コミュニケーションの取り方がわからないとか、勇気がなくて意思を表明できないとか、
感情を制御できなくて伝えるべきことをまとめられないとか、いろいろな理由があってのことだが、
社会人としては疑問符を打たざるを得ないような人がいるものだ。
能力の問題ではなく、これはもっと別の次元の問題だ。
少なくとも、社会人もしくはビジネスの世界に生きる人にとってこのような疾患は重たい。
例えば、挨拶ひとつ。相手の目を見てしっかり声を出すとか、挨拶されたらそれに返すとかは
幼稚園の頃から躾けられる基本所作であるが、大人になるとできなくなったり下手になるのは何故だろう。
できる、できないの問題以前に、きちんとしなければ社会の中の人間関係に自分が
参加できないということを認識できないのであろうか? 挨拶と仕事の能力にはなんの因果関係もないと
思っているのだろうか? だとしたら身勝手も甚だしい。能力とコミュニケーションと人間関係の相乗効果で
生み出される成果の質が天と地とも異なってくることを知らないのだ。
挨拶も基本だが、礼儀も重要な要因だ。礼儀知らず=世間知らず=仕事のできない輩でもある、
場合により例外もあるが。どんな人も他人の世話になっている部分が必ずある。だから基本は「ありがとう」
という感謝の念である。
しかるに、中には直接的な世話になっていながらも、つまりは同じ次元で仕事上の関わりがありながら、
その関係を認識できない輩がいる。これは恥ずかしいことだ。
「お世話になりました」、「よろしくお願いします」、これらが言えない人だ。
情けないと思うが、そういう人が本当にいる。
変わり者とか、感情的なもつれがあるからとか、そういう要因ばかりを疑い、コミュニケーションや
好意的な働きかけで改善できる機会を提供できるだろうと再三努力してみたが、全く効果が生まれないばかりか、
益々状況が悪くなるという経験をした。
いろいろ考えたが、これはやはり相手が病気であると断じるしかなさそうである。
親類に同じような病気の人間がいる。周りがどう働きかけても全く効果がないばかりか、「頑張れ」や「大丈夫」
の励ましが真逆の効果しか生まないという厄介な心の病気である。結局数十年も努力した結果、
その親類は病院に入れておくことしかできなくなった。本人もそれの方が楽なようだ。
前述の方は病気と思わないうちはなんとか諭してやろう、導いてやりたいと思い続けたが、事ここに至り、
これは無理と断じるしか選択肢がなくなった。自分には他人の病気は治せないのだ。医者でも無理な場合
も多々あるのだから。直してやりたいという気持ちがなぜ効果を生まないのかと悩んでいる間は淋しかったが、
これは病気だから治すことはできないと思うようになったら悲しさを禁じ得なくなった。
能力もあり、真面目で、几帳面な人柄。しかし、この病気はそういう性格の人ほどかかりやすい意地悪な病気だ。
一見通常人であり、常識も、普通の感情もあるように見えてしまって、実は影で徐々に進行する病気。
人を信じることができず、人の好意を素直に解釈したり、不要な好意ならサラリとかわして深く傷つけない、
そんな器用な立ち居振る舞いとは全く無縁な人。そういう人間がまた一人、また一人と増殖し続けている。
これは病める現代を象徴する現象の一つだと思う。
遠くても、頑張れる人にはゴールがある。そんな一枚をUPしてみました。
あちらは鉄塔
感情を制御できなくて伝えるべきことをまとめられないとか、いろいろな理由があってのことだが、
社会人としては疑問符を打たざるを得ないような人がいるものだ。
能力の問題ではなく、これはもっと別の次元の問題だ。
少なくとも、社会人もしくはビジネスの世界に生きる人にとってこのような疾患は重たい。
例えば、挨拶ひとつ。相手の目を見てしっかり声を出すとか、挨拶されたらそれに返すとかは
幼稚園の頃から躾けられる基本所作であるが、大人になるとできなくなったり下手になるのは何故だろう。
できる、できないの問題以前に、きちんとしなければ社会の中の人間関係に自分が
参加できないということを認識できないのであろうか? 挨拶と仕事の能力にはなんの因果関係もないと
思っているのだろうか? だとしたら身勝手も甚だしい。能力とコミュニケーションと人間関係の相乗効果で
生み出される成果の質が天と地とも異なってくることを知らないのだ。
挨拶も基本だが、礼儀も重要な要因だ。礼儀知らず=世間知らず=仕事のできない輩でもある、
場合により例外もあるが。どんな人も他人の世話になっている部分が必ずある。だから基本は「ありがとう」
という感謝の念である。
しかるに、中には直接的な世話になっていながらも、つまりは同じ次元で仕事上の関わりがありながら、
その関係を認識できない輩がいる。これは恥ずかしいことだ。
「お世話になりました」、「よろしくお願いします」、これらが言えない人だ。
情けないと思うが、そういう人が本当にいる。
変わり者とか、感情的なもつれがあるからとか、そういう要因ばかりを疑い、コミュニケーションや
好意的な働きかけで改善できる機会を提供できるだろうと再三努力してみたが、全く効果が生まれないばかりか、
益々状況が悪くなるという経験をした。
いろいろ考えたが、これはやはり相手が病気であると断じるしかなさそうである。
親類に同じような病気の人間がいる。周りがどう働きかけても全く効果がないばかりか、「頑張れ」や「大丈夫」
の励ましが真逆の効果しか生まないという厄介な心の病気である。結局数十年も努力した結果、
その親類は病院に入れておくことしかできなくなった。本人もそれの方が楽なようだ。
前述の方は病気と思わないうちはなんとか諭してやろう、導いてやりたいと思い続けたが、事ここに至り、
これは無理と断じるしか選択肢がなくなった。自分には他人の病気は治せないのだ。医者でも無理な場合
も多々あるのだから。直してやりたいという気持ちがなぜ効果を生まないのかと悩んでいる間は淋しかったが、
これは病気だから治すことはできないと思うようになったら悲しさを禁じ得なくなった。
能力もあり、真面目で、几帳面な人柄。しかし、この病気はそういう性格の人ほどかかりやすい意地悪な病気だ。
一見通常人であり、常識も、普通の感情もあるように見えてしまって、実は影で徐々に進行する病気。
人を信じることができず、人の好意を素直に解釈したり、不要な好意ならサラリとかわして深く傷つけない、
そんな器用な立ち居振る舞いとは全く無縁な人。そういう人間がまた一人、また一人と増殖し続けている。
これは病める現代を象徴する現象の一つだと思う。
遠くても、頑張れる人にはゴールがある。そんな一枚をUPしてみました。
あちらは鉄塔
なんか・・ほっとしました。
でも、遠いゴールほど感動はより多いのかも
しれませんね。
とても考えさせられた本日の記事でした。
かあちゃんのおふくろさんがひざの痛みからいろいろ複合してマイナス思考に陥りうつ状態になりました。調子がいいときはにぎやかに明るいのですが、調子が悪いと背中が寒いとか動悸がするとか救急車も何度かお世話になりました。
ひざを手術して人口骨を入れて痛みがなくなってからころっと調子よくなりました。
人間何があるか分かりませんがちょっとした不安が心に忍び寄ってくるのかもしれませんね。その不安を取り除いてあげればいいのですが難しいですね。
確かに、遠くても、頑張れる人にはゴールがある。そしてもっと頑張る人には次のゴールが見えているはずです。
そうやって延々と続くのでしょう、最終ゴールは延々と次の世代に受け継がれて行くのでしょうね、そうあってほしいものです。
なんか難しい話になってしまいましたが、今年初めてのコメントでしたね。開けお目です!今年も楽しく行きましょう!
寂しさを感じますが、頑張りたくても頑張れない人には
悲しみを感じます。病気ですからね。それも心の。
健常者なら、頑張りさえすれば必ずゴールが来るのだから。
イザワさんはすでに夢に向かって爆走中ではないですか。立ち止まろうとしなければ、必ずゴールインしますよ。え~と、日本写真協会作家賞か功労賞か・・・・いっそ文化勲章とか?
つまりここではあけおめっすか。^^
そう、そのうつ病系ですね。いろいろ症状はあるようですが。
励ましてはいけないとなると意外にできることは少ないですよね。何ができるんだろうと考えていると、こちらの剥げが増しそうです。
ドーパミンやセロトニンといった脳内物質の働きが
影響する極めて生態的な疾患なので、素人にはどうにもならないし、
そうなった元の原因が痛みのように明らかならまだしも、
普通はうかがいしれないところにあったりしまうからね。
まぁ、世の中どうにもならないことはあるものです。
この割り切りが最も大切かも。^^
本日は難しい問題ですね・・・ではさようなら・・・と帰りたくなるような・・・
なんかお気楽に生きている主婦だと避けて通ってしまう相手でもお仕事となるとそうも言ってられないのでストレスの源になったりして・・
でもガマさんには菜園があるから大丈夫~~♪
ゴールかぁ~~何を頑張ろうかな??考えちゃう(。^p〇q^。)プッ
普通は放っておくと精神分裂症のような症状へ進み、
もう普通の社会人生活はできなくなります。
怖いですね。でもどうしようもない。
そう、自分はうつ病とはもっとも対極にいる人間ですからまったく問題ないんですがね。