人類学のススメ

人類学の世界をご紹介します。OCNの「人類学のすすめ」から、サービス終了に伴い2014年11月から移動しました。

日本の人類学者31.新井正治(Shoji ARAI)[1899-1988]

2012年09月08日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Shojiarai

新井正治(Shoji ARAI)[1899-1988][加藤 征(1989)「新井正治先生を偲ぶ」『人類学雑誌』第91巻第1号、pp.3-7より改変して引用](以下、敬称略。)

 新井正治は、1899年2月15日、長野県長野市で生まれました。やがて、東京慈恵会医院医学専門学校(現・東京慈恵会医科大学)に進学し、1924年に卒業します。

 東京慈恵会医科大学を卒業した1924年には解剖学教室の助手に就任し、1928年に講師・1933年に助教授に昇任します。当時の解剖学教室教授は、新井春次郎[1856-1931]でした。1933年には、「日本人骨盤の研究」により、母校から医学博士号を取得しました。この研究は、1933年に7回に分けて『人類学雑誌』に掲載されています。この研究では、男性115例・女性105例の合計220例をベースとして、最終的に782例を調べており、臨床分野で人工股関節の人工骨頭の大きさを決定する際に引用されたそうです。

  • 新井正治(1933)「日本人骨盤の研究」『人類学雑誌』第48巻第1号、pp.1-29
  • 新井正治(1933)「日本人骨盤の研究:其の2・Straus法による腸骨計測成績」『人類学雑誌』第48巻第2号、pp.73-97
  • 新井正治(1933)「日本人骨盤の研究:其の3・骨盤諸傾斜角に就いて」『人類学雑誌』第48巻第3号、pp.117-146
  • 新井正治(1933)「日本人骨盤の研究:其の4・晒浄骨盤の計測成績」『人類学雑誌』第48巻第4号、pp.173-221
  • 新井正治(1933)「日本人骨盤の研究:其の4(続)・晒浄骨盤の計測成績」『人類学雑誌』第48巻第1号、pp.261-295
  • 新井正治(1933)「日本人骨盤の研究:其の5・新鮮靱帯性骨盤」『人類学雑誌』第48巻第1号、pp.316-347
  • 新井正治(1933)「日本人骨盤の研究:其の6・乾燥靱帯性骨盤」『人類学雑誌』第48巻第1号、pp.376-399

Jasn481

新井正治(1933)が掲載された『人類学雑誌』第48巻第1号表紙(*画像をクリックすると、拡大します。)

 新井正治は、1943年に母校の教授に就任しました。『東京慈恵会医科大学解剖学教室業績集』を編集し、1964年に新井正治が定年退職するまで25輯が発行されています。この業績集には、人骨の研究が部位毎に多く掲載されており、人類学でも重要文献となりました。その業績の多くは、新井正治が指導した医学博士号論文です。

 1964年、新井正治は東京慈恵会医科大学を定年退職します。しかし、1965年には東京医科大学の解剖学教授に就任し、1969年の定年退職までその任にあたりました。この東京医科大学では、定年退職後も1979年まで非常勤講師として解剖学を教えています。

 新井正治は、1988年5月14日、死去しました。死後、その遺体は、母校に献体されています。解剖学と人類学に捧げた一生と言えるでしょう。新井正治は、生前、身寄りの無くなった恩師・新井春次郎の墓を引き取ったというエピソードが、加藤 征により紹介されています。ちなみに、苗字は同じ「新井」ですが、縁戚関係は無いそうです。

 私は、新井正治先生と言葉を交わしたことはありませんが、1982年10月15日から同16日にかけて東京慈恵会医科大学で開催された、第36回日本人類学会・民族学会連合大会に参加した際の懇親会で、有名な「解剖踊り」を拝見することができました。

*新井正治に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 加藤 征(1989)「新井正治先生を偲ぶ」『人類学雑誌』、第97巻第1号、pp.3-7
  • 加藤 征(1990)「新井正治先生を偲ぶ」『解剖学雑誌』、第65巻第3号、pp.111-112

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。