ハルス1.フレデリック・ハルス(Frederick S. HULSE)[1906-1990]
フレデリック・ハルスは、1906年に、ニューヨークで生まれました。父親が牧師だったため、その転勤に伴い1915年には、キューバのハバナに移りました。1918年には、コネチカットの学校に転校し、ハーヴァード大学への入学を希望しますが、ラテン語の成績が悪かったため、ウィリアムズ・カレッジに入学します。そこでラテン語の猛勉強を行い、2年後にはハーヴァード大学に編入しました。このハーヴァード大学で、アーネスト・フートン(Earnest HOOTON)[1887-1954]と運命的な出会いが起きます。
経済的に裕福ではなかったハルスのために、フートンは様々な仕事を与えて勉学を支えました。その内の1つに、霊長類の生態をフィルムで記録する仕事がありました。1920年代、キューバ在住のある資産家が、チンパンジー、オランウータン、テナガザルを含む約100頭の動物を飼育していました。かつて、キューバに在住したことがあるハルスはその適任者だと考え、フートンは、そのロコモーションをフィルムにおさめる仕事のアドバイザーとしたのです。キューバは、ハルスにとっても、重要な国となり、やがて、1934年には、「アンダルシアとキューバ在住民の自然人類学的比較研究」というテーマで学位論文にしています。ハルスは、この学位論文のために、1928年から1930年にかけて、200名のキューバ人と500名のアンダルシア人の生体計測を行い、アンダルシアからキューバへの移民の生体計測データを比較しています。ただ、この学位論文は、45年間も印刷されなかったそうです。この移民の研究は、ハルスのお家芸となり、やがて、ハワイやカリフォルニア州在住の日系人と本国日本人との生体計測の比較を行っています。
1936年には、ワシントン大学シアトル校の講師に就任します。1938年には、発掘調査を実施する機会に恵まれ、ここで出土人骨の分析を行いながら約2年間を過ごしています。太平洋戦争中の1942年から1945年は、日本人移民を研究した経験がかわれて、軍に勤務しました。また、終戦後の1945年10月には4ヶ月間日本に滞在して、ランダムに抽出した約3,000人の日本人へインタビューをしています。ハルスは、自然人類学の大家として有名ですが、このように、自然人類学・考古学・文化人類学と、現在のアメリカの人類学部のカリキュラムと同様にバランス良く経験を積んでいます。
戦後になると、ハルスのことを心配したフートンは、コルゲート大学とアリゾナ大学の職を斡旋しますが、ハルスは、フートンが勧めるアリゾナ大学ではなくコルゲート大学で1946年から教鞭をとりました。1948年にはワシントン大学シアトル校へ移り、1949年には準教授に就任しています。この頃、ハルスは、採取した血液からの遺伝学的研究を行っています。1958年には、かつて恩師のフートンが勧めたアリゾナ大学の教授に就任し、定年までそこに落ち着きました。アリゾナ大学でのハルスは、法医人類学に興味を持っていたようで、9人いた弟子の内、8人までもが法医人類学の分野で博士号を取得しています。ハーヴァード大学での先輩にあたる、ハリー・シャピロ(Harry Linonel SHAPIRO)[1902-1990]の影響があったのかもしれません。
プライべートでは、1934年8月26日に、カリフォルニア州出身のレオニー・ロビンソン・ミルズ(Leonie Robinson MILLS)と結婚しています。しかし、やがて、悲劇が訪れました。1982年5月、アリゾナ大学を引退してから余生をカリフォルニア州で過ごすことに決め、妻のレオニーが運転する車でアリゾナを出発したのですが、ツーソンから西約100マイル(160km)の地点で、2人が同乗する車が横転事故を起こし、レオニーは事故死してしまいます。幸い、ハルスは命をとりとめましたが、妻を亡くしたショックは大きかったそうです。その事故から8年後、1990年5月16日にハルスは84年の生涯を閉じました。
ハルスが書いた本としては、1963年に出版された『The Human Species』が有名です。
ハルス2.ハルスが書いた本『The Human Species』の表紙(*画像をクリックすると、拡大します。)