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人類学のススメ

人類学の世界をご紹介します。OCNの「人類学のすすめ」から、サービス終了に伴い2014年11月から移動しました。

人類学雑誌7.第1巻第7号(明治19年・1886年)

2013年11月30日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

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 『人類学雑誌』は、『人類学会報告』第1巻第1号が、明治19(1886)年2月10日に出版されて創刊されました。第1巻第1号から同第4号までは、『人類学会報告』という雑誌名でしたが、第1巻5号から雑誌名を『東京人類学会報告』に改名しています。また、その第1巻5号から、裏表紙が追加されて英文表記が行われており、雑誌名は『The Bulletin of the Tokyo Anthropological Society』となっています。本号は、『東京人類学会報告』第1巻第7号として、明治19(1886)年9月23日に出版されました。編集出版人として、神田孝平の名前が記載されています。また、幹事として、坪井正五郎と神保小虎の名前が記載されています。

 本号の内容は、以下の通りです。

記事[第22回]

談話

  • 本邦に行はるる當て物の種類及び起原(坪井正五郎)

雑録

  • 上代の考第二(松山高吉)
  • 真砂楼遺稿(故木村政五郎)
  • 婚姻風俗集第五(若林勝邦)
  • 石器彙報
  • 塚穴彙報

抜粋

  • 人種学上アイノノ研究第二(神保小虎抄訳)

雑記

 なお、巻末には、126名の会員名簿が掲載されています。

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人類学研究5.第3巻第1号~第2号合併号

2013年11月29日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

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 『人類学研究』は、1954年から1960年にかけて、九州大学医学部解剖学教室の人類学研究所から全15冊が発行されました。編集者は、当時、九州大学医学部解剖学教室教授の金関丈夫[1897-1983]でしたが、九州大学を定年退官する時期に合わせて廃刊となっています。この研究雑誌には、貴重な論文やデータが掲載されています。

 第3巻第1~2号は、1956年6月25日に出版されました。英文タイトルもつけられていますが、本文は英文抄録付きの和文で書かれています。

 第3巻第1~2号合併号の内容は、以下の通りです。

  • 山口県防府市野島々民の足底理紋の研究[牛島陽一・阿部英世]
  • 山口県防府市野島々民の手掌理紋の研究[阿部芳野]
  • 福岡県糸島・早良郡住民の手掌理紋の研究[池田真一郎・恒松洋二郎]
  • 福岡県京都郡住民の手掌理紋[財津博之・岩永昌人]
  • 台湾Malikoan地区Atayal族の人類学的研究[胡 水旺]
  • 台湾新竹県Malikoan地区Atayal族の手の理紋の研究[胡 水旺・蔡 煒東]
  • 山口県長門市青海島通住民の生体学的研究[池田真一郎]
  • 山口県阿武郡見島々民の人類学的研究[崎山朝浩]
  • 山口県大島郡住民の生体学的研究[吉本邦夫]
  • 福岡県京都郡簑島村村民の人類学的研究[岩永昌人]
  • 山口県防府市向島々民の手掌・足底理紋の研究[阿部敏徳]
  • 現代九州日本人肋骨の人類学的研究[小川俊郎]

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人類学研究4.第2巻第~第4号合併号

2013年11月28日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

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 『人類学研究』は、1954年から1960年にかけて、九州大学医学部解剖学教室の人類学研究所から全15冊が発行されました。編集者は、当時、九州大学医学部解剖学教室教授の金関丈夫[1897-1983]でしたが、九州大学を定年退官する時期に合わせて廃刊となっています。この研究雑誌には、貴重な論文やデータが掲載されています。

  第2巻第2~4号は、1955年12月25日に出版されました。英文タイトルもつけられていますが、本文は英文抄録付きの和文で書かれています。

 第2巻第2~4号合併号の内容は、以下の通りです。

  • 台湾角板地区Atayal族の人類学的研究「候 炎]
  • 福岡県浮羽郡住民の手掌理紋[福間 醇・牛島陽一]
  • 福岡県嘉穂郡住民の掌紋[永井昌文・藤田敬吉]
  • 耳の大いさの年令的変化に就いて、特に容貌学的耳長及び耳幅に就いて[椿 宏治・大貫裕康]
  • 福岡県八女郡住民の手掌理紋の研究[原田忠昭・鋳鍋勝登]
  • 福岡県三井郡住民の手の理紋の研究[松枝 猛]
  • 福岡県京都郡犀川村上柴山古墳及び節丸大塚発見の古式古墳人骨に就いて[高橋 静・伊藤泰照]
  • 現代九州人大腿骨の人類学的研究[阿部英世]
  • 山口県防府市野島々民の生体学的研究[阿部芳野]
  • 九州日本人側頭骨の人類学的研究[藤田敬吉]

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人類学研究3.第2巻第1号

2013年11月27日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

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 『人類学研究』は、1954年から1960年にかけて、九州大学医学部解剖学教室の人類学研究所から全15冊が発行されました。編集者は、当時、九州大学医学部解剖学教室教授の金関丈夫[1897-1983]でしたが、九州大学を定年退官する時期に合わせて廃刊となっています。この研究雑誌には、貴重な論文やデータが掲載されています。

 第2巻第1号は、1955年4月25日に出版されました。英文タイトルもつけられていますが、本文は英文抄録付きの和文で書かれています。

 第2巻第1号の内容は、以下の通りです。

  • 九州人下腿骨の人類学的研究[鋳鍋勝登]
  • 日本住血吸虫症患者の体質学的研究[松枝 猛]
  • 福岡県浮羽郡大野原及び秋成発掘の弥生式時代人骨に就いて[金関丈夫・甲斐庸禹]
  • 熊本県下益城郡豊田村御領貝塚発掘の人骨について[金関丈夫・原田忠昭・浅川清隆]
  • 福岡県三潴・山門郡住民の手の理紋の研究[南川勝三・浅川清隆]

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人類学研究2.第1巻第3号~第4号合併号

2013年11月26日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

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 『人類学研究』は、1954年から1960年にかけて、九州大学医学部解剖学教室の人類学研究所から全15冊が発行されました。編集者は、当時、九州大学医学部解剖学教室教授の金関丈夫[1897-1983]でしたが、九州大学を定年退官する時期に合わせて廃刊となっています。この研究雑誌には、貴重な論文やデータが掲載されています。

 第1巻第3~4号は、1954年12月25日に出版されました。英文タイトルもつけられていますが、本文は英文抄録付きの和文で書かれています。

 第1巻第3~4号合併号の内容は、以下の通りです。

  • 佐賀県東背振村三津遺跡出土弥生式時代人骨の人類学的研究[牛島陽一]
  • 琉球波照間島々民の生体学的研究[永井昌文]
  • 福岡県朝倉郡小石原村村民の人類学的研究[高橋 静]
  • 九州人頭蓋外底の耳科学的並に人種解剖学的研究[福間 醇]
  • 九州人骨盤の人類学的研究[伊藤泰照]
  • 長崎県平戸島獅子村根獅子免出土の人骨に就て[金関丈夫・永井昌文・山下茂雄]

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人類学研究1.第1巻第1号~第2号合併号

2013年11月25日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

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 『人類学研究』は、1954年から1960年にかけて、九州大学医学部解剖学教室の人類学研究所から全15冊が発行されました。編集者は、当時、九州大学医学部解剖学教室教授の金関丈夫[1897-1983]でしたが、九州大学を定年退官する時期に合わせて廃刊となっています。この研究雑誌には、貴重な論文やデータが掲載されています。

 第1巻第1~2号は、1954年8月31日に出版されました。英文タイトルもつけられていますが、本文は英文抄録付きの和文で書かれています。

 第1巻第1~2号合併号の内容は、以下の通りです。

  • 西南日本人頭骨の人類学的研究[原田忠昭]
  • 福岡県宗像郡大島村村民の生体学的研究[浅川清隆]
  • 福岡県有明海沿岸漁民の生体計測学的研究[甲斐庸禹]
  • 福岡県粕屋郡志賀町志賀住民の人類学的研究[山下茂雄]

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日本の人骨発見史1.吉母浜遺跡(弥生時代):前頭縫合の多い人骨群

2013年11月24日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

 吉母浜遺跡は、山口県下関市大字吉母に所在します。この遺跡は、1962年の第1次調査と1964年の第2次調査で、金関丈夫[1897-1983]を団長として調査が行われました。金関丈夫は当時、九州大学医学部を定年退官後、山口県立医科大学(現・山口大学医学部)に移籍していました。その後、1979年から1981年にかけて全部で8次にわたる調査が行われています。

 この第1次調査と第2次調査により、弥生時代中期の人骨8体が出土し、その後、工事中に出土したもの3体をあわせて合計11体が出土しました。人骨の報告は、九州大学医学部(当時)の中橋孝博と永井昌文[1924-2001]により、1985年に出版された報告書で詳細に報告されています。

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吉母浜遺跡1.弥生時代人骨出土状況[下関市教育委員会(1985)より改変して引用]

 出土人骨11体の内訳は、成人男性5体・成人女性4体・未成年2体です。この人骨で特筆すべき特徴は、前頭縫合が成人9体中3体に認められたことです。前頭骨は、胎児や新生児では2つに分かれており、その間に前頭縫合があります。この前頭縫合は、通常、生後2年ぐらいで癒合して消失しますが、稀に、成人になっても癒合しない場合もあります。その比率は、報告者により異なりますが、日本人では約4.5%~約7.8%と報告されています。また、日本人頭骨研究班の報告では、現代畿内人男性に21.43%というのが最高の出現率で、通常は10%代かそれ以下でした。さらに、現代北九州人では男性6.32%、女性11.11%という報告もあります。

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吉母浜遺跡2.吉母浜5号人骨前頭縫合(成人女性)[下関市教育委員会(1985)より改変して引用]

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吉母浜遺跡3.吉母浜9号人骨前頭縫合(老年男性)[下関市教育委員会(1985)より改変して引用]

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吉母浜遺跡4.吉母浜D1人骨前頭縫合(熟年女性)[下関市教育委員会(1985)より改変して引用]

 ところが、この吉母浜遺跡出土弥生時代人骨の場合、観察可能な7体中3体にこの前頭縫合が認められたのです。母数が少ないのですが、出現率は43%にも達しており、報告者の中橋孝博と永井昌文は、「吉母浜弥生人の遺伝的特徴に関係する可能性も考えられる」と報告しています。

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吉母浜遺跡5.吉母浜遺跡第1次調査スナップ[下関市教育委員会(1985)より改変して引用]

 1962年の第1次調査と1964年の第2次調査には、団長の金関丈夫の息子で考古学者の金関 恕(現・天理大学名誉教授)も参加し、親子で調査した珍しい遺跡です。

*吉母浜遺跡の関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 下関市教育委員会(1985)『吉母浜遺跡』、下関市教育委員会
  • 中橋孝博・永井昌文(1985)「Ⅵ.人骨」『吉母浜遺跡』、下関市教育委員会、pp.154-225

報告書8.吉母浜遺跡

2013年11月23日 | N7.報告書[Site Report:Japanese]

Yoshimohamaiseki1985

吉母浜遺跡 (1985年)
価格:(税込)
発売日:1985-03

 報告書『吉母浜遺跡』の吉母浜遺跡は、山口県下関市に所在します。この遺跡では、弥生時代人骨と中世人骨が出土が出土しています。1985年に、下関市教育委員会により出版されました。

 本書の内容は、以下の通りです。

  1. はじめに
  2. 遺跡の環境と立地
  3. 調査経過
  4. 層序と遺構
  5. 出土遺物
  6. 人骨(永井昌文・中橋孝博)
  7. 生業と葬制に関する儀礼
  8. 結語

 本報告書では、弥生時代人骨11体・中世人骨107体の報告が行われています。海岸部に埋葬されていたため、保存状態が良い事が特徴的です。


文化人類学の本33.ニューギニアから石斧が消えていく日

2013年11月22日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

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ニューギニアから石斧が消えていく日―人類学者の回想録
価格:¥ 3,465(税込)
発売日:2013-10

 この『ニューギニアから石斧が消えていく日』は、元金沢大学や中部大学の文化人類学者・畑中幸子さんがニューギニアの東に位置する、パプアニューギニア(当時・オーストラリア領)で実施した文化人類学調査について書いたものです。副題には、「人類学者の回想録」とあります。2013年に、明石書店から出版されました。私は、出版時に著者の畑中幸子先生から寄贈していただきました。

 本書の内容は、以下のように、全9章からなります。

  1. オクサップミン:西に三〇〇〇メートルを超える連峰を望む
  2. オクサップミンからオム川へ:探検を考える
  3. 初めての出会い:緊張の瞬間
  4. オム川流域遠征:自然への挑戦
  5. ヒトと自然の共存:熱帯雨林に生きる
  6. 未開社会における交易:交易の道を文明が流れる
  7. 部族社会と開発の出会い:新しい価値観と世界観の誕生
  8. シシミンとの再会:新しい知識がヒトの表情をかえる
  9. 新しい世界へ:時計が猛スピードで動き出す

 本書には、失われたパプアニューギニアの民族誌が書かれており、貴重な記録です。ちなみに、著者の畑中幸子さんが調査していた1968年当時、作家の有吉佐和子[1931-1984]さんが訪問しており、後に『女二人のニューギニア』という本も出版されています。


文化人類学の本32.アフリカの部族生活

2013年11月21日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

Turnbull1972

アフリカの部族生活―伝統と変化 (1972年) (現代教養文庫)
価格:(税込)
発売日:1972

 この『アフリカの部族生活』は、イギリスの文化人類学者コリン・ターンブル(Colin TURNBULL)[1924-1994]さんが、アフリカの民族誌について書いたものです。副題には、「伝統と変化」とあります。1972年に、元東京都立大学・国立民族学博物館の文化人類学者・松園万亀雄さんと松園典子さんによる翻訳で、教養文庫751として、社会思想社から出版されました。

 本書の内容は、以下のように、全6章からなります。

  • 伝統
  • 少年期
  • 成長
  • おとな
  • 老年
  • 変化

 本書では、アフリカの「ムブティ・ピグミー」・「イク族」・「ンダカ族」・「クン・ブッシュマン」の民族誌が紹介されており、大変、参考になります。

 著者のコリン・ターンブルさんは、1924年11月23日にイギリスのロンドンで生まれました。やがて、オックスフォード大学に進学しますが、第二次世界大戦中は英国海軍に従軍します。その後、インドやコンゴを調査し、1954年に母校のオックスフォード大学でエドワード・エヴァンス-プリチャード(Edward EVANS-PRITCHARD)[1902-1973]に師事して社会人類学を学び1964年に博士号を取得しました。1959年にはアメリカ自然史博物館のアフリカ民族担当として移籍し、多くの著書を残しています。ターンブルさんは、1994年7月28日に死去しました。


文化人類学の本31.アマゾニア

2013年11月20日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

Meggers1977

アマゾニア―偽りの楽園における人間と文化 (1977年) (現代教養文庫)
価格:¥ 378(税込)
発売日:1977-02

 この『アマゾニア』は、アメリカの考古学者、ベティ・ジェーン・メガーズ(Betty Jane MEGGERS)[1921-2012]が南米のアマゾン地域の人々の文化について書いたものです。副題には、「偽りの楽園における人間と文化」とあります。1977年に、文化人類学者の大貫良夫さんによる翻訳で、教養文庫932として社会思想社から出版されました。

 本書の内容は、以下のように、全6章からなります。

  1. 生態系
  2. テラ・フィルメへの適応
  3. テラ・フィルメ文化適応の特徴
  4. ヴァルゼア適応
  5. 現代世界とアマゾニア
  6. 進化と適応

 著者のベティ・ジェーン・メガーズさんは、1921年12月5日にアメリカで生まれました。1943年にペンシルヴァニア大学を卒業し、その後、ミシガン大学で修士号を、コロンビア大学で博士号を取得しました。博士課程の頃から、南米のアマゾンをフィールドとしています。その研究過程で、エクアドルから発見された土器と日本の縄文時代の土器とが類似しているという発表を行い、当時、大きな話題となりました。メガーズさんは、アメリカ大学・スミソニアン国立自然史博物館等で研究を行いましたが、2012年7月2日に死去しています。

 


文化人類学の本30.鳥葬の国

2013年11月19日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

鳥葬の国―秘境ヒマラヤ探検記 (講談社学術文庫) 鳥葬の国―秘境ヒマラヤ探検記 (講談社学術文庫)
価格:¥ 1,020(税込)
発売日:1992-07

 この『鳥葬の国』は、元東京工業大学の文化人類学者・川喜田二郎[1920-2009]さんが、チベットの民族誌について書いたものです。副題には、「秘境ヒマラヤ探検記」とあります。1974年に、講談社文庫C34として講談社から出版され、その後、1992年に講談社学術文庫に再録されました。

 本書の内容は、以下のように、全5章からなります。

  1. トルボへの夢
  2. 探検隊ついに動き出す
  3. ツァルカ村についた!
  4. ヒマラヤ果つるところ
  5. 鳥葬の民

 本書は、1958年の春から秋にかけて行われたチベット調査の記録が書かれています。チベットでは、土葬・火葬・水葬と鳥葬という4つの葬儀方法があります。本書は、この中でも、死者の死体を刻んでハゲワシに与えるという鳥葬について詳しく記載されており、大変、参考になります。その鳥葬の際は、人間の大腿骨で製作した骨笛をを吹いてハゲワシを呼ぶのだそうです。

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文化人類学の本29.裸族シャバンテ

2013年11月18日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

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裸族シャバンテ (1960年) (現代教養文庫)
価格:(税込)
発売日:1960

 この『裸族シャバンテ』は、文化人類学者の宮崎信江さんが、南米ブラジルの全裸の部族シャバンテに住み込んで彼らの民族誌をまとめたものです。1960年に、現代教養文庫280として、社会思想社から出版されました。

 本書の内容は、以下のように、全2部からなります。

序(泉 靖一)

Ⅰ.ブラジルのインディオ

  1. ブラジル開拓の歴史とインディオ
  2. ブラジルのインディオ

Ⅱ.シャバンテ

  • シャバンテ族の生活

 著者の宮崎信江さんは、ブラジルのサンパウロで生まれ、サンパウロ文理科大学を卒業し、東京大学文化人類学研究室に留学した文化人類学者です。

 本書のシャバンテ族は、今では電気も通り、服も着ているそうです。その意味で、本書は失われた民族誌として貴重な記録です。


日本の人類学者49.北條暉幸(Teruyuki HOJO)[1934ー2013]

2013年11月17日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

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北條暉幸(Teruyuki HOJO)[1934ー2013][北條(2013)より改変して引用](以下、敬称略)

 北條暉幸は、1934年2月27日に生まれました。やがて、東京大学に進学し、理学部人類学科を1959年に卒業します。東京大学では、人類学者の鈴木 尚[1912-2004]に師事しました。卒業後も、母校の研究室に研究生として残り、当時、教室をあげて行われていた増上寺徳川将軍墓の将軍家ご遺骨の研究を行っています。

 1961年4月、北條暉幸は昭和医科大学(現・昭和大学医学部)解剖学教室助手に就任します。ここでは、人類学講師も兼任しました。当時の昭和医科大学解剖学教室の主任は、小河原四郎でした。小河原四郎は、日本医科大学や東洋医科大学(現・聖マリアンナ医科大学)の解剖学教室でも活躍した解剖学者です。特に、昭和大学在職中は、戦後、東横病院内部に「聖マリアンナ研究所」を設置し、所長として主に生体計測を行い、『聖マリアンナ研究所業報』を1951年から1967年にかけて全52号出版しています。

 1967年9月、北條暉幸は熊本大学医学部第2解剖学教室助手に就任します。当時の熊本大学医学部第2解剖学教室の主任は、忽那将愛[1908-1995]でした。忽那将愛は、熊本医科大学(現・熊本大学医学部)卒業後、京都帝国大学助手・熊本医科大学助教授・台北帝国大学助教授・久留米医科大学教授を経て、熊本大学医学部の教授に就任しています。忽那将愛の専門は、リンパ系解剖学でしたが、人類学的研究も多く行いました。北條暉幸は、1970年に、この熊本大学医学部で「日本人肩甲骨形態の時代的変化と他人種との比較」というテーマで、医学博士号を取得しました。

 1971年4月、北條暉幸は、九州大学医学部第2解剖学講座助手に就任します。当時の九州大学医学部第2解剖学講座の主任は、前年の1970年8月に、永井昌文[1924-2001が就任していました。永井昌文は、金関丈夫[1897-1983]の元で、人類学を専攻しています。1971年6月、北條暉幸は、専任講師に昇任しました。

 1973年11月、北條暉幸は、札幌医科大学解剖学第2講座の助教授に就任します。当時の札幌医科大学解剖学第2講座の主任は、三橋公平でした。三橋公平は、手掌紋や指紋を研究しています。この前年の1972年に、山口 敏が国立科学博物館人類研究部に移籍しており、北條暉幸は山口 敏の後任として赴任しました。

  1978年4月、北條暉幸は、新設の産業医科大学医学部第1解剖学講座主任教授に就任します。ここで、北條暉幸は、平本嘉助(元北里大学)・篠田謙一(現・国立科学博物館)・中島民治(現・産業医科大学)等を、教室員として育てました。1999年3月、北條暉幸は、産業医科大学を定年退職します。

 北條暉幸は、肉眼解剖学を主に専攻しましたが、人類学的研究も多く行っています。また、産業医科大学時代には、走査型電子顕微鏡を導入し、多くの研究を行いました。北條暉幸の主な人類学の業績は、以下の通りです。

  • 北條暉幸(1964)「日米混血児の口蓋部の形態について」『人類学雑誌』第71巻第4号、pp.143-152
  • 遠藤萬里・北條暉幸・木村 賛(1967)「Ⅶ.下肢骨」『増上寺徳川将軍墓遺品遺体』、東京大学出版会、pp.275-405
  • 北條暉幸(1969)「熊本県菊池郡七城村小野崎家型石棺(古墳時代)人骨について」『熊本大学医学会雑誌』、第43巻第1号、pp.37-46
  • 北條暉幸・永田忠寿・青木紀保(1969)「熊本県上益城郡嘉島村剣原出土箱式石棺人骨について」『熊本医学会雑誌』、第43巻第10号、pp.892-894
  • 北條暉幸(1970)「日本人肩甲骨形態の時代的変化と他人種との比較」『熊本医学会雑誌』、第44巻第10号、pp.937-952
  • 北條暉幸(1975)「熊本県本渡市(天草)妻鼻古墳時代墳墓群出土人骨の予備的研究」『札幌医科大学医学進学課程紀要』、第16巻、pp.25-32
  • Hojo, T.(1976)「A few observations on roentgenopaque Transverse lines (Harris's Lines) in long tubullar bones of early modern people」『札幌医科大学医学進学課程紀要』、第17巻、pp.33-37
  • Hojo, T.(1980)「Precondylar tubercle and antero-median Marginal process around the foramen magnum in Modern Midwest-Kyushuites」 『産業医科大学雑誌』、第2巻第3号、pp.309-313
  • Hojo, T.(1981)「Hyperdolichocrany in the Medieval Midwestern Kyushuites」『産業医科大学雑誌』、第3巻第1号、pp.11-13
  • Hojo, T.(1982)「A protohistoric female skeleton of the keyhole-shaped (square front circular rear) mound in Mukonoda, Uto city, Kumamoto prefecture」『人類学雑誌』、第90巻別号、pp.129-138
  • 北條暉幸(1989)「縄文人的容貌を示す弥生カメ棺分布域南限の宇土市畑中カメ棺弥生人骨」『人類学雑誌』、第97巻第1号、pp.123-128
  • Hojo, T.(1989)「Dietary differences and microwear on the teeth of late stone age and early modern people from western Japan」『Scanning Microscopy』、Vol.3、pp.623-628

 北條暉幸は、2013年5月8日、死去しました。東京大学・昭和大学・熊本大学・九州大学・札幌医科大学・産業医科大学と、研究と教育の場所を変えながら、肉眼解剖学と人類学の研究に一生を捧げた人生と言えるでしょう。

 北條暉幸先生がお亡くなりになられた事を私は知りませんでした。2013年11月15日に、北條先生の御令弟の北條裕三様から『北條暉幸研究業績集(付録付)』をお送りいただいて初めて知りました。いただいた業績集を拝見すると、著書31点・論文68点・学会発表182点の目録が掲載されており、英文論文も何点かが付録として掲載されていました。いただいた送り状には、「初めまして。私、北條暉幸の弟の北條裕三と申します。かねて闘病中の兄は去る平成25年5月8日に永眠いたしました。生前兄は自分の学究生活の集大成ともいうべき業績集の刊行に意欲を燃やしておりましたが、幸い存命中に完成いたしましたのが何よりでございます。つきましては、業績集を兄に代わりお手許にお届けさせて頂きますのでご一読頂けますならばさぞかし泉下の兄も喜ぶことと存じます。(以下省略)」とありました。

 私は、北條暉幸先生とは学生時代からお付き合いさせていただきました。特に、1987年4月2日から同年4月5日まで、世界貿易センタービルのヴィスタ・インターナショナル・ホテルで開催された第57回アメリカ自然人類学会では、偶然再会し、当時留学中だった諏訪 元先生と内田亮子先生と4人で会食した事を思い出します。ちなみに、このホテルは、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロにより崩壊しました。学会の後で、北條暉幸先生と私は、2人でニューヨークにある幾つかの医学部や医科大学の解剖学教室を2日間かけて訪問しました。私にとっても、大変、勉強になった忘れられない旅でした。

*北條暉幸に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 北條暉幸(2013)『北條暉幸研究業績集(付録付)』、産業医科大学

人類学雑誌6.第1巻第6号(明治19年・1866年)

2013年11月16日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

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 『人類学雑誌』は、『人類学会報告』第1巻第1号が、明治19(1886)年2月10日に出版されて創刊されました。第1巻第1号から同第4号までは、『人類学会報告』という雑誌名でしたが、前号から雑誌名を『東京人類学会報告』に改名しています。また、前号から、裏表紙が追加されて英文表記が行われており、雑誌名は『The Bulletin of the Tokyo Anthropological Society』となっています。本号は、『東京人類学会報告』第1巻第6号として、明治19(1886)年7月23日に出版されました。編集出版人として、神田孝平の名前が記載されています。また、幹事として、坪井正五郎と神保小虎の名前が記載されています。

 本号の内容は、以下の通りです。

記事[第二十一回]

談話

  • 福岡県下古墳ノ談(澤井 廉)
  • 東海道地方ニテ人類学ニ関する略報(細木松之助)

雑録

  • 古代の考(松山高吉)
  • 兩羽四郡ニ於テ古物捜索経歴略記(羽柴雄輔)
  • 但馬方言(河本庚之助)
  • 伊予大洲方言(堀 悌三郎)
  • 光明寺石の棒(若林勝邦)
  • 婚姻風俗集

抜粋

  • 人種学上アイノノ研究(Heinrich Von SIEBOLD:神保小虎抄訳)

雑記

 なお、巻末には119名の会員名簿が掲載されています。

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