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人類学のススメ

人類学の世界をご紹介します。OCNの「人類学のすすめ」から、サービス終了に伴い2014年11月から移動しました。

人類学の雑誌・その他3.「えとのす」第21号

2012年06月30日 | G7.人類学の雑誌:その他[Other Journa

Kanaseki1983

 雑誌『えとのす』は、第1号(1974年11月)から第32号(1987年4月)にかけて、大日本図書から出版されていた雑誌です。民族学・民俗学・考古学・人類学の分野について、それぞれの専門家が寄稿していた興味深い雑誌でした。『えとのす』第21号は、「金関丈夫博士:その人と学問の世界」を特集しています。アマゾンで検索しましたが、ヒットしませんでしたのでリンクさせていません。

 本号の内、この特集のみの内容を以下に記します。

特集Ⅰ.金関丈夫博士:その人と学問の世界

人類諸科学者のみた金関博士

  • 金関先生のみちびき(村山七郎)
  • 金関先生を悼む(浜田 敦)
  • 金関先生の思い出(大林太良)
  • 関連人類諸学問史上の一時代の終焉(金子エリカ)
  • 一双の寛永屏風:白鷹居主人・金関丈夫博士の蒐集(西島慎一)
  • 金関先生と能と私(高林実結樹)
  • 『ドルメン』で思い出すことども(ねずまさし)
  • 金関先生を偲んで(谷口鉄雄)

南島・台湾研究者のみた金関博士

  • 金関丈夫先生像(中村 哲)
  • 金関丈夫教授と私(宮本延人)
  • 先生を訪ねた頃のこと(尾崎秀樹)
  • 金関丈夫先生の思い出(楊 雲萍)
  • 金関丈夫先生(宋 文薫)
  • 私の考古学事始め:金関丈夫先生との出会いのことなど(劉 茂源)
  • 追憶 金関丈夫博士:私の半生とのかかわりにおいて(川平朝申)
  • 金関丈夫先生(三島 格)
  • 金関丈夫先生との半世紀(国分直一)

考古学者のみた金関博士

  • わが生涯の中の師友(八幡一郎)
  • 金関丈夫先生の広さ・深さ・艶やかさ(三上次男)
  • 金関丈夫先生(角田文衛)
  • ハテルマの思い出(永井昌文)
  • 心の中に生きる金関先生(春成秀爾)
  • 金関丈夫先生(岡崎 敬)
  • 金関先生:思い出すままに(藤田 等)
  • トカラ列島への誘い(白木原和美)
  • 金関丈夫博士と山口県北浦沿岸の調査(伊東照雄)

知友・祖父・師としての金関博士

  • ああ金関よ、わが友金関よ(坂田徳男)
  • ばんざい 金関先生(佐藤勝彦)
  • 金関先生追憶(劉 寒吉)
  • 金関先生と宇部(潘 麗星)
  • 金関丈夫先生を憶う:山口県吉母浜遺跡で過した日々(岩永貞子)
  • 祖父の想い出(金関 環)
  • 風にふかれて:瞼にのこる祖父のおもかげ(金関ふき子)
  • 金関先生と帝塚山大学の学生たち(水谷公子)
  • 晩年の金関先生(福本雅一)

 本雑誌の特集は、金関丈夫[1897-1983]さんの死後、学友・弟子・親族が、それぞれの立場から思い出を書いており、大変、参考になります。


日本人の起源の本42.日本民族と南方文化

2012年06月29日 | F1.日本人の起源の本[Origin of Japane

Kanaseki1968

日本民族と南方文化 (1968年)
価格:¥ 3,675(税込)
発売日:1968

 この本は、元九州大学の人類学者・金関丈夫[1897-1983]さんの古稀を記念して、金関丈夫博士古稀記念論文集編集委員により編集された論文集です。1968年に、平凡社から出版されました。

 本書の内容は、以下のように、全5部にわかれます。

Ⅰ.日本人の体質と系統

  • 東亜における日本人(今村 豊)
  • 日本人とアイヌ(小浜基次)
  • ハワイ諸島人の抜歯について(島 五郎・鈴木 誠)

Ⅱ.先史古代文化の諸相

  • 矢柄研磨器について(山内清男)
  • 熊本県轟貝塚出土の打製靴型石器について(江坂輝弥)
  • 倭の水人(岡崎 敬)
  • 弥生時代における細形銅剣の流入について(森 貞次郎)
  • 越前大石村出土の銅鐸の絵画(梅原末治)
  • 陶塤の発見(国分直一)
  • 弥生時代における南海産貝使用の腕輪(三島 格)
  • 弥生時代の配石墓について(藤田 等)
  • 南島覆石墓のサンゴ石(永井昌文)
  • 熊毛諸島の先史時代について(盛園尚孝)
  • 隼人楯(坪井清足)
  • 遼東半島の古代紡錘車(八幡一郎)

Ⅲ.基層文化の諸問題と担い手

  • 日本語の系統(浜田秀男)
  • 本邦家畜の起源と系統(林田重幸)
  • 南島における初穂儀礼(酒井卯作)
  • 白水郎考(藪田嘉一郎)
  • 海部考(富来 隆)
  • 伊豆諸島の忌小屋(大間知篤三)
  • お歯黒(大藤時彦)
  • 琉球の洗骨における諸問題(金子エリカ)
  • さーじ考(川平朝申)
  • 沖縄のわらざん(須藤利一)
  • 古代南方との交渉(森 克己)

Ⅳ.伝承文化の比較研究

  • 日本酒の系統(篠田 統)
  • 日本の神話(松前 健)
  • 八岐の大蛇の系譜と展開(関 敬吾)
  • 昔話「花咲爺」の祖型(伊藤清司)
  • オナリ神をめぐる類比と対比(馬淵東一)
  • 日・泰霊魂観についての一考察(綾部恒雄)
  • 東亜・東南アジア・オセアニアの文身と他界観(大林太良)
  • 日本における中国の民族的信仰(李 獻璋)

Ⅴ.東南アジアの民族と文化

  • 分類械闘(中村 哲)
  • 台湾人の誕生儀礼(池田敏雄)
  • 民族系譜から見た華南史の構成試論(白鳥芳郎)
  • 徭族の亜種族的分岐(竹村卓二)
  • フィリピンのカラタガン遺跡と元末・明初の中国陶磁(三上次男)
  • 東南アジアのカミの家(岩田慶治)

・金関丈夫博士著作目録抄

・金関丈夫博士年譜

 本書は、人類学・考古学・民族学・文化人類学と幅広い知識を駆使して日本人の起源を研究した、金関丈夫さんにふさわしく、様々な分野の研究者が寄稿しています。


日本人の起源の本41.日本民族の起源

2012年06月28日 | F1.日本人の起源の本[Origin of Japane

日本民族の起源 日本民族の起源
価格:¥ 3,990(税込)
発売日:2009-10

 この本は、元九州大学の解剖学者・人類学者の金関丈夫[1897-1983]さんが、日本人の起源について書いたものです。1976年に、法政大学出版局から出版されました。ちなみに、この法政大学出版局からは、金関丈夫さんが書いた本として、本書以外に『南方文化誌』・『文藝博物誌』・『琉球民俗誌』・『形質人類誌』・『孤燈の夢』・『長屋大学』・『台湾考古誌』が、出版されています。

 本書の内容は、以下のとおりです。

  • 日本民族の系統と起源
  • 日本人の体質
  • 日本人の生成
  • 形質人類学から見た日本人の起源の問題
  • 弥生人種の問題
  • こんにちの人類学から
  • 弥生時代の日本人
  • 日本人の形質と文化の複合性
  • 弥生時代人
  • 日本人種論
  • 人類学から見た古代九州人
  • 弥生人の渡来の問題
  • 人類学から見た九州人
  • 日本文化の南方的要素
  • 古代九州人
  • 形質人類学
  • アジアの古人類
  • 沖縄県那覇市外城嶽貝塚より発見された人類大腿骨について
  • 沖の島調査見学記
  • 根獅子人骨について(予報)
  • 土井ヶ浜遺跡調査の意義
  • 沖永良部西原墓地採集の抜歯人骨
  • 種子島長崎鼻遺跡出土人骨に見られた下顎中切歯の水平研歯例
  • 成川遺跡の発掘を終えて
  • 無田遺跡調査の成果
  • 大分県丹生丘陵の前期旧石器文化
  • 古浦遺跡調査の意義
  • 着色と変形を伴う弥生前期人の頭蓋
  • 人類学上から見た長沙婦人
  • 三焦
  • 『頓医抄』と「欧希範五臓図」
  • 琵琶骨
  • 「縦横人類学」を読む

 本書は、金関丈夫さんが書き下ろしたものではなく、これまでに様々な雑誌や本に掲載されたものをまとめたものです。巻末には、元京都大学の人類学者・池田次郎さんによる解説も掲載されており、大変、参考になります。

Kanaseki1976


日本人の起源の本・古典12.人類起源論

2012年06月27日 | F2.日本人の起源の本:古典[Origin of

Kiyonokanaseki1928

人類起源論 (1928年) (人類学叢書〈第2篇〉)
価格:(税込)
発売日:1928

 この本は、京都帝国大学医学部病理学教室教授(当時)の清野謙次[1885-1955]さんと京都帝国大学医学部解剖学教室助教授(当時)の金関丈夫[1897-1983]さんが、人類進化について書いたものです。1928年に、人類学叢書第2編として、岡書院から出版されました。

 本書の内容は、以下のように、全4編からなります。

  1. 緒論
  2. 人類起源総論:人類が動物より由来せる証拠
  3. 人類起源系統論
  4. 人類化成論

 なお、本書は、清野謙次さんと金関丈夫さんの連名になっていますが、本書の『自序』には、清野謙次さんが「著者の一人たる金関君は少壮の人類学者である。そして実の所本書は同君の人類学者としての初舞台である。同君は今日京都帝国大学医学部の助教授であって、同時に又京大文学部及大谷大学講師として人類学を講じて居られる。それで本書は全然同君の意志に任せて執筆していただいて、余が毫も補筆せざるのが良いと思った位であった。唯世の中の事情は之れを許さなかったので、余は僅かに補筆して著者の一人たる光栄を擔った。それであるから本書は大体に於いて金関君の実力を以て書かれている。」とあるように、ほとんどを金関丈夫さん一人で書いたことがわかります。当時、金関丈夫さんはまだ31歳という若さですが、多くの文献を参照して書かれています。


日本の人類学者11.鹿野忠雄(Tadao KANO)[1906-1945]

2012年06月26日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Tadaokano

鹿野忠雄(Tadao KANO)[1906-1945][山崎柄根(1992)『鹿野忠雄』、平凡社のp.187の写真を改変して引用](以下、敬称略)

 鹿野忠雄は、1906年、鹿野直司と欽との間に5人兄妹の長男として東京に生まれました。子供の頃は、昆虫採集に熱中し野外調査の基本を身につけました。1921年に台湾へ旅行し、昆虫採集をする内に、昆虫から民族に興味が移ったといわれています。やがて、開成中学校を卒業すると、1925年に台北高校へ入学しました。この台北高校には、後輩として、将来民族考古学者として活躍する、国分直一[1908-2005]と出会っています。ちなみに、国分直一は、台北高校卒業後、京都帝国大学文学部史学科を卒業します。

 1928年、台北帝国大学文政学部に、土俗人種学教室が設置され、移川子之蔵[1884-1947]が教授として赴任し、スタッフには、宮本延人[1901-1989]が赴任しています。この教室には、馬淵東一[1909-1988]が学生として入学しました。ちなみに、学生はこの馬淵だけだったそうです。

 1929年に台北高校を卒業した鹿野忠雄は、1920年に東京帝国大学理学部地理学科に入学します。大学では、生物地理学を専攻しました。この頃、鹿野は、同じ理学部の人類学教室に出入りしていたそうです。1933年に東京帝国大学を卒業すると、母校の大学院に進学しました。

 1934年には、台湾総督府の嘱託職員として台湾に渡り、民族学調査を継続しています。1936年には、渋沢敬三[1896-1963]の知遇を得ます。渋沢敬三は、渋沢栄一[1840-1931]の孫で、日本銀行総裁や大蔵大臣を歴任した政治家ですが、私費を投じてアチックミューゼアムを設立し民族学や民俗学の研究を行っていました。その後、日本常民文化研究所や民族学博物館へとなり、現在は、神奈川大学日本常民文化研究所や国立民族学博物館に発展解消されています。渋沢敬三は、多くの民族学者・民俗学者・考古学者・人類学者に財政援助をしたことで有名な人物です。

 1937年、鹿野忠雄は、渋沢敬三の財政援助を受け、パイワン族やヤミ族の調査を行っています。1938年には、東京人類学会(現・日本人類学会)で発表も行っています。1940年に、丹那静子と結婚しました。1941年には、京都帝国大学理学部から『次高山彙の動物地理学的研究』で、理学博士号を取得しています。なぜ、母校の東京帝国大学からでなかったのかという事情は、母校の恩師・辻村太郎[1890-1983]との確執があったと言われています。しかし、辻村太郎にすれば、地理学から民族学に興味を移している鹿野忠雄を快く思わなかったのは仕方がないことかもしれません。

 1942年7月、鹿野忠雄は陸軍の嘱託としてフィリピンのマニラに赴任します。ここで、鹿野は、フィリピン大学の人類学者・バイヤー(ベイヤー)が捕虜としてサント・トーマス大学で拘束されていることを知り、軍部と交渉して救出することに成功しました。ここに出てくるバイヤー(ベイヤー)とは、ヘンリー・バイヤー(ベイヤー)(Henry Otley BEYER)[1883-1966]のことです。バイヤー(ベイヤー)は、アメリカのアイオワ州出身で、デンヴァー大学にて化学専攻で卒業後、フィリピンのルソン島でで教師として務めます。ハーヴァード大学大学院で人類学を専攻する内、フィリピン博物館の館長に就任しました。やがて、1914年にはフィリピン大学の人類学講師に就任し、1925年に人類学部長兼教授となります。

 1941年12月に、第16師団・陸軍軍医大尉として召集され、フィリピンのレイテ島に赴任していた元京都帝国大学の人類学者・三宅宗悦[1905-1944]も、たびたび、このバイヤー(ベイヤー)の元を訪問しています。鹿野忠雄は、フィリピンで、大学の標本・資料・図書を疎開させる仕事をしました。保管していたビルはその後爆撃を受け、図書は焼失したそうですが、標本は奇跡的に無事だったそうです。バイヤー(ベイヤー)は、戦後、鹿野の努力に敬意を払ったと言われています。

 1943年3月、帰国した鹿野忠雄は台湾の民族学及び先史学をまとめた『台湾原住民族図譜:ヤミ族編』の原稿執筆に専念します。ちなみに、それより遡った1935年には、台北帝国大学の移川子之蔵・宮本延人・馬淵東一により、『台湾高砂族系統所属の研究』が出版されていました。

 1944年3月、鹿野忠雄は陸軍専任嘱託に就任し、同年7月に北ボルネオへ赴任しました。ここで、鹿野は、金子総平と合流し2人で奥地へ調査に赴きます。ところが、1945年5月頃、第37軍に現地召集されましたが、本人達は、奥地に入っていたためそのことをずいぶんと後で知ったそうです。1945年7月15日の目撃情報を最後に、2人の消息はぷっつりと途絶えました。

 鹿野忠雄と金子総平の2人は、現地住民の反乱に巻き込まれて亡くなったとか、あるいは憲兵により撲殺されたという説もありますが、未だにその死は謎に包まれています。生前、鹿野は国分直一に、ニューギニアあたりで死ぬかもしれないと漏らしたことがあったそうです。恐らく、調査は常に危険を伴っていたのでしょう。しかし、鹿野は自らが予言したニューギニアではなく、北ボルネオで消息を絶ちました。

 鹿野忠雄の著作は、1941年から1952年に出版されました。1941年に出版された本を除くと、本人が出版されたこれらの本を見ることはありませんでした。しかし、鹿野の精神は、台湾時代に行動を共にしていた国分直一に受け継がれ、国分は民族考古学を専門として多くの業績を残しています。

  • 鹿野忠雄(1941)『山と雲と蕃人と:台湾高山行』、中央公論社
  • KANO, T. [鹿野忠雄]& SEGAWA, K.[瀬川幸吉] (1945)『IIllustrated Ethnography of Fomosan Aborigines, The Yami Tribe』
  • 鹿野忠雄(1946)『東南亜細亜先史学民族学研究1』、矢島書房
  • 鹿野忠雄(1952)『東南亜細亜先史学民族研究2』、矢島書房

Yamasaki1992_2

*鹿野忠雄に関する資料として、以下のものを参考にしました。

  • 山崎柄根(1988)「18.鹿野忠雄:比較文化史に示した高い視点」、『文化人類学群像3.日本編』(綾部恒雄編著)、アカデミア出版会、pp.353-372
  • 山崎柄根(1992)『鹿野忠雄:台湾に魅せられたナチュラリスト』、平凡社

人類学史の本27.鹿野忠雄:台湾に魅せられたナチュラリスト

2012年06月25日 | H1.人類学史の本[History of Anthropol
鹿野忠雄―台湾に魅せられたナチュラリスト 鹿野忠雄―台湾に魅せられたナチュラリスト
価格:¥ 2,752(税込)
発売日:1992-02

 この本は、元東京都立大学の動物学者・山崎柄根さんが、民族学者・人類学者として活躍した、鹿野忠雄[1906-1945]について書いたものです。副題には、「台湾に魅せられたナチュラリスト」とあります。1992年に、平凡社から出版されました。

 鹿野忠雄は、1906年に東京で生まれ、最初は昆虫採集に没頭します。1925年に台北高等学校に入学し1929年に卒業すると、1930年に東京帝国大学地理学科に入学します。大学では、生物地理学を専攻し、動物学・地形学・民族学調査を行うようになりました。1933年に大学を卒業すると、大学院に進学し、1941年に「次高山彙に於ける動物地理学的研究」により、母校から理学博士号を取得しています。

 フィールド調査は、南方方面の台湾・フィリピン・北ボルネオで実施しています。しかし、1945年北ボルネオで消息を絶ち、二度と故国の土を踏むことはありませんでした。

 本書の内容は、以下のように、全14章からなります。

  1. ジラコーバック(紅頭山)に立って
  2. 昆虫学者になりたい
  3. 草創の台北高校へ
  4. 台湾高山の動植物探究
  5. 地理学的空白への挑戦
  6. 台湾における氷河圏谷の発見:台湾ならびに紅頭嶼の自然地理学と動物地理学
  7. トビウオとチヌリクラン:ヤミ族の物質文化
  8. 軍靴の響きの中で
  9. マニラにて
  10. 台湾の歴史民族学
  11. 戦時下の北ボルネオへ
  12. 緊迫情勢下の民族調査
  13. 昭和二十年
  14. 悲劇

 本書は、悲劇の民族学者・鹿野忠雄について詳細に書かれおり、大変、参考になります。この鹿野忠雄の名前は、戦前の「人類学雑誌」に度々登場しています。

Yamasaki1992


日本の人類学者10.鈴木 誠(Makoto SUZUKI)[1914-1973]

2012年06月24日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

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鈴木 誠(Makoto SUZUKI)[1914-1973](『人類学雑誌』第81巻第2号p.84より改変し引用)[以下、敬称略] 

 鈴木 誠は、1914年4月25日に、山梨県北高麗郡武川村(現・山梨県北杜市)で生まれました。やがて、医師であった父親の転勤に伴い、京城(現・ソウル)に転居します。その後、旧制松江高等学校理科2類を卒業後、実家のある、京城帝国大学医学部に入学し、1940年に卒業しました。

 卒業後の1940年に、母校・京城帝国大学医学部第3解剖学教室の副手に就任し、同年8月には助手に昇任しました。ちなみに、当時の第3解剖学教室は、今村 豊[1896-1971]教授・島 五郎[1906-1983]助教授という顔ぶれです。その後、1944年には講師に昇任し、同年、新設された咸興医学専門学校教授として赴任しました。しかし、終戦に伴い、1946年1月に内地に引き揚げました。この時のエピソードが、かつての恩師・今村 豊及びかつて信州大学医学部で鈴木 誠の下で助教授を務めた香原志勢により紹介されています。それによると、終戦後、鈴木 誠が自らニューギニアで収集した頭蓋骨数十点を、京城帝国大学医学部から持ち出そうとして、皆が青くなったという話です。結局、この頭蓋骨は、泣く泣く、置いてきたと書かれています。

 1948年に、広島県立医科大学解剖学教室の助教授に就任します。この時の教授は、京城帝国大学時代の恩師・今村 豊でした。広島県立医科大学時代は、中国地方出土人骨の記載や京城帝国大学医学部に置いてきたニューギニア出土頭蓋骨について論文を書いています。恐らく、データだけで書いたのでしょう。

 1951年には、信州大学医学部第2解剖学教室教授に就任しました。翌年の1952年10月11日から同10月13日にかけて開催された、第7回日本人類学会・日本民族学会連合大会では、会長を務めています。信州大学に着任してからも、約500体に及ぶ人骨を収集したそうです。

 また、1962年3月に行われた、地元長野の野尻湖第一次発掘調査団団長も務め、人類学・考古学・古生物学の発展に寄与しました。さらに、1965年に発見された栃原岩陰遺跡(長野県南佐久郡北相木村)では、縄文時代早期人骨の発掘調査を行っています。この遺跡では、1965年12月から1978年3月まで15回にわたって発掘調査が行われ、成人男性3体・成人女性4体・性別不明成人1体・幼児2体・新生児2体の合計12体の縄文時代早期人骨が出土しました。

 鈴木 誠は、1970年の発掘調査中に病に倒れ、その時は回復しましたが、1973年4月22日、食道静脈破裂で58年の生涯を閉じました。59歳の誕生日まで、後3日という時で、葬儀はその59歳の誕生日に行われたそうです。

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栃原岩陰遺跡遠景(2000年に、楢崎修一郎が撮影)

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栃原岩陰遺跡出土人骨出土状況復元レプリカ[北相木村考古博物館常設展示](2000年に、楢崎修一郎が撮影)

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栃原岩陰遺跡ジオラマ(ダイオラマ)[北相木村考古博物館常設展示](2000年に、楢崎修一郎が撮影)

*鈴木 誠に関する資料として、以下のものを参考にしました。

  • 香原志勢(1973)「鈴木誠先生を偲んで」、『人類学雑誌』、第81巻第2号、pp.84-86
  • 新潟大学医学部解剖学教室(1957)『人類学輯報』第18輯
  • 藤森英二(2011)『信州の縄文早期の世界:栃原岩陰遺跡』、新泉社

日本の人類学者9.山崎 清(Kiyoshi YAMAZAKI)[1901-1985]

2012年06月23日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Kiyoshiyamazaki

山崎 清(Kiyoshi YAMAZAKI)[1901-1985][山崎 清(1983)『私の歯科回顧』p.143より改変して引用](以下、敬称略)

 山崎 清は、1901年6月30日に埼玉県の越谷市で生まれました。実家は、本屋や新聞販売店だったそうです。実母は、身体が弱い山崎 清を心配し、将来は芸術か学問の道しかないと予言していたそうです。実際、山崎 清は、その2つの経歴を辿ることになります。1920年には、風景画を出品し、二科会に入選しています。春日部中学校を卒業後上京し、日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)に入学し、1923年に卒業しました。

 ちなみに、この日本歯科大学は、1907年に中原市五郎が共立歯科医学校を創立し、1909年に日本歯科医学校・1919年に日本歯科医学専門学校・1947年に日本歯科大学と名称を変更しています。中原市五郎は、東京で歯科医の岡田三百三に歯学を学び歯科医術開業試験に合格後、開業しています。

 1924年には、フランスに留学して約6年間滞在し、パリ歯科学校とパリ人類学学校を卒業します。但し、当初、渡仏する目的は絵の勉強をするためだったそうです。絵から人類学に転向した理由は、美術館で作者不明の写実的な絵を見て、自信を失ったからとからだと言われています。このパリ人類学学校は、フランスの人類学者、ピエール・ポール・ブローカ(Pierre Paul BROCA)[1824-1880]が1876年に創設した学校です。

 フランス滞在中、山崎 清は、フランス人のスザンヌと結婚し、パリ歯科学校の卒業式の日に娘マルトが生まれました。1930年、約6年間の滞仏を経て、親子3人で帰国します。帰国した山崎 清は、母校で教職につき、歯科の歴史を教えたり、臨床では口腔外科を担当しました。やがて、山崎 清に転機が訪れます。

 帰国したばかりの山崎 清は、再び渡仏することになりました。1930年12月に、フランスのパリで国際歯科連盟の国際学会が開催されることになったのです。この会議に日本からは、日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)の中原市五郎[1867-1941]・東京歯科医学専門学校(現・東京歯科大学)の花沢 鼎[1882-1950]・東京高等歯科医学校(現・東京医科歯科大学)の島峰 徹[1877-1945]の3人が出席することになりました。山崎 清は、母校の中原市五郎の通訳として同行しています。会議が終了して1931年に帰国すると、山崎 清はこの1年間の間に、講師・助教授・教授・外科部長と昇任しました。中原市五郎の計らいです。また、この頃は、東京大学医学部解剖学教室の西 成甫[1885-1978]の元で、研究生となり頭蓋骨の研究を行いました。

 やがて、骨の研究から生きている人の研究へと興味が移り、心理学・精神医学を学び、人相学や顔の研究へと変わりました。意外なことに、この人相学の興味は、実母からだそうです。この分野は、欧米ではフレノロジー(Phrenology)と呼ばれ、骨相学と翻訳されています。晩年は、人相学の権威としてマスコミに取り上げられ活躍しました。

 山崎 清は、日本歯科大学に33年間勤務し、その後、鶴見大学に移籍しました。しかし、私生活では、妻が「パリで死にたい。」と言い出し、妻・スザンヌと娘・マルトは、フランスに帰国してしまいます。1960年には、パリで開催された第6回国際人類学民族学会議に出席しました。また、1962年にはフランス歯科アカデミー会員に推薦されています。さらに、1964年には出身地の越谷市名誉市民に選ばれました。名誉市民としては、第1号だそうです。1966年には、日本美容整形学会設立発起人としても貢献しました。

 70歳を越えた頃からは、絵を描き始め、個展も開きました。ところが、悲劇が重なって訪れました。1981年9月30日に妻のスザンヌがフランスで死去し、1982年に養女・憲江が乳ガンでこの世を去ったのです。しかも、妻の死は、2年間知らされなかったそうです。

 山崎 清は、1985年、静かにこの世を去りました。実は、私は、山崎 清先生と生前、私の留学の件で手紙のやりとりをしていました。このやりとりの中で、山崎 清先生が1983年に出版された『私の歯科回顧』を寄贈していただいています。本には、1984年3月13日に、山崎清先生より寄贈と記してありました。私は、1984年に留学したため、山崎 清先生のご逝去は知りませんでした。1985年のある日、娘のマルトさんから転送された葉書で山崎 清先生のご逝去を知りました。

 山崎 清が書いた本として、以下のものがあります。

  • 山崎 清(1940)『歯科医史』、金原商店
  • 山崎 清(1943)『歯と民族文化』、天佑書房
  • 山崎 清(1943)『顔の人類学』、天佑書房[このブログで、紹介済み]
  • 山崎 清(1948)『人間の歯』、創元社[このブログで、紹介済み]
  • 山崎 清(1955)『人間の顔』、読売新聞社[このブログで、紹介済み]
  • 山崎 清(1957)『日本人の顔』、読売新聞社
  • 山崎 清(1965)『顔と性格』、NHKブックス
  • 山崎 清(1980)『人間の顔:人相学序説』、白水社[このブログで、紹介済み]
  • 山崎 清(1983)『私の歯科回顧』、書林[このブログで、紹介済み]

*山崎 清に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 山崎 清(1980)『人間の顔』、白水社
  • 山崎 清(1983)『私の歯科回顧』、書林 

人類学史の本26.私の歯科回顧

2012年06月22日 | H1.人類学史の本[History of Anthropol

Yamazaki1983

私の歯科回顧 (1983年)
価格:¥ 3,150(税込)
発売日:1983-09

 この本は、元日本歯科大学の山崎 清[1901-1985]さんが、自身の過去を回顧したものです。1983年に、書林から出版されました。私は、1984年に、山崎 清先生から寄贈していただきました。

 本書の内容は、以下のように、全10章からなります。

  1. FDIと国際学会[註:FDIとは、国際歯科連名のこと]
  2. 私の人相学:人相は占いか科学か
  3. 頭骨:豊臣秀頼の頭骨発見
  4. 私の歯科と絵のいきさつ:中原実との出会い
  5. 歯科の教壇50年:そして、墓石のこと
  6. 晩年の画家志願:真夜中の裸電球の下で
  7. 私の辿った顔研究の道順
  8. 丸山ワクチン紛争経緯:今世紀最大の喜劇
  9. 抽象の巨匠ミッシェル・スフォール略伝
  10. 妻スザンヌの死

 著者の山崎 清さんは、日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)を卒業後、フランスに留学し、パリ歯科大学及びパリ人類学学校を卒業しています。帰国後は、母校及び鶴見大学で主に歯科矯正学の分野で教鞭をとっていました。

 本書では、特に、第5章の「歯科の教壇50年」が参考になります。


日本人の起源の本・古典11.人間の顔

2012年06月21日 | F2.日本人の起源の本:古典[Origin of

Yamazaki1980

人間の顔―人相学序説 (1980年)
価格:¥ 1,890(税込)
発売日:1980-11

 この本は、元日本歯科大学の山崎 清[1901-1985]さんが、人間の顔について書いたものです。副題には、「人相学序説」とあります。1980年に、白水社から出版されました。

 本書の内容は、以下のように、全15章からなります。

  • 顔への遍歴(序にかえて)
  • 1.江戸時代の人相学事情
  • 2.西洋人相学事情
  • 3.骨相学事情
  • 4.人類学における頭骨
  • 5.顔の研究方法
  • 6.顔の側面観
  • 7.プロフィル
  • 8.顔の観察(1)
  • 9.顔の観察(2)
  • 10.心理学における人間類型
  • 11.類型と類型論
  • 12.類型学の諸学派
  • 13.人相とコンピュータ(XY方式)
  • 14.社会集団の顔:集団人相学へのアプローチ

 著者の山崎 清さんは、日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)を卒業後、フランスに留学し、パリ歯科大学及びパリ人類学学校を卒業しています。帰国後、母校と鶴見大学で、主に歯科矯正学の分野で教鞭をとっていました。本書では、19世紀にヨーロッパで発達した、「骨相学(フレノロジー)」について多く書かれています。


日本人の起源の本・古典10.人間の顔

2012年06月20日 | F2.日本人の起源の本:古典[Origin of

Yamazaki1955

人間の顔 (1955年) (読売文庫)
価格:(税込)
発売日:1955

 この本は、元日本歯科大学の山崎 清[1901-1985]さんが、人間の顔について書いたものです。副題には、「生涯かけたあなたの芸術」とあります。1955年に、読売新聞社から出版されました

 本書の内容は、以下のように、全4部からなります。

  1. 人間見物
  2. 人間の顔
  3. 容貌と性格
  4. 顔の研究

 著者の山崎 清さんは、日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)を卒業後、フランスに留学して、パリ歯科大学及びパリ人類学学校を卒業しています。帰国後、母校及び鶴見大学で、主に歯科矯正の分野で教鞭をとっていました。今でこそ、日本には「日本顔学会」がありますが、本書が出版された当時は、顔に関する本はあまりありませんでした。


日本人の起源の本・古典9.人間の歯

2012年06月19日 | F2.日本人の起源の本:古典[Origin of

Yamazaki1948

人間の歯 (1948年)
価格:(税込)
発売日:1948

 この本は、元日本歯科大学の山崎 清[1901-1985]さんが、現代人の歯・化石人類の歯・歯の風習について書いたものです。1948年に、創元社から出版されました。

 本書の内容は、以下のように、全3部からなります。

  1. 人間の歯
  2. 化石人の歯
  3. 歯の毀損風習

 著者の山崎 清さんは、日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)を卒業後、フランスに留学し、パリ歯科大学及びパリ人類学学校を卒業しています。卒業は、母校及び鶴見大学で主に歯科矯正の分野で教鞭をとっていました。

 本書で興味深かったのは、第3部に書かれている「人工的出っ歯の風習」です。フランス語で、1875年及び1879年に発表されたもので、当然、現在は失われた風習でしょうが、初めて聞いたもので興味深く読みました。


日本人の起源の本・古典8.顔の人類学

2012年06月18日 | F2.日本人の起源の本:古典[Origin of

Yamazaki1943

 この本は、元日本歯科大学の山崎 清[1901-1985]さんが、頭蓋骨及び生体の顔面について書いたものです、1943年に、天佑書房から出版されました。アマゾンで検索しましたが、ヒットしませんでしたので、リンクさせていません。

 本書の内容は、以下のように、全4部と附編からなります。

  1. 頭蓋人類学の基礎知識
  2. 顔面頭蓋の計測学
  3. 生体の顔面観察
  4. 生体の顔面計測
  • 附1.顔の土俗その他
  • 附2.頭蓋学の沿革(トピナールより抜粋)

 著者の山崎 清さんは、日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)を卒業後、フランスに留学し、パリ歯科大学及びパリ人類学学校を卒業しています。帰国後は、母校及び鶴見大学にて矯正学の教鞭をとっていました。この顔の人類学は、フランス留学中に興味を覚えた分野だそうです。

 実際、本書は、フランスの人類学者、ポール・トピナール(Paul TOPINARD)[1830-1911]が1885年に出版した『人類学概論(Elements d'Anthropologie Generale)』を元にして書かれているそうです。


日本の人類学者8.三宅宗悦(Muneyoshi MIYAKE)[1905-1944]

2012年06月17日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Muneyoshimiyake

三宅宗悦(Muneyoshi MIYAKE)[1905-1944][角田文衛(1994)『考古学京都学派』、雄山閣出版・口絵1の集合写真より改変して引用](以下、敬称略。)

 三宅宗悦は、1905年3月26日、京都府京都市にて三宅宗淳・男依の4男として生まれました。京都府立第2中学校及び山口高等学校を卒業後、1926年に京都府立医科大学に入学します。山口高等学校で同級生だった、小川五郎[1902-1969]は京都帝国大学文学部史学科に入学し、考古学を専攻しました。この小川五郎を通じて、京都帝国大学文学部の考古学者・濱田耕作[1881-1938]の知遇を得ます。同様に、京都帝国大学医学部病理学教室の清野謙次[1885-1955]や京都帝国大学医学部解剖学教室の金関丈夫[1897-1983]とも顔見知りになりました。

 三宅宗悦は、京都府立医科大学の学生時代の1929年に、須玖岡本遺跡の発掘調査にも参加しています。1930年3月に京都府立医科大学を卒業と同時に母校の副手となりますが、清野謙次の希望により、同年5月23日付けで京都帝国大学医学部病理学教室助手に就任しました。病理学教室では、清野謙次が発掘調査した遺跡出土人骨の整理や計測を行っています。1931年には、旧友小川五郎からの連絡を受け、土井ヶ浜遺跡出土人骨の鑑定も行いました。ただ、三宅宗悦は古墳時代人骨と鑑定しましたが、現在では箱石石棺から出土した弥生時代人骨だと考えられています。ただ、渡来系弥生時代人骨である土井ヶ浜遺跡出土人骨が古墳時代人骨に近い形質を持っているという所見は、基本的に間違いではありません。当時は、保存状態が良い縄文時代人骨・古墳時代人骨・現代人骨との比較が主であり、まだ、弥生時代人骨はあまり出土しておらず、研究は盛んではありませんでした。

 1933年には、京都帝国大学病理学教室講師に昇任し、出土人骨の整理及び計測を継続して行いました。1934年には、アチックミューゼアムによる調査に、渋沢敬三[1896-1963]等と「薩南十島採訪調査」に参加しました。現在、当時撮影された写真の内、中之島のものは神奈川大学日本常民文化研究所によりインターネット上で公開されており、撮影者に、三宅宗悦の名前を確認することができます。この頃から、三宅宗悦の興味は南島に向かったと言われています。

 この頃、戦争の陰が少しずつ忍び寄ってきました。1937年9月13日、三宅宗悦は第16師団(京都)に軍医として召集されてしまいます。しかし、当時、京都帝国大学医学部講師であったためか、即日、帰郷を命じられたそうです。この1937年は、三宅宗悦が医学博士論文を準備していた年でした。やがて、同年12月18日付けで、「病的体質の人類学的研究」により、京都帝国大学から医学博士号を取得しています。

 ところが、翌年の1938年に清野事件と呼ばれる事件が勃発しました。この事件で心労が重なったのか、1937年に京都帝国大学総長に就任していた浜田耕作は、1938年7月25日に死去します。また、清野謙次も京都帝国大学を退職してしまいました。三宅宗悦は、この事件により後ろ盾を失い、1938年3月31日付けで京都帝国大学を辞職し、満州に渡って満州国立中央博物館に籍を置きます。その後、満州国立博物館奉天分館長に就任しましたが、この職も1941年夏に辞職し、京都に戻ります。ここで、悲劇が起きました。京都に帰ってすぐの1941年12月に、再び第16師団に陸軍軍医大尉として召集され、フィリピンのレイテ島に赴任することになったのです。

 このレイテ島赴任中に、東京帝国大学の長谷部言人[1882-1969]に手紙が届いており、『人類学雑誌』第57巻第6号(1942年6月発行)の「雑報」に、”三宅博士比島よりの通信”として紹介されています。「未だネグリト、イゴロットには遭っていないが、所謂フィリピン人のみに接し、指紋を多少集めています。フィリピン大学の人類学教室も見ずに前線にいます。大学には、アメリカ人のバイヤー(ベイヤー)がいて、大学予科では人類学が講義されているとのことで、この点で日本よりも羨ましく思います。私の兵達は人種を知らずに戦い駐留しているのを淋しく思います。(以上、意訳)」とあり、フィリピン島派遣垣第6569部隊三宅隊の隊長であると紹介されています。また、『人類学雑誌』第57巻第10号(1942年10月発行)には、「フィリピン通信」として、「軍務多忙にもかかわらず、時々バイヤー(ベイヤー)教授を訪問して考古学の収集品について研究している。」と紹介されています。

 ちなみに、ここに出てくるバイヤー(ベイヤー)とは、ヘンリー・バイヤー(ベイヤー)(Henry Otley BEYER)[1883-1966]のことです。バイヤー(ベイヤー)は、アメリカのアイオワ州出身で、デンヴァー大学にて化学専攻で卒業後、フィリピンのルソン島でで教師として務めます。ハーヴァード大学大学院で人類学を専攻する内、フィリピン博物館の館長に就任しました。やがて、1914年にはフィリピン大学の人類学講師に就任し、1925年に人類学部長兼教授となります。

 三宅宗悦に、悲劇が起きました。レイテ島に赴任中の、1944年9月27日に夫人の三宅夫規が死去したのです。また、三宅宗悦自身も、1944年11月6日に、夫人の後を追うかのように、39歳で戦死しました。奇しくも、興味を持っていた南島方面での戦死でした。このフィリピンでは、海外全戦没者数約240万人の内、約50万人が戦死しています。

*三宅宗悦に関する文献として、以下のものを参考にしました。

  • 角田文衛(1994)「三宅宗悦博士」『考古学京都学派』(角田文衛編)、雄山閣出版、pp.169-172
  • 寺田和夫(1975)『日本の人類学』、思索社

人類学史の本25.考古学京都学派

2012年06月16日 | H1.人類学史の本[History of Anthropol

考古学京都学派 考古学京都学派
価格:¥ 2,940(税込)
発売日:1997-03

 この本は、元古代学協会理事長の考古学者・角田文衛[1913-2008]さんによる編で、主に考古学者の略年譜や業績について書かれたものです。1994年に、雄山閣出版から出版されました。

 本書の内容は、以下のように、全3部からなります。人類学者は、三宅宗悦[1905-1944]さんだけですが、当時の考古学者のことも書かれており、参考になります。

第1部.回想

  • 考古太平記:三森定男(解説・江坂輝弥)
  • 濱田先生の横顔:その頃の日記から(角田文衛)
  • 離洛状(三森定男)
  • 身辺雑記(藤岡謙二郎)

第2部.群像

  • 濱田耕作博士の面影:『青陵随想』の解説(角田文衛)
  • 梅原末治博士(角田文衛)
  • 島田貞彦の生涯と業績(角田文衛)
  • 島田貞彦さんを偲ぶ(有光教一)
  • 能勢丑三略伝(角田文衛)
  • 小牧實繁先生(角田文衛)
  • 末永雅雄博士(角田文衛)
  • 水野清一博士(樋口隆康)
  • 水野君の思いで(末永雅雄)
  • 長廣敏雄先生の歩まれた道(秋山進午)
  • 三宅宗悦博士(角田文衛)
  • 三森定男教授の生涯(角田文衛)
  • 小林行雄博士の軌跡:感性の考古学者の評伝(穴沢咊光)
  • 藤岡謙二郎博士:人と業績(足利健亮)

第3部.明暗

  • 梅原末治論(穴沢咊光)

Tsunoda1994