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人類学のススメ

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世界の人類学者23.グラフトン・エリオット・スミス(Grafton Elliot SMITH)[1871-1937]

2012年01月08日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

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スミス1.グラフトン・エリオット・スミス(Grafton Elliot SMITH)[1871-1937][ロンドン大学ユニヴァーシティカレッジのアーカイヴより引用]

 グラフトン・エリオット・スミスは、1871年8月15日に、オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ、グラフトンで生まれました。シドニー大学医学部に進み、1893年に卒業後、1895年には医学博士号を取得します。テーマは、オーストラリアに生息する「有袋類の脳の解剖学的及び組織学的研究」でした。

 やがて、スミスに転機が訪れました。1896年、スミスはシドニー大学からの奨学金を得てイギリスのケンブリッジ大学に留学します。ここで、スミスはセント・ジョンズ・カレッジに籍を置き、1898年に学士号、1903年に修士号を取得しました。この時代、スミスは王立外科学校に収蔵されている、哺乳類及び爬虫類の脳の記載とカタログを完成させています。

 スミスに、次の転機が訪れました。1900年、スミスはエジプトのカイロに新設された、カイロ医学校の解剖学主任教授となり赴任します。このエジプト時代、スミスはエジプトミイラの研究や、アスワンダム周辺から出土したヌビア人ミイラ約2万体(1万体という説もある)の研究を行いました。この研究は、フレデリック・ウッド・ジョーンズ(Frederic Wood JONES)[1879-1954]も手伝っています。

 1909年、スミスはマンチェスター大学医学部解剖学主任教授として、再びイギリスに戻ります。このマンチェスター大学時代に、スミスはエジプトでの経験を元にして、「文化伝播説」を提唱します。世界中に広がっているミイラ製作技術は、エジプトが起源で、そこから世界に広がったと考えたのです。この説は、現在では否定されていますが、当時、話題を集めました。また、スミスが着任したことにより、マンチェスター大学ではエジプトミイラを研究することが盛んになっています。さらに、ピルトダウン人に積極的に関わったのもこの時代です。このマンチェスター大学時代に、トーマス・ウィンゲート・トッド(Thomas Wingate TODD)[1885-1938]を育てています。

 1919年、スミスはロンドン大学ユニヴァーシティカレッジ医学部の解剖学主任教授に就任します。このロンドン大学時代に、レイモンド・ダート(Raymond DART)[1893-1988]、ダヴィッドソン・ブラック(Davidson BLACK)[1884-1934]を育てています。

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スミス2.ロンドン大学時代のスミス[ロンドン大学ユニヴァーシティカレッジのアーカイヴより引用]

 1932年、スミスは軽い脳梗塞を起こし体調不良となりました。1934年には、ナイトに叙せられましたが、健康はすぐれず、1936年にロンドン大学から引退し入院生活を余儀なくされました。1937年1月1日、スミスは再び脳梗塞を起こし65歳でその生涯を閉じました。