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人類学のススメ

人類学の世界をご紹介します。OCNの「人類学のすすめ」から、サービス終了に伴い2014年11月から移動しました。

季刊・人類学40.第10巻第4号

2014年01月31日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

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 『季刊・人類学』は、1970年から1989年にかけて、京都大学人類学研究会により、季刊(2月・5月・8月・11月)として毎年4冊刊行されていた雑誌です。第1巻から第20巻まで、当初は社会思想社から、途中から講談社により出版されました。内容は、文化人類学・民俗学・民族学・自然人類学・考古学と、人類学のあらゆる分野が包括的に掲載されていたものです。

 『季刊・人類学』第10巻第4号は、1979年11月30日に講談社から刊行されました。アマゾンで検索しましたが、ヒットしませんでしたのでリンクさせていません。

 本号の内容は、以下の通りです。

ハルマヘラ島北部、ガレラ族の焼畑耕地とその土地利用(佐々木高明)

  • コメント1(福井勝義)
  • コメント2(末原達郎)

はばたき飛行機と人間の直立2足歩行:うごくための工夫(小泉英雄)

  • コメント1(藤岡喜愛)
  • コメント2(石田英実)

研究室めぐり36.広島大学総合科学部(有馬真喜子)

ひと:大林太良(有馬真喜子)

ひと:倉田 勇(馬場 功)

タム・タム

妄想共同体について:集団感応現象への考察(野田正彰・白松美加)

  • コメント1(岩田慶治)
  • コメント2(石毛直道)
  • コメント3(谷 泰)

ほん:千葉徳爾・籾山政子著『風土論・生気候』(大塚柳太郎)

ほん:N.ティンバーゲン・E.A.ティンバーゲン著『自閉症』(中田睦子)


季刊・人類学39.第10巻第3号

2014年01月30日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

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 『季刊・人類学』は、1970年から1989年にかけて、京都大学人類学研究会により、季刊(2月・5月・8月・11月)として毎年4冊刊行されていた雑誌です。第1巻から第20巻まで、当初は社会思想社から、途中から講談社により出版されました。内容は、文化人類学・民俗学・民族学・自然人類学・考古学と、人類学のあらゆる分野が包括的に掲載されていたものです。

 『季刊・人類学』第10巻第3号は、1979年9月20日に講談社から刊行されました。アマゾンで検索しましたが、ヒットしませんでしたのでリンクさせていません。

 本号の内容は、以下の通りです。

冥婚から陰陽合婚へ:台湾における冥婚類型の変化とその意味(中田睦子)

  • コメント1(桜井徳太郎)
  • コメント2(和田正平)

「慣習長」と「公務長」:インドネシア・バリ島一村落における伝統的自治組織と近代的行政機構(松永和人)

  • コメント1(口羽益生)
  • コメント2(染谷臣道)

第6王朝ペピオンク第2王子墳墓出土の真空状に保存されたエジプト菓子(マックス・ヴェーレン:舟田詠子訳)

  • 解説(舟田詠子)
  • コメント1(鈴木八司)
  • コメント2(中尾佐助)

研究室めぐり35.富山大学文化人類学研究室(有馬真喜子)

ひと:直江広治(有馬真喜子)

ひと:川村俊蔵(馬場 功)

タム・タム

今西提言に応えて(杉山幸丸・田中二郎・和崎洋一)

タカリー文書試論:その成立と機能をめぐって(加藤千代)

  • コメント(飯島 茂)

ほん:竹田聴洲著『村落・同族・祭祀の研究』(岩田慶治)

編集者への手紙:小さなこと:コメント型式のありかたについて(末成道男)


季刊・人類学38.第10巻第2号

2014年01月29日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

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 『季刊・人類学』は、1970年から1989年にかけて、京都大学人類学研究会により、季刊(2月・5月・8月・11月)として毎年4冊刊行されていた雑誌です。第1巻から第20巻まで、当初は社会思想社から、途中から講談社により出版されました。内容は、文化人類学・民俗学・民族学・自然人類学・考古学と、人類学のあらゆる分野が包括的に掲載されていたものです。

 『季刊・人類学』第10巻第2号は、1979年5月31日に講談社から刊行されました。アマゾンで検索しましたが、ヒットしませんでしたのでリンクさせていません。

 本号の内容は、以下の通りです。

紙すき技術の様態:丹波黒谷の事例より(栗田和明)

  • コメント1(吉田光邦)
  • コメント2(中村たかを)

ロングハウスをめぐる空間構造:イバン族のばあい(関根康正)

  • コメント(清水昭俊)

現代日本人の「くつろぎ」イメージの諸形態:不定型の「社会的なるもの」からの逃走(高田康孝)

  • コメント1(藤岡喜愛)
  • コメント2(栗田靖之)

研究室めぐり34.国立民族学博物館研究部(有馬真喜子)

ひと:浜口恵俊(馬場 功)

タム・タム

一つの提案:個人プレイからチームプレイへ(今西錦司)

ムフム(呪医)のくすりと処方:テンボ族の民族誌的素描(赤阪 賢)

ほん:坪内良博・前田成文著『核家族再考』(清水由文)

ほん:金山宣夫著『日本・アメリカ・メキシコ比較生活文化事典』(細川弘明)

ほん:R.A.ハインド著『行動生物学:ヒトの社会行動の基礎(上・下)』(北村光二)

オセアニアのタコ釣具とその起源説話について(高山 純)


季刊・人類学37.第10巻第1号

2014年01月28日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

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 『季刊・人類学』は、1970年から1989年にかけて、京都大学人類学研究会により、季刊(2月・5月・8月・11月)として毎年4冊刊行されていた雑誌です。第1巻から第20巻まで、当初は社会思想社から、途中から講談社により出版されました。内容は、文化人類学・民俗学・民族学・自然人類学・考古学と、人類学のあらゆる分野が包括的に掲載されていたものです。

 『季刊・人類学』第10巻第1号は、1979年2月28日に講談社から刊行されました。アマゾンで検索しましたが、ヒットしませんでしたのでリンクさせていません。

 本号の内容は、以下の通りです。

シンポジウム:文化人類学における都市研究の可能性(司会:祖父江孝男・米山俊直・黒田悦子・守屋 毅・綾部恒雄・青木 保・宮田 登・日野舜也・中村孚美・梶原景昭・増田義郎・可児弘明・佐藤信行)

バシイック諸語における人名(山田幸宏)

  • コメント(崎山 理)

下ビルマにおける伝承と新稿:ウー・シンジー・ナッ

  • コメント(大野 徹)

研究室めぐり33.国立民族学博物館情報管理施設(有馬真喜子)

ひと:河合雅雄(馬場 功)

ひと:坪井洋文(有馬真喜子)

タム・タム

台湾の村廟について:廟を中心に見た村落の結合(石田 浩・江口信清・窪田 弘)

  • コメント(末成道男)

ほん:綾部恒雄編『アメリカの民族集団』(祖父江孝男)

ほん:ソレッキー著『シャニダール洞窟の謎』(石田英実)

ほん:井上忠司著『「世間体」の構造』(細辻恵子)

ほん:アイベスフェルト著『プログラムされた人間』(森 明雄)


群馬の人骨発見史1.榊原康政の墓(近世):四天王の骨

2014年01月27日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

 榊原康政は、天文17(1548)年に三河国上野(現・愛知県豊田市)で、榊原長政の長男として生まれました。永禄3(1560)年には徳川家康に仕え、その主従関係は榊原康政が亡くなるまで続きます。永禄6(1563)年には、家康から「康」の字を賜り、小平太から「康政」に改名しました。

 榊原康政は、徳川家康と共に、姉川の戦い(元亀元年:1570年)・三方ヶ原の戦い(元亀3年:1572年)・長篠の戦い(天正3年:1575年)・小牧長久手の戦い(天正12年:1584年)・小田原の役(天正18年:1590年)・関ヶ原の戦い(慶長5年:1600年)と、戦を続けます。天正18(1590)年、徳川家康が関東へ入国したのに伴い、上野国館林城(現・群馬県館林)に入り10万石を領しました。

 私生活では、正室に大須賀康高[1527-1589]の娘を迎え、天正9(1581)年に長男の榊原忠政[1581-1607]が、天正13(1585)年に次男の榊原忠長[1585-1604]が生まれます。また、側室の花房氏との間に、天正18(1590)年に三男の榊原康勝[1590-1615]が生まれています。ところが、天正17(1589)年に正室の父親の大須賀康高が死去し、相続するべき男子がいなかったため、榊原康政の長男の榊原忠政が養子になり大須賀忠政として継ぎました。その後、榊原家を継ぐべき次男の榊原忠長も慶長9(1604)年に死去しています。また、榊原家を継いだ三男の榊原康勝も、元和元(1615)年に、大阪夏の陣に参戦後、京都で病死しました。

 関ヶ原の戦いの後の慶長6(1601)年、榊原康政は、徳川家康から水戸25万石を打診されますがそれを辞退したと言われています。理由は、関ヶ原の戦いの時に、徳川秀忠[1579-1632]に付き従い中山道から戦場に向かったものの間に合わなかったからだと言われています。また、館林の方が江戸に参勤しやすいからだとも伝わっています。

 榊原康政は、酒井忠次[1527-1596]・本田忠勝[1548-1610]・井伊直政[1561-1602]と共に、徳川四天王と呼ばれました。榊原康政は、慶長11(1606)年5月14日に館林で病死します。その遺骨は、群馬県館林市の善導寺に埋葬されました。

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写真1.榊原家の墓(移転前)[館林市教育委員会(1992)『榊原康政の墓調査報告書』より改変して引用]

 榊原家歴代の墓は、群馬県館林市の善導寺にあります。この善導寺の起源は、和銅元(708)年に僧の行基[668-749]が訪問した際の草庵に遡るそうです。その後、建治2(1276)年に良暁上人が善導寺として再興しました。元々は館林駅前にありましたが、都市計画の広場整備計画により移転する事になり、1984年11月~1985年3月にかけて館林市教育委員会による発掘調査が実施されています。

 榊原家の墓には、初代の榊原康政・榊原康政の長男の大須賀忠政・榊原康政の三男で二代の榊原康勝・側室で榊原康勝の母の花房氏の4人が埋葬されていました。しかし、大須賀忠政の遺骨は確認されず、その他の3体の人骨が確認されています。

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写真2.榊原康政の墓[館林市教育委員会(1992)『榊原康政の墓調査報告書』より改変して引用]

 榊原康政の骨は、直葬されており、蔵骨器には納められていませんでした。人骨を鑑定した聖マリアンナ医科大学(当時)の森本岩太郎[1928-2000]によると、榊原康政の遺骨は火葬されており、総重量は約480gでした。

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写真3.榊原康政の遺骨[館林市教育委員会(1992)『榊原康政の墓調査報告書』より改変して引用]

 頭蓋骨の主縫合は、内板は閉鎖しているが、外板は部分的に開いていた。四肢骨の骨体は太く、骨質は厚く、頑丈な骨格であったと推定されています。

 榊原康勝の骨は蔵骨器に入れられており、25歳で亡くなったという史実通り、下顎の歯槽は16個すべてが開放しており脱落して歯槽が閉鎖した痕跡はなかったそうです。花房氏の骨は榊原康政と同様に直葬されており、蔵骨器には納められていませんでした。

 なお、この榊原家の墓には、もう1つ墓があります。それは、榊原康政の死去に伴って殉死した南 直道の墓です。この南 直道の墓も一緒に移転され、かつての主の榊原康政の墓の脇に死後も仕えています。

*榊原康政に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 館林市教育委員会(1992)『榊原康政の墓調査報告書』
  • 森本岩太郎(1992)「Ⅳ.出土遺物・1.榊原康政・同康勝・花房氏の遺骨について」『榊原康政の墓調査報告書』、館林市教育委員会、pp.72-74

報告書13.榊原康政の墓調査報告書

2014年01月26日 | N7.報告書[Site Report:Japanese]

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 この報告書『榊原康政の墓調査報告書』は、徳川家の四天王の一人・榊原康政[1548-1606]とその家族の墓地移転に伴う調査報告書です。群馬県館林市教育委員会による編で、1992年に出版されました。アマゾンで検索しましたが、ヒットしませんでしたのでリンクさせていません。

 本書の内容は、以下のように全2章からなります。

第1章.近世初代城主・榊原康政

  1. 榊原康政とその時代
  2. 榊原家の歴史
  3. 館林と榊原家
  4. 榊原家と館林の寺院
  5. 文献にみる榊原家の法要記録

第2章.群馬県指定史跡「榊原康政の墓 附同画像調査報告」

  1. 遺跡の内容と周辺
  2. 調査の経過と方法
  3. 調査の概要
  4. 出土遺物
  5. 出土遺物
  6. 調査のまとめ
  7. 復元工事の概要

 なお、本書の第2章の「4.出土遺物」には、聖マリアンナ医科大学の森本岩太郎[1928-2000]先生による火葬人骨の報告が掲載されています。


日本の人骨発見史11.三貫地貝塚(縄文):福島県最大級の縄文時代人骨出土遺跡

2014年01月25日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

 三貫地貝塚は、福島県相馬郡新地に所在します。この遺跡は、縄文時代後期から晩期の貝塚で、小規模な発掘と2度にわたる大規模な発掘調査で100体を超える縄文時代人骨が出土しました。

 大規模調査は、以下のように2度行われています。

  • 1952年3月26日~同年4月4日:日本考古学協会の縄文文化編年研究特別委員会が、甲野 勇[1901-1967]を調査責任者として実施
  • 1954年10月25日~同年10月31日:東京大学理学部人類学教室の鈴木 尚[1912-2004]を調査責任者として実施

 この発掘調査の全容は、調査から30年以上経過した1988年に、『三貫地貝塚』として福島県立博物館から出版されました。

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写真1.三貫地貝塚の発掘調査風景(1952年)[福島県立博物館(1988)『三貫地貝塚』より改変して引用]

 2回にわたる大規模発掘調査では、縄文時代人骨が約100体以上出土しましたが、その多くが合葬あるいは再埋葬であり、単体の埋葬は29体でした。残念ながら、発掘調査報告書が出版されるまでに30年以上経過しているために、資料が紛失したり別のラベルがつけられていたりと整理作業はかなりの困難を極めたそうです。

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写真2.三貫地貝塚の縄文時代人骨の出土状況(1952年)[福島県立博物館(1988)『三貫地貝塚』より改変して引用]

 報告書に記載されている人骨数は、以下の通りです。

◎1952年調査

  • 総数:36体
  • 性別:男性17体・女性17体・男性?1体・女性?1体
  • 死亡年齢:男性18体(若年3体・青年3体・壮年8体・熟年4体)・女性18体(青年2体・壮年12体・熟年4体)

◎1954年調査

  • 総数:37体
  • 性別:男性22体・女性11体・不明5体
  • 死亡年齢:男性22体(若年1体・青年2体・壮年13体・熟年1体・若年~壮年1体・青年~壮年1体・壮年~熟年1体・不明2体)・女性11体(若年1体・壮年6体・青年~壮年3体・不明1体)

 人骨の埋葬形態は屈葬が多いのですが、中には伸展葬・合葬・集積埋葬も認められています。人骨の形態は、頭蓋観察を鈴木隆雄(10例)・頭蓋計測を埴原和郎と内田亮子・歯を松村博文・頭骨の形態小変異を百々幸雄・四肢骨を馬場悠男(最大30例)・古病理学を鈴木隆雄・埋葬状態を埴原和郎が報告しています。

 頭蓋骨や歯の多変量解析による分析では、三貫地貝塚出土縄文時代人骨は、東北圏よりも関東圏や中部日本の縄文人ともかなり強い類似性を持つことが示唆されています。また、頭骨の形態小変異では、前頭縫合の出現率が高く、34.2%と約1/3にも達しており、東日本縄文人全体の11.1%と比べてもその特異性が明らかになっています。

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写真3.三貫地貝塚22号人骨出土状況(壮年男性)[福島県立博物館(1988)『三貫地貝塚』より改変して引用]

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写真4.三貫地貝塚22号人骨頭蓋骨前面観(壮年男性)[福島県立博物館(1988)『三貫地貝塚』より改変して引用]

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写真5.三貫地貝塚22号人骨右側面観(壮年男性)[福島県立博物館(1988)『三貫地貝塚』より改変して引用]

 この三貫地貝塚の発掘調査には、甲野 勇[1901-1967]・酒詰仲男[1902-1965]・吉田 格[1920-2006]・芹沢長介[1919-2006]・江坂輝彌・岡本 勇[1930-1997]・伊東信雄[1908-1987]等が発掘調査に参加しており、考古学及び人類学史上で著名な遺跡です。

*三貫地貝塚に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 福島県立博物館(1988)『三貫地貝塚』
  • 鈴木隆雄(1988)「第11章第1節.頭蓋・頭蓋観察」『三貫地貝塚』、福島県立博物館、pp.416-427
  • 埴原和郎・内田亮子(1988)「第11章第1節.頭蓋・頭蓋計測」『三貫地貝塚』、福島県立博物館、pp.427-434
  • 松村博文(1988)「第11章第1節.頭蓋・歯牙」『三貫地貝塚』、福島県立博物館、pp.434-438
  • 百々幸雄(1988)「第11章第1節.頭蓋・頭骨の形態小変異」『三貫地貝塚』、福島県立博物館、pp.439-443
  • 馬場悠男(1988)「第11章第2節.四肢骨」『三貫地貝塚』、福島県立博物館、pp.443-480
  • 鈴木隆雄(1988)「第11章第3節.古病理学的所見」『三貫地貝塚』、福島県立博物館、pp.481-492
  • 埴原和郎(1988)「第11章付編.埋葬状態」『三貫地貝塚』、福島県立博物館、pp.492-494

報告書12.三貫地貝塚

2014年01月24日 | N7.報告書[Site Report:Japanese]

Fukushimapmuseum1988

 三貫地貝塚は、福島県相馬郡新地町に所在します。この遺跡は、1952年に甲野 勇[1901-1967]を調査責任者として発掘調査が行われました。その後、1954年に鈴木 尚[1912-2004]を調査責任者として東京大学理学部人類学教室により発掘調査が追加して実施されています。この遺跡からは、縄文時代後期~晩期の人骨が100体以上出土しています。この発掘調査の全容は、調査から30年以上経過した1988年に、『三貫地貝塚』として福島県立博物館から出版されました。アマゾンで検索しましたがヒットしませんでしたので、リンクさせていません。私は、福島県立博物館を訪問した際に購入しました。

 本書の内容は、以下のように、全12章からなります。

  1. 調査から報告書刊行までの経過
  2. 三貫地貝塚について
  3. 日誌抄
  4. 三貫地貝塚研究史
  5. 三貫地貝塚の位置と周辺の遺跡
  6. 調査区の設定
  7. 層位と遺構について
  8. 出土遺物について
  9. まとめ
  10. 1954年の調査
  11. 三貫地貝塚出土人骨
  12. 動物遺存体について
  •  なお、第11章には、「頭蓋観察」(鈴木隆雄)・「頭蓋計測」(埴原和郎・内田亮子)・「歯牙」(松村博文)・「頭骨の形態小変異」(百々幸雄)・「四肢骨」(馬場悠男)・「古病理学的所見」(鈴木隆雄)・「付編埋葬状態」(埴原和郎)と、多くの人類学者が三貫地貝塚出土人骨について記載しています。

  • 季刊・人類学36.第9巻第4号

    2014年01月23日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

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     『季刊・人類学』は、1970年から1989年にかけて、京都大学人類学研究会により、季刊(2月・5月・8月・11月)として毎年4冊刊行されていた雑誌です。第1巻から第20巻まで、当初は社会思想社から、途中から講談社により出版されました。内容は、文化人類学・民俗学・民族学・自然人類学・考古学と、人類学のあらゆる分野が包括的に掲載されていたものです。

     『季刊・人類学』第9巻第4号は、1978年12月10日に講談社から刊行されました。アマゾンで検索しましたが、ヒットしませんでしたのでリンクさせていません。

     本号の内容は、以下の通りです。

    インドネシアとミクロネシアの言語的接触(崎山 理)

    • コメント(和田祐一)

    オセアニアのタコ釣具とその起源説話について(高山 純)

    • コメント(大島襄二)

    雑穀のむら:とくに雑穀の栽培と調理について(木俣美樹男・熊谷留美・佐々木典子・武井富士子・中込卓男)

    • コメント(福井勝義)

    説話分析の方法に関して:江口氏のコメントにお答えする(小川 了)

    研究室めぐり32.一橋大学社会人類学研究室(有馬真喜子)

    ひと:川田順造(有馬真喜子)

    ひと:黒田悦子(馬場 功)

    タム・タム

    宮本常一先生聞き書き(2)(宮本常一)

    ナンブーディリのアグニチャヤナ祭式:南インド・ケーララ州に現存するヴェーダ期のシュラウタ祭式伝承をみて(井狩弥介)

    ほん:E.ゴッフマン『行為と演技:日常生活における自己呈示』(菅原和孝)

    ほん:P.L.バーガー・B.バーガー・H.ケルナー『故郷喪失者たち:近代化と日常意識』(上野千鶴子)

    P.L.バーガー・T.ルックマン『日常世界の構成:アイデンティティと社会の弁証法』(筒井幸子)

    A.シュッツ『現象学と社会の学:他我認識の問題』(松井 健)


    季刊・人類学35.第9巻第3号

    2014年01月22日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

    Qanthro93

     『季刊・人類学』は、1970年から1989年にかけて、京都大学人類学研究会により、季刊(2月・5月・8月・11月)として毎年4冊刊行されていた雑誌です。第1巻から第20巻まで、当初は社会思想社から、途中から講談社により出版されました。内容は、文化人類学・民俗学・民族学・自然人類学・考古学と、人類学のあらゆる分野が包括的に掲載されていたものです。

     『季刊・人類学』第9巻第3号は、1978年9月15日に講談社から刊行されました。アマゾンで検索しましたが、ヒットしませんでしたのでリンクさせていません。

     本号の内容は、以下の通りです。

    宮本常一先生聞き書き(1)(宮本常一)

    西表島の稲作:自然・ヒト・イネ:伝統的生業とその変容をめぐって(安渓遊地)

    • コメント1(渡部忠世)
    • コメント2(佐々木高明)

    言語内的うつわと言語外的事実:漁業生活と湖の語彙(室山敏昭)

    • コメント(松井 健)

    研究室めぐり31.筑波大学歴史・人類学系(有馬真喜子)

    ひと:国分直一(馬場 功)

    ひと:桜井徳太郎(有馬真喜子)

    タム・タム

    多雪地帯の山村における山菜採集活動について(丹野 正)

    • コメント(鈴木継美)

    ほん:更科源蔵・更科 光『コタン生物記:第Ⅰ~Ⅲ巻』(松井 健)

    ほん:T.ルックマン『見えない宗教:現代宗教社会学入門』(平野信博)

    ほん:R.ヤーコブソン『音と意味についての6章』(梶 茂樹)


    季刊・人類学34.第9巻第2号

    2014年01月21日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

    Qanthro92

     『季刊・人類学』は、1970年から1989年にかけて、京都大学人類学研究会により、季刊(2月・5月・8月・11月)として毎年4冊刊行されていた雑誌です。第1巻から第20巻まで、当初は社会思想社から、途中から講談社により出版されました。内容は、文化人類学・民俗学・民族学・自然人類学・考古学と、人類学のあらゆる分野が包括的に掲載されていたものです。

     『季刊・人類学』第9巻第2号は、1978年6月15日に講談社から刊行されました。アマゾンで検索しましたが、ヒットしませんでしたのでリンクさせていません。

     本号の内容は、以下の通りです。

    対談:未開と文明(クロード・レヴィ=ストロース、大橋保夫)

    エッセー・オン・アニマル・ロコモーション:工作少年の目から見た脊椎動物の運動原理と構造(小泉英雄)

    • コメント1(酒井高男)
    • コメント2(藤岡喜愛)

    長野県与助尾根遺跡の統計学的分析(赤澤 威・埴原和郎)

    • コメント1(小山修三)
    • コメント2(水野正好)

    ワイセツ話の文化的脈絡:フルベ説話の分析・セネガル(小川 了)

    • コメント(江口一久)

    研究室めぐり30.人間博物館リトルワールド(有馬真喜子)

    ひと:白鳥芳郎(有馬真喜子)

    ひと:佐々木高明(馬場 功)

    タム・タム

    黄土前文化追考(赤堀英三)

    弥生系高地性集落の気候的考察(内藤恵吉)

    • コメント(佐々木高明)

    ほん:京都大学生物誌研究会編『ニューギニア中央高地:京都大学西イリアン学術探検隊報告(1963~1964)』(中尾佐助)

    ほん:江守五夫『日本村落社会の構造』(天沼 香)

    ほん:ルイ・デュモン『社会人類学の二つの理論』(安野早己)

    プカルア環礁における居住と人口動態(畑中幸子)


    季刊・人類学33.第9巻第1号

    2014年01月20日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

    Qanthro91

     『季刊・人類学』は、1970年から1989年にかけて、京都大学人類学研究会により、季刊(2月・5月・8月・11月)として毎年4冊刊行されていた雑誌です。第1巻から第20巻まで、当初は社会思想社から、途中から講談社により出版されました。内容は、文化人類学・民俗学・民族学・自然人類学・考古学と、人類学のあらゆる分野が包括的に掲載されていたものです。

     『季刊・人類学』第9巻第1号は、1978年3月10日に講談社から刊行されました。アマゾンで検索しましたが、ヒットしませんでしたのでリンクさせていません。

     本号の内容は、以下の通りです。

    ムブティ・ピグミーの居住集団(市川光雄)

    • コメント1(田中二郎)
    • コメント2(米山俊直)

    トンガの王権と世界観:伝統的様相を中心として(大谷裕文)

    • コメント(青柳まちこ)

    民衆生活ノート(25):私の感じたBali(篠田 統)

    研究室めぐり29.早稲田大学海洋民族学センター(有馬真喜子)

    ひと:樋口隆康(馬場 功)

    ひと:吉田禎吾(有馬真喜子)

    タム・タム

    マリー島の呪術:マイド(北大路弘信)

    • コメント(吉田禎吾)

    ほん:辻井善弥『磯漁の話:一つの漁撈文化史』(湯浅照弘)

    ほん:フィリップ K.ボック『現代文化人類学入門(全4巻)』(細川弘明・細辻恵子・末原達郎)


    日本の人骨発見史10.一の谷中世墳墓群(中世):日本最大級の火葬遺構

    2014年01月19日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

     一の谷中世墳墓群は、静岡県磐田市に所在します。磐田市教育委員会による発掘調査が、1984年6月から1988年12月まで実施されました。1,249基の遺構が発見され、墓888基・火葬遺構46基・集石遺構104基・土坑197基等が検出されています。

     これらの遺構から、鎌倉時代中期~室町時代の人骨467体が出土しました。これらの人骨は火葬人骨で、国内でも最大級の火葬遺構だと推定されます。出土人骨の報告は、聖マリアンナ医科大学(当時)の森本岩太郎[1928-2000]・現聖マリアンナ医科大学の平田和明・現順天堂大学の工藤宏幸により報告されています。

     森本岩太郎等による分析では、成人骨348体・小児人骨32体・性別及び年齢不明人骨87体の合計467体にものぼりました。この内、成人骨で性別推定ができた92体の内訳は、男性60体・女性32体でした。また、死亡年齢が推定できた36体の内訳は、壮年13体・熟年21体・老年2体でした。

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    写真1.一の谷中世墳墓群450号墓(左)と451号墓[磐田市教育委員会(1993)『一の谷中世墳墓群』より改変して引用]

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    写真2.一の谷中世墳墓群450号墓近接[磐田市教育委員会(1993)『一の谷中世墳墓群』より改変して引用]

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    写真3.一の谷中世墳墓群450号墓出土火葬人骨:頭蓋骨片[磐田市教育委員会(1993)『一の谷中世墳墓群』より改変して引用]

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    写真4.一の谷中世墳墓群450号墓出土火葬人骨:四肢骨片[磐田市教育委員会(1993)『一の谷中世墳墓群』より改変して引用]

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    写真5.一の谷中世墳墓群451号墓近接[磐田市教育委員会(1993)『一の谷中世墳墓群』より改変して引用]

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    写真6.一の谷中世墳墓群451号墓出土火葬人骨[磐田市教育委員会(1993)『一の谷中世墳墓群』より改変して引用]

     この一の谷中世墳墓群出土火葬人骨を観察すると、骨に歪み・捻れ・亀裂が認められるため、白骨化させたものを火葬にしたのではなく、死体をそのまま火葬にしたと推定されます。また、すべての部位が検出されていないので、火葬後に、収骨(拾骨)していることも推定されます。状況からは、別の場所で火葬を行い一部を収骨(拾骨)して、墓に埋葬した火葬墓でしょう。

    *一の谷中世墳墓群に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

    • 磐田市教育委員会(1993)『一の谷中世墳墓群遺跡』、磐田市教育委員会
    • 森本岩太郎・平田和明・工藤宏明(1993)「一の谷中世墳墓群遺跡出土人骨について」『一の谷中世墳墓群遺跡:本文編』、磐田市教育委員会、pp.471-503

    報告書11.一の谷中世墳墓群遺跡

    2014年01月18日 | N7.報告書[Site Report:Japanese]

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     一の谷中世墳墓群遺跡は、静岡県磐田市に所在します。この遺跡からは、墓888基・火葬遺構46基・集石遺構104基・土坑197基等が発見され、鎌倉時代中期~室町時代の火葬人骨467体が出土しています。恐らく、日本国内で最大級の火葬遺構だと推定されます。報告書『一の谷中世墳墓群遺跡』は、1993年に磐田市教育委員会により出版されました。アマゾンで検索しましたが、ヒットしませんでしたのでリンクさせていません。

     本報告書は、以下のように、全5巻からなる大著です。

    ◎本文編

    1. 調査経過
    2. 地理的・歴史的環境
    3. 遺構と遺物
    4. 調査成果の整理と分析
    5. まとめ
    • 付篇Ⅰ
    • 付篇Ⅱ

    ◎図版編

    ◎写真図版編

    ◎観察表編

    ◎付図編

     ちなみに、出土人骨は、本文編の付篇Ⅰに「一の谷中世墳墓群遺跡出土人骨について」というタイトルで、聖マリアンナ医科大学(当時)の森本岩太郎・平田和明・工藤宏幸により、pp471~503に報告されています。なお、本報告書では所属が「聖マリアンナ歯科大学」となっていますが、正しくは「聖マリアンナ医科大学」となります。


    季刊・人類学32.第8巻第4号

    2014年01月17日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

    Qanthro84

     『季刊・人類学』は、1970年から1989年にかけて、京都大学人類学研究会により、季刊(2月・5月・8月・11月)として毎年4冊刊行されていた雑誌です。第1巻から第20巻まで、当初は社会思想社から、途中から講談社により出版されました。内容は、文化人類学・民俗学・民族学・自然人類学・考古学と、人類学のあらゆる分野が包括的に掲載されていたものです。

     『季刊・人類学』第8巻第4号は、1977年12月10日に講談社から刊行されました。アマゾンで検索しましたが、ヒットしませんでしたのでリンクさせていません。

     本号の内容は、以下の通りです。

    〈座談会〉アメリカ人による日本研究[リブラ T. スギヤマ・綾部恒雄・浜口恵俊・祖父江孝男・谷 豊](司会:米山俊直)

    方言性向語彙の研究:「期待される人間像」の語彙への反映(室山敏昭)

    • コメント(井上忠司)

    義理と人情:KG-SIVによる検討(菊池章夫)

    • コメント(栗田靖之)

    研究室めぐり28.学習院大学東洋文化研究所(有馬真喜子)

    ひと:鈴木 尚(有馬真喜子)

    ひと:福井勝義(馬場 功)

    タム・タム

    酒縁社会・考:学生街のスナックにおける「飲み人」たちの行動をめぐって(高田靖孝)

    • コメント1(野村雅一)
    • コメント2(藤岡喜愛)

    モンゴル取材の旅から(長井康平)

    ほん:浜口恵俊著『「日本らしさ」の再発見』(祖父江孝男)

    ほん:R.セネット著『無秩序の活用』(細辻恵子)

    ほん:石毛尚道編『野外手帳』(朝日小事典)(松原英夫)

    ほん:伊谷純一郎編著『チンパンジー記』(桜井道夫)