関ヶ原の戦いで有名な石田三成[1560-1600]は、永禄3(1560)年に生まれました。やがて、豊臣秀吉[1537-1598]に仕えて佐和山19万石の城主となり五奉行の1人になります。秀吉没後の慶長5(1600)年9月15日(10月21日)には、関ヶ原の戦いが行われ、石田三成は西軍の中心人物として五大老の1人であった毛利輝元[1553-1625]を総大将として、徳川家康[1543-1616]率いる東軍と戦いますが破れます。
石田光成は戦場から何とか逃げますが、9月21日に発見されて捕らえられ、10月1日に六条河原で斬首されて三条河原にその首をさらされました。その後、石田光成の遺体は京都大徳寺の三玄院に葬られています。
石田光成の没後約300年後の明治40(1907)年5月19日、三井財閥の実業家・朝吹英二[1849-1918]が依頼した、東京帝国大学の歴史学者・渡辺世祐[1874-1957]等が三玄院の石田三成の墓を発掘調査しました。この調査の主催は、時事新報社により行われています。調査のきっかけは、石田光成墓地の移転だったと言われています。渡辺世祐は、調査の成果をまとめて『稿本石田三成』を明治40(1907)年11月に出版しました。しかし、この本には、光成の遺骨についての記載はされていません。
発掘で出土した石田三成の遺骨は、京都帝国大学医学部の解剖学者・足立文太郎[1865-1945]に届けられました。しかし、様々な理由で足立文太郎はこの結果を学会発表もせず論文にも記載していません。足立文太郎の弟子で、後に京都帝国大学医学部の病理学者となる清野謙次[1885-1955]は、石田三成の遺骨に関する記録をとどめるため、昭和18(1943)年4月に、足立文太郎の自宅を訪問して聞き書きした内容を3冊の著書に書いています。その後、同年5月12日に足立文太郎から清野謙次に手紙と同時に石田三成の遺骨の写真が届けられました。
清野謙次による足立文太郎への聞き書きの内容は、以下の通りです。
・墓地移転に際して、墓石から多少ずれてはいたが一人分の人骨が出土。
・頭蓋骨は、かなり著しく破損していた。足立文太郎は丹念にこれを接ぎ合わせてかなり完全に頭蓋骨が復元出来た。
・改葬するために、その前に頭蓋骨の石膏模型を作らせた。
・上腕骨や大腿骨その他の四肢骨を自ら計測記載して表を作っておいた。
石田三成の頭蓋骨前面観[清野謙次(1949)より改変して引用]
足立文太郎による観察の結果は、以下の通りです。
・優さ男の骨格で、生前には腺病質[註:体質虚弱で神経質]ではなかったかと思われる。骨格を見ただけでは男女いずれであるか、性の決定が少し困難な程度のもの。年齢は、光成没時(41歳)[註:40歳]に相当した。
・頭型は長頭[註:前後に長い]で、かなり著名なる反っ歯[註:歯槽性突顎]
石田三成の頭蓋骨左側面観:1.鼻根部は陥凹しておらず平坦・2.歯槽性突顎(反っ歯)である[清野謙次(1949)より改変して引用]
石田三成の遺骨は、明治40(1907)年10月20日に改葬されました。足立文太郎は、石膏像・歯2本・第1脊椎骨[註:第1頸椎]・鉄片1個[註:小づか]・四肢骨の計測表とを一緒にして京都帝国大学医学部解剖学教室の標本室に保存します。ちなみに、「小づか」とは、首と胴とをつなぎあわせるものです。ところが、足立文太郎が保存したはずの資料すべてが紛失しました。展覧会や大学に貸し出した際に、そのまま返却されなかったらしいとのことです。足立文太郎は石膏模型から石田三成の顔を復顔したかったらしいのですが、その研究もできませんでした。石田光成の遺骨は、急に改葬するとの事だったので、実物を計測することができなかったため、足立文太郎は後日写真で計測しました。写真撮影は歪みを無くすため、3.5m離れた距離から撮影しています。
石田三成の頭蓋骨後面観[清野謙次(1949)より改変して引用]
・頭蓋最大長:178mm
・頭蓋最大幅:133mm
・頭蓋長幅示数:75.3
・ナジオン・イニオン:171mm
・耳高:121mm
・顔高:121mm
・眼窩高:36mm
・眼窩幅:39mm
足立文太郎による石田三成遺骨の計測と観察の記録は、清野謙次によって公にされる事により、今日まで残されました。
その後、この石田三成の遺骨は、東京大学の人類学者・鈴木 尚[1912-2004]により再検討されています。鈴木 尚は、以下のように要約し足立文太郎の観察を裏付けています。
・顔の形は細面で、眉間から鼻の付根にかけての高まりは弱いので、ごつい顔ではなくむしろ優男という表現は適切である。
・光成の頭は前後に長い形をしていたことがうかがわれるが、これは、現在の日本人に比較すると、前後の長さでは普通であるが、左右の幅がきわめて狭い。
・光成はひどい反っ歯[註:歯槽性突顎]であった。
*石田三成の遺骨に関する資料として、以下の文献を参考にしました。
- 清野謙次(1944)「第2章2.石田三成の頭蓋骨」『日本人種論変遷史』、小山書店、pp.80-86
- 清野謙次(1946)「第3編第3章.石田三成の頭蓋骨」『日本民族生成論』、日本評論社、pp.111-113
- 清野謙次(1949)「第2編第2章.史上有名なりし人物の白骨鑑識:石田三成の頭蓋骨」『古代人骨の研究に基づく日本人種論』、岩波書店、pp.95-98
- 鈴木 尚(1960)「石田三成の頭骨」『骨』、学生社、pp.164-174
- 鈴木 尚(1996)「9.戦国武将石田三成の頭骨」『改訂新版・骨』、学生社、pp.179-189