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人類学のススメ

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世界の人類学者27.アシュリー・モンタギュー(Ashley MONTAGU)[1905-1999]

2012年01月29日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

Ashley_montagu

アシュリー・モンタギュー(Ashley MONTAGU)[1905-1999][Montagu(1981)『Growing Young』の裏表紙より引用]

 アシュリー・モンタギューは、1905年6月28日に、イギリスのロンドンでユダヤ系の両親の間に生まれました。モンタギューの幼少期は、父親と反目していたようで、モンタギューが図書館で借りてきた本は父親に破棄されるため、外に出て街灯の下で本を読んでいたそうです。1922年にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジに入学し、人類学を専攻して、1925年に卒業しました。当時、ロンドン大学には、著名な人類学者、グラフトン・エリオット・スミス[1871-1937]がおり、モンタギューはこのスミスから指導を受けています。同時に、著名な人類学者、アーサー・キース[1866-1955]にも指導を受けており、どちらかと言えば、このキースの影響が大きかったと言われています。このキースとは、モンタギューがまだ12歳の少年の時に発掘で発見した頭蓋骨を持ち込んだことから親交が始まったようです。また、統計学の権威のカール・ピアソン[1857-1936]やチャールズ・スピアマン[1863-1945]に心理統計学を学びました。余談ですが、ピアソンとスピアマンは同僚でしたが、お互いに反目しあっていたと言われています。さらに、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)では、著名な社会人類学者のブラニスラウ・マリノフスキー[1884-1942]の最初の弟子として指導も受けました。

 1930年、モンタギューはアメリカに渡り、コロンビア大学大学院で人類学を学びました。コロンビア大学では、著名な文化人類学者のフランツ・ボアズ[1858-1942]やルース・ベネディクト[1889-1948]に指導を受け、オーストラリア・アボリジンの社会的及び生理学的成熟というテーマで、1937年に学位を取得しています。アメリカ滞在中、モンタギューは、生計を立てるため、1931年から1938年にかけて、ニューヨーク大学医学部で解剖学を教えました。また、1938年から1949年にかけては、ハーネマン医科大学(現ドレクセル大学医学部)で、解剖学を教えています。この間、モンタギューは、1940年に米国籍を取得しました。

 1949年、モンタギューはラトガース大学人類学部の教授兼人類学部長に就任し、1955年まで務めました。しかし、研究資金が提供されないことに不満を持ち、アカデミックな世界から引退し、フリーの人類学ジャーナリストとなります。ただ、その裏には、ユネスコから出版された人種に関するモンタギューの記載が問題となったためだとも言われています。モンタギューは、人種という概念を否定しており、伝統的に人種を認める学者達と意見があわなかったのです。また、ユダヤ系の割礼を厳しく批判していたため、反ユダヤ主義というレッテルを張られており、生涯、世界中で行われている子供に対する割礼を批判し反対を表明しました。

 モンタギューは50歳で大学から去っているためか、日本では、モンタギューのことを人類学者としてではなく、ジャーナリストとしてよく誤って紹介されることが多いようです。実際は、1955年以降、ハーヴァード大学・プリンストン大学・デラウェア大学・カリフォルニア大学等で、客員教授も務めているのですが・・・。

 しかし、人類学の世界にとってはこのことは幸運だったかもしれません。何故なら、モンタギューは自由な立場で多くのテーマについて著作を書いており、生涯で70冊の著書と20冊の編著を残しているからです。モンタギューは、自然人類学と文化人類学をしっかりと学んでおり、その意味でオールマイティでした。かつて、これほど、人類学を一般の世界に広めた人間はいないとまで言われる所以です。

 モンタギューは、1999年11月26日に、94歳の生涯を閉じました。まさしく、人道主義に徹し、人類学を世界中に広めた人生でした。