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人類学のススメ

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世界の人類学者15.カール・ザラー(Karl SALLER)[1902-1969]

2011年12月24日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

Karlsaller

カール・ザラー(Karl SALLER)[1902-1969]

 カール・ザラーは、1902年ドイツのケンプテンで生まれました。やがて、ミュンヘン大学に入学すると、運命的な出会いが待っていました。人類学の大家、ルドルフ・マルティン(Rudolf MARTIN)[1864-1925]と出会ったのです。1924年にマルティンの指導の元「様々な人種の毛髪の色」というテーマで学位論文を仕上げ、1926年には「生殖腺と骨格形態」というテーマで医学博士号を取得しています。ただ、恩師マルティンは、前年の1925年にこの世を去っていました。

 その後、ザラーはキール大学の人類学研究所の助手になり、1929年にはゲッチンゲン大学解剖学研究所に移籍します。しかし、1934年には、ナチスから政党に反する行為を行っているという理由で大学から追放されてしまいました。それは、ザラーの人種に対する考え方で、環境に適応してその形態が変化したという今では当然と考えられている説を唱えていたからでした。ナチスにとっては、アーリア人種が世界で一番優れているという考え方以外は都合が悪いものでした。1935年には、ザラーがそれまで書いた本は焚書扱いになってしまいます。

 ザラーは、1936年に私立のサナトリウムを運営して生計を立てました。しかし、1939年から1945年の第二次世界大戦中は、軍に徴兵され、軍医として勤務しています。ザラーにとって、1934年から1945年までは、まさに長い冬の時代でした。

 戦後の1946年、かつて勤務していたゲッチンゲン大学から名誉回復による復職を打診されますがそれを断り、母校のミュンヘン大学医学部解剖学教授として復帰しました。1948年には、人類学と解剖学を講じています。

 ようやく、ザラーにも平穏な日々が戻ってきました。1950年代になると、ザラーはかつての恩師ルドルフ・マルティンが残した名著『Lehrbuch der Anthropologie』(人類学教科書)の第3版を改訂しました。また、1964年には自身の著『Leitfaden der Anthropologie』(人類学原論)を書いています。

 この時期、かつての不遇を取り戻すかのように、多くの名誉がもたらされました。1959年にはベルリン大学からフンボルト・メダルの授与を受け、1962年にはフリードリッヒ・シラー大学から名誉博士号が授与されています。

 晩年、ザラーは『人種の歴史』という大著にとりかかりますが、残念ながら第1巻を仕上げたのみで、1969年10月15日に67歳でこの世を去りました。まさに、恩師ルドルフ・マルティンの死後を支えた人生で、実際、日本ではマルティンの教科書と言うよりも、第3版の著者マルティン&ザラーの教科書として知られています。

Saller1964c

ザラー1.Saller(1964)『Leitfaden der Anthropologie』のカバー(*画像をクリックすると、拡大します。)

Martinsaller1959

ザラー2.Martin & Saller (1959)『Lehrbuch der Anthropologie』[第3版第2巻]の表紙(*画像をクリックすると、拡大します。)

*ザラーに関する文献として、以下のものを参考にしました。

・Ursula Zangl-Kumpf (1997) 'Saller, Karl (1902-1969)', "History of Physical Anthropology: An Encyclopedia, Vol.2"(Frank Spencer ed.), Garland Publishing, pp.905-906.