ブラック1.ダヴィッドソン・ブラック(Davidson BLACK)[Sigmon & Cybulski (1981)"Homo erectus"より]
ダヴィッドソン・ブラックは、1884年7月25日に、ダビッドソン・ブラック・シニア(Davidson BLACK Sr.)とマーガレット・バワーズ・デラメア(Margaret Bowers DELAMERE)との間に次男として、カナダのトロントで生まれました。しかし、ブラックが2歳の時に、父親は心臓発作で48歳という若さで亡くなります。
ブラックは、1906年にトロント大学医学部を卒業しますが、理学部に再入学して生物学を専攻し比較解剖学を研究して、1909年に卒業しました。通常、理学部を卒業して医学部に再入学する人が多い中、ブラックは逆のユニークなコースを辿っています。
1909年に卒業後、ブラックはアメリカ・オハイオ州・クリーヴランドにある、ウェスタン・リザーブ大学(Western Reserve University)で解剖学の講師に就任します。ちなみに、ウェスタン・リザーブ大学は1826年に創立された大学で、1881年に創立されたケース工科大学と1967年に合併して、現在は、ケース・ウェスタン・リザーブ大学となっています。
ブラックが就任した頃、解剖学の主任教授は、カール・オーガスト・ハーマン(Carl August HAMANN)[1868-1930]でした。ハーマンは、ペンシルヴェニア大学医学部を経て1893年に着任しましたが、やがて、解剖実習用の遺体から骨格標本を作製し始めます。その後、1912年には医学部長に就任しました。
ハーマンは、自分の後任の解剖学教授を推薦してくれるよう、イギリスの解剖学の大御所、アーサー・キース(Arthur KEITH)[1866-1955]に頼みます。当時のアメリカでは、イギリスの解剖学が優れていると考えられていたようです。キースは、マンチェスター大学医学部解剖学教室のウィンゲート・トッド(Wingate TODD)[1885-1938]を推薦します。トッドは、1907年にマンチェスター大学医学部を卒業後、そのまま母校で解剖学を教えていました。
1909年には、グラフトン・エリオット・スミス(Grafton Elliot SMITH)[1871-1937]が、カイロ医科大学からマンチェスター大学医学部の教授に就任します。トッドは、スミスを手伝ってエジプトのミイラの研究やヌビア出土人骨の研究を行うことになりました。トッドは、1912年の暮れに、マンチェスター大学からウェスタン・リザーブ大学解剖学教室教授として移籍します。ここで、問題が1つ起きました。ブラックは、トッドよりも1つ年上だったのです。
トッドが着任した頃、ハーマンが収集した約100体の法医骨格標本がありました。トッドは、この法医骨格標本をさらに増やし、1933年時点で約2,400体に達したと言われています。ブラックもトッドに協力し、1913年に解剖学助教授に昇任しました。ちなみに、この法医骨格標本は、ハーマン-トッド・コレクションとして、現在は、クリーヴランド自然史博物館に収蔵されています
ブラックは、1914年にオランダのアリエンス・カッパース(Ariens KAPPERS)[1877-1946]とイギリスのグラフトン・エリオット・スミスの元で、神経解剖学を学びました。トッドからの推薦もあって、スミスの元で研究することができたようです。1915年頃、ブラックにはサウス・カロライナ州立大学医学部やオレゴン大学医学部の解剖学主任教授の話があったようですが、何故か、ブラックはそれを断っています。しかし、もしこの時断っていなければ、後にペキンに行くことは無かったかもしれません。
イギリスのスミスとの出会いは、ブラックの運命を変えたと言っても過言ではないでしょう。スミスは、当時、発見されたばかりのピルトダウン人の研究を行っており、ブラックがペキン原人を研究する動機になったと考えられます。後に、このピルトダウン人は偽物であることが判明するのですが・・・。その後ブラックは、1917年から1919年にかけて、第1次世界大戦のカナダ軍軍医大尉として勤務します。
ブラック2.北京協和医学院のスタッフとの集合写真[Dora HOOD(1962)"Davidson Black"より]
1919年に、ブラックに転機が訪れました。北京協和医学院の神経学と胎生学を担当する解剖学の教授として勤務することになったのです。この北京協和医学院は、1906年に中国政府の協力を得てアメリカとイギリスの伝道教会により創立されていましたが、資金はアメリカのロックフェラー財団が援助していました。1917年には、アメリカのジョンズ・ホプキンズ大学医学部をモデルとして、再構成されています。この時協力したのが、ロックフェラー医学研究所のサイモン・フレクスナー(Simon FLEXNER)[1863-1946]でした。フレクスナーは、有名な野口英世[1876-1928]の共同研究者です。
ブラックの移籍は、トロント大学時代に一緒に勉強した、エドマンド・ヴィンセント・カウドリー(Edmund Vincent COWDRY)[1888-1975]の誘いがあったからでした。カウドリーは、トロント大学医学部を1909年に卒業後、シカゴ大学で1913年に博士号を取得し、ジョンズ・ホプキンス大学で解剖学の助手でしたが、1917年に北京協和医学院の解剖学主任教授に就任していました。
ブラックが妻と北京の宿舎に到着すると、そこは、扉も窓も家具も無い部屋でした。そこで、急遽、カウドリーは、ブラック一家を北京市内観光に連れ出し、夕食後に帰宅すると、そこには扉も窓も家具もつけられ、その上、召使いが微笑んで出迎えたというエピソードが有名です。
北京協和医学院では、解剖用の遺体が無いため、中国当局に訴えると処刑された囚人の遺体が数体届いたそうです。ところが、すべての遺体には頭部がありませんでした。そこで、もう一度中国当局に訴えると、今度は生きた囚人を数人送り込み、どのようにでも処刑して下さいと言われたそうです。当然、もう一度、説明をしたのは言うまでもありません。
ブラックは、1913年にアデナ・ネヴィット(Adena NEVITT)と結婚していましたが、北京滞在中、1921年には息子が、1925年には娘が生まれています。息子さんの名前は、ダヴィッドソン・ブラック三世で、その息子さんつまり、ブラックの孫の名前はダヴィッドソン・ブラック四世だそうです。
ブラック3.ペキン原人研究の関係者との集合写真。ブラック(右から3人目)[Dora HOOD(1962)"Davidson Black"より]
ブラックは、1924年には解剖学主任教授に昇任しました。友人のカウドリーは、すでに、1921年にニューヨークのロックフェラー研究所に移籍して、研究テーマを解剖学から寄生虫に変えています。
1926年には、更に、転機が訪れました。周口店から、ペキン原人が発見されたのです。それは、左下第1大臼歯でした。ブラックは、1927年に「The Lower Molar Hominid Tooth from the Chou Kou Tien Deposit」という題で、『Paleontologia Sinica(古生物誌)』第7巻第1号に論文を発表し、このたった1本の歯に、「シナントロプス・ペキネンシス(Sinanthropus Pekinensis)」と新しい学名を命名しました。ペキン原人の誕生です。
ブラック4.周口店でのブラック(中央)[Dora HOOD(1962)"Davidson Black"より]
1929年には、さらに大発見がありました。その年の12月2日の夕方、裴 文中[1904-1982]が、頭蓋骨を発見したのです。ブラックは、1930年に「On an Adolescent Skull of Sinanthropus Pekinensis in Comparison with an Adult Skull of the Same Species and with other Hominid Skulls, Recent and Fossil」という題で、『Paleontologia Sinica(古生物誌)』第7巻第2号に発表しました。
ブラックは、このペキン原人の宣伝のため、世界中を駆け回りました。しかし、この頃から無理がたたっていたのかもしれません。元々、心臓が丈夫ではなかったのですから。1930年9月、ブラックは、母校のトロント大学から名誉理学博士の称号を授与されました。
ブラック5.研究室でのブラック。ブラックは、この机で亡くなっていたという。[Dora HOOD(1962)"Davidson Black"より]
大学当局は、ブラックがペキン原人を研究することをこころよく思っていなかったと言われており、たびたび、解剖学に専念するようにと注意していたそうです。そこで、ブラックは、夕方5時から深夜までをペキン原人研究にあてました。もちろん、夜中であれば訪問者も無く電話もかかってこないという理由もあったのかもしれません。早朝に自宅に戻り、昼頃まで寝ていたとも言われています。
1934年3月15日、ブラックはいつものように、夕方5時から研究室にこもりました。1時間後、研究室のスタッフが用事でブラックの研究室を訪ねると、ブラックはすでに死去していたそうです。享年49歳。死因は、48歳で亡くなった父親と同じ心臓発作でした。机の上には、研究中のペキン原人の化石が置かれていました。中国語の漢字で、「歩達性」と書かれて好かれていたブラックの早すぎる死を、中国人スタッフの誰もが悲しんだそうです。
ダヴィッドソン・ブラックについては、ドーラ・フッド(Dora HOOD)[1885-1974]による伝記『Davidson Black』が1964年にトロント大学出版から出版されています。この本は、フッドの2冊目の著書ですが、著者79歳の時のもので驚きました。
ブラック6.『Davidson Black』(Hood 1964)の表紙