人類学のススメ

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日本の人類学者29.豊増 翼(Tasuku TOYOMASU)[1942-1994]

2012年08月26日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Tsubasatoyomasu

豊増 翼(Tsasuku TOYOMASU)[1942-1994][1990年に学士会館で開かれた、「佐倉 朔先生還暦記念パーティー」にて楢崎修一郎が撮影したものを改変](以下、敬称略。)

 豊増 翼は、1942年に生まれました。父親の豊増 昇[1912-1975]は、佐賀県佐賀市出身で、東京音楽学校(現・東京芸術大学)を卒業後、お茶の水女子大学・東京音楽学校・武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)・京都市立芸術大学・武庫川女子大学で教鞭をとっていた著名な音楽家です。有名な指揮者の小澤征爾も、成城学園中学時代に、豊増 昇にピアノを習っていたと言われています。

 豊増 翼は、東京都立新宿高等学校を卒業後、東京大学理学部人類学科に進学し、卒業後は大学院に進学します。1971年に同大学院博士課程を修了後、助手に就任しました。専門は、主に人類遺伝学です。特に、東京大学理学人類学教室における人類遺伝学の基礎を築きました。

 豊増 翼は、1975年3月に大阪医科大学法医学教室講師に就任し、法医人類学と人類遺伝学の研究を行いました。当時、大阪医科大学法医学教室は、法医人類学者兼人類遺伝学者の松本秀雄[1924-2012]が1973年に教授に就任していました。就任した年の1975年には、「Red cell enzyme variation among Chinese(在日中国人に於ける赤血球酵素変異)」により、勤務していた大阪医科大学から医学博士号を取得しています。

 1980年には、大阪医科大学法医学教室助教授に昇任しました。やがて、転機が訪れます。1985年に国際協力事業団派遣専門家としてインドネシアに赴任することになった、渡邊直経[1919-1999]の後任として、帝京大学文学部教授に転出したのです。

 豊増 翼が書いた主な論文は、以下の通りです。

  • 豊増 翼・石本剛一(1969)「異なる地域集団からえたカニクイ猿に見られるトランスフェリン遺伝子の分布」『人類学雑誌』、第77巻第5・6号、pp.260-266
  • 豊増 翼(1974)「在日中国人に於ける赤血球酵素変異」『人類学雑誌』、第82巻第1号、pp.59-68
  • 豊増 翼・石崎寛治・沢紙義英(1975)「沖縄県在住一集団に於る血中蛋白質変異」『人類学雑誌』、第83巻第3号、pp.261-268
  • 豊増 翼・片山一道・宮崎時子・松本秀雄(1977)「三重県離島における遺伝学的研究1.神島における多型性形質の分布」『人類学雑誌』、第85巻第4号、pp.311-323
  • 豊増 翼・片山一道(1978)「三重県離島における遺伝学的研究2.神島の集団構造について」『人類学雑誌』、第86巻第2号、pp.83-94
  • 片山一道・豊増 翼(1979)「三重県離島における遺伝学的研究3.答志島における多型性形質の分布」『人類学雑誌』、第87巻第2号、pp.71-76
  • 片山一道・豊増 翼(1979)「三重県離島における遺伝学的研究4.神島・答志・桃取および鳥羽の4集団間における集団遺伝学的諸関係について」『人類学雑誌』、第87巻第4号、pp.377-392
  • 豊増 翼・楯 憲一郎(1980)「日本人集団におけるハプトグロビン(Hp)亜型の分布」『日本法医学雑誌』、第34巻第2号、pp.125-127
  • 豊増 翼・松本秀雄(1980)「日本人集団における赤血球PGM亜型分布」『人類学雑誌』、第88巻第4号、pp.439-442
  • 豊増 翼・鈴木広一・松本秀雄(1984)「日本人集団におけるα-フコシターゼの遺伝的多型」『犯罪学雑誌』、第50巻第1号、pp.11-12

 また、私が知る限り、豊増 翼が本に寄稿した論文は以下の通りです。この論文は、非常に良く書かれており、大変、参考になります。

  • 豊増 翼(1977)「第2章.多型性形質からみた日本人とアイヌ」『日本人の起源と進化』(近藤四郎編)、社会保険新報社、pp.81-115

Kondo1977

豊増 翼(1977)の論文が所収されている『日本人の起源と進化』(近藤四郎編)

 やがて、悲劇が訪れました。ある駅の階段から転落し、頭部を損傷して開頭手術を受けることになったのです。手術の経過は良好でしたが、1994年に52歳という若さでこの世を去りました。惜しまれながらの死でした。人類遺伝学と法医人類学に捧げた一生と言えるでしょう。

 ちなみに、表芸の人類遺伝学や法医人類学の他に、裏芸としてピアノ・レコード研究家としての顔も持っており、その世界では著名だったそうです。父親で音楽家の豊増 昇の影響があったと推定されます。

 私は、豊増 翼先生とは晩年に親しくお付き合いさせていただきました。普段は真面目で大人しい方でしたが、酒席では明るい話題を豊富に提供し常に酒宴の中心に位置して人々を惹きつけてやまない方でした。1994年3月にご自宅で行われた葬儀に私も出席しましたが、愛してやまないレコードに囲まれていたことが印象的でした。

*豊増 翼先生に関する資料として、かつて、大阪医科大学法医学教室にて同僚で京都大学名誉教授の片山一道先生に色々とご教示いただきました。記して感謝いたします。


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