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この報告書は、大分県聖嶽洞窟の発掘調査の報告書です。正確には、第二次調査の報告書となります。この聖嶽洞窟は、大分県佐伯市(第一次及び第二次調査時は本匠村)に所在し、1962年に別府大学(当時)の賀川光夫先生と新潟大学(当時)の小片 保先生等によって第一次調査が行われ、旧石器時代の人骨と石器が伴出した遺跡として有名になりました。その後、この遺跡は、高校の日本史の教科書にも掲載されていました。
1997年に、桃山学院大学(当時)の尾本恵市先生を代表とする「日本人および日本文化の起源に関する学際的研究」(文部省科学研究費特定領域研究)が発足し、1999年12月10日から同年12月24日にかけて第二次調査が行われました。
私は、大分県出身ということもあり、特定領域研究の考古学班班長の国立歴史民俗博物館(当時)の春成秀爾先生から依頼され、準備に奔走しました。ちなみに、調査時は、私は群馬県立自然史博物館に所属していましたが、翌年の2000年に(財)群馬県埋蔵文化財調査事業団に異動しました。実際、1999年4月23日・同11月20日と鹿児島及び大分を訪問して調整したことを思い出します。
この第二次調査は、別府大学(当時)の橘 昌信先生を団長とし、前出の春成秀爾先生と東京都教育庁(当時)の小田静夫先生が副団長として調査は開始されました。この元に、考古学班班長はパリノ・サーヴェイ株式会社の辻本崇夫さん・古脊椎動物学班班長は愛知教育大学の河村善也先生・考古科学年大学班班長はお茶の水女子大学の松浦秀治先生が務め、私は人類学班班長を務めました。
この第二次調査の報告書は、以下のように、全Ⅳ部14章からなります。2001年3月30日に、春成秀爾先生による編で、考古学資料集13として、国立歴史民俗博物館から出版されました。私は、人類学班副班長を務めた新潟県立歴史博物館(当時、現新潟県立看護大学)の藤田 尚さんと一緒に「人骨」について書かせていただきました。ちなみに、この遺跡は、第一次調査時は「聖岳」(ひじりだけ)と記載されていましたが、第二次調査では現地名である「聖嶽」(ひじりだき)に変更されています。
はじめに(春成秀爾)
Ⅰ部.発掘調査前史
1章.第1次調査の概要(春成秀爾)
2章.第2次調査の企画(春成秀爾・小田静夫)
Ⅱ部.地形・地質
3章.周辺の地形・地質と洞窟の形態(河村善也)
Ⅲ部.発掘調査
4章.調査の概要(橘 昌信・辻本崇夫・津村宏臣)
5章.層序と各調査区(橘 昌信・辻本崇夫・津村宏臣)
Ⅳ部.調査結果
6章.石器(津村宏臣)
7章.人骨(楢崎修一郎・藤田 尚)
8章.脊椎動物遺体(河村善也・丹羽良平・若松明希・村瀬安和)
9章.骨遺存体の年代分析(松浦秀治・近藤 恵)
10章.炭化物の年代(今村峯雄・春成秀爾)
11章.1962年発掘頭骨の再検討(馬場悠男)
12章.1961・62年出土の石器(橘 昌信)
13章.遺跡・遺物の再検討(春成秀爾)
14章.結論
英文要旨(春成秀爾・水山昭宏)
1999年の第二次調査では、人骨96点・歯47点の合計143点が出土しました。これらの約7割は水洗で発見されており、第一次調査の排土から発見されています。これと合わせて、本匠村歴史民俗資料館所蔵の人骨も報告しました。
以下は、この報告書の内、「7章.人骨」と巻頭の人骨カラー部分のPDFです。全部で、3.3MBあります。
「narasakifujita2001.pdf」をダウンロード