人類学のススメ

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日本の人類学者44.渡邊直経(渡辺直経)(Naotune WATANABE)[1919-1999]

2012年10月28日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Naotunewatanabe

渡邊直経(渡辺直経)(Naotune WATANABE)[1919-1999][有馬真喜子(1974)「ひと:渡辺直経氏」『季刊・人類学』第5巻第4号より改変して引用](以下、敬称略。)

 渡邊直経は、1919年3月10日、東京市(現・東京都)で生まれました。やがて、1940年に東京帝国大学理学部人類学科に入学し、長谷部言人[1882-1969]の指導を受けます。ちなみに、人類学科としては第2回生でした。

 しかし、1942年9月に繰り上げ卒業となり、大学院へ進学しますが、海軍予備学生として志願し、1945年8月まで約3年間軍務についています。この軍務では、前線に赴任せず、海軍軍令部で暗号をといていたそうです。

 この時の事情を本人が、「学生時代の思い出」として書いています。それによると、「(略)・・・徴兵検査を受けたが、長髪はまかりならぬというので、涙をのんで丸坊主となった。検査の結果は乙種合格で、兵科は歩兵の宣告をうけた。・・・(略)・・・海軍に予備学生という大学や高専出を将校にする制度ができたことをはじめて知った。われわれには技術将校になる道はなかったから、卒業すれば陸軍の兵卒になるほかはない。思っただけで憂鬱であったところに、予備学生の話は全く耳よりで、早速志願してみると、運よく合格した。九月に繰り上げ卒業するとすぐ予備学生として台湾で訓練をうけ、あとはずっと軍令部にいて終戦を迎えた。」とあります。この海軍時代の奥様とのロマンスは、小説家・阿川弘之の『春の城』にモデルとして登場しています。

 渡邊直経は、戦後、母校の大学院に復学し、1948年4月に副手・1949年6月に助手・1960年4月に助教授と昇任し、1968年6月に教授に就任しました。この間、1957年には「日本の古代遺跡から発見される焼土の熱残留磁気の方向について:人類学のための年代学への応用に関する研究」により、母校から理学博士号を取得しています。

 渡邊直経の研究は、人類学への理化学分析の応用が多く、特に、年代学分野で多くの業績があります。渡邊直経が書いた論文は膨大ですが、代表的なものは以下の通りです。

  • 渡邊直経(1944)「毛髪溶液の比色計検査に就いて」『人類学雑誌』、第59巻第9号、pp.323-341
  • 渡邊直経(1949)「遺物包含地遺跡に於ける燐の分布」『人類学雑誌』、第61巻第1号、pp.17-24
  • 渡邊直経(1950)「遺跡に於ける骨類の保存」『人類学雑誌』、第61巻第2号、pp.67-74
  • 渡邊直経(1950)「明石西郊含化石層に於ける骨の保存可能性」『人類学雑誌』、第61巻第4号、pp.183-190
  • 渡邊直経(1958)「古地磁気研究法による人類遺跡の年代判定」『第四紀研究』、第1巻第3号、pp.92-100
  • 渡邊直経(1963)「日本先史時代に関するC14年代資料」『第四紀研究』、第2巻第6号、pp.232-240
  • 渡邊直経(1966)「縄文および弥生時代のC14年代」『第四紀研究』、第5巻第3・4号、pp.157-168
  • 渡邊直経(1967)「人類学・考古学のための磁気年代学」『第四紀研究』、第6巻第4号、pp.230-238
  • 渡邊直経(1970)「人類学からみた前期洪積世:特に明石原人を含めて」『第四紀研究』、第9巻第3・4号、pp.176-183
  • 市原 実・渡邊直経(1977)「ジャワの人類化石含有層」『第四紀研究』、第15巻第4号、pp.176-180
  • 渡邊直経(1980)「沖縄における洪積世人類遺跡」『第四紀研究』、第18巻第4号、pp.259-262
  • 渡邊直経(1990)「ジャワの第四紀地質研究:日本・インドネシア研究協力15年の歩み」『第四紀研究』、第29巻第4号、pp.377-380

 私が、一番重宝したものは、雑誌『自然』に連載された、「人類が来た道のりを測る」です。これは、雑誌『自然』に1959年12月号・1960年1月号~同6月号・1961年7月号~同11月号と断続的に合計12回にわたって連載されたもので、人類進化学や年代測定学について、当時最新の情報が満載されていました。私は、学生時代に図書館でコピーして、自分で製本して勉強したのを思い出します。今でも、大切に保存しています。

 また、渡邊直経が書いた主な本は、以下の通りです。なお、苗字は、本に掲載された通りにしています。また、以下の内、渡辺(1997)と渡辺・香原・山口(2001)は、『人類学講座』のシリーズとして出版されたものですが、同じ内容で普及版も同時に出版されています。

  • 江原昭善・渡辺直経(1976)『猿人・アウストラロピテクス』、中央公論社
  • 渡辺直経司会・編(1977)『シンポジウム:日本旧石器時代の考古学』、学生社
  • 渡辺直経・伊ヶ崎暁生(1980)『科学者憲章』、勁草書房
  • 渡辺直経編(1997)『人類学用語事典』、雄山閣出版
  • 渡辺直経編(1997)『人類学講座・別巻2.人類学用語』、雄山閣出版
  • 渡辺直経・香原志勢・山口 敏編(2001)『人類学の読み方』、雄山閣出版
  • 渡辺直経・香原志勢・山口 敏編(2001)『人類学講座1.総論』、雄山閣出版

 これ以外にも、渡邊直経が書いた本は多数ありますが、その中でも、『人類学講座4.古人類』[埴原和郎編](1981)に掲載された、「1.年代学」(pp.3-60)は、前出の雑誌『自然』に掲載された「人類が来た道のりを測る」をコンパクトにまとめアップデートしたもので、大変、参考になります。

 渡邊直経は、東京大学時代の1976年11月~1980年11月には日本人類学会会長を、また、1977年1月~1981年7月には日本第四紀学会会長を、さらに1978年1月~1981年1月には日本学術会議会員としても活躍しました。

 また、年代学を専攻していたと聞くと、大学の実験室にこもっている印象を受けますが、第一次沖縄洪積世人類発掘調査団(1968年12月25日~1969年1月7日)の団長を務めています。さらに、1975年から1979年にかけては、文部省科学研究費及び国際協力事業団により、「ジャワにおける人類化石包含層の層序・古生物・年代学的研究」を研究代表者として実施し、インドネシアの古人骨を学際的に研究する体制を整えました。この時の成果は、以下の報告書にまとめられています。弟子の松浦秀治によると、スーツにネクタイ姿でフィールドで発掘調査を行っていたそうで、常に、ジェントルマンといういでたちだったそうです。

  • WATANABE, Naotune & KADAR, Darwin(1985)『Quaternary Geology of the Fossil Bearing Formations in Java』、Geological Research and Development Centre、No.4

Watanabekadar1985

Watanabe & Kadar(1985)表紙(*画像をクリックすると、拡大します。)

 渡邊直経は、1979年3月に、東京大学を定年退官しました。その後、帝京大学法学部一般教養教授に就任しています。しかし、1984年6月に、帝京大学を辞職しました。自分が努力して開設した、インドネシアの第四紀地質研究所をさらに整備し運営するために、1984年7月~1988年4月にかけて国際協力事業団派遣専門家として夫婦で赴任したのです。

 渡邊直経は、1999年5月10日、80歳で死去しました。お別れの会は、同年5月22日に開かれ多くの学会関係者が弔問に訪れています。まさしく、人類科学としての年代学研究に捧げた一生だと言えるでしょう。なお、渡邊直経は、東京大学時代に、元立教大学の鈴木正男・元九州大学の小池裕子・お茶の水女子大学の松浦秀治等を育てました。

 私は、渡邊直経先生とは晩年の1990年代に親しくさせてていただきました。時には、ご自宅にまた時には二次会でお誘いをいただいて二人きりで飲ませていただいたことを思い出します。非常に上品で、話題が豊富でただお話をうかがっているだけで勉強になりました。その後、元国立科学博物館の馬場悠男先生やお茶の水女子大学の松浦秀治先生と共に、渡邊直経先生がレールを敷かれたインドネシアの古人類調査に1990年から2000年にかけて約10年も関わることになるとはその時夢にも思いませんでした。

 渡邊直経先生の学識の幅は非常に広く、人類学史にも一家言持っておられました。実際、1992年には、「人類学雑誌100巻の回顧(1):創刊から坪井会長逝去まで」を『Anthropological Science』の第100巻第2号(pp.145-159)に書いておられます。学史は、どの分野でも軽視されていますが、かの著名なアメリカ・ハーヴァード大学の進化学者のエルンスト・マイヤー(Ernst MAYR)[1904-2005]は、1982年に大著『The Growth of Biological Thought』という生物学史の本を出版しており、序文では学史の重要性を説いています。残念なのは、渡邊直経先生による前出の論文が(2)・(3)と続いて出版されなかったことです。松本彦七郎[1887-1975]のことが書かれた『理性と狂気の狭間で』も、渡邊直経先生に教えていただきました。渡邊直経先生の死後出版された、『人類学講座1.総論』とその普及版『人類学の読み方』では、編著者の香原志勢先生と山口 敏先生にお声をかけていただき、私は「日本人類学史年表」を書かせていただきました。

 渡邊直経先生のお別れの会には、私も参列させていただきましたが、遺影だけが掲げられユリの花を献花するという会で、なかなか素晴らしい会でした。渡邊直経先生の死後にも、教えられた気がしました。しばらくして奥様から、製本された『人類が来た道のりを測る』が郵送されてきました。その本は、今でも大切に書棚に納め、時々、読み返しています。

*渡邊直経に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 有馬真喜子(1974)「ひと:渡辺直経氏」『季刊・人類学』第5巻第4号、pp.173-177
  • 渡辺直経(1979)「学生時代の思い出」『東京大学理学部廣報』第10巻5・6号、pp.6-7
  • 尾本恵市(1979)「渡辺直経教授を送る」『東京大学理学部廣報』第10巻5・6号、pp.7-8
  • 松浦秀治(2000)「渡邊直經先生のご逝去を悼む」『Anthropological Science』、第107巻第2号、巻頭4頁(頁記載無し)

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