goo blog サービス終了のお知らせ 

人類学のススメ

人類学の世界をご紹介します。OCNの「人類学のすすめ」から、サービス終了に伴い2014年11月から移動しました。

世界の人類学者8.ハリー・ライオネル・シャピロ(Harry Lionel SHAPIRO)[1902-1990]

2011年12月09日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

Shapiro

シャピロ1.ハリー・ライオネル・シャピロ(Harry Lionel SHAPIRO)[1902-1990](アメリカ自然史博物館より引用)

 ハリー・ライオネル・シャピロは、1902年3月19日にアメリカのマサチューセッツ州ボストンで男性3人兄弟の次男として生まれました。両親は、1880年代後半に、ポーランドから移民したユダヤ人の家系でした。

 やがて、ハーヴァード大学に入学した当時は、医者になることを目指していましたが、やがてアーネスト・フートン(Earnest HOOTON)[1887-1954]の人柄に惹かれ弟子となり自然人類学を専攻します。元々、人類遺伝や人種に興味があったと言われています。1923年に卒業すると、そのまま大学院に残り、1924年にはピトケアン島の調査に向かいました。このピトケアン島は、1789年にイギリス海軍のバウンティ号で起きた反乱で逃亡した船員とその子孫が暮らしている島で有名です。

 1925年に、アメリカ自然史博物館のルイス・サリヴァン(Louis R. SULLIVAN)[1892-1925]が病死すると、シャピロは後任として第一候補になりました。サリヴァンは、ハワイ諸島民の生体計測を行っていたのです。1926年に、シャピロは博士号を取得すると、サリヴァンの後任としてアメリカ自然史博物館のアシスタント・キュレーターに就任しました。この自然人類学での博士号取得は、アメリカで最初だと言われています。シャピロは、その後、1931年にアソシエイト・キュレーターに、1942年にはキュレーター兼人類研究部長に昇進しました。シャピロは、退職する1970年まで28年間の長きにわたって人類研究部長を務めました。この間、1961年には、アメリカ自然史博物館で「人類の生物学」という常設展示を完成させています。

 ちなみに、1932年にはコロラド大学で教鞭をとる機会がありましたが、シャピロはこれを断っています。理由は、太平洋の調査に専念したいということでした。しかし、1938年から1973年にかけて、コロンビア大学人類学部で客員教授を務めています。

 シャピロが書いた本では、以下の本が有名です。1936年の本は学位論文を元にしたバウンティ号の話、1960年の本は両親の家系に関するユダヤ人の話、1974年の本はペキン原人の話です。

  • 1936年 『The Heritage of the Bounty』,Simon & Schuster
  • 1960年 『The Jewish People: A Biological History』, UNESCO
  • 1974年 『Peking Man』, Simon & Schuster

 シャピロのその他の仕事としては、第二次世界大戦が終結後、アメリカ人兵士戦死者の遺骨鑑定です。1946年5月には、米軍の要請により、主に西ヨーロッパで戦死して埋葬されたアメリカ人兵士の遺骨鑑定の仕事に約4ヶ月間行っています。この仕事を通して、シャピロは遺骨鑑定のマニュアルを作成し、当時、フランスのストラスブールにあった中央鑑定研究所で採用されました。このマニュアルは、中央鑑定研究所が現在の場所、ハワイに移転してからも採用されています。

 また、ペキン原人の研究は、その研究で著名なフランツ・ワイデンライヒ(Franz WEIDENREICH)[1873-1948]が、1941年から亡くなる1948年までアメリカ自然史博物館人類研究部の客員研究員でいたことから、刺激を受けたと言われています。当時、シャピロは数千の手紙や電話を受け、様々な情報を入手しました。1978年には、中国を訪問し、地震で倒壊した建物の下にペキン原人が埋められている可能性が高いという場所まで突きとめましたが、残念ながら発掘調査をするまでにはいたりませんでした。

 シャピロは、定年退職した後の1989年まで元の職場のアメリカ自然史博物館に通って研究を続けましたが、1990年1月7日、87歳でこの世を去りました。

Shapiro1974

シャピロ2.シャピロが書いた本『Peking Man』の表紙(*画像をクリックすると、拡大します。)