フアン・コーマ(Juan COMAS)[1900-1979]
フアン・コーマは、1900年1月23日に、地中海にあるスペインのメノルカ島で生まれました。コーマは、1921年に、小学校教師となります。やがて、コーマに大きな転機が訪れました。スペイン政府の奨学生として、スイスのジュネーヴ大学に留学し人類学を勉強することになったのです。コーマは、人類学者のウジェーヌ・ピタール(Eugene PITTARD)[1867-1962]の弟子となりました。スペインに戻って働きながら博士号の準備を行い、1939年に前頭縫合のテーマで論文を提出し、博士号を取得しています。
しかし、コーマに悲劇が訪れました。1936年から1939年にかけて、母国のスペインで人民戦線とフランシスコ・フランコ率いる反乱軍との間にスペイン内戦が起こり、コーマは人民戦線側に加担したのです。フランコ率いる反乱軍が勝利した結果、コーマは、多くの科学者達と共にスペインを追放され、1939年にメキシコへと逃れます。1940年にメキシコの国籍を取得すると、メキシコ国立博物館に職を得て、1943年まで勤めました。その他、1941年には国立人類学歴史学校教授に就任し、1959年まで教鞭をとりました。この国立人類学歴史学校は、当時、メキシコ国立博物館に隣接して1938年に創立されています。
1955年、メキシコ国立大学内に人類学セクションが設立され、コーマはその責任者に抜擢されました。コーマは、人選もまかされ、アメリカの教育体制にならって自然人類学・文化人類学・考古学・言語人類学という4つの分野を包括する人類学を目指します。
コーマは、その他、メキシコで多くの学術雑誌も創刊し、その責任者として活躍しました。しかし、1979年1月18日、コーマは79歳の誕生日を目前にして、78歳で死去しました。スペインで生まれ、スイスで教育を受け、メキシコで人類学の基礎を築いた波乱万丈の人生と言えるでしょう。コーマは、生涯で約150の著書と論文を残しています。アメリカ自然人類学会は、学生賞としてコーマ賞を設けてコーマを記念しています。