誌』、第65巻第6号、pp.405-406
  • 日本解剖学会( 1995)『日本解剖学会100周年記念:教室史』

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