清野謙次(Kenji KIYONO)[1885-1955][清野謙次先生記念論文集刊行会編(1956)『随筆・遺稿』より改変して引用](以下、敬称略。)
清野謙次は、1885年8月14日に、岡山県岡山市で生まれました。父親の清野 勇は、岡山県立医学校長兼病院長(現・岡山大学医学部)や大阪府立医学校長(現・大阪大学医学部)等を歴任した医学者です。その後、大阪府立北野中学校・旧制第六高等学校を卒業し、京都帝国大学医学部に入学します。1909年に、京都帝国大学医学部を卒業すると、すぐに医学部病理学教室助手に就任しました。1912年には、ドイツ留学をしフライブルグ大学で生体染色の研究を行います。しかし、ヨーロッパでは第1次世界大戦が勃発したために、留学を切り上げて1914年に帰国し、母校の病理学教室講師に就任しました。1916年には医学博士号を取得し、病理学教室助教授に昇任します。1921年には、母校の微生物学講座教授に昇任しました。1922年に「生体染色研究」により、帝国学士院賞を受賞しています。また、1924年には、母校の病理学教室教授を兼務し、1928年からは専任となりました。
1920年代初頭から、清野謙次は発掘人骨の研究に着手します。この頃、京都帝国大学文学部の考古学者・濱田青陵(濱田耕作)[1881-1938]、医学部解剖学教室の人類学者・足立文太郎[1865-1945]、同じく医学部解剖学教室の人類学者・金関丈夫[1897-1983]等と共同研究を行いました。清野謙次達が収集した人骨は、縄文時代人骨・古墳時代人骨・アイヌ人骨等、約1,500体にも及びます。
ところが、大事件が起きました。寺社仏閣からの経典や古文書を窃盗したとして、一時逮捕拘留されたのです。1938年、清野謙次は京都帝国大学を辞職しました。寺田和夫(1975)の『日本の人類学』(思索社)には、「『日本考古学・人類学史』上・下巻で引用している所蔵の江戸時代文献の量、1,500体という人骨の蒐集から想像されるように、蒐集癖、所有欲のきわめて強い人であったようだ。」と書かれています。当時、京都帝国大学総長だった濱田青陵(濱田耕作)は、その事件による心労からか1938年7月25日に急逝しました。その後、しばらくは清野コレクション等の整理のため京都に留まりましたが、1941年には上京して太平洋協会の嘱託に就任します。この太平洋協会は、1938年に設立された国策・調査研究機関で、その理事に就任していた鶴見祐輔[1897-1980]は、清野謙次の親戚であったと言われています。また、この頃731部隊の病理解剖の最高顧問も務めていました。731部隊の責任者の石井四郎[1892-1959]陸軍軍医中将は、京都帝国大学医学部での清野謙次の教え子です。
1948年、清野謙次は厚生科学研究所の所長に就任します。この人事には、緒方知三郎[1883-1973]の尽力があったと言われています。ちなみに、緒方知三郎は、著名な蘭学者・緒方洪庵の孫にあたる医学者で、東京大学教授を経て東京医科大学の初代学長に就任しています。1950年、清野謙次は東京医科大学教授に就任しました。
清野謙次が書いた著書や論文は膨大ですが、主な著書は以下の通りです。
- 清野謙次(1924)『日本原人の研究』、岡書院
- 清野謙次(1928)『日本石器時代人研究』、岡書院[このブログで紹介済み]
- 清野謙次・金関丈夫(1928)『人類起源論』、岡書院[このブログで紹介済み]
- 清野謙次(1943)『太平洋民族学』、岩波書店[このブログで紹介済み]
- 清野謙次(1943)『増補版・日本原人之研究』、萩原星文堂[このブログで紹介済み]
- 清野謙次(1944)『日本人種論変遷史』、小山書店[このブログで紹介済み]
- 清野謙次(1946)『日本民族生成論』、日本評論社[このブログで紹介済み]
- 清野謙次(1949)『古代人骨の研究に基づく日本人種論』、岩波書店[このブログで紹介済み]
- 清野謙次(1950)『人類の起源』、弘文堂[このブログで紹介済み]
- 清野謙次(1953)『日本考古学・人類学史:上巻』、岩波書店[このブログで紹介済み]
- 清野謙次(1954)『日本考古学・人類学史:下巻』、岩波書店[このブログで紹介済み]
- 清野謙次(1968)『日本貝塚の研究』、岩波書店[このブログで紹介済み]
清野謙次が書いた本(*画像をクリックすると、拡大します。)
清野謙次は、1955年12月27日、東京都内の自宅で心臓病のため急逝しました。死後、12月28日に遺体は東京大学医学部にて、名誉教授の緒方知三郎等の執刀により病理解剖されています。その結果、長年、数回にわたる心筋梗塞が認められました。発掘人骨の研究を中心としながら、人類学に捧げた一生だと言えるでしょう。