石田収蔵(Shuzo ISHIDA)[1879-1940][板橋区立郷土資料館(2000)『石田収蔵:謎の人類学者の生涯と板橋』の表紙より改変]
石田収蔵は、1879年に石田実継・勝又キヨの四男として秋田県鹿角市にて生まれました。石田三成[1560-1600]の子供・石田勝成の子孫だと言われています。1879年に、父・実継が亡くなったため、母の実家がある青森県八戸市へ転居し、ここで、八戸中学校を卒業します。やがて、第四高等学校(金沢)を卒業し、1901年(1902年という説もあり)に東京帝国大学理科大学動物学科に入学し、卒業後は東京帝国大学大学院へ進学しました。
人類学会との関わりは、1905年に専科生として人類学教室に入っています。当時、まだ、人類学科はなかったため、専門に学ぶ専科生か選科生しかありませんでした。ちなみに、選科生は大学で科目を学びますが、卒業後、学士号は与えられないという制度です。1906年に東京人類学会(現・日本人類学会)幹事となり、その後、東京人類学会編集員となります。その後、1907年には、東京人類学会編集主任、1910年には東京人類学会評議員及び庶務幹事、1915年には東京人類学会発行兼編集者として、主に、学会誌の編集を行いました。
石田収蔵は北方研究を行い、北海道アイヌ及び樺太を現地調査しています。この地域を選んだ理由は、師である坪井正五郎[1863-1913]が関心を持っていたためであると推測されますが、確かではありません。この調査は、計5回に及んでいます。調査時期は、いずれも7月~9月あるいは10月で、大学の夏休みを利用したことが想像されます。
- 樺太:1907年7月~同年10月
- 樺太:1909年7月~同年9月
- 樺太:1912年7月~同年9月
- 樺太:1917年7月~同年9月
- 樺太:1939年7月~同年9月
私生活では、1910年12月に小野 静(静子)と結婚しますが、子供がいなかったため、1919年には石田収蔵の弟・石田五郎の長男・石田信郎を養子に迎えています。
やがて、大きな事件が起きました。人類学教室主任兼教授の坪井正五郎[1863-1913]が、1913年5月26日に出張中のロシア・ペテルスブルクで亡くなったのです。この時、人類学教室には、鳥居龍三[1870-1953]と松村 瞭[1880-1936]がいました。人類学教室における坪井正五郎の後任は、1922年に鳥居龍蔵が助教授に昇任します。ところが、松村 瞭の学位論文を巡って対立が起き、鳥居龍蔵は1924年に辞職し、1925年に松村 瞭が鳥居の後任として助教授に就任しました。
石田収蔵は、坪井正五郎の後任になると自負していたようです。実際、鳥居龍蔵は小学校中退・松村 瞭は学士号を持たない選科出身でしたが、石田収蔵は理学士でした。ただ、鳥居龍蔵は1921年に文学博士号を、松村 瞭は1924年に理学博士号を取得しています。松村 瞭は、東京帝国大学理学部の植物学者・松村任三[1856-1928]の一人っ子であったので、理学部内でも応援する研究者が多かったのかもしれません。また、鳥居龍蔵や松村 瞭には、多くの論文や本等の業績が多かったという点も指摘できます。ただ、人類学雑誌の編集という縁の下の力持ちをずっとやらされた石田収蔵には、言い分もあったのかもしれません。いずれにしても、坪井正五郎の死・鳥居龍蔵の助教授昇任・鳥居龍蔵の助教授辞職・松村 瞭の助教授昇任という出来事の中で、石田収蔵は、1925年に東京帝国大学を辞職し、東京農業大学に移籍します。
1939年には、前出のように第5回目の樺太調査を行いますが、その年の11月に妻・静が死去しました。石田は、その妻の後を追うかのように、翌年の1940年1月31日に60歳で亡くなっています。明治時代後半から大正時代の人類学会を支えた、縁の下の力持ちとして活躍した人生だと言えるでしょう。
余談ですが、発音すると同じとなる元千葉大学の動物学者・石田周三[1910-1985]は、ハウエルズが書いた本を翻訳して『人間の来た道』を出版しています。
*石田収蔵に関する文献として、以下のものを参考にしました。
- 板橋区立郷土資料館(2000)『石田収蔵:謎の人類学者の生涯と板橋』
- 寺田和夫(1975)『日本の人類学』思索社
板橋区立郷土資料館(2000)『石田収蔵:謎の人類学者の生涯と板橋』