

池田次郎(Jiro IKEDA)[1922-2012][池田次郎(1982)『日本人の起源』の著者紹介より改変して引用](以下、敬称略)
池田次郎は、1922年11月3日に、山梨県甲府市で生まれました。やがて、旧制甲府中学校と旧制松本高校を卒業し、東京帝国大学理学部人類学科に入学します。東京帝国大学に進学した際は、医者になれとすすめられたそうですが、当の本人は、考古学や歴史学に興味を持っていたと言われています。東京大学では、長谷部言人[1882-1969]に師事して、長谷部の指導により土器を研究しました。1945年9月に、石斧を調べた卒業論文を提出し、東京帝国大学理学部を卒業します。同級生は、北川秀生でした。ちなみに、卒業論文は、1948年に「磨製石斧の分類」『人類学雑誌』第60巻第1号と「打製石斧の分類」『人類学輯報』第1号.に発表されました。卒業後は、母校の大学院に残ります。
やがて、池田次郎に第1の転機が訪れました。1948年に、広島県立医科大学(現・広島大学医学部)の解剖学第1講座の助手に就任したのです。広島県立医科大学は、広島県立医学専門学校を前身として、1948年3月10日に設立が認可されました。当時の解剖学教室は、今村 豊[1896-1971]教授・鈴木 誠[1914-1973]助教授・文化人類学者の蒲生正男[1927-1981]助手という顔ぶれでした。この中で、今村 豊と鈴木 誠は、京城帝国大学医学部の元教員と卒業生で、京城学派と呼ばれています。この広島県立医科大学時代は、今村 豊のみが解剖を行い、池田次郎は中国地方の貝塚の発掘や考古学調査ばかりやっていたそうです。池田次郎は、広島県立医科大学解剖学教室で、助手・講師・助教授と昇任しました。1951年に、鈴木 誠が信州大学医学部第2解剖学教室教授に転出すると、その後任の助教授に就任します。助教授に昇任したため、解剖学を教える必要性が生じ、この時から骨学を専門とすることになります。
池田次郎に、第2の転機が訪れました。恩師の今村 豊が、1952年4月に新潟大学医学部の第1解剖学教室教授に転任することになったため、一緒に助教授として移籍したのです。移籍した翌年の1953年8月31日付けで、「血縁家族間に於ける頭長・頭幅及び頭長幅示数の類似に就いて」のテーマで、勤務先の新潟大学医学部で医学博士号を取得しました。この生体計測のテーマは、京城学派が得意としたもので、池田次郎もその影響を受けています。今村 豊は、60歳の還暦の時に、小浜基次[1904-1970]・鈴木 誠[1914-1973]・池田次郎・三上美樹の名前を挙げて、この4名は自分の弟子だと公表しました。この新潟大学時代には、江上波夫[1906-2002]を団長とする、東京大学イラン・イラク遺跡調査団に1956年~1957年・1959年・1964年と3回、自然人類学担当として参加しました。但し、1964年の時は新潟大学から京都大学に移籍しています。
池田次郎に、第3の転機が訪れました。1962年に、京都大学理学部に自然人類学教室が新設され、その助教授として転任したのです。当時の教室は、今西錦司[1902-1992]が京都大学人文科学研究所と併任で教授に就任し、助教授には、池田次郎と伊谷純一郎[1926-2001]の2名が就任しました。この時、今西錦司は、「彼ならええやろう」とうなずいたと伝えられています。奇遇でしょうが、京都大学は、恩師・今村 豊の母校でした。1966年、池田次郎は教授に昇任します。京都大学時代は、1967年と1968年に京都大学アフリカ学術調査隊に、自然人類学担当として参加しています。その後は、フィールドをイランへと移し、1971年・1973年・1975年・1977年と調査を行いました。ところが、これからという時の1979年2月に、イラン革命が起こり、このプロジェクトは打ち切りとなります。
池田次郎が書いた主な著書は、以下の通りです。石田(2013)によると、著書は14冊とあります。
池田次郎が『人類学雑誌』に発表した主な論文は、以下の通りです。石田(2013)によると、論文と報告書が116編・総説とその他が50編とあります。
池田次郎と日本人類学会との関わりは、1943年10月1日付けの日本人類学会会員名簿に記載されていますので東京帝国大学の学生時代に入会したのでしょう。その後、1967年~1969年と1978年~1980年にかけて理事を務め、1980年~1984年にかけては日本人類学会会長に就任しました。
1986年、池田次郎は京都大学を定年退官します。その後は、1986年に岡山理科大学理学部教授、1991年に九州国際大学法経学部教授として後進の指導を行いました。1993年には、九州国際大学を退職しています。
池田次郎は、京都大学時代に、片山一道(現・京都大学名誉教授)・多賀谷 昭(現・長野県看護大学)・毛利俊雄(現・京都大学霊長類研究所)等を育てました。
2012年11月11日に、「京都大学人類学講座50周年記念会」が行われました。しかし、池田次郎は、2001年に脳内疾患から車椅子生活を余儀なくされており、当日は出席できずにビデオレターを寄せたそうです。2012年12月19日、池田次郎は肺炎により、90歳で死去しました。先史学から始まった研究テーマは、生体人類学と骨学に変わりましたが、先史学への興味も持ち続けており、『人類学雑誌』に4回にわたって発表された「日本の古人骨に関する文献」は、今でも貴重なデータを提供しています。
私は、池田次郎先生とは学生時代からお付き合いさせていただいておりました。池田次郎先生は、広島県立医科大学に赴任されておられた関係なのか、広島県出身者を特に可愛がっておられました。実際、お弟子さん達の片山一道先生・多賀谷 昭先生・毛利俊雄先生の3人共に広島県のご出身です。私は、父母が広島県出身で現在も本籍が広島県というだけで可愛がっていただきました。私が留学中の1988年にユーゴスラヴィア(現・クロアチア)で開催された、第12回国際人類学民族学会議(IUAES)では、偶然、泊まっていたホテルが一緒で、池田次郎先生ご夫妻と夕食をご一緒させていただいたことを思い出します。その時、奥様の静江様も広島県のご出身であることを知りました。池田次郎先生と最後にお目にかかったのは、1998年11月7日と11月8日に、福岡県福岡市の大手門会館で開催された、第13回「大学と科学」公開シンポジウム『検証・日本列島』に参加した際に、2次会でご一緒させていただいた時だと思います。その頃は、福岡県にお住まいでまだお元気でお酒も召し上がっておられたのを記憶しています。穏やかな語りですが、人類学や先史学に関する知識は驚くほど広くて深く、随分と勉強になりました。
*以下は、「京都大学大学院理学研究科」で公表されている池田次郎名誉教授業績集へのリンクです。
*池田次郎に関する資料として、以下の文献を参考にしました。
論集日本文化の起源〈5〉日本人種論・言語学 (1973年) 価格:¥ 1,890(税込) 発売日:1973 |
この『論集日本文化の起源5』は、全5巻[第1巻考古学・第2巻日本史・第3巻民族学(1)・第4巻民族学(2)・第5巻日本人種論言語学]の第5巻として、「日本人種論」は京都大学(当時)の池田次郎[1922-2012]さんによる編で、「言語学」は学習院大学(当時)の大野 晋[1919-2008]さんによる編で、1973年に平凡社から出版されました。本書は、日本人の起源に関する古典の論文を再録したものなので、「日本人の起源の本・古典」に分類しました。
本書の内容は、以下のように、「日本人種論」と「言語学」の全2部に分かれます。
◎日本人種論[池田次郎編]
戦前の日本人種論の流れ
1.コロボックル・アイヌ論争
2.二つの日本人説
東亜諸種族との類縁
1.計測値からみた問題
2.血液型、指紋などからみた問題
戦前の古代人骨に基づく日本人種論
1.変形説と混血説
2.洪積世人類の発見
◎言語学[大野 晋編]
総論
朝鮮語との初期の比較論
南方諸語との関係
北方諸語との関係
戦後の発展
本書は、日本人の起源や言語学に関する古典の論文を再録したもので、大変、参考になります。特に、鈴木 尚さんによる論文2点は、英語とドイツ語論文を和訳したもので、参考になるでしょう。また、それぞれの巻末には文献目録も掲載されています。
『人類学研究』は、1954年から1960年にかけて、九州大学医学部解剖学教室の人類学研究所から全15冊が発行されました。編集者は、当時、九州大学医学部解剖学教室教授の金関丈夫[1897-1983]でしたが、九州大学を定年退官する時期に合わせて廃刊となっています。この研究雑誌には、貴重な論文やデータが掲載されています。
第7巻附録は、1960年12月1日に出版されました。英文タイトルもつけられていますが、本文は英文抄録付きの和文で書かれています。なお、今号は、前号に続いて「清野謙次博士記念特輯号」となっています。また、今号で『人類学研究』は、廃刊となりました。
第7巻附録の内容は、以下の通りです。
『人類学研究』は、1954年から1960年にかけて、九州大学医学部解剖学教室の人類学研究所から全15冊が発行されました。編集者は、当時、九州大学医学部解剖学教室教授の金関丈夫[1897-1983]でしたが、九州大学を定年退官する時期に合わせて廃刊となっています。この研究雑誌には、貴重な論文やデータが掲載されています。
第7巻第3~4号は、1960年8月1日に出版されました。英文タイトルもつけられていますが、本文は英文抄録付きの和文で書かれています。なお、今号は、「清野謙次博士記念特輯号」となっています。
第7巻第3~4号の内容は、以下の通りです。
◎台湾在住諸種族の人類学的研究
生体の研究
頭蓋の研究
『人類学研究』は、1954年から1960年にかけて、九州大学医学部解剖学教室の人類学研究所から全15冊が発行されました。編集者は、当時、九州大学医学部解剖学教室教授の金関丈夫[1897-1983]でしたが、九州大学を定年退官する時期に合わせて廃刊となっています。この研究雑誌には、貴重な論文やデータが掲載されています。
第7巻第1~2号は、1960年4月1日に出版されました。英文タイトルもつけられていますが、本文は英文抄録付きの和文で書かれています。なお、今号は、「清野謙次博士記念特輯号」となっています。
7巻第1号~2号合併号の内容は、以下の通りです。
『人類学研究』は、1954年から1960年にかけて、九州大学医学部解剖学教室の人類学研究所から全15冊が発行されました。編集者は、当時、九州大学医学部解剖学教室教授の金関丈夫[1897-1983]でしたが、九州大学を定年退官する時期に合わせて廃刊となっています。この研究雑誌には、貴重な論文やデータが掲載されています。
第6巻第4号は、1959年9月1日に出版されました。英文タイトルもつけられていますが、本文は英文抄録付きの和文で書かれています。
第6巻第4号の内容は、以下の通りです。
『人類学研究』は、1954年から1960年にかけて、九州大学医学部解剖学教室の人類学研究所から全15冊が発行されました。編集者は、当時、九州大学医学部解剖学教室教授の金関丈夫[1897-1983]でしたが、九州大学を定年退官する時期に合わせて廃刊となっています。この研究雑誌には、貴重な論文やデータが掲載されています。
第6巻第3号は、1959年8月25日に出版されました。英文タイトルもつけられていますが、本文は英文抄録付きの和文で書かれています。
第6巻第3号の内容は、以下の通りです。
岩手県平泉町に所在する中尊寺に所蔵されている藤原四代のミイラは、昭和25(1950)年に金色堂が補修される際に人類学者で東北帝国大学名誉教授の長谷部言人[1882-1969]を団長として組織された「藤原氏遺体学術調査団」により、昭和25(1950)年3月22日から同年3月31日まで調査されました。この調査団は、人類学・法医学・医学・微生物学・植物館・理化学・保存科学・古代史学等の専門家が結集し、学際的に調査が行われています。この調査結果は、調査が行われた昭和25(1950)年8月30日に資金援助を行った朝日新聞社から『中尊寺と藤原四代』として公表されました。
藤原氏四代とは、以下の4氏を指します。但し、調査の結果、藤原忠衡と伝えられているものは藤原泰衡の可能性が高いという結論に達しました。
藤原氏四代のミイラ[朝日新聞社(1973)『日本人類史展』より改変して引用]
初代:藤原清衡[1056(天喜4)-1128(大治3)]
第2代:藤原基衡[1105(長治2)-1157(保元2)]
第3代:藤原秀衡[1122(保安3)-1187(文治3)]
第4代:藤原泰衡[1155(久寿2)・1165(長寛3)-1189(文治5)](*伝聞としては、藤原忠衡のものとされていた)
藤原氏四代のミイラを人類学的に調査したのは、東京大学理学部人類学教室助教授(当時)の鈴木 尚[1912-2004]でした。
藤原秀衡を計測中の鈴木 尚[朝日新聞社(1950)『中尊寺と藤原四代』より改変して引用]
藤原四代のミイラを研究した、鈴木 尚と長谷部言人は、これらのミイラは人工的ではなく自然にできたミイラだと推定しました。藤原一族は、従来蝦夷と呼ばれており、初代清衡の高祖父・安部忠頼が「東夷の首長」と呼ばれ、三代・秀衡は自ら「俘囚の上頭」と称していました。しかし、アイヌ的要素(現在で言う在来系あるいは縄文系)は無く、渡来系あるいは弥生系の形質を持つことも明らかにしています。
中でも注目された成果として、首だけが保存されているミイラでした。このミイラは、中尊寺では藤原忠衡のものと伝聞されていましたが、調査の結果、藤原泰衡のものである可能性が高いと結論づけられています。
藤原忠衡(藤原泰衡)のミイラを調査する鈴木 尚[朝日新聞社(1950)『中尊寺と藤原四代』より改変して引用]
この藤原忠衡の首には、16箇所もの切創や刺創が認められました。中でも、眉間の左から後頭部にかけて直径約1cmの孔が認められ、これは、八寸釘(約24cm)を使って釘打ちの刑に処した上でさらし首にしたものと推定されています。
藤原忠衡(藤原泰衡)の首の切創と刺創(赤い部分が釘の跡)[朝日新聞社(1950)『中尊寺と藤原四代』より改変して引用]
これらの創から、首を刎ねるために太刀を7回振り下ろし、5回失敗して最後の2回で切断され、釘打ちの刑に処したと推定されました。
その後、1994年に中尊寺からの依頼で藤原氏四代の遺体を観察した埴原和郎[1927-2004]により、再検証が行われました。この中で、ミイラは自然にできたものであり、鎌倉時代人や近世アイヌよりも、現代京都人に近いことが確認されています。但し、藤原基衡は貴族化が著しいものの、清衡や秀衡はエミシ系の安倍氏出身の母親の影響を受けていることも指摘しました。但し、長谷部言人が指摘した、藤原基衡と藤原秀衡の遺体が入れ替わったかどうかは形態から推定するには限界があり、将来的にDNA鑑定を行う必要も指摘しています。
*藤原四代のミイラについて、以下の文献を参考にしました。
中尊寺に所蔵されている藤原四代のミイラは、昭和25(1950)年に金色堂が補修される際に人類学者で東北帝国大学名誉教授の長谷部言人[1882-1969]を団長として組織された「藤原氏遺体学術調査団」により、昭和25(1950)年3月22日から同年3月31日まで調査されました。この調査団は、人類学・法医学・医学・微生物学・植物館・理化学・保存科学・古代史学等の専門家が結集し、学際的に調査が行われています。この調査結果は、調査が行われた昭和25(1950)年8月30日に資金援助を行った朝日新聞社から『中尊寺と藤原四代』として公表されました。
藤原氏四代とは、以下の人々をさします。
初代:藤原清衡[1056(天喜4)-1128(大治3)]
第2代:藤原基衡[1105(長治2)-1157(保元2)]
第3代:藤原秀衡[1122(保安3)-1187(文治3)]
第4代:藤原泰衡[1155(久寿2)・1165(長寛3)-1189(文治5)](*伝聞としては、藤原忠衡のものとされていた)
◎埴原和郎(1996)「再考・奥州藤原氏四代の遺体」『国際日本文化研究センター紀要・日本研究』、第13集、pp.11-33
人類学者の埴原和郎[1927-2004]は、1994年のある日、中尊寺による依頼で短時間遺体を直接観察する機会を与えられました。その結果は、1996年に論文として公表されました。
論文は、以下のように、全7項目に分けられて論考されています。
はじめに(省略)
遺体の同定について
・古畑種基等(1950)による血液型判定
清衡(AB)・基衡(A)・秀衡(AB)・忠衡[泰衡](B)で、母親の血液型が不明であるが、親子として矛盾はない。
・鈴木 尚(1950)の計測値を、類似度係数(Qモード相関係数)を計算してクラスター分析を行った。計測項目は、6項目[頭骨最大長(1)・頭骨最大幅(2)・バジオンブレグマ高(3)・頬骨弓幅(4)・上顔高(5)・鼻高(6)]を用いた。
頭骨計測値のQモード相関係数に基づく樹状図(埴原 1996)の図1・2より引用
上の図より、清衡と基衡、秀衡と泰衡の2つのグループができている。つまり、それぞれが父子である可能性をしている。但し、母親の形態が不明である。長谷部言人(1950)が指摘したように、基衡と秀衡の遺体が入れ替わっているかどうかの結論は出せない。将来的に、DNA分析を行えば信頼性の高い情報が得られるはずである。
遺体のミイラ化の問題
遺体がミイラ化した成因については、自然説と人工説とが提唱されている。本報告者の埴原和郎は、1951年に小倉で朝鮮戦争による戦死体の個人識別を3ヶ月間で約1800体行った。その経験から、ウジが発生した場合は短時間で内臓が喰いつくされ、大動脈のような大きな血管も形を留めないことが多い。藤原氏四代の遺体を観察すると、戦死体で経験した状態とよく似ており、自然腐敗が進んだ結果と考えられる。
奥州藤原氏の出自
鈴木 尚(1950)が計測した項目6項目(前出)に鼻幅を加えた7項目で、泰衡を除く3遺体について多変量解析モデルによる分析を行った。樹状図を描くと、以下の図になる。
頭骨計測値7項目のQモード相関係数に基づく樹状図(埴原 1996)の図3より引用
藤原氏の3人は、現代の京都人に最も近く、時代の近い鎌倉人や近世のアイヌとは遠く、居住地を共有する東北人とも異なっている。
エミシの人種的系統(省略)
遺体にみる貴族的特徴
鈴木 尚は、大名家の遺骨を調査し、「貴族的特徴」を指摘している。それらは、著しい高顔(面長)・狭顔・狭鼻・高い鼻稜・華奢な上下顎骨等である。藤原氏4遺体に共通して見られる特徴は、高く鋭く秀でた鼻稜・浅い鼻根部の陥凹・狭く高い梨状口・鋭い梨状口下縁等である。
頭骨計測値6項目に基づく樹状図(埴原 1996)の図8より引用
藤原家3人をみると、貴族化が著しいのは基衡であり、清衡と秀衡は、伊達家や一般集団に近い。このことは、エミシの系統に属する安倍家との婚姻が影響しているのかもしれない。家系図によると、基衡の母は京都系(平氏)だが、清衡と秀衡の母はいずれもエミシ系(安倍氏)である。但し、同時代の鎌倉時代の一般集団とは違いが相当に大きく、藤原家の人々は当時の一般集団に比較して高度に貴族化していたというべきだろう。
むすび(省略)
註:表1~表5及び図4~図7・図9は省略しました。
*以下は、国際日本文化研究センターのフリーアクセスにリンクしています。
中尊寺と藤原四代―中尊寺学術調査報告 (1950年) 中尊寺に所蔵されている藤原四代のミイラは、昭和25(1950)年に金色堂が補修される際に人類学者で東北帝国大学名誉教授の長谷部言人[1882-1969]を団長として組織された「藤原氏遺体学術調査団」により、昭和25(1950)年3月22日から同年3月31日まで調査されました。この調査団は、人類学・法医学・医学・微生物学・植物館・理化学・保存科学・古代史学等の専門家が結集し、学際的に調査が行われています。この調査結果は、調査が行われた昭和25(1950)年8月30日に資金援助を行った朝日新聞社から『中尊寺と藤原四代』として公表されました。 初代:藤原清衡[1056(天喜4)-1128(大治3)] 第2代:藤原基衡[1105(長治2)-1157(保元2)] 第3代:藤原秀衡[1122(保安3)-1187(文治3)] 第4代:藤原泰衡[1155(久寿2)・1165(長寛3)-1189(文治5)](*伝聞としては、藤原忠衡のものとされていた) 藤原四代のミイラ[朝日新聞社(1973)『日本人類史展』より改変して引用] ◎鈴木 尚(1950)「遺体の人類学的観察」『中尊寺と藤原四代』、朝日新聞社、pp.23-44 本稿で、鈴木は5つに章立てして記載していますが、今回は「ミイラの製作」を解説します。 5.ミイラの製作 藤原氏四代のミイラが、自然か人工的に作られたかの問題は、四体揃って保存されている事実から人工的と考えるのに都合は良いが、人工的とする確固たる証拠は発見されていない。調査団としても、未だ一致した見解に到達していない。 全身が保存されている三体のミイラの内、盛夏に死亡した清衡は最も保存状態が悪く骨格化している。晩春に死亡した基衡がこれに次ぎ、初冬に死亡した秀衡が最も保存が良い。このように、三代の遺体の保存状態は死亡した季節と一定の関係があり、自然説に有利であろう。 保存状態は、一般的に、首の背面または側面が保存が悪い。胴の背面は前面よりも保存が悪く、背面の内では正中部の保存状態が比較的良く、側面に近い部分から側面にかけて最も保存が悪い。死体を仰臥姿勢で相当期間放置すると、体の背面及び側面は組織内の水分により湿っているが、前面は比較的早く乾燥する。この結果として、背面は前面より保存状態が悪くなる。この点は、日本にあるミイラと同様の状態である。 以上のことから、ミイラは自然にできたものと推定される。 |
中尊寺と藤原四代―中尊寺学術調査報告 (1950年) 価格:(税込) 発売日:1950-08-30 |
中尊寺に所蔵されている藤原四代のミイラは、昭和25(1950)年に金色堂が補修される際に人類学者で東北帝国大学名誉教授の長谷部言人[1882-1969]を団長として組織された「藤原氏遺体学術調査団」により、昭和25(1950)年3月22日から同年3月31日まで調査されました。この調査団は、人類学・法医学・医学・微生物学・植物館・理化学・保存科学・古代史学等の専門家が結集し、学際的に調査が行われています。この調査結果は、調査が行われた昭和25(1950)年8月30日に資金援助を行った朝日新聞社から『中尊寺と藤原四代』として公表されました。
初代:藤原清衡[1056(天喜4)-1128(大治3)]
第2代:藤原基衡[1105(長治2)-1157(保元2)]
第3代:藤原秀衡[1122(保安3)-1187(文治3)]
第4代:藤原泰衡[1155(久寿2)・1165(長寛3)-1189(文治5)](*伝聞としては、藤原忠衡のものとされていた)
藤原四代のミイラ[朝日新聞社(1973)『日本人類史展』より改変して引用]
◎鈴木 尚(1950)「遺体の人類学的観察」『中尊寺と藤原四代』、朝日新聞社、pp.23-44
本稿で、鈴木は5つに章立てして記載していますが、今回は「人種の問題」を解説します。
藤原氏一族の頭骨計測値とアイヌ、日本人の平均値との比較[朝日新聞社(1950)『中尊寺と藤原四代』より改変して引用](*画像をクリックすると、拡大します。)
4.人種の問題
藤原一族は、従来蝦夷と呼ばれていた。初代清衡の高祖父・安部忠頼が「東夷の首長」と呼ばれ、三代・秀衡は自ら「俘囚の上頭」と称していた。
(1)計測の結果
直接あるいはレントゲン写真により、骨格の計測及び観察を行った。
①身長
ピアソンの式から身長を推定した。しかし、ピアソンの式は足が長い欧州人を基にしているため、実際の身長は2cmから3cm高い可能性がある。
・清衡:159cm
・基衡:165cm
・秀衡:158cm
②頭形
アイヌと日本人を比較すると、幅は大差ないが、最大長ではアイヌの方が長い。つまり、上から見ると細長い。長幅示数は、日本人は約78~79であるが、アイヌは約75である。アイヌは中頭か長頭で、日本人は短頭の出現率が高い。藤原氏は、短頭から中頭である。
・清衡:80.0(短頭)
・基衡:81.3(短頭)
・秀衡:77.9(中頭)
・忠衡:79.0(中頭)
③頭の高さ
バジオン・ブレグマ高は、八雲アイヌが136.4mmだが、近畿地方日本人は139.7mm、関東地方日本人は138.9mmである。藤原氏は、清衡はかなり低いが、基衡と忠衡はかなり高い。
・清衡:133mm
・基衡:142mm
・秀衡:計測不能(但し、別の方法で判定すると基衡や忠衡と同様に高い)
・忠衡:142mm
④顔の形
顔の形は、顔の幅(頬弓幅)と顔の高さ(顔高と上顔高)で表す。アイヌでは顔の高さが低い。清衡と忠衡は、顔の幅が広くて高さが低い。秀衡と忠衡は、顔の幅の割合に高さが高い。
・清衡:138mm(頬弓幅)・118mm(顔高)・71mm(上顔高)
・基衡:135mm(頬弓幅)・129mm(顔高)・79mm(上顔高)
・秀衡:139mm(頬弓幅)・137mm(顔高)・77mm(上顔高)
・忠衡:138mm(頬弓幅)・116mm(顔高)・67mm(上顔高)
⑤鼻の形
鼻の形は、鼻高と鼻幅で表す。鼻の高さは、アイヌでは短い。藤原一族は、忠衡を除くと皆高い。
・清衡:59mm(鼻高)・26mm(鼻幅)
・基衡:59mm(鼻高)・25mm(鼻幅)
・秀衡:57mm(鼻高)・26mm(鼻幅)
・忠衡:51mm(鼻高)
⑥眼窩
眼窩の形は、眼窩高と眼窩幅で示す。アイヌでは、高さが短い。藤原一族は、眼窩が大きく幅の割合に高さが高く、丸形である。
・清衡:計測不能。
・基衡:39mm(眼窩高)・46mm(眼窩幅)
・秀衡:38mm(眼窩高)・44mm(眼窩幅)
・忠衡:37mm(眼窩高)・46mm(眼窩幅)
(2)観察的事項
①鼻根の形
藤原一族の眉間から鼻背にかけての曲背は滑らかな弧線を描き、アイヌにみられるような鼻根における急激な陥凹はない。
②咬合型式
日本人では鋏状咬合であるが、アイヌでは主に鉗子状咬合である。藤原一族の内、基衡と忠衡は鋏状咬合であるが、他の二体は不明である。
③角前切痕
日本人では角前切痕が深く凹んでいる人が多いが、アイヌでは弱く多くが欠如しており、動揺下顎である。藤原一族は、清衡は動揺下顎であるが、他の三体は切痕が強い。
総合的に、藤原一族の内、初代の清衡はアイヌ的要素が一部認められるが、他の三体にはその要素が認められない。
中尊寺と藤原四代―中尊寺学術調査報告 (1950年) 価格:(税込) 発売日:1950-08-30 |
中尊寺に所蔵されている藤原四代のミイラは、昭和25(1950)年に金色堂が補修される際に人類学者で東北帝国大学名誉教授の長谷部言人[1882-1969]を団長として組織された「藤原氏遺体学術調査団」により、昭和25(1950)年3月22日から同年3月31日まで調査されました。この調査団は、人類学・法医学・医学・微生物学・植物館・理化学・保存科学・古代史学等の専門家が結集し、学際的に調査が行われています。この調査結果は、調査が行われた昭和25(1950)年8月30日に資金援助を行った朝日新聞社から『中尊寺と藤原四代』として公表されました。
初代:藤原清衡[1056(天喜4)-1128(大治3)]
第2代:藤原基衡[1105(長治2)-1157(保元2)]
第3代:藤原秀衡[1122(保安3)-1187(文治3)]
第4代:藤原泰衡[1155(久寿2)・1165(長寛3)-1189(文治5)](*伝聞としては、藤原忠衡のものとされていた)
藤原四代のミイラ[朝日新聞社(1973)『日本人類史展』より改変して引用]
◎鈴木 尚(1950)「遺体の人類学的観察」『中尊寺と藤原四代』、朝日新聞社、pp.23-44
本稿で、鈴木は5つに章立てして記載していますが、今回は「藤原四代の年齢」を解説します。
3.藤原四代の年齢
(1)藤原清衡
・文献記録:大治三(一一二八)年七月十三日に、七三歳で死亡。
・人類学的観察:歯の咬耗・頭骨縫合・胸骨・脊椎骨の癒合・甲状軟骨の化骨・肋軟骨の一部化骨から、四代中最も老年で死亡したことが推定され、文献上の七三歳は妥当。
(2)藤原基衡
・文献記録:保元二(一一五七)年三月十九日に死亡で、死亡年齢不詳。但し、五四歳という推定がされている。
・人類学的観察:歯の咬耗が弱く、頭骨縫合の内最も遅く始まる乳様後頭縫合の癒合があり、甲状軟骨の後半が化骨している点から五〇歳以上と推定。文献上の五四歳は妥当。
(3)藤原忠衡
・文献記録:文治三(一一八七)年十月二九日に、六六歳で死亡。
・人類学的観察:歯の咬耗・頭骨縫合・脊椎癒合は、清衡に比べると程度が弱く、文献上の六六歳は妥当。
(4)藤原忠衡
・文献記録:文治五(一一八九)年六月二十六日に、二三歳で死亡。
・人類学的観察:ラムダ縫合には全く癒合がない。蝶形骨と後頭骨との軟骨結合は痕跡を残すことなく化骨し、少なくとも二〇歳以上。上下顎の第三大臼歯は完全に萌出。歯の咬耗は、個人差があるため二〇歳から四〇歳まで幅があるので、二五歳か三五歳かの問題は決定を見合わせたい。
(5)藤原泰衡
・文献記録①(吾妻鏡吉川本):文治五(一一八九)年九月三日に、二五歳で死亡。
・文献記録②(国史大系):文治五(一一八九)年九月三日に、三五歳で死亡。
・人類学的観察:ラムダ縫合には全く癒合がない。蝶形骨と後頭骨との軟骨結合は痕跡を残すことなく化骨し、少なくとも二〇歳以上。上下顎の第三大臼歯は完全に萌出。歯の咬耗は、個人差があるため二〇歳から四〇歳まで幅があるので、二五歳か三五歳かの問題は決定を見合わせたい。
中尊寺と藤原四代―中尊寺学術調査報告 (1950年) 中尊寺に所蔵されている藤原四代のミイラは、昭和25(1950)年に金色堂が補修される際に人類学者で東北帝国大学名誉教授の長谷部言人[1882-1969]を団長として組織された「藤原氏遺体学術調査団」により、昭和25(1950)年3月22日から同年3月31日まで調査されました。この調査団は、人類学・法医学・医学・微生物学・植物館・理化学・保存科学・古代史学等の専門家が結集し、学際的に調査が行われています。この調査結果は、調査が行われた昭和25(1950)年8月30日に資金援助を行った朝日新聞社から『中尊寺と藤原四代』として公表されました。 初代:藤原清衡[1056(天喜4)-1128(大治3)] 第2代:藤原基衡[1105(長治2)-1157(保元2)] 第3代:藤原秀衡[1122(保安3)-1187(文治3)] 第4代:藤原泰衡[1155(久寿2)・1165(長寛3)-1189(文治5)](*伝聞としては、藤原忠衡のものとされていた) 藤原四代のミイラ[朝日新聞社(1973)『日本人類史展』より改変して引用] ◎鈴木 尚(1950)「遺体の人類学的観察」『中尊寺と藤原四代』、朝日新聞社、pp.23-44 本稿で、鈴木は5つに章立てして記載していますが、今回は「切創及び刺創と泰衡の問題」を解説します。 泰衡(忠衡)の首の切創と刺創[朝日新聞社編(1950)『中尊寺と藤原四代』より改変して引用] 2.切創及び刺創と泰衡の問題 (1)切創[番号は、上図に対応] ①前面:右眉の内側端より斜めに鼻を横切って下唇の中央より左寄りの所まで達する長さ約10cmの切創。鋭利な刀によると思われる。骨の断面の方向から、左前方から斬りつけられたと推定。 ②前面:左頬骨上の皮膚は楕円形に浅くそぎ取られている。 ③④後面:後頭部には皮膚が無く、骨が露出していた。外後頭隆起の左右に二個の刀創がある。形は円く、皿のように浅く窪む。太刀を頭の右上から左下に向かって骨すれすれに振り下ろしたと推定。 ⑤後面:③と④の右上に直径約4cmの円形をした骨の切創がある。太刀を頭の上方から下方に向かって振り下ろされたと推定。 ⑥後面:⑤に続いて右耳の直上より直前を通り、下顎の方に走る半円形の約16cmの切創である。この創は、1.5cm間隔で10針縫われている。 ⑦右側面:右耳の上方8cmの頭頂部には、前後に走る9cmの皮膚の切創がある。 ⑧左側面:左頭頂部には⑦と対称的な位置に前後に走る5cmの切創がある。 ⑨左側面:左耳の後方から耳の中央を横断して頬の丈夫に達する長さ9cmの切創がある。 (2)刺創 ・前面:眉間の左には縦1.8cm・横1.5cmの楕円形の孔がある。恐らく、射入孔である。 ・後面:後頭骨正中線より少し左に寄って第3切創(③)の真上に円い小孔がある。恐らく、射出孔である。 この刺創は、直径約1cm・長さ18cm以上の細く長い釘のような物を眉間から後頭に向かって打ち込んだと推定される。 (3)頸椎の切創 ・第1頸椎:異常は認められない。 ・第2頸椎:2箇所の切創がある。首をはねる際に、後方から2回太刀を加えたが失敗した際にできた創であると推定される。 ・第3頸椎:異常は認められない。 ・第4頸椎:この第4頸椎椎体の上面すれすれに切断された。 (4)結論 忠衡の切創は、3種類に分けられる。 1.後頭部の第2~4切創で、太刀を後頭部に平行に、上方より振り下ろした。恐らく、首を斬ろうとして失敗した創であろう。斬首が成功するまでに、7回太刀が加えられ、最後の2回で切断されたとすると、5回は失敗している。 2.両耳を切った創(第5及び第9)と平行して前後に走る頭頂部の創(第7及び第8)は、刑罰の意味から左右の耳を切り落とす目的の創であろう。 3.第1切創は、恐らく鼻をそぎ取る目的の創で、刑罰の意味を持っていたと推定される。 史実では、忠衡は兄の泰衡に殺されたとされているが処刑の記録は無い。一方、泰衡は家臣の河田次郎に殺されてその首が源 頼朝に差し出されている。頼朝は、前九年の役における安倍貞任の例にならって、泰衡の首を八寸釘によって釘打ちの刑に処した上でさらし首にしている。眉間と後頭部の創の寄りは18cm(約六寸)であるから、八寸釘を用いても二寸の余裕がある。したがって、忠衡とされている首は、実際は泰衡の首であると推定される。 |
中尊寺と藤原四代―中尊寺学術調査報告 (1950年) 中尊寺に所蔵されている藤原四代のミイラは、昭和25(1950)年に金色堂が補修される際に人類学者で東北帝国大学名誉教授の長谷部言人[1882-1969]を団長として組織された「藤原氏遺体学術調査団」により、昭和25(1950)年3月22日から同年3月31日まで調査されました。この調査団は、人類学・法医学・医学・微生物学・植物館・理化学・保存科学・古代史学等の専門家が結集し、学際的に調査が行われています。この調査結果は、調査が行われた昭和25(1950)年8月30日に資金援助を行った朝日新聞社から『中尊寺と藤原四代』として公表されました。 初代:藤原清衡[1056(天喜4)-1128(大治3)] 第2代:藤原基衡[1105(長治2)-1157(保元2)] 第3代:藤原秀衡[1122(保安3)-1187(文治3)] 第4代:藤原泰衡[1155(久寿2)・1165(長寛3)-1189(文治5)](*伝聞としては、藤原忠衡のものとされていた) 藤原四代のミイラ[朝日新聞社(1973)『日本人類史展』より改変して引用] ◎鈴木 尚(1950)「遺体の人類学的観察」『中尊寺と藤原四代』、朝日新聞社、pp.23-44 本稿で、鈴木は5つに章立てして記載していますが、今回は保存状態を解説します。 1.保存状態 (1)清衡 ①姿勢:棺内で仰臥伸展。 ②保存状態 ・全体:四体の中で最も保存状態が悪く、広範囲に白骨化している。 ・頭部:顔面部は、比較的よく保存されている。脳は残存していない。頭骨の主要三縫合は外面も内面も著しく癒着が進み、等に矢状縫合が著しい。後頭部の外後頭隆起は非常によく発達している。顔は長さが短く、頬骨は張り出しており頬がこけている。顎はあまり横に張っておらず、生前は五角形の短い顔をしていたと推定。眉間の隆起は男性としては弱い。死後に布のようなものを口腔内に詰めていたと推定。下顎骨は角前切痕がなく、動揺下顎である。 ・首及び胴部:胸部は前面も背面も軟部が無く、骨格化。骨格には、多くの老年性変化が認められる。甲状軟骨は、完全に化骨化。胸骨は、柄・体・剣状突起すべてが癒着しており、左第四肋軟骨の前端も化骨して胸骨に癒着していた。また、その他の肋軟骨も化骨が進んでいる。左右鎖骨は、中央部が肥厚し一見すると骨折が治癒したように見えるが左右対称であることから体質的特徴であろう。脊椎骨は第三胸椎以下は全部老年性の変形性関節症により骨の増殖が起こり癒着している。腹部は前面も背面も軟部があるが、前面の方が保存状態は良い。腹部内臓は無い。基衡や秀衡と異なり、痩せていたと推定される。 (2)基衡 ①姿勢:棺内で仰臥伸展。 ②保存状態 ・全体:清衡より保存状態は良い。頭部及び四肢末端が骨格化している以外は、全身軟部によって覆われている。 ・頭部:顔面は一部骨が露出しているが、大体皮膚に覆われている。頭骨三主縫合の癒合の状態は不明であるが、乳様後頭縫合は癒着が進行中。頬骨は清衡ほど横に張らないが、顎は張り頬はこけておらずでしもぶくれである。清衡に比べると顔は長い。眉間の隆起は弱く、鼻根は陥凹していない。鼻は清衡ほど隆起が強くない。歯列の咬合型式は鋏状咬合である。下顎では角前切痕が強く発達。 ・胴部:前面も背面も保存が良い。側面には虫害がある。首は太くて短い。胴の長さは四肢に比較して長い。胸は幅が広く、厚い。肩はいかり肩。肥満体質。長期間病臥していたとは思えず、死因は脳溢血等の病気で急死したと推定。肛門部は、鼠害を受けている。胸や腹腔には内臓はなく、内部に火葬人骨破片及び歯が認められた。レントゲンで見ると、脊椎骨の癒着はない。 (3)秀衡 ①姿勢:棺内で仰臥伸展。 ②保存状態 ・全体:清衡や基衡と比べて、虫害や鼠害があるが、全身の軟部はほぼ原形に近く保存されている。 ・頭部:頭部は顔の正中部に骨が露出しているだけで、他の部分は軟部で覆われているが皮膚はない。頭骨三主要縫合のうち、冠状縫合は離開しているが、矢状及びラムダ縫合は著しく癒着している。頬骨と頬骨弓は突出していないが、顎は横に張り、頬の肉はこけていないので、顔の全形はほぼ長めの六角形に近い。眉間の隆起と鼻根の陥凹は弱いが鼻背の高まりは強い。梨状口が露出しているが、形は細長い。眼窩の形はほぼ円形。レントゲンで見ると、下顎の角前切痕は強い。 ・首部と胴部:首は太くて短く両側は破損して大きな穴があいている。胴の前面は比較的保存がよいが、側面では左右共に腋窩に始まり下腹部に致広範囲な軟部の損傷を認める。胸部では、肋骨が数本露出しているが鼠害によるものと推定。背面は虫害が著しい。胸は幅広くて厚く、いかり肩と長い胴は父親の基衡と似ている。肥満型体質である。内臓の影もなく、古銭四個の他、火葬された人の歯が多数発見された。肛門部には、前後径五センチ・横径三.五センチの楕円形に拡大しており、死後長期間詰め物をしたためであると推定される。レントゲンで見ると、第十から第十二胸椎の間に癒着を認め、腰椎にも老年性変化である骨増殖がある。 (4)忠衡 ①姿勢:首のみで不明。 ②保存状態 極めて良く、皮膚・頭骨・頸椎も残存。第四頸椎で斬首されており、少なくとも、十六箇所の切創や刺創が認められた。後頭部で骨が露出する以外は、軟部はほぼ完全に保存されている。頭部には、九箇所の切創と二箇所の刺創がある。顔は肉付きがよく、頬もこけていない。顔の幅に比して、長さが短く、しもぶくれした丸顔。眉間の隆起は強くなく、鼻背にかけて緩やか弧を描き、鼻根の陥凹はない。歯列の咬合型式は鋏状。前歯の咬耗は比較的強いが、後歯は弱い。上下顎共に、第三大臼歯が萌出。下顎の角前切痕はあるが、基衡や秀衡ほどではない。 |