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人類学のススメ

人類学の世界をご紹介します。OCNの「人類学のすすめ」から、サービス終了に伴い2014年11月から移動しました。

日本の人類学者51.小金井良精(Ryosei KOGANEI)[1859-1944]

2014年12月31日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Ryoseikoganei 

小金井良精(Ryosei KOGANEI)[1859-1944](『人類学研究・続編』より改変して引用)[以下、敬称略。]

 小金井良精(こがねい よしきよ)は、安政5年12月14日に越後長岡藩士の小金井儀兵衛良達と小林 幸の間の次男として生まれました。旧暦では安政5(1858)年12月14日になりますが、新暦では1859年1月17日生まれとなります。印刷物では、小金井良精の生年に、1858年と1859年との2つが認められます。実際、小金井良精の生誕百年を記念して出版された『人類学研究・続編』は、1958年12月11日に出版されています。

 1868(慶応4・明治元)年には戊辰戦争に巻き込まれ、約半年間、長岡・会津・仙台と流浪生活を送っています。ちなみに、長岡藩を率いて戊辰戦争を戦った河井継之助[1827-1868]や米百俵で有名な小林虎三郎[1828-1877]は、親戚だそうです。

 上京すると、1870(明治3)年に大学南校・1872(明治5)年に第一大学区医学校と東京大学医学部で医学を学び、1880(明治13)年に卒業します。ちなみに、入学当初は、年齢を偽って入学したと言われています。

 卒業した年の1880(明治13)年11月14日に、3年のドイツ留学を許可され、1881(明治14)年にベルリン大学で学び、1882(明治15)年にストラスブルグ大学[現・ストラスブール大学]で学びます。ドイツでは、解剖学者のハインリッヒ・ヴィルヘルム・ゴットフリード・ワルダイエル-ハルツ(Heinrich Wilhelm Gotfried WALDEYER-HARTZ)[1836-1921]に学んでいます。

 

 


日本の人類学者50.池田次郎(Jiro IKEDA)[1922-2012]

2013年12月30日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Jiroikeda

池田次郎(Jiro IKEDA)[1922-2012][池田次郎(1982)『日本人の起源』の著者紹介より改変して引用](以下、敬称略)

 池田次郎は、1922年11月3日に、山梨県甲府市で生まれました。やがて、旧制甲府中学校と旧制松本高校を卒業し、東京帝国大学理学部人類学科に入学します。東京帝国大学に進学した際は、医者になれとすすめられたそうですが、当の本人は、考古学や歴史学に興味を持っていたと言われています。東京大学では、長谷部言人[1882-1969]に師事して、長谷部の指導により土器を研究しました。1945年9月に、石斧を調べた卒業論文を提出し、東京帝国大学理学部を卒業します。同級生は、北川秀生でした。ちなみに、卒業論文は、1948年に「磨製石斧の分類」『人類学雑誌』第60巻第1号と「打製石斧の分類」『人類学輯報』第1号.に発表されました。卒業後は、母校の大学院に残ります。

 やがて、池田次郎に第1の転機が訪れました。1948年に、広島県立医科大学(現・広島大学医学部)の解剖学第1講座の助手に就任したのです。広島県立医科大学は、広島県立医学専門学校を前身として、1948年3月10日に設立が認可されました。当時の解剖学教室は、今村 豊[1896-1971]教授・鈴木 誠[1914-1973]助教授・文化人類学者の蒲生正男[1927-1981]助手という顔ぶれでした。この中で、今村 豊と鈴木 誠は、京城帝国大学医学部の元教員と卒業生で、京城学派と呼ばれています。この広島県立医科大学時代は、今村 豊のみが解剖を行い、池田次郎は中国地方の貝塚の発掘や考古学調査ばかりやっていたそうです。池田次郎は、広島県立医科大学解剖学教室で、助手・講師・助教授と昇任しました。1951年に、鈴木 誠が信州大学医学部第2解剖学教室教授に転出すると、その後任の助教授に就任します。助教授に昇任したため、解剖学を教える必要性が生じ、この時から骨学を専門とすることになります。

 池田次郎に、第2の転機が訪れました。恩師の今村 豊が、1952年4月に新潟大学医学部の第1解剖学教室教授に転任することになったため、一緒に助教授として移籍したのです。移籍した翌年の1953年8月31日付けで、「血縁家族間に於ける頭長・頭幅及び頭長幅示数の類似に就いて」のテーマで、勤務先の新潟大学医学部で医学博士号を取得しました。この生体計測のテーマは、京城学派が得意としたもので、池田次郎もその影響を受けています。今村 豊は、60歳の還暦の時に、小浜基次[1904-1970]・鈴木 誠[1914-1973]・池田次郎・三上美樹の名前を挙げて、この4名は自分の弟子だと公表しました。この新潟大学時代には、江上波夫[1906-2002]を団長とする、東京大学イラン・イラク遺跡調査団に1956年~1957年・1959年・1964年と3回、自然人類学担当として参加しました。但し、1964年の時は新潟大学から京都大学に移籍しています。

 池田次郎に、第3の転機が訪れました。1962年に、京都大学理学部に自然人類学教室が新設され、その助教授として転任したのです。当時の教室は、今西錦司[1902-1992]が京都大学人文科学研究所と併任で教授に就任し、助教授には、池田次郎と伊谷純一郎[1926-2001]の2名が就任しました。この時、今西錦司は、「彼ならええやろう」とうなずいたと伝えられています。奇遇でしょうが、京都大学は、恩師・今村 豊の母校でした。1966年、池田次郎は教授に昇任します。京都大学時代は、1967年と1968年に京都大学アフリカ学術調査隊に、自然人類学担当として参加しています。その後は、フィールドをイランへと移し、1971年・1973年・1975年・1977年と調査を行いました。ところが、これからという時の1979年2月に、イラン革命が起こり、このプロジェクトは打ち切りとなります。

 池田次郎が書いた主な著書は、以下の通りです。石田(2013)によると、著書は14冊とあります。

  • 池田次郎・大野 晋編(1973)『論集日本文化の起源5.日本人種論・言語学』、平凡社
  • 池田次郎編著(1978)『人類学講座6.日本人Ⅱ』、雄山閣出版
  • 池田次郎(1982)『日本人の起源』、講談社
  • 池田次郎(1998)『日本人のきた道』、朝日新聞社

 池田次郎が『人類学雑誌』に発表した主な論文は、以下の通りです。石田(2013)によると、論文と報告書が116編・総説とその他が50編とあります。

  • 池田次郎(1953)「血縁家族間に於ける頭長・頭幅及び頭長示数の類似に就いて」『人類学雑誌』、第63巻第1号、pp.15-21
  • 池田次郎(1974)「沖縄・宮古島現代人頭骨の計測」『人類学雑誌』、第82巻第2号、pp.150-160
  • 多賀谷 昭・池田次郎(1976)「頭骨計測値の多変量解析からみた現代琉球人(男性)」『人類学雑誌』、第84巻第3号、pp.204-220
  • 池田次郎(1979)「プレ・アイヌ説をめぐって」『人類学雑誌』、第87巻第3号、pp.297-302
  • 池田次郎・多賀谷 昭(1979)「刀痕のある中世人頭蓋について」『人類学雑誌』、第87巻第3号、pp.347-351
  • 池田次郎・多賀谷 昭(1980)「生体計測値からみた日本列島の地域性」『人類学雑誌』、第88巻第4号、pp.397-410
  • 池田次郎(1982)「前頭洞計測値の集団間変異」『人類学雑誌』、pp.91-104

  池田次郎と日本人類学会との関わりは、1943年10月1日付けの日本人類学会会員名簿に記載されていますので東京帝国大学の学生時代に入会したのでしょう。その後、1967年~1969年と1978年~1980年にかけて理事を務め、1980年~1984年にかけては日本人類学会会長に就任しました。

 1986年、池田次郎は京都大学を定年退官します。その後は、1986年に岡山理科大学理学部教授、1991年に九州国際大学法経学部教授として後進の指導を行いました。1993年には、九州国際大学を退職しています。

 池田次郎は、京都大学時代に、片山一道(現・京都大学名誉教授)・多賀谷 昭(現・長野県看護大学)・毛利俊雄(現・京都大学霊長類研究所)等を育てました。

 2012年11月11日に、「京都大学人類学講座50周年記念会」が行われました。しかし、池田次郎は、2001年に脳内疾患から車椅子生活を余儀なくされており、当日は出席できずにビデオレターを寄せたそうです。2012年12月19日、池田次郎は肺炎により、90歳で死去しました。先史学から始まった研究テーマは、生体人類学と骨学に変わりましたが、先史学への興味も持ち続けており、『人類学雑誌』に4回にわたって発表された「日本の古人骨に関する文献」は、今でも貴重なデータを提供しています。

 私は、池田次郎先生とは学生時代からお付き合いさせていただいておりました。池田次郎先生は、広島県立医科大学に赴任されておられた関係なのか、広島県出身者を特に可愛がっておられました。実際、お弟子さん達の片山一道先生・多賀谷 昭先生・毛利俊雄先生の3人共に広島県のご出身です。私は、父母が広島県出身で現在も本籍が広島県というだけで可愛がっていただきました。私が留学中の1988年にユーゴスラヴィア(現・クロアチア)で開催された、第12回国際人類学民族学会議(IUAES)では、偶然、泊まっていたホテルが一緒で、池田次郎先生ご夫妻と夕食をご一緒させていただいたことを思い出します。その時、奥様の静江様も広島県のご出身であることを知りました。池田次郎先生と最後にお目にかかったのは、1998年11月7日と11月8日に、福岡県福岡市の大手門会館で開催された、第13回「大学と科学」公開シンポジウム『検証・日本列島』に参加した際に、2次会でご一緒させていただいた時だと思います。その頃は、福岡県にお住まいでまだお元気でお酒も召し上がっておられたのを記憶しています。穏やかな語りですが、人類学や先史学に関する知識は驚くほど広くて深く、随分と勉強になりました。

*以下は、「京都大学大学院理学研究科」で公表されている池田次郎名誉教授業績集へのリンクです。

リンク:「池田次郎名誉教授業績集」

*池田次郎に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 馬場 功(1971)「ひと:池田次郎氏」『季刊人類学』、第2巻第4号、pp.107-109
  • 日本解剖学会(1995)『日本解剖学会100周年記念:教室史』、日本解剖学会
  • 石田英実(2013)「追悼文:池田次郎教授追悼文」『Anthropological Science(Japanese Series)』、第121巻第2号、pp.85-87

日本の人類学者49.北條暉幸(Teruyuki HOJO)[1934ー2013]

2013年11月17日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Teruyuki_hojo

北條暉幸(Teruyuki HOJO)[1934ー2013][北條(2013)より改変して引用](以下、敬称略)

 北條暉幸は、1934年2月27日に生まれました。やがて、東京大学に進学し、理学部人類学科を1959年に卒業します。東京大学では、人類学者の鈴木 尚[1912-2004]に師事しました。卒業後も、母校の研究室に研究生として残り、当時、教室をあげて行われていた増上寺徳川将軍墓の将軍家ご遺骨の研究を行っています。

 1961年4月、北條暉幸は昭和医科大学(現・昭和大学医学部)解剖学教室助手に就任します。ここでは、人類学講師も兼任しました。当時の昭和医科大学解剖学教室の主任は、小河原四郎でした。小河原四郎は、日本医科大学や東洋医科大学(現・聖マリアンナ医科大学)の解剖学教室でも活躍した解剖学者です。特に、昭和大学在職中は、戦後、東横病院内部に「聖マリアンナ研究所」を設置し、所長として主に生体計測を行い、『聖マリアンナ研究所業報』を1951年から1967年にかけて全52号出版しています。

 1967年9月、北條暉幸は熊本大学医学部第2解剖学教室助手に就任します。当時の熊本大学医学部第2解剖学教室の主任は、忽那将愛[1908-1995]でした。忽那将愛は、熊本医科大学(現・熊本大学医学部)卒業後、京都帝国大学助手・熊本医科大学助教授・台北帝国大学助教授・久留米医科大学教授を経て、熊本大学医学部の教授に就任しています。忽那将愛の専門は、リンパ系解剖学でしたが、人類学的研究も多く行いました。北條暉幸は、1970年に、この熊本大学医学部で「日本人肩甲骨形態の時代的変化と他人種との比較」というテーマで、医学博士号を取得しました。

 1971年4月、北條暉幸は、九州大学医学部第2解剖学講座助手に就任します。当時の九州大学医学部第2解剖学講座の主任は、前年の1970年8月に、永井昌文[1924-2001が就任していました。永井昌文は、金関丈夫[1897-1983]の元で、人類学を専攻しています。1971年6月、北條暉幸は、専任講師に昇任しました。

 1973年11月、北條暉幸は、札幌医科大学解剖学第2講座の助教授に就任します。当時の札幌医科大学解剖学第2講座の主任は、三橋公平でした。三橋公平は、手掌紋や指紋を研究しています。この前年の1972年に、山口 敏が国立科学博物館人類研究部に移籍しており、北條暉幸は山口 敏の後任として赴任しました。

  1978年4月、北條暉幸は、新設の産業医科大学医学部第1解剖学講座主任教授に就任します。ここで、北條暉幸は、平本嘉助(元北里大学)・篠田謙一(現・国立科学博物館)・中島民治(現・産業医科大学)等を、教室員として育てました。1999年3月、北條暉幸は、産業医科大学を定年退職します。

 北條暉幸は、肉眼解剖学を主に専攻しましたが、人類学的研究も多く行っています。また、産業医科大学時代には、走査型電子顕微鏡を導入し、多くの研究を行いました。北條暉幸の主な人類学の業績は、以下の通りです。

  • 北條暉幸(1964)「日米混血児の口蓋部の形態について」『人類学雑誌』第71巻第4号、pp.143-152
  • 遠藤萬里・北條暉幸・木村 賛(1967)「Ⅶ.下肢骨」『増上寺徳川将軍墓遺品遺体』、東京大学出版会、pp.275-405
  • 北條暉幸(1969)「熊本県菊池郡七城村小野崎家型石棺(古墳時代)人骨について」『熊本大学医学会雑誌』、第43巻第1号、pp.37-46
  • 北條暉幸・永田忠寿・青木紀保(1969)「熊本県上益城郡嘉島村剣原出土箱式石棺人骨について」『熊本医学会雑誌』、第43巻第10号、pp.892-894
  • 北條暉幸(1970)「日本人肩甲骨形態の時代的変化と他人種との比較」『熊本医学会雑誌』、第44巻第10号、pp.937-952
  • 北條暉幸(1975)「熊本県本渡市(天草)妻鼻古墳時代墳墓群出土人骨の予備的研究」『札幌医科大学医学進学課程紀要』、第16巻、pp.25-32
  • Hojo, T.(1976)「A few observations on roentgenopaque Transverse lines (Harris's Lines) in long tubullar bones of early modern people」『札幌医科大学医学進学課程紀要』、第17巻、pp.33-37
  • Hojo, T.(1980)「Precondylar tubercle and antero-median Marginal process around the foramen magnum in Modern Midwest-Kyushuites」 『産業医科大学雑誌』、第2巻第3号、pp.309-313
  • Hojo, T.(1981)「Hyperdolichocrany in the Medieval Midwestern Kyushuites」『産業医科大学雑誌』、第3巻第1号、pp.11-13
  • Hojo, T.(1982)「A protohistoric female skeleton of the keyhole-shaped (square front circular rear) mound in Mukonoda, Uto city, Kumamoto prefecture」『人類学雑誌』、第90巻別号、pp.129-138
  • 北條暉幸(1989)「縄文人的容貌を示す弥生カメ棺分布域南限の宇土市畑中カメ棺弥生人骨」『人類学雑誌』、第97巻第1号、pp.123-128
  • Hojo, T.(1989)「Dietary differences and microwear on the teeth of late stone age and early modern people from western Japan」『Scanning Microscopy』、Vol.3、pp.623-628

 北條暉幸は、2013年5月8日、死去しました。東京大学・昭和大学・熊本大学・九州大学・札幌医科大学・産業医科大学と、研究と教育の場所を変えながら、肉眼解剖学と人類学の研究に一生を捧げた人生と言えるでしょう。

 北條暉幸先生がお亡くなりになられた事を私は知りませんでした。2013年11月15日に、北條先生の御令弟の北條裕三様から『北條暉幸研究業績集(付録付)』をお送りいただいて初めて知りました。いただいた業績集を拝見すると、著書31点・論文68点・学会発表182点の目録が掲載されており、英文論文も何点かが付録として掲載されていました。いただいた送り状には、「初めまして。私、北條暉幸の弟の北條裕三と申します。かねて闘病中の兄は去る平成25年5月8日に永眠いたしました。生前兄は自分の学究生活の集大成ともいうべき業績集の刊行に意欲を燃やしておりましたが、幸い存命中に完成いたしましたのが何よりでございます。つきましては、業績集を兄に代わりお手許にお届けさせて頂きますのでご一読頂けますならばさぞかし泉下の兄も喜ぶことと存じます。(以下省略)」とありました。

 私は、北條暉幸先生とは学生時代からお付き合いさせていただきました。特に、1987年4月2日から同年4月5日まで、世界貿易センタービルのヴィスタ・インターナショナル・ホテルで開催された第57回アメリカ自然人類学会では、偶然再会し、当時留学中だった諏訪 元先生と内田亮子先生と4人で会食した事を思い出します。ちなみに、このホテルは、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロにより崩壊しました。学会の後で、北條暉幸先生と私は、2人でニューヨークにある幾つかの医学部や医科大学の解剖学教室を2日間かけて訪問しました。私にとっても、大変、勉強になった忘れられない旅でした。

*北條暉幸に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 北條暉幸(2013)『北條暉幸研究業績集(付録付)』、産業医科大学

日本の人類学者48.若林勝邦(Katsukuni WAKABAYSAHI)[1862-1904]

2013年05月26日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Katsukuniwakabayashi

若林勝邦(Katsukuni WAKABAYASHI)[1862-1904][杉山(2003)より改変して引用](以下、敬称略。)

 若林勝邦は、1862年10月7日に、江戸城内馬場先門近郊で生まれました。若林家は、旧幕臣の家系でした。やがて、1885年に東京物理学校(現・東京理科大学)を卒業し、神田小学校に勤務します。但し、杉山博久の論文によると、東京理科大学同窓会名簿には、名前を見つけることができないとありますが、この辺の事情はわかりません。

 若林勝邦は、1885年に日本人類学会に入会しています。当時は、「じんるいがくのとも」という名前でしたが、1884年に創立されていますので、翌年に入会したことになります。1887年8月には、坪井正五郎[1863-1913]と一緒に埼玉県の吉見百穴遺跡の調査を行っています。やがて、若林勝邦に大きな転機が訪れました。

 若林勝邦は、1889年に理科大学人類学研究室勤務となりました。1890年に理科大学技手となり、1893年には理科大学助手に就任します。ちなみに、教室主任である坪井正五郎は、1889年から1892年までヨーロッパに遊学しました。若林勝邦は、坪井が不在にしている間、人類学教室の留守番をしていたことになります。

 ところが、この間、事件が起こりました。後に、東京帝国大学理学部人類学教室の助教授となる鳥居龍蔵[1870-1953]が1953年に出版した『ある老学徒の手記』(朝日新聞社)によると、「若林氏に、ここにある人類学の本を読みたいと申入れ、小さなガラス張りの書箱の中の本に手をかけようとしたところが、若林氏の気色は忽ち変じ”君は生意気なり”と大声で叫ばれ・・・(中略)・・・私はその日はそのままに帰ったが、翌日になって若林氏から一通の葉書が届いた。これには”君に明日より教室に来ることを断る”云々とあった。仕方なく私はそれから断然教室に行くことをよした。」とあります。当時、坪井正五郎はヨーロッパに遊学中でした。

 やがて、坪井正五郎が帰国すると、坪井正五郎から鳥居龍蔵宛に書面が来ていて「人類学教室に来られ度し」とあり、鳥居龍蔵は人類学教室に出入りします。坪井正五郎は、鳥居龍蔵に人類学選科生になることを勧めましたが標本整理係に就任しました。その後、若林勝邦が人類学教室の多額な旅費を使っていることに不満を述べています。若林勝邦と鳥居龍蔵の間には、教室への出入り禁止事件以来、確執が続いていたのかもしれません。

 実際、若林勝邦は、亀ヶ岡遺跡(青森県)・三貫地貝塚(福島県)・新地貝塚(福島県)・山崎貝塚(千葉県)・蜆塚遺跡(静岡県)・曽畑貝塚(熊本県)等、東北から九州まで精力的に調査を行っています。若林勝邦を研究した、杉山博久さんの調査によると、1889年から1894年まで、公務出張が15回・私事旅行が9回と、合計24回にも及ぶそうです。交通手段が発達していない当時の事ですから、その調査は困難を極め、莫大な費用がかかったことが推定されます。

 1895年に若林勝邦は東京帝国大学理学部人類学教室助手から帝国博物館歴史部(現・東京国立博物館)の技手に移籍します。若林勝邦が移籍した理由はわかりませんが、人類学から考古学の分野に興味が移ったと指摘する説もあります。その後、1902年には博物館の列品監査掛に任命されますが、1904年12月30日に、42歳という若さで死去しました。

 若林勝邦は、東京帝国大学理学部人類学教室に、1889年から1895年の6年間しか在籍していませんが、坪井正五郎のヨーロッパ遊学中の3年間、人類学教室と学会を取り仕切りました。1歳年下の坪井正五郎は、若林勝邦を「探究に熱心なる人」と称したそうです。若林勝邦が活躍した期間は、短くも濃いものでしたが人類学の草創期を支えた一人であったことは間違いありません。

*若林勝邦に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 杉山博久(2003)「探究に熱心なる人(1):若林勝邦小伝」、『考古学雑誌』、第87巻第1号、pp.39-50
  • 杉山博久(2003)「探究に熱心なる人(2):若林勝邦小伝」、『考古学雑誌』、第87巻第2号、pp.57(137)-65(145)
  • 杉山博久(2003)「探究に熱心なる人(3):若林勝邦小伝」、『考古学雑誌』、第87巻第3号、pp.61(217)-76(232)
  • 杉山博久(2003)「探究に熱心なる人(4):若林勝邦小伝」、『考古学雑誌』、第87巻第4号、pp.65(317)-74(326)
  • 杉山博久(2004)「探究に熱心なる人(5):若林勝邦小伝」、『考古学雑誌』、第88巻第1号、pp.69(69)-81(81)
  • 杉山博久(2004)「探究に熱心なる人(6):若林勝邦小伝」、『考古学雑誌』、第88巻第2号、pp.53(145)-66(158)

日本の人類学者47.江藤盛治(Moriharu ETO)[1926-1999]

2013年05月25日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Moriharueto

江藤盛治(Moriharu ETO)[1926-1999][馬場悠男撮影(1986年インドネシアにて)](以下、敬称略。)

 江藤盛治は、1926年8月29日に、満州のハルピンで生まれました。その後、1944年に日本中学校(現・日本学園)・1947年に旧制松本高等学校理科(現・信州大学)を卒業し、1950年には東京大学理学部人類学科を卒業しました。卒業後、1955年から1960年までは母校に研究生として在籍しています。

 1960年10月、江藤盛治は日本医科大学解剖学教室の講師に就任します。当時の日本医科大学は、第1講座が横尾安夫[1899-1985]が教授で、第2講座が金子丑之助[1903-1983]が教授でした。江藤盛治は、当初、金子丑之助の第2講座講師に就任しましたが、1963年に第1講座助教授に就任しています。ちなみに、横尾安夫は、東京帝国大学医学部出身で、小金井良精[1859-1944]の弟子でした。日本医科大学在職中の1971年には、「骨年齢から見た東京都児童の骨発育:日英2方法の適用による比較研究」により、日本医科大学から医学博士号を取得しました。

 なお、1968年には、東京と京都で第8回国際人類学民族学会議が開催され、江藤盛治は事務局長として活躍しました。

 1973年に獨協医科大学が新設されることになり、江藤盛治は日本医科大学から移籍し、初代第1解剖学教室教授に就任します。この年、助手として茂原信生と馬場悠男が着任しました。1974年には、日本医科大学から芹澤雅夫が助教授として着任しています。

 江藤盛治の大学時代の指導教官は、鈴木 尚[1912-2004]でしたが、須田昭義[1900-1990]とはエリザベス・サンダース・ホームの日米混血児童の研究を、渡邊直経[1919-1999]とは理化学的検査法を研究しています。また、ここでは省略しますが、多くの遺跡出土人骨を、馬場悠男と茂原信生と共に報告しています。

 江藤盛治の人類学分野の主な論文は、以下の通りです。

  • 江藤盛治・寺田和夫・渡邊直経(1955)「伊豆青ヶ島住民の身体計測」『人類学雑誌』、第64巻第1号、pp.27-41
  • 江藤盛治(1957)「Gargoylism患者身体計測」『人類学雑誌』、第65巻第4号、pp.165-172
  • 江藤盛治(1963)「縄文土器の焼成温度の推定」『人類学雑誌』、第71巻第1号、pp.23-51
  • 須田昭義・山口 敏・保志 宏・遠藤万里・江藤盛治(1965)「日米混血児の身長と体重の長期観察」『人類学雑誌』、第73巻第2号、pp.54-63
  • 須田昭義・保志 宏・佐藤方彦・江藤盛治・芦沢玖美(1968)「日米混血児の胸囲と坐高の長期観察」『人類学雑誌』、第76巻第3号、pp.95-104
  • 江藤盛治(1971)「骨年齢から見た東京都児童の骨発育」『人類学雑誌』、第79巻第1号、pp.9-20
  • 須田昭義・保志 宏・江藤盛治・芦沢玖美・北条暉幸(1973)「日米混血児の胴長・腸骨棘高・肩峰幅・腸骨稜幅の長期観察」『人類学雑誌』、第81巻第3号、pp.185-194
  • 須田昭義・保志 宏・江藤盛治・芦沢玖美(1975)「日米混血児胸部成長の長期観察特に胸郭内外の成長型の相違について」『人類学雑誌』、第83巻第1号、pp.95-106
  • 須田昭義・保志 宏・江藤盛治・芦沢玖美(1976)「日米混血児四肢成長の長期観察特に個人成長の季節変動について」『人類学雑誌』、第84巻第1号、pp.15-30

 この他、解剖学の教科書も執筆しています。

  • 江藤盛治(1971)『看護婦のための解剖生理ワークブック』、医学芸術社
  • 江藤盛治(1998)『解剖生理』、医学芸術社
  • 江藤盛治・芹澤雅夫(2001)『人体のしくみとはたらき』、医学芸術社
  • 江藤盛治・芹澤雅夫(2005)『解剖生理』、医学芸術社

 江藤盛治の大きな仕事は、骨年齢成熟の研究です。世界的に見ると、イギリスのTW法(Tanner & Whitehouse)[タナー・ホワイトハウス]とアメリカのGP法(Greulich & Pyle)[グリューリッチ・パイル]法が有名で、以下のように、1959年と1982年に本が出版されています。

  • Greulich, W. & Pyle, S.(1959)"Radiographic Atlas of Skeletal Development of the Hand and Wrist", Stanford University Press
  • Tanner, J. M. & Whitehouse, R. H.(1982) "Atlas of Children's Growth", Academic Press

 江藤盛治は、大妻女子大学(当時)の芦沢玖美と、1992年に『東京の女子の身体成長と骨成熟の縦断的観察:手のX線図譜とTW2法による評価』という集大成をてらぺいあから出版しています。この本は、前出のTW法とGP法の本と併せて成長分野における世界三大専門書と言えるでしょう。

 江藤盛治は、1984年10月から1986年10月にかけて、日本人類学会会長に就任しました。1992年、江藤盛治は獨協医科大学を定年退職します。その後任には、芹澤雅夫が教授に昇任しました。かつての教室員の馬場悠男は国立科学博物館人類研究部長に、茂原信生は京都大学霊長類研究所教授に、転出しています。馬場悠男によると、自由に研究ができる環境だったそうです。

 江藤盛治は、1999年8月16日、急性骨髄性白血病で死去しました。死後、遺体は、日本医科大学に献体され解剖学研究に貢献しています。まさしく、成長研究と解剖学に捧げた一生と言えるでしょう。

 私は、江藤盛治先生とは人類学会の時によくお声をかけていただきました。学会では、若い会員に呼びかけて、誰からも意見を聞くという姿勢を貫いておられ、非常にリベラルな先生だという印象を持っています。同時に、非常に温厚な紳士だという印象を覚えています。1999年8月29日に宝仙寺で行われた葬儀に、私も参列させていただきました。その時、奥様のご挨拶で「若い時にX線を使った研究を多数行い被爆しているので、いつかそれが影響するだろう。」とおっしゃっておられたことを知りました。

 なお、江藤盛治先生の写真は、かつて獨協医科大学時代の部下で国立科学博物館名誉研究員の馬場悠男先生に提供していただきました。1968年に、当時、国際協力事業団からインドネシアに派遣されていた渡邊直経[1919-1999]先生を江藤盛治先生と一緒に訪問した際のものだそうです。記して感謝いたします。

*江藤盛治に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 香原志勢(2000)「江藤盛治さんの御逝去を悼む」『人類学雑誌』、第108巻第1号(頁番号記載無し。巻頭に4頁。)
  • 日本解剖学会(1995)『日本解剖学会100周年記念:教室史』 

日本の人類学者46.直良信夫(Nobuo NAORA)[1902-1985]

2013年05月19日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Nobuonaora

直良信夫(Nobuo NAORA)[1902-1985][明石市立博物館(2002)より改変して引用](以下、敬称略)

 直良信夫は、1902年1月10日に、大分県臼杵町(現・臼杵市)で、村本幸一・シメの次男として生まれました。

 1917年に、昼間は上野保線事務所で給仕として働きながら、早稲田大学付属早稲田工手学校夜間部(現・早稲田大学芸術学校)に入学します。しかし、身体をこわしたため、早稲田工手学校は中退しました。1918年には、岩倉鉄道学校工業化学科夜間部(現・岩倉高等学校)に入学し、1920年に同校を卒業します。卒業後、農商務省臨時窒素研究所(現・産業技術総合研究所)に勤務しました。

 この頃、著名な歴史学者の喜田貞吉[1871-1939]と出会い、土器の化学分析を行っています。しかし、結核になったため農商務省臨時窒素研究所を退職し、故郷で療養するために1923年8月31日に東京駅から夜行列車に乗り込みました。ところが、その翌日の1923年9月1日には関東大震災が発生します。この9月1日に、直良信夫は、兵庫県明石駅で途中下車しました。ここには、かつての恩師である直良 音[1891-1965]が住んでいました。

 直良 音は、1891年11月14日に、島根県簸川郡今市町(現・出雲市)で、直良杏次郎・モンの長女として生まれました。やがて、1916年に奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)を卒業すると、臼杵町立実科高等女学校(現・大分県立臼杵高等学校)に勤務し、1917年に島根県立浜田高等女学校(現・島根県立浜田高等学校)に転勤し、1922年に兵庫県立姫路高等女学校(現・兵庫県立姫路東高等学校と兵庫県立姫路西高等学校)に転勤していました。直良信夫と直良 音は、臼杵で知り合いだったそうで、直良 音は「世界一偉い人になりなさい。」と励ましていたそうです。その後、直良信夫は、東京に残した恋人の安否を気づかい上京しますが、行方はわかりませんでした。直良 音は、1924年に兵庫県立姫路高等女学校を退職し、兵庫県明石高等女学校(現・兵庫県立明石南高等学校)に転職します。1925年、二人は結婚しました。村本信夫は、直良信夫に改姓します。

 1926年、直良信夫は、「直良石器時代文化研究所」を開設し、研究成果をコンニャク版印刷で印刷し研究を続けていました。やがて、大きな発見が訪れます。1931年4月18日、直良信夫は、明石市西八木海岸で、後に「明石原人」と呼ばれる左寛骨を発見したのです。

Akashiinnominate

明石原人の左寛骨[Nishiyagi(西八木)・18.4.31.(昭和18年4月31日)]

 直良信夫は、早速、この明石原人の左寛骨を、東京帝国大学理学部人類学教室の松村 瞭[1880-1936]に送ります。1931年5月5日、松村から手紙が届きます。その手紙には、「人骨に間違いなく、死亡年齢は約16歳から17歳。しかし、世界の化石人類で寛骨はあまり出土していないため比較するのが困難である。」とありました。当時の日本は、旧石器という時代自体が存在しないと考えられていた時代です。

 1932年、直良信夫は、早稲田大学理工学部の徳永重康[1874-1940]の個人助手となり、獣類化石研究室という看板を掲げて、獣骨の整理を行います。1938年に早稲田大学理工学部採鉱冶金学科図書室に勤務し、1944年に早稲田大学専門部工科鉱山地質学科で地質学や古生物学を講義し、1945年には早稲田大学理工学部非常勤講師に就任しました。やがて、悲劇が訪れました。1945年5月25日、東京大空襲により、自宅が全焼し明石原人の骨も焼失してしまったのです。

 1948年7月、元東京帝国大学理学部人類学教室の長谷部言人[1882-1969]が、『人類学雑誌』第61巻第1号に、「明石市附近西八木最新世前期堆積出土人類腰骨(石膏型)の原始性に就いて」という論文を発表し、ニッポナントロプス・アカシエンシス(Nipponanthropus akasiensis)という通称を提示し、原人級であると鑑定しました。最初に人骨を鑑定した松村 瞭は1936年に急逝していましたが、精巧な石膏模型を作成し写真も撮影していたのです。長谷部言人は、この石膏模型と写真で研究しました。1948年10月には、長谷部言人を中心として明石原人が発見された西八木海岸の発掘調査が実施されましたが、何も発見されません。直良信夫によると、発掘調査が行われた地点は、発見地点とは異なる場所だったそうです。

 なお、翌年の1949年には、群馬県岩宿遺跡で相沢忠洋[1926-1989]等により旧石器も発見され、日本にも旧石器時代があったことが証明されました。

 直良信夫は、1956年、早稲田大学理工学部専任講師に就任しました。翌年の1957年には、『日本古代農業発達史』により、早稲田大学文学部から文学博士号も取得します。そして、1960年には、早稲田大学理工学部資源工学科教授に就任しました。直良信夫は、58歳になっていました。

 私生活では、長年連れ添った妻の直良 音が1965年5月5日に死去します。1966年12月には、直良 音のいとこの春江と再婚しました。1972年3月に、直良信夫は早稲田大学を定年退職します。他大学へ再就職の誘いがあったそうですが、健康に自信が無い直良信夫は、1973年10月に妻の故郷である島根県出雲市へ転居しました。

 明石人骨は、さらに話題を提供することになりました。1982年10月15日、東京慈恵会医科大学で開催された第36回日本人類学会・日本民族学会連合大会で東京大学理学部人類学教室(当時)の遠藤萬里と獨協医科大学解剖学教室(当時)の馬場悠男が連名で、明石原人は1万年以内の人類であるという学会発表を行います。それは、明石原人が発見された1931年当時から約50年経過した時点では、すでに世界各国で様々な段階の寛骨が発見されており、形態の比較検討が可能になっていたからです。

 その後、この明石原人を巡っては、愛知学院大学(当時)の吉岡郁夫やオーストラリア国立大学(当時)の直良博人等と大きく論争が行われました。直良博人は、直良信夫の長男で生物学者です。しかし、化石化していたいないという論争や形態を巡る論争は、やがて終息しました。やはり、実物が無いと年代測定ができないという制約があったのです。

 直良信夫は、様々な分野を研究しましたが、人類学に関連した研究は、以下の通りです。

  • 1931年:明石人骨を発見。
  • 1950年:葛生人骨を発見。
  • 1951年:日本橋人骨を発見。
  • 1970年:夜見ヶ浜人骨を発見。

 直良信夫は、膨大な著書と論文を残しています。代表的な著書は、以下の通りです。

  • 直良信夫(1954)『日本旧石器時代の研究』、寧楽書房
  • 直良信夫(1956)『日本古代農業発達史』、さ・え・ら書房
  • 直良信夫(1959)『人類発達史』、校倉書房
  • 直良信夫(1965)『古代人の生活と環境』、校倉書房
  • 直良信夫(1965)『日本産狼の研究』、校倉書房[このブログで紹介済み]
  • 直良信夫(1968)『狩猟』、法政大学出版局
  • 直良信夫(1970)『日本および東アジア発見の馬歯・馬骨』、日本中央競馬会[このブログで紹介済み]
  • 直良信夫(1972)『古代遺跡発掘の脊椎動物遺体』、校倉書房[このブログで紹介済み]
  • 直良信夫(1973)『古代遺跡発掘の家畜遺体』、日本中央競馬会弘済会[このブログで紹介済み]
  • 直良信夫(1985)『日本旧石器人の探究』、六興出版

 直良信夫は、1985年11月2日に、83歳で死去しました。死去の前日の11月1日には、縁のある明石市文化功労賞を受賞しています。苦学しながら努力を重ねて、早稲田大学教授となった波乱万丈の人生だと言えるでしょう。研究した範囲は、考古学・古生物学・動物考古学・動物学・生態学・人類学と幅広く、「日本で最後の博物学者」と呼ばれています。なお、直良信夫の遺骨は、1985年11月8日に、神奈川県秦野市にある太岳院に納骨されました。戒名は、「秋成院洪化清信居士」です。

 直良信夫の大分県臼杵市の生家は、現在、「直良信夫顕彰記念館」として保存公開されています。直良信夫の波乱万丈な人生に興味を抱いた松本清張[1909-1992]は、1955年に直良信夫をモデルにして小説「石の骨」を発表します。また、直良信夫と明石原人を題材として、2004年から2008年にかけて、劇団民藝が『明石原人:ある夫婦の物語』を上演しました。小説や劇団のテーマになるほど、直良信夫の人生は波瀾万丈の人生だったということでしょう。

*直良信夫に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 直良信夫(1981)『学問への情熱』、佼成出版会
  • 高橋 徹(1984)『明石原人の発見』、社会思想社
  • 金子浩昌(1986)「直良信夫先生を偲んで」『人類学雑誌』、第94巻第3号、pp.269-273
  • 春成秀爾(1994)『「明石原人」とは何であったか』、NHKブックス
  • 直良三樹子(1995)『見果てぬ夢「明石原人」』、時事通信社
  • 明石市立文化博物館(2002)『「明石原人」の発見者・直良信夫生誕100年展』、明石市立文化博物館
  • 白崎昭一郎(2004)『「明石原人」と直良信夫』、雄山閣  

日本の人類学者45.埴原和郎(Kazuro HANIHARA)[1927-2004]

2012年10月31日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Kazurohanihara

埴原和郎(Kazuro HANIHARA)[1927-2004][河内まき子(2005)「追悼文:埴原和郎先生」『Anthropological Science』第113巻第1号より改変して引用](以下、敬称略。)

 埴原和郎は、1927年8月17日に、福岡県北九州市で生まれました。その後、明星中学校・旧制成蹊高等学校を経て、1948年に東京大学理学部人類学科に入学します。人類学科では、須田昭義[1900-1990]について、エリザベス・サンダース・ホームの子供の歯を研究しました。

 当時の様子が、埴原和郎(1992)『歯と人類学の話』に紹介されています。1950年の晩秋、須田昭義と埴原和郎は大磯のエリザベス・サンダース・ホームを訪問します。埴原和郎は、旧制の3年生でした。

  • 埴原和郎「先生。何とかあの子たちの調査ができないものでしょうか?」
  • 須田昭義「君もそう思うか。君は大学院で骨の研究をしたいといっていたが、相手は生体だよ。それでもやる気があるか?」
  • 埴原和郎「これは特別です。こんなチャンスを逃す手はありません。僕は大学院で鈴木 尚先生に骨の研究を指導していただくつもりですが、混血児の調査をやるなら須田先生のお手伝いをします。」
  • 須田昭義「うーん、分かった。考えてみよう。」

 後日、須田昭義と埴原和郎は、研究の打ち合わせを行い、生体計測・血液型・指紋・掌紋・皮膚・毛髪・眼の色・味盲・耳垢等の調査項目を決めました。当初、埴原和郎は研究者の助手を務めるつもりだったそうです。ところが、須田昭義から思いがけない言葉が発せられました。

  • 須田昭義「君の仕事がないね。せっかくの機会なのだから、君は歯の研究をやってみないか?」

 当時、歯を研究する研究者は非常に少なく、特に子供の歯である乳歯についてはあまりまとまった研究がありませんでした。埴原和郎は、早速、東京大学医学部解剖学教室の藤田恒太郎[1903-1964]に教えを請います。藤田恒太郎は、1939年に『人類学・先史学講座第8巻』に「歯牙の人類学」を、1949年に『人類学雑誌』に「歯の計測規準について」という論文を、1949年には『歯の解剖学』という教科書を発表していました。

 エリザベス・サンダース・ホームの調査は、1951年の夏から始まり、半年毎に長期的な観察と計測が行われ15年以上継続調査が行われました。埴原和郎は、次々とその成果を『人類学雑誌』に発表します。

  • 埴原和郎(1954)「日本人及び日米混血児乳歯の研究Ⅰ.乳切歯について」、『人類学雑誌』、第63巻第5号、pp.168-185
  • 埴原和郎(1955)「日本人及び日米混血児乳歯の研究Ⅱ.乳犬歯について」、『人類学雑誌』、第64巻第2号、pp.63-82
  • 埴原和郎(1956)「日本人及び日米混血児乳歯の研究Ⅲ.下顎乳臼歯について」、『人類学雑誌』、第64巻第3号、pp.95-116
  • 埴原和郎(1957)「日本人及び日米混血児乳歯の研究Ⅳ.上顎乳臼歯について」、『人類学雑誌』、第65巻第2号、pp.67-87
  • 埴原和郎(1957)「日本人及び日米混血児乳歯の研究Ⅴ.総括」、『人類学雑誌』、第65巻第4号、pp.151-164

 埴原和郎は、この論文をまとめて1958年に「日本人及び日米混血児乳歯の研究」により、母校から理学博士号を取得しています。恩師・須田昭義のすすめにより、歯の人類学研究を一生のテーマとすることになったのです。

 埴原和郎は、1951年に卒業すると大学院に入学します。この年、1951年の春、埴原和郎は後にもう一つの研究テーマとなる貴重な経験をしています。それは、福岡県北九州市の小倉で、朝鮮戦争で戦死した米軍兵士の個人識別のアルバイトを行ったのです。契約期間は、1951年4月1日から2ヶ月と20日間で、元立教大学の香原志勢と共に参加し、戦死者の人種・性別・死亡年齢・身長等を推定しました。ちなみに、ここには、東京大学理学部人類学科を卒業して奈良県立医科大学の解剖学教室に勤務していた、古江忠雄も参加していました。古江忠雄は、埴原和郎や香原志勢よりも先輩です。ここでの経験は、古江忠雄の人生も左右しました。古江はその後、ハワイにできた中央鑑識研究所に勤務し法医人類学者として活躍したのです。この時の経験は、1952年に『人類学雑誌』に3人の連名で発表しています。また、埴原和郎は、ここでの経験を1965年に『骨を読む』に詳細に残しています。

  • 古江忠雄・埴原和郎・香原志勢(1952)「死体の個人識別」『人類学雑誌』、第62巻第4号、pp.198-205

 この小倉での経験は、後に埴原和郎に大きな影響を及ぼします。実際、埴原和郎は、法医人類学に関する論文を多数発表しました。

  • 埴原和郎(1952)「日本人男性恥骨の年齢的変化について」『人類学雑誌』、第62巻第5号、pp.245-260
  • 埴原和郎(1958)「判別関数による日本人長骨の性別判定法」『人類学雑誌』、第66巻第4号、pp.187-196
  • 埴原和郎(1959)「判別関数による日本人頭骨ならびに肩甲骨の性別判定法」『人類学雑誌』、第67巻第4号、pp.191-197
  • 埴原和郎・小泉清隆(1979)「歯冠近遠心径に基づく性別の判定」『人類学雑誌』、第87巻第4号、pp.445-456
  • 埴原和郎(1981)「判別関数による日本人骨および歯の性別判定法」『人類学雑誌』、第89巻第4号、pp.401-418

 埴原和郎は、1956年、札幌医科大学の法医学教室講師に就任します。この札幌医科大学は、1945年7月に設立された北海道立女子医学専門学校を前身として、1950年2月に開学していました。埴原和郎は、1958年に札幌医科大学法医学教室助教授に昇任しています。この札幌医科大学時代、シカゴ大学(1959年~1960年・1968年)とアデレード大学(1969年)の客員教授も務めています。

 やがて、埴原和郎に大きな転機が訪れました。1972年に定年退官した、鈴木 尚[1912-2004]の後任として、母校・東京大学理学部人類学教室教授に就任したのです。この頃から、研究は日本出土古人骨を中心とした日本人の起源の研究に向かいました。埴原和郎は、自身での発掘調査はあまり行いませんでしたが、得意な統計学を使用して多くの新事実を明らかにしています。

 1974年には、第5次東京大学西アジア洪積世人類遺跡調査団団長として、シリア共和国のドゥアラ洞窟を発掘しました。このドゥアラ洞窟は、1970年・1974年・1984年と3回同調査団による発掘調査が行われ、多くの石器や獣骨が出土しましたが、残念ながらネアンデルタール人化石は発見されていません。

 1987年、埴原和郎は新設される国際日本文化研究センター教授に就任します。東京大学との併任でした。翌、1988年には東京大学を定年退官し国際日本文化研究センター教授の専任となります。活動の場が、関西地方に移ったのです。1993年に国際日本文化研究センターを定年退官し、1994年には国際高等研究所の理事兼副所長に就任し、1996年からは参与となりました。

 埴原和郎が書いた論文は膨大で、約100編に及びますが、主に、歯の研究や法医人類学の研究が多いのが特徴です。その2つのテーマ共に、埴原和郎の研究初期である1950年から1951年に巡りあったものでした。埴原和郎が書いた著書も膨大で、約40点に及びます。これほどの数の著書を出版した人類学者は、2012年時点で埴原和郎と清野謙次[1885-1955]の二人だと思います。埴原和郎が書いた主な著書は、以下の通りです。

◎単著

  • 埴原和郎(1965)『骨を読む:ある人類学者の体験』、中央公論社(中公新書)
  • 埴原和郎(1972)『人類進化学入門』、中央公論社(中公新書)
  • 埴原和郎(1978)『人類進化学入門・増補版』、中央公論社(中公新書)
  • 埴原和郎(1984)『新しい人類進化学:ヒトの過去・現在・未来をさぐる』、講談社(ブルーバックス)
  • 埴原和郎(1992)『歯と人類学の話』、医歯薬出版
  • 埴原和郎(1995)『日本人の成り立ち』、人文書院
  • 埴原和郎(1996)『日本人の誕生:人類はるかなる旅』、吉川弘文館
  • 埴原和郎(1997)『日本人の骨とルーツ』、角川書店
  • 埴原和郎(1997)『骨はヒトを語る:死体鑑定の科学的最終手段』、講談社(文庫)[埴原和郎(1965)『骨を読む』の再録]
  • 埴原和郎(1999)『日本人の顔』、講談社
  • 埴原和郎(2000)『人類の進化・試練と淘汰の道のり:未来へつなぐ500万年の歴史』、講談社
  • 埴原和郎(2002)『日本人の骨とルーツ』、角川書店(文庫)[埴原和郎(1997)『日本人の骨とルーツ』の再録]
  • 埴原和郎(2003)『日本人はどこから来たか』、作品社
  • 埴原和郎(2004)『人類の進化史:20世紀の総括』、講談社(学術文庫)[埴原和郎(2000)『人類の進化』の再録]

◎編著(主なもの)

  • 埴原和郎編著(1981)『人類学講座4.古人類』、雄山閣
  • 梅原 猛・埴原和郎編(1982)『アイヌは原日本人か』、小学館
  • 埴原和郎編(1984)『日本人はどこからきたか』、小学館
  • 埴原和郎編(1984)『日本人の起源』、朝日選書
  • 埴原和郎編(1985)『縄文人の知恵』、小学館
  • 埴原和郎編(1986)『日本人の起源』、小学館
  • 尾本恵市・埴原一郎(1986)『体から日本人の起源をさぐる』、福武書店
  • 埴原和郎編(1990)『日本人新起源論』、角川選書
  • 埴原和郎編(1993)『日本人と日本文化の形成』、朝倉書店
  • 埴原和郎編(1994)『日本人の起源(増補)』、朝日選書
  • 埴原和郎編(2004)『日本人はどこから来たか:日本文化の深層』、作品社

 この他に、英文報告書の編著があります。

  • HANIHARA, K. & SAKAGUCHI, Y.(1978)”Paleolithic Site of Douara Cave and Paleogeography of Palmyra Basin in Syria:Part I. Stratigraphy and Paleogeography in the Late Quaternary”,Bulletin No.14,The University Museum,The University of Tokyo
  • HANIHARA, K. & AKAZAWA, T.(1979)”Paleolithic Site of Douara Cave and Paleogeography of Palmyra Basin in Syria:Part II. Prehistoric Occurrences and Chronology in Palmyra Basin”,Bulletin No.16,The University Museum,The University of Tokyo
  • SUZUKI, H. & HANIHARA, K.(1982)”The Minatogawa Man: The Upper Pleistocene Man from the Island of Okinawa”,Bulletin No. 19,The University Museum,The University of Tokyo
  • HANIHARA, K. & AKAZAWA, T.(1983)”Paleolithic Site of Douara Cave and Paleogeography of Palmyra Basin in Syria:Part III. Animal Bones and Further Analysis of Archeological Materials”,Bulletin No.21,The University Museum,The University of Tokyo
  • HANIHARA, K.(1992)”Japanese as a Member of the Asian and Pacific Populations”,International Symposium 4,International Research Center for Japanese Studies
  • BRENNER, S. & HANIHARA, K.(1995)”The Origin and Past of Modern Humans as Viewed from DNA”,World Scientific

Booksofkazurohanihara

埴原和郎の著書(*画像をクリックすると、拡大します。)

 埴原和郎の最も有名な研究は、日本人の起源についての仮説を提唱した「二重構造モデル」でしょう。この仮説は、日本には元々、在来系の縄文人がおり、その後、弥生時代になって渡来系である弥生人が主に西日本に渡来し、その後、古墳時代になると九州・四国・本州西部では渡来系が優勢となって本州東部では在来系と渡来系の混血が進んだとするものです。しかし、北海道のアイヌと琉球地方ではあまり混血が進まなかったため、在来系の特徴を色濃く残しているというものです。現在でも、検証されている、ダイナミックな仮説の提唱でした。

  • HANIHARA, Kazuro(1991)’Dual Structure Model for the Population History of the Japanese’,”Japan Review”, No.2: 1-33
  • 埴原和郎(1994)「二重構造モデル:日本人集団の形成に関わる一仮説」『人類学雑誌』、第102巻第5号、pp.455-477

 埴原和郎は、2004年10月10日、77歳で死去しました。通夜・告別式は行われず、近親者のみで行われています。埴原和郎は、東京大学時代に、国立科学博物館人類研究部の溝口優司・産業技術総合研究所の河内まき子・国立科学博物館動物研究部の山田 格・慶應義塾大学の高山 博等を育てました。また、長男の埴原恒彦は父親の埴原和郎と同じ人類学を研究し、北里大学医学部解剖学教授として研究を引き継いでいます。

 埴原和郎が亡くなった2004年は、元東京大学教授の人類学者・鈴木 尚[1912-2004]が10月1日に亡くなっており、2004年10月は人類学にとって二人の巨頭を相次いで失ったことになります。

 なお、埴原和郎の伯父・埴原正直[1876-1934]は、外務事務次官や駐米全権大使を務めた外交官でした。この埴原正直には、子供がいなかったため、弟の弓次郎の子供、義郎・卓子・和郎が埴原本家の跡取りとして育てられたそうです。2011年には、『「排日移民法」と闘った外交官』(藤原書店)が、親族のチャオ埴原三鈴さんにより出版されています。埴原和郎は、生前、「大使の功績を明らかにする必要がある」と語っていたそうです。

 私は、埴原和郎先生とは晩年に色々とお世話になりました。特に、埴原和郎先生が高等研究所の副所長時代には、1994年のサマースクール「遺伝と進化」(1994年7月27日~同年7月28日)・1994年のセミナー「遺伝と進化」(1994年12月19日~同年12月21日)・1995年のセミナー「遺伝と進化」(1995年7月25日~同年7月26日)と3回も招待していただいたことを思い出します。このサマースクールとセミナーは、国内の若手研究者を対象とした勉強会で、それぞれ、16人・19人・16人と限られた人数で、旅費が支給され、食事と宿舎が無料で提供されるという最高の環境でした。特に、1995年12月のセミナーは、ドイツからギュンター・ブロイヤー(Gunter BRAUER)とセヴァンテ・ペーボ(Svante PAABO)、イギリスからジョン・クレッグ(John CLEGG)、アメリカからミルフォード・ウォルポフ(Milford WOLPOFF)が招かれており、贅沢なセミナーだったことを思い出します。

 また、私が1984年に第6次西アジア洪積世人類遺跡調査団に参加してシリア共和国のドゥアラ洞窟を発掘した際は、前回の第5次でのメンバーだった、東京大学(当時)の自然地理学者・阪口 豊先生も参加されており、「前回の時は、砂漠でスタックした時にタイヤの下に敷くものを埴原和郎先生は持参していて重宝した。」と聞きました。

 1989年に岡山理科大学で開催された、第43回日本人類学会・日本民族学会連合大会では、埴原和郎先生の発表に、一番前で聞いておられた鈴木 尚先生が質問をして立ち上がり、その質問に対して真剣に反論しておられた姿は今でも覚えています。

 さらに、埴原和郎先生が2000年に出版された『人類の進化』では、埴原先生からのご依頼で多くの化石人類のレプリカの写真を撮影して提供したことも思い出しました。

 埴原和郎先生は、相手が誰であろうと常に学問を熱く語られる方で、エネルギッシュな先生だという印象を覚えています。また、国際経験が豊富なので、非常に英語もうまくスマートな先生でした。 

*埴原和郎に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 尾本恵市(1993)「埴原和郎氏の学問的業績」『日本文化』、第8号、pp.191-197
  • 河内まき子(2005)「追悼文:埴原和郎先生」『Anthropological Science』、第113巻第1号、pp.1-3

日本の人類学者44.渡邊直経(渡辺直経)(Naotune WATANABE)[1919-1999]

2012年10月28日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Naotunewatanabe

渡邊直経(渡辺直経)(Naotune WATANABE)[1919-1999][有馬真喜子(1974)「ひと:渡辺直経氏」『季刊・人類学』第5巻第4号より改変して引用](以下、敬称略。)

 渡邊直経は、1919年3月10日、東京市(現・東京都)で生まれました。やがて、1940年に東京帝国大学理学部人類学科に入学し、長谷部言人[1882-1969]の指導を受けます。ちなみに、人類学科としては第2回生でした。

 しかし、1942年9月に繰り上げ卒業となり、大学院へ進学しますが、海軍予備学生として志願し、1945年8月まで約3年間軍務についています。この軍務では、前線に赴任せず、海軍軍令部で暗号をといていたそうです。

 この時の事情を本人が、「学生時代の思い出」として書いています。それによると、「(略)・・・徴兵検査を受けたが、長髪はまかりならぬというので、涙をのんで丸坊主となった。検査の結果は乙種合格で、兵科は歩兵の宣告をうけた。・・・(略)・・・海軍に予備学生という大学や高専出を将校にする制度ができたことをはじめて知った。われわれには技術将校になる道はなかったから、卒業すれば陸軍の兵卒になるほかはない。思っただけで憂鬱であったところに、予備学生の話は全く耳よりで、早速志願してみると、運よく合格した。九月に繰り上げ卒業するとすぐ予備学生として台湾で訓練をうけ、あとはずっと軍令部にいて終戦を迎えた。」とあります。この海軍時代の奥様とのロマンスは、小説家・阿川弘之の『春の城』にモデルとして登場しています。

 渡邊直経は、戦後、母校の大学院に復学し、1948年4月に副手・1949年6月に助手・1960年4月に助教授と昇任し、1968年6月に教授に就任しました。この間、1957年には「日本の古代遺跡から発見される焼土の熱残留磁気の方向について:人類学のための年代学への応用に関する研究」により、母校から理学博士号を取得しています。

 渡邊直経の研究は、人類学への理化学分析の応用が多く、特に、年代学分野で多くの業績があります。渡邊直経が書いた論文は膨大ですが、代表的なものは以下の通りです。

  • 渡邊直経(1944)「毛髪溶液の比色計検査に就いて」『人類学雑誌』、第59巻第9号、pp.323-341
  • 渡邊直経(1949)「遺物包含地遺跡に於ける燐の分布」『人類学雑誌』、第61巻第1号、pp.17-24
  • 渡邊直経(1950)「遺跡に於ける骨類の保存」『人類学雑誌』、第61巻第2号、pp.67-74
  • 渡邊直経(1950)「明石西郊含化石層に於ける骨の保存可能性」『人類学雑誌』、第61巻第4号、pp.183-190
  • 渡邊直経(1958)「古地磁気研究法による人類遺跡の年代判定」『第四紀研究』、第1巻第3号、pp.92-100
  • 渡邊直経(1963)「日本先史時代に関するC14年代資料」『第四紀研究』、第2巻第6号、pp.232-240
  • 渡邊直経(1966)「縄文および弥生時代のC14年代」『第四紀研究』、第5巻第3・4号、pp.157-168
  • 渡邊直経(1967)「人類学・考古学のための磁気年代学」『第四紀研究』、第6巻第4号、pp.230-238
  • 渡邊直経(1970)「人類学からみた前期洪積世:特に明石原人を含めて」『第四紀研究』、第9巻第3・4号、pp.176-183
  • 市原 実・渡邊直経(1977)「ジャワの人類化石含有層」『第四紀研究』、第15巻第4号、pp.176-180
  • 渡邊直経(1980)「沖縄における洪積世人類遺跡」『第四紀研究』、第18巻第4号、pp.259-262
  • 渡邊直経(1990)「ジャワの第四紀地質研究:日本・インドネシア研究協力15年の歩み」『第四紀研究』、第29巻第4号、pp.377-380

 私が、一番重宝したものは、雑誌『自然』に連載された、「人類が来た道のりを測る」です。これは、雑誌『自然』に1959年12月号・1960年1月号~同6月号・1961年7月号~同11月号と断続的に合計12回にわたって連載されたもので、人類進化学や年代測定学について、当時最新の情報が満載されていました。私は、学生時代に図書館でコピーして、自分で製本して勉強したのを思い出します。今でも、大切に保存しています。

 また、渡邊直経が書いた主な本は、以下の通りです。なお、苗字は、本に掲載された通りにしています。また、以下の内、渡辺(1997)と渡辺・香原・山口(2001)は、『人類学講座』のシリーズとして出版されたものですが、同じ内容で普及版も同時に出版されています。

  • 江原昭善・渡辺直経(1976)『猿人・アウストラロピテクス』、中央公論社
  • 渡辺直経司会・編(1977)『シンポジウム:日本旧石器時代の考古学』、学生社
  • 渡辺直経・伊ヶ崎暁生(1980)『科学者憲章』、勁草書房
  • 渡辺直経編(1997)『人類学用語事典』、雄山閣出版
  • 渡辺直経編(1997)『人類学講座・別巻2.人類学用語』、雄山閣出版
  • 渡辺直経・香原志勢・山口 敏編(2001)『人類学の読み方』、雄山閣出版
  • 渡辺直経・香原志勢・山口 敏編(2001)『人類学講座1.総論』、雄山閣出版

 これ以外にも、渡邊直経が書いた本は多数ありますが、その中でも、『人類学講座4.古人類』[埴原和郎編](1981)に掲載された、「1.年代学」(pp.3-60)は、前出の雑誌『自然』に掲載された「人類が来た道のりを測る」をコンパクトにまとめアップデートしたもので、大変、参考になります。

 渡邊直経は、東京大学時代の1976年11月~1980年11月には日本人類学会会長を、また、1977年1月~1981年7月には日本第四紀学会会長を、さらに1978年1月~1981年1月には日本学術会議会員としても活躍しました。

 また、年代学を専攻していたと聞くと、大学の実験室にこもっている印象を受けますが、第一次沖縄洪積世人類発掘調査団(1968年12月25日~1969年1月7日)の団長を務めています。さらに、1975年から1979年にかけては、文部省科学研究費及び国際協力事業団により、「ジャワにおける人類化石包含層の層序・古生物・年代学的研究」を研究代表者として実施し、インドネシアの古人骨を学際的に研究する体制を整えました。この時の成果は、以下の報告書にまとめられています。弟子の松浦秀治によると、スーツにネクタイ姿でフィールドで発掘調査を行っていたそうで、常に、ジェントルマンといういでたちだったそうです。

  • WATANABE, Naotune & KADAR, Darwin(1985)『Quaternary Geology of the Fossil Bearing Formations in Java』、Geological Research and Development Centre、No.4

Watanabekadar1985

Watanabe & Kadar(1985)表紙(*画像をクリックすると、拡大します。)

 渡邊直経は、1979年3月に、東京大学を定年退官しました。その後、帝京大学法学部一般教養教授に就任しています。しかし、1984年6月に、帝京大学を辞職しました。自分が努力して開設した、インドネシアの第四紀地質研究所をさらに整備し運営するために、1984年7月~1988年4月にかけて国際協力事業団派遣専門家として夫婦で赴任したのです。

 渡邊直経は、1999年5月10日、80歳で死去しました。お別れの会は、同年5月22日に開かれ多くの学会関係者が弔問に訪れています。まさしく、人類科学としての年代学研究に捧げた一生だと言えるでしょう。なお、渡邊直経は、東京大学時代に、元立教大学の鈴木正男・元九州大学の小池裕子・お茶の水女子大学の松浦秀治等を育てました。

 私は、渡邊直経先生とは晩年の1990年代に親しくさせてていただきました。時には、ご自宅にまた時には二次会でお誘いをいただいて二人きりで飲ませていただいたことを思い出します。非常に上品で、話題が豊富でただお話をうかがっているだけで勉強になりました。その後、元国立科学博物館の馬場悠男先生やお茶の水女子大学の松浦秀治先生と共に、渡邊直経先生がレールを敷かれたインドネシアの古人類調査に1990年から2000年にかけて約10年も関わることになるとはその時夢にも思いませんでした。

 渡邊直経先生の学識の幅は非常に広く、人類学史にも一家言持っておられました。実際、1992年には、「人類学雑誌100巻の回顧(1):創刊から坪井会長逝去まで」を『Anthropological Science』の第100巻第2号(pp.145-159)に書いておられます。学史は、どの分野でも軽視されていますが、かの著名なアメリカ・ハーヴァード大学の進化学者のエルンスト・マイヤー(Ernst MAYR)[1904-2005]は、1982年に大著『The Growth of Biological Thought』という生物学史の本を出版しており、序文では学史の重要性を説いています。残念なのは、渡邊直経先生による前出の論文が(2)・(3)と続いて出版されなかったことです。松本彦七郎[1887-1975]のことが書かれた『理性と狂気の狭間で』も、渡邊直経先生に教えていただきました。渡邊直経先生の死後出版された、『人類学講座1.総論』とその普及版『人類学の読み方』では、編著者の香原志勢先生と山口 敏先生にお声をかけていただき、私は「日本人類学史年表」を書かせていただきました。

 渡邊直経先生のお別れの会には、私も参列させていただきましたが、遺影だけが掲げられユリの花を献花するという会で、なかなか素晴らしい会でした。渡邊直経先生の死後にも、教えられた気がしました。しばらくして奥様から、製本された『人類が来た道のりを測る』が郵送されてきました。その本は、今でも大切に書棚に納め、時々、読み返しています。

*渡邊直経に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 有馬真喜子(1974)「ひと:渡辺直経氏」『季刊・人類学』第5巻第4号、pp.173-177
  • 渡辺直経(1979)「学生時代の思い出」『東京大学理学部廣報』第10巻5・6号、pp.6-7
  • 尾本恵市(1979)「渡辺直経教授を送る」『東京大学理学部廣報』第10巻5・6号、pp.7-8
  • 松浦秀治(2000)「渡邊直經先生のご逝去を悼む」『Anthropological Science』、第107巻第2号、巻頭4頁(頁記載無し)

日本の人類学者43.近藤四郎(Shiro KONDO)[1918-2003]

2012年10月26日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Shirokondo

近藤四郎(Shiro KONDO)[1918-2003][近藤四郎(1978)『日本の野生動物99の謎』、サンポウジャーナル著者欄より改変して引用](以下、敬称略。)

 近藤四郎は、1918年12月3日、長崎県長崎市で生まれました。その後、1937年に熊本の旧制第5高等学校理科乙類に入学し、卒業後、1941年に東京帝国大学理学部人類学科に入学します。当時の人類学科は、1939年4月に長谷部言人[1882-1969]により創設されたばかりで、近藤四郎は人類学科で第3回生でした。この第3回生には、小林和正・田辺義一・林 夫門がいます。1943年に繰り上げ卒業すると同時に母校の副手に就任し、1945年に助手に昇任しました。

 卒業論文は、脛骨の横断形について行っています。指導教官の長谷部言人は、近藤四郎が計測した脛骨の計測値をノートに書くと、「それは違っている。」と指摘したそうで、「偉い先生になると測らずに数値がわかるのか。」と感心したそうですが、実際は、学生よりも早く大学に登校して事前に計測していたという逸話が、近藤四郎により紹介されています。また、長谷部言人からは、「一生、足を研究するように。」とも言われたそうで、実際、近藤四郎は足の研究を一生のテーマにしました。

 1957年には、「ヒトの姿勢及び歩行運動の人類学的研究 : 主として筋活動電流より見たる 」により、母校から理学博士号を取得しています。1960年、近藤四郎は、母校の生体人類学担当助教授に昇任しました。

 1961年には、アメリカのオハイオ州イエロー・スプリングスにある、フェルス研究所に留学しています。このフェルス研究所は、1929年にサミュエル・フェルス(Samuel FELS)[1860-1950]の財政援助により設立され、主に長期的な成長研究を行っていました。1977年まではフェルス財団により運営されていましたが、その後、ライト州立大学医学部に移管されています。

 やがて、近藤四郎に大きな転機が訪れました。京都大学霊長類研究所が設立されることになり、1967年に形態基礎研究部門の教授に就任し、同時に研究所の初代所長に就任したのです。この人事には、東京大学教授で京都大学霊長類研究所の設立準備委員にも就任していた須田昭義[1900-1990]の影響ともあるいは、東大時代の恩師・時実利彦[1909-1973]の影響があったとも言われています。また、旧制第五高等学校(熊本)時代の同級生が、当時、文部省の文部事務次官と大蔵省の主計局長だったことも幸運だったと、弟子の生理人類学者の岡田守彦により紹介されています。

 1982年に京都大学を定年退官すると、大妻女子大学人間生活科学研究所(2008年に人間生活文化研究所に改称)の教授に就任しました。1987年から1993年にかけては、大妻女子大学人間生活科学研究所の所長も務めています。

 近藤四郎が書いた論文や著書は膨大ですが、主な著書は以下の通りです。

  • 近藤四郎監修(1954)『はきもの』、岩波書店
  • 近藤四郎編著(1961)『現代人間学Ⅰ.ヒトの進化』、みすず書房
  • 近藤四郎編著(1977)『日本人の起源と進化』、社会保険新報社
  • 近藤四郎編著(1978)『日本の野生動物99の謎』、サンポウジャーナル
  • 近藤四郎(1979)『足の話』、岩波書店
  • 近藤四郎(1981)『足のはたらきと子どもの成長』、築地書館
  • 近藤四郎・大島 清(1982)『人間の生と性』、岩波書店
  • 近藤四郎(1993)『ひ弱になる日本人の足』、草思社
  • 近藤四郎編(1983)『人類学講座3.進化』、雄山閣出版

 近藤四郎は、2003年2月6日、死去しました。恩師・長谷部言人と出会ったことから、足の研究を一生のテーマとして成長の研究を行った一生だと言えるでしょう。

 私は、近藤四郎先生の晩年に何度か酒席に呼んでいただいたことがあります。とてもスマートで粋な先生だという印象を持ちました。弟子の岡田守彦先生によると、京都の祇園のお茶屋に度々通われていたとのことで、そういう経験から培われたのだと思いました。

*近藤四郎に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 近藤四郎(1983)「長谷部言人先生のこと」『日本人の祖先』(長谷部言人著)、築地書館、pp.173-197
  • 岡田守彦(2004)「近藤四郎先生を偲ぶ:その足跡と業績の俯瞰から」『Anthropological Science』、第112巻第1号、pp.1-8

日本の人類学者42.八幡一郎(Ichiro YAWATA)[1902-1987]

2012年10月25日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Ichiroyawata

八幡一郎(Ichiro YAWATA)[1902-1987][江坂輝弥(1988)「八幡一郎先生を偲ぶ」『人類学雑誌』第96巻第2号より改変して引用](以下、敬称略。)

 八幡一郎は、1902年4月14日に、長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)で生まれました。身体が弱かったため、諏訪中学校を卒業後、1921年に東京帝国大学理学部人類学教室の選科に入学します。この選科は、卒業しても学士号がもらえないという制度でした。この年、選科生には、八幡一郎の他、宮坂光次も入学しています。人類学教室の選科生は、全部で10人いましたが、八幡一郎は5番目となります。

 八幡一郎は、鳥居龍蔵[1870-1953]について人類学の勉学に励みました。鳥居龍蔵は、後に「自分の弟子は、山・甲・八の三君のみ。」と語っており、「山」は「山内清男[1902-1970]」・「甲」は「甲野 勇[1901-1967]・「八」は八幡一郎を指します。

 1924年に八幡一郎は東京帝国大学理学部人類学教室の選科を修了すると、母校の副手に就任します。1931年に助手・1939年に講師と順調に昇任しました。この当時の八幡一郎は、アカデミックの世界で恵まれており、山内清男はその点を度々批判していたようです。

 甲野 勇は1926年に、大山 柏が創設した大山史前学研究所に移りましたが、その研究所も1936年に去っています。山内清男が八幡一郎を批判した理由は、他にもありました。それは、師匠の鳥居龍蔵が松村 瞭[1880-1936]の学位論文を巡る事件で東京帝国大学を辞職した際に、山内清男は鳥居に殉じるかのように東北帝国大学医学部副手として赴任したのに対し、八幡一郎と甲野 勇はそのまま教室に残ったからです。この点は、恩師の鳥居龍蔵も皮肉ともとれる文章を残しました。しかし、後に、鳥居龍蔵のことをまとめた文章を『日本文化史大系』に書いたのは、八幡一郎でした。また、鳥居龍蔵が創設した上智大学文学部の考古学教授に就任したのも八幡一郎です。

 八幡一郎は、戦争中は長谷部言人[1882-1969]と共に、ミクロネシアの調査を多く行っており、『人類学雑誌』のその成果を多く発表しています。しかし、終戦時、大陸に調査に行っていた八幡一郎は、しばらく抑留されてしまいました。

 1948年、八幡一郎は東京国立博物館に職を得て、1951年に同館学芸部考古課長に就任しますが、1952年に辞職します。1953年に東京大学文学部専任講師に就任し、1962年に東京教育大学文学部教授に就任しますが、八幡一郎はすでに60歳になっています。以前、山内清男が八幡一郎を順風満帆だと批判したのとは異なる道を辿りました。1966年に東京教育大学を定年退官後、上智大学文学部教授に就任し、1972年に定年退職しています。

 意外なことに、八幡一郎は、「土器は良くわからない。」と生前言っていたそうですが、山内清男と比べるとという意味で謙遜だったのかもしれません。八幡一郎のことを多く批判していた山内清男を成城大学に推薦したのも、八幡一郎だったと言われています。悪口を言いながらも、二人は深い部分で絆があったのでしょう。

 八幡一郎が書いた論文や著書は多数ありますが、主な著書は以下の通りです。この他、1979年から1980年にかけて、全6巻の『八幡一郎著作集』が雄山閣出版から刊行されています。

  • 八幡一郎(1930)『土器石器』、古今書院
  • 八幡一郎(1943)『南洋文化雑考』、青年書房昭光社
  • 八幡一郎(1947)『日本石器時代文化』、鎌倉書房
  • 八幡一郎(1948)『日本の石器』、彰考書院
  • 八幡一郎(1953)『古代の生活』、筑摩書房
  • 八幡一郎(1953)『おおむかしの人々』、講談社
  • 八幡一郎(1954)『日本史の黎明』、有斐閣
  • 八幡一郎(1954)『日本の古代人』、岩崎書店
  • 八幡一郎(1968)『日本文化のあけぼの』、吉川弘文館
  • 八幡一郎(1970)『日本古代史の謎』、新潮社

 1987年10月26日、八幡一郎は85歳で死去しました。東京帝国大学理学部人類学教室選科生の中で、先史学を専攻した、山内清男・甲野 勇・中谷治宇二郎の誰よりも長生きでした。八幡一郎は、多くの論文や著書を残し、かつ、様々な研究機関で多くの弟子を育てました。

*八幡一郎に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 寺田和夫(1975)『日本の人類学』、思索社
  • 江坂輝弥(1988)「八幡一郎先生を偲ぶ」『人類学雑誌』、第96巻第2号、pp.131-135
  • 大村 裕(2008)『日本先史考古学史の基礎研究』、六一書房

日本の人類学者41.山内清男(Sugao YAMANOUCHI)[1902-1970]

2012年10月23日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Sugaoyamanouchi

山内清男(Sugao YAMANOUCHI)[1902-1970][大場磐雄(1971)「山内さんの思い出」『人類学雑誌』第79巻第2号より改変して引用](以下、敬称略。)

 山内清男は、1902年1月2日に、東京市下谷区(現・東京都台東区)で、素行と多真喜の間の長男として生まれました。山内家は、関 素行と野島多真喜が夫婦養子として継いだそうです。父親の山内素行は、東京帝国大学出身の国文学者で、宇都宮中学校や早稲田中学校で教鞭をとっていました。

 山内清男は、父が勤める早稲田中学校を卒業後、以前から親交のあった鳥居龍蔵[1870-1953]の勧めで、1919年に旧制高等学校には進学せずに東京帝国大学理学部人類学教室の選科に進学します。この選科とは、卒業しても学士号がもらえない制度で、人類学教室の選科生としては4番目の学生でした。この選科生時代は、鳥居龍蔵について、各地の貝塚を発掘したりして先史人類学に興味を持っていましたが、当時はそれよりも遺伝学に強い興味を持っていたそうです。1922年に、山内清男は東京帝国大学理学部人類学教室の選科を卒業しました。しかし、1923年6月に恩師・鳥居龍蔵は、松村 瞭[1880-1936]の学位論文を巡る事件で東京帝国大学を辞職してしまいます。鳥居龍蔵は、「僕の教え子は、山・甲・八の三君のみ」と発言していたそうで、「山」とは「山内清男」・「甲」とは「甲野 勇」・「八」とは「八幡一郎」のことを指します。この3人は、全員が東京帝国大学理学部人類学教室の選科を卒業しています。

 1924年秋、山内清男は、東北帝国大学医学部解剖学教室で長谷部言人[1882-1969]の元で副手に就任します。この人事は、父親の友人を介してのことだったと言われています。一説には、山内清男は、東京帝国大学を不本意に辞職した鳥居龍蔵に殉じたとも言われています。ところが、ここで問題が起きました。遺伝学をきわめたいと希望していた山内清男に対して、長谷部言人がその研究を認めなかったのです。長谷部言人は、この頃、東北地方の貝塚を発掘調査しており、山内清男にはその先史学的研究を希望していました。長谷部は、貝塚出土人骨の年代が知りたかったのです。山内清男は、何度も職を辞そうとしたそうですが、そのたびに父親や小金井良精[1859-1944]等に説得されて辞職を思いとどまりました。

 それからの山内清男は、土器をテーマとした先史人類学の研究に邁進し、土曜日と日曜日は東北地方の貝塚を発掘したそうです。その頃の弟子には、後に東北大学教授となる考古学者の伊東信雄[1908-1987]・古代学協会の角田文衛[1913-2008]・東京大学教授となる考古学者の斎藤 忠等がいました。この東北大学時代の1931年、山内清男は、土器に縄文をつける方法を解き明かしています。しかし、その発表は、1958年まで待たなければなりませんでした。1933年、山内清男は、東北帝国大学を辞職します。この頃、東京帝国大学理学部人類学教室選科修了の「三羽ガラス」と呼ばれていたのは、八幡一郎[1902-1987]・甲野 勇[1901-1967]・中谷治宇二郎[1902-1936]の3人で、教室の先輩である山内清男は含まれていませんでした。年齢もほぼ同じだった山内清男は、焦っていたのかもしれません。

 上京した山内清男は、日本初の横書き原稿用紙を売って生活することをもくろみ、岡書院社長の岡 茂雄[1894-1989]に相談すると、有望だと言われます。そこで、パピルス書院を立ち上げて、原稿用紙販売を始めましたが、すぐに経営が息詰まってしまいました。それでも、その頃「原始文化研究会」をそして1937年には「先史考古学会」を組織して、雑誌「先史考古学」を刊行しています。但し、この雑誌も3号で廃刊となりました。この間、山内清男は、父親が教科書の印税から得た収入を仕送りして生活していたと言われています。その後、1943年には古巣の東北帝国大学医学部解剖学教室助手に復職しています。対立した長谷部言人は、1938年に東京帝国大学理学部教授に就任し、人類学科を創設していました。

 戦後の1946年、山内清男は東京帝国大学理学部人類学教室の非常勤講師に就任し、1947年には専任講師に昇任しました。これは、八幡一郎が戦後抑留されたためと言われています。この専任講師に推薦したのは、対立していた長谷部言人だったそうです。意外に、二人は仲が良かったと指摘する研究者もいます。

 1962年3月31日、山内清男は「日本先史土器の縄文」により、京都大学から文学博士号を取得しました。この日をもって、山内清男は東京大学を定年退官します。翌日からは、成城大学教授に就任しました。しかし、成城大学在職中の1970年8月25日に、肺炎のため68歳で死去しています。

 山内清男は、当初、生体学や遺伝学を研究することを希望していましたが、様々な理由から先史人類学を研究し、日本国内の縄文土器の体系を作り上げ、「縄文学の父」とまで呼ばれるほどになりました。ここで、「先史学」と書かずに「先史人類学」とした理由は、山内清男は、文学部の考古学教室で教育を受けたのではなく、理学部の人類学教室で教育を受けたからです。実際、山内清男は、人類学出身で先史学を研究した研究者は考古学出身の研究者とは異なると生前、発言していたそうです。

*山内清男に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 大場磐雄(1971)「山内さんの思い出」『人類学雑誌』、第79巻第2号、pp.101-104
  • 寺田和夫(1975)『日本の人類学』、思索社
  • 大村 裕(2008)『日本先史考古学史の基礎研究』、六一書房

日本の人類学者40.中谷治宇二郎(Jiujiro NAKAYA)[1902-1936]

2012年10月21日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Jiujironakaya

中谷治宇二郎(Jiujiro NAKAYA)[1902-1936][中谷治宇二郎(1985)『考古学研究への旅:パリの手記』、六興出版の口絵より改変して引用](以下、敬称略。)

 中谷治宇二郎は、1902年1月21日、石川県加賀市で中谷卯一・てるの間に次男として生まれました。ちなみに、長男の中谷宇吉郎[1900-1962]は、東京帝国大学理学部物理学科で寺田寅彦[1878-1935]の弟子となり、後に北海道帝国大学理学部で雪の結晶を研究したことで有名です。父親の中谷卯一は、1913年に35歳の若さで死去しました。

 中谷治宇二郎は、旧制小松中学校の頃に小説を書き、それが菊池 寛[1888-1948]の目にとまり、さらに芥川龍之介[1892-1927]もその才能を褒めて「一人の無名作家」という文章を書いているそうです。

 1920年に小松中学校を卒業すると尋常小学校の準訓導心得となりますが、1921年に退職して金沢新報社に入社しました。なお、一家は、中谷宇吉郎が東京帝国大学理学部に入学した際に、上京しています。1922年には東洋大学に入学し印度哲学を学んでいましたが、病気となり東洋大学は中退しました。

 1924年4月、東京帝国大学理学部人類学教室の選科生となりました。これは、兄の中谷宇吉郎が入学した東京帝国大学理学部に出入りする内に鳥居龍蔵[1870-1953]の知遇を得たからだと言われています。人類学教室の選科生には、合計10名が入学していますが、中谷治宇二郎は8番目でした。ただ、その鳥居龍蔵は、後任となる松村 瞭[1875-1936]の学位論文を巡る事件で1924年6月に辞任しました。中谷治宇二郎は、この人類学教室に在学中、主に東北地方の縄文時代遺跡を調査しています。

 中谷治宇二郎は、1927年3月に東京帝国大学理学部人類学教室の選科を修了しました。この年、4月には、東洋大学で知り合った菅原セツと結婚しています。菅原セツはこの時、東京帝国大学文学部美学科の聴講生でした。1928年には、東北地方の石器時代(縄文時代)遺跡の調査を行いました。この調査には、後に成城大学教授となる今井冨士雄[1909-2004]が同行しており、青森県つがる市の田小屋野貝塚を調査したことが有名です。今井冨士雄は、中谷治宇二郎が亡くなるまで親交を続け保存されていた書簡も約80通に及びました。

 1927年、『注口土器ノ分類ト其ノ地理的分布』が東京帝国大学理学部人類学教室研究報告第4編として出版されました。この時のいきさつは、岡書院を経営していた岡 茂雄[1894-1982]によるエッセイ・『本屋風情』に書かれています。ちなみに、岡 茂雄は、著名な民族学者の岡 正雄[1898-1982]の実の兄です。ある日、東京帝国大学理学部人類学教室に松村 瞭を訪ねた岡 茂雄は、松村に最近研究報告が出ていない理由を尋ねると、松村は出版費用が無いと告げます。原稿はあるのかと岡が聞くと、あると松村が答えたので、お金はこちらが何とかするから出しませんかと伝え、この報告が出版されたそうです。

 岡 茂雄は、その後も中谷治宇二郎の才能に惚れ込み、1927年に『日本石器時代提要』を、また1930年に『日本石器時代文献目録』を岡書院から出版しています。しかし、後者の出版時は、出版費用がなかったために、渋沢敬三[1896-1963]に資金援助をしてもらったと書かれています。中谷治宇二郎は、岡書院から出版されていた雑誌『ドルメン』にも多く寄稿しました。岡 茂雄に対する、感謝の意味もあったのでしょう。

 やがて、中谷治宇二郎に転機が訪れました。1929年7月2日に、単身でフランスに留学したのです。シベリア鉄道経由で渡仏し、1929年7月17日にパリに到着しています。動機は、フランスの先進的な先史学を学ぶためでしたが、1928年にロンドンに留学していた兄・中谷宇吉郎の妻・藤岡綾子が日本でジフテリアのために急病で亡くなったため傷心の兄を慰めたい気持ちもあったそうです。

 このフランス留学では、大学・博物館・各地の先史遺跡を訪問しています。中谷治宇二郎は、語学の才能があったようで、渡仏して2ヶ月もするとフランス語で講演ができるまでになったと、兄の宇吉郎が書いています。この留学時代には、考古学者・森本六爾[1903-1936]との親交も行いました。ちなみに、森本は、1931年4月1日に東京を出発しシベリア鉄道でヨーロッパに留学し、1932年3月9日に神戸に帰国しています。しかし、森本六爾は1936年1月22日に、32歳の若さで死去しました。さらに、フランス滞在中は、著名な数学者の岡 潔[1901-1978]夫妻と親しく親交したことも知られています。岡 潔は、1929年から3年間パリに留学していました。

 しかし、フランス留学中に中谷治宇二郎に病魔が忍び寄ります。微熱が続いた中谷治宇二郎は、1931年7月、スイス・ローザンヌのサナトリウムに転地療養することになりました。その後、トノンの貸し別荘に転地しましたが、この間、岡 潔夫妻が世話をしたと言われています。1932年4月1日、中谷治宇二郎はフランス留学を切り上げ、5月3日に神戸へ帰国しました。この帰国には、岡 潔夫妻も同行しています。中谷治宇二郎は、当初、約1年半の留学予定でしたが、結局、その約2倍の期間留学していたことになります。岡 潔は、中谷治宇二郎の世話をするために、自身の留学期間も1年延長したと伝えられています。二人は、終生、友情で結ばれていました。

 中谷治宇二郎が生前に書いた主な著作は、以下の通りです。

  • 中谷治宇二郎(1927)「注口土器ノ分類ト其ノ地理的分布」『人類学教室報告第4編』、東京帝国大学
  • 中谷治宇二郎(1929)『日本石器時代提要』、岡書院
  • 中谷治宇二郎(1930)『日本石器時代文献目録』、岡書院
  • 中谷治宇二郎(1935)『日本先史学序史』、岩波書店

 中谷治宇二郎は、1932年5月に帰国すると、妻子が待つ家ではなく大分県の由布院温泉に行きます。この由布院温泉には、伯父の中谷巳次郎が経営する「亀の井別荘」があり、中谷治宇二郎はここで静養します。恐らく、結核を家族にうつしたくないという配慮があったのかもしれません。1936年3月22日、中谷治宇二郎は心臓病を併発して、34年の生涯を閉じました。あまりにも早すぎる死でした。親友の森本六爾は、この年の1月22日に32歳で死去しており、中谷治宇二郎は1936年2月3日付けで「パリと森本君と私」という追悼文を雑誌『考古学』第7巻第3号に投稿し、3月に出版されています。その追悼文が出版された3月に、中谷治宇二郎はこの世を去りました。この年、1936年は、日本考古学にとって貴重な人材を相次いで亡くしたことになります。

Nakaya1985

中谷治宇二郎(1985)『考古学研究への旅:パリの手記』表紙(*画像をクリックすると、拡大します。)

*中谷治宇二郎に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 中谷治宇二郎(1985)『考古学研究への旅:パリの手記』、六興出版
  • 法安桂子(2011)「父・中谷治宇二郎」『明治・大正期の人類学・考古学者伝』、板橋区立郷土資料館

日本の人類学者39.森本岩太郎(Iwataro MORIMOTO)[1928-2000]

2012年10月14日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Iwataromorimoto

森本岩太郎(Iwataro MORIMOTO)[1928-2000][平田和明(2001)「恩師・森本岩太郎先生を偲んで」『解剖学雑誌』第76巻第3号より改変して引用](以下、敬称略。)

 森本岩太郎は、1928年6月5日に、長野県で生まれました。その後、松本中学校・松本高等学校を卒業後、1955年に信州大学医学部を卒業します。卒業後は、母校・信州大学医学部の解剖学教室助手に就任します。当時の解剖学教室には、京城帝国大学医学部出身の鈴木 誠[1914-1973]が、1951年から勤務していました。森本岩太郎は、その鈴木 誠から解剖学教室に勤務することを勧められたそうです。1961年には、信州大学医学部解剖学教室講師に昇任します。また、1962年には「日本人距骨ならびに踵骨におよぼす蹲踞位の影響」により、信州大学から医学博士号を取得しました。

 1963年、森本岩太郎は新潟大学医学部第1解剖学教室助教授に就任します。この解剖学教室は、かつて長谷部言人[1882-1969](元東京大学)・今村 豊[1896-1971](元三重大学)・池田次郎(元京都大学)等が在籍し、人類学研究を行っていました。当時の解剖学教室には、小片 保[1916-1980]が教授に就任しており、京都大学に転出した池田次郎の後任として移籍しています。この新潟大学時代は、小片 保と同様に、遺跡出土古人骨の研究やミイラ研究を行いました。

 1972年、森本岩太郎は新設の聖マリアンナ医科大学第2解剖学教室主任教授に移籍しました。当時の助教授には、新潟大学歯学部第1口腔解剖学教室助教授の小片丘彦が就任しています。聖マリアンナ医科大学では、新潟大学時代と同様に、発掘古人骨の研究・日本ミイラの研究・エジプトミイラの研究を行いました。 また、1990年11月12日から同13日にかけて開催された、第44回日本人類学会・日本民族学会連合大会を大会会長として主催しています。

 森本岩太郎は、1993年に聖マリアンナ医科大学を定年退職すると、日本赤十字看護大学に移籍し、1998年まで解剖学教育にあたっています。

 森本岩太郎が書いた論文は膨大ですが、人類学分野の主なものは以下の通りです。また、多くの出土人骨の記載を各地の遺跡発掘報告書に記載しています。

  • 森本岩太郎(1960)「日本人踵骨におよぼす蹲踞位の影響(英文)」『人類学雑誌』、第68巻第1号、pp.16-22
  • 森本岩太郎(1969)「日本人大腿骨のいわゆる蹲踞数について(英文)」『人類学雑誌』、第77巻第2号、pp.31-36
  • 森本岩太郎・小片丘彦・小片 保・江坂輝弥(1970)「受傷寛骨を含む縄文早期の二次埋葬例」『人類学雑誌』、第78巻第3号、pp.235-244
  • 森本岩太郎(1971)「縄文早期若年者の扁平脛骨について(英文)」『人類学雑誌』、第79巻第4号、pp.367-374
  • 森本岩太郎(1975)「日本人の膝蓋骨切痕の時代的変化:縄文早期人の長骨の細さに関連して(英文)」『人類学雑誌』、第83巻第1号、pp.85-94
  • 森本岩太郎(1982)「正座および蹲踞の影響によると思われる日本人膝関節軟骨の磨耗について」『人類学雑誌』、第90巻(Supplement)、pp.163-176
  • 森本岩太郎(1986)「長野県湯倉洞穴出土の縄文早期人骨」『聖マリアンナ医科大学雑誌』、第14巻、pp.29-37
  • 森本岩太郎・吉田俊爾(1987)「近世初期日本人の胸腰移行部における椎体の楔状化について」『人類学雑誌』、第95巻第1号、pp.77-87
  • 森本岩太郎(1987)「中世における打ち首の技法」『人類学雑誌』、第95巻第4号、pp.477-486
  • 森本岩太郎(1989)「エジプト・クルナ村出土男性ミイラの外陰部について(英文)」『人類学雑誌』、第97巻第2号、pp.169-187
  • 森本岩太郎(1991)「天明3年(1783)の浅間山大爆発による1犠牲者」『人類学雑誌』、第99巻第1号、pp.63-75
  • 森本岩太郎・平田和明(1992)「中世鎌倉出土の打ち首、追加1例」『人類学雑誌』、第100巻第3号、pp.349-358
  • 森本岩太郎(1993)「日本の仏教系ミイラ」『解剖学雑誌』、第68巻第4号、pp.381-398
  • 森本岩太郎(1995)「苧績み作業によると思われる飛鳥・室町時代女性切歯の磨耗」『人類学雑誌』、第103巻第5号、pp.447-465
  • 森本岩太郎(1995)「古人骨からみた日本人の特殊性炎」『日本赤十字看護大学紀要』、第9号、pp.1-7
  • 森本岩太郎(1996)「古代エジプトで開頭術が行われたか:自験例の検討」『日本赤十字看護大学紀要』、第10号、pp.1-11
  • 森本岩太郎(1998)「ミイラ作りのための内臓摘出術」『日本赤十字看護大学紀要』、第12号、pp.1-8
  • 森本岩太郎(1999)「古人骨に見る日本文化の伝統」『日本赤十字看護大学紀要』、第13号、pp.1-8

 森本岩太郎は、2000年6月3日に胃癌により死去しました。信州大学での鈴木 誠との出会いが、人類学及び解剖学研究へ一生を捧げる機会となり、古人骨研究・ミイラ研究・古病理学研究を行った一生と言えるでしょう。なお、聖マリアンナ医科大学解剖学教室は、森本岩太郎の愛弟子の平田和明が継いで、人類学研究を継続しています。

 私が森本岩太郎先生と最後にお会いしたのは、1998年年9月12日~同13日にかけて札幌学院大学で開催された第52回日本人類学会の会場でした。その頃、何度も手術をされていることを私は知りませんでした。私は、森本岩太郎先生とはご生前、色々とご指導をいただいており、特に、群馬県立自然史博物館の準備室時代には、寄贈されたエジプトミイラの鑑定や研究で大変お世話になりました。その時の成果は、以下のように、学会発表と論文発表されています。

  • 森本岩太郎・平田和明・楢崎修一郎(1997)「エジプト女性ミイラに発見された病気痕跡」『第51回日本人類学会』(於:筑波大学)
  • 森本岩太郎・平田和明・楢崎修一郎(1998)「群馬県立自然史博物館所蔵のエジプトミイラ標本について」『群馬県立自然史博物館研究報告』、第2号、pp.67-82

*森本岩太郎に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 平田和明(2001)「恩師 森本岩太郎先生を偲んで」『解剖学雑誌』、第76巻第3号、pp.265-266

日本の人類学者38.長谷部言人(Kotondo HASEBE)[1882-1969]

2012年10月11日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Kotondohasebe1

長谷部言人(Kotondo HASEBE)[1882-1969][鈴木 尚(1975)「長谷部言人先生の思い出」『日本考古学選集15.長谷部言人集』集報17より改変して引用](以下、敬称略。)

 長谷部言人は、1882年6月10日、東京市(現・東京都)麹町にて、長谷部仲彦の長男として生まれました。1902年に東京第一高等学校三部を卒業後、東京帝国大学医科大学(現・東京大学医学部)に入学し、 1906年に卒業します。卒業と同時に、京都帝国大学医科大学(現・京都大学医学部)の解剖学助手として、足立文太郎[1865-1945]に師事しました。この人事は、足立文太郎の親友で、長谷部言人の解剖学の師である小金井良精[1859-1944]が絡んでいたと言われています。長谷部言人は、1908年には、足立の元で助教授に昇任しました。

 1913年には、「日本人の脊柱」により、母校より医学博士号を取得しました。同年、新潟医学専門学校解剖学教授として転出します。1916年には、東北帝国大学医学部解剖学助教授として転出しました。その後、1920年には、同大学で解剖学教授に昇任します。また、1921年~1922年にかけて、ドイツへ留学し、ルドルフ・マルティン(Rudolf MARTIN)[1864-1925]に師事しました。さらに、1933年~1935年にかけては、東北帝国大学医学部長も務めています。

 長谷部言人は、戦前、ミクロネシアを調査しています。その調査は、1915年と1927年から1929年に及んでおり、特に、1929年には元東京教育大学の人類学者・八幡一郎[1902-1987]が同行して考古学調査を分担しています。

 長谷部言人が書いた、ミクロネシアに関する論文は、以下の通りです。

  • 長谷部言人(1915)「東カロリン土人に就て」『人類学雑誌』、第30巻第7号、pp.262-275
  • 長谷部言人(1917)「ポナペ島土人の文身に就て」『人類学雑誌』、第32巻第7号、pp.191-196
  • 長谷部言人(1928)「トコベイ島民に就いて」『人類学雑誌』、第43巻第2号、pp.63-70
  • 長谷部言人(1928)「西部ミクロネジア人の文身」『人類学雑誌』、第43巻第3号、pp.120-146
  • 長谷部言人(1928)「サイパン、ティニアン両島の遺物及び遺跡」『人類学雑誌』、第43巻第6号、pp.243-274
  • 長谷部言人(1929)「わが南洋群島に於けるポリネージア人の聚落に就いて」『人類学雑誌』、第44巻第6号、pp.203-215
  • 長谷部言人(1929)「パラウ島人の鼻中隔穿孔に就いて」『人類学雑誌』、第44巻第11号、pp.547-553
  • 長谷部言人(1939)「南洋群島人女子の乳房に就いて」『人類学雑誌』、第54巻第3号、pp.117-123
  • 長谷部言人(1940)「トラック人の耳變工に就いて」『人類学雑誌』、第55巻第10号、pp.439-444
  • 長谷部言人(1941)「南洋群島人の顔輪郭形」『人類学雑誌』、第56巻第1号、pp.1-10
  • 長谷部言人(1941)「Malekula島の似顔頭骨」『人類学雑誌』、第56巻第4号、pp.240-244
  • 長谷部言人(1942)「南洋群島人上瞼の襞に就いて」『人類学雑誌』、第57巻第9号、pp.365-368
  • 長谷部言人(1943)「南洋群島人側面輪郭の基本成形に就いて」『人類学雑誌』、第58巻第1号、pp.54-58

 やがて、長谷部言人に大きな転機が訪れます。東京帝国大学理学部人類学教室の松村 瞭[1880-1936]が、急逝したのです。松村の後任として、長谷部は、1938年に東京帝国大学理学部教授に就任しました。そして、1939年4月に東京帝国大学理学部に人類学科が創設され、初代主任教授に就任します。人類学教室は、1893年に坪井正五郎[1863-1913]が人類学講座を創設して以来、選科生は輩出していますが、この選科は卒業しても学士号が授与されないというものでした。その点、学士号を授与する人類学科の創設は国内初のことで、ここから、人類学を専攻する学生が現在に至るまで多く輩出されました。

 第1回生で、元厚生省人口問題研究所の篠崎信男[1914-1998]によると、長谷部言人は張り切って朝早くから教室に来て、講義の時は階段で学生を待っていたそうです。また、時にはその講義は黄色いお茶(ビール)を飲みながら行われたと言われています。しかし、いくら二日酔いでも朝8時までに登校しないと教室に入れてもらえないという厳しさも持ち合わせていました。

 第3回生で元京都大学霊長類研究所の近藤四郎[1918-2003]によると、卒論のテーマの脛骨を計測して計測値を書くと、「その数値は間違っている。」と長谷部に言われ、「大家になると骨を見ただけで計測値がわかるのか。」と不思議に思っていたそうですが、後に、朝7時に大学に来て同じ骨を測っている長谷部の姿を目撃して納得したというエピソードが知られています。さらに、「本は、教室で読まずに下宿に帰って夜読むべきだ。教室では、立って手で仕事をするところだ。」と学生に教えていたそうです。実際、本人は学生に自らの研究姿勢を学生に見せるかのように、寒い日でも廊下の整理台に骨を並べて、何時間も立ったままで骨の観察や計測をしていたと言われています。

 Kotondohasebe2

晩年の長谷部言人(Kotondo HASEBE)[篠崎信男(1970)「長谷部言人先生の思出話」『人類学雑誌』第78巻第2号より改変して引用。]

 長谷部言人は、1943年に、東京帝国大学を定年退官します。東京帝国大学在職は、わずか5年でしたが、理学部人類学科創設という大役を務めました。しかし、在職期間が短かったため名誉教授にはなりませんでした。1944年、長谷部言人は東京帝国大学ではなく東北帝国大学の名誉教授になりました。

 あまり知られていませんが、長谷部言人は、動物考古学にも大きく貢献しています。実際、1946年には、縄文時代の貝塚から出土したイヌの骨格の研究をまとめ、「石器時代の日本犬」により、東京帝国大学理学部より理学博士号も取得しました。長谷部言人が書いた動物考古学に関する論文は、以下の通りです。

  • 長谷部言人(1925)「日本石器時代家犬に就て(追加)」『人類学雑誌』、第40巻第1号、pp.1-10
  • 長谷部言人(1925)「石器時代の野猪に就て」『人類学雑誌』、第40巻第2号、pp.54-60
  • 長谷部言人(1925)「石器時代家犬に就て」『人類学雑誌』、第40巻第3号、pp.103-108
  • 長谷部言人(1925)「下總犢橋貝塚の猿下齶骨」『人類学雑誌』、第40巻第12号、pp.437-442
  • 長谷部言人(1929)「石器時代家犬に就いて(追加第三)」『人類学雑誌』、第44巻第5号、pp.163-174
  • 長谷部言人(1939)「石器時代に飼牛あり」『人類学雑誌』、第54巻第10号、pp.447-450
  • 長谷部言人(1940)「三河保美平城貝塚出土牛の角錐」『人類学雑誌』、第55巻第4号、pp.166-168
  • 長谷部言人(1940)「熱田貝塚からの馬の左掌骨」『人類学雑誌』、第55巻第5号、pp.251-252
  • 長谷部言人(1941)「石器時代遺跡出土日本産狼二種」『人類学雑誌』、第56巻第11号、pp.590-602
  • 長谷部言人(1941)「日本石器時代の猿に就いて」『人類学雑誌』、第57巻第1号、pp.39-47
  • 長谷部言人(1942)「石器時代のアナグマ」『人類学雑誌』、第57巻第2号、pp.67-75
  • 長谷部言人(1942)「日本石器時代狼とシナントロプス遺跡の狼」『人類学雑誌』、第57巻第11号、pp.433-441
  • 長谷部言人(1942)「石器時代のアナグマ追録」『人類学雑誌』、第57巻第12号、pp.503-505
  • 長谷部言人(1943)「田結の馬」『人類学雑誌』、第58巻第2号、pp.86-88
  • 長谷部言人(1943)「石器時代の狸」『人類学雑誌』、第58巻第3号、pp.138-141
  • 長谷部言人(1943)「安陽古墳出土家犬遺残に就いて」『人類学雑誌』、第58巻第9号、pp.367-373
  • 長谷部言人(1943)「周口店諸地點出土アナグマ頭骨に就いて」『人類学雑誌』、第58巻第10号、pp.385-393
  • 長谷部言人(1943)「日本石器時代家犬とシャカール」『人類学雑誌』、第58巻第11号、pp.427-430
  • 長谷部言人(1943)「日本石器時代馬の一新種に就いて」『人類学雑誌』、第58巻第12号、pp.451-452
  • 長谷部言人(1944)「壱岐の弥生式土器遺跡の馬」『人類学雑誌』、第59巻第6号、pp.209-210
  • 長谷部言人(1950)「日本石器時代の大形犬とその起源」『人類学雑誌』、第61巻第2号、pp.55-58
  • 長谷部言人(1956)「野島貝塚出土ネコ頭骨について」『人類学雑誌』、第65巻第3号、pp.128-134

 1947年、長谷部言人を有名にする発表が行われました。『人類学雑誌』に、明石原人の報告を行ったのです。この明石原人は、1931年4月18日に直良信夫[1902-1985]が兵庫県明石市の西八木海岸で発見した左寛骨でした。直良信夫はこの寛骨を、東京帝国大学理学部人類学教室の松村 瞭[1880-1936]に送り鑑定を依頼しましたが、当時は、世界中の化石人類に寛骨があまり発見されていないことから結論を保留して松村 瞭は人骨を返却しています。しかし、松村 瞭は、慎重に写真を撮影し石膏模型を残していました。ところが、松村  瞭は、1936年に急逝してしまいその模型の存在も忘れ去られてしまいます。その後、その人骨は、太平洋戦争中の1945年5月25日に行われた米軍による空襲で、直良信夫の東京の自宅と共に焼失してしまいました。長谷部言人は、松村 瞭が製作していた石膏模型を発見して論文を書いたのです。

  • 長谷部言人(1948)「明石市附近西八木最新世前期堆積層出土人類腰骨(石膏型)の原始性に就いて」『人類学雑誌』、第60巻第1号、pp.32-36

 長谷部言人は、この明石原人の寛骨を研究し、原始性を認めて「Nipponanthropus akashiensis」という通称を与えました。ただ、今ではこの人骨は原人(ホモ・エレクトス)段階ではなく、旧人のものとする説や現代人という説が唱えられています。

 長谷部言人が書いた本は、以下の通りです。

  • 長谷部言人(1927)『自然人類学概論』、岡書院[このブログで紹介済み]
  • 長谷部言人(1927)『先史学研究』、大岡山書店
  • 長谷部言人(1932)『過去の我南洋』、岡書院
  • 長谷部言人(1944)『沖縄結縄考』、養徳社
  • 長谷部言人(1951)『日本人の祖先』、岩波書店(1983年に築地書館より再刊)[このブログで紹介済み]

 長谷部言人は、東京大学を定年退官後も、他大学に転出することなく、毎日のように東京大学理学部人類学教室に通って研究を続けました。1949年には日本学術会議会員(1954年まで)、1951年には日本人類学会会長(1968年まで)、1953年には日本学士院会員となっています。1969年12月3日、長谷部言人は87歳で死去しました。日本で初めて教育機関としての人類学科を創設したことは後世に残る業績でしょう。

*長谷部言人に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 篠崎信男(1970)「長谷部言人先生の思出話」『人類学雑誌』、第78巻第2号、pp.87-89
  • 江坂輝弥編(1975)『日本考古学選集15.長谷部言人』、築地書館
  • 鈴木 尚(1975)「長谷部言人先生の思い出」『日本考古学選集15.集報17』、pp.1-3
  • 長谷部楽爾(1975)「父のこと、家のこと」『日本考古学選集15.集報17』、pp.3-4
  • 近藤四郎(1983)「長谷部言人先生のこと」『日本人の祖先』、築地書館、pp.173-197
  • Yamaguchi, Bin(1997)'Hasebe, Kotondo(1882-1969)',"History of Physical Anthropology, Vol.1: A-L"(Frank Spencer Ed.), Garland Publishing, p.481

日本の人類学者37.永井昌文(Masafumi NAGAI)[1924-2001]

2012年10月07日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Masafuminagai

永井昌文(Masafumi NAGAI)[1924-2001][『日本民族・文化の生成』(1988)より改変して引用](以下、敬称略。)

 永井昌文は、1924年5月1日に鹿児島県で生まれました。父親の永井亀彦は、鹿児島県立第一中学校の博物学教師だったそうです。その後、鹿児島県立第一中学校・第七高等学校造士館理科乙類を卒業後、1945年4月に九州帝国大学医学部に入学します。元々は、京都大学理学部を志望していたらしいのですが、兄弟の死去により徴兵されにくい医者を選ぶよう親から懇願されてのことだったそうです。もし、生まれるのが1年遅ければあるいは終戦が1年早まっていれば別の人生を歩んだのかもしれません。
 永井昌文の転機は、すぐに訪れました。九州帝国大学医学部卒業後の1950年に、母校の医学部解剖学教室第2講座で金関丈夫[1897-1983]の助手に就任したのです。金関丈夫は、戦前から戦後にかけて台北帝国大学医学部解剖学教室教授に就任していましたが、1949年8月に内地に引き揚げ、1950年1月に九州大学医学部解剖学教室第2講座教授に就任していました。元々医学部志望ではなく、生物学志望だった永井昌文にとって、人類学や解剖学は魅力的に感じたのでしょう。この頃、永井昌文は師の金関丈夫と共に、発掘調査や生体計測を多く行っています。

 永井昌文が調査した主な遺跡は、以下の通りです。

  • 1953年10月:土井ヶ浜遺跡の第1次発掘調査
  • 1954年3月~4月:琉球波照間島の調査
  • 1954年9月:土井ヶ浜遺跡の第2次発掘調査
  • 1955年7月~8月:九学会奄美調査
  • 1955年9月:土井ヶ浜遺跡の第3次発掘調査
  • 1956年9月~10月:土井ヶ浜遺跡の第4次発掘調査
  • 1957年8月:土井ヶ浜遺跡の第5次発掘調査
  • 1958年8月~9月:広田遺跡の発掘調査
  • 1959年7月~8月:広田遺跡の発掘調査
  • 1961年12月~1962年1月:古浦遺跡の発掘調査
  • 1962年7月:吉母浜遺跡の発掘調査
  • 1962年8月:古浦遺跡の発掘調査
  • 1963年7月~8月:古浦遺跡の発掘調査
  • 1964年6月~7月:九州大学第3次八重山群島学術調査隊隊長として与那国島民の生体計測
  • 1965年3月:立岩堀田遺跡の第3次発掘調査
  • 1965年5月:山鹿貝塚の第2次発掘調査
  • 1968年10月~11月:山鹿貝塚の第3次発掘調査
  • 1970年8月:金隈遺跡の発掘調査
  • 1971年3月:中ノ浜遺跡の発掘調査
  • 1983年10月:土井ヶ浜遺跡の第8次発掘調査
  • 1984年10月:土井ヶ浜遺跡の第9次発掘調査
  • 1985年6月:土井ヶ浜遺跡の第10次発掘調査

 永井昌文は、1956年4月に「琉球波照間島々民の生体学的研究」により、母校の九州大学より医学博士号を取得しました。1956年10月には、金関丈夫の元で九州大学医学部助教授に昇任します。解剖学教室第2講座は、1960年4月に金関丈夫が鳥取大学医学部解剖学教室教授に転出し、1960年6月には山田英智が教授に就任しました。その後、1969年10月に山田英智が東京大学医学部解剖学教室教授に転出し、1970年8月に永井昌文が教授に昇任しています。

 永井昌文の研究は、多くの発掘報告書に掲載されています。主な論文や報告書は、以下の通りです。

  • 永井昌文(1954)「琉球波照間島々民の生体学的研究」『人類学研究』、1:304-322
  • 永井昌文(1961)「古代九州人の風習的抜歯」『福岡医学雑誌』、52(8):554-558
  • 永井昌文(1970)「金隈人骨について」『金隈遺跡第一次調査概報』、pp.26-29
  • 永井昌文(1972)「人骨とその埋蔵状態」『山鹿貝塚』、pp.55-63
  • 永井昌文(1976)「人骨・貝輪」『スダレ遺跡』、pp.38-39
  • 永井昌文(1977)「人骨」『立岩遺蹟』、pp.380-382
  • 永井昌文(1984)「中ノ浜遺跡出土の人骨について」『史跡中ノ浜遺跡』、pp.43-48
  • 金関丈夫・永井昌文・佐野 一(1960)「山口県豊浦郡豊浦町土井ヶ浜遺跡出土弥生式時代人頭骨について」『人類学研究』、7(附):1-36
  • Brace, C. L. & Nagai, M.(1982) Japanese tooth size: Past and present, "American Journal of Physical Anthropology", 59: 399-411
  • 中橋孝博・永井昌文(1985)「山口県下関市吉母浜遺跡出土人骨」『吉母浜遺跡』、pp.154-225
  • 中橋孝博・永井昌文(1986)「保存不良骨の性判定(英文)」『人類学雑誌』、第105漢第3号、pp.289-305
  • 中橋孝博・永井昌文(1987)「福岡県志摩町新町遺跡出土の縄文・弥生移行期の人骨」『新町遺跡』、pp.87-105
  • 中橋孝博・土肥直美・永井昌文(1985)「金隈遺跡出土の弥生時代人骨」『史跡・金隈遺跡』、pp.43-145

 人類学史にも残る、著名な遺跡の発掘報告書を記載していることが特筆されます。また、立岩遺跡や金隈遺跡を発掘した際に、貝製の腕輪に興味をいだき、実験を繰り返してそれが定説であった日本に広く分布するテングニシ製ではなく、南方にしかみられないゴホウラ製であることも突きとめています。博物学の父親の影響を受け、生物学者を目指した解剖学者兼人類学者の見せ所でした。

 永井昌文は、1986年11月2日~3日にかけて開催された、第40回日本人類学会・日本民族学会連合大会では、大会会長を務めました。1988年3月に、九州大学を定年退官すると同年4月には福岡県立看護学校校長に就任しています。また、1993年から1996年にかけて福岡医科歯科技術専門学校校長(現・博多メディカル専門学校)も務めました。

 永井昌文の定年退官時には、定年退官の記念論文集と古人骨資料の集成が掲載された『日本民族・文化の生成』という大著が出版されています。この大著には、師の金関丈夫や永井昌文が長年収集した古人骨の詳細な計測値が部位毎に掲載されており、人類学界に貴重なデータを提供しました。

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『日本民族・文化の生成』表紙(*画像をクリックすると、拡大します。) 

 永井昌文は、2001年10月3日に77年の生涯を閉じました。師の金関丈夫と出会い、古人骨の収集と分析に捧げた一生だと言えるでしょう。2000年の冬には九州大学総合研究博物館の設立祝賀会に車椅子と酸素ボンベという姿で会場に現れ、師の金関丈夫と自らが収集した古人骨が医学部から博物館に移管されることを見届けたことが、弟子の中橋孝博により紹介されています。なお、在職中の弟子として、田中良之・土肥直美・中橋孝博・船越公威等(アイウエオ順)を育てています。

*永井昌文に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 中橋孝博(2002)「永井昌文先生を偲ぶ」『Anhropological Science: Japanese Series』, Vol.110・No.1, pp.5-7
  • 永井昌文教授退官記念論文集刊行会(1988)「Ⅲ.永井昌文教授略年譜・研究業績目録」『日本民族・文化の生成』, pp.845-855