マルティン1.ルドルフ・マルティン(Rudolf MARTIN)[1864-1925][マルティンの母校チューリッヒ大学のアーカイヴから引用]
ルドルフ・マルティンは、1864年7月1日、スイスのチューリッヒで生まれました。当初は、法律を学ぶつもりでしたが、方針転換をして哲学を学ぶことにし、フライブルク大学とライプチッヒ大学で勉強します。ライプチッヒ大学を卒業すると、1891年にチューリッヒ大学の員外講師に就任しました。この員外講師とは、大学から給料は出ず、受講した学生から支払われるというドイツ独特の制度です。後に人類学者として大成するマルティンですが、学位論文は、カントに関するテーマで哲学の分野でした。
1897年の春と夏には、マレー半島に出かけ原住民の生体計測調査を行っています。
1899年に母国のチューリッヒ大学で人類学の准教授に就任し、1905年には人類学研究所の所長に就任しました。しかし、体調を崩し1911年には大学を辞職しなければならない悲劇にみまわれました。長い目で見れば、この辞職は、人類学の世界にとって幸運でした。なぜなら、マルティンはその間、後世に名高い『Lehrbuch der Anthropologie』を執筆したのです。1911年の辞職は、体調不良を理由に、この本を仕上げるためだったという説もあります。この人類学教科書は、細かい点にまでふれられており、まさしく人類学のバイブルのような存在です。初版は、1914年に出版されました。ちなみに、この本は、草稿段階で最初の妻により暖炉で焼かれてしまったというエピソードが、マルティンの友人のラルフ・フォン・ケーニヒスワルト(Ralph von KOENIGSWALD)[1902-1982]により紹介されています。
その後、マルティンの弟子で第二次世界大戦後にミュンヘン大学教授となるカール・ザラー(Karl SALLER)[1902-1969]により、第3版として改訂されています。
1917年、約6年の空白を経て、マルティンは大学に復帰します。ミュンヘン大学の人類学教授に就任したのです。このミュンヘン大学時代の1924年には、雑誌「Anthropologischer Anzeiger」を創刊しています。マルティンは、亡くなるまでこの雑誌を編集し続けました。マルティンの専門は、生体計測で、ドイツで多くの生体計測を行っています。前出の教科書を書いた目的は、生体計測で計測点を世界で統一することにあったと言われています。
1925年7月11日、マルティンは61歳でこの世を去りました。しかし、マルティンが残した人類学教科書は、ドイツのみならず世界中で長い間人類学のバイブルとして使用され続けています。
マルティン2.Martin(1928)『Lehrbuch der Anthropologie』表紙
マルティン3.Martin(1928)『Lehrbuch der Anthropologie』中表紙
*マルティンに関する文献として、以下のものを参考にしました。
・Ursula Zangl-Kumpf (1997) 'Martin, Rudolf (1864-1925)', "History of Physical Anthropology: An Encyclopedia, Vol.2"(Frank Spencer ed.), Garland Publishing, pp.645-646.