人類学のススメ

人類学の世界をご紹介します。OCNの「人類学のすすめ」から、サービス終了に伴い2014年11月から移動しました。

世界の人類学者72.ウィリアム・ロス・メイプルズ(William Ross MAPLES)[1937-1997]

2013年08月31日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

Williammaples

ウィリアム・ロス・メイプルズ(William Ross MAPLES)[1937-1997][フロリダ大学のアーカイヴより改変して引用]

 ウィリアム・ロス・メイプルズは、1937年8月7日に、アメリカのテキサス州ダラスで生まれました。父親は銀行員でしたが、メイプルズが11歳の時、40歳でガンにより死去しています。この頃、メイプルズの一生を左右する出来事がありました。ある日、メイプルズの近所に住んでいたダラス郡保安官事務所の保安官代理が、ボニーとクライドの検死写真を見せてくれたのです。このボニーとクライドとは、カップルで銀行強盗を行っていたボニー・パーカー(Bonnie PARKER)[1910-1934]とクライド・バロウ(Clyde BARROW)[1909-1934]のことで、警官隊との銃撃戦で、1934年5月23日に2人共射殺されていました。この事件は、何度も映画化されており、特に、1967年に製作された邦題『俺たちに明日はない』が有名です。幼いメイプルズは、怖がることなくその写真に心を奪われたそうです。

 メイプルズは、その後テキサス大学に進学し、生物学のコースが定員に達していたため、英文学を主専攻に人類学を副専攻としましたが、卒業間際に人類学の主専攻に変えました。ここで、メイプルズは、トーマス・マッカーン(Thomas W. McKern)[1920-1974]と出会います。マッカーンは、1958年にテキサス大学人類学部教授として赴任しており、1967年までテキサス大学に在籍していた法医人類学者でした。メイプルズは、1959年に卒業しますが、その1ヶ月前に結婚しています。当時、テキサス大学には人類学専攻の博士課程がなかったため、メイプルズは修士課程に進学しました。恩師のマッカーンは、修士課程を飛ばして他大学の博士課程に進学することをすすめたそうです。しかし、働きながら学業を両立させることは困難で、メイプルズは中途退学し、ハートフォード保健会社の調査員の職を得ます。ただ、この仕事にむかないと考えたメイプルズはかつての恩師・マッカーンに相談し、再び大学院に戻り、1962年に修士号を取得しました。

 大学院修了と同時に、メイプルズはアフリカのケニアに夫婦で渡ります。ここでは、ある財団が医療研究に実験動物としてヒヒを必要としており、メイプルズはヒヒを捕獲してアメリカに送る仕事に就きました。この仕事中に、メイプルズはヒヒに右腕を噛まれるという大けがを負っています。2人の娘は、このケニアで生まれました。1966年、メイプルズ一家は、4年間のケニア滞在を切り上げて、アメリカに戻ります。帰国後、メイプルズは西ミシガン大学で教鞭をとり、翌年の1967年にテキサス大学から博士号を取得しました。

 1968年、メイプルズに大きな転機が訪れました。フロリダ大学の人類学部教授に迎えられたのです。ここで、メイプルズは1973年に人類学部長、1978年にフロリダ州立博物館(現・フロリダ自然史博物館)の自然人類学キュレーターに就任しました。

 1972年、メイプルズは、C. A. パウンド人体識別研究所をフロリダ自然史博物館内部に設立します。ちなみに、このC. A. パウンドとは、設立資金を寄付した、アディソン・パウンド(C. Addison Pound, Jr)にちなんで命名されました。メイプルズは、ここを拠点として法医人類学者として鑑定の仕事を、1972年から始めますが、1972年に1件・1973年に1件・1974年から1976年には毎年2件・1977年に3件と多くはありませんでした。しかし、1978年には12件と大幅に増加し、その後は雪だるま式に増えたそうです。この研究所は、1991年にフロリダ大学に徐々に移管され、1997年には完全にフロリダ大学人類学部に移管されました。

 メイプルズは、地元フロリダのみならず、多くの歴史上の人物の法医人類学の鑑定を行っています。その鑑定の一部は、1994年に『Dead Men Do Tell Tales』として出版され、1995年には邦題『法医人類学者の捜査記録:骨と語る』として日本でも翻訳出版されました。

Maples1994

 メイプルズは、インカ帝国を征服したフランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)[1470?-1541]、第12代アメリカ合衆国大統領のザッカリー・テイラー(Zachary Taylor)[1784-1850]、エレファント・マンとして有名なジョセフ・メリック(Joseph Merrick)[1862-1890]、最後のロシア皇帝のニコライ2世(Nicholai Aleksandrovich Romanov)[1868-1917]一家等の鑑定を行っています。

 1995年、メイプルズは脳腫瘍に罹ります。しかし、その後も法医人類学鑑定を続け、生涯に1200件以上もの法医人類学鑑定を行いました。1997年2月27日、メイプルズは、59歳で死去しました。死後、フロリダ大学は、メイプルズ法医学センターを設立し、メイプルズの偉業を称えています。

*ウィリアム・メイプルズに関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • ウィリアム・メイプルズ(1995)『骨と語る』(上野正彦監修・解説、小菅正夫訳)、徳間書店

季刊・人類学16.第4巻第4号

2013年08月30日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

Qanthro44

 『季刊・人類学』は、1970年から1989年にかけて、京都大学人類学研究会により、季刊(1月・4月・7月・10月)として毎年4冊刊行されていた雑誌です。第1巻から第20巻まで、当初は社会思想社から、途中から講談社により出版されました。内容は、文化人類学・民俗学・民族学・自然人類学・考古学と、人類学のあらゆる分野が包括的に掲載されていたものです。

 『季刊・人類学』第4巻第4号は、1973年12月24日に社会思想社から刊行されました。なお、社会思想社のよる刊行は今号までです。アマゾンで検索しましたが、ヒットしませんでしたのでリンクさせていません。

 本号の内容は、以下の通りです。

シンポジウム:大学・高校・社会における人類学・民族学の教育と普及

  1. はじめに(祖父江孝男)
  2. 大学教育における人類学・民族学(米山俊直)
  3. 高校教育における人類学・民族学(神部武宣)
  4. 隣接部門と人類学・民族学(中村たかを)
  5. コメント1(江淵一公)
  6. コメント2(香原志勢)
  7. コメント3(鶴見和子)
  8. 一般社会における人類学・民族学(中根千枝)
  9. コメント4(梅棹忠夫)
  10. おわりに(祖父江孝男)

伊勢神宮の確立(川添 登)

  • コメント(上田正昭)

民衆生活ノート(12)(篠田 統)

研究室めぐり13:慶應義塾大学言語文化研究所(有馬真喜子)

石田英一郎先生のこと(杉山晃一)

ひと:今西錦司(馬場 功)

ひと:大給近達(有馬真喜子)

タム・タム

ダシュトの国:京大中央アジア学術調査隊余録(樋口隆康)

近衛ロンド三百回(米山俊直)


季刊・人類学15.第4巻第3号

2013年08月29日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

Qanthro43

 『季刊・人類学』は、1970年から1989年にかけて、京都大学人類学研究会により、季刊(1月・4月・7月・10月)として毎年4冊刊行されていた雑誌です。第1巻から第20巻まで、当初は社会思想社から、途中から講談社により出版されました。内容は、文化人類学・民俗学・民族学・自然人類学・考古学と、人類学のあらゆる分野が包括的に掲載されていたものです。

 『季刊・人類学』第4巻第3号は、1973年8月30日に社会思想社から刊行されました。アマゾンで検索しましたが、ヒットしませんでしたのでリンクさせていません。

 本号の内容は、以下の通りです。

結縛の組織論(額田 厳)

  • コメント(和崎洋一)

サルの母子隔離実験の問題点(糸魚川直祐)

  • コメント(藤岡喜愛)

トチノミとドングリ:堅果類の加工方法に関する事例研究(松山利夫)

  • コメント(佐々木高明)

民衆生活ノート(11)(篠田 統)

もの:ドゥル族の農具、Tongそのほか・アフリカ農業文化の一面(端 信行)

研究室めぐり12:東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(有馬真喜子)

登山家の色の好みとそのうつろいについて(安田 武)

  • コメント(谷 泰)

ひと:和田正平(馬場 功)

ひと:石川栄吉(有馬真喜子)

タム・タム

済洲島から:韓国のことと韓国で気づいたこと(佐藤信行)

イタリアの旅から(井上忠司)


季刊・人類学14.第4巻第2号

2013年08月28日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

Qanthro42

 『季刊・人類学』は、1970年から1989年にかけて、京都大学人類学研究会により、季刊(1月・4月・7月・10月)として毎年4冊刊行されていた雑誌です。第1巻から第20巻まで、当初は社会思想社から、途中から講談社により出版されました。内容は、文化人類学・民俗学・民族学・自然人類学・考古学と、人類学のあらゆる分野が包括的に掲載されていたものです。

 『季刊・人類学』第4巻第2号は、1973年4月30日に社会思想社から刊行されました。アマゾンで検索しましたが、ヒットしませんでしたのでリンクさせていません。

 本号の内容は、以下の通りです。

日本文化の構造的理解をめざして(伊藤幹治)

  • コメント1(作田啓一)
  • コメント2(谷 泰)
  • リプライ(伊藤幹治)

部族混住:部族集団の地縁性(和崎洋一)

  • コメント(藤岡喜愛)

民衆生活ノート(10)(篠田 統)

もの:コライとタコトワン・ルカイ族のサトイモ加工法(松山利夫)

ひと:中尾佐助(馬場 功)

ひと:野口武徳(有馬真喜子)

タム・タム

ほん:ウラジミール・プロップ著『民話の形態学』(野村雅一)

座談会:焼畑の文化(宮本常一・中尾佐助・佐々木高明・端 信行・福井勝義[司会:石毛直道]

東北スマトラの華僑水上の生態(岩切成郎)


季刊・人類学13.第4巻第1号

2013年08月27日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

Qanthro41

 『季刊・人類学』は、1970年から1989年にかけて、京都大学人類学研究会により、季刊(1月・4月・7月・10月)として毎年4冊刊行されていた雑誌です。第1巻から第20巻まで、当初は社会思想社から、途中から講談社により出版されました。内容は、文化人類学・民俗学・民族学・自然人類学・考古学と、人類学のあらゆる分野が包括的に掲載されていたものです。

 『季刊・人類学』第4巻第1号は、1973年1月30日に社会思想社から刊行されました。アマゾンで検索しましたが、ヒットしませんでしたのでリンクさせていません。

 本号の内容は、以下の通りです。

ヒマラヤの国々と音楽:ネパール民族音楽を中心に(藤井知昭)

  • コメント(小島美子)

インドの新聞にみる求婚広告:苦悩するバラモン(辛島 昇・辛島貴子)

  • コメント(佐々木高明)

六つ目の仲間たち(中村たかお)

  • コメント(石毛直道)

民衆生活ノート(9)(篠田 統)

研究室めぐり11:東京都立大学社会学研究室(有馬真喜子)

ひと:宮本常一(有馬真喜子)

ひと:デービット・W・プラース(馬場 功)

タム・タム

ほん:飯島 茂著『カレン族の社会・文化変容』(岩田慶治)

雲南シップ・ソーン・パンナーの統治形態に関する一考察:ルゥ族の政治組織・土地制度を中心に(田辺繁治)

  • コメント(岩田慶治)

人類学者列伝5.フェリックス・キージング:その生涯と業績(石森秀三)

トバ・バタック族の病気と治療法(吉田集而)

  • コメント(藤岡喜愛)

古病理学の本27.古代アンデスの謎

2013年08月26日 | J1.古病理学の本[Palaeopathology:Jap

Katayamayoichi1992

古代アンデスの謎―2000年前の脳外科手術
価格:¥ 1,631(税込)
発売日:1992-07

 この本『古代アンデスの謎』は、日本大学医学部の脳神経外科医の片山容一さんが、南米の古代アンデス文明で盛んに行われていた頭蓋穿孔について書いたものです。副題には、「二〇〇〇年前の脳外科手術」とあります。1992年に、廣済堂出版から出版されました。

 本書の内容は、以下のように、全10章からなります。

  1. 穴の開いた頭蓋骨の発見
  2. 古代アンデスの謎をさぐる
  3. 古代アンデスの文化と環境
  4. 古代アンデスの脳外科手術
  5. 魔術的儀式か医学的治療か
  6. 古代アンデスの外科医の活躍
  7. 合理的だった古代アンデスの脳外科手術
  8. 古代外科医が克服した迷い
  9. 現代に通じる古代外科医の情熱
  10. 現代の脳外科にみる共通性

 本書は、古代アンデス文明の頭蓋穿孔について、脳神経外科医である片山容一さんが医学的に解明しており、大変、参考になります。


世界の人類学者71.トーマス・マッカーン(Thomas W. McKern)[1920-1974]

2013年08月25日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

Thomasmckern

トーマス・マッカーン(Thomas W. McKern)[1920-1974][Steele(1975)より改変して引用]

 トーマス・マッカーンは、1920年12月27日に、生まれました。やがて、1939年にウィスコンシン大学に入学して人類学を専攻し、1943年に卒業します。第二次世界大戦後の1946年、母校のウィスコンシン大学に戻って大学院に進学し、ウィリアム・ホワイト・ハウエルズ(William White HOWELLS)[1908-2005]の指導を受けました。ちなみに、ハウエルズは、1937年から1954年までウィスコンシン大学に在職し、その後、母校のハーヴァード大学に移籍しています。マッカーンは、1948年にウィスコンシン大学から修士号を取得しました。

 1948年から1949年にかけて、マッカーンは、第二次世界大戦中に太平洋地域で戦死したアメリカ軍兵士の遺体鑑定を行います。この時、マッカーンは、硫黄島で戦死したある米軍兵士の鑑定を依頼されました。それは、マッカーンの親友の一人で、結婚式の際に新郎であるマッカーンの付き添いをつとめた人物だったという事が、テキサス大学時代の教え子である法医人類学者のウィリアム・ロス・メイプルズ(William Ross MAPLES)[1937-1997]が書いた本『骨と語る』で紹介されています。

  1950年、マッカーンは、カリフォルニア大学バークレー校の大学院博士課程に入学し、セオドア・マッカウン(Theodore McCown)[1908-1969]の指導を受けました。1954年には、大学院を修了し博士号を取得します。卒業後は、母校のカリフォルニア大学で助手を務めたり、サンフランシスコ州立カレッジで人類学を教えました。

 1955年から1958年にかけて、マッカーンはスミソニアン国立博物館で、アメリカ国防軍の委託を受けて、アメリカ人男性の骨の年齢変化の研究を行います。また、紫外線を使って混ざった人骨から新旧を判別する方法も開発しました。

 1958年、マッカーンはテキサス大学人類学部教授に移籍します。その後、1967年から1971年にかけてカンサス大学で、1971年から死去した1974年までサイモン・フレーザー大学で人類学の教鞭をとりました。

 マッカーンの研究は、法医人類学の分野で顕著ですが、晩年は、人類進化の分野にも興味を広げています。実際、1969年には妻のシャロン・マッカーン(Sharon McKern)と共著で、『人類の起源(Human Origins)』という教科書も執筆しています。

Mckernmckern1969

McKern & McKern(1969)『Human Origins』の表紙

 マッカーンは、1974年9月13日に死去しました。まだ、53歳という若さでした。しかし、マッカーンが残した法医人類学の手法は、現在も広く使用されています。

*トーマス・マッカーンに関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • D. Gently Steel(1975)「Thomas W. McKern:1920-1974」『American Journal of Physical Anthropology』、43:159-164.
  • ウィリアム・メイプルズ(1995)『骨と語る』(上野正彦監修・解説、小菅正夫訳)、徳間書店 

世界の人類学者70.テレル・ウェイン・フィーニス(Terrell Wayne PHENICE)[1940-1975]

2013年08月24日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

Terrellwaynephenice

テレル・ウェイン・フィーニス(Terrell Wayne PHENICE)[1940-1975][Daniels(1975)を改変]

 テレル・ウェイン・フィーニスは、1940年6月15日に、アメリカのルイジアナ州ジェニングスで生まれました。フィーニスは、1958年にマクファーソン・カレッジに入学します。ここで、フィーニスは将来の伴侶となる、リリアン・アオタキ(Lillian AOTAKI)と出会い、1961年に結婚し、2人の娘をもうけました。

 1962年、フィーニスはアフリカのナイジェリアに渡り、学校で2年間教鞭をとりました。1964年に帰国すると、フィーニスはカンサス大学の大学院に入学し、人類学を専攻します。このカンサス大学では、後に、テネシー大学に移籍して法医人類学を発展させたウィリアム・バス(William M. BASS)に指導を受け、1968年に博士号を取得しました。また、在学中、アラバマ大学医学部で肉眼解剖学の勉強もしています。

 フィーニスは、1968年にミシガン州立大学人類学部の助教授に就任し、1971年に準教授に昇任しました。ミシガン州立大学におけるフィーニスの講義は、スライドやビデオを使ったもので学生に人気が高く、1969年にはベスト・ティーチャー賞を受賞しています。また、1972年には、人類進化に関する入門書も書きました。

 フィーニスの興味は幅広く、法医人類学・人類進化学・人体骨学・霊長類行動学に及んでいます。その中でも、1969年に発表した「新しく開発した視覚方法による恥骨からの性別判定」が有名です。この方法は、計測を行うのではなく、恥骨の3つの特徴を肉眼観察により性別判定を行う方法で、アフリカ系及びヨーロッパ系の男女275例を調べて、的中率は、約96%から97%という非常に有効なものでした。この3つの特徴は、女性の恥骨に認められるもので、男性には稀に認められるものです。

Phenice1969

Phenice(1969)より改変して引用[左列:女性恥骨・右列:男性恥骨、1 .腹側弧(Ventral Arc)・3 .恥骨下凹(Subpubic Concavity)・4 & 5.内側隆線(Ridge on Medial Aspect)]

  • T. W. Phenice(1969)「A Newly Developed Visual Method of Sexing the Os Pubis」『American Journal of Physical Anthropology』、30:297-302

 1974年7月、フィーニスは台湾国立大学に1年間の研究休暇をとって出発しました。ところが、台湾到着後、すぐに体調を崩し、治療のためにハワイのホノルルにある病院に入院します。しかし、すでに進行していたガンのため、1975年1月10日に死去しました。まだ、34歳という若さでした。しかし、フィーニスが開発した「フィーニス法」は、今でも広く法医人類学や人類学の世界で活用されています。

 実は、私も1991年に新潟県立看護大学の藤田 尚さんと共同研究で、このフィーニス法を日本人に応用して研究し、学会発表をしたことがあります。

  • Narasaki, S. & H. Fujita(1991)「Estimation of sex by nonmetric characters of os pubis: Application of PHENICE's method to modern Japanese」『Journal of Anthropological Society of Nippon』、99:216.

*テレル・ウェイン・フィーニスに関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • Roger L. Daniels(1976)「Terrell Wayne Phenice:1940-1975」『American Journal of Physical Anthropology』、44:1-4

人類学の本59.ひ弱になる日本人の足

2013年08月23日 | E1.人類学の本[Anthropology:Japanese
ひ弱になる日本人の足 ひ弱になる日本人の足
価格:¥ 1,427(税込)
発売日:1993-11

 この『ひ弱になる日本人の足』は、元東京大学・京都大学・大妻女子大学の人類学者・近藤四郎[1918-2003]さんが足についてまとめたものです。1993年に、草思社から出版されました。

 本書の内容は、以下のように、全7章からなります。

  • 1.日本人の足はなぜ弱くなったのか
  • 2.足と履物について考える
  • 3.ヒトは二本足でどこまでも歩く
  • 4.足の寿命と人間の寿命
  • 5.足と性と家族
  • 6.足と遊び、そして文化
  • 終わりに.人類は存続できるか:人類学の立場から

 本書は、「足」を一生のテーマとして研究した近藤四郎さんが足についてまとめたもので、大変、参考になります。本書の「まえがき:長谷部言人先生の教え」には、東京帝国大学理学部人類学科教授だった、長谷部言人[1882-1969]さんから、「君は怠け者だから一生、足の研究をやりたまえ」と言われたと書かれています。

Kondo1993


人類学の本58.足の話

2013年08月22日 | E1.人類学の本[Anthropology:Japanese

Kondo1979

足の話 (1979年) (岩波新書)
価格:¥ 336(税込)
発売日:1979-10

 この『足の話』は、元東京大学・京都大学・大妻女子大学の人類学者・近藤四郎[1918-2003]さんが、足について書いたものです。1979年に、岩波新書黄版101として、岩波書店から出版されました。

 本書の内容は、以下のように、全6章からなります。

  1. アンデスの歩く人びと
  2. 足という言葉
  3. ロコモーションと姿勢
  4. ヒトの姿勢と歩容
  5. ヒトの足の進化
  6. 足から見た履物

 本書は、生涯の研究テーマを「足」に絞った近藤四郎さんが足についてまとめたもので、大変、参考になります。


人類学の本57.比較「優生学」史

2013年08月21日 | E1.人類学の本[Anthropology:Japanese
比較「優生学」史―独・仏・伯・露における「良き血筋を作る術」の展開 比較「優生学」史―独・仏・伯・露における「良き血筋を作る術」の展開
価格:¥ 5,775(税込)
発売日:1998-07

 この『比較「優生学」史』は、ペンシルヴァニア大学のマーク・アダムズ(Mark B. ADAMS)さんによる編著で、世界中の優生学の歴史や実情を比較したものです。副題には、「独・仏・伯・露における良き血筋を作る術の展開」とあります。1998年に、佐藤雅彦さんによる訳で、現代書館から出版されました。

 本書の内容は、以下のように、全6章からなります。

  1. 科学史から見た「優生学」:「優生学」史が進んできた道と、進むべき道(マーク・B・アダムズ)
  2. ドイツにおける「民族衛生学」運動:1904~1945年(シーラ・フェイト・ウェイス)
  3. フランスにおける「優生学」運動:1890~1940年(ウィリアム・H・シュナイダー)
  4. ブラジルで展開した「優生学」:1917~1940年(ナンスィー・レイズ・ステパン)
  5. ロシアで展開した「優生学」:1900~1940年(マーク・B・アダムズ)
  6. 比較「優生学」史の発展のために(マーク・B・アダムズ)

 本書は、ドイツ・フランス・ブラジル・ロシアにおいて、優生学がどのように発展したかについて書かれており、参考になります。優生学は、当時、多くの人類学者が関わっていた事が指摘されています。

Adams1998


人類学の本56.優生学の名のもとに

2013年08月20日 | E1.人類学の本[Anthropology:Japanese

Kevles1993

優生学の名のもとに―「人類改良」の悪夢の百年
価格:¥ 2,854(税込)
発売日:1993-09

 この『優生学の名のもとに』は、カリフォルニア工科大学のダニエル・ケヴルズ(Daniel J. KEBLES)さんが、優生学、特に優生学の歴史について書いたものです。副題には、「人類改良の悪夢の百年」とあります。1993年に、西俣総平さんによる訳で、朝日新聞社から出版されました。

 本書の内容は、以下のように、全19章からなります。

  1. 優生学の創始者:フランシス・ゴールトン
  2. 生物測定学の創始者:カール・ピアソン
  3. 偉大なる思想の信奉者:チャールズ・ダヴェンポート
  4. 優生思想の普及
  5. 優生運動の堕落と欠点
  6. 種の再生への道
  7. さまざまな優生立法
  8. 高まる優生学への批判
  9. 偽りの生物学
  10. ライオネル・ペンローズとコルチェスター調査
  11. 優生学の改革運動
  12. 素晴らしき新生物学
  13. 人類遺伝学の確立
  14. イギリス学派の最盛期
  15. 血液・ビッグサイエンス・生化学
  16. 染色体:製本のミス
  17. 新しい優生学
  18. 人間の遺伝への干渉
  19. 神の抹殺

 本書は、優性学の歴史について書かれています。この優生学には、多くの人類学者が関わっており、参考になります。本書でも1章をさいて取り上げられている、チャールズ・ベネディクト・ダヴェンポート(Charles Benedict DAVENPORT)[1866-1944]は、第8代アメリカ自然人類学会会長を務めた人物としても有名です。


人類学の本55.優生学と人間社会

2013年08月19日 | E1.人類学の本[Anthropology:Japanese
優生学と人間社会 (講談社現代新書) 優生学と人間社会 (講談社現代新書)
価格:¥ 777(税込)
発売日:2000-07-19

 この『優生学と人間社会』は、米本昌平さん・松原洋子さん・橳島次郎さん・市野川容孝さんが、優生学について書いたものです。2000年に、講談社現代新書1511として、講談社から出版されました。

 本書の内容は、以下のように、全6章からなります。

  • 第1章.イギリスからアメリカへ:優生学の起源(米本昌平)
  • 第2章.ドイツ:優生学はナチズムか?(市野川容孝)
  • 第3章.北欧:福祉国家と優生学(市野川容孝)
  • 第4章.フランス:家庭医の優生学(橳島次郎)
  • 第5章.日本:戦後の優生保護法という名の断種法(松原洋子)
  • 終章.生命科学の世紀はどこへ向かうのか(米本昌平)

 本書は、世界中の優生学について書かれています。この優生学は、かつて、世界中で多くの人類学者が関わっており、参考になります。

Yonemoto2000


世界の人類学者69.チャールズ・ベネディクト・ダヴェンポート(Charles Benedict DA

2013年08月18日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

Charlesbenedictdavenport

チャールズ・ベネディクト・ダヴェンポート(Charles Benedict DAVENPORT)[1866-1944]

 チャールズ・ベネディクト・ダヴェンポートは、1866年6月1日に、アメリカのコネチカット州スタンフォードで生まれました。やがて、1886年にブルックリン工科大学で土木工学を専攻して卒業します。その後、ハーヴァード大学に入学して動物学を専攻し、1889年に学士号・1892年に博士号を取得しました。修了後、ダヴェンポートは母校に残り、動物学の助手として1899年まで務めました。この間、1897年にはイギリスを訪問し、フランシス・ガルトン(Francis GALTON)[1822-1911]やカール・ピアソン(Karl PEARSON)[1857-1936]に教えを受けています。

 1899年、ダヴェンポートはシカゴ大学の助教授に就任し、1901年には準教授に昇任しました。しかし、1904年にはその職を辞し、カーネギー研究所がニューヨークのロングアイランドに新設したコールド・スプリング・ハーバーの実験進化学部門(1921年に遺伝学部門と改称)の所長に就任しました。ダヴェンポートは、ここで、優生学の研究を開始します。

 当時のダヴェンポートによる優生学研究は、人種差別につながると世界中から批判を受けました。しかし、ナチス・ドイツが台頭した当時のドイツからは受け入れられ、多くの学会や学会誌の編集に携わっています。1934年、ダヴェンポートは引退しましたが、研究室は与えられており生体計測の研究を行いました。1943年にダヴェンポートは、アメリカ自然人類学会の第8代会長に就任します。

 1944年1月、1頭のシャチがロングアイランドに打ち上げられます。コールド・スプリング・ハーバーのクジラ博物館の館長兼学芸員だったダヴェンポートは、そのシャチの頭蓋骨をコレクションに加えたいと希望しました。やがて、シャチの頭部はダヴェンポートの自宅に持ち込まれ、周囲の人間の制止を振り切って、土に埋めるのではなく煮て頭蓋骨標本を作成する作業に没頭しました。しかし、冬の野外での作業は寒く、ダヴェンポートは風邪をひき、やがて肺炎に罹り、1944年2月18日に死去しました。ダヴェンポートは、生物統計学や優生学の分野で、約400編の論文と本を残しています。

*ダヴェンポートに関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • Oscar Riddle(1947)'Charles Benedict Davenport 1866-1944',"Biographical Memoirs of National Academy of Sciences", 25: 75-110.
  • Frank Spencer(1997)'Davenport, Charles Benedict(1866-1944)',"History of Physical Anthropology: An Encyclopedia"(Frank Spencer ed.), Vol2, pp.320-321.

世界の人類学者68.レイモンド・パール(Raymond PEARL)[1879-1940]

2013年08月17日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

Raymondpearl

レイモンド・パール(Raymond PEARL)[1879-1940]

 レイモンド・パールは、1879年6月3日に、アメリカのニュー・ハンプシャー州ファーミントンで生まれました。やがて、ダートマス大学に入学し生物学を専攻して1899年に卒業します。生物学専攻生として、当時、最も若かったと言われています。その後、ミシガン大学大学院に進学し、動物学を専攻して1902年にミミズの体長と体節数の相関関係をテーマに博士号を取得しました。但し、この体長と体節数には相関関係が無く、体長が長くなると体節の長さも長くなるという結論だそうですが・・・。パールは、修了後もしばらくミシガン大学に残って動物学を教えています。パールの指導教官は、ハーバート・スペンサー・ジェニングス(Herbert Spencer JENNINGS)[1868-1947]で、2人は、ダートマス大学、ペンシルヴェニア大学、ジョンズ・ホプキンス大学で最初は師弟関係、後に、同僚として共同研究を行っています。

 やがて、パールに大きな転機が訪れました。1905年から1906年にかけて、イギリスのロンドン大学に留学し、著名な統計学者のカール・ピアソン(Karl PEARSON)[1857-1936]の元で研究を行ったのです。ピアソンの影響を強く受けたパールは、統計学や優生学を一生のテーマとすることにしました。

 1906年にイギリスから帰国したパールは、ペンシルヴェニア大学の動物学助手に就任します。翌年の1907年にメイン大学に移籍し、メイン農業実験ステーションに勤務して、メンデルの遺伝学に興味を持ちました。1917年には、新設されたアメリカ合衆国食品管理局の統計部門責任者に就任します。1918年、パールは米国政府に勤務しながら、ジョンズ・ホプキンス大学の公衆衛生大学院の生物統計学教授に就任し、1919年には完全に大学に移籍しました。ちなみに、この公衆衛生大学院を設置したのは、ジョンズ・ホプキンス大学が世界で最初だったそうです。パールは、このジョンズ・ホプキンス大学に死去するまで勤務します。1923年にジョンズ・ホプキンス大学医学部の生物学教授に、1930年には公衆衛生大学院の生物学教授と所属が変わっています。

 パールは、1926年に「The Quaternary Review of Biology」を、1929年には「Human Biology」を創刊し、この2つの雑誌に精力的に論文を投稿しました。また、1930年にアレシュ・ヘリチカ(Ales HRDLICKA)[1869-1943]により創設されたアメリカ自然人類学の第3代会長に1934年に就任し、1936年まで務めています。

 パールの研究分野は、非常に広いのですが、その中でも特に、寿命と出生率に関する研究が著名です。パールは、人口統計学・生物統計学の先駆者と言われています。 パールは、1940年11月17日に死去しました。1942年には、恩師のハーバート・スペンサー・ジェニングス(Herbert Spencer JENNINGS)[1868-1947]による追悼文が発表されています。ジェニングスも、まさか、かつての弟子の追悼文を書くことになるとは予想していなかったことでしょう。それほど、早い死去でした。しかし、その短い期間に、パールは、17冊の本と約700編の論文を残しました。

*レイモンド・パールに関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • H. S. Jennings(1942)'Raymond Pearl 1879-1940',"National Academy of Sciences", Vol.22, pp.296-347.
  • Sharon E. Kingsland(1997)'Pearl, Raymond(1879-1940)',"History of Physical Anthropology: An Encyclopedia"(Frank Spencer ed.), Vol.2, pp.811-813.