ウィルフリッド・ル・グロ・クラーク(Wilfrod Le Gros Clark)[1895-1971](オックスフォード大学のアーカイヴより引用)
ウィルフリッド・ル・グロ・クラークは、1895年6月5日に、イギリスのヘメル・ヘンプステッドで3人兄弟の3男として生まれました。父親は、聖職者でした。しかし、クラークが9歳の時に、母親を亡くすという悲劇を経験しています。
1912年にセント・トーマス病院医学校に入学し、1917年に卒業します。このセント・トーマス病院医学校は、父方の祖父、フレデリック・ル・グロ・クラーク(Frederick Le Gros Clark)[1811-1892]がかつて外科医として勤務していた学校でした。
やがて、第1次世界大戦が勃発し、クラーク兄弟に暗い影を落とします。長兄のビルはオックスフォード大学での勉学を切り上げて英国陸軍に入隊しますが、両目を負傷して盲目になりました。次兄のシリルも英国陸軍に入隊しますが、1915年に塹壕戦の恐怖から砲弾神経症(シェル・ショック)に罹ってしまいます。クラーク自身も、1918年に王立陸軍医療軍団に医官として徴兵され、第1次世界大戦中のフランスに送られます。しかし、クラークは、ここでジフテリアに罹り、静養のためにイギリスへ後送されました。その後、再びフランスやドイツで、医官として野戦病院に勤務しますが、戦傷兵士の手足の切断ばかりを行っていたそうで、あまりもの悲惨さに、軍歴の最後の方は記憶が無くなったそうです。
その後、体調が回復すると、外科医としての資格を取得するために母校へ戻りました。ちなみに、このセント・トーマス病院医学校は、東京慈恵会医科大学を創設した、海軍軍医の高木兼寛[1849-1920]が通った大学として有名です。
やがて、クラークに第1の転機が訪れます。クラークは、1920年に医官として東南アジアのボルネオ島北部にあるサラワクに赴任しました。第1次世界大戦の悪夢を、断ち切りたかったためだと言われています。ここには、クラークの実兄のシリル・ドラモン・ル・グロ・クラーク(Cyril Drummond Le Gros Clark)[1894-1945]が司政官として赴任していたのです。この東南アジアで、クラークは内科医兼外科医として勤務しながら、野生のサルに興味を持ち、ツパイやメガネザルの研究をしています。ただ、後に、悲劇が訪れます。第2次世界大戦の勃発で、サラワクを占領した日本軍により、兄のシリルは1945年に処刑されたのです。
1923年にクラークはセント・バーソロミュー病院医学校の解剖学リーダーに就任し、1927年には教授に昇任します。1930年には母校のセント・トーマス病院医学校の解剖学教授に就任しました。クラークはこの頃、東南アジアで収集したツパイやメガネザルの神経解剖の比較研究を行っています。
クラークに第2の転機が訪れました。1934年、オックスフォード大学医学部解剖学教授に就任したのです。ここで、クラークは、後に著名な人類学者となるソリー・ズッカーマン(Solly ZUCKERMAN)[1904-1993]を採用します。しかし、約10年の在籍で2人の人間関係が微妙になったと言われているようですが、事実はわかりません。ただ、少なくとも、学問上はかなり激しくやりあっていたようです。また、ズッカーマンの後任として、ジョセフ・シドニー・ワイナー(Joseph Sydney WEINER)[1915-1982]を採用し、後に、ピルトダウン人が偽物であるとあばくことになります。
クラークに第3の転機が訪れました。ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジの解剖学教授として赴任する話が舞い込んだのです。このポストには著名な人類学者のグラフトン・エリオット・スミス(Grafton Elliot SMITH)[1871-1937]が病気のために1936年に早期に引退して、ハーバート・ヘンリー・ウーラード(Herbert Henry WOOLLARD)[1889-1939]がその後任に就任していました。ウーラードは、スミスと同じオーストラリア出身でメルボルン大学医学部出身でした。ところが、ウーラードは狭心症に罹っていましたがそれを無視して仕事に没頭しており、1939年1月18日に大学で講義中に心臓発作で倒れ、急逝してしまいます。享年49歳でした。そのウーラードの後任として、クラークに白羽の矢が立てられたのです。クラークにとっては、前任者のスミスやウーラードが研究環境を整えたロンドン大学の解剖学教室は魅力的でしたが、家族はオックスフォードを去りがたく、受諾の返事が延び延びになり悩んだ末にロンドン大学への移籍を承諾します。ところが、まさしく、オックスフォードからロンドンへ移住しようとしていた時の1939年9月1日に、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が勃発しました。ロンドン大学では、戦争終結まで、すべてのポストを凍結することになり、結局、クラークの移籍は実現しませんでした。
しかし、この戦争で、イギリス政府は莫大な予算をオックスフォード大学につけて、戦争で負傷した兵士の皮膚・筋肉・神経を治癒する研究をすすめることになり、クラークは結局オックスフォード大学に留まることになったのです。このことは、オックスフォード大学にとっては良かったかもしれません。それは、人類学研究をクラークが続け、多くの学生を育てたからです。もし、ロンドン大学に行っていれば、ロンドンはドイツ軍空軍による空襲やV1やV2ロケットによる空襲を受け、研究どころではなかったでしょうから・・・。実際、ロンドン大学の解剖学教室は戦争中、疎開しています。クラークは、オックスフォード大学に1962年まで勤務し引退しました。引退後もオックスフォードに住み続けたクラークは、亡くなる寸前まで図書館で研究していたそうです。
クラークの研究は、霊長類の比較解剖・化石人類の研究・ピルトダウン人の研究と幅広く行われました。クラークが執筆した本には、以下のようなものがあります。
- Clark(1949) "History of the Primates"[このブログで紹介済み]
- Clark(1955) "The Fossil Evidence for Human Evolution"[このブログで紹介済み]
- Clark(1967) "Man-Apes or Ape-Man? The Story of Discoveries in Africa"[このブログで紹介済み]
- Clark(1968) "Chant of Pleasant Exploration"[このブログで紹介済み]
クラークは、1971年6月28日、76歳で生涯を閉じました。この時代の学者と同様に、2度の世界大戦に人生を振り回されましたが、霊長類と化石人類の研究に大きな足跡を残しています。
*ウィルフリッド・ル・グロ・クラークに関する文献として、以下のものを参考にしました。
・Wilfrid Le Gros Clark (1968) "Chant of Pleasant Exploration", Livingstone.
・Michael H. Day (1997) 'Clark (Sir) Wilfrid Edward Le Gros Clark (1895-1971)', "History of Physical Anthropology: An Encyclopedia, Vol.1"(Frank Spencer ed.), Garland Publishing, p.285-p.288.
・Bernard Wood (2008) 'Sir Wilfrid Le Gros Clark: The Making of a Paleoanthropologist', "Elwyn Simons: A Search for Origins"(J. G. Fleagle & C. C. Gilbert eds.), p.19-p.33.