人類学のススメ

人類学の世界をご紹介します。OCNの「人類学のすすめ」から、サービス終了に伴い2014年11月から移動しました。

日本の人類学者36.清野謙次(Kenji KIYONO)[1885-1955]

2012年09月30日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Kenjikiyono

清野謙次(Kenji KIYONO)[1885-1955][清野謙次先生記念論文集刊行会編(1956)『随筆・遺稿』より改変して引用](以下、敬称略。)

 清野謙次は、1885年8月14日に、岡山県岡山市で生まれました。父親の清野 勇は、岡山県立医学校長兼病院長(現・岡山大学医学部)や大阪府立医学校長(現・大阪大学医学部)等を歴任した医学者です。その後、大阪府立北野中学校・旧制第六高等学校を卒業し、京都帝国大学医学部に入学します。1909年に、京都帝国大学医学部を卒業すると、すぐに医学部病理学教室助手に就任しました。1912年には、ドイツ留学をしフライブルグ大学で生体染色の研究を行います。しかし、ヨーロッパでは第1次世界大戦が勃発したために、留学を切り上げて1914年に帰国し、母校の病理学教室講師に就任しました。1916年には医学博士号を取得し、病理学教室助教授に昇任します。1921年には、母校の微生物学講座教授に昇任しました。1922年に「生体染色研究」により、帝国学士院賞を受賞しています。また、1924年には、母校の病理学教室教授を兼務し、1928年からは専任となりました。

 1920年代初頭から、清野謙次は発掘人骨の研究に着手します。この頃、京都帝国大学文学部の考古学者・濱田青陵(濱田耕作)[1881-1938]、医学部解剖学教室の人類学者・足立文太郎[1865-1945]、同じく医学部解剖学教室の人類学者・金関丈夫[1897-1983]等と共同研究を行いました。清野謙次達が収集した人骨は、縄文時代人骨・古墳時代人骨・アイヌ人骨等、約1,500体にも及びます。

 ところが、大事件が起きました。寺社仏閣からの経典や古文書を窃盗したとして、一時逮捕拘留されたのです。1938年、清野謙次は京都帝国大学を辞職しました。寺田和夫(1975)の『日本の人類学』(思索社)には、「『日本考古学・人類学史』上・下巻で引用している所蔵の江戸時代文献の量、1,500体という人骨の蒐集から想像されるように、蒐集癖、所有欲のきわめて強い人であったようだ。」と書かれています。当時、京都帝国大学総長だった濱田青陵(濱田耕作)は、その事件による心労からか1938年7月25日に急逝しました。その後、しばらくは清野コレクション等の整理のため京都に留まりましたが、1941年には上京して太平洋協会の嘱託に就任します。この太平洋協会は、1938年に設立された国策・調査研究機関で、その理事に就任していた鶴見祐輔[1897-1980]は、清野謙次の親戚であったと言われています。また、この頃731部隊の病理解剖の最高顧問も務めていました。731部隊の責任者の石井四郎[1892-1959]陸軍軍医中将は、京都帝国大学医学部での清野謙次の教え子です。

 1948年、清野謙次は厚生科学研究所の所長に就任します。この人事には、緒方知三郎[1883-1973]の尽力があったと言われています。ちなみに、緒方知三郎は、著名な蘭学者・緒方洪庵の孫にあたる医学者で、東京大学教授を経て東京医科大学の初代学長に就任しています。1950年、清野謙次は東京医科大学教授に就任しました。

 清野謙次が書いた著書や論文は膨大ですが、主な著書は以下の通りです。

  • 清野謙次(1924)『日本原人の研究』、岡書院
  • 清野謙次(1928)『日本石器時代人研究』、岡書院[このブログで紹介済み]
  • 清野謙次・金関丈夫(1928)『人類起源論』、岡書院[このブログで紹介済み]
  • 清野謙次(1943)『太平洋民族学』、岩波書店[このブログで紹介済み]
  • 清野謙次(1943)『増補版・日本原人之研究』、萩原星文堂[このブログで紹介済み]
  • 清野謙次(1944)『日本人種論変遷史』、小山書店[このブログで紹介済み]
  • 清野謙次(1946)『日本民族生成論』、日本評論社[このブログで紹介済み]
  • 清野謙次(1949)『古代人骨の研究に基づく日本人種論』、岩波書店[このブログで紹介済み]
  • 清野謙次(1950)『人類の起源』、弘文堂[このブログで紹介済み]
  • 清野謙次(1953)『日本考古学・人類学史:上巻』、岩波書店[このブログで紹介済み]
  • 清野謙次(1954)『日本考古学・人類学史:下巻』、岩波書店[このブログで紹介済み]
  • 清野謙次(1968)『日本貝塚の研究』、岩波書店[このブログで紹介済み]

Kiyonobooks

清野謙次が書いた本(*画像をクリックすると、拡大します。)

 清野謙次は、1955年12月27日、東京都内の自宅で心臓病のため急逝しました。死後、12月28日に遺体は東京大学医学部にて、名誉教授の緒方知三郎等の執刀により病理解剖されています。その結果、長年、数回にわたる心筋梗塞が認められました。発掘人骨の研究を中心としながら、人類学に捧げた一生だと言えるでしょう。


人類学史の本34.随筆・遺稿(故清野謙次先生記念論文集第3輯)

2012年09月29日 | H1.人類学史の本[History of Anthropol

Kiyono1956

清野謙次先生記念論文集〈第3輯〉随筆・遺稿 (1956年)
価格:(税込)
発売日:1956

 この本は、元京都帝国大学の人類学者・清野謙次[1885-1955]さんを偲んで編纂された随筆と遺稿集です。1956年に、清野謙次先生記念論文集刊行会により1956年に出版された非売品です。

 本書の内容は、以下のように、全14章からなります。

  1. 系譜と研究歴
  2. 年少期の考古研究(中学及び六高時代)
  3. 京都大学及京大病理入室
  4. フライブルグ留学
  5. 生体染色発展期、帝国学士院賞
  6. 微生物学教室、アショッフ来朝
  7. 第三次渡欧・独文生体染色論
  8. 古人骨収集
  9. 写経と写本跋文集
  10. 太平洋の人類学と民族学
  11. 大三部作(霞浦時代)
  12. 告別の旅
  13. 剖検・回想座談会・葬儀
  14. 挨拶

 本書は、人類学者・清野謙次さんの生涯がまとめられており、人類学史として貴重な本です。


日本人の起源の本・古典23.日本貝塚の研究

2012年09月28日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

Kiyono1969

日本貝塚の研究 (1969年)
価格:¥ 8,400(税込)
発売日:1969

 この本は、元京都帝国大学の人類学者・清野謙次[1885-1955]さんが主に日本の縄文時代遺跡と出土遺物について書いたものです。しかし、この本の出版を清野謙次さんは見ることができませんでした。清野謙次さんが1955年に死去した後で、残された遺稿を「清野謙次先生遺稿刊行会」が江坂輝弥さんと芹沢長介さんに依頼をして日の目を見ています。ただ、色々とあったようで、本書は清野謙次さんの死後14年たった1969年に岩波書店から出版されました。

 本書の内容は、以下のように、地域毎に全8部からなります。

  1. 九州貝塚群
  2. 中国及び畿内貝塚群
  3. 東海道貝塚群
  4. 越佐貝塚群
  5. 霞ヶ浦沿岸の貝塚群
  6. 東北地方貝塚群
  7. 北海道貝塚群
  8. オホーツク海沿岸貝塚群

 本書は、当初、江坂輝弥さん編による上巻(西日本編:第1部から第3部)と芹沢長介さん編による下巻(東日本編:第4部から第8部)として出版する予定だったそうです。残された遺稿は、200字詰め原稿用紙で約4,000枚以上・挿図と写真も驚くべき分量で、整理と編集は1956年に開始され1958年に大体の作業を終えていたそうですが、様々な事情から出版は1969年になりまた上下巻に分けるのではなく、1冊にまとめられたと「編集後記」に書かれています。

 本書には、出土人骨の記載はあまりありませんが、遺跡の出土状況や遺物が掲載されており大変、参考になります。


人類学史の本33.日本考古学・人類学史(上下巻)

2012年09月27日 | H1.人類学史の本[History of Anthropol

Kiyono1954

日本考古学・人類学史〈上巻〉 (1954年)
価格:(税込)
発売日:1954

Kiyono1955

日本考古学・人類学史〈下巻〉 (1955年)
価格:(税込)
発売日:1955

 この本は、元京都帝国大学の人類学者・清野謙次[1885-1955]さんが、日本の考古学史及び人類学史について書いたものです。上下の2巻からなります。上巻が1954年に、下巻が1955年に、岩波書店から出版されました。

 本書の内容は、以下の通りです。

◎上巻

第1部.日本太古(先史)文化研究史

  • 1.序説
  • 2.遺跡研究史
  • 3.石器研究史
  • 4.金石併用期及原史時代石製品研究史
  • 5.土器研究史
  • 6.特殊遺物
  • 7.日本に於ける人類学及考古学の創成
  • 8.学問研究の連絡機構
  • 9.明治元年以前に発見せられたる石器時代遺物発見地名表

 ・附録:特殊著書と特殊人物に関する論考

◎下巻

第2部.日本上古(原始)文化研究史

  • 1.江戸時代以前に於ける古墳関係記事
  • 2.江戸時代に於ける古墳発掘記録の記載形式
  • 3.上古の墓制と葬送との研究
  • 4.埴輪研究史
  • 5.石製遺品の研究史
  • 6.墓誌墓碑の発見せられたる古墳
  • 7.古墳発掘の人骨
  • 8.古墳と迷信
  • 9.遺物研究史
  • 10.古墳発掘地名表と古墳研究書
  • 11.日本各地に於ける古墳記録

 ・別録:時世と学問

 本書は、江戸時代以前からの考古学と人類学の歴史が書かれており、大変、参考になります。


日本人の起源の本・古典22.人類の起源

2012年09月26日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

Kiyono1950

 この本は、元京都帝国大学の人類学者・清野謙次[1885-1955]さんが、人類進化や日本人の起源について書いたものです。1950年に、アテネ新書として弘文堂から出版されました。

 本書の内容は、以下のように、全9題からなります。

  1. 人類起源論に関する史的回顧
  2. 人獣の差
  3. 人体に生ずる不調和
  4. 先覚者は淋し
  5. 人類化石の探究:史前人類とその文化
  6. フランツ・ワイデンライヒ
  7. 旧石器時代の大遺跡プシェドモスト
  8. 倒叙日本民族自然史
  9. 原始古習俗としてのミイラ製作

 本書は、内容も古いのですが、元早稲田大学の直良信夫[1902-1985]さんが発見した葛生人骨を実際に見た感想が記載されており、参考になります。


日本人の起源の本・古典21.古代人骨の研究に基づく日本人種論

2012年09月25日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

Kiyono1949

古代人骨の研究に基づく日本人種論 (1949年)
価格:(税込)
発売日:1949

 この本は、元京都帝国大学の人類学者・清野謙次[1885-1955]さんが、清野研究室で行った発掘調査で出土した人骨についてまとめたものです。この本の箱には、清野謙次さんの名前だけが記載されていますが、中表紙には、清野謙次・杉山繁輝・三宅宗悦・中山英司の4名の名前が記載されています。なお、本書は、本文編と図版編とに分かれており、図版編には出土人骨の写真90枚が含まれます。

 本書の内容は、本文編は、以下のように全10部からなります。また、附録として人骨測定表が巻末にあります。

  1. 日本人種論に関する歴史的回顧
  2. 日本古代人骨発掘史
  3. 日本人種論の研究に関する清野研究室の回顧
  4. 日本古代人骨の埋葬状態
  5. 日本古代人骨に現はれたる人為的変化
  6. 日本石器時代の疾病:日本石器時代の骨及び歯に現はれたる病的変化
  7. 古代人骨の計測
  8. アイヌ人に関する二三の考察
  9. 日本人口史に関する考察
  10. 総括及び結語

 図譜編の内容は、以下のように全4部からなります。

  1. 遺跡及び古代人骨の出土状態(図版1-2)
  2. 病態古代人骨(図版3-13)
  3. 人骨に判出する遺物(図版14-16)
  4. 常態古代人骨(図版17-90)

 本書は、清野謙次研究室の集大成とも言える本で、大変、参考になります。なお、本書は、限定版で720しか印刷していません。古本屋で購入する際は、2冊揃っているかどうかを確認して購入する注意が必要です。ちなみに、私も、本郷のある古本屋で購入しました。番号が付けられており、164とあります。


日本人の起源の本・古典20.日本民族生成論

2012年09月24日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

Kiyono1946

日本民族生成論 (1946年)
価格:(税込)
発売日:1946

 この本は、元京都帝国大学の人類学者・清野謙次[1885-1955]さんが、自身が発掘調査を行って出土した人骨について様々な項目に分けて書いたものです。1946年に、日本評論社から出版されました。

 本書の内容は、以下のように、全10編からなります。

  1. 日本人種論の推移
  2. 日本人種論に対する余等が研究の回顧
  3. 人種の差別と人種の優劣
  4. 日本古人骨の埋葬状態
  5. 日本古人骨に現はれたる人為的変化
  6. 日本石器時代人骨に現はれたる病的変化(日本石器時代の疾病)
  7. 古人骨の計測
  8. アイヌ人に関する諸問題
  9. 日本人口史に関する考察
  10. 総括及び結論

 本書は、多くの発掘調査を行い多数の発掘人骨を収集した清野謙次さんが、それらをまとめたもので、大変、参考になります。


日本の人類学者35.松本彦七郎(Hikoshichiro MATSUMOTO)[1887-1975]

2012年09月23日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Hikoshichiromatsumoto1

松本彦七郎(Hikoshichiro MATSUMOTO)[1887-1975][松本子良(2003)『理性と狂気の狭間で』より改変して引用](以下、敬称略。)

 松本彦七郎は、1887年6月9日、栃木県小山市で生まれました。やがて、栃木県立二中・第一高等学校を経て、1911年に東京帝国大学理学部動物学科を卒業します。当時は、クモヒトデ類の分類学研究を行い、新種の記載も行いました。後に、1921年には、クモヒトデ類の研究により、帝国学士院賞を受賞しています。

 松本彦七郎は、1914年に、東北帝国大学理学部地質鉱物学教室講師に就任します。1920年に助教授に昇任し、イギリス・アメリカ・ドイツ留学を経て、1922年には教授に昇任しました。この頃、松本彦七郎は、宮城県周辺の貝塚を分層法を用いて層位毎に発掘調査を行っています。ちなみに、この分層法の概念は、国内では1905年に横浜三ツ沢貝塚の発掘調査を行った、イギリスのニール・ゴードン・マンロー(Neil Gordon MUNRO)[1863-1942]も指摘していたと言われています。松本は、次々と貝塚の発掘調査を行い、論文を発表しました。やがて、この概念は、当時、東北帝国大学医学部解剖学教室の長谷部言人[1882-1969]の下で副手を務めていた山内清男[1902-1970]に大きな影響を与え、山内は後に縄文土器編年を集大成しています。

 松本彦七郎は、『地質学雑誌』や『動物学雑誌』等に多くの論文を発表していますが、『人類学雑誌』に発表した主な論文は、以下の通りです。

  • 松本彦七郎(1918)「日本石器時代人類に就て」『人類学雑誌』、第33巻第9号、pp.245-263
  • 松本彦七郎(1919)「豪州タルガイの化石人頭骨」『人類学雑誌』、第33巻第5号、pp.132-137
  • 松本彦七郎(1919)「陸前國實ヶ峰遺跡の分層的小発掘成績」『人類学雑誌』、第34巻第5号、pp.161-166
  • 松本彦七郎(1919)「宮戸島里濱介塚の分層的発掘成績」『人類学雑誌』、第34巻第9号、pp.285-315
  • 松本彦七郎(1919)「宮戸島里濱介塚の分層的発掘成績(続)」『人類学雑誌』、第34巻第10号、pp.331-344
  • 松本彦七郎(1920)「二三石器時代遺跡に於ける抜歯風習の有無及様式に就て」『人類学雑誌』、第35巻第3・4号、pp.61-83
  • 松本彦七郎(1922)「二三石器時代古式遺跡に於ける抜歯風習に就て」『人類学雑誌』、第37巻第8号、pp.243-254
  • 松本彦七郎(1927)「陸前國気仙郡蛇王洞窟の石器時代遺跡」『人類学雑誌』、第42巻第2号、pp.55-58
  • 松本彦七郎(1928)「陸前國気仙群の若干介塚の時代相乃至式別」『人類学雑誌』、第43巻第9号、pp.407-414
  • 松本彦七郎(1929)「陸前國名取郡増田町十三塚の石器時代及直後遺跡」『人類学雑誌』、第44巻第9号、pp.452-458
  • 松本彦七郎(1930)「仙台市大窪谷地愛宕下切通上古墳出土石器時代遺物」『人類学雑誌』、第45巻第1号、pp.40-41
  • 松本彦七郎(1933)「土器群よみ見る集式に二型あり」『人類学雑誌』、第48巻第9号、pp.576-577

 ところが、悲劇が突然訪れました。1933年3月31日付けで松本彦七郎は、大学から休職を命ぜられます。その後も、大学には通っていたそうですが、2年後の1935年3月30日付けで休職満期により退職させられてしまいました。この休職と退職の背景には色々と事情があるようですが、松本彦七郎が当時は国内で認められていなかった旧石器時代の存在を指摘したからだと言われています。戦前の皇国史観が強い時代には、認められなかった考え方でした。実際、旧石器に関する論文をまとめて発表しようとしたそうですが、却下されたと言われています。この大論文は、空襲を避けて自宅の庭に埋めてあったそうですが、雨によりその大半は焼却処分されました。その内容を確認できないのが残念です。

 戦前の日本では、1931年に兵庫県明石市で直良信夫[1902-1985]が右寛骨を発見していましたが、認められてはいませんでした。国内の旧石器時代の存在は、群馬県岩宿遺跡で1946年に相沢忠洋[1926-1989]が石器を発見し、1949年に明治大学の杉原荘介[1913-1983]や芹沢長介[1919-2006]等による発掘調査で初めて存在が認められています。

 東北帝国大学を退職した松本彦七郎は、仙台市内の東北高等学校で教職を得て糊口をしのぎました。1954年には、花泉遺跡の発掘調査を行っています。やがて、復帰する道が開けました。1955年に福島県立医科大学生物学教授に就任したのです。松本は、この時、68歳になっていました。

Hikoshichiromatsumoto2

晩年の松本彦七郎[東京大学総合研究博物館のホームページより引用]

 松本彦七郎は、1975年9月1日に波乱万丈の人生を閉じました。もしも、生まれた時代が異なっていれば違った人生があったかもしれません。日本国内の旧石器存在の可能性について言及した直良信夫や相沢忠洋は、あまり専門的教育を受けていませんでした。その点、この二人は、既成概念にとらわれなかったのかもしれません。しかし、松本彦七郎は、専門的教育を受けていましたが、自由な発想が出来た研究者だったのでしょう。その研究の足跡は、専門の古生物学にとどまらず、動物学・人類学・考古学・植物学にまで及んでいます。翻弄された人生の中で、晩年の穏やかな表情の写真には自分の主張が認められた満足感に満ちあふれてるように見えました。

Matsumoto2003

松本子良(2003)『理性と狂気の狭間で』表紙

*松本彦七郎に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 鈴木公雄(1984)「松本彦七郎論」『縄文文化の研究10.縄文時代研究史』、雄山閣出版、pp.224-231
  • 松本子良(2003)『理性と狂気の狭間で』(自費出版) 

人類学史の本32.理性と狂気の狭間で

2012年09月22日 | H1.人類学史の本[History of Anthropol

Matsumoto2003

理性と狂気の狭間で―松本彦七郎東北帝国大学理学部教授退職に到る経緯について (1985年)
価格:(税込)
発売日:1985-05

 この本は、元東北帝国大学理学部の古生物学者・松本彦七郎[1887-1975]さんのご子息の松本子良さんが、父親について書いたものです。副題には、「松本彦七郎東北帝国大学理学部教授は如何にして、不当に強制退職処分に付せられたか」とあります。1985年に前編・後編として自費出版され、2003年に合本で自費出版されました。私は、元東京大学の人類学者・渡辺直経[1919-1999]先生からこの本の存在を教えていただきましたが、長い間入手できませんでした。しかし、数年前にようやく入手することができました。

 本書の内容は、以下のように前後編全13章と付録からなります。

◎前編

  • まえがき
  • 第1章.事件のあらすじ
  • 第2章.母と矢部教授、小林理学部長との接触
  • 第3章.事件の詳述
  • 第4章.名誉回復の足取り
  • 第5章.事件の周囲の人々
  • 第6章.最後に残る疑問について
  • 第7章.父は何故沈黙を守ったのか

◎後編

  • 第1章.何故後編を書くのか
  • 第2章.処分にかかわる資料の存在とその内容とについて
  • 第3章.父の諸論文について
  • 第4章.一葉の記念写真は何を物語るか
  • 第5章.東北帝国大学内部の声
  • 第6章.父の旧石器時代の土器について

付録.怪文書「本邦鮮新系上部及洪積系の化石文化式別大要」

 松本彦七郎さんは、古生物学者として著名ですが、考古学の世界では日本で初めて分層法による発掘を行った学者として、人類学の世界では多くの縄文時代貝塚を発掘して縄文時代人骨を研究した学者として有名です。

 本書は、1914年に東北帝国大学理学部地質鉱物学教室講師・1920年に同助教授・1922年に同教授として活躍した松本彦七郎さんが、なぜ、1933年に休職を命じられ1935年に休職満期で退官したかについて書かれており、大変、参考になります。


雑誌「ドルメン」25.第3巻第4号

2012年09月21日 | G4.人類学の雑誌:ドルメン[Dolmen]

Dolmen25

 雑誌『ドルメン』は、1932年4月に創刊された雑誌です。当時の、人類学・考古学・民俗学等の動向がわかるものです。ちなみに、「ドルメン」の意味は、支石墓のことです。この雑誌は、岡 茂雄[1894-1989]が1924年に岡書院を創業して、人類学や考古学を支援する意味で創刊されました。ちなみに、岡 茂雄は、著名な民族学者の岡 正雄[1898-1982]の兄です。アマゾンで検索しましたが、ヒットしませんでしたのでリンクさせていません。

 第3巻第4号は、1934年4月に出版されました。本号の表紙は、南洋ヤップ島風景です。本号の内容は、以下の通りです。但し、目次の順に打ち込みましたが、実際の頁順とは異なります。なお、目次には現在では不適切な表現が含まれている場合がありますが、当時のままとしていることをご了承下さい。

  • 埴輪窯阯の発掘調査(後藤守一)
  • 雑誌叢欄
  • 學界彙報
  • 東京人類学会創立五十年記念大会順序書
  • 「女」の比較言語學的考察(小林英夫)
  • きしやと民家(小林行雄)
  • 井泉と塚(井上頼壽)
  • アイヌ土俗品解説2(名取武光)
  • 幡多郡の方言(永橋卓介)
  • 奄美大島の古墳(三宅宗悦)
  • 偽せ物にも箔がついた話二題(斎東野人)
  • 清の太祖と煙突(村田治郎)
  • 桃色がゝつた慶州の伝説(山中鹿六)
  • 遠路老妃哉寸話(中御門未戌)
  • 美濃山古墳発掘詠(小川五郎)
  • 綾織の巨石はドルメンではなかろうか(高田竹治)
  • 関東石器時代遺跡系譜1(八幡一郎)
  • 弥生式土器3(森本六爾)
  • 近郊考古名所図絵2(大場磐雄)
  • 稲の刈り方(山内清男)
  • 新彊とアフカニスタン(陶存厚)
  • 陝西省内の秦漢遺跡大発掘の計画並に陝西考古会の成立(陶存厚)
  • 土器石器土俗品の写真4(武田久吉)

Dolmen25c

雑誌「ドルメン」第3巻第4号目次(*画像をクリックすると、拡大します。)


雑誌「ドルメン」24.第3巻第3号

2012年09月20日 | G4.人類学の雑誌:ドルメン[Dolmen]

Dolmen24

 雑誌『ドルメン』は、1932年4月に創刊された雑誌です。当時の、人類学・考古学・民俗学等の動向がわかるものです。ちなみに、「ドルメン」の意味は、支石墓のことです。この雑誌は、岡 茂雄[1894-1989]が1924年に岡書院を創業して、人類学や考古学を支援する意味で創刊されました。ちなみに、岡 茂雄は、著名な民族学者の岡 正雄[1898-1982]の兄です。アマゾンで検索しましたが、ヒットしませんでしたのでリンクさせていません。

 第3巻第3号は、1934年3月に出版されました。本号の表紙は、英国エメズブリーのストーン・ヘンヂです。本号の内容は、以下の通りです。但し、目次の順に打ち込みましたが、実際の頁順とは異なります。なお、目次には現在では不適切な表現が含まれている場合がありますが、当時のままとしていることをご了承下さい。

  • 佛像に表現された人種的特徴(北村直躬・石崎達三)
  • 雑誌叢欄
  • 學界彙報
  • 但釜山考古學界報
  • 追儺に就いて:附・節分諸行事(今井啓一)
  • 戌歳に因んだ狗の伝説(三吉朋十)
  • 新羅五系巨人考(山中鹿六)
  • 和算の進歩を物語る絵馬(上月三郎)
  • 大和丹波市町の遺風(犬井剣二)
  • 神戸附近の狐の話(辰井 隆)
  • 隠れたる石神(菅野青顔)
  • 採集旅行狂歌の数々(八木静山)
  • 穴狩(知里真志保)
  • 渡海人定(佐藤虎雄)
  • 青丘老婦抄二景(有光廣穣)
  • ネオンの悪戯(小田北畝)
  • 東亜大陸に於ける洪積世人類の足跡(直良信夫)
  • 石鏃に就いて(赤堀英三)
  • 弥生式土器に関する考察:角形把手よりみたる(高橋直一)
  • 原史時代の石棺と飛騨國荘川白川両村地方の民家(林 魁一)
  • 満州から3(島田貞彦)
  • めづらしき発掘(伊藤生)
  • 蘇米考古学探検(陶存厚)
  • 骨董の奇禍(伊藤生)
  • 御紋石(弘津史文報)
  • 土器石器土俗品の写真3(武田久吉)

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雑誌「ドルメン」第3巻第3号目次(*画像をクリックすると、拡大します。)


雑誌「ドルメン」23.第3巻第2号

2012年09月19日 | G4.人類学の雑誌:ドルメン[Dolmen]

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 雑誌『ドルメン』は、1932年4月に創刊された雑誌です。当時の、人類学・考古学・民俗学等の動向がわかるものです。ちなみに、「ドルメン」の意味は、支石墓のことです。この雑誌は、岡 茂雄[1894-1989]が1924年に岡書院を創業して、人類学や考古学を支援する意味で創刊されました。ちなみに、岡 茂雄は、著名な民族学者の岡 正雄[1898-1982]の兄です。アマゾンで検索しましたが、ヒットしませんでしたのでリンクさせていません。

 第2巻第12号は、1934年2月に出版されました。本号の表紙は、メキシコ・マヤの繪暦です。本号の内容は、以下の通りです。但し、目次の順に打ち込みましたが、実際の頁順とは異なります。なお、目次には現在では不適切な表現が含まれている場合がありますが、当時のままとしていることをご了承下さい。

  • 人種型とは何ぞや(今村 豊)
  • 雑誌叢欄
  • 學界彙報
  • 「狩猟人と猿神」の譚(久保寺逸彦)
  • 目をとがめる神様(小井川潤次郎)
  • アイヌ土俗品解説1(犬飼哲夫・名取武光)
  • 勘察加見聞1(中山英司)
  • 飛魚の尾鰭(早川孝太郎)
  • 方言採訪の旅南豫と土佐2(小林英夫)
  • 図版第六説明(八幡一郎)
  • 高砂族の煙草(南 洪三)
  • 座談会:弥生式土器問題の回顧と展望2(大場磐雄・後藤守一・甲野 勇・柴田常恵・森本六爾・八幡一郎)
  • 石舞台を掘る2(禰津正志)
  • 石舞台雑詠十句(大場活力)
  • 昭和八年の回顧2(後藤守一)
  • 採集雑話2(池上 生)
  • 珍品を出す貝塚(野々宮石亭)
  • 東都を中心とする一日の探古:考古名書図絵(大場磐雄)
  • 土器・石器・土俗品の写真2(武田久吉)
  • 弥生式土器2(森本六爾)

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雑誌「ドルメン」第3巻第2号目次(*画像をクリックすると、拡大します。)


雑誌「ドルメン」22.第3巻第1号

2012年09月18日 | G4.人類学の雑誌:ドルメン[Dolmen]

Dolmen22

 雑誌『ドルメン』は、1932年4月に創刊された雑誌です。当時の、人類学・考古学・民俗学等の動向がわかるものです。ちなみに、「ドルメン」の意味は、支石墓のことです。この雑誌は、岡 茂雄[1894-1989]が1924年に岡書院を創業して、人類学や考古学を支援する意味で創刊されました。ちなみに、岡 茂雄は、著名な民族学者の岡 正雄[1898-1982]の兄です。アマゾンで検索しましたが、ヒットしませんでしたのでリンクさせていません。

 第3巻第1号は、1934年1月に出版されました。本号の表紙は、唐時代の瓦製狗です。本号の内容は、以下の通りです。但し、目次の順に打ち込みましたが、実際の頁順とは異なります。なお、目次には現在では不適切な表現が含まれている場合がありますが、当時のままとしていることをご了承下さい。

  • シベリヤの旧石器時代(江上波夫)
  • 雑誌叢欄
  • 學界彙報
  • 座談会:弥生式土器問題の回顧と展望1(大場磐男・後藤守一・甲野 勇・柴田常恵・森本六爾・八幡一郎)
  • 正月の挨拶其の他(井上頼壽)
  • 古代の犬(甲野 勇)
  • 鈴木小学校(三村清三郎)
  • 石棒崇拝(小河内三郎)
  • 繍笹の伝説と手長山(菅野青顔)
  • アイヌ文学を読む(竹友藻風)
  • 仙岩峠から雫石澤への旅(高橋文太郎)
  • 方言採訪の旅:南豫と土佐1(小林英夫)
  • 大和に於ける天気予知の俚諺(乾 健治)
  • 婦人と蛇事件(遠藤冬花)
  • 石舞台を掘る1(禰津正志)
  • 長野県尖石遺跡発掘手記(宮坂英弌)
  • 大和島之庄石舞台発掘(島 本一)
  • 昭和八年の回顧1(後藤守一)
  • 満州から2(島田貞彦)
  • 本郷区弥生町貝塚の位置(段丘生)
  • 採集雑話1(池上生)
  • 朝鮮の民間薬(李 鐘鎬)
  • Onanie語史続攷下(大藪訓世)
  • 土器石器土俗品の写真1(武田久吉)
  • 弥生式土器1(森本六爾)

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雑誌「ドルメン」第3巻第1号目次(*画像をクリックすると、拡大します。)


雑誌「ドルメン」21.第2巻第12号

2012年09月17日 | G4.人類学の雑誌:ドルメン[Dolmen]

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 雑誌『ドルメン』は、1932年4月に創刊された雑誌です。当時の、人類学・考古学・民俗学等の動向がわかるものです。ちなみに、「ドルメン」の意味は、支石墓のことです。この雑誌は、岡 茂雄[1894-1989]が1924年に岡書院を創業して、人類学や考古学を支援する意味で創刊されました。ちなみに、岡 茂雄は、著名な民族学者の岡 正雄[1898-1982]の兄です。アマゾンで検索しましたが、ヒットしませんでしたのでリンクさせていません。

 第2巻第12号は、1933年12月に出版されました。本号の表紙は、台湾霧社パーラン社蕃婦の粟搗です。本号の内容は、以下の通りです。但し、目次の順に打ち込みましたが、実際の頁順とは異なります。なお、目次には現在では不適切な表現が含まれている場合がありますが、当時のままとしていることをご了承下さい。

  • 相模國府の位置(沼田頼輔)
  • 雑誌叢書欄
  • 學界彙報
  • 博物館週間催事表
  • 熱河採集余談(八幡一郎)
  • ピテカントロープスを廻りて(須田昭義)
  • 樺太西海岸:本庄町附近の遺跡を訪ねて(杉原荘介)
  • 地名より観たる九州に於ける民族の分布に就いて(隅山搖光)
  • スウエン・ヘヂン博士の新彊探検
  • 阿武王子伝説古墳(弘津史文)
  • 防長伝説民譚集2(小川五郎)
  • 蘇陽雑話3(林 魁一)
  • 庚人雑考下(井阪錦江)
  • 笑譚(Facetiae)に関する一考察(酒井 潔)
  • 西鶴の五人女に見える甕棺埋葬の記事
  • 婦人と蛇について
  • 蛇と娘に就て眞実の話(高橋照之助)
  • Onanie語史続攷中(大藪訓世)
  • 人種秘史18(山中源二郎訳)

註:「山中源二郎」は、「金関丈夫[1897-1983]」のペンネームです。

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雑誌「ドルメン」第2巻第12号目次(*画像をクリックすると、拡大します。)


日本の人類学者34.内藤芳篤(Atsushi NAITO)[1925-2005]

2012年09月16日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Yoshiatsunaito

内藤芳篤(Yoshiatsu NAITO)[1925-2005][分部哲秋(2005)「内藤芳篤先生」『人類学雑誌』第113巻第2号、pp.91-93より改変して引用](以下、敬称略。)

 内藤芳篤は、1925年12月2日、福岡県飯塚市で生まれました。1944年に、長崎医科大学付属医学専門部に入学します。ところが、1945年8月9日に長崎に投下された原子爆弾により、大学は壊滅的打撃を受けました。解剖学教室では、2名の教授と3名の助教授が亡くなっています。内藤芳篤は、この時、実家の飯塚市に帰る列車内で被爆しました。

 1947年には長崎医科大学付属医学専門部が廃校となったため、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)を再受験して入学し、1953年に卒業しました。卒業時は、外科医になるか人類学を研究するか悩んだと言われています。1954年、長崎大学医学部解剖学第2講座の助手に就任します。当時の解剖学第2講座の教授は、1949年に千葉医科大学(現・千葉大学医学部)から安中正哉が着任していました。安中正哉は、現代日本人の生体計測・手掌紋の研究を専門とし、西日本で調査研究を行っています。この頃、内藤芳篤も、安中正哉と同じ手掌紋を研究しました。1958年には、「長崎県北松浦郡離島住民の手掌理紋並に指紋の研究」により、母校の長崎大学から医学博士号を取得しています。

 1959年には助教授に昇任し、1970年には教授に就任し、定年退官までその座に留まりました。1966年10月5日~10月6日にかけて、安中正哉を大会会長として、第21回日本人類学会・日本民族学会連合大会が長崎大学医学部で開催されています。この時、内藤芳篤は「西北九州出土の古人骨」というテーマで特別講演を行いました。

 1960年代から、内藤芳篤は、別府大学文学部の賀川光夫[1923-2001]の協力を得て、九州各地の遺跡の発掘調査を行い、多くの古人骨を収集しました。1980年11月20日~11月21日にかけて、内藤芳篤を大会会長として、第34回日本人類学会・日本民族学会連合大会が長崎大学医学部で開催されています。この連合大会では、シンポジウム「骨から見た日本人」が開催され、活発な議論が行われました。このシンポジウムの内容は、後に、『季刊・人類学』に掲載されています。

 内藤芳篤は、教室員と共に九州地方において多くの遺跡を発掘調査しています。その結果、約3,000体に及ぶ古人骨を収集してそれらの研究を通して、多くのことが判明しました。特に、弥生時代人骨で多くの成果が得られています。北部九州・山口地方の人骨は長身で高顔ですが、西北九州及び南九州離島地域の人骨は低身で低顔です。北部九州・山口地方は渡来系で、西北九州及び南九州離島地域は在来系で縄文時代人と同じ形質を持っていると解釈されました。

 内藤芳篤は、1988年から1990年まで、長崎大学医学部長を務めました。その後、1991年に、長崎大学を定年退官します。定年退官後は長崎リハビリテーション学院に勤務し、1993年には玉木女子短期大学教授、1995年には長崎医療技術専門学校初代校長に就任し、2004年までその任にあたりました。

 内藤芳篤が書いた主な人類学分野の論文は、以下の通りです。

  • 内藤芳篤(1971)「西北九州出土の弥生時代人骨」『人類学雑誌』、第79巻第3号、pp.236-248
  • 内藤芳篤(1981)「4.弥生時代人骨」『人類学講座5.日本人Ⅰ』(小片 保編)、雄山閣出版、pp.57-99
  • 内藤芳篤・松下孝幸(1981)”Ⅳ.弥生時代人骨”「シンポジウム・骨から見た日本人の起源」『季刊・人類学』、第12巻第1号、pp.27-37
  • 内藤芳篤(1984)「九州における縄文人骨から弥生人骨への移行」『人類学:その多様な発展』、日経サイエンス社、pp.52-59
  • 内藤芳篤(1985)”南九州およびその離島”「シンポジウム・国家成立前後の日本人:古墳時代人骨を中心にして」『季刊・人類学』、第16巻第3号、pp.34-47

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内藤芳篤(1971)『人類学雑誌』第79巻第3号表紙(*画像をクリックすると、拡大します。)

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内藤芳篤・松下孝幸(1981)『季刊・人類学』第12巻第1号表紙(*画像をクリックすると、拡大します。)

 内藤芳篤は、2005年4月21日に急性肺炎により、死去しました。まさしく、人類学に捧げた一生だと言えるでしょう。長崎大学では、松下孝幸・分部哲秋・佐伯和信・田代和則・佐熊正史・石田 肇・弦本敏行等、多くの人類学者や解剖学者を育てています。

 私は、1981年3月15日~3月19日にかけて行われた枌洞穴第6次調査が行われた時に遺跡を見学して初めて内藤芳篤先生にお会いしました。その後、内藤芳篤先生と賀川光夫先生のご配慮で1981年8月17日~8月30日にかけて行われた枌洞穴第7次調査に参加させていただいています。私にとっては、初めての発掘調査で、多くの縄文時代人骨に触れる機会を与えられ非常に勉強になりました。その後も、長崎大学を訪問したり学会でお会いしています。非常に穏やかな先生だという印象を覚えています。

*内藤芳篤に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 日本解剖学会編(1995)『日本解剖学会100周年記念:教室史』
  • 分部哲秋(2005)「内藤芳篤先生」『人類学雑誌』、第113巻第2号、pp.91-93