人類学のススメ

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世界の人類学者6.レイモンド・ダート(Raymond DART)[1893-1988]

2011年12月06日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

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ダート1.レイモンド・ダートとタウング・ベイビー(1925年)[Tobias(1984)、『Dart, Taung and the Missing Link』、p.30より]

 レイモンド・ダートは、1893年2月4日、オーストラリアのブリスベーン近郊にて生まれました。やがて、クイーンズランド大学で生物学を学び、1913年に学士号を、1915年に修士号を取得しました。その後、シドニー大学医学部に1914年に入学し、1917年に卒業しています。

 第1次世界大戦が勃発すると、ダートはオーストラリア陸軍の軍医として1918年にイギリスで、1918年~1919年にフランスにて軍務につきました。1919年に、ダートに最初の転機が訪れました。シドニー大学医学部出身の先輩でマンチェスター大学医学部解剖学教授だった、著名な人類学者、グラフトン・エリオット・スミス(Grafton Elliot SMITH)[1871-1937]がロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジの解剖学教授に転出すると、スミスの元でシニア・デモンストレーターに任命されたのです。

 1920年には、スミスの推薦で、アメリカのワシントン大学セントルイス校医学部に留学し、解剖学者ロバート・テリー(Robert TERRY)[1871-1966]の元で研究を行いました。テリーは、法医骨格標本を多数収集していましたが、これは、ダートに強い影響を与え、後にダートも同様な法医骨格標本を収集しています。ちなみに、ダートは、このアメリカ留学中に医学生、ドーラ・ティレーに出会い二人は後に結婚をします。

 1922年、ダートに2番目の転機が訪れました。1922年7月1日、南アフリカのウィットワーテルスランド大学医学部解剖学教授が辞任します。この後任として、グラフトン・エリオット・スミスは、ダートを推薦します。ダートはこれをしぶしぶ受け入れ、1922年にイギリスを船で旅立ち、1923年1月に南アフリカに到着しました。ダートは、当時のことを、まるで島流しにあったようだったと回想しています。実際、大学とは名ばかりで、設備は整っておらず、すべて一から作っていかなければなりませんでした。

 1924年、ダートに3番目の転機が訪れました。1924年11月、南アフリカのタウングのバクストン採石場で、不思議な化石が発見されたのです。後に、「タウング・ベビー」と呼ばれる人類化石でした。この化石は、頭蓋骨の一部と下顎骨が残存しており、脳の鋳型まで残っていました。1925年に、ダートは、この化石に「アフリカの南のサル」という意味の「アウストラロピテクス・アフリカヌス」という学名を命名しました。

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ダート2.タウング・ベイビー化石を、ルイス・リーキー(右)に見せているレイモンド・ダート(左)[Tobias(1984)、『Dart, Taung and the Missing Link』、p.44より]

 しかし、1925年2月7日付けでイギリスの科学雑誌「ネイチャー」に発表したダートの論文は、世界中で酷評を受けます。しかも、かつての恩師のエリオット・スミスやアーサー・キースからさえも酷評を受けました。曰く、人類化石ではなく、サルの化石だというのです。

 ダートが発表した化石は、第1大臼歯が萌出したばかりの子供の骨でした。実は、子供の頃は、3種の大型類人猿のオランウータン・ゴリラ・チンパンジーは、皆、良く似通っています。世界の人類学者は、まだ成長してどのようになるかわからない子供の化石に、独立した新しい学名を命名したことを批判していたのです。実際、アーサー・キースはチンパンジーの子供の化石と考えていました。後に、キースは、当時の自分は間違っていたと懺悔しています。

 ダートは、タウング・ベイビーに関する形態記載をイギリスの権威ある雑誌に投稿しますが、却下されます。その歯に関する論文は、1934年に日本の解剖学雑誌に掲載されました。

 世界中で新化石の発見を否定されたダートは、失意のうちに、人類化石研究を断念し、大学医学部を発展させることに打ち込みます。ダートの功績が認められるのは、約20年後に同じ南アフリカで成人のアウストラロピテクス・アフリカヌスが発見されるまで待たねばなりませんでした。この時の主役は、ダートよりも年上のロバート・ブルームでした。

 ようやく、業績が世界に認められ始めた1959年には、『ミッシングリンクとの冒険』(Adventures with the Missing Link)を発表し、1つの化石に関わったことから振り回された半生についてまとめています。ダートは、すでに66歳になっていました。

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ダート3.『ミッシングリンクとの冒険』(Adventures with the Missing Link)表紙[Dart & Craig(1959)]

 1983年には、レイモンド・ダートの90歳を祝う会と記念するシンポジウムがダートの医学部における後継者のフィリップ・トバイアス(Philip TOBIAS)[1925-]による主催で南アフリカにて開催され、世界中から人類学者が集まりました。

 トバイアスは、シンポジウムの結果を、2冊の本にまとめています。1冊は、1984年に出版された『ダート、タウングとミッシングリンク』(Dart, Taung and the Missing Link)と1985年に出版された『ホミニッドの進化』(Hominid Evolution)です。

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ダート4.『ダート、タウングとミッシングリンク』(Dart, Taung and the Missing Link)表紙[Tobias(1984)]

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ダート5.『ホミニッドの進化』(Hominid Evolution)表紙[Tobias(1985)]

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ダート6.90歳を祝う会でのレイモンド・ダート(中)、ダートの医学部における後継者フィリップ・トバイアス(左)、マカパンスガットやスタルクフォンテインで長年発掘調査を行ったアラン・ヒューズ(右)[Tobias(1984)、『Dart, Taung and the Missing Link』、p.50より]

 レイモンド・ダートは、このシンポジウムの5年後の1988年11月22日、95歳で波乱万丈の人生を閉じました。