ヘリチカ1.アレシュ・ヘリチカ(Ales HRDLICKA)[Spencer (1982) 『A History of American Physical Anthropology 1930-1980』,Academic Press, p.5より ]
アレシュ・ヘリチカは、1869年3月29日に、ボヘミア(現在のチェコスロヴァキア)にて、家具職人の父親・マキシミリアンと家具職人の娘・キャロラインとの間に生まれました。やがて、一家は1881年にアメリカに移住し、ニューヨークに落ち着きます。1888年、ヘリチカは、腸チフスに罹り生死の境をさまよいますが、このことが医学を志すきっかけとなりました。やがてヘリチカは、New York Eclectic Medical Collegeを1892年に卒業後、New York Homeopathic Collegeを1894年に卒業します。この2つの医学校共に、正規の医学校ではないと思いますが、当時はそのような学校が多数存在していました。この頃、生体計測を医学に応用することに興味を持ったと言われています。
1896年には、新設された、ニューヨーク病理学研究所に入所し、そのポストに就く前に同年の冬、ヘリチカは、フランス・パリにある人類学研究室にて、レオン・マヌヴリエー(Leon MANOUVRIER)[1850-1927]に人類学を本格的に学びます。人類学に興味を持ったヘリチカは、1899年に病理学研究所を辞職すると、アメリカ自然史博物館に設置された無給の野外人類学者となり、1899年~1902年にかけてハーヴァード大学の人類学者、フレデリック・パットナム(Frederic Ward PUTNAM)[1839-1915]が率いる調査隊に所属して、アメリカ国内のアメリカ・インディアンの生体計測調査を行いました。
ヘリチカ2.サンディエゴ人類博物館で調査中のヘリチカ(この博物館には、ヘリチカ古病理学標本と呼ばれる、主にペルーで収集した約1000体に及ぶ古人骨が収蔵されており、カタログも出版されている。[サンディエゴ人類博物館アーカイブより。]
1903年に、新設された国立自然史博物館の自然人類学部門のアシスタント・キュレーターに就任し、1910年にはキュレーターに昇進しました。そして、1941年に引退するまで約40年間博物館に勤務しました。ヘリチカは、毎年約10本の論文を発表し続けており、総数は約350編に達します。
ヘリチカの功績としては、1918年にアメリカ自然人類学会誌の発行を行ったことと、1928年にアメリカ自然人類学会を創設したことが挙げられます。特に、雑誌は発行された1918年から死の前年の1942年まで編集者として活躍しました。但し、ヘリチカの編集は、統計学や遺伝学の投稿を意図的に排除していたことが有名で、もし、これらの投稿を容認していれば雑誌の方向も違っていただろうと指摘する、人類学者もいます。
また、ヘリチカの夢は、パリの人類学博物館のように、展示と教育を行うシステムを模索したそうですが、その夢はとうとうかなうことはありませんでした。
私生活では、1896年にフランス人のマリーと結婚しますが1918年に死別します。その後、1920年に再婚していますが、2度の結婚共に子宝には恵まれませんでした。ヘリチカは、生前から生まれ故郷のチェコスロヴァキアに財政的援助を行っており、プラハのチャールズ大学にはヘリチカ人類博物館が併設されています。ヘリチカは、故郷チェコスロヴァキアがドイツに占領されていることを憂慮しながら、1943年9月5日に74歳の生涯を閉じました。
ヘリチカ3.国立自然史博物館でのヘリチカ(ヘリチカは、この博物館に約40年勤務した)[国立自然史博物館アーカイブより。]
註:アレシュ・ヘリチカの表記は、「アレシュ・フルデルチカ」や「アレシュ・ヘルデルチカ」等があります。