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人類学のススメ

人類学の世界をご紹介します。OCNの「人類学のすすめ」から、サービス終了に伴い2014年11月から移動しました。

私の仕事:発掘調査・パラオ15.ペリリュー島:最後の日本兵

2010年10月26日 | D4.私の仕事:発掘調査・パラオ[Excava

 1992年7月4日~7月10日に行われたペリリュー島の日米合同調査ですが、全員で当時のパラオの議員と発掘調査の可否について会議をしました。しかし、発掘調査はとうとう許可がおりませんでした。当時のパラオの議員は、ペリリュー島は島全体が墓だという認識で、これ以上、日本兵の遺骨を持ち帰ることは許可しないとの見解でした。

 パラオは、1994年に独立しますが、独立前というタイミングもあったのかもしれません。

 このペリリュー島の水戸山では、「最後の日本兵」の物語が有名です。パラオのコロールに、当時、「鶴之家」という料亭があり、そこの芸妓「久松」は、引野通広少佐(独立歩兵第346大隊)に懇願し、ペリリュー島へ同行したというのです。その際、久松は、黒髪を切り落として坊主頭になり、日本陸軍の軍属として制服まで着てペリリュー島へ同行したそうです。その後、引野少佐は戦死し、久松は丘の上で米軍海兵隊に包囲され、機関銃を乱射したと言われています。久松は戦死したのか、捕虜となったのか、その真偽もよくわからないそうです。 

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パラオ76.丘の上にある銃。久松が使った銃なのか?

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パラオ77.日米合同調査の参加者(左から、私・スコット先生・中島さん・バレンドルフ先生・シリアーニ先生)

 2002年には、この1992年のペリリュー島の日米合同調査を元にして、ペリリュー島の戦争遺跡について、以下の本に分担して執筆しました。「ペリリュー島の戦争遺跡:天皇の島と呼ばれた玉砕の島」、『しらべる戦争遺跡の事典』(十菱駿武・菊池 実編)、柏書房、2002年

しらべる戦争遺跡の事典 しらべる戦争遺跡の事典
価格:¥ 3,990(税込)
発売日:2002-06

Jyubishikikuchi2002

 なお、このペリリュー島では、実際に、戦後の1947年4月まで洞窟に潜んでゲリラ戦を続けていた日本軍兵士34名がいました。

 この最後の兵士34名については、以下の2冊の本が出版されています。

1.久山 忍 2009 『戦いいまだ終わらず』、産経新聞出版

戦い いまだ終わらず 戦い いまだ終わらず
価格:¥ 1,890(税込)
発売日:2009-12-08

 本書の内容は、以下のように、全5章からなります。

  1. ペリリュー島
  2. 戦闘の記録
  3. 生存への道(昭和19年9月~昭和20年4月)
  4. 壕の生活(昭和20年4月~昭和22年3月)
  5. 帰順までの記録(昭和22年3月~5月)

Hisayama2009

2.平塚 柾緒 2010 『生還:玉砕の島ペリリュー戦記』、学研

証言記録 生還―玉砕の島ペリリュー戦記― (WWⅡ SELECTION) 証言記録 生還―玉砕の島ペリリュー戦記― (WWⅡ SELECTION)
価格:¥ 2,415(税込)
発売日:2010-08-11

 本書の内容は、以下のように、全8章からなります。

  • 序章.50年目の玉砕地
  • 第1章.死出の旅
  • 第2章.オレンジビーチの死闘
  • 第3章.敵前逆上陸
  • 第4章.玉砕
  • 第5章.敗残の洞窟生活
  • 第6章.奇跡の投降
  • 終章.祖国

Hiratsuka2010  


私の仕事:発掘調査・パラオ14.ペリリュー島:連隊本部壕

2010年10月25日 | D4.私の仕事:発掘調査・パラオ[Excava

 1944年9月15日に米軍がペリリュー島に上陸し、勇猛果敢に抗戦した日本軍ですが、人員で3倍から4倍の数の米軍におされ、11月24日に、中川州男大佐(歩兵第2連隊長)・飯田義栄中佐(歩兵第15連隊第2大隊長)・村井権治郎少将(第14師団参謀)の3名は、電文で「サクラ・サクラ」を送り自決しました。

 このペリリュー島へは、昭和天皇より嘉賞11回・感状3回が送られており、戦史作家の児島 襄[1927-2001]さんは、1967年に講談社から『天皇の島』という本を出版しています。

 中川州男大佐は、戦死後、2階級特進で陸軍中将になっていますが、佐官で2階級特進したのは、アッツ島守備隊を指揮した山崎保代大佐[1891-1943]と中川大佐の2名だとも言われています。

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パラオ73.連隊本部壕(1992年当時)[近年、場所が違うという意見もある]。

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パラオ74.連隊本部壕前の碑(1992年当時)

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パラオ75.連隊本部壕近くの碑(1992年当時)

 最近、この中川州男大佐に関する本が出版されました。

愛の手紙―ペリリュー島玉砕 中川州男大佐の生涯 愛の手紙―ペリリュー島玉砕 中川州男大佐の生涯
価格:¥ 1,575(税込)
発売日:2010-09

 パラオに関する戦跡を写真と文章で紹介したものに、以下の本があります。著者の西村 誠さんは、光人社から『太平洋戦跡紀行』のシリーズとして、「ガダルカナル」・「ニューギニア」・「サイパン・テニアン・グアム」・「ペリリュー・アンガウル・トラック」と4冊出版されています。

Nishimura2007

太平洋戦跡紀行 ペリリュー・アンガウル・トラック
価格:¥ 2,310(税込)
発売日:2007-06

 本書は、「太平洋戦跡紀行」シリーズの1冊として、西村 誠さんによる文・湯原浩司さんによる撮影で、2007年に光人社から出版されました。本書の内容は、以下の通りです。

  • ペリリュー
  • アンガウル
  • パラオ本島
  • トラック・パラオ戦記
  • トラック諸島・夏島
  • トラック環礁&竹島
  • トラック諸島・春島
  • トラック・パラオ訪問記

私の仕事:発掘調査・パラオ13.ペリリュー島:日本軍洞窟

2010年10月24日 | D4.私の仕事:発掘調査・パラオ[Excava

 ペリリュー島には、当時の日本軍が構築した洞窟が約500あると推定されています。ただ、多くの洞窟は、米軍がブルドーザーで埋めたり、岩やセメントで出入り口を塞いだそうです。洞窟の中には、火焔放射器による煤(スス)が残っているものもあります。

 いくつかの洞窟には、見学で入ることができました。洞窟は堅い珊瑚礁をくりぬいており、中には内部で立てるような場所もあり、構築の大変さを想像することができます。

 1992年当時の調査には、日本側からは太平洋学会専務理事の中島 洋さんと私が、アメリカ側からは歴史学者としてグアム大学のダーク・バレンドルフ(Dirk BALLENDORF)先生・考古学者としてダグラス・スコット(Douglas D. SCOTT)先生・自然人類学者としてニューヨーク州立大学バッファロー校のジョイス・シリアーニ(Joyce E. SIRIANNI)先生が参加しました。

 シリアーニ先生は、ワシントン大学(Washington University)で自然人類学の教育を受けた方で、元々は霊長類の成長や歯の形態を研究されていました。その後、このペリリュー島調査の翌年の1993年~1995年に、アメリカ自然人類学会の第33代会長に就任されています。4人目の女性会長でした。

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パラオ69.洞窟入口(1992年当時)

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パラオ70.洞窟内部1 (1992年当時)

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パラオ71.洞窟内部2 (1992年当時)

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パラオ72.洞窟内部3とシリアーニ先生(1992年当時)


私の仕事:発掘調査・パラオ12.ペリリュー島:神社・慰霊碑・お墓

2010年10月23日 | D4.私の仕事:発掘調査・パラオ[Excava

 ペリリュー島では、ペリリュー神社・慰霊碑・お墓・記念碑等も見ることができます。

 ペリリュー神社は、1934年に建立され戦争で破壊されたものが、1982年に再建されています。その後、2001年に場所を替えて建て直されたそうです。以下の写真は、1992年時のものなので、1982年に再建された姿となります。

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パラオ63.ペリリュー神社遠景1(1992年時)。

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パラオ64.ペリリュー神社遠景2(1992年時)。

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パラオ65.ペリリュー神社近景(1992年時)。

 ペリリュー島の最初の慰霊碑は、以前ご紹介した、舩坂 弘さんが1968年に創建しています。この慰霊碑の建設は、舩坂さんがお書きになった本の印税をあてたそうです。写真の右側が舩坂さんが建立した慰霊碑。中央は、ペリリュー島みたま会が、1972年に建立した慰霊碑。左側は、日本政府が建立した慰霊碑。

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パラオ66。慰霊碑(1992年時、右:舩坂さんが建立したもの・中央:ペリリュー島みたま会が建立したもの・左:日本政府が建立したもの)

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パラオ67.墓地(1992年時)。現地の人・日米両軍兵士が眠っている。

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パラオ68.アメリカ第1海兵師団の記念碑(1992年時)。

 アメリカ第1海兵師団は、17,490名(約16,000名とも)からなりましたが、戦死1,251名・負傷5,274名という損害を出し、1994年10月30日に撤退し、陸軍第81師団と交代しています。


私の仕事:発掘調査・パラオ11.ペリリュー島:海軍司令部跡

2010年10月22日 | D4.私の仕事:発掘調査・パラオ[Excava

 飛行場近くには、海軍司令部跡があります。コンクリートで頑丈に作られた建物は、蔓(ツル)がはびこっており、時の流れを感じぜずにはいられません。よく見ると、建物のあちこちに弾痕があり、戦闘の激しさが想像できます。

 また、天井には、艦砲射撃か空爆による大きな穴があいています。建物の扉は、鉄扉のようで、かなり錆びており開いたままになっています。

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パラオ57.海軍司令部跡外観(1992年当時)。

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パラオ58.海軍司令部跡内部1(1992年当時)。

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パラオ59.海軍司令部跡内部2(1992年当時)。階段があり、2階に通じている。

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パラオ60.海軍司令部跡内部3(1992年当時)。鉄でできた扉。

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パラオ61.海軍司令部跡内部4(1992年当時)。トイレ跡。

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パラオ62.海軍司令部跡内部5(1992年当時)。風呂跡。


私の仕事:発掘調査・パラオ10.ペリリュー島:日本軍兵器

2010年10月21日 | D4.私の仕事:発掘調査・パラオ[Excava

 ペリリュー島には、今でも日米両軍の兵器が残されています。前回は、米軍のものをご紹介しましたが、今回は、日本軍の兵器をご紹介します。

 ペリリュー島では、零戦・九五式軽戦車・榴弾砲等を見学することができます。

 零戦は、正式には零式艦上戦闘機の略称です。三菱重工業により開発され生産されましたが、中島飛行機でも生産されました。零戦の「ゼロ」とは、海軍に正式に採用された1940年が、皇紀2600年にあたることから命名されています。1945年までに、約1万機以上が生産されています。

 ペリリュー島では、ジャングルの中に墜落した状態のものを見学することができます。残念ながら、型式はわかりません。

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パラオ51.零戦遠景(1992年当時)

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パラオ52.零戦近接(1992年当時)

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パラオ53.零戦とダグラス・スコット(Douglas D. SCOTT)先生(1992年当時)。スコット先生は、調査当時はアメリカの国立公園局中西部考古学センターに勤務していました。

 スコット先生は、コロラド大学出身で、戦跡考古学を専門としています。1876年6月25日にモンタナ州のリトルビッグホーンで、カスター将軍(ジョージ・アームストロング・カスター)[1839-1876]率いる第7騎兵隊が全滅した遺跡を詳細に分析した研究が有名です。スコット先生は、現在は、ネブラスカ大学リンカーン校人類学部の客員教授をしています。

 ペリリュー島では、九五式軽戦車を見学することもできます。この九五式軽戦車は、天野国臣大尉率いる第14師団戦車隊に属しており、当時、17両(12両という説もある)が配備されていました。米軍が上陸した1944年9月15日の16:30頃、飛行場で反撃に使用されたと記録されています。

 この九五式軽戦車は、乗員3名で、37mm砲1門・7.7mm機銃2門を備えていました。三菱重工業を中心として、神戸製鋼所や新潟鉄工所でも生産され、約1,500両が完成したと言われています。

 しかし、装甲が約12mmと薄いため、米軍は当初、徹甲弾を使用しましたが貫通してしまい、榴弾に切り替えても効果が無かったため、信管の感度を瞬間に変えてようやく応戦することができたと記録されています。

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パラオ54.九五式軽戦車(1992年当時)。砲塔は失われている。飛行場で撮影された記録には、砲塔がはずれた写真があるが、それと同じものかは確認できない。

 また、洞窟を掘り込んで構築した砲台に残る、榴弾砲も見学することができます。

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パラオ55.榴弾砲近景1(1992年当時)

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パラオ56.榴弾砲近景2(1992年当時)


私の仕事:発掘調査・パラオ9.ペリリュー島:米軍水陸両用装軌車(LVT)

2010年10月20日 | D4.私の仕事:発掘調査・パラオ[Excava

 ペリリュー島では、日米両軍の車輌を現地で見学することが可能です。特に、米軍が使用した水陸両用装軌車[LVT(Landing Vehicle Tracked)]は、3種類が野外展示されています。米軍は、アムトラック(Amphibian Tractor)と呼んだそうです。

 このLVTにはいくつかのタイプがあり、LVT-1は別名アリゲーターと呼ばれ、フロリダ州の沼地で救助活動に使用されたものを改造して、1942年のガダルカナル島で資材運搬用に使用されています。その後、改良を加えて、1943年11月にタラワ(キリバス)で実戦配備されました。1943年後半には、LVT-2(ウォーター・バッファロー)が開発されています。

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パラオ47.米軍のLVT-2(1992年に撮影)

 このLVT-2を改良したものに、LVT(A)-1があります。この「(A)」とは、Armorの意味で、武装をしていることを意味します。LVT(A)-1には、M3A1スチュアート軽戦車の砲塔(37mm砲)を装備していました。また、前部に7.62mm機銃1門・後部には7.62mm機銃2門が装備されています。このLVT(A)-1は、509両が生産されたそうです。

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パラオ48.米軍のLVT(A)-1全景(1992年に撮影)

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パラオ49.米軍のLVT(A)-1砲塔部。この砲塔は、M3A1スチュアート軽戦車の砲塔を流用しており、37mm砲が装備されている。(1992年に撮影)

 LVT(A)-4は、さらに改良を加え、M8・75mm自走砲の砲塔(75mm砲)を装備していました。このLVT(A)-4は、1,890両が生産されたそうです。

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パラオ50.米軍のLVT(A)-4全景(1992年に撮影)

 また、このペリリュー島では、現地で改造して火焔放射機を登載したLVT-4も使用されたということが、以下のスティーヴン・ザロガさん著、テリー・ハドラーさんとマイク・バドロックさんによるイラスト、武田秀夫さんによる翻訳で、2002年に世界の戦車イラストレイテッド15『アムトラック米軍水陸両用強襲車輌』として大日本絵画から出版された本に記載されています。

アムトラック―米軍水陸両用強襲車両 (オスプレイ・ミリタリー・シリーズ―世界の戦車イラストレイテッド) アムトラック―米軍水陸両用強襲車両 (オスプレイ・ミリタリー・シリーズ―世界の戦車イラストレイテッド)
価格:¥ 1,365(税込)
発売日:2002-05

 本書の内容は、以下のように、全7章からなります。

  1. 水陸両用車の開発
  2. タラワ:初めての戦闘
  3. アムタンクの出現
  4. 太平洋戦争後期の上陸作戦
  5. ヨーロッパ戦線のアムトラック
  6. ヨーロッパ戦線のアムトラック
  7. 戦後の開発
  8. LVTP-5:新型LVTの開発

Zaloga1999

『アムトラック米軍水陸両用強襲車輌』表紙[表紙は、LVT(A)-4]

 米軍側から描いたペリリュー島の戦いの本として、以下の2冊があります。この2冊は、2010年に、スティーヴン・スピルバーグが製作した、テレビドラマの『ザ・パシフィック』の原作の元になっています。ちなみに、このテレビシリーズは全10話ですが、第5話から第7話はペリリュー島の戦いが描かれています。原作をかなり忠実に描いたドラマは、残酷なシーンの連続ですが戦争の悲惨さを伝えています。

1.ペリリュー・沖縄戦記

ペリリュー・沖縄戦記 (講談社学術文庫) ペリリュー・沖縄戦記 (講談社学術文庫)
価格:¥ 1,470(税込)
発売日:2008-08-07

 本書は、米軍海兵隊員として、ペリリュー島と沖縄で戦った経験を持つ、ユージン・スレッジ(Eugene B. SLEDGE)[1923-2001]さんが書いたものです。ユージンさんは、戦後、生物学(鳥類学)の教授として教壇に立っていたそうです。2008年に、伊藤 真さんと曽田和子さんによる翻訳で、講談社学術文庫として講談社から出版されました。

 本書の内容は、第1部がペリリュー・第2部が沖縄と、全2部に分かれます。第1部は、以下のように、全6章からなります。

  1. 海兵隊員の誕生
  2. 戦闘準備
  3. ペリリュー島へ
  4. 地獄への強襲
  5. ふたたび上陸作戦
  6. 去りゆく勇者たち

Sledge2008

『ペリリュー・沖縄戦記』表紙

2.ペリリュー島戦記

ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖 (光人社NF文庫) ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖 (光人社NF文庫)
価格:¥ 1,050(税込)
発売日:2010-03

 本書は、新聞記者のジェームス・ハラス(James H. HALLAS)さんが、ペリリュー島の戦いについて、書いたものです。2010年に、猿渡青児さんによる翻訳で、光人社NF文庫として光人社から出版されました。なお、同じ著者・同じ翻訳者により、沖縄戦について書かれた『沖縄シュガーローフの戦い』も出版されているそうです。

 本書の内容は、以下のように、全15章からなります。

  1. ステイルメイト作戦
  2. 攻撃準備
  3. Dデイ
  4. 渚の死闘
  5. 日本軍戦車隊
  6. 飛行場争奪戦
  7. ブラディノーズ・リッジ
  8. アンガウル島上陸作戦
  9. 日本軍逆上陸
  10. ガドブス島攻略
  11. 消耗戦
  12. ウムロブロゴル包囲網
  13. ワイルドキャット師団
  14. 日本軍守備隊の終焉
  15. 戦いが終わって

Hallas2010

『ペリリュー島戦記』表紙


私の仕事:発掘調査・パラオ8.ペリリュー島:平和祈念公園と舩坂 弘さん

2010年10月19日 | D4.私の仕事:発掘調査・パラオ[Excava

 ペリリュー島の南部には、平和祈念公園があります。ここには、西太平洋戦没者の碑があり、日本語・英語・パラオ語で書かれたプレートがあります。

 日本語のプレートには、「さきの大戦において西太平洋の諸島及び海域で戦没した人々をしのび平和への思いをこめてこの碑を建立する」とあります。

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ペリリュー島41.平和祈念公園遠景

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ペリリュー島42.西太平洋戦没者の碑全景

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ペリリュー島43.日本語での碑文

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ペリリュー島44.英語での碑 文

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ペリリュー島45.パラオ語での碑文

 この平和祈念公園からは、ペリリュー島の南にあるアンガウル島を遠望することができます。 このアンガウル島には、後藤丑雄少佐率いる宇都宮歩兵第59連隊第1大隊を中心として約1,200名が守備にあたりました。1944年9月17日に米軍は攻撃を開始し、日本軍守備隊は10月19日に玉砕しています。

 このアンガウル島守備隊に、舩坂 弘[1920-2006]さんがいました。舩坂さんは、瀕死の重傷を負いながらも、米軍と戦い、やがて捕虜となってペリリュー島の捕虜収容所に収容されます。戦後は、渋谷で大盛堂書店を経営しながら、アンガウル島やペリリュー島の戦いについて多くの本を書いています。また、ペリリュー島やアンガウル島で、私費で何度も遺骨収集を行われています。大盛堂書店は今でもありますが、昔の大盛堂は「本のデパート」と称した、大規模な書店でした。私も、学生時代に何度も通って多くの本を購入したことを思い出します。この書店には、新古本と呼ばれる、絶版になり古本屋でしか入手できないような本がたくさんあり、とても重宝しました。

 実は、この、1992年の日米合同調査に先立ち、私は太平洋学会の中島 洋専務理事と一緒に、下北沢周辺だったと思いますが、舩坂さんのご自宅を訪問し、ペリリュー島の戦跡遺跡の状況について色々とお話を伺いました。船坂さんは、「自分も行きたいのだが、身体の調子が悪いので行けない」とおっしゃっていました。船坂さんには、ご著書の『血風ペリリュー島』(叢文社、1981)[後に、『ペリリュー島玉砕戦』として、光人社NF文庫に再録]を寄贈していただきましたが、この本は調査の参考になりました。

 三島由紀夫[1920-1970]さんとは同年生まれということや剣道を通じて交流があり、三島さんが自決した際に使われた日本刀は、舩坂さんが贈呈したものだと伺いました。当時の大盛堂書店の地下1階には、ミリタリー・コーナーがありましたが、舩坂さんが元軍人であったことからだと理解できました。

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ペリリュー島46.遠く見えるのはアンガウル島。残念ながら、アンガウル島はまだ訪問できていません。

 以下に、舩坂 弘さんの著書(光人社NF文庫)3冊をご紹介します。

1.ペリリュー島玉砕戦

ペリリュー島玉砕戦―南海の小島70日の血戦 (光人社NF文庫) ペリリュー島玉砕戦―南海の小島70日の血戦 (光人社NF文庫)
価格:¥ 735(税込)
発売日:2000-10

 この本は、2000年に、光人社NF文庫として出版されました。元は、1981年に『血風ペリリュー島』として叢文社から出版されたものです。ペリリュー島の戦いについて、書かれています。以下のように、全8章からなります。

  1. 狙われた天皇の島
  2. 米軍の威力絶大
  3. 水際撃滅戦への憂慮
  4. 敵前上陸
  5. 海中50キロ伝令
  6. 史上最大の洞窟戦闘
  7. 闘魂は尽きず
  8. サクラ・サクラ

Funasaka2000a

2.秘話パラオ戦記

秘話パラオ戦記―玉砕戦の孤島に大義はなかった (光人社NF文庫) 秘話パラオ戦記―玉砕戦の孤島に大義はなかった (光人社NF文庫)
価格:¥ 590(税込)
発売日:1999-12

 この本は、2000年に、光人社NF文庫として出版されました。元は、1977年に『玉砕戦の孤島に大義はなかった』として光人社から出版されたものです。ペリリュー島の戦いについて、書かれています。以下のように、全9章からなります。

  1. 深い迷路から
  2. 照集団を追跡する
  3. わずかばかりの情報
  4. 孤島の驟雨の中で
  5. さまよい出た将校
  6. 遠来の四人の勇士
  7. 失われたる大義の末
  8. 孤島ガラゴンの太陽
  9. 語られた勇者の最後

Funasaka2000b

3.英霊の絶叫

Funasaka1996

英霊の絶叫―玉砕島アンガウル戦記 (光人社NF文庫)
価格:¥ 632(税込)
発売日:1996-08

 この本は、1996年に、光人社NF文庫として出版されました。元は、1966年に文藝春秋社から出版された同名の単行本です。なお、この序文は、三島由紀夫さんが書いています。本書は、舩坂 弘さんが戦ったアンガウル島の戦いについて書かれています。以下のように、全7章からなります。

  1. 20倍の敵上陸す
  2. 複廓陣地の死闘
  3. 司令部テント突入計画
  4. 収容所での闘魂
  5. 昨日の敵は今日の友
  6. 英霊の絶叫
  7. 友情は海をこえて

私の仕事:発掘調査・パラオ7.ペリリュー島:オレンジビーチと米軍記念碑

2010年10月18日 | D4.私の仕事:発掘調査・パラオ[Excava

 ペリリュー島は、パラオのコロールから南に約45kmに位置します。その規模は、南北約9km・東西約3kmの小さな島です。

 1944年4月24日に、満州から第14師団がパラオに移動しました。この第14師団は、栃木県・茨城県・群馬県・長野県出身者で構成されています。歩兵第2連隊(水戸)はペリリュー島に、第59連隊(宇都宮)はペリリュー島の南約11kmにあるアンガウル島に派遣されています。

 ペリリュー島では、歩兵第2連隊長・中川州男[1898-1944]大佐(戦死後、2階級特進して陸軍中将)が守備隊長として、歩兵第2連隊と歩兵第15連隊の内第3大隊が配置されました。陸軍6,192名と海軍3,646名の合計9,838名が守備にあたりました。ただ、全員では約11,000名とするものもあります。

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パラオ34.ペリリュー島遠景

 日本軍守備隊は、島の中央部にある標高90mのウムルブロゴル山(大山)や北部にあるアミアンガル山(水戸山)を中心に洞窟陣地を構築し、その数は約500にも達したと考えられています。

 当時、ペリリュー島のすぐ北にあるガドブス島には1,000m×80mの水上飛行機用の滑走路が、また、ペリリュー島の南端には1,200m×80mの交差滑走路が2本(北東~南西・北西~南島)整備されていました。サイパン陥落後は、東洋一と言われていたそうです。

 1944年、米軍は、ペリリュー島上陸に先立ち、サイパン島(6月15日上陸・7月9日制圧)・グアム島(7月21日上陸・8月11日制圧)・テニアン島(7月24日上陸・8月3日制圧)の3島を占領しました。

 米軍は、ルパータス少将指揮下の第1海兵師団・第81歩兵師団等、約48,000名から構成されていました。日本軍守備隊の4倍以上の人員で、2・3日で陥落するだろうという予想をしていました。マッカーサーによるフィリピン奪還作戦の障害になると予測した米軍は、1944年9月15日にペリリュー島に上陸作戦を開始しました。その2日後の9月17日には、アンガウル島にも攻撃を開始し、アンガウル島守備隊は10月19日に玉砕をしています。

 米軍約28,000名は、オレンジ・ビーチ(西浜)から上陸し、9月16日には飛行場を、同18日にはペリリュー島南部一帯を確保しました。現地住民や日本の民間人は、パラオ本島に移住していたため、戦闘に巻き込まれることはありませんでした。

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パラオ35.ペリリュー島オレンジ・ビーチ

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パラオ36.米軍第81師団記念碑遠景。この記念碑は2つあり、記念碑の手前には色の濃い草で「USA」となるように植えられています。

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パラオ37.米軍第81師団記念碑1全景

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パラオ38.米軍第81師団記念碑1プレート近接。このプレートは、記念碑1と2に同じものが刻まれている。英文で、「81st Infantry Division・United States Army: This Monuments Dedicated to the Lasting Memory of Those Menmbers of the Wildcat Division and Attached Troops Who Fought and Died on Peleliu Island Between 23 Sept. and 27 Nov. 1944」[1944年9月23日~1944年11月27日までに、ペリリュー島で戦い戦死した、米軍第81師団(ワイルドキャット師団)兵士に捧げる]とあります。

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パラオ39.米軍第81師団記念碑2全景

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パラオ40. 米軍第81師団記念碑2近接


私の仕事:発掘調査・パラオ6.洞窟と石貨

2010年10月17日 | D4.私の仕事:発掘調査・パラオ[Excava

 パラオに人々が居住し始めたのは、約4,000年前~3,000年前だと考えられています。2008年には、南アフリカ・ウィットウォータースランド大学のリー・バーガー(Lee BERGER)さん等により、ウチェリウングス(Ucheliungs)洞窟とオメドケル(Omedokel)洞窟から、人骨が発見されました。放射性炭素年代分析により、ウチェリウングス洞窟は約2,890年前~1,410年前・オメドケル洞窟は約1,080年前~940年前と推定されています。

 人骨から推定した体重は、男性が約43kg・女性が約29kgと推定されており、小さい体をしています。バーガーさん等は、これをフロレス原人の子孫と結びつけていますが、個人的には島嶼化によるものだと思います。

 また、パラオには、石貨の石切場があります。石貨とは、石でできた巨大な貨幣のことで、ヤップ島のものが有名です。しかし、この石貨は、パラオから切り出してカヌーでヤップ島に運んだそうです。

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パラオ27.洞窟外観(名前を失念してしまいました)

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パラオ28.洞窟内部1。この人物は、共同調査にあたった、アメリカの戦跡考古学者のダグラス・スコット(Douglas D. SCOTT)先生。スコット先生は、現在は、ネブラスカ大学人類学部の客員教授をされています。スコット先生のことは、また、詳しくご紹介します。

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パラオ29.洞窟内部2

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パラオ30.洞窟内部3

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パラオ31.別の洞窟

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パラオ32.石貨

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パラオ33.石貨。


私の仕事:発掘調査・パラオ5.バイ(バベルダオブ島)

2010年10月16日 | D4.私の仕事:発掘調査・パラオ[Excava

 オリジナルのバイは、バベルダオブ島にあります。これが、パラオに現存する唯一のバイだそうです。パラオでは、インフルエンザや赤痢により、1900年には人口が4,000人にまで減少したことがあり、バイが作られなくなったそうです。1783年には、人口が約4万人いたそうですから、実に、1/10にまで減少したことになります。

 それでも、1910年にドイツの人類学者が調査した時には、まだ、パラオに100を超えるバイがあったと記録されています。このバイは、1890年に建設されたものだそうです。

 以下の写真は、1992年に訪問した際のものです。すべて、私が撮影しました。

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パラオ24.バイ(バベルダオブ島)遠景1

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パラオ25.バイ(バベルダオブ島)遠景2

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パラオ26.バイ(バベルダオブ島)の横にも、石製の礎石が残っている。


私の仕事:発掘調査・パラオ4.パラオ水産試験場

2010年10月15日 | D4.私の仕事:発掘調査・パラオ[Excava

 パラオ水産試験場では、絶滅に瀕しているウミガメを飼育したり、食用となるシャコ貝を養殖しています。ちなみに、ここで養殖されたシャコ貝の殻は、このパラオ水産試験場で養殖したという証明書をつけて販売しています。私も、直径約30cmぐらいのものを購入して、税関で証明書を見せて持ち帰りました。

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パラオ16.ウミガメの飼育コーナー。子供のウミガメから飼育し、大きく育てている。

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パラオ17. 大きく育ったウミガメ

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パラオ18. シャコ貝の養殖風景

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パラオ19.まだ小さいシャコ貝

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パラオ20. ある程度大きく育ったシャコ貝

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パラオ21. シャコ貝の近接。ダイバーでないかぎり、なかなか、生きている状態のシャコ貝を見ることはない。

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パラオ22. シャコ貝の殻1

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パラオ23. シャコ貝の殻2

 このパラオ水産試験場と縁の深い方に、倉田洋二さんがいらっしゃいます。倉田さんは、1926年に東京で生まれ、1941年に、当時の南洋庁パラオに水産講習所に入所し、南洋庁水産試験場養殖部に勤務しました。当時、南洋に勤務兵役が免除となっていたそうですが、戦局が逼迫したのか、1944年7月には、倉田さんにも召集令状が来て、陸軍二等兵としてアンガウル島に配属になりました。

 このアンガウル島は、1944年9月17日に米軍による攻撃を受け、同島の日本軍守備隊は10月19日に玉砕しています。倉田さんは、激戦を生き抜いて、11月3日に捕虜となりペリリュー島の捕虜収容所に送られます。

 倉田さんは、1945年11月に日本に帰国し、1946年から資源科学研究所(現・国立科学博物館)で2年間海産爬虫類の勉強をし、水産講習所や東京水産大学(現・東京海洋大学)で貝類増殖学を勉強しました。その後、東京都水産試験場に職を得て、小笠原海洋センター所長を務めた後退職し、1996年に思い出の地パラオに移住したそうです。現地では、遺骨収集も積極的にされており、現在は、特定非営利活動法人OWSの副会長もされています。

 この、倉田洋二さんのことは、星 亮一さんによる、『アンガウル、ペリリュー戦記:玉砕を生きのびて』に詳しく書かれています。この本は、2008年に、河出書房新社から出版されています。

アンガウル、ペリリュー戦記―玉砕を生きのびて アンガウル、ペリリュー戦記―玉砕を生きのびて
価格:¥ 2,100(税込)
発売日:2008-06

 本書の内容は、以下のように、全10章からなります。

  1. パラオ共和国
  2. ガダルカナルに出兵
  3. 連合艦隊はどこに消えた
  4. 現地召集
  5. アンガウル島玉砕
  6. ペリリュー戦争
  7. 逃亡生活
  8. 玉砕は続いた
  9. 奇跡の生還
  10. 倉田洋二の戦後

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『アンガウル、ペリリュー戦記』表紙


私の仕事:発掘調査・パラオ3.パラオ(ベラウ)国立博物館2

2010年10月14日 | D4.私の仕事:発掘調査・パラオ[Excava

 パラオ国立博物館の敷地内には、太平洋戦争時の主に旧日本軍の関連遺物も展示してあります。

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パラオ11.プロペラや郵便ポスト等

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パラオ12.九八式高射機関砲?

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パラオ13.十四年式十センチ高射砲の砲身?

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パラオ14. パラオ初代大統領(1981年~1985年)で日系人のハルオ・レメリク(Haruo Ignacio Remeliik)[1933-1985]さんの胸像。台座には、『平和の礎』と刻まれています。

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パラオ15. 平和記念碑。日本語で「さきの太平洋戦争にて亡くなられたパラオの人の冥福を祈ります」と、また、英語で「May the Souls of the People of Palau killed in the Pacific war rest in peace」と刻まれています。


私の仕事:発掘調査・パラオ2.パラオ(ベラウ)国立博物館1

2010年10月13日 | D4.私の仕事:発掘調査・パラオ[Excava

 パラオには、1955年に設立されたパラオ(ベラウ)国立博物館があります。日本の測候所の建物を使用していました。2005年には、新しい博物館が建設され、旧建物は、現在は図書館になっているそうです。

 その他コロールの中心地に、エピソン博物館が1999年に開館しています。私は、1999年にプライベートで訪問した際に、是非、このエピソン博物館も見学したかったのですが、開館数日前ということで見学はできませんでした。

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パラオ6.パラオ(ベラウ)国立博物館(1992年当時)

 この博物館の敷地内には、バイ(Bai)と呼ばれる集会所があります。以前は、100を超える数があったそうですが、戦争や台風で多くが破損したそうです。

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パラオ7.バイの遠景1

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パラオ8.バイの遠景2

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パラオ9.バイの全景

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パラオ10.バイの近接


私の仕事:発掘調査・パラオ1.コロール

2010年10月12日 | D4.私の仕事:発掘調査・パラオ[Excava

 パラオ共和国は、隆起性珊瑚礁からなり、南北約640kmにわたる約200以上の島々からなります。総面積は、488平方キロミートルで、日本の屋久島と同じ面積だそうです。人口は、約2万人で、9から10の島に住んでいるそうです。首都は、2006年10月7日に、コロールからマルキョクに遷都しました。

 私は、このパラオ共和国の南に位置するペリリュー島の戦跡調査を、日米合同調査団の一員として、1992年に参加する機会を得ました。また、1999年には、プライベートで旅行しました。

 外務省のホームページによると、このパラオは、紀元前約100年から人々が居住しているようです。1500年代には、スペイン人がミクロネシアの島々を発見し、西洋諸国にその存在が知られました。1899年には、スペインがドイツにミクロネシアの島々を売却し、第一次世界大戦終了後、日本がドイツ領ミクロネシアを占領しました。その後、1920年には国際連盟から日本のミクロネシア委任統治が認められ、1922年に南洋庁本庁がコロールに設置されました。

 第二次世界大戦終了後の1945年には、米軍による占領が行われ、1947年には国連の太平洋信託統治領としてアメリカによる統治が始まりました。その後、1994年10月1日に独立をはたし、1994年12月には国連に加盟しています。

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パラオ1.パラオ共和国の地図[パラオ政府観光局ホームページより](*画像をクリックすると、拡大します。)

 このパラオへは、飛行機の直行便もあるようですが、1992年の時は、コンチネンタル航空で成田からグアムへ3時間・グアムで乗り換えて2時間という行程でした。

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パラオ2.バベルダオブ島(1992年に、飛行機から撮影)

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パラオ3.パラオ国際空港

 このパラオで有名なものに、ロックアイランドがあります。このロックアイランドは、パラオの松島(宮城県)とも呼ばれているもので、波の浸食により傘のような形をしています。以下の写真2点は、当時あった、「ホテル・ニッコー・パラオ」から撮影したものです。このホテルは現在は、場所と名称を替えて「パラオ・ロイヤル・リゾート」としてオープンしているようです。

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パラオ4.ロックアイランド(当時の、ホテル・ニッコー・パラオから撮影)

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パラオ5.ロックアイランド(当時の、ホテル・ニッコー・パラオから撮影)